2011年5月8日

文藝散歩 

池田亀鑑校訂 「枕 草 子」 
岩波文庫(1962年10月)

藤原道隆と中宮定子の全盛時代を回想する清少納言

藤原摂関政治の全盛時代は、道長の「この世をばわが世とぞぞおもう望月の欠けたることもこともなしとおもえば」の「望月の歌」に象徴される。そして道長のサクセスストーリーは「大鏡」に虚実取り混ぜて描かれている。「枕草子」の背景はこの大鏡に書かれた関白位をめぐる伊周(道隆の子、一条天皇后定子の兄)と道長(道隆の弟、一条の母詮子の弟、中宮彰子の父)の闘いを抜きには語れない。一条天皇は皇后定子(伊周の妹)を非常に寵愛していたので、兄の伊周はいつも天皇の近くにはべっており、何かに付けて道長や姉の詮子皇太后(円融天皇の女御で一条天皇の母)の悪口を云うのであった。こう云う事情で兄粟田殿道兼公の死後、道長が関白となって政治をとることに一条天皇は難癖を付けて許可しなかった。道長の長兄道隆公(定子の父)がなくなった後定子の後ろ盾がいないことを天皇は憂慮されたことによるものであった。しかし姉の詮子はわが子の一条天皇に迫り、道隆の死後道兼公には宣旨を出しながら、道長に宣旨を出さないのは「関白は兄弟順に」と云う道理に合わないと強く意見をした。天皇は詮子をうるさく感じたのか避けていたが、詮子皇太后はある夜天皇の夜の御殿に出かけて泣き落としの説得を続けた。こうしてようやく道長公に内覧(関白扱い)の宣旨がおりた。道長はこのことをいつまでも恩義に感じ、詮子皇太后の葬儀をねんごろに執り行った。この後伊周は大宰府権師に、弟隆家は出雲権守に左遷になった。ついに道長は政敵の一族を一掃して最高位の左大臣に昇進した。そして一条天皇には道長の娘彰子を中宮に入れ、定子を皇后に祭り上げた。その直後定子は失意のうちに亡くなった。権力闘争は天皇の愛人の位置関係にまで及ぶのである。

そして道隆ー伊周−中宮定子らの派閥と道長ー皇太后詮子ー中宮彰子らの派閥の抗争が続く中で、「枕草子」の作者清少納言は中宮定子に仕え、「源氏物語」の作者紫式部は中宮彰子に仕えるのである。従って清少納言は紫式部に猛烈なライバル意識を持ち、紫式部は清少納言を「嫌な女」と嘲笑するのである。別に私はどちらの派閥の肩を持つわけでもないが、権力闘争が道長の権力掌握で決着が付いた後、中宮定子がなくなったので宮中から追い出された清少納言が中宮定子への哀悼の気持ちをこめて、「枕草子」を書いた。藤原道隆と中宮定子の全盛時代の回顧録である。文学のジャンルとしては「枕草子」は随筆として、「方丈記」「徒然草」と並ぶ三大随筆のひとつに位置する。一方「源氏物語」は幼かった中宮彰子の教育のために書かれた創作小説である。道長は彰子の教育のために最初清少納言を取り込もうとしたようだが、肉体関係を持って紫式部に乗り換えたようである。そのため中宮定子付き女房からは清少納言はスパイと疑われて苦悩した。そのことを「枕草子」に書いている。作者清少納言は清原姓の末で歌人深養父を曽祖父とする。深養父は従5位下で終った卑官の身分であった。父元輔は980年従5位上、肥後の守となり83歳で亡くなった。後撰集時代の歌壇で重きをなした。一族には儒家をなす者が多く清少納言の漢文の素養が深いのもここからきている。清少納言は晩年尼となって兄の家に起居したようだ。清少納言は若い頃橘則光と結婚し3人の男の子を生んだ。遠江守となった則光と別れて、歌人藤原実方と結婚した。実方は左中将となり陸奥の守となって転出した。皇后定子の没後、清少納言は老齢の摂津の守藤原棟世の妻となって娘をもうけたが、棟世の死後尼となって余生を送った。中宮定子に仕えたのは993年からで、1000年に定子が24歳で第2皇女の出産後になくなった頃までのことである。清少納言30歳から37歳ごろまで中宮定子に仕えて、その寵を得て「枕草子」が生まれたのである。清少納言の名は清原の「清」と父兄の官名であった少納言による。当時の女性には最高クラスの子女を除き名前はなかったので「・・・・の女」と呼ばれた。「枕草子」は盛時における中宮を中心とする主家(道隆家)への讃美と、高貴な人定子への信愛とに貫かれている。けっして道長派への怨みつらみや不平は明らかにしていない。華やかな思い出だけを記述している。

清小納言は正暦4年(993年)冬頃から、私的な女房として中宮定子に仕えた。博学で才気煥発な彼女は、主君定子の恩寵を被ったばかりでなく、公卿や殿上人との贈答や機知を賭けた応酬をうまく交わし、宮廷社会に令名を残した。藤原実方(? - 998年)、藤原斉信(967年 - 1035年)、藤原行成(972年 - 1027年)、源宣方(? - 998年)、源経房(969年 - 1023年)との親交が窺える。清小納言がいつも素敵な男性と記述しているのが、道隆の長男伊周であった。これは片思いなのか、道長へのあてつけなのかそれは不明である。道長も清小納言へ一時はちょっかいを出したのだ。断られてから紫式部を取り込んだようだ。紫式部日記において、「清少納言こそ したり顔にいみじうはべりける人 さばかりさかしだち 真名書き散らしてはべるほども よく見れば、まだいと足らぬこと多かり かく 人に異ならむと思ひ好める人は かならず見劣りし 行末うたてのみはべれば え心になりぬる人は いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ をかしきことも見過ぐさぬほどに おのづからさるまてあだなるさまにもなるにはべるべし そのあだになりぬる人の果て いかでかはよくはべらむ」と一方的に紫式部は清小納言を酷評している。これは清少納言が宮中を去ってからのことで、当時の二人には接点は無かったはずである。清小納言はけっして中宮定子を不遇に追いやった道長へのうらみごとを述べていない。道隆と定子と一条天皇を中心とした宮廷生活の楽しかった事を回想しているのみである。政治への口出しはしない。これが当時の女の限界である。といっても清小納言の近代的知性はいつも爽快である。「春は・・・」などとリズミカルに謳いあげ、気に入らないものはズバッと切り捨てる。これほどの表現力と頭のさえはモンテーニュのエセーに先立つこと500年前のことであった。

枕草子は長短300余の章段からなるが、内容的には次の3種類を区別することが出来る。第一には「春は曙」、「すさまじきものは」というように事例を列挙した章段、第二は宮仕え中の作者の見聞を日記風に帰した章段、ここに道隆や中宮定子の全盛期の楽しかった思い出が感慨を持って語られるのである。第三は自然や人事にわたる感想や評論の章段である。本文の章段見出しに分類分けを記す。池田亀鑑氏はこの章段の成立時期を第一分類が最初に成立し、第二分類の栄華の回想の章段は中宮定子の崩御後に執筆され、第三分類の感想・評論は作者の老後に執筆にかかるものと考えておられる。枕草子は知性によって支えらた「おかしの文学」といわれ、「源氏物語」は「あわれの文学」という風に理解されている。いずれも10世紀末の宮廷サロン(道隆・伊周ー中宮定子ー清少納言、道長ー彰子ー紫式部)という閉鎖的な小集団内で語られた物語である。本居宣長が源氏物語を「あわれ」で規定したため、国文学では源氏物語だけが有名になった。巻末の跋文によれば執筆の動機および命名の由来は、内大臣伊周が妹中宮定子と一条天皇に当時まだ高価だった料紙を献上した時、「帝の方は『史記』を書写されたが、こちらは何を書こうか」という定子の下問を受けた清少納言が、「枕にこそは侍らめ」と即答したので、「枕草子」の名もそこから来るというのが通説である。「枕」の意味はメモという意味が主流の解釈である。初稿の成立は同じく跋文によれば996年(長徳2年)頃で、左中将源経房が作者の家から持ち出して世上に広めたが、その後も絶えず加筆された。この章段の並べ方は時間軸でもなく、内容別でもなく、誰が並べたのかは知らないが混沌とした配列である。その間にいろいろな異本が紛れ込んだ恐れも多い。この池田亀鑑更訂岩波文庫本は、底本を三巻本に属する岩瀬文庫本、柳原紀光自筆写本である。伝本間の相異はすこぶる大きく、例えば「三巻本と能因本とでは、作者を別人とするしかないほどの違いがある」と云う人がいるほどである。そして枕草子の配列について提言したいが、自分には能力は無いが並べ替えをすればもっと分りやくなるに違いない。例えば歴史的事実が判明している内容については年代順に並べること、第2に内容が連続しているものは一緒に並べること、「春は曙」式の文章は時代・内容的に全く別物と考えられるので一まとめの第3部にくくるなどである。底本をいじくることは考証家には出来ない相談なので、誰か門外漢が並べ替え「枕草子」を書いてくれないかなと期待している。そうすると欠けている部分が判明したり、多くの段に分裂していている内容をひとつの段にできるのではないか。

