2011年12月25日

文藝散歩 

 4人の小説家による「文章読本」
丸谷才一、谷崎潤一郎、中村真一郎、三島由紀夫
 

小説家の書く文章の心得とは 

昭和9年(1934年)谷崎潤一郎氏が「文書読本」を著わしてのち、一見ハウツーものらしき著作(国語論、文明論も含まれる)を4人の小説家が書いているのである。昭和25年(1950年)に川端康成氏が、昭和34年(1959年)に三島由紀夫氏が、昭和50年(1975年)に中村真一郎氏が、そして昭和52年(1977年)に丸谷才一氏が著わしている。私は川端康成氏の文書読本は読んでいないので、ここには谷崎潤一郎氏、三島由紀夫氏、中村真一郎氏、丸谷才一氏の4氏による「文章読本」を取り上げて観賞しよう。言葉というものは江戸時代には藩ごとに「お国言葉」があり、明治維新後にこれを全国共通語に統一しようとした。薩摩弁から津軽弁まで、お互いに何を言っているのやらトンチンカンプンだった言葉をともかくも江戸山の手の言葉にまとめてゆこうとした明治20年ごろの維新新政府の役人の苦労話は、井上ひろしの「国語元年」(1985年NHK総合テレビで放送されたテレビドラマ)に面白く描かれている。国民国家の形成時にはなくてはならない国語の創設であるが、国語の歴史は実はまだ120年くらいのものである。まして昭和初期に文豪谷崎潤一郎氏が「文書読本」を著わした時は、国語らしきものが提唱されて50年くらいしか経っていなかった。戦後文部省は国語の改革(迷走)を何度も心ざし、味も素っ気も無い文章が平易とされ、漢字の制限を繰り返し、その度に識者からその見識を揶揄されてきた。文章読本は国語論や文法論ではない。おのずと小説家の書く文章論であるので、読んで分かる文章、含蓄味のある言い回しのテクニックであろうか。逆に最近は文章読本をまじめに書く小説家は見られない。それだけ国語が成熟したのか、文語文や漢文の素養が完全に忘れられて文句をつける人もいなくなってしまったのだろうか。話し言葉でカタカナに溢れた短い文というのが現代文の特徴かもしれない。そのくせ「言語明瞭、意味不明」という側面が現れ、国語の危機という言葉も何度聞かされることだろうか。文章の目的はただひとつ、人が理解できるよう伝えることにある。そこで私とって20数年前に読んだ4人の小説家による「文章読本」を読み返してみた。



1) 丸谷才一著 「文章読本」 (中公文庫 1980年)

丸谷才一氏(1925年 山形県生まれ)は2011年度文化勲章受章者となった。おん年86歳になられた。実を言えば、私が4人の文書読本をまとめようという気になったのは、今年秋の文化勲章受章者の発表があったからで、そういえば丸谷才一氏の本はどこかで詠んだはずだと思い出し、本棚を探してみると、1980年代に結構集中して丸谷才一氏の本を読んでいたのだ。日本語論3冊と文書読本1冊である。そしてさらにいえば、丸谷氏は岩波書店発行月刊冊子「図書」で「無地のネクタイ」のコーナを1年半前(2010年6月)より担当され、2011年11月号の題は「呉音と漢音」であった。肩のこらない言葉の散歩のような随筆で、毎月私は丸谷氏の文を愛読していたことになる。そこで丸谷氏の文化勲章受賞を記念して、彼の黄ばんだ「文章読本」を25年ぶりに読み直し、あわせて谷崎潤一郎、中村真一郎、三島由紀夫氏の「文章読本」も昔読んでいたので再読し、「4人の小説家の文章読本」をまとめた次第である。本書の2/3ほどは引用文からなりたっており、著者の地の文は1/3に過ぎない。「名文を読め」というのが本書の薦めであるから当然のことである。「引用文」は引用するに忍びないから著者と題名だけを記すにとどめる。

第1章 少説家と日本語

丸谷才一氏は谷崎潤一郎、中村真一郎、三島由紀夫氏の「文章読本」の中で、谷崎潤一郎氏の「文章読本」を傑作だと絶賛している。したがって第1章では小説家としては谷崎潤一郎氏だけを取り上げて日本語を考える。谷崎氏が文章読本を書いた昭和10年ごろは、現代日本語の危機と重なって、彼の文体の変革期となっているという意味で文学史的に重要なのである。いわゆる口語文の成立は明治中頃の事であるから、以来40年が経っていた。この頃に口語文が一応完成していたとみられる。永井荷風氏も指摘するように、関東大震災によって徳川文化が全く消えうせ、経済恐慌によって文明の混乱が頂点に達した時期である。このとき谷崎氏は日本文明論を「陰影礼賛」に、文体論を「文章読本」に書いた。明治以来の口語文は英文法を主に構文を成り立たせてきたのであるが、谷崎氏はその俗悪・軽薄さを避難する反近代の旗振りのように思われているが、ついに欧文脈を棄てることは出来ずに、明確な文章を書くことが彼の特徴であった。つまり当時の日本文においては、伝統的な日本語(和文脈)と欧文脈との折り合いをつける技術は小説家に任させられた。明治維新以来の小説家の最高の業績は、近代日本にたいしてまがりなりにも口語体を提供したことであった。小説家が作った口語体はやはり使いこなすのは難しい。文の工夫・才覚が必要である。だから「文章読本」が書かれるのだ。

第2章 名文を読め

森鴎外は文章上達法を問われて、「春秋左氏伝」を読めといったようだ。とかく文章上達の秘訣はただひとつ、名文を読むことだ。名文がわれわれに教えてくれるものは第1に言葉使いである。文章は過去の言葉使いの合成で、つまり歴史を背負っているのだ。世阿弥の「砧」も過去の名文の集録で、石川淳の「小林如泥」、佐藤春夫の「好き友」、斉藤緑雨の「おぼえ帳」、荻生徂徠の「経子史要覧」などから名文の例をあげて学べという。

第3章 ちょっと気取って書け

文章は文章の型にのっとって書くもので、それが作文の基本である。「思った通りに書け」といってそれで読むに耐える文章が出来上がるわけでなない。伝統がなければわれわれの文化は存在しない。型とは伝統のことである。文章の型を学び、身につけ、その型にあわせて思うことである。だから「ちょっと気取って書け」という。也有の「知雨亭記」、鴨長明の「方丈記」、永井荷風の「日和下駄」などの格調ある名文を紹介し、あわせて尾崎一雄「虫のいろいろ」の的確写実の名文も例に挙げている。

