2012年1月23日

文藝散歩 

村松 剛 著 「帝王後醍醐」 
(中公文庫 1981年)

建武の中興から南朝滅亡まで 後醍醐帝の光と影 


帝という名にふさわしい天皇はこの後醍醐天皇をおいてほかにはいないだろう。それほど天皇親政の遺志を強く貫いた天皇は(今では時代錯誤と謗られるだろうが)まずいない。意志薄弱、摂関家と武家の言いなりというのが定番の天皇像が定着している平安時代以降では、異例なほどに意志強固で、後白河法皇以来の知恵者でもあった。可能かどうかと言うことは別にして、鎌倉幕府以来政治軍事の実権は武家側が専横していたのを、朝廷側に取り戻そうということが天皇の永遠の希望であり使命となっていた。その端的な例がまず後鳥羽上皇による「承久の乱」であった。興隆する地頭・御家人の軍事力のまえにあっけなく潰えた企てであったが、これは後醍醐天皇の頭の中にもあったはずである。堀田善衛著 「定家明月記私抄」 (ちくま学芸文庫)には歌人藤原定家からみた承久の乱が描かれている。承久の乱をおさらいしておくことは後醍醐帝の企てを理解する手助けにもなる。

承久三年記・承久の乱(1221年)の項に、「後鳥羽院が詠んだ歌「奥山のおどろが下もふみ分けて道ある世ぞと人にしらせむ」は史書「増鏡」の冒頭に引用され、いわば後鳥羽院の親政宣言といわれてきた。院はどのような道を行っているのかは特定はしていないが、院の暴走を諫言した慈円の史書「愚管抄」は「道理論」で時代の理性的判断を求める。妄想は論理を超えて行動に走りやすい、それをいましめたのである。承久の乱の原因を求めるとすれば、前年、院が寵愛していた元白拍子の「伊賀の局」の荘園から地頭を廃する要求に対し、幕府は地頭の廃止を拒否し北条時房に千人の兵をつけて京に拒否回答を突きつけたことが直接的な理由であろう。院がやった事は「北条義時追討の宣旨」をだし、義時調伏の修法(祈祷)だけである。妄想の割には軍事的指揮系統など何もありはしなかった。隠岐に配流された後にも院は弁解、申し開きをしていない。調伏に関った東寺、延暦寺、仁和寺など国家宗教の寺院だけが行動らしい行動であった。承久3年4月順徳天皇が譲位し、4歳の仲恭天皇が即位して左大臣道家は摂政となる。そして5月14日院は義時追討の宣旨を出し、兵を募った。鳥羽離宮に集まった兵は1700余騎、京都守護の伊賀光季を押し込めたが(光季は自殺)、すでに西園寺公経は鎌倉に急使をおくった。5月19日、北条泰時、時房は数万の兵で大挙して京を攻め上った。6月8日敗軍の官軍は京へ逃げかえり、三上皇は叡山に隠れた。6月10日叡山は戦いを拒否したので、院らはやむなく京の高陽院に戻り、「何の思し召しもなく、武士どもは是より何方へも落ち行け」と解軍を命じた。真に無責任な話である。6月15日東軍は京に入った。院は追討の宣旨を取り消し、義時の官職を服したというが、それが何の意味があったのか。幕府軍は7月1日首謀の公卿の断罪を行う。斬罪もしくは流刑であった。幕府軍は7月6日院を鳥羽離宮に閉じ込め。8日院は剃髪して出家した。9日仲恭天皇は譲位し、後堀川天皇10歳が即位した。13日電光石火の如く東軍は後鳥羽院を隠岐島に移し、順徳院を佐渡に、土御門院を土佐へ配流という処置をとった。一天皇と三上皇が一瞬のうちに影を消したのである。

この承久の乱の時、定家は60歳で、5月21日(変後7日目)に後撰集、歌論書等を書き写しているのである。「紅旗征伐吾ことにあらず」として何事もなかったように奥付きを書き終えているのである。古代天皇制というものが、武家の台頭によって終焉を告げると同時に、文化も武力も宮廷を去った。かくして文も武も財も持たなくなった天皇制は、存続の理由をどこに求めてさ迷うのであろうか。少なくとも江戸時代末期まで天皇制は無きも同然の存在であった。42歳の後鳥羽には帝王にして終身刑徒というアイロニーは悲痛なものと滑稽なものが同居している。後鳥羽院は1239年隠岐島で死没。60歳であった。余談ながら後鳥羽院と順徳院の親子は仲良く大原三千院近くの御陵に祭られている。後鳥羽院らの反乱側の所領は三千箇所に及び、これらの荘園を没収した鎌倉幕府の力は西国に伸長し、その支配は揺るがぬものになった。六波羅探題という特務機関が京都の公家を監視支配した。7月には摂政九条道家が辞して、近衛家実が替わった。10月西園寺公経は内臣に叙せられ関東申次(幕府への連絡係り)を兼務した。こうして京都の宮廷は西園寺公経と九条道家の世になったといっても過言ではない 」ということである。

歌人後鳥羽上皇の倒幕計画は、興隆する鎌倉幕府の武家勢力を前にした悲劇というなら、後醍醐帝の倒幕計画は、2度の元寇で疲弊し御家人の不平不満の渦巻く北条執権家の専断政治につけ込む機会を狙った政治的な動きといえ、後白河法皇以来の政治家天皇の出現といえる。とはいえ本書は歴史書ではない。時代の経済的背景は殆ど記述されていないし、文化文明文芸を描く文芸書でもない。敢えて言えば後醍醐帝の評伝である。時代は亀山法皇の寵妃忠子が正応元年(1288年)11月にもうけた後醍醐天皇の誕生から始まり、1339年後醍醐帝が崩御するまでを描いている。もっとも53年後に後南朝が滅亡する1392年まで「南朝残映」として描いているのであるがこれは付録。乱脈を極めた公家階級の男女関係など胸糞が悪くなるのでできるだけ省いてゆきたいが、閨房関係だけが政治であった公家と天皇の動きだから必要最小限の記述はやむをえない。本書の著者村松剛氏の本は私は、村松剛著 「死の日本文学史」 (中公文庫 1994年) で読んだことがある。それは「平家物語」の死生観を浄土教に影響された受動的「運命と受け入れる死」と見て、「太平記」の死生観を宋学(朱子学)に影響された能動的「義による死」と見るものである。