[1] 「春はあけぼの・・・」 第1類

春はあけぼの、夏は夜、秋は夕暮れ、冬は早朝と清小納言の美意識が次々と繰り出される。価値判断は人それぞれで何をどう思うかはその人の勝手であるが、これほど小気味よい文章はまれであろう。

[2] 「頃は・・・」

この章段は独立していない。目次みたいなものであるが、次章以降の項目は1月から4月までで、本当は1月から12月までの章段が存在したのだろうが大きく欠損している。本文と切り離されて混入したものと思われる。同じような「頃は」という記述は外にもある。バラバラになったのか、偽作が混入した形跡もある。

[3] 「正月一日は・・・」 第3類

元旦、7日、15日の宮中の正月の行事を記している。中でも面白いのは15日の節句(おせち)の時、女房のお尻を粥の棒ではたく風習があった。(安産のおまじないか)逃げ回ったり、うまく油断させてはたく策略を弄するなどの様子が描かれている。また9日の徐目(人事異動)の日、買官運動の苦労や地方官(国司)を命じられた人の喜びなどが語られる。

[4] 「三月三日は・・・」 第3類

桃の節句はうらうらとのどかに照りわたる。桜の直衣に出袿姿で桜見に浮かれ出でるのが素敵。

[5] 「四月、祭りのころ・・・」 第3類

葵祭り(今日は五月)の日近く、皆衣装較べで繰り出すところが都の華やぎである。当時のファッションとは色の組み合わせの妙を競うことである。

[6] 「おなじことなれどもきき耳ことなるもの・・・」 第3類

同じ言葉でも聞く方の感じ方で異なるもの、男、女、法師のことば。下衆の言葉はくどい。

[7] 「おもわん子を・・・」 第3類

可愛い子を法師にすると、しつけが厳しくて可哀そう。最近はそうでもないけどと注釈がはいっている。

[8] 「大進生昌が家に・・・」 第2類

この話は大分後ろの頃になる。枕草子の章段の並びは決して時系列ではなく、むしろランダムに混乱しているというべきで、小冊子がいくつもあってそれが後年の人によってまとめられたようだ。今日では1冊に綴じられれば順序は明白であるが、当時は順序は無く無造作に小冊子が多数散在していたということになる。さて本文に入ると、道隆はじめ藤原家の主だった人が伝染病でなくなって、関白位は兄弟の順で継ぐべきと主張する4男の道長が急速に勢力を増し、道長はついに道隆の息子伊周を謀略で罪びとにして大宰府へ流し、道隆の家である二条の屋敷を打ち壊した。中宮定子は第2皇女を懐妊中で里へ下がろうにも実家が存在しなかった。そこで中宮職のナンバー3である大進生昌が家に移るようにという道長の指示があったようだ。大進生昌が家に移る時のようすがこの章段である。中宮が北の門から入り、女房らは東の門から入ったが、門が低くて御輿が入らず女房達は車から降りてぬかるんだ庭を歩いてゆかざるを得なかった。清小納言らは生昌を呼んで抗議すると、身の程に合わせて門を作ったと言い訳をするので、高い門を作る故事を引用して言い負かしたという話である。いかにも道長の中宮に対する粗略な扱いが見え透いてくる。なぜならすでに道長は中宮定子を皇后に祭り上げ、一條天皇に自分の娘彰子を中宮に入れることになっていたからだ。清少納言はけっして道長へ直接的に言及はしないが、その手下である人間には徹底的に反抗する態度を示すのである。あまりに生昌の言辞を追及するものだから、生昌は逃げ回りおびえている様子が面白い。

[9] 「うえにさぶらう御猫は・・・」 第2類

一條天皇は猫好きで「命婦のおとど」という猫を懐に入れて可愛がっていたそうだ。ある日縁側にでて眠っていた猫を脅して内に入れようととした御乳母が「翁丸」という犬をけしかけた。おびえた猫は御簾に逃げ込んで天皇の懐に飛び込んだ。天皇は蔵人を呼んで犬を捕まえ島流し(犬捨て場)を命じた。御乳母も交代させられた。数日たってやたら犬の鳴き声がしたので、蔵人二人が打ち懲しめて棄てたが、夕方また悲しげな犬の鳴き声がした。中宮は哀れんで犬に食べ物を与え養生し、天皇の許しを請うて元のようになったという話。この話の裏には、大宰府に左遷された清小納言の憧れの人伊周への想いが被さっている様であると云う見解がある。

[10] 「正月一日、三月三日は・・・」 第1類

1月1日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日の節句の日の天気の事を述べているが、たまたまそうであったのか、それともそうある事を願うのかどうもはっきりしない。たまたまそうであったという考えは、後で思い出して書くことにしても正確には覚えていられないし、確率としてそういう天気の日が多いとも考えられない。そうある事を願う記述とすれば日日と美意識に相関性がない。どうもよくわからない章段である。

[11] 「よろこび奏するこそ・・・」 第3類

正月の昇進のお祝いのため、午前を向いて下襲の裾を長く引いて舞をまうのが華やかだという。

[12] 「今内裏のひんがしをば・・・」 第3類

内裏の東にある北の陣のまえに梨の木があった。権中将源成信はこれを切って扇にして定澄僧都にプレゼントしたいとおっしゃっていた。定澄僧都が興福寺の別当に昇進した御礼に権中将源成信を訪れたが、扇をお渡しするのを忘れてしまったというお話。これは清小納言の記憶力を誇る話になっているようだ。

[13] 「山は・・・」 第1類

小倉山以下、列記ものでは最初の頃はまじめな固有名詞の名前が列記されるが、途中から本当にそんな名前の山があるのかなというようなふざけた名前に変化してゆく。この言葉遊びがおもしろい。これも駄洒落の世界かな。

[14] 「市は・・・」 第1類

大和の国の市の名が列記される。

[15] 「峰は・・・」 第1類

ゆずるはの峰など。

[16] 「原は・・・」 第1類

みかの原など。

[17] 「淵は・・・」 第1類

かしこ淵など。

[18] 「海は・・・」 第1類

よさの海など。

[19] 「みささぎは・・・」 第1類

鶯の陵など。

[20] 「わたりは・・・」 第1類

しかすがの渡りなど、すべて不詳。

[21] 「たちは・・・」 第1類

太刀はたまつくりのみ。

[22] 「家は・・・」 第1類

近衛の御門など名家の屋敷を列記する。

[23] 「清涼殿の丑寅のすみの・・・」 第2類

のどかな春の内裏に、昼食時天皇・中宮を中心として歌あそびがはじまる。記憶している歌を書けという。清小納言とならび称せられた才女藤原の重輔の娘「宰相の君」らあまた女房らが歌をさしあげる。村上帝の時、宣燿殿の女御は藤原師尹の娘であったころ父に言われて古今集を全部覚えたという。帝は間違いを見つけてやろうと古今集を片手に歌問答を繰り返して、決して覚えていない句はなかったという故事が引用されている。

[24] 「おひさきなく・・・」 第3類

女の職業としての宮仕えと身分制度(階級制)の虚実を複雑に表現しており、結局何が言いたいのかよくわからない。清小納言のような受領階級(下級貴族)出身者は身分制度の中間に位置するので、上に憧れ、下を馬鹿にし、男の軽蔑の目の中で生きてゆかなければならない。そういう意味で清少納言は上昇志向を持つ女と見られている。

[25] 「すさまじきもの・・・」 第1類

うんざりする(がっかりする)ものとして、昼吼える犬、春の用済みの網代、牛に死なれた輿の牛使い、産児をなくした産屋、火のない炭櫃、女の子ばかりの家、方違え(物忌み)で厄介なった家がご馳走しない、他国からの文にお土産が付いていない、必ずやって来る男を迎えにやったが来ない、文をやっても返事がないか物忌みとか称して手紙を受け取らない、婿に迎えた男がやってこない、思う人が来たのかと思うとくだらない男がノックする、修験者がいくら祈っても効果がなく諦めて帰ってしまう、除目で官を得られなかった家、お使いにご祝儀を出さない家、婿を取って45年たつのに子供が生まれない、子供が一杯いるのに親が昼寝をしているなどなど、うざったいと感じられるようです。

[26] 「たゆまるるもの・・・」 第1類

だらけてしまうものとして、精進の日の長い善行、寺に長く籠ること、先の長い準備など。

[27] 「人にあなづらるるもの・・・」 第1類

人の侮りを受けるものとして、築地の崩れ、お人よしと人に見られる人。

[28] 「にくきもの・・・」 第1類

いらいらするものとして、急ぐことがあるときとき長話する人、硯のなかに髪や石が入ってきしきし鳴ること、急病人が出て修験者を呼ぶとなかなか来なくてすぐに居眠りする奴、なんてことない人がべらべら喋る、火鉢を占領して手をあぶ打っている年寄り、酒飲んで騒ぎ人に無理強いするやつ、嫉妬して噂話を喋るひと、話を聞こうとするときに泣き出す赤ん坊、鴉が集まってガアガアとうるさいこと、忍んでくる男に吠え立てる犬、男の鼾、忍んでくる男が烏帽子を簾にぶつけたり遣り戸を乱暴に開けて音をだすこと、眠い時の蚊の羽音、ギーギー音を出す牛車、会いたくないとき嘘寝をしているのに起こしに来る奴、新人の癖に差し出がましい口を聞く、出来た男が昔の女の自慢をする、クシャミしておまじないをする、犬の遠吠えなどなど。