第4章 達意ということ

散文の言語は具体的な事物や、精確な観念を指示し伝達しなければならない。それが文章の基本的な機能である。詩の言語は感情を喚起することが基本的な機能である。本書の目的は人に分かってもらえる文章を書くことにある。その対極にあるのが、大言壮語、曖昧なものの言い方の代表である明治憲法ではなかろうか。天皇の位置づけが不明で、統帥権を持つ絶対君主なのか、政府機能の一部(天皇法人説)なのかを巡って、その解釈自由の曖昧模糊性から後年「天皇機関説」と軍部独裁が争った。現在でも戦争の元凶たる昭和天皇か軍部に利用された天皇か論争は絶えない。それに比べると現行憲法は天皇の象徴性に曖昧なところがあるが、まがりなりにも民主制を宣言しており、文章のうまい下手はあるが伝達の機能は明瞭である。伊藤博文と井上毅の憲法論義、夏島草案をめぐってその悪文性と呪術性を丸谷氏は批判している。本書は憲法論では無いので詳細は記さないが、丸谷氏の政治的見識は明瞭に示されている。林達夫氏の「旅順陥落」という透明な名文を上げて口直しにしている。

第5章 新しい和漢混淆文

古事記の{万葉仮名」にはじまり、日本書紀の「正調漢文」、平安貴族の書いた「変体漢文」、近世武士の書いた「候文」などは漢字オンリーの文である。平安時代女性が書いたと言われ、男もマネをした「ひらかな」は「伊勢物語」、「古今和歌集序」に始まった。仮名のなかに漢字をまぜる和漢混淆文は鎌倉時代に「平家物語」など戦記文学に採用された。平家物語はいわゆる和漢混淆文の文字使いが日本語の文章の基本となった。鎌倉時代初期、後鳥羽上皇と藤原定家が衝突したときに、宮廷的な歌遊びから近世の純粋詩へ移り、日本の古代が終っていきなり近代が始まった。大和言葉の欠点を最もよく示すのが江戸時代の国学の祖、本居宣長の擬古文である。本居宣長の「玉勝間」の一部分を引いて、おっとりとのんびりした性格に引きずられてとにかく論理的にだらしなくなりがちであることを示した。擬古文の最たるものは祝詞(のりと)であり、その特異例外的な名文として、折口信夫の「三矢重松先生歌碑序幕式祝詞」の例を挙げた。死者の魂を慰めるに格好の名文であった。ひらがなだけでは読みにくく、かといって漢字のみでは不便でしょうがないので、漢字交じりかな書き文が現代日本語の標準となった。和漢混淆文の古典には、「平家物語」、「今昔物語」、「愚管抄」、「太平記」があり、平安末期から明治中葉の口語文誕生まで日本の文章はすべて和漢混淆文で書かれた。和漢混淆文の名手といわれた佐藤春夫氏の「君が回想する大杉栄」には、漢語のもたらす概念性と主張性を、漢語以外の語彙や語法をまじえて出来上がっている。これを地の文といい、漢字との相性がきわめて良好で論理の展開の微妙さを補っているようだ。

第6章 言葉の綾

文章に優れた人はみな語彙が豊富で、語感に優れている。清小納言の「枕草子」の有名なもの尽くしは、さながら名詞のオンパレードである。最初はまじめにやっているがいつもしだいに崩れて冗談ぽい語呂遊びになる。森鴎外の「羽島千尋」に「私の好きな詞」を上げればその人の文学性が分かるという下りがある。文化が基本的に持つ遊戯性、すなわち言葉の綾である。谷崎潤一郎の「文章読本」は分かりやすい言葉、古語を選べという。谷崎のいう古語とは生家のあった江戸後期の町家の言葉使いにあったようだ。谷崎の「陰影礼賛」には書院の暗さを論じて日本伝統の美を肯定している。このような場合の語彙体系はいつでも可能なわけではなく、社会・政治の文章には不向きなことはいうまでもない。素人には容易にマネしてはいけない文章の例として田村隆一氏の「隠岐」をあげている。カタカナだらけの卑俗な名詞を氾濫というべき文章で、それでいて品がないというわけでは無い。つまり文才とは言葉の組み合わせの才能にはかならない。言葉の綾とは数多くの言葉の関係の微妙な設定の仕方にあるといえる。画家の色彩の置き方と同じである。オノマトピア(擬声語)は使わないほうがいいといわれるが、内田百閧フ「蘭陵王入陣曲」はオノマトピアの幼児性を生かした名文であると云う。

第7章 言葉のゆかり

谷崎潤一郎は分かりやすい文章を心がけるには、「新語」を避け「古語」を使えといった。これには分かりやすさという伝達性の問題と彼の趣味が交じっている言い方であった。言葉の奥行きというと伝統にほかならない。これには個人の歴史も絡んでいる。川端康成氏の「名人」を引いて漢語の不用意な落ち着かない表現の悪い例をあげた。それにたいして森鴎外の「礼儀小言」の和漢混淆文の見事な例を挙げている。伝統的な型は重要である。英国の文は大概は欽定憲法とシェイクスピアの言葉使いから出来上がっている。しかるべき文章を必要にして十分なだけ抜き取り、自分の文章とならべ、その組み合わせによって鮮やかな効果を上げる技術を、吉田健一氏の「英国の文学」の例に示した。本書丸谷才一著 「文章読本」も、引用をふんだんに使って読ませる本である。

第8章 イメージと論理

文章では読み手にイメージを喚起することが大事である。匂いだの色彩だということに関する言葉の豊かで強い力は抽象語には期待できない。こういうやり方は手紙などで重宝され使われる。大内兵衛氏の「法律学について」は法律家の無学と非見識を罵倒してやまない文章であるが、「上は貴族院議員・・・・下は巡査にいたるまで」という比喩の羅列という説得の論理は強力である。吉行準之助の「戦中少数派の発言」は非政治的個人の屈折した気持ちを分かってもらうため、最初に印象的なイメージを植えつけて心理の襞を発露してゆくのである。うんと素朴にするとイソップ物語の寓話と教訓の組み合わせに近いかも知れない。諺や格言や詩歌俳諧にイメージを多用するのも当然なことであろう。堀口大学氏の「父 九萬一の49日に当たっての挨拶状」は地名の連続した引用は一種のイメージと見ることが出来る。いわば道行き文である。平家物語海道下りはその典型的な例である。井伏鱒二氏の随筆「中込君の雀」は比喩的な動詞の使い方のせいで、描写は的確で簡潔となっている。名詞だけでな動詞もイメージを用いて説得力を持たせることができる。

