2012年8月25日

文藝散歩 

アラン著/神谷幹夫訳 「定義集」 
 岩波文庫 (2003年8月)

モンテーニューより深遠でデカルトより控えめなフランスのエスプリ


アランとはペンネームで本名はエミール=オーギュスト・シャルティエ( 1868年3月3日 - 1951年6月2日)である。アランはフランスの哲学者。ノルマンディー地方のモルターニュ=オー=ペルシュ生まれ。エコール・ノルマル・シュペリウール卒業後、リセの教師となる。 過去の偉大な哲学者達の思想と彼独自の思想を絶妙に絡み合わせた彼の哲学講義は、学生に絶大な支持を受け、彼の教え子達の中からは、後の哲学者が多く輩出されている。女流哲学者のシモーヌ・ヴェイユは彼の教え子。 ルーアンのリセで教えていた時に、アラン名義で「デペーシュ・ド・ルーアン (Depeche de Rouen)」紙にコラム「プロポ (propos)」を寄稿し始める。平和主義と反戦思想を持ちながら、46歳で、第一次世界大戦に志願して従軍。3年後に除隊してアンリ四世校の教職に戻る。65歳で教職を退職し、83歳で亡くなるまで執筆活動を続けた。有名な著作 を以下に示す。
1917年『精神と情念に関する81章』 小林秀雄訳 『小林秀雄全作品8巻』 新潮社
1920年『諸芸術の体系』 長谷川宏訳、光文社古典新訳文庫ほか
1927年『人間論』 原亨吉訳、白水社
1928年『幸福論』 神谷幹夫訳、岩波文庫/ 白井健三郎訳、集英社文庫ほか
遺稿『定義集』 神谷幹夫訳、岩波文庫/ 森有正訳、みすず書房
※まとまった訳書には、『アラン著作集』(白水社全10巻)と、『プロポ T.U』(山崎庸一郎訳、みすず書房)がある。

私はアランについては、小林秀雄全集第8巻 のアラン著「精神と情熱とに関する八十一章」(1936年)を読んだことがある。この本はアラン著「哲学概論」(1917年)の翻訳である。アランはフランスのモラリストの伝統に立つ哲学者である。フランスのモラリストの伝統とは日常的なものの中に常に深い意味と連関を見出して、そこに倫理学と道徳を築こうとする哲学の一派である。アランは第1次世界大戦のさなか負傷してこの作品を書いたといわれる。標題の「情熱」とはほぼ「感情」と置き換えて読んでよい。アランは序文と前書きの中で、次のように目論みを述べている。
* 「自分の知っていること以外は喋らないという条件つきで哲学概論を書いたが、理論上・実践上の哲学の重要問題は全て含まれていると信じる。」
* 「一番通俗的な意味で、感情自体の認識と制御という常に倫理上のあるいは道徳上の教理を目指している。」
* 「情熱の因子には2種類あって、人間的な因子の認識批判が対象である。曖昧で魔力や前兆の世界を批判の対象として人間性の学を導きたい。」
ここにアランが述べている情熱の2つの因子である「機械的因子」とは恐らく科学で片がつく人間の大脳皮質が支配する理性の分野のことだと思う。私見だが「人間的な因子」とは人間の闇の世界すなわち魑魅魍魎が跋扈する情熱(=感情)の世界のことで未だ大脳生理学のメスが入りきれていない脳幹・脳髄の分野のことであろう。この本が書かれた年代から比べると現代は科学とくに医学の進歩は著しく、哲学の分野は益々狭まってきた。それでも自立的生命と感情・情念を支配する脳幹・脳髄の科学は不十分である。ここに哲学存在の根幹的秘密がありそうだ。 アランの哲学概論は次の7部81章から構成される。
第一部ーー感覚による認識
第二部ーー秩序ある経験
第三部ーー推理による認識
第四部ーー行為
第五部ーー情熱
第六部ーー道徳
第七部ーー儀式
第一部はいわゆる哲学の認識論のことであり、あるがままの感覚では対象は認識できず経験による理性の整理総合的推論が認識論の基本だ。第二部は悟性論につて述べ、認識は全て経験によるとする。第三部は論理学・修辞学について述べ現在では記号論理学で全て整理できることを言葉で言い表しているのでかえって分かりにくくなっている。科学的思考法の確立が哲学の分野を道徳的秩序に関する探究に追いやった。第四部から第七部までは哲学体系というよりは、芥川龍之介の「人生の箴言集」のような、フランス人らしい気の利いた風刺・皮肉の名文句が述べられている。