[29] 「こころときめきするもの・・・」 第1類

胸がどきどきするものとして、雀の子、いい男に道案内させる、誰を待つわけでもないのに髪を洗って化粧し香のわたった衣装を着ること、待つ人があるとき雨の音風の吹くさまに驚かされる。

[30] 「すぎにしかた恋しきもの・・・」 第1類

過去が思い出されてジーンとくるものとして、華やかだった葵祭りの枯れた葵、幼いころの人形遊びの調度品、昔読んだ草子のなかから栞にした布キレが見つかる、いい人からの手紙を雨の降る日に見つける、昨夏の扇など。

[31] 「こころゆくもの・・・」 第1類

満足できるものとして、よく書けた大和絵に言葉が多く付いているもの、祭りの帰り男が一杯ついて牛車をうまく走らせること、白く綺麗な陸奥紙に文の書いてある、きれいな糸を練り合わせたもの、上手な節回しの陰陽師が河原でお払いをする、夜寝起きて飲む水、あまり親しくもない友達が来て世間話を心よく語る、寺・神社で祈願するとき、禰宜・法師のさわやかに滞らず述べるのを聞くもの。

[32] 「檳榔毛は・・・」 第3類

輿車は高級車の檳榔毛はゆっくりとやり、普通車の網代は飛ばす、さっと人の門先を通り過ぎるのが素敵、のろのろ行くはダサイ。

[33] 「説教の講師は・・・」 第3類

説教の講師は顔がよくないと誰も聞く耳を持たないしありがたみもない、六位の蔵人が任期が切れて五位となりぶらぶらして説教の場で話も聞かず車整理などしている、一寸遅れてきた若い人が狩衣姿で車で乗り付け高座近くにすわると講師も張り切って説教をする、そんな説教の場にぜんぜん行かないのもおかしいのというお寺参りのお話。説教を聞くことは宗教心よりレジャーだったのだ。

[34] 「菩提という寺に・・・」 第2類

菩提という寺に結縁の八講をしにいったとき、「早く帰ってきて」という連絡が入ったが、「どうして憂世に帰れますか」という返事を差し上げた。

[35] 「小白河という所は・・・」 第2類

小白河は、小一條の大将(左大臣師尹の次男済時)の御家のことで、6月の暑い日にそこで結縁の八講が行なわれた。朝早くから大臣を初め上達部のくるまが所狭しと押しかけた。枕草子は現代のファッション雑誌のように衣装の記述(とくに色彩の組み合わせ)に異彩を放つが、今回は男性の衣装の紹介であるが煩雑なので省略する。清小納言が仕えた中宮定子の位置関係を知るため前後の天皇家と藤原家の系譜と記しておこう。
[天皇]  @村上ーーーA冷泉ーーーC花山
               B円融ーーーD一條
[藤原家] 基経ーー忠平ーー師輔ーー兼家ーー道隆−−−伊周、隆家、定子
                  師尹         道兼
                              道綱
                              道長−−−頼道・・・・・・彰子
日が高くなってから関白道隆のお出ましである。そして義懐の中納言(摂政伊尹の5男)、藤大納言(師輔の9男為家)、佐理の宰相(藤原佐理、三蹟のひとり)、実方の兵衛左ら公達が勢ぞろいした様は今の権勢を示していた。花山天皇の母は義懐の中納言の妹で、父が亡くなっていたので義懐の中納言が一番勢いを持っていた。そこから謀略で権力を奪ったのが関白道隆である。18歳の花山天皇を騙して出家させ、自分の娘定子を入れた一條天皇を即位させた。それから関白道隆の天下となった。関白道隆と弟二人が伝染病で相次いで亡くなると、関白継承権は弟道長にありと主張し、謀略によって道隆の息子二人(伊周、隆家)を追放して権力を手にした。叔父ー甥の争いこういうことの繰り返しが政治権力というものであった。

[36] 「七月ばかりいみじうあつければ・・・」 第2類

七月の暑い夜はあけっぱなしで寝るのであるが、ふと目が醒めて闇と明方に驚かされる。ベット(几帳)は三尺、男が出て行った後はしどけなく寝くたれている様子を遠慮しなくていい間柄の男に覗かれている様子で「結構ななごりの朝寝ですね」と冷やかされて、不貞寝を続けたというなんともだらしない艶なるシーンである。枕草子には清小納言のベッドシーンは結構多く記述されている。そういう意味では宮廷の男女関係はルーズであった。

[37] 「木の花は・・・」 第1類

紅梅、桜、藤の花、橘の花は素敵な花、梨の花はうんざりするとか愛嬌のない女の顔とか散々にけなし、桐の花はいいのだけれど葉っぱが仰々しく大きくて嫌だとかいう。

[38] 「池は・・・」 第1類

磐余の池、猿沢の池、贄野の池は分るが、水なしの池、おまえの池、かみの池などは不明。

[39] 「節は五月にしく月はなし・・・」 第1類

五月の菖蒲の節句が一番素敵という話。菖蒲・蓬で屋を葺きわたし、中宮では御薬玉を糸で下げて御帳台の柱につけておく。節句の御膳係りの若い女は菖蒲を腰衣装に挿し、小舎人の童に抜かれて泣きを見る。紫の紙に書いた文を菖蒲に結んだり、文の中に菖蒲を入れたりいろいろな楽しみがある。

[40] 「花の木ならぬは・・・」 第1類

花の咲かない木として、かへで、かつら、五葉、たそばの木、まゆみ、楠木、檜、あすはひの木、ねずもちの木、椎の木、山橘、山梨の木、常磐木、白樫、柏木、あすなろの木など列記している。あとのほうになると、木の面白さよりもむしろ言葉、歌、故事にからむ木をピックアップしているようだ。

[41] 「鳥は・・・」 第1類

鸚鵡、ほととぎす、くいな、しぎ、都鳥、鶸、山鳥、鶴は格好は悪いが声がいい、雀、班鳩、鷺はみぐるしい、鶯は声かたちめでたきもの、鳶・鴉に興味を持つ人なんかいない、ほととぎすはいうことなし。夜なく鳥はめでたし。

[42] 「あてなるもの・・・」 第1類

優雅なるものとして、雁の卵、カキ氷にシロップを入れて金属のカップに入れたもの、水晶の数珠、藤の花、梅に雪が降りかかる、かわいらしい稚児がイチゴなどを食べる。

[43] 「虫は・・・」 第1類

すずむし、ひぐらし、松虫、きりぎりす、はたおり、蛍、蓑虫は鬼が生んだものというが秋になってチチとなくというがおかしい(蓑虫は冬眠のため)、ぬかずき虫、蠅はうとましい、夏虫は火の上を飛び回る、蟻は醜いが水の上を歩き回るというがあめんぼうと間違っているのか。

[44] 「七月ばかりに・・・」 第3類

7月に台風が吹いて雨風がうるさいが、涼しくなって一枚綿絹を羽織っって昼寝をするのが気持ちいい。

[45] 「にげなきもの・・・」 第1類

にあわないものとして、下衆の家に雪が降ったり次が差し込んだりするのは似合わない。貴族の家にこそ似つかわしいと言いたいようだ。年取った女が妊娠している。年取った女が若い男と出来ていることさせ見苦しいのに、男が別の女の元に行ったと嫉妬して様子。老人の野ぼけ顔、歯の抜けた女が梅を食って酸っぱがる。靭負の佐の夜這姿、狩衣姿、殿上人のお椀は見苦しい。清小納言が嫌うものはすこし変わっている。これは趣味に属することで何をかいわんや。

[46] 「細殿に人あまたゐて・・・」 第2類

細殿に女房らがおしゃべりしている前をかわいい小舎人らが物を持って行き来する。どこへと問うとどこ其処へと答えるのはよし、恥ずかしがって逃げるのは憎たらしい。

[47] 「主殿司こそ・・・」 第2類

殿司とは宮中で働く女のことで、良いところの娘にさせたい仕事であるという。若い子がきれいな衣装を着て、経験を積んで物知りになる。可愛い若い子を1人持って、きれいな衣装を着せて共にして歩きたいと思う。

[48] 「をのこは・・・」 第2類

男は護衛の随人がいい。若くて華やいだ公達でも随人を持たないのはわびしいものだ。弁の官(太政官の判官)が下襲の短い随人を持たないのはなさけない。

[49] 「職の御曹司の西面の・・・」 第2類

清少納言は若い頃遠江守となった橘則光と結婚した。次に左中将となり陸奥の守となった歌人藤原実方と結婚し、中宮定子の死後宮下りしてから老齢の摂津の守藤原棟世と結婚したといわれている。この章段に現れる頭の弁藤原行成(三蹟のひとり)とは「遠江の浜柳」(万葉集に「刈れどもまた生える・・」というところから、関係が切れてもまた関係が続く腐れ縁という男女関係という意味で用いられる)の関係にあった。近く付き合って全く遠慮のいらない相手であるが、そこがまたぐちゃぐちゃした感情のもつれがあるので、この章は則光をほめているのかけなしているのか、弁護しているのかどうもすっきりしない文章だ。キレがなくくねくねした脈絡がかったるい。