第9章 文体とレトリック

文章の装った心意気(第3章 「ちょっと気取って書け」 にも通じる)はいわば文章の礼のかたちで、日本語では文体、英語ではレトリックと呼ばれる。この章は達人の書く本書でも異質な書きかたでいやに類別的、教科書的である。しかも大岡昇平氏の「野火」とシェークスピアだけから引用して、そのレトリック性を解剖するため50ページも費やしている。大学の文学部での講義メモから本稿を起こしたのではないかと思われる。隠喩(メタファー)、直喩(シミリー、詩的には叙述的直喩、常套句的には強意的直喩)、擬人法(プロソピーア)、迂言法(ぺリフラシス)、代称(ケニング)、頭韻(アリタレイション)、畳語法(エピジュークシス)、首句反復(アナフォーラ)、結句反復(エピフォーラ)、前辞反復(アナディプロシス)、対句(アンティセシス)、連辞省略(アシンデトン)、羅列、誇張法(ハイパーポリ)、緩叙法(マイオウシス)、曲言法(ライトウティ−ズ)、修辞的疑問(レトリカルクェチョン、反語)、換喩(メトニミー)、撞着語法(オクシモロン)、擬声語(声喩、オノマトピー)、諺、パロディ、洒落(パン) などなど。

第10章 結構と脈絡

文章の流として、直線的にゆく緒論・本論・結論というやり方が有るが、手紙でもあるまいし時節の説き起こしからなる序論(緒論)ならいらない。単刀直入に結論から述べた文として、幸徳秋水の「兵士を送る」を引用し、インメディアレス(核心から)の良例とした。河上徹太郎氏は文芸評論の書き方のコツとして、2つの主題を衝突させながら進める方法を推奨した。これは対話的というか弁証法的に対立する論点を示した方が見通しがいいからであろう。こういうわけから緒論・本論・結論の3分法には囚われないほうがいい。むしろ起承転結(漢詩の絶句のやり方、漢詩の骨法)という分けかたの方がいいかもしれないという。幸田露伴氏の「光琳百図題言」において、文章を大きく4つに分けて構成している。地震学者坪井忠二氏の随筆「コケコッコー」も4段に分けられる。構成というのものは究極のところ論理がしっかりしているということである。文章を織物になぞらえるのはフランス批評の流行であったが、文章をひとつの線ではなく面として配置する結構が、文の脈絡を捕らえるのに適しているかもしれない。その例を夏目漱石の「子規の画」に示した。

第11章 目と耳と頭に訴える

谷崎潤一郎氏の「盲目物語」はひらがなを多用して恐ろしいまでの効果をあげている。ひらがなでは全体が見通しにくいがために、薄くらやみの視界で見るような錯覚を覚える。文章の視覚的要素にきずいた作家の名作である。小沼丹氏の「猿」はあえてカタカナを多用して小手の利いた名人芸である。文章の将に視覚的要素として、文中に挿入するダッシュ(−)、リーダー(・・・)、カギカッコ(「)、二重カギカッコ(『)、疑問符(?)、感嘆符(!)の効果も時には重要である。感嘆符の利用は音楽評論家吉田秀和氏の「わが相撲記」では成功している。ところが句読点(句点。読点、)については定説がない。句読点がまったくない源氏物語の読み難さは主語の不明とあいまって現代人をして掲載させる最大の原因となっている。句点は文の終りだからわかるとして、読点は呼吸のリズムとかいう説があるがあやしい。結局は個人に任せられているので、文の構造を鮮やかにするために読点を施すということになろう。谷崎潤一郎氏は息の長い文を書き、志賀直哉氏は短い文で簡潔に書く。すべては著者の趣味である。人間の精神のリズム、思考のパターン、感受性の構造の関連で決まるのだろう。柳宗悦氏の「朝鮮の木工品」は文章の問題というよりは、じっくり考えた末の人間の目の確かさを感じさせられる文である。

第12章 現代文の条件

「伊勢物語」にみる日本の文のだらしなさはどうだろうと著者は問いかける。平安朝の和文のしまりなさでは書ける範囲は恋物語しかない。だから王朝文学とは歌も物語も100%恋と決まっていた。女々しい文学ともいえる。これを欠点というか特徴というか難しいが、王朝の人々はその特性を利用する方向でしどけない文章を洗練させていったようだ。日本語はだらだらと続く文章で、だから句読点はなかった。それは我々の思考法にも関係して、並列的で修飾的で、横へ横へと展開するのである。さながら絵巻物のようであり無差別に何でも取り込んでゆくのは風呂敷につながり、この態度はなんでも神様(八百の神)にしてしまうのだ。このことは日本語の論理性にも関係する。和漢混淆文によって日本の近代化が成功したといわれるのはこの辺の事情を物語っている。国学の和文では尊王攘夷論しか出てこなかった。西洋文明との出会いをスムーズにしたのが和漢混淆文で、数量の理解、技術語の取り込み、抽象性・概念性の理解がなりたった。「和魂洋才」ではなく、和と漢と洋の結合によって日本の近代化がスタートした。欧文には関係代名詞や関係副詞という便利な構造をつくる道具がある。関係詞の上手な使いこなしの例として、石田幹之助氏「長安の春」をあげ、牡丹の美を形容する様々な用法を示した。日本語では文章の最後はいつも術語動詞である。現在形なら「u」の音で終り、過去形なら「た」で終る。文語体では「つ」、「ヌ」、「たり」、「き」、「けり」と多様であったのが今では「た」で一本化した。この辺のことは藤井貞和著 「日本語と時間ー時の文法をたどる」(岩波新書)に詳しい。文章の最後には「です」調、「ます」調で行ってもいつも単調になるのを防がなければならない。山口剛氏の「大震災罹災記」には文末は大変苦労して変化をもたせている。一番いけないのは「である」調だ。体言止めや文語体の利用も一理ある。戦後和漢混淆文が徹底的に追放され、率直で簡素な表現となったが、単調で文の味もなくなった。我々が失った伝統と趣味性は文章にとって極めて重要である。文章の型の伝承や借用で文は成り立っていた。それを失った口語文の未熟は確かに我々の生き方の反映に違いない。新しい文章の型は文明全体、社会全体で作るしかない。さて我々は何を書こうとしているのか。石川淳氏の「無法書話」にいうように、用筆という技術の難しさのほかに重要なことは、書くべく事、語るべきこと、記するに価することがあるとき、文章は自ずと知から強く流れるであろう。これが人間の精神と文章の自然な関係にほかならないと本書を結んでいる。



2) 谷崎潤一郎著 「文章読本」 (中公文庫 1975年)