「人生勝ち負けは運命」という理念は武士階級の勃興とともに、「将門記」「純友追討記」「陸奥話記」「欧州三年記」「保元物語」「平治物語」「平家物語」で頂点を迎える。平安宮廷に咲いた無常観の中での束の間の花の美学、夢の世に夢を見る世界であった。それに対して武士が作り出したのは運命の認識である。運命という言葉は占星術・易の運勢観から来るのだが、平安宮廷では陰陽五行の思想と結びついて怨霊や物忌み、方向となったが、軍記では同じ根から運命の観念を引き出した。「平家物語」では運命そのものを物語の中心に置いている。物語の緒に「祇園精舎の鐘の音 諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす。奢れる者久しからず ただ春の世の夢の如し・・・・」まるで仏教のお経のようだが、物語は線香には関係なくダイナミックに人の浮き沈みを描き出す。奈良・平安時代の300年間は死刑は原則としてなかったが、保元・平治の乱から殺戮が日常化した。「愚管抄」の説く運命は仏法の因果の理とかたく絡みあっている。自殺の方法として切腹が登場するのは「保元物語」からである。鎌倉期に定着したが、室町時代「太平記」では切腹が一般化した。軍記では死に際の美学として称賛された。義の理念が大きな意味を持つようになったのは「太平記」の時代からである。南宋から流入した新しい儒学「朱子学」が、鎌倉後期以降の武家に道徳的支柱を与えることになった。鎌倉時代中国から招かれた蘭渓和尚が建長寺を開山し、仏光禅師が円覚寺を開山した。そのほかにも12名の禅師が来日し、元による圧迫から日本へ逃れてきた南宋の知識人も多く、当時の中国情勢は鎌倉幕府は精通していたことだろう。又日本からの留学僧には栄西、道元、覚心、中厳などかなりの数にのぼる。南朝後醍醐朝では儒学は隆盛を極めた。「道理」と言う概念は鎌倉幕府の「御成敗式条」で中心的な判断基準をなし、その道理にかかわってさらに行動的な理念としての「義」が「太平記」の時代から現れるのである。

村松剛氏のプロフィールを見ておこう。フランス文学者で評論家の村松剛氏(1929-1994年)は東京生まれ。父方は江戸時代から続く医家で、父は精神医学者の村松常雄である。第一高等学校理科を経て、1954年に東京大学文学部仏文学科を卒業。同大学院でヴァレリーを研究する傍ら、「世代」「現代評論」同人として活躍した。1962年、アルジェリア独立戦争に従軍するという経歴をもつ。1969年、学園紛争に対する大学側の対応を巡って立教大学と争い、同大学教授を懲戒免職になる。1971年京都産業大学教授となり、1975年筑波大学教授となる。1975年、「死の日本文学史」で第4回平林たい子賞を受賞し、1982年木戸孝允の伝記小説「醒めた炎」で第35回菊池寛賞を受賞した。一方、三島由紀夫氏とは親の代から親交があり、本人も天皇制支持論者であった。1990年今上天皇即位の日に過激派からつくばの自宅を爆破された。著書は多いので最近のものから、「アンドレ・マルロオとその時代」(角川選書、 1985年)、「血と砂と祈り 」(日本工業新聞社、1983年)、「評伝 ポール・ヴァレリー」 (筑摩書房 、1968年)、「ジャンヌ・ダルク」(中公新書 、1967年)などがある。晩年はPHP研究所から出版し、日本を憂う発言が多かった。本書を読んで気がつくのだが、村松剛氏は何度も歴史には禁句の「たられば」を繰り返すのである。「もし・・・・だったら、歴史は多少変わったかもしれない」という感慨は、誰のためのため息かといえば、後醍醐帝の身を憂うからである。よほど村松剛氏は帝への思い入れが激しいようで、多少滑稽である。私としては後醍醐帝という天皇のわが世など知ったことではない。歴代天皇のように意思薄弱ではなかったにせよ、ろくでもない人たちに囲まれ夢よもう一度の(時代錯誤の)人生を誤っただけのことではないかという今様の見解もできるからである。

日本の中世とは概ね、鎌倉時代から戦国時代を指すと思われるが、西欧との接点があっ戦国時代は近世だという人もいる。また鎖国をし封建時代に逆戻りした江戸時代も中世であると云う人もいる。西欧のように絶対王権のもとで近代化へ歩んだ近世という時代は日本にはなかった。文化的にはともかく政治的社会的には、いきなり絶対天皇制の明治時代から近代化がはじまり、近世と近代が同時に起ったようだ。中世というと暗い闇に覆われたという感情を持ちがちであるが、たしかに石母田 正著  「中世的世界の形成」(岩波文庫)は東大寺という寺社勢力が古代以来の荘園・農民をめぐって武家勢力と抗争する社会を描いた。奈良や伊勢では寺院の勢力は深く根を張っており、武家勢力は容易にこの支配に食い込むことは出来なかったようだ。それは織田信長の近代武力をもってしてやっと可能になったのである。本書の「異形の帝」後醍醐天皇が活躍する南北朝時代は室町時代と重なっている。足利幕府から歴史をまとめれば室町時代となり、後醍醐帝の南朝からみれば南北朝時代となるのである。室町時代は南北朝時代が終結してからも暫くは続くのである。そこで本書がカバーする時代の政治史を見通すため、1318年〜1367年の主要な事項の年表を略記する。