[50] 「馬は・・・」 第1類

馬は斑点がある黒い馬、葦毛、薄紅梅の色で髪尾が白いの、黒い馬で4つ足だけが白いのが素敵だという。

[51] 「牛は・・・」 第1類

牛は額が小さく、腹の下、足、尾などが白いのがいい。

[52] 「猫は・・・」 第1類

上が黒くて、腹が白いのがいい。

[53] 「雑色・随身は・・・」 第1類

雑色・随身は痩せていて細い男がいい。若い男はそうあるべきだが、肥えた男は眠そうでよくない。

[54] 「小舎人童・・・」 第1類

小舎人童は小さくて髪が美しくてサラサラしているのがいい。声がきれいで緊張してものをいうのが魅力的である。

[55] 「牛飼は・・・」 第1類

大柄で髪の毛がごわごわして、赤い顔をし気がきくのがいい。清小納言のなんという趣味であることか、一寸わからない。

[56] 「殿上の名体面こそ・・・」 第2類

名体面とは殿上人の宿直時の点呼のことである。局にいて点呼を聞いていると、関係のあった男の名前が呼ばれるとどきどきするし、居場所の分らなかった男の声がするのも面白い。点呼の答え方がよかった聞き難かったと品定めするのはまた面白い。点呼が終って瀧口が弓を鳴らして沓の音を立てながら出てくる。

[57] 「若くよろしき男の・・・」 第3類

若くかっこいい男を身分の低い女が親しそうに呼ぶのは頂けない。よく知っていても、半分は知らない人のようにいうべきだ。殿司か侍所にいる人を連れてきてその人に呼ばせるべきだ。自ら呼ぶと声でわかってしまうものなのだから。

[58] 「若き人 ちごどもなどは・・・」 第3類

若い娘や子供は肥っているのがいい。受領など一人前のひとも肥っているが貫禄があっていい。

[59] 「ちごはあやしき弓・・・」 第3類

子供は変な弓や長い笞を持って遊んでいるのがかわいい。輿車に引き入れて可愛がりたい。

[60] 「よき家の中門あけて・・・」 第3類

立派なお屋敷の様子を観察すると中門が開いて、高級車の檳榔毛の輿が赤い下簾を下げたのが見え、五位・六位の者が下襲の裾を挟んで往ったり来たりして、壺矢具を背負った随人が出入りしているのが見えるのが素敵。さっぱりした格好の台所女が「だれそれのお供の方はいらっしゃいますか」と聞くのも場にふさわしい。

[61] 「滝は・・・」 第1類

滝は音無しの滝がいい。布留の滝は法皇の訪れたことで名高い。那智の滝は熊野にあってすばらしい。轟の滝はどんなに恐ろしいのやら。

[62] 「河は・・・」 第1類

飛鳥川、大井川、おとなし川、七瀬川、耳敏川、玉星川、細谷川、いつぬき川、名取川、吉野川、天の川

[63] 「あかつきに帰らん人は・・・」 第3類

朝早く女のもとから帰り支度をする男の様子はかくありたいと清小納言は思う。名残惜しそうに衣装のつくろいもしどけなく、昨夜のいい交わした言葉を女の耳に入れ、懐紙や扇をとりよせそくさくと出て行く様子は余韻があっていいものよとおっしゃるのである。

[64] 「橋は・・・」 第1類

長柄の橋、あまびこ橋、浜名の橋、うたたねの橋、佐野の舟橋、堀江の橋、かささぎの橋、をつの浮橋、棚橋、名前を聞くだけでゆかしい。

[65] 「里は・・・」 第1類

逢坂の里、ながめの里、いざめの里、人づまの里、たのめの里、夕日の里、つまとりの里、伏見の里、あさがおの里など、場所不詳が多いのはかってに創造した里であろうか。

[66] 「草は・・・」 第1類

菖蒲、薦、葵はむかしからかざしとなっている。あやふ草、いつまで草ははかなくあわれ、忍ぶ草、蓬、山菅、浜木綿、葛、青つづら、浅茅、蓮は仏の草、唐葵、さしも草、八重むぐら、つき草などうつろいやすき。

[67] 「草の花は・・・」 第1類

なでしこ、桔梗、朝顔、かるかや、菊、壺菫、竜胆、かまつかの花、荻、八重山吹、夕顔、薄は秋の代表。薄の花は赤い、枯れて白くなった頭はわびしいものだ。

[68] 「集は・・・」 第1類

万葉集、古今集

[69] 「歌の題は・・・」 第1類

都、葛、三稜草、駒、霰

[70] 「おぼつかなきもの・・・」 第1類

不安に感じるものとして、山籠りの法師の女親、闇夜にしのんでいったところで目立たないように火もつけないで待っているとき、子供に大事な物を持たせて遣いにやって遅くなるまで帰らない、乳飲み子がそっくりがえって泣く様子。

[71] 「たとしえなきもの・・・」 第1類

比較のしようがないものとして、夏と冬、夜と昼、雨降る日と照る日、老いたるとわかきと、白と黒、火と水、肥たる人と痩せたる人など。といいながらあれこれ清少納言は枕草子のなかで比較している。それが随筆というか知の働きである。

[72] 「夜鳥どものゐて・・・」 第3類

夜烏がなき騒ぐ。昼鳴くよりも面白い。

[73] 「しのびたるところにありては・・・」 第3類

夜の忍び会いは夏がいい。短い夏の夜を寝ずに過ごすって素敵ね。開け放って涼しい風を入れ、ぐずぐずしているところにカラスが上から鳴くのは何かばれたような気がする。冬の夜は大変寒いので、うずくまって臥していると、鐘の音がぼんやり聞こえてくる。夏と冬の対比があざやかな。

[74] 「懸想人にて来たるは・・・」 第3類

どのような人の集まりでも主人がくつろいで話をしているのに、お供の郎党や童がそとで、これ見よがしに欠伸をしたり、退屈だと言い張ったり、もう夜になったというのは本当に憎たらしい。垣根の外から雨が降ってきたなど申すのも憎たらしい。貴人のお供にはそういうのはいないが、お供にするには心栄えのいいのを選んで連れて来るべきだ。

[75] 「ありがたきもの・・・」 第1類

めったにないものとして、舅にほめられる婿さん、姑にほめられる嫁、主をけなさない従者、いささかの欠点もない人間、書き写すときに書を墨で汚さないこと、夫婦で長く仲のいい人など。

[76] 「内裏の局 細殿いみじうをかし・・・」 第2類

内裏の細殿は狭くて趣がある。しとみを上げてしまえば、風も入り夏でも涼しい。子供などが入ってくるとうるさいが局の中に隠してしまえばいい。局では女房は昼も神経を使い夜はなおさら気を遣う。ここから男が女房の几帳に忍んでやってくる様子を描写するのであるが、かすかにノックするのも内の返事がなければ強く叩く恐れがあるので衣擦れの音を聞かせるのがゆかしい作法である。ノックの音だけであの人かなと分る。火桶の箸の音も聞こえるので気を遣う。隠れてそっと聞き耳を立てるのはいつものこと。几帳の前で男と女が額を寄せ合うように話をしているのは素敵なことよ。

[77] 「まいて臨時の祭の調楽などは・・・」 第2類

11月末、賀茂の臨時の祭りの舞のリハーサルはとっても楽しい。主殿寮の男が松明をかざして、笛を吹きながら行くと、お供の随身らが低い声で先払いをする。女房の詰め所で簾を開いて帰りを待っていると、俗な歌をうたっているのだ。まじめな男はそくさくと通り過ぎるのだが、女房のほうで「しばし、なぜ夜を棄てて急いで帰るの」と冷やかすと、倒れるばかりに出て行ってしまうものもいる。

[78] 「職の御曹司におはします頃 木立などの・・・」 第2類

中宮が職の御曹司におられた頃、木立は古びて建物も恐ろしげだったので、母屋から南の廂に几帳台が設けられた。その孫廂に女房達が控えていた。近衛の門から左衛門の陣に出勤される上達部の先駆けの声が聞こえて、女房らは「あの人だ」、「違う」とかいいながら当てるの。中宮も起きられて御前の女房は全部集まって仕えたうちに夜も明けてゆくのである。左衛門の陣に言いってみないというと、私も私もと連れ立って行き、殿上人の歌う声もしてそこで交際が始まるのである。

[79] 「あじきなきもの・・・」 第1類

がっかりするものとして、一念発起して宮仕えに出た人が憂いに沈んでいる様子、養女の顔がブスなの、頼んできてもらった婿さんが思うようにならないと嘆くこと。

[80] 「心地よげなるもの・・・」 第1類

得意な気持ちになるものとして、卯杖を掲げ持つこと、御神楽の長、神楽の旗振り、御霊会の馬の長、蓮が雨を受けた様子など。

[81] 「御仏名のまたの日・・・」 第2類

佛名の会のつぎの日、陛下が中宮に地獄絵をお見せするのだが、女房らは小部屋に隠れて寝たふりをする。雨が降って退屈な日、殿上人を上の御局に呼んで演奏会となった。道方の少納言は笛、琵琶がうまい。済政の箏の琴、行義の笛、経房の少将の笙などが奏された。演奏が終って伊周の大納言様が演奏の後は話しをというので、起き出して顔を出すと、大納言さまは「地獄絵は恐ろしいが、演奏のめでたさには負けて出てきたな」とお笑いになった。