本書は昭和9年に発刊された。国語が創案された明治20年代から約50年が経過している。なお文章の着心地がしっくり来ないのか、口語体への小説家からの提案書である。(それは今でも国語審議会の漢字、送り仮名などの試行錯誤に続いているが) 谷崎氏ははじめに「現在の口語分に最も欠けている根本の事項のみを記す」と宣言した。日本で始めての(そして最も優れた)文章読本となった。本書を読んでみて、丸谷才一氏の「文書読本」は昭和52年(1977年)に書かれたというものの谷崎氏に遅れること43年後であるが、内容はほぼ完全に谷崎氏のそれを踏襲している。違うところは引用文が極めて豊富であることと、第9章 文体とレトリックにおいて詳細に羅列して解説していることの2点である。谷崎氏の文章読本では引用文は自身の文以外は少なく、簡潔明瞭に文章の書き方の要点を示している。丁寧にも要点は太字で強調されており、そこを読むだけで一定の結論を指し示している。そこで本書の太字を頼りに本書を紹介することにする。

1) 文章とは何か

自分の思うところを他人に伝えるには言語による以外に方法は無い。考えるときも言語に大きく依存している。したがって言語は思想を伝える機関であるとともに、思想にひとつの形態をあたえ纏りをつけるという働きがある。これは大変有効なはたらきではあるが、思考に一定の型をはめるという欠点にもなっている。「言語は万能ではなく、そのはたらきは不自由であり、時には有害なものである」と谷崎氏は警告をだすのだ。言葉には文字で書かれる文章と口で話される口語に別れるが、目的が異なるため両者は同じではない。文章には「美文体」という古典上の「韻文」と散文に分かれるが、実用語としての文章では韻文は死んでいる。したがって本書は散文、そして限りなく口語体に近い文章を書く事を目的としている。口語体文章の目的は「分からせる」、「理解させる」ということに重点を置く。小説家志賀直哉氏の小説「城の崎にて」は簡単な言葉で明瞭に描き出すことに成功していることで有名である。小説という分野で実用的に書くことが小説家の技量によるところであるが、実用文ではさらに明瞭に分からせることが求められているのである。口語体の文章を書く上で、文章体の精神を無視した文章は決して名文でないといわれる。古典文には和文調と漢文調とがある。漢文調とは平家物語という鎌倉時代に成立した文章でいわゆる「和漢混淆体文」のことである。明治時代の末期から口語体という文体が創設され、話すように書くという自由さが喜ばれた。しかし口語体は話が長くなり放漫に陥りやすい欠点がある。決して万能では無い言葉や文字で表現できることには限界があり、読む人の目や耳に訴えるあらゆる要素を利用して表現の不足を補う必要がある。目で見る文字の字面、耳で聞く朗読の音調(平家物語は声を出して読めといわれるのは、その美しい響きと躍動的なリズムが酔わせるからだ)も重要な要素である。

日本語は古くは漢文を読み下すためにカタカナを発明し、そして和文に取り入れて「和漢混淆文」を生んだ。元来国語の特徴は言葉の数が少ないことで、ひとつの言葉が多くの意味を持ち、漢語に「する」をつけて動詞を作り、「な」、「たる」、「として」をつけて無数の形容詞や副詞を作り語彙を豊かにしてきた歴史がある。わずかな言葉が読者の想像力を呼び起こし、差し障りのある人や事柄はあいまいに避けて、主語は状況と敬語から自ずと定まるという閉鎖社会の陰語めいた源氏物語は難解な古文としてあまりに有名であった。ところが西洋の言葉(恐らく英語を想定している)は出来るだけ意味を細かく別ち、陰のある言葉を嫌い読者の想像の誤謬を許さないという文化を持っている。そして関係代名詞という説明用の便利な構文を持って、いくらでも複雑な長い文章を可能とした。明治以降西洋から輸入された科学・哲学・法律など学問に関する記述から多くの事を学び、日本の口語文を形成してきた。科学論文はさて置き、西洋文の持つ便利さは日本の日常生活の言葉である国語にぴったりしているかというと、大いに不自然さが付きまとう。語彙が貧弱で不完全な国語においてはその欠点を補って足る十分な長所もあることを本書は強調する。それを生かすのが本書のいう「文章の書き方の要点」である。けっして西洋語に近づけることが国語の理想的な形ではないという。

2) 文章の上達法

日本語には西洋語の明確な文法というものがない。主語のあることを必ずしも必要としない。文法規則が一番やかましいのはドイツ語で、英語はそれほどうるさくはないといわれる。日本語には明確な規則がすくないため、外国人は「てにおは」は理解できないそうだ。実地で何回も繰り返して自然と日本語を習得する以外に方法は無いのである。日本語の代名詞や主語の使い方は気まぐれで、時間の関係も不明確である。すべて過去は「た」ですませてしまう。これを欠点というのか長所というのかは文化の問題で、少なくとも日本語を簡潔に書くためには西洋文法は省くことが肝要である。名文とは曰く言い難しで、谷崎氏は長く記憶に止まるような印象を与えるもの、何度も読むうちに味の出てくるものというような感覚的な定義をする。名文にも源氏物語や西鶴のような和文の朦朧体、森鴎外の和漢混淆文の平明体とがある。これらは感覚をみがいて習得することである。名文は何度も読むに限る、そして自分も作ってみることであるという。小説家においても和文調を好む人、漢文調を好む人に別れ、和文調を好む人には泉鏡花、上田敏、鈴木三重吉、里見ク、、久保田万太郎、宇野浩次氏ら、漢文調を好む人には森鴎外、夏目漱石、志賀直哉、菊池寛、直木三十五氏らがいる。

3) 文章の要素

「文章を学ぶには自習が第1でありまして、理屈はあまり役にはたたない」といって、ある程度文章の構造を説明する講義調の章である。しかし本書の半分以上の分量を占めているから不思議である。例文の多い丸谷才一氏の「文書読本」はその点趣旨に沿ったバランスの取れた配分ではある。文章の要素として、用語、調子、文体、体裁、品格、含蓄という項目を挙げているが、これらは互いに重複している。

用語について: 丸谷才一氏が紹介していたが、谷崎氏は言葉の選び方で注意すべきは、分かりやすい言葉を選ぶ、使い慣れた古語を使う、適当な古語がないときは新語を使う、古語も新語もないときは造語を使ってもいいという順を設けている。ポイントは分かりやすい言葉、使い慣れた古語ということであろう。ひとつの内容を現す言葉はたくさんあるが最適な言葉はただひとつしかない事を肝に銘じるべきだ。小説では最初の言葉が重要でそれが文体や調子を決めてしまうから恐ろしいのである。これを言葉の魅力、綾と言い表す。明治以来漢語の力を借りて、西洋技術用語を新語に翻訳してきた。この漢字の力が西欧文明の輸入を可能としたのである。とはいえ科学術語はひとつの符牒だとしても、日常用語に使用するとこなれるまでに時間がかかる。あまり品の無い造語は避けるべきだ。文章の品格に通じる。