1318: 後醍醐天皇践祚
1321: 院政廃止
1329: 討幕計画発覚(正中の変) 日野資朝・俊基殺害。文観流刑
1331: 討幕計画発覚(元弘の変) 後醍醐天皇は廃帝、隠岐へ配流。 光厳天皇践祚し北朝開始。
1332: 護良親王吉野へ至る。楠木正成赤坂城で活躍。
1333: 鎌倉幕府 吉野、赤坂、金剛寺を攻撃。
        足利尊氏上洛し六波羅探題を陥落させる。新田義貞鎌倉を攻め幕府滅亡。後醍醐天皇還幸
1334: 足利尊氏の讒言で征夷大将軍護良親王失脚
1335: 足利直義が護良親王を殺害、足利尊氏征夷大将軍を僭称する。 新田義貞、尊氏追討の宣旨をうける。
1336: 尊氏、新田を山崎の戦いで破り、京を焼く。後醍醐天皇坂本へ逃げる。
      尊氏、新田・楠正成に大敗、九州へ逃げる。尊氏、東上して新田・楠正成軍を打つ。
      湊川の戦いで楠正成兄弟戦死。後醍醐天皇吉野へ逃げる。
1337: 越前金崎城で新田義貞破れ敗走 恒良親王、尊良親王殺害される。北畠顕家奥州で挙兵、鎌倉を攻める。
1338: 北畠顕家、新田義貞討死。南朝後村上天皇践祚。南朝側の小競り合いはあったが、勢力は急速に縮小した。
1339: 後醍醐帝 崩御 52歳 1345: 足利幕府は比較的安泰の時期、足利直義天竜寺建立。
1349: 楠正行四条縄手の戦いで高師直と戦って戦死。高師直のクーデターで足利直義失脚
1350: 足利直冬九州で反乱、高師直・尊氏連合軍、直冬を破る。、直義は南朝に下る。足利氏兄弟が分裂し戦う。
1351: 足利直義が高師直・尊氏連合軍を破り、高師直兄弟戦死。
      尊氏・義詮・直義の和睦なるが、尊氏、直義追討の宣旨を受け鎌倉で破る。
1352: 南朝の北畠顕能、手薄を狙って京の義詮を襲う。北朝の光厳・光明上皇と崇光天皇、賀名生へ逃げる。
      南朝新田義興兄弟挙兵するも武蔵で敗戦、南朝は敗退し、北朝に後光厳天皇践祚。
1353: 南朝 山名師氏・時氏親子 京の義詮を襲うを襲う。義詮と北朝後光厳天皇は美濃へ遁れる。
1354: 将軍尊氏上洛し、足利幕府勢力を持ち直す。
1355: 尊氏、山名親子・足利直冬連合軍を破る。北畠親房逝去 62歳
1358: 足利尊氏逝去 54歳、義詮第二代征夷大将軍となる。
1360: 将軍義詮と畠山国清、南朝の赤坂城を討つ。 後醍醐の寵妃阿野康子 逝去
1361: 南朝軍一時入洛するが、将軍義詮これを反撃する。
1367: 関東管領足利元氏没、二代将軍義詮没  三代将軍義満就任 細川頼之これを補佐する。
1392: 南朝の後亀山天皇京都に戻り、北朝の後小松天皇に神器を返還し南朝消滅。

本書に入る前に、村松剛氏が本書で用いたテキスト文献を列記しておこう。これは村松氏の博学を示すものであり、これぐらいは読んでおかないと後醍醐帝の評伝は書けないのだという事を銘記するためである。したがってわずらわしいので本文中には文献名は記さない。なんといっても1級史料は「増鏡」であり、「太平記」は史書ではなく歴史読本であると云う視点に立っている。その割には「太平記」の引用は「増鏡」と同等である。やはり見通しがいいためであろうか。
1) 和歌集:  「続千載和歌集」、「続後拾遺和歌集」、「新後撰和歌集」、「風雅」、「新拾遺和歌集」、「新千載和歌集」、「新葉和歌集」、「光厳院御集」
2) 皇室妃・御子関係: 「本朝皇胤詔蓮録」、「諸門跡譜」、「女院小伝」、「尊卑分脉」、「玉石雑誌」、「陵墓一隅抄」
3) 史書: 「増鏡」、「舞御覧記」、「花園院宸記」、「太平記」、「徒然草」、「尺素往来」、「本朝神仙伝」、「日本霊異記」、「北条9代記」、「吾妻鏡」、「職原鈔」、「群書類従」、「梅松論」、「天台座主記」、「寺門伝記補録」、「神明鏡」、「聖門伝」、「宝鏡鈔」、「大乗院日記目録」、「皇年代略記」、「光明寺残篇」、「公卿補任」、「楠木合戦注文」、「隠岐視聴記」、「古本伯耆卷」、「道平公記」、「保暦間記」、「神皇正統記」、「庶軒日録」、「博多日記」、「東大寺補任」
4) 地方・個人文書: 「大徳寺文書」、「鰐淵寺文書」、「東大寺文書」、「三島神社文書」、「関城繹史」、「天野文書」、「和田文書」、「大友文書」、「北肥戦誌」、「松浦家世伝」、「団太暦」、「如是院年代記」
5) 御教書、書状、宣旨、宸翰など  

1の巻) 大覚寺統後醍醐帝の親政と正中の変

「御醍醐帝の出現と建武の中興なしには明治維新は考えられない」と著者はあとがきに述べている。しかしこの言は明治維新後のかなり後期における天皇制国体論のための「あとつけ」理由であって、維新の志士は欧米列強の日本侵略への危機感にかられれて日本の近代化に向けて行動したのであって、決して時代錯誤も甚だしい天皇親政を目指したのは決してなかった。倒幕テーゼならなんでも利用しただけの事である。それが証拠に最初は「尊皇攘夷」のスローガンを掲げたたが、下関戦争と薩英戦争で近代兵器の前の粉砕されると、あっさりと頑迷な朝廷の攘夷スローガンを棄て英国との同盟関係に向かったではないか。戦前の皇国史観は南朝正統論を採用し、南朝の不都合なことは大本営発表のように嘘で固められ、それに触れることはタブー視された。つまり戦前は正当な歴史的扱いが拒否され、戦後は民主化のため誰もまともに南朝の事を扱わなくなったと著者はいう。そこで本書が南朝と御醍醐帝の事を書く理由であるという。歴史は大仏次郎氏の著作「天皇の世紀」のように皇室中心の歴史ではない。ある時期までは重要な政治勢力として歴史の一部を動かしてきたという意味で皇室の歴史は歴史の一部であったことは事実である。それも鎌倉時代までであって、丁度本書が扱っている室町時代や南北朝時代から、京都の公家と皇室はその経済的基盤をなくし政治的影響力は全く無力となり、その王朝文化もすっかり下火となって、民衆の独自の日本文化が澎湃として興った時代という意味で日本の中世(室町戦国時代)は極めて重要な転換期である。ではその最後の花火となった御醍醐帝の伝記をみることは意味のある事であるが、どうも著者村松剛氏が天皇制支持論者ということもあり、天皇の側室や婚姻関係、そして皇室・公家の系統ばかりに注目しているのはいただけない。そこで公家・天皇の系統(婚姻関係)は煩雑になるばかりで憶えられないのでばっさり省略したい。ただ南朝北朝の系統のみは記したい。