[82] 「頭の中将のすずろなるそら言を・・・」 第2類

太政大臣為光の2男の頭の中将藤原斎信との白楽天の歌を通じての仲直りの話である。殿上にて頭の中将にめちゃくちゃ言われてすっかり嫌われたと思った清小納言は、それ以来口も聞かなかったが、ある夜女房連と漢字ゲームをして遊んでいると、頭の中将の使いが手紙を持ってきて返事を催促するのである。中味は白氏文集の「蘭省花時錦帳下」のあとを継げということである。「廬山草堂独宿雨」であったので「草の庵を誰か訪ねん」と炭を取って書き付けて返事とした。局に帰ると頭の中将がやってきて「草の庵はここか」と大きな声で怒鳴るの。そしておまえのあだ名は「草の庵としよう」というのである。この返事次第では決着をつけて絶交にしようとはやっていた頭の中将が痛く感心していたと、元亭主の修理亮の則光が告げにやってきた。陛下もこの事をお笑いになられて上達部の悪友も感心していたという。これで頭の中将との仲直りが出来たという。

[83] 「かえる年の二月廿日よ日・・・」 第2類

中宮が職の御曹司に出られたとき、お供せずに梅壺に残っていた。翌日頭の中将(藤原斎信)の使いがやってきて「鞍馬へ詣でたが、方違えで西の京へ行くが言いたいことがあるので帰りに寄る。あまりノックさせないで待っててくれ」ということであった。中宮定子の姉「御櫛笥殿」が局に1人いるのは無用心だからこちらに来て泊まりなさいということで梅壺を出て、頭の中将のやってくるのを避けた。梅の局に寝ていた下女が昨夜ノックする人がいたので、「清少納言は上にいっています」といって寝込んでしまったという。そしてまた頭の中将より使いが来て、いうべきことがあると云うので上で待っていますと答えた。梅壺の東面で会った。中将は華やかな衣装で現れた(そこで何があったのか、何を言ったのかは述べられていない)。あいにく道隆関白の喪中で中宮関係の女は地味な衣装で、華やかな中将には不釣合いであったが、人の目が気にかかる。暮れてから陛下の前に殿上人が多く集って宇津保物語の品評会をやった。その席で中宮定子は昼間斎信が格好を決めてやってきたのは素敵だというのでみんなバレバレ。

[84] 「里にまかでたるに・・・」 第2類

ここは元亭主の左衛門の尉則光のことをのべる。里帰りをしているとき殿上人がやってくるのをはばかって、行く所を教えず雲隠れした。そこへ元亭主則光がやってきて、昨日宰相の中将(藤原斎信)が妹(清小納言)の居場所を教えろとうるさいのでどうしたものかという。則光は若布を口にしてモグモグして誤魔化したがもう攻められてどうしょうもないと泣き言をいうので、若布と歌を添えて「ゆめいうな、わかめをくえ」といってやった。この則光は大の歌嫌いで、それが原因で別れたほどなのですっかり参って退散した。

[85] 「物のあわれ知らせ顔なるもの・・・」 第3類

ものの哀れとは無縁な顔とは、洟たらしてひまなくかみつつものをいう声、眉を抜く顔。

[86] 「さて その左衛門の陣などに・・・」 第2類

清小納言が里帰りしていると(里帰りの理由は不明だが、何か行き違いか居ずらいことがあって身を隠していたのだろうか。中宮のあとの言葉をみれば、ひょっとして道長が清小納言獲得のために動いたことで中宮の局内で清小納言排斥があったのかもしれない)、中宮よりお手紙があり「左衛門の陣へ出て行くおまえの後姿が偲ばれてならない。すべての事はなかったことにして帰ってきなさい。帰ってこないとおまえを憎む」というので、命も身も捨てて中宮の前に参上した。

[87] 「職の御曹司におはします頃 西の廂にて・・・」 第2類

中宮が職の御曹司におられるころ、西の廂にて連続読経が営まれた。2日ほど後に縁のもとに怪しげな風采の女乞食(芸人)が「何か供物のお下がりはありませんか」とやってきた。恵んでやると急になれなれしくなって、話し込んで若い女房らも何かと尋ねて、中宮が絹を取らせると踊りを踊ってゆく始末であった。後日になってもやってくるので、「常陸の介」とあだ名をつけた。師走の10何日ごろ大雪が降り、主殿司の男を使って雪山を造成した。その日やってきた式部丞忠隆が「あっちこっちの貴族の家でも雪山を作ったようだ。」と告げた。大晦日の日にあの女乞食が物乞いにやってきて、何もやらないと雪山を踏んで帰った。元旦の夜雪が降って、朝早く賀茂の斎宮(選子内親王)から、手紙と卯槌が届いた。中宮は大変お喜びの様子であった。雪山は塀のそばに住んでいる木守に命じて15日まで管理させていたが、雨が降って汚くなったせいで、14日の夜帝の命令で取り壊されてしまった。

[88] 「めでたきもの・・・」 第1類

かっこいいものとして、唐錦、飾り太刀、仏の彩色画、花房の長い藤の花、青色姿の六位の蔵人、教養のある博士と坊さん、后の昼の行幸、摂政関白のお出かけ、春日もうで、葡萄染めの織物、何もかも紫はよし。

[89] 「なまめかしきもの・・・」 第1類

色っぽいものとして、ほっそりした上達部の直衣姿、かわいい童女の表の袴に卯槌・薬玉を長くつけている姿、薄い青の紙(清少納言は紙に異様な関心を持っている)、三重かさねの扇、檜皮葺きの屋根に菖蒲を葺き渡した様子、几帳の朽木形の紐が風に流されている様子、白い組みひも、可愛い猫に赤いくび紐をつけて歩く様子、紫の紙に包んで房の長い藤につけたの。

[90] 「宮の五節いださせ給ふに・・・」 第2類

11月の五節の舞姫を、中宮のところより10人、女院(一條天皇の母詮子 東三条女院)と淑景舎(道隆の二女、中宮の姉、東宮妃となった原子)から1名づつお出しになった。その日までは舞姫の衣装は極秘にしてみんなをアッといわせる楽しみをとっておくの。常寧殿の中を取り壊して、舞台と舞姫の控え室を設営した。設営とリハーサルの責任者を小忌の女房、小忌の君と呼ぶ。舞姫は右馬頭相尹の娘、源高明の娘12歳ら12人で大変可愛いかった。かように宮中では年中イベントで目を瞠るような衣装を着て華やかな暮らしを送ることが最高の価値観であったようだ。

[91] 「細太刀に平緒つけて・・・」 第1類

[89]のなまめかしの段から切り離されたのか、追加なのか。細い太刀に平緒をつけてすっきりした男が持っている様子。

[92] 「内裏は五節の頃こそ・・・」 第2類

内裏は五節の頃が誰もが一番華やいで見える。女房らもかんざしに布の端切れをつけるのもおかしい。殿上人らが直衣を肩ぬぎして扇を拍子に「昇進の波がたつ」と謳い戯れ、祭りの進行役の蔵人らが女房の出で立ちを品評するのも特別の時期なのかもしれない。帝が五節の舞の試楽をご覧になるときは進行役の蔵人は緊張して童以外は立ち入り禁止といって、殿上人や女房の入室を差し止めるのだが、女房ら20人ばかりが多数をたのんで打ち破ると、ほかの人もなだれ込む。帝もこれを見て3笑っておいでである。進行役の蔵人は口惜しそうに「何という世になったことか」という。

[93] 「無名という琵琶の御琴を・・・」 第2類

帝が「無名」という名の琵琶の琴を持っていらっしゃる。殿上人らはこれを弾くわけでもなくまさぐって楽しんでいるようだ。淑景舎さまが故道隆の形見として笙の笛をお持もちになると、隆円僧都(道隆の4男、中宮の弟)が交換してほしいとねだるので「いなかへじ」という名がついた。これら御前にある物は皆珍しいもので、宣陽殿の棚に収められてということだ。

[94] 「上の御局の御簾の前にて・・・」 第2類

帝の局の簾の前で、殿上人がひがら1日琵琶をかき鳴らして遊んでおられたが、日も暮れて灯の油を持ってくる時になったが、格子は下げていないので丸見えである。すると琵琶を縦にもって赤い袖で琵琶を被い額だけがはっきりと鮮やかにみえるのはたとえようもなく素敵なことだ。白楽天の詩に「・・・猶抱琵琶半遮顔・・・酔不成歓惨将別」とあるを申上げると、「では別れは知っていたの」とおっしゃるのもゆかしい。宮廷では歌・漢詩は必須の教養でありコミュニケーションの道具であった。気のきいたことをいいいあうのが貴族のお遊びである。

[95] 「ねたきもの・・・」 第1類

悔しく思うものとして、手紙を出してから文字を一つ二つ訂正したくなること、縫い物をして針を抜いたら糸の尻を結んでいなかったこと、東三条南院(道隆の邸)にいたころ、急ぎの縫い物で手分けして縫いだし、命婦の乳母が一番早く縫い上げたが一部表裏を間違っていた。それを指摘すると彼女は「生地に紋織りがなかったせいよ、誰か縫っていない人にやらせてよ」と言い訳をする。人の庭に生えていた面白い荻・薄を無法なものが制止するのも聞かず、ただ少しだけといって掘って持ち去るのはもうくやしい。受領の家などにあるところの僕がやってきてなめた口をきいいて居直るのは悔しい。男から来た手紙を誰かが奪い取って庭の片隅で読むのは大変悔しい。飛び出して奪い取りたい気持ちで簾のもとにいる心地は大変悔しい。