調子について: 文章術において最も伝え難いのが「調子」であろう。谷崎氏は「文章の調子とは、その人の精神の流動であり、血管のリズムである」と定義する。流暢な調子とは和文の代表である源氏物語の文章をいう。センテンスが長く区切りがない。全体がひとつの流れにあるときは文を切らないし、はじめも終わりもはっきりしない。日本語は最後に来るものが形容詞、動詞、助動詞であり、わけても助動詞が多い。「た」調、「である」調、「のである」調は多用されるとセンテンスの終わりが目立つ。漢文調はリズムが美しく、一種剛健ナリズムがある。志賀直哉氏のように内容を引き締めて簡潔な調子となる。それ以外にも森鴎外の冷静な調子、南方熊楠氏の飄逸な調子、ごつごつとした調子などが挙げられている。

文体について: 「文体」とは文章の姿、形態ということであるが、殆ど「調子」に同じである。同じ事を文章の流れからみると「調子」であり、状態と見れば「文体」ということである。様式を標準にして、文章体、口語体、和文体、和漢混淆体と分類される。現在使われている文章は口語体ひとつしかない。明治の中頃までは「雅俗折衷体」という文体もあったが今や失われて久しい。口語体をさらに分類すると、講義体(のである)、兵語体(であります)、口上体(ございます)、会話体(さ、ね・・)となるが、会話体には男女の言葉に違いがあり、言い回しが自由で、終わりの音に変化をつけて感情や微妙なニューアンスを伝えるなどの利点があり小説には多用されている。

体裁について: 「体裁」とは文章の視覚的要素を指し、振り仮名・送り仮名、漢字および仮名、活字形態、句読点の事である。言葉は不完全なものなので、視覚的に訴える事をフル動員して表現の不足を補うのである。漢字をどう読ますかで文章の印象が変わってくる。芥川龍之介は総振り仮名(総ルビ)を唱えたが、漢字の多い文章では、文の流れを妨げ窮屈な感じがするので問題がある。しかし和文調で漢字の少ない文章には総ルビで読み方を示すのは構わない。そして今も猶難しい問題に送り仮名があり、矛盾と違和感は避けられない。結局日本語の文章は、読み方がまちまちになる事を防ぎきれない。そこで谷崎氏は読み方の解決は放棄し、「文章の視覚的および音楽的効果としてのみ取り扱う。語調、字面からみてそれらの内容の持つ感情と調和させるように使う」と主張する。句読点とは「、」、「。」、「・」、カッコ「 」、疑問符「?」、感嘆符「!」、ダッシュ「ー」、点線「・・・・・」の8種類のことである。谷崎氏は西洋文法を避けて日本の文章はセンテンスの構成を必要としないので、ひとつのセンテンスと認めればいくら長くとも「。」や「、」は本来無くてもいいとする。句読点というものも仮名使いと同じく、到底合理的には扱いきれないという。そこで谷崎氏は感覚的効果と命名して、調子のよい一と息入れたいところに打てばいいのだという。概して谷崎氏の文章は長い。これほど息の長い文章は今日ではむしろ異常であって、ブツ切れ文章が多いのも時代のなせる趨勢かもしれない。

品格について: 「品格」(優雅な心)とは礼儀作法の事で、具体的には敬語の使い方を指す。谷崎氏は文章の上で礼儀を保つには(こういう言い方も今ではじゃやらないが)、饒舌を慎むこと、言葉使いを粗略にしないこと、敬語や尊称を疎かにしないことであるという。饒舌を慎むこととは、はっきり物を言わぬこと、意味のつながりに間を置く事である。日本語の特色(言いか悪いかは別にして、価値観の問題なので)には己を卑下し、人を扱う言い方だけは実に驚くほど種類が豊かで、複雑な発展を遂げてきた。源氏物語は敬語から誰の発言か、誰のことをいっているのかという距離感が判別するので、主語を必要としなかった。敬語の動詞・助動詞は美しい日本語を組み立てる要素のひとつである。

含蓄について: 「含蓄」とは「品格」のなかの「饒舌を慎むこと」に当たる。文章を削り落として、なお意味が通じるだけにして読者に余韻と想像を喚起することである。少なくとも主核・所有格・目的格の名詞代名詞を省いた方がいい場合が非常に多いという。喜怒哀楽の感情やおおげさな所作・表情・ステレオタイプな表現、無駄な形容詞・副詞を省くことである。文章を書くために、反語的になるが言葉を惜しんで書くという事である。



3) 中村真一郎著 「文章読本」 (新潮文庫 1982年)

丸谷才一氏はその「文章読本」において谷崎潤一郎氏の「文章読本」を傑作として上で、わざわざ註を設けて「ただし中村真一郎氏の文章読本の前半はすこぶる示唆に富んでいて、この前半に関するかぎり、川端や三島の本と同格に扱うわけには行かない。」といっている。しかし私にとって中村真一郎氏(1918−1997年)の作品は記憶に残っていない。そこで中村真一郎氏のプロフィールを勉強する。中村真一郎氏は東京帝国大学の仏文科を卒業し、堀辰雄、加藤周一や福永武彦らと知り合った。早くから創作を志し、福永・加藤たちとともに「マチネ・ポエティク」のグループをつくり、押韻定型詩の可能性を追求した。『死の影の下に』から始まる長編五部作は、中村を戦後文学の旗手の一人として認知させることになった。60年代から70年代前半にかけて、『源氏物語の世界』『王朝文学論』『建礼門院右京大夫』『日本古典にみる性と愛』評伝『頼山陽とその時代』などの古典評論も刊行した。王朝文学からはじまる日本文学史全体を視野に入れた、『色好みの構造』『王朝物語』『再読日本近代文学』などの作品を生んだ。遺作となった『木村蒹葭堂のサロン』にいたる創作活動は、最晩年には性愛の意味を文学的に探った『女体幻想』となった。中村が最後まで関心をもちつづけたのが、小説の方法であった。欧米の「20世紀小説」と呼ばれた文学動向に関心をもち、それを日本語の小説に生かすことを、終生の課題とした。大衆小説家というよりは、学者肌のひとであった。したがって本書「文章読本」の前半はたしかに文章読本のようなものであるが、半ば以降はいわば日本近代文学史というべきものである。