後醍醐天皇は1288年正応元年11月の誕生である。父は後宇多天皇で、母は五辻藤原家忠継の娘忠子であった。当時の皇子の格は母親の家柄によって決まるため、中流貴族五辻藤原家の娘の皇子では到底天皇になれることは覚束なかったという。御醍後が天皇までに上り詰めたのにはいろいろな複雑ないきさつがある。その後醍醐帝の成立までの事を第1巻にまとめた。当時の貴族の最高位は天皇を別にして、摂関家(執柄家)で、ついで大臣家(精華家)、三位以上を公卿(参議)、三位でも官位のないものを散位といい、中流以下の貴族の家柄では人生の最後で散位につければいいほうであったという。鎌倉幕府の政策でもあったのだが、後嵯峨天皇(88代)の皇子であった後深草天皇(89代)のつぎに弟の亀山天皇(90代)がたち、そこから天皇が交代制となり皇統が分立した。(万世一系なんて嘘っぱちで以降皇統も麻のように乱れた) 御深草天皇に始まり伏見天皇(92代)ー後伏見天皇(93代)−花園天皇(93代)を持明院統(北朝となる)といい、亀山天皇(90代)に始まり後宇多天皇(91代)−後二条天皇(94代)−後醍醐天皇(96代)と続く系統を大覚寺統(南朝となる)と呼び、1392年南朝の後亀山天皇が神器を北朝の後小松天皇に返還するまでこの朝廷の分裂は続いた。鎌倉末期にこの持明院統と大覚寺統の間を調停し、鎌倉幕府の許可を得る関東申次(幕府への連絡係り)であった西園寺公経と九条道家が朝廷の陰の最高権力者であった。天皇の在位も10年以内を目安として交代する了解で進んだこの時代は御家人を統御しえなくなった鎌倉北条執権家の衰退に乗じて足利と新田があらそい、朝廷で2つの皇統が争い、同じ皇統のなかでも皇太子擁立を巡って上皇(法皇)と今上天皇が争い、宗教勢力は真言勢力の比叡山延暦寺、醍醐寺、東大寺、吉野、高野山が微妙な争いをし、歌道でも御子左家も定家以降に分裂し京極家は持明院統へ、二条家は大覚寺統に分裂した。この時代の特徴は、諸勢力の支離滅裂な分裂と勢力争い、皇室内のめちゃくちゃな男女関係が特徴である。

ではどうして家柄の低い母から出た醐醍醐帝が天皇になれたのかというと、それは母忠子が後宇多帝から離れて、後宇多帝の父に当たる亀山上皇に乗り換えたからである。このことで後宇多帝と亀山上皇の関係が悪化し、後の正中の変の要因となる。亀山上皇の女好きと乱脈な貴族の男女関係が後醍醐帝という怪物を生んだのである。家柄の低さがあって後醍醐帝は親王宣下(認知)を受けたのは15歳(親王尊治)になってからである。後宇多帝の意志薄弱さと忠子のご機嫌を取った亀山上皇の強引さにより、後二条天皇(後宇多帝の第1皇子)の皇子が幼少であったので、持明院統の花園天皇が即位し、皇太子に親王尊治が推された。後醍醐天皇に何人の妃がいたとか、何人の皇子・皇女がいたとかいうことには一切興味はないので記さないが、歴代最高数の皇子は嵯峨天皇の90人であろうか、亀山上皇は23人の妃と30人の皇子であったそうな。南北朝を語る上で必要な後醍醐帝の皇子は、第1皇子が藤原為子がもうけた尊良親王、第2皇子は西園寺実俊の娘遊義門一条がもうけた世良親王、第3皇子は北畠師親の娘親子がもうけた護良親王である。南北朝で最も活躍し、足利直義によって殺された武人皇子護良親王は悲劇の王として名高いが、出自の低さから後醍醐天皇とはしっくりいかなかったようだ。後醍醐帝が践祚したのは1318年であるが、まもなく父後宇多上皇が院政を廃止し(院政は白河上皇以来200年以上続いた)、後醍醐帝親政となった。数年後後宇多上皇が崩御されたとき、後醍醐帝の退位と東宮邦良親王の即位問題であった。関東へ使者が送られると、焦った後醍醐帝派の日野資朝らは六波羅探題を急襲する計画を立てた。1324年、正中の変は南北朝の騒乱の始まりとなった。日野資朝は後醍醐帝の永続を願って、山伏などの山岳修験者を連絡役として全国へ蜂起を呼びかける算段であった。後醍醐帝のブレーンは日野資朝と俊基で、戦力としては土岐頼兼、多治見国長にすぎなかったが、六波羅が情報を掴んだのは蜂起の4日前で、4条あたりで合戦が行なわれ瞬時に決着がついた。

土岐家は北条氏とは血縁関係にあったが、承久の乱では後鳥羽上皇の武士だったため敗北し家は傾いた。さらに弘安8年の霜月騒動という北条貞時の御家人粛清事件に巻き込まれ、土岐定親は処刑された。こうして北条貞時の「得宗専制」が完成した。北条執権家の独裁体制は、北条政子尼将軍による源氏血脈の廃絶後、梶原・畠山・和田・三浦などの有力御家人の粛清によって確立し、北条が名実ともに執権になると、北条内部の宗主権争いは執権から得宗に政治の権限を移し、北条時頼から始まり貞時に至って専制体制が完成した。武氏すなわち地頭の願望は土地の既得権の安定(安堵)であった。そこから「一所懸命」という言葉が生まれた。地頭は戦費を負担して、国司や荘園と衝突した。宮方から獲得した土地は「新補地頭」といわれ鎌倉幕府の承認を得て「御恩」が成立した。頼朝以来の鎌倉幕府の政治は有力御家人の合議で始まったが、それが北条得宗家の独裁制になってしまった。北条家の御家人支配力は、度重なる元寇が戦費負担と「御恩」がないのでインセンティブが働かない(負担だけで戦争による実利がない)ため、次第に御家人の疲労が蓄積し、かつ得宗高時の指導力(やる気)のなさから求心力を失った。正中の変のとき奥州では内乱が続いていたが、北条貞将に5千の兵を授けて京へ向かわせ六波羅に常駐させた。六波羅は資朝と俊基を逮捕し、資朝の佐渡流刑、俊基の無罪、僧祐雅は追放と決まった。そして持明院統と大覚寺統はポスト後醍醐を画策し鎌倉へ矢のような急使を送った。幕府が動けなかったのは、高時の出家により執権が貞顕そして守時に移り、内乱寸前の状態であったからだ。