[96] 「かたはらいたきもの・・・」 第1類

いただけないものとして、うまくもないのに琴を心のままに弾きつづけるもの、客人がいるのに奥のほうで情話をしている、好きな人がよって情話をする、聞こえているの知らないで人の噂話をしている、使用人であればなおさら、可愛くない子を可愛がって声まねまでしている、教養ある人に対して教養のない人が知った振りして名前をいう、あまりうまい出来でない自分の歌を人がほめること。

[97] 「あさましきもの・・・」 第1類

参ったナーと思うものとして、櫛を磨いていて折れてしまった心地、車がひっくり返る、大きな車ならなおさら参ったなー、人にとって恥ずかしい事を臆面もなく喋るひと、必ず来るだろうと寝ずに男を待っていて、明方には寝てしまい昼ごろカラスの声で起き上がり参ったなー、見せてはいけない人に間違って手紙を見せている、ものをこぼしたときの気分。

[98] 「くちおしきもの・・・」 第1類

口惜しいものとして、五節・御仏名に雪が降らずに雨が降る、節会に物忌みがあたる、準備して待っていることが突然中止になる、見せたいなと思って呼びにやった人が来ない。

[99] 「五月の御精進のほど・・・」

賀茂の田舎に、道隆の室である貴子の弟(高階成忠の3男)の明順の朝臣(中宮定子には叔父にあたる)が侘び住まいされておられた。5月の精進の折雨がちであまりに退屈なので、賀茂の奥にほととぎすの音を聞こうと女房4人で車に乗った。馬弓も見学しながら明順の朝臣の家に寄った。田舎とて見るべきものは無いので、朝臣は野良仕事を見せてくれた。(5月に稲の挽く作業もないものだが、この辺の記述は時期的におかしい)下蕨の摘み取りを見学しているうちに、雨となり急いで車に乗り、卯の花を車の簾に挿して牛にも卯の花を懸けて帰途についた。途中一條殿の屋敷(故太政大臣藤原為光の邸)に寄ろうよという話になって、案内を請うと侍従殿(為光の次男)は只今指貫をはきますのでというので、待っていられるかということで車を出させて土御門に向かった。侍従殿が伴を三四人連れて追いかけて来る様が実に滑稽だった。そこで宮中に入るように侍従殿を促したが、烏帽子ではどうとかというのを、雨が強くなってくるので無理やりに宮中に入れた。中宮の前で道中の事をお話しすると、連れていけなかった若い女房の悔しがること。侍従殿が都大路を走る話には皆で爆笑したものよ。中宮は「ところで歌の出来はどう」と問われるので「かくかくしかじか」と詠まなかった事を言い訳すると、「なんとなさけない、しっかり詠んで来るものよ、では今ここで詠みなさい」と叱責された。ぐずぐずしているうちに雨と雷となって、その件はうやむやになりました。二日ほどしてまた賀茂の歌のことが話題となり、宰相の君が「下蕨こそこいしかりけり」と詠んだので、中宮は上をつけなさいというので「ほととぎすたずねて聞きし声よりも」とつけた。すると中宮は「まあなんでここでほととぎすねのよ」と責められるので、「歌詠みの末裔は、TPOの歌ばかりでなく、この歌こそあの人のといわれるようにしたい」と答えて無理強いの歌詠みを拒否した。ここに清少納言のプライドが見られる。庚申待ちで夜明かしをするというので内大臣伊周の殿がいらっしゃて、歌会のお遊びが始まった。中宮とのいきさつがあって、少しはなれて坐っていると内の大臣が詠めとおっしゃって、そして中宮も「元輔の娘といわれるあなたも詠みなさい」とおっしゃるので、これで詠まない理由もなくなったので千の歌でも詠んじゃうわと張り切ったそう。

[100] 「職におはします頃 八月十よ日の・・・」 第2類

中宮が職の御曹司に居られるころ、八月十余日の月明かりに右近の内侍に琵琶を弾かせて端近におられた。私は柱にもたれて物も言わずにいると、宮は「喋りなさいとさみしいじゃない」といわれたが、「秋の月の心を見るだけです」とこたえて物思いに沈むの。

[101] 「御かたがた 君たち・・・」 第2類

殿上人や公達などが沢山おられる御前で、柱に寄り添って女房らと話をしていると、宮は投げ文をして「人は第一人者でなければならぬと思うが、いかが」とおおせられるので、「やはり1位でなければどうしょうもないと思います。二,三位では死んでもいやですわ」と申上げた。紙と筆を頂いたので「九品蓮台の間には、下品というとも」と書いて差し上げた。すると宮は「おや一位でないというおまえが卑屈な事をいう、第一人者たれ」といわれるのも素敵なことよ。清少納言は「仏の世界では下の位でも、人間の世界では・・」という意味があったのだが。

[102] 「中納言まゐり給ひて・・・」 第2類

中納言隆家(伊周の弟で、中宮とは兄妹)がこられて、中宮は扇をプレゼントしようとして「誰か隆家の持つ扇の骨に見合ういい紙を見繕ってくれぬか」とおっしゃられた。女房らは隆家の骨は最高というので、どんな骨と問えばくらげの骨(あるはずもない)という。これは隆家にとって皮肉なのかどうかはしらないが、話の落ちとしては爆笑ものだ。

[103] 「雨のうちはへ降る頃・・・」 第2類

雨がやたら降る日、御遣いで式部の丞信経がやって来た。いつものように座る敷物(褥)を出したが、信経は遠くへ押しやって座るので、誰用だと尋ねると、足痕がつくので憚っているのだという。それでは「洗足用(氈褥をかけるシャレ)ね」言って笑うと、信経は「今の言葉は私が足痕の事を言ったので出てきた言葉でしょう」と言い張るのがおかしい。信経はタイミングで言っているのだろうというので、「タイミングも大事だが、歌も文も題が大事よ」といえば、さらば題を出すから歌を詠めという。どっさり返歌を作ってさし出すと参ったといって逃げ帰ったという話。ようするに清少納言の文才を自慢する落ちである。

[104] 「淑景舎 東宮にまいり給ふほどのことなど・・・」 第2類

長徳元年正月19日、淑景舎(道隆の娘、中宮の妹)が東宮(居貞親王)に入内なされた。大変おめでたいことなので二月十余日、中宮とは登花殿でご対面となった。女房達が控えて夜にご対面が相成った。翌日もいらっしゃったので、道隆とその室貴子も翌朝車でお越しになった。中宮は御曹司の南に屏風を立て畳の几帳台の前には女房達が沢山並んで坐った。中宮は清小納言に「淑景舎は見たことがあるの、ないなら私の後ろで見なさい」といわれるので、宮の几帳のすぐ後ろで対面を見せていただくことになった。中宮、道隆の室、淑景舎、殿道隆のファッションショーが披露された。淑景舎に御手水をお出しする下女4人、女房6人の衣装もまた披露される。食事の時間になるとみぐしあげの蔵人がまいる頃には屏風も取り払われすっかり見えるようになった。すると道隆様は「あそこで見ていたのは小納言か、あそこには美しくない娘が3人もいるのだぞ」とからかわれる。そして伊周大納言と家隆、伊周の長男松君が参られた。孫を膝に乗せて殿道隆はご満悦。暫くして帝よりの御使いで式部の丞がまいり、東宮の御使いで周頼の少将が参られた。東宮からの文を持ってこられたので、殿・室・中宮らが御覧になり返事を早く出すようとせかされ、淑景舎は奥に入って返事の文をしたためられた。羊の刻に帝がこられたので、中宮もそちらに入られた。南の廂には女房らが、廊下には殿上人が多くおられたので、殿は果物・酒・肴で振舞われた。そして山の井の大納言道頼(伊周・中宮らとは異母兄弟)を呼ばれてお帰りになった。山の井の大納言は大変素敵なお方で、世間で悪くいうのは無念であると清小納言はいう。道隆一族の権勢の絶頂期を清少納言はなつかしく雅やかに記すのである。

[105] 「殿上より梅のみな散りたる枝を・・・」 第2類

殿上から梅の花の散った枝を出してこれはどう詠むとおっしゃるので、和漢朗詠集の「梅之早落 誰問粉粧」よりとって「早く落ちましたね」と素っ気無く答えた。すると黒戸の前で蔵人らがその歌を歌っているのを見て、帝は「歌を詠みだすよりは、このほうもいいもんだ」と仰せられた。これも清少納言の文才を自慢する落ちである。

[106] 「二月つごもり頃に・・・」 第2類

二月の末に風が吹いて空が暗く雪も少しちらついてきたとき、黒戸に主殿司がやってきて藤原公任の宰相(参議クラス)殿の手紙を差し出す。「少し春ある心地こそすれ」の上の句をつけろという。女房達のだれそれに聞いてどうかと問うが中宮も寝室に行かれておられないので、いっそのこと「空さむみ花にまがえて散る雪に」と返歌した。どう思われたのか心配だったが、源俊賢の宰相がいたくほめて「内侍に推薦しよう」といっていたと、左兵衛督の中将が伝えてくれた。なお清小納言の待遇は中宮の私的なお話し相手に過ぎず、公的な職は得ていなかった。それを官女に推薦しようかというのだ。これも清少納言の文才を自慢する落ちである。