1) 口語文の成立ー口語文による小説の誕生(明治中期)

考えること、話すこと、書く事の3つの仕事は繋がっている。先ず考えるということは言葉を論理的にならべることで、意識の流れはそのままでは支離滅裂で、脈絡と繋がりに乏しいもので、これを論理的に整理し取捨選択して言葉を並び替えることである。意識下の表象の流れをそのまま綴った前衛的な作品として、ジョイスの「ユリシーズ」は考えるということの最も根本的な状態を言葉に変えたものである。もっと分かりやすくするには、不要な物を省き論理的に整合するように、言葉を並べ替えなければならない。考えるから話すために整理が必要で、さらに話すから書くへと移るにはさらに再整理が必要である。こうして書く言葉は精錬され、合理的になり美的要素も加えて固定化されるものだが、話す言葉は絶えず社会の変動に伴って変化してゆくものだ。江戸時代の言葉でいえば、学者・文人の書く言葉は「文語体」であり、庶民の話す言葉は「口語体」として落語などで話される言葉となり、両者の交通は不可能となっていた。明治中期から標準語としての国語が創設され、話す言葉に近い言葉で文をつくる「口語文」の試みが始まった。その際に手本となったのが西欧の国語で、普遍的論路的な言葉を口語的表現に翻訳することで新しい口語文を作ろうとした。幸いなことに日本では普遍的言語として漢文を持っていた。西洋文化の言語を翻訳するときに漢文の単語で置き換えたのである。特に学術の分野では抽象概念(法律、自由など)を現す言葉は殆ど西洋語の翻訳語で、日本語としては「てにおは」だけということもっまあったようだ。論理的な近代日本語はまず漢文の書き下し文の形で始まった。それが近代の「文語体」として定着した。こうした時代の近代の文語文は漢文読み下しの骨格に、西洋言語の翻訳語である漢語をはめ込んで作られた。

明治の作家達は「言文一致」をスローガンとして様々な実験を行った。その最初の成功例は二葉亭四迷のツルゲーネフの翻訳小説であった。そして「浮雲」で四迷は江戸伝来の戯作調に引き摺られた名調子を工夫している。また落語の速記録が出版され江戸話し言葉が、口語文の見本ともなった。尾崎紅葉の「金色夜叉」がベストセラーになったのも、地の文の名調子にあるとされる。大衆は名調子の話し言葉を愛したのだが、口語文の成立は、その文章から踊るような調子を排除していった歴史である。口語文は四迷の実験から出発し、それが客観的で冷静な自然主義的描写の方向へ発展した。田山花袋の「蒲団」は日常的で平易な散文であり、冷静に心理を表現することが可能とした。島崎藤村の「春」も、話を聞いているように平易に語られ、古典への連想を断ち切って、本来言葉が持っている意味だけを使うことが自然主義の文章革命となった。自然主義文学とは「私小説」のことで、人間の気持ちが自然に描かれているが、通読小説はこの冷静さより空想や耽美な匂いを描いた作品が、泉鏡花の「歌行燈」であった。古歌取りのパロディ仕立てという、古典的伝統手法によって成立している。鏡花は口語文で書きながら江戸末期の文体と調和を図っているのである。五七調の謡曲の文にも通じている。

2) 口語文の完成ー森鴎外・夏目漱石と幸田露伴(明治末期)

自然主義を中心び形成されていった「文壇」の気風は次第に純化してゆく過程で、抽象語を敬遠するようになった。この漢文書き下し調の文語文を口語の中へ如何に吸収するかという方向が、つまり「考える文章」と「感じる文章」との総合が近代口語の文章として完成させたのである。その代表者が森鴎外と夏目漱石の二人である。森鴎外は西欧の小説を文語体に翻訳する実験を「即興詩人」で行った。この文体は漢文ではなく和文「擬古文」であった。初期の森鴎外は江戸時代の和文を発展させて近代文学の文体を作ろうと考えた。「舞姫」でも同じ試みを行なったが、意に沿わなかったのか小説を書く事を止めてしまった。明治時代も終り近くなって森鴎外は学者的文体と作家的文体の統合を易々とやり遂げた。対象は庶民ではなく知識階級を相手に、抽象語や擬音語も自由に使い自由闊達な口語体(ちょっと硬いが)を完成させた。ついに鴎外は端正であると同時に自由で正確な、いかなる感慨をも表現できる文体を作った。鴎外は西欧語に学んだ口語体と漢文に学んだ文語体とを統一して新しい気品に満ちた古典的口語体を発明したようだ。この文体は晩年の史伝「渋江抽斉」に結実するわけである。「鴎外の文は堅く、漱石の文は軟らかい」といわれる。石見地方の武士の出である?外は、方言よりは維新後に急造された標準語によってそれを洗練させる方向をとった。したがって肌の温かみのある話し言葉の生命からは切り離されたものになった。芥川比呂志がいうように?外の脚本の言葉は俳優は喋れないということだ。

それに対して江戸生まれの庶民である夏目漱石が軟らかいのは、その文章が話し言葉から直接生命を汲んでおり、江戸の庶民の日常語を基礎としたものであったからだ。「吾輩は猫である」、会話体をふんだんに使った「二百十日」は極めて口語的、日常の話術的で、冗談と本気の間を行ったり来たりする自由さを獲得している。そして漱石は「虞美人草」に至ってあの華麗な文体に転じた。自然主義文学者hらが田舎出の文士の口語体にはぎこちなさが付きまとったが、漱石は平易で華麗な文体を生んだ。「道草」の文体は平静で客観的、「硝子戸の中」では客観的表現の中にも心理がたくみに表されている。「明暗」では稀薄に満ちた緊張した文体まで似到達したといわれる。鴎外・漱石らがいずれも西洋文化から新しい文章を作るとき、普遍的な欧文の文法と東洋の普遍的漢文の文法の共通点から出発した。ところが幸田露伴は伝統的な表現法から現代口語文体を引き出すことに成功した。「五重塔」には職人の語り口のような自然さと変幻自在の流動性がみられる。これは江戸戯作者の文体の延長にある。和文という文語体の口語体への接近には装飾過多と調子が残っており、「運命」で自由な漢文調と口語文との調和を図った文体を発明した。

3) 口語文の進展ー自然主義文学 白樺派と芸術派(大正時代)