2の巻) 元弘の乱と後醍醐帝隠岐配流

後醍醐帝の妃はその数30人を超え、皇子・皇女は少なくとも32人を数えたという。1320年ごろ後醍醐帝の妃となった右中将阿野公廉の娘廉子は正中の変の年に恒良親王を生み次に成良親王、義良親王を生んだ。遊義門一条との間の第2皇子世良親王が病没すると、目立たない第1皇子尊良親王よりは第3皇子の護良親王の威信が強まり、成良親王を生んだ阿野廉子と大塔宮護良親王の間に微妙な対立が生じ、南北朝の混乱を引き起こした要因となった。後醍醐帝は権謀術数と同じく閨房術数によって人脈を広げ、後醍醐派廷臣を数多く任命し、近侍する謀臣には四条隆資、平成輔、洞院実世、怪僧弘真などがいた。皇子の宗教界への布陣も怠りなかった。約束の皇位10年となる1327年ごろから倒幕計画は具体化してきた。1329年の正中の変では失敗したが、後醍醐帝にはお咎めはなかった。後醍醐帝が密かに御所を脱出し奈良の東大寺に向かったのは、元弘元年(1331年)8月24日のことであった。急ぎの事として洞院公敏、万里小路藤房、四条隆資だけと若干の武士を伴った。ところが東大寺は必ずしも後醍醐派一色ではなく鎌倉派もいたため、入山を拒否されやむなく鷲峯山から笠置山に移動した。翌25日から六波羅の一斉逮捕が行われ万里小路宣房、洞院実世、平成輔、藤原公明らが逮捕された。今回の元弘の乱の作戦本部は北畠具行だった。計画は比叡山の大塔宮護良親王から全国に宣旨を出し蜂起を促すものであったが、すでに吉田定房の密告により4月25日に事は漏れており、弘真、円観、仲円、知教らの僧侶と日野俊基は逮捕されていた。朝廷が改元を布告した8月14日には幕府の後醍後廃帝の意思が決まっていた。

六波羅は後醍醐帝が比叡山にいると見て、8月27日在京の兵で3方から延暦寺攻撃を開始した。29日には比叡山は崩壊した。9月5日鎌倉幕府は大仏貞直を大将軍とする「20万人」の兵を発進させた。(実勢は5万くらいか、関東軍を主力とし東北と九州の軍は派遣されなかった) この大軍の派兵が二度の元寇とならんで鎌倉幕府の寿命を蝕んだ。鎌倉から笠置攻めの指令が出たのが9月2日で、その頃には楠木正成は笠置行在所についていた。後醍醐帝側の布陣は、尊良親王と護良親王に四条隆資をつけて正成とともに河内に向かった。宗良親王は笠置山に残った。これは幕府軍が笠置を包囲するだろうから背後から糧道を脅かすためである。大塔宮護良の命で周辺寺院と連携を持ちゲリラ的に幕府軍の背後を襲うという戦略である。それ以外の方法は貧弱な戦力の野武士正成軍には考えられなかった。正成の戦略は関東武士団の騎馬武者の動きを封じる戦術、陣地は必然的に山城になる。金剛山葛城山系に下赤坂砦と千剣破城を建造した。9月20日ごろに関東幕府軍本体が笠置山に集結し包囲戦によって9月28日には笠置は陥落した。後醍醐帝は宗良親王と忠臣ら笠置を脱出したが、9月30日に一行は逮捕され京へ護送された。朝廷では持明院統の公卿が復権し後醍醐帝時代の公卿は一掃された。そのころ楠木正成、護良親王、四条隆資らは河内で挙兵したので、幕府軍の一部を割いて下赤坂城と天王寺に向かった。山腹にあった小さな砦の下赤坂城では大軍を防ぐべくもなく主力が到着後の3日目の10月21日には落城した。

元弘の戦乱の実質的指揮官は大塔宮護良親王であった。戦乱は2ヶ月で終息したが、正成の対応に兵力の1/3を駐屯させて幕府軍主力は撤兵した。大塔宮は吉野に向かったが、吉野の執行は鎌倉側であったので山伏の案内で十津川の奥をさ迷った。元弘の乱による公卿の逮捕者は、藤原師資、万里小路宣房、洞院公敏、三条公明、北畠具行、洞院実世、平成輔ら10名となり、出家2名、四位以下の逮捕者2名であった。後醍醐帝は承久の乱に倣って隠岐へ配流、尊良親王は土佐へ、宗良親王は讃岐へ、恒性親王は越中へ、静尊法親王は但馬へ配流となった。帝に付き従ったのは千種忠顕と世尊寺行房の二人である。後醍醐帝の流刑後、翌年1332年3月22日に光厳院が即位した。6月には日野資朝、日野俊基、北畠具行、平成輔の四名が斬首された。ほかに流罪、軟禁された公卿は8名に及んだ。6月19日には撤兵は完了したが、それと同時に大塔宮の軍が伊勢に進出したのは6月24日であった。