[107] 「ゆくすゑはるかなるもの・・・」 第1類

先の遠い話として、糸で作った紐をひねったもの、陸奥へ行く人が逢坂の関を越えたばかり、生まれた稚児が大人になるまで、大般若経の読経。

[108] 「方弘はいみじう人に・・・」 第2類

方弘(源方弘、蔵人、修理亮、式部丞、阿波の守となる)はめっちゃくちゃおかしな奴だ。これに使われているお供でさえ、「何でこんな奴に使われているのかな」という。宿直物を二人で取りに来るようにといわれても1人でやって来て「一升瓶に2升がはいるか」とおかしなことをいう。はやく返事を書くようにと催促されると「うるさい、筆と紙を隠された」と言い逃れをする。女院(詮子)様が病で御使いに出されたが、院の殿上には誰がいると問われて「4、5人と寝ている人」と答えるのでみんなに笑われた。徐目の夜、さし油するのに、灯台の打ち敷を踏んで倒して大地震のような大騒ぎ、蔵人の頭が着かぬ間、台所の障子の後ろに隠れて豆を食っているので大笑い。

[109] 「見ぐるしきもの・・・」 第1類

見苦しいものとして、背中の縫い目が肩によって着ている、珍しいお客さんおまえに子供を背負って出てくる、法師・陰陽師が紙の冠で祈祷している、色の黒い女と鬚むじゃで痩せた男が昼寝をしている、夜は暗くて見えないので、普通はそうなのにブスだから昼やるというほうは無いでしょう、痩せて色黒の人が単の生絹を着ていれば、醜い体が丸見えでしょう。清小納言さんはかなりいきり立って怒っておられる。よほど醜いのでしょう。

[110] 「いひにくきもの・・・」

言いにくいものとして、人の手紙の中に貴人の言葉が沢山あるのは全部は言いにくい、立派なお方から贈り物を頂いて返事をする、大人になった女の子が思いがけない事を聞くのだが、人前ではいいにくい(初潮のことか、色事か)。

[111] 「関は・・・」 第1類

関は、逢坂の関、須磨の関、鈴鹿の関、白川の関、勿来の関、衣の関まではわかるが、ただごえの関、はばかりの関、横はしりの関、みるめの関、よしよしの関などは冗談としか思えない。

[112] 「森は・・・」 第1類

浮田の森、岩瀬の森、あとは冗談(たちぎきの森、うえ木の森)。

[113] 「原は・・・」 第1類

あしたの原、粟津の原、篠原、荻原、園原などありそうで不詳。

[114] 「卯月のつごもりがたに・・・」 第2類

4月のまつ、長谷寺参りをして、淀川を渡った。船に輿を運びあげて、菖蒲や菰の短いのを刈らせたが、これが意外と長ーいの。菰を積んだ舟が通るのも興味があった。3日後に帰る途中、雨が降って、膝上までの長い男の童が菖蒲を刈っている姿は屏風絵のようだった。

[115] 「つねよりことにきこえるもの・・・」 第1類

普段とはべつものに聞こえるものとして、正月の車の音、鳥の声、明方の咳、物の音。

[116] 「絵にかきおとりするもの・・・」 第1類

絵に描いてつまらないものとして、なでしこ、菖蒲、桜、物語の男女。花や人物は描いてもつまらないようだ。

[117] 「かきまさりするもの・・・」 第1類

描きがいのあるものとして、松の木、秋の野、山里、山道。自然の風景は描きがいがあるそうだ。

[118] 「冬はいみじう寒き・・・」 第1類

冬は大変寒い、夏はとても暑い。だからどうなの。何か欠落しているようだ。

[119] 「あはれなるもの・・・」 第1類

胸にジーンとくるものとして、親孝行な子供、吉野の御嶽精進しているひと、想う人が心配しているが立派にお勤めを果たされたこと。これはあわれということではないが、御嶽精進のついでに話をする。右衛門の佐宣孝(藤原宣孝、筑前守、紫式部の夫)という男は、「かならずしも浄めの衣を着ろと御嶽さんが言っているわけでもない」と自分も息子もド派手な服装をして御嶽詣でをした。往路のひとはこんな姿は見たことがないといって驚いたそうだ。宣孝は4月に帰って6月に亡くなったので、さもありなんと人の噂が出た。(ここで清小納言は紫式部をばかにしている) 男も女も黒い喪服姿があわれ、9月末または10月1日に聞きつけたキリギリスの声、庭の浅茅に置いた露、朝夕川風に吹かれる竹の音、山里の雪、相思う若者が思いを遂げられないこと。

[120] 「正月に寺にこもりたるは・・・」 第2類

正月に清水寺にお籠りしたときのお話です。雪が凍った道を法師らは下駄をはいてすたすた歩くのだが、私達は勾欄を手すりにして歩む。お部屋は作ってありますと法師は長くつ(半靴)を持ってきてくれた。奥の出入りを許された男、童らが「そこはへこんでいますよ」とか案内してくれる。誰か知らないがすぐ傍を抜いて行くものがいるので、失礼ねというと遠慮するものもいれば知らぬ顔で仏前に向かう人もいる。法燈がよく燃えているなかに佛の姿がきらめいて見えるのは貴い。人々が文を捧げて仏前の高座に請願し騒々しい雰囲気の中でよくは聞こえないが、搾り出すような念仏の声だけはよく聞こえてくる。「千燈の志はだれそれのため」などかすかに聞こえ、持ってきた香の前で拝むのは尊い気持ちがする。仏堂の格子のほうから法師がやって来て、「よく祈祷しておきましたよ、いつまで御滞在ですか、誰それも来ていますよ」といって帰った。そして火鉢、果物、手水、手すりのない盥などを置いていった。「お伴の人はあの宿坊に」という。誦経の鐘の音も自分の為と聞くと頼もしく想われる。傍らの麗しい男性が偲びやかに額を地に着け寝ずのお祈りをしているのは素敵だ。洟を聞こえないようにかむのも奥ゆかしく、何をお祈りしているのだろうかかなえさせてやりたいものね。お寺に籠っていると昼は意外とのんびりしていて、ほら貝を吹く音にも驚かされる。清らかな立て文を持った男が、お経を傍において堂童子を呼ぶ声が堂内でこだまして響くのもはっとするものよ。貴人の名を読み上げ「お産平かに」など霊験現かにいうのも、お祈りしたくなる気分ね。これらは普段の様子で、お正月は参拝者祈願者が隙間なく参るときには、行なわれない。日が暮れてから参られるのは籠られるためであろう。小法師らが屏風を運んで立て畳など敷き、堂の格子に簾をかけて局が出来上がる。大勢の人が降りてきて帰るのであろうか、「大丈夫か、火の始末はしたか」など話している。7,8つの男子が侍を呼ぶ声もかわいい。3つほどの稚児が寝おきて咳をするのも可愛い。夜通しの勤行も後夜がはてて、うとうとしているとき、行者法師が経を荒々しく読む声に驚かされる。また夜に籠らないで、人並み以上の人らがお供を連れてお祈りをしているのは誰だろうと奥ゆかしい。若い男はとかく局の辺りに屯して、仏の方には目もくれず、寺の別当を呼んでひそひそ話しをしている。けっして賎しげなものではないのだが。2月末か3月初めの桜の時期の籠るのもいいものだ。若い男らが美しい衣装を着て、お弁当を持ったお供も着飾って景色を見て歩く、なんて素敵なことではありませんか。

[121] 「いみじう心づきなきもの・・・」 第1類

いただけないものとして、祭りなどに車に1人乗って見に来る男、どういうつもりなのだろうか若い郎党をのせてきなさい。寺にもうでる日に雨が降る。使用人が「私をさて置いて,誰それを贔屓にする」という。人よりはいいと思う人があて推量で逆恨みをして自分はいい子になっている。

[122] 「わびしげに見ゆるもの・・・」 第1類

わびしいのは、6,7月の朝に穢い車を最低の牛に引かせている。雨も降らないのに莚をしいた車。下衆の使用女が子どもを背負うっている。穢い小さな小屋が雨にぬれている。雨の日、小さな馬に乗って御前に出勤する人の、冠も曲がり衣が濡れて引っ付いている姿。

[123] 「暑げなるもの・・・」 第1類

暑苦しいのは、随人の長の狩衣。パッチワークの袈裟。肥えて髪がむさくるしい。琴のふくろ。7月の昼間の修法をするあじゃり。同じ頃の鍛冶屋。

[124] 「はづかしきもの・・・」 第1類

落ち込むくらい恥ずかしいものとは、色男の心の内。すぐ目を覚ます内裏に宿直の僧(こそ泥と同じく暗くてて見えないところにいるので)、宿直僧は目立たないので、警戒心を持たない女房らのおしゃべりの中味を全部聞いているのがすごく落ち込む。男は女をうまくおだててその気にさせるの、こっちのことをあっちで喋り、あっちの事をこっちで喋るだけなのに、自分は特別なのだとも思い込ませる手管は恥ずかしい。