戦後、正宗白鳥氏は「自然主義盛衰史」という文学同時代史を書いて、自然主義文壇文学者らが発明した「一元描写」法、つまり主観を廃し客観的な描写「写生文」だけから構成した文体の成長を回顧した。「自然主義初期の三尊」として、藤村、花袋、独歩の名を挙げている。独歩の「武蔵野」は漢文調を交えて論理的であると同時に浪漫的な感動をたたえた名文である。後年自然主義の「私小説」が次第に陥った不健全な世界とは無縁であった。花袋は晩年の「百夜」において描写主義の極致としてやわらかな詠嘆に満ちた文章を完成させた。藤村は大作「夜明け前」は信州人の意固地な語り口は見事な散文となった。人はこれを「ぶった文章」というが藤村のまじめさを表すもので都会的な洒脱さがないだけのことである。鴎外と漱石らが完成させた口語文に、飛躍的な進展をもたらしたのが大正初めの「白樺派」の作家たちであった。武者小路実篤の「幸福者」は若者らしい明快な文体は文壇に天窓を開けたような新鮮な感激を与えた。有島武郎の「或る女」ハイカラで精致な文章は、西洋人が日本語で文章を書いたかと見間違うばかりである。この文体革命は戦後のアプレ世代の文章のようであった。大正時代の最も完成した美しく正確な口語文を作った志賀直哉の「暗夜行路」は、主人公の心理から生活まであらゆる側面を客観的に描き出すことに成功している。白樺派の文体は志賀直哉の文に極まった観がある。里見敦だけは泉鏡花の影響を受けて高座の語り口のような芸術であった。

口語文の完成者としての漱石の文体は白樺派に受け継がれたのであるが、鴎外の文体は文芸専門集団いわゆる芸術派の文学者に引き継がれた。永井荷風は終生軽薄な文明と文壇を嫌っていたが、はたして口語文が文学足りうるかという疑問を抱き続け得た小説家であった。永井荷風は森鴎外に見出されて三田文学を創設し、長い西欧体験のあとで江戸趣味に基づいた深い文体感覚を持つに至った。「つゆのあとさき」、「日和下駄」のようにいかにも東京育ちのお坊ちゃまらしい座談風の調子の文体を作った。鴎外の文体は話し言葉には無縁であったが、荷風をこれをやわらかな知的遊民の文章とした。永井荷風の劇賞によって世に出た谷崎潤一郎も芸術派に分類される。谷崎は生粋の江戸っ子できびきびした語り口を愛した。しかし谷崎は土着的な江戸文明よりは伝統的な王朝文明に引かれてゆく。「盲目物語」で室町時代の関西の庶民の語り口(聞文)の様な文体を創出した。代表作「細雪」では戦意高揚の役に立たないという理由で軍部から発禁を食らうが、ゆるやかな平安朝時代の雰囲気をつたえる和文調文体で主人公の心理に忍び寄る手口は芸術的である。荷風は谷崎の「細雪」を「鴎外以来の言文一致体の妙文」と讃えた。夏目漱石に最も愛された芥川龍之介は文体の上では鴎外の影響が著しい。もともと詩人的素養を持つ龍之介は殆ど散文詩のような人工的な文体を精錬していった。硬質な古典的な文体はどこか鴎外の史伝に近い。これに対して佐藤春夫は極端な饒舌体を発明し、「妄談銀座」で句読点「。」を何時までも打たない息の長い文を詩作している。

4) 口語文の改革ー詩人たちと新感覚派そして戦後文学へ(昭和時代)

昭和になって詩人たちの詩的散文が象徴詩のように出現した。佐藤春夫の「田園の憂鬱」は感情の横溢から免れた、近代知性が精致に組み立てられた散文であった。なお佐藤の改革は未完で埋もれてしまった観がすると、詩人中村真一郎氏は振り返る。北原白秋は抒情小曲集「思い出」で豊富な言葉の魔術師は多くの若者の心を捉えた。木下杢太郎、吉田一穂、萩原朔太郎などが散文詩を継いだ。第1次世界大戦が終ると、いわゆる大正ロマンという時代になって伝統への反逆と破壊の運動に日本も世界と同時代的に参加した。新感覚派の一群が日本語の改革に取り掛かった。堀口大学、稲垣足穂、川端康成、中河与一、片岡鉄平、池谷信三郎らが彗星のように現れ、横光利一は「日輪」で従来の日本語の常識を無視した作品を生んだ。横光を評論家は「新感覚派」から「心理派」への転身と評した。さらに、吉行エイスケ、堀辰雄、安倍知二、伊東整らが後を継いだが、日常言語との乖離に苦しんだなかで、川端康成は長く文体実験を指導したといわれる。第2次大戦が終戦を迎え日本が米軍によって占領され、前代未聞の政治改革の中に入った。その中で文学や思想や読者層が飛躍的に増大した。戦後の文体は、野間宏「崩壊感覚」、武田泰淳、椎名麟三、福永武彦、鳥尾敏雄、吉行淳之介、大岡昇平、三島由紀夫、安倍公房など戦争直後の文学世代の様々な取り組みの中で大きな変革を受けた。旧世代の文壇の想像を絶する、話し言葉からより若い世代の動きが始まった。庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」、井上ひさし、小田実、大江健三郎らは話し言葉と行動の一体化を志し、書く事と社会的意味との同一化が進み、いわゆる文壇は消滅して久しい。



4) 三島由紀夫著 「文章読本」 (中公文庫 1973年)

三島由紀夫氏(1925-1970年)は小説家・劇作家であるが、1970年11月25日自衛隊市ヶ谷駐屯地において三島事件を起こし割腹自殺を遂げた右翼・民族派運動で有名。東大法学部を卒業し、大蔵省に入省した後文筆活動に専念した。代表作は小説に『仮面の告白』、『潮騒』、『金閣寺』、『鏡子の家』、『豊饒の海』四部作など。戯曲に『サド侯爵夫人』、『近代能楽集』などがある。批評家が指摘するように、人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴である。三島由紀夫氏の「文章読本」は昭和34年(1959)雑誌婦人公論別冊付録で刊行された。中央文庫本は昭和48年(1973)に刊行された。本書の目的を、誰にでも文章が書けると思う素人文学を揶揄して、読む側からの「文書読本」というスタンスをとる。三島氏は本書の結語で「文章の最高の目標を、格調と気品に置く」という貴族主義(ブルジョア趣味)をモットーとした。三島氏はチボールの言葉を引用して「精読者は、ほんとうに小説の世界を実在する者として生きてゆくほど、小説を深く味わう読者のことである」といって、この本で読者を精読者に導きたいというのである。三島氏は、あらゆる様式の文章の面白さを認め、あらゆる様式の美しさに敏感である読者を期待するのである。本書には小説家の作品からの引用文が極めて多く、地の文は引用文を紹介するか、その導入をかざる枕詞に過ぎないような感じがする。要するに名文を味わえということに尽きるようだ。そこで引用文は紹介せず、地の文だけで論旨を追うことにした。