3の卷) 護良親王の活躍と六波羅滅亡

楠木正成は金剛山の麓を要塞化するのに懸命で、かつ食糧を貯えるため秋をすぎるまでは出ることは出来なかった。そして1332年11月、元弘の変より1年以上たって正成は再挙兵した。鎌倉は再度大兵を動かすことはせず、畿内の武将に動員令を出した。正成は下赤坂から紀州隅田攻め、藤井寺攻め、紀見峠を往復し、翌元弘3年1333年1月に河内和泉両国で守護の軍を破った。大塔宮は吉野を居城として隠岐と連絡を取りながらゲリラ活動を始めた。1月19日六波羅は取りあえず50騎の小隊で天王寺を攻めたが、正成500騎に攻められて敗北した。宇都宮公綱の関東の精兵が天王寺へ向かったが、すでに正成の兵は撤兵していた。2月初め幕府軍が派遣され、大仏高直軍が大和路をゆき、阿曽時春軍が河内道へ、名越入道軍が紀伊道を攻めた。総勢10万人が向かったと思われる。2月22日上赤坂城攻めでは幕府軍の500人以上が死傷したという(上赤坂戦では幕軍は合計1800人の死傷者をだした)。城郭攻撃という戦法が騎馬軍団に経験がなかったために、幕府軍はいたずらにせめて甚大な損傷を蒙った。正成の砦を守る数々の戦法が工夫され、幾多の武功が伝えられている。城郭が日本に出現するのは戦国時代からであり、豊臣秀吉は封鎖戦術に巧であった話が伝わっている。また日露戦争で203高地をいたずらに攻めて死体の山を築いた乃木将軍の事は有名である。とはいえ正成の上赤坂城は3月1日に落城した。そして大和道方面軍は3月1日吉野山の大塔宮を打ち破った。

大和国司興福寺一乗院派の紙背を出してから、吉野金峯山は昔から一種独立王国の様であった。吉野は蔵王堂を中心として天台系の本山派と真言系の当山派が混在する修験道のメッカであった。吉水院真遍が実権を握ってからは宮方となり、大塔宮は吉野全山を要塞化した。常時の兵力はせいぜい1500程度であった。幕軍の前に吉野から脱出した大塔宮は高野山に移ったという噂もあるが、全国の武将に宣旨を飛ばした。この時代の戦費は御家人の自前であったので、戦いが長引けば費用がかさみ、宮方の土地をとっても恩賞は期待できるほどでもなく、北条得宗家に対する不満は高まっててきた。逆に宮方について鎌倉を倒した方が広大な北条知行地の恩賞は大きいと計算する御家人も出る始末であった。大塔宮の友軍であった赤松円心という武将は播州で反幕の旗揚げをして、赤穂から摂津、神戸の麻耶山に進出した。水軍や物資輸送の要である神戸の要衝を取った。赤松円心は大塔宮の宣旨だけで行動し、後醍醐帝に拝謁した楠木正成とは立場が異なっていた。建武の中興で赤松を冷遇した後醍醐帝が楠木正成の戦死後有力な武将の援護がなく窮地に陥るは自業自得といえる。このように後醍醐帝勢力の内部には隠岐派と吉野派という派閥が形成された。隠岐派はいうまでもなく千種忠興、阿野康子、名和長年らの寵臣をさす。吉野派とは大塔宮を中心とし楠木正成、赤松円心、四条隆資らをさす。後醍醐帝が隠岐を脱出したのは閏2月24日であった。後醍醐帝は出雲の守護の一族富士名三郎、隠岐の守護の一族佐々木塩治の案内で隠岐を脱出した。鳥取県の伯耆の名和海岸に上陸し名和長年に迎えられ、船上山に入った。1284年の北条家の家騒動「霜月騒動」以来鎌倉を快く思わない名和氏は、後醍醐帝を戴いて鎌倉打倒に向かった。翌日隠岐の守護佐々木清高は60騎で立て籠もる船上山を攻撃したが成功しなかった。3日後赤松円心は山崎から京都に入り六波羅を攻撃した。六波羅攻撃に驚愕した幕府は4月中旬再度遠征軍を編成し、足利尊氏らも遠征軍に加わり京に向かった。

下野足利を本貫地とする足利家は4代にわたって北条家と婚姻関係を結び、北条氏一門に準じる武家の名門であった。幕軍の将軍は金沢、江馬、名越と北条家の一族が占めるが、足利尊氏は例外的に司令官職についた。新田家は足利家の分家であったが、代を重ねるにつれ格が下がりむしろ地方の悪党にすぎなかった。北条の幕府に足利尊氏が反旗を翻すに至った事実は全く重みが異なる。尊氏は北条守時の娘赤橋登子を妻にしている。北条と同じ重みを持っているため、北条幕府は滅んでも足利幕府が生まれるの為御家人には抵抗が少ない。旗頭が交替したに過ぎないからである。1333年2月から3月にかけて幕府の3つの探題が攻撃された。菊池武時が鎮西探題北条英時を攻め、村上水軍は長門周防探題北条時直を攻撃し、赤松円心が六波羅探題を攻めた。3月17日帝は千種を上将とし名和高重、源盛房を指揮官として東進を開始した。4月8日には千種忠顕の征東軍は京に入ろうとしたが嵯峨で撃退された。大塔宮の宣旨により菊池、阿蘇氏が九州で挙兵したが、鎌倉幕府の有力御家人であった小弐、大友、島津は慎重であった。(この三氏に後ほど尊氏は大いに助けられる運命にあった) 4月16日足利尊氏は京に入り、後伏見院に六波羅で拝謁した。この時点で尊氏は腹心に鎌倉謀反を告げている。幕軍は4月27日、正面の山陽道を名越高家が進み、山陰道を足利尊氏が進んだ。ところが名越は伏見で戦死し全軍は撤退した。尊氏は丹波篠山に陣を張った。5月9日(織田信長を討った明智光秀と同じ行動をとって)尊氏は急遽反転し六波羅を攻めた。5月8日新田義貞が挙兵し鎌倉を襲ったのである。