そういう意味で本書「定義集」 も辞書形式の名文句集であろうか。アランが本書で表した210語の定義は、ものとことばと思想との関連をみごとに示した実例である。本書の「解説」(あとがき)において訳者の神谷幹夫氏は、ペン・ネームのアランの名の由来を解説する。本名を使わないことは自由のためで、そこで演じる何かのためである。アランとは恐らく15世紀の同じノルマンディ人のアラン・シャルティエ(1385−1429)のことだろうとし、「気立てのいい男、田舎者、間抜け」というほどのイメージを援用して、純朴さを忘れない良識の人を演じようとしたのだろうと、神谷氏は推測している。アランの友人ブルニュは「アランは哲学を語らない哲学者である」という言い方をしている。つまり哲学的用語を用いないで哲学を語る人という意味であろう。単純なテーマについて最も困難な問題を提起する、万人の言葉を用いながら、彼は誰よりも難解であるという。主なテーマは意思と自由と信仰であった。「人間となる術」ここにアランの始まりがあり、終わりがある。
作家モーリス・ブランショはいう。「アランにあって考えなければならないことは、精神の自由、すなわち判断の自由を選び取ることであり、すべて情念の弱さ、知性の威嚇であるものに対して、頑として取り合わなかったことである。」 
作家ジャン・デュトワールはいう。「思想をあまねく渉猟したこの男は、モンテーニュ(エセー)よりももっと偉大で深遠で、デカルト(方法論序説)よりももっと人間的で控えめである。」
「定義集」は、ブルニューの日本語版まえがき(2003年)によると、「日本人読者に対して、フランス語のこの至宝、すなわちこれらの定義集を翻訳する要請」という。
また本書の序において、モーリス・サヴァンは、「アランは本質まで還元された、一つの共通の観念の簡潔な表示、言語の単純な厳密さによって静謐な徳、すべての真の省察の原型であり源泉である徳」という。またサヴァンは「アランの定義は逆説的に人に思索を促す。それはすぐれて哲学思念なのである。体系的哲学概念を棄て去った哲学思想である。」という。アランは即興で定義を与える練習を自分や学生に課していたようである。どんな意思的統一もなく、訂正もしないのが特徴である。訂正よりも新しく書けという方針だったようだ。定義集のカードは約800枚用意されていたようで、現在フランス国立図書館に264枚のアラン手稿のカードが残る。500枚はタイトルだけで未着手である。遺稿はアランの死後、1953年友人モーリス・サヴァンによって刊行された。

264語の定義集は当然アルファベット順にならべてある。すると同語源の定義とは頭3文字が同じ言葉ということになっているので、語源を同じくする言葉が数個続くことにならざるを得ない。それらを繰り返しにならずうまく言い換えていることには驚かされる。定義のやり方であるが、ある程度同じような手法となる。先ず最初に当たり前の、常識的な、お行儀のいい、正統的な定義が与えられる。そして反対語、同義語、関連語などをならべて言葉の意味を多角的に解説する。中ほどにその言葉に関する文学的・哲学的薀蓄が簡潔に述べられる。そして最後に言葉の本質はこれだと言い当てるのである。すべての言葉の定義がこの形式(構成)で与えられるのではなく、正統的な定義で終っているものや、一気に本質だけを言って終わりにするものもある。短いもので数行、長いもので1頁程度(400−500字)である。一つの項目を全文引用する。味わい深い文章である。こういう調子で書いてある。
愚かさ: それは叡智の反対である。悪徳こそ我々をあらゆる誤謬におとしいれるもので、情念は誤謬におちいりやすいのだ。しかしながら我々を愚かにする情念は、より正確には我々の判断そのもの、そしてそれに対する我々の意見にかかわる情念である。たとえば、うのぼれ、権威への尊敬、模倣、慣習。愚かさの中にはつねに無意識的ななにかが、しっかりと留まっていない知の断片がある。」


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