1) 文章さまざま

「日本文学の特質は一言で言えば、女性的文学といってもいいかもしれません」とまず三島氏は切り出すが、平安時代の文学だけで言えばそうかもしれないが、物事はそう単純ではなく、すぐに次のように修正している。「日本人は男性的特質、論理及び理知の特質をすべて外来の思想に待った」という。とすれば奈良時代には古事記・日本書紀・万葉集を編纂し、神話から歌謡、政治・社会・歴史まで幅広く表現していたと考えられる。「古来の日本人は色恋しか頭になく、抽象概念はすべて外来思想から学んだ」という極論には多少修正が必要だ。日本語には漢詩のような頭韻・脚韻に類するものは存在せず(敢えてつければ語呂合わせに過ぎず、美的とはいえない)、ただ、七・五調ないしは五・七調は長らく語り物の伝統的リズムとなっていた。これを韻文と言ってもいいのだろう。他方散文は和歌の詞書から発達し、伊勢物語という歌物語が散文的小説の初めとなった。語りの文章は平家物語など戦記物に引き継がれ、江戸時代の文芸にも散文と韻文が混淆している。日本で和文といえば、散文と韻文をそれほど区別する必要は無い。散文といえど日本語には明晰さ・論理性を示す手法は貧弱で、物事を際立たせるよりはものごとの漂わす情緒や雰囲気を見せる場合に秀でている。漢字という東洋の普遍文字を知ってから、その視覚的効果と聴覚的効果、意味の多様性と構成性が日本語の習性となってしまった。素晴らしいツールを学んだのである。明治の二葉亭四迷以降、日本語の文章は口語文を基調として革命的変化をとげた。西洋の文物の吸収という実利的目的のため翻訳文が口語体に影響し雅文体を駆逐した。日本語は以来変遷極まりない。第2の革命期はアメリカ軍の占領による民主主義の到来であった。加藤周一氏もいうように、日本文学史は3回(漢文化、西欧文化、アメリカ文化)の外国文化の到来によって区分される。西洋の普遍的言語の抽象概念は日本人がいままでもっていた漢語の新しい組み合わせで新しい概念を表現した。しかし日本には漢文の影響から来る極度に圧縮された表現や、和歌俳句からくる先鋭な情緒表現という伝統も現代文学に受け継がれており、日本人特有の思考の独特な観念的混乱が生じた。一筋縄では行かぬ文化的多様性が生まれたといえる。

2) 小説の文章

明晰な和漢混交文の名文として森鴎外の「寒山拾得」、情緒的な和文調の代表として泉鏡花の「日本橋」の1節を挙げる。泉鏡花の文は「次々と色彩的文体によって翻弄され、一種の理性の酩酊に落ち込む」という。同時に鴎外の文は短篇小説の文章であり、鏡花の文章は長編小説のそれである。鴎外の文章は明晰を宗とするので紙面を尽くすことは無駄であると見られる。鏡花の文章は流れを継続し色彩も散りばめて進んでゆくので、思想的な主題や知的個性も皆無である、物語の世界を長々と展開することができる。平安朝文学の延長線上にある。谷崎潤一郎氏の小説「細雪」もそうである。西欧の近代詩人が詩で表現しようとしたものを、日本の作家達は短篇小説で表現した。詩人といってもいい、川端康成「夏の靴」、「しぐれ」、堀辰雄「ルーベンスの偽画」、梶井基次郎氏「蒼穹」、典型的短編小説作家であった芥川龍之介「将軍」らがその代表であった。源氏物語の伝統を持つ長編小説は、筋に拘泥せずものに捉われない文体が必要であるが、日本作家では極めてすくない。ドストエフスキー、バルザックらの西欧の長編作家に比べると巨大なエネルギーと鷹揚な鈍感さを持ち合わせていない。

3) 戯曲の文章

小説の文章と戯曲の文章とは大きく異なるのは当然で、小説では地の文で状況や人物の心理を解説し、適当な会話体を挿入すれば効果を生む。しかし戯曲では解説者はいない。会話だけで状況から心理から筋の展開や想像までを表現しなければならない。日本にはドストエフスキーの「カラマンゾフの兄弟」に見られるような会話の伝統はない。舞踏する劇的な会話は避けられ、写実的会話を挿入するに止まる。そこへ岸田国士「チロルの秋」、久保田万次郎氏は日本の戯曲に日常会話から離れた文体を確立した。その流れは現代でも福田恆存「キティ台風」、木下順次、森本薫氏に受け継がれている。

4) 評論の文章

評論は根が悪口にしろ論理性のある文体でなければならない。しかし日本語には論理性が無いだけでなく、批評の対象が文壇であったりして価値が低いため、深い幻滅を味わうだけとなっている。近代に批評で最高峰はヴァレリーであり、知的で高踏的で優雅な文体で世界を魅了した。小林秀雄氏は文壇を対象とせず、「モーツアルト」において論理的であると同時に伝統的な感覚的思考を展開した。中村光夫氏は「作家の青春」荷風を論じて厳密な論理性のある文体を作った。三島氏は評論家では決してないため、この章での言及はいかにも素っ気無い。

5) 翻訳の文章

明治時代には四迷が始めた翻訳文は翻訳調という直訳めいた奇妙な文体が横行したが、しだいに文学的素養に恵まれた優れた翻訳が出来るようになった。杉捷夫氏「メリメ マテオファルコーネ」、日夏耿之介氏「ランボー アッシャー家の崩壊」の名文を紹介する。この章の言及も素っ気無い。

6) 文章技巧

人物描写の外貌ではフローベール「ボヴァリー夫人」、谷崎潤一郎氏「悪魔」、「嘆きの門」を、人物描写の服装では尾崎紅葉氏の「金色夜叉」、横光利一氏の「寝園」を、自然描写では志賀直哉氏の「暗夜行路」、堀辰雄氏の「美しい村」、武田泰淳氏の「流人島にて」、心理描写ではブルースト「失われた時を求めて」、モーリャックの「テレーズ・デケイルゥ」、行動描写ではホメロス「イーリアス」、「太平記」、森鴎外の「渋江抽斉」を、人称や時制や擬音語、形容詞などの文法の例として、森鴎外の「青年」、織田作之助「夫婦善哉」、岡本かの子「花は勁し」、ブルースト「花咲く乙女たち」の例を挙げてている。


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