4の卷) 建武の中興から足利尊氏の反乱

帝が京を追われてから約1年2ヶ月ぶりに京への道に着いた。5月18日船上山を出御され、足利の押さえている山陰道を取らずに南下し、5月30日に大塔宮系の赤松円心の支配する赤穂に到着し、赤松と正成の護衛で6月4日京都の東寺、そして5日に内裏に入られた。信義山を攻めている大塔宮のシナリオでは天皇親政とするならば、楠木、名和の軍を引きいて直ちに尊氏を追い出すべきであったのだが、宮の足利討滅計画は帝は採用しなかった。新田義貞の挙兵は5月8日で、鎌倉幕府の滅亡は22日となった。九州探題が滅亡したのは5月25日である。帝は大塔宮を征夷大将軍に任じたので、6月13日大塔宮は入京した。建武の中興は帝と尊氏との騙しあいの政治の場となった。建武中興の人事はいわゆる「位打ち」と称するいつもの武家に対する懐柔策であった。尊氏、正成が従三位に特進した。尊氏にとって位よりも、北条家の所領を弟の直義とともに二分して獲得したことの方が重要であった。尊氏は従来の上総、三河に加えて新しく常陸、下総、武蔵の国司職を得、直義は相模の国司職を得た。一族の上杉重能は伊豆の国司職を得た。九州まで恩賞が議論されないうちに菊池を抑えて、尊氏はすばやく九州の小弐、大友、島津の諸侯に守護識をもって答えた。乱後の武家への恩賞は護良親王と尊氏派の草狩場となったようだ。新田義貞は最初から無位無官であったので、名門の守護識に割って入ることは難しいようで越後の守護識と官位従四位を得たにすぎず、足利派と新田派の対立は鎌倉幕府崩壊後の直後から起った。帝は新たに設けた武者所に新田派を多用し、足利との分割統治に適用したようだ。そして帝は足利への牽制策として東北の経営に乗り出し奥州鎮守府を設置し大守に義良親王を任じ、出羽に寵臣葉室光顕を、陸奥守に北畠顕家を任じた。この二人の寵臣に尊氏の本貫地の背後を脅かそうという策である。公卿も武をかねて藩屏たるべしという政策によって千種忠顕を丹波に、洞院公賢を若狭に、成良親王を上野の太守に任じた。阿野廉子の長男の恒良親王を皇太子とした。成良親王(後征夷大将軍)の補佐は相模国守の足利直義であり、鎌倉府を設置した。

後醍醐帝は復位し、持明院統の光厳院には上皇の尊号が贈られ、その父後伏見院は出家した。新朝廷のなかでも分裂があった。建武の中興の朝廷人事でときめいたのは、隠岐・船上山派であった。千種忠顕、名和一族、結城親光、皇妃阿野廉子らの勢力である。名和一族への恩賞は楠木一族をしのいだのは、楠木は大塔宮の吉野派と見られていたからであろう。冷や飯を食らったのが吉野派である。高間氏、村上水軍の大三島祝、赤松氏らは碌な恩賞を得ていないばかりか、赤松氏は新田氏に所領を奪われている。吉野派の正規軍といえば楠木氏と赤松氏の軍だったので、赤松氏の没落は大塔宮の翼をもぎるようなものだった。帝の寵妃阿野廉子の第1皇子恒良親王が皇太子となったため、年長の親王5人(尊良、宗良、護良、玄円、躬良)の立場は一挙に不安定となった。建武の中興は僅か二年半でその間も戦乱は絶えなかった。建武元年1334年だけでも北条の残党が起こした乱は2ヶ月に一度ぐらいで頻発し、紀州飯盛山の大仏・長崎らの北条残党の乱やなかでも1335年7月の北条時行の中先代の乱では一時鎌倉が占領された。そして朝廷では恩賞方と雑訴決断所を設けて戦後処理を行なったが混乱を極めたという。建武朝廷の無能ぶりと社会の混乱は二条河原の落首にも書き残されている。諸国荘園の検注の2年間停止や公卿らの借金の徳政令は混乱に拍車をかけたといわれる。1334年10月突然クーデタ未遂事件が起きる。足利尊氏が阿野廉子に大塔宮謀反を讒訴したのである。大塔宮は逮捕され鎌倉に流罪となり、親王の直臣である日野浄俊らは斬られた。足利直義の手に大塔宮が渡されたと言うことは、これはいかに帝が大塔宮に冷淡であったということでそれが大塔宮の悲劇となった。1335年7月の中先代の乱で北条時行が鎌倉を攻めたとき、直義はまず手足纏となる大塔宮を刺殺した。8月上野太守であった成良親王を征夷大将軍とし直義が占領された鎌倉を攻めて奪い返した。尊氏はこの功で従2位と昇進し、勝ってに斯波家長を奥州管領に任命した。これは北畠顕家の奥州鎮守府に対抗させるためであった。建武2年10月15日に尊氏は鎌倉に下り実質的に幕府を創設し、地頭職や荘園を与えた。鎌倉幕府の再興であり、天皇親政の建武朝廷への反逆となった。

源頼朝の義仲・義経追討宣旨と同じ手法で、11月18日尊氏は朝廷に新田義貞追討の奏請をおこなった。朝廷は驚愕し翌日、尊良親王を上将軍とし新田義貞を総師とする足利征伐を発進させた。上将軍尊良親王と二条為冬が東海道を下り、洞院実世を将軍とする第2軍が東山道を下った。尊氏謀反によって朝廷内の政治力学に影がさしてきた。反護良派としての隠岐派は立場に窮し、吉野派の楠木らが復権してきた。新田軍は12月始め手越河原で直義軍を破ったが追撃しなかった。尊氏は小山、結城の諸将を率いて箱根越えで三島を奪回して、大友軍の裏切りで官軍を崩壊させた。新田は逃げ帰って、楠木と名和の軍が宇治瀬田の守りについた。尊氏のほうも東山道を引き返す洞院実世軍と南下する奥州の北畠顕家の軍を背にして、一気に宇治瀬田を打開しなければならなかった。瀬田の守りは名和、千種、結城の軍で、宇治の守りは楠木正成であったが、尊氏の京都攻略は建武3年(1336年)1月1日より開始された。尊氏は宇治突破を諦め山崎へ迂回して京に入った。京都の占領は足利軍の威信を高め、軍事支配者としての名を確実なものにした。北畠顕家と洞院実世が比叡山に到着したのが13日となって、後醍醐派の京都攻撃は16日に開始された。尊氏は大敗し丹波篠山に引いた。1月30日帝らは叡山から降りて内裏に還御された。2月10日に西宮の打出浜で再び破れた尊氏は船で九州へ脱出し、こうして建武の中興は分裂し終わりを告げたのである。