[125] 「むとくなるもの・・・」 第1類

つまらないものとして、引き潮の浅瀬にいる大船。大木が風に吹き飛ばされて根ごとひっくり返っている。いやな奴が従者を叱っている。髪の短い人が髪を直している傍で年寄りが髻をばらけさせている。負け相撲。人妻が恨みごとがあって身を隠したが、きっと探しにくるだろうと思っていたが静かな様子で拍子抜けし元に戻る様子。夫婦喧嘩の後冬に単衣でいると夜も更け寒くなってきたのでやおら衣を引き寄せる、男は知らん顔してタヌキ寝入り。

[126] 「修法は・・・」 第3類

修法は奈良興福寺がいい、仏の護身などを読むのはなまめかしく尊い。

[127] 「はしたなきもの・・・」 第1類

バツが悪いものとして、人を呼んでいるのに自分だと思って御前に出ること、特に物を下さるときはなおさら。人の噂話をしていると幼い子が聞いて,本人に告げ口する。あわれな話を聞いても涙が出てこないさま。

[128] 「八幡の行幸のかえらせ給ふに・・・」 第2類

一條天皇が石清水八幡宮に行幸され、帰路に女院(母,東三条院詮子)にご挨拶するため桟敷に車を止められた。本当に最高のシーンで私は涙がこぼれ化粧した顔ももうボロボロで見苦しいことであった。宣旨の使いには斎信の宰相が立たれた。随人四名が馬で桟敷の御簾の前まで寄せ、ご返事を受け取って帝の輿に奉じられた。そのような場面を見せていただいて飛び上がるような興奮を覚え、いつまでも泣いていて人に笑われた。普通の身分の人でも子供が出世するのはめでたいことだが、最高位の帝を母はどう思われたことか。

[129] 「関白殿 黒戸より出でさせ給ふ・・・」 第2類

関白道隆殿が黒戸からお出ましになるとき、あまたの女房らが勢ぞろいしてお見送りをすると、関白殿は「立派なご婦人方が翁を笑おうとされるのだな」と冗談をいって出てこられた。権の大納言伊周さまがお履を取ってはかせられた。また山の井の大納言道頼様を初め次々と藤壺の塀から登花殿まで居並ばれるなかを、関白殿は御佩刀を帯びられて停まられた。そこへ宮の大夫道長殿が前へ出られてひざまずかれた。まさかひざまずかれることは無いだろうと思われていたので、清少納言は繰り返しそのことを申上げると、「また道長を一途に思う女だな」と冷やかされた。

[130] 「九月ばかり 夜一夜・・・」 第3類

9月、一晩降り続いた雨が朝にはやみ、朝日がキラキラ差し出るとき、前裁の露がこぼれるようにかかっているのは素敵なことよ。透垣の飾りの上に懸けたくもの糸が露の玉を抜いたようなのはいみじくあわれ。日が昇るにつれ、荻の上におかれた露が落ちるにつけ枝が揺れ、人の手をかけたのでもないのに上に跳ね上がる。人の心にはあたりまえみたいなこと(つゆおかしからず)なのに、なぜこうも心の動くことか。この章は「つゆ」と「露」の駄洒落(落ち)で締めくくられている。

[131] 「七日の日の若菜を・・・」 第3類

6日に、正月7日の七草(若菜)を持ってきて置いて行く。見たこともない草を子供らが採って来て、「これは何て言うの」と質問するが、「耳無草」という人もいれば、「知らない顔ね」という人もいる。またかわいらしい菊を持ってくるので、「耳無草というのはかわいそうね、聞く(菊)という草もあるのに」といいたかったのだが、これも耳にはいる事では無いのでやめた。駄洒落があまりに露骨なのでやめたのでしょう。

[132] 「二月 宮の司に・・・」 第3類

二月には太政官の役所で「定考」(列見のこと)という、昇進の考査面接がある。どういうわけかしらないけれど、孔子の絵を懸け、供物をおいておこなう。

[133] 「頭の弁の御もとより・・・」 第2類

頭の弁(藤原行成 書の三蹟の1人 清少納言とは切れない仲、遠江の浜柳という)のところから、主殿寮の使いが来て、白い包みに梅の花の咲いたのを添えてきた。中を見れば餅餤2つと申し文が添えてあった。実にきれいな字で「進上餅餤一包/依例進上如件/別当 少納言殿、昼間は醜いのでゆけません」と書いてあった。宮には「返事はどうすればいいのでしょうか、返答用の物は取らすべきでしょうか」と尋ねると、平惟仲に聞いたらとおっしゃるので、人をして呼びにやるとやってきた。いうには「私的なことであり、返しのものには及びません。頂いておけばいいのでは」という。そこで紅梅にそえて手紙を明るい薄紅色の紙に書いて「自ら持ってこない下部は冷淡じゃないの」ていってやると、すぐに頭の弁様がやって来て「下部でございます、々」というので出てみると、「あんなのは適当な返歌を詠んでくるものと思っていましたが、よくも言ってくれましたね。すこしうのぼれている女は歌を詠むものだが、そうではなくお話風がいかしてんだ」といい、元亭主の橘則光やなりやすなどは大笑いしてこれが御前にいた殿上人にも聞こえ話題となったことが、はずかしながら自慢話のひとつ。

[134] 「などて 官得はじめたる・・・」 第3類

「初めて官職についた六位の蔵人が、職の御曹司の辰巳の壁板をはがして笏にするのはどういうわけ、西や東の板も使ったら」とか、「衣にはおかしな名前がついている、どうして汗衫を尻長というの」とか、「どうして男の童の唐衣を短衣というの」とか、「指貫は足の衣とか、袋と言えばいいじゃない」とか、「どうして々」を連発していると「うるさいね、早く寝なさい」といわれた。宿直の僧からも「どうかしているね、一晩中喚いていたら」と憎々しそうに言われた。

[135] 「故殿の御ために・・・」 第2類

故道隆殿の月命日を月ごとの十日に供養していましたが、九月十日は職の御曹司(中宮のおられるところ)で行なわれた。上達部や殿上人が多く参集され、清範を導師としてしめやかに執り行われた。法事が終って酒をも飲み、詩を朗読したりする時、頭の中将斉信様が菅原文時の追善供養の願文をひいて、「月秋と期して、身何に去る」を謳われた。中宮は「今日の供養に、ぴったりの句をいわれたことよ」とおっしゃいました。(この章段の後半は仏事にはふさわしくない人情の話が挿入されている。これはなんかの断片が紛れ込んだのであろうか)

[136] 「頭の弁の職にまゐり給ひて・・・」 第2類

頭の弁(藤原行成)が職の御曹司に見えられて、話し込まれて夜が更けた。「明日は物忌みなので丑のころまで」とこられたのだ。頭の弁は蔵人の紙屋紙を重ねて、「今日は心残りがする。夜通し昔話をしていたいのだが、鶏の声にせかされて」とおおくの文字を書かれた。「夜深くなくのは孟嘗君のにわとりですか」と聞くと「いやここは逢坂の関」だとこちらに秋波を送ってくる。そこで「夜を籠めて鶏がうそ鳴きをしても逢坂の関は開きませんよ、しっかりした関守がいますので」と答えた。すると「逢坂の関は越えやすい関なので、鶏は鳴かずとも関は開いて待つとか」と返歌がくる。このような文は争って女房や中宮、隆円僧都らが頂いた。(なんせ藤原行成は三蹟のひとりで、その書は人が羨望していたので) 頭の弁の逢坂の関の歌に圧倒されて返歌もできないでいたのだが、「文は皆、殿上人が見てしまったので、二人の仲は評判になったようです。あなた様の歌は見せたくないので隠しておきます」というと、頭の弁は「このようにされるあなたはやはりただの間柄ではない」とか「私の文を隠しなさるのはうれしいことだ。そのように頼りに思いますよ」という。後日清少納言とは昵懇の中の源経房の中将がこられて、「頭の弁が大変ほめていたよ。この間の文の事をお話なされた。思う人がほめられるのうれしい」といわれる。なんだこの章は、清少納言が二人の男に持てたというおのろけ話ではないか。

[137] 「五月ばかり 月もなういとくらきに・・・」 第2類

女房の部屋に「誰かいる」と大きな声で呼ぶものがいる。中宮が「誰か来ているようなので調べてきて」とおっしゃるので、いくと、簾から差し入れるものは呉竹であった。「この君にこそ」と答えると(晋書王微之伝に、竹を植える理由を尋ねられて王微之はどうして1日この君なしでいられようかと答えた故事にいる。これより呉竹をこの君という。)、「これはすごい、早速殿上にいってはなそう」と式部卿の宮源中将と六位の蔵人らは帰ってしまった。残った頭の弁(藤原行成)は「おや帰るとはなさけない。清涼殿の前庭の竹を切って歌を詠もうとしたのだが、おなじなら職の御曹司にゆき女房らも呼び出して詠もうということになってやってきたのだが、すぐに呉竹の名を言われてしまったので驚いたのだろう。誰でも知っているわけは無いような事をあなたは簡単に言いましたね」といわれる。お仕事をしているとき、「植えてこの君と称す」(王子猷にある)と謳いながらまた集まってきたので、なぜ帰ってしまったのと問うと「あのような返事が来るとは殿上の間で話をしていたら、帝もお聞きになられ興味深そうでしたよ」という。翌朝帝のもとより少納言の命婦がお手紙を持ってこられた折に、中宮に昨夜のことを話されたそうだ。中宮はお召しになられて「そんなことがあったの」と聞かれるので、「行成の朝臣の作り話でしょ」と答えたら、中宮も