5の卷) 湊川の戦いから吉野行幸 南北朝時代の戦い

建武の中興は天皇親政の建前から公卿を多数国司に任命し、在来の地頭武家の勢力と対立した。新田はとても武家の立場を代弁できる立場ではなかった。現実には中興の政治といっても、鎌倉以来の武家政治と摂関政治の折衷的なもので、矛盾ばかりが吹き出す始末であった。いつ崩壊してもおかしくは無い政治状況であったので、楠木正成は後醍醐帝を守るにはむしろ尊氏との妥協を図る公武合体論を主張した。建武3年(1336年)2月15日、持明院統の光厳上皇よりの使者日野賢俊が義貞追討の院宣を持って尊氏の陣営に到着した。新田義貞は播磨まで進んだが京に引き返した。このへんの詰めの甘さが新田の命取りとなるのである。2月20日尊氏は下関に着いて、小弐頼尚の出迎えを受けた。尊氏がはるばる九州まで落ち延びたのは、小弐、大友、島津の援助を期待したからである。大宰府の権師および大弐は京にいた名前だけの不在官吏であったので、小弐一族が実権を握っていた。尊氏は博多に上陸して菊池武敏と阿蘇大宮司惟直の軍を3月2日多多良浜で破った。3月20日新田義貞は西へ向かい、3月30日白旗城に籠る赤松一族を攻撃した。義貞は包囲戦に手間取り、一隊を福山に向けた。尊氏は4月11日門司→5月1日厳島→5月5日尾道→5月10日福山鞆浦に到着した。海陸両面で東上する尊氏軍に対して、義貞軍は5月18日福山を撤兵して援軍を待った。水軍の上陸地は兵庫と予測されるので、楠木正成が正面軍として兵庫へ進んだ。正成には正面衝突の騎馬戦に勝算は全くなく、死に地を求めた観が強い。正成は戦略上の退却と京の明け渡をし主張し、帝は再度比叡山に御幸し、正成軍は河内に籠って京の背後を突く戦術であったが、朝議はこの策を一蹴した。こうして帝が墓穴を掘ったのである。

湊川の戦いは楠木正成にとって義のための戦いとなり、正成と正行の桜井の別れは涙を誘うのである。尊氏の水軍は須磨に、陸上軍は塩屋に構え(平家の須磨の戦いと義経の鵯越の再現である)5月25日湊川の戦いが火蓋を切って落とした。6時間の白兵戦で正成軍は全滅した。5月27日帝は比叡山へ逃げ、29日足利直義が京に入った。6月5日から叡山へ総攻撃が開始され、6月20日まで攻撃が行われたが、尊氏軍の損傷が大きく直義は全軍を撤収し三条口に司令部を移した。叡山では千種忠顕が戦死している。6月30日叡山を下りた新田軍と名和軍は京へ入り東寺八条口で挟撃され名和長年は討ち取られ、義貞は虎口を辛うじて脱した。叡山を封じ込め疲弊させるには琵琶湖の水路を断つことであるので、尊氏は小笠原貞宗に近江路を攻撃させ、近江在住の佐々木高氏と協力し琵琶湖東岸を押さえた。高師泰は山崎から摂津をおさえて尊氏軍の兵糧を確保した。8月15日尊氏は光厳上皇の奏請して豊仁親王の践祚に踏み切った。北朝第1代天皇光明院の出現である。8月22日より叡山より新田義貞は全面攻勢に出たが失敗して、帝側の最後の攻撃となった。叡山で帝らが冬を越せるわけはなく、10月10日和議が成立して後醍醐帝は京に降りた。尊氏は帝に退位と光明院への神器の授与、後醍醐帝の皇太子の東宮と両皇統迭立の復活、帝の廷臣の身分保証を提案した。新田義貞は承服できず恒良親王と尊良親王を守って叡山を脱出し敦賀へ向かった。洞院実世、世尊寺行房が同行した。11月2日帝から神器が返され、帝には上皇の尊号が贈られ、成良親王が皇太子になった。11月7日尊氏は幕府を室町に開き「建武式目17条」を制定した。新上皇は花山院に幽閉し12月10日光明院は室町御所に入った。12月21日伊勢にいた北畠親房が画作して後醍醐帝を吉野に脱出させた。こうして北陸にいた恒良親王を南朝第1代天皇とする南北朝時代が1337年から1392年までの55年間続くのである。

1337年1月北陸の新田軍に対して小笠原、村上に追討を命じ、高師直を総指揮官として派遣した。3月6日金崎城が落城し、尊良親王と世尊寺行房は自害し、恒良親王は捕縛され京に護送されて殺された。後醍醐帝系の阿野廉子が生んだ皇子は奥州にいる義良親王を除いて皆殺しにされた。奥州の北畠顕家に西上を命じる帝の勅使が12月25日に出発した。吉野南朝にはせ参じた公卿には、近衛経忠、吉田定房、二条師基、坊門清忠らであった。後醍醐帝系の公卿に対する粛清が勢いを増したのでいたたまれなくなった公卿らが吉野へ逃れた。北畠顕家の軍は8月にようやく奥州を発ち4ヶ月かかって利根川に達し12月14日には鎌倉を攻撃して斯波家長を戦死させ一時鎌倉を占領した。翌1338年1月に新田義興の兵を合わせて美濃で高師冬軍を破ったが、背後から今川範国に攻撃されて敗れた。顕家は伊勢に進路を変え吉野へ向かったが、奈良で高師直軍に敗れた。顕家は京への進出を諦めず、河内に出て5月22日和泉堺で討ち死にした。名和義高も戦死している。7月2日福井藤島庄の燈明寺畷で新田義貞はあっけなく戦死した。これを最後に南朝の組織だった反攻は後を絶つのである。8月11日をもって尊氏は北朝から正式に征夷大将軍に任じられた。おなじ8月南朝では義良親王を天皇に禅譲し、翌日帝は崩御した。52歳であった。1347年8月楠木正行が挙兵した。南朝のイデオローグ北畠親房が常陸の小田城、関城で結城親朝の決起を要請したが、結城は動かず関城は落城した。そして親房は各地を転転として伊勢に流れ吉野に入ったようだ。伊勢では北畠顕能の活動が活発化してきた。南朝のゲリラ戦が各地で活発化する。1349年1月楠木正行は四条畷の戦いで戦死し、2月始め高師直軍は吉野を攻撃して行宮を焼き払った。とはいうものの足利幕府の中で内紛が激化し、1352年2月直義と高一族の対立によって高一族は湊川で滅亡した。尊氏は嫡子義詮に命じて直義を攻めた。この内紛につけ込んで1352年から1361年の間に南朝は4回(1352,1353,1355,1361年)京都に攻め込んだことがある。北畠親房は1355年に62歳で死亡し、足利尊氏は1359年に54歳で死亡した。1360年帝の寵妃の阿野廉子は1360年に死亡した。なぜか1392年まで南朝は存在していたようだ。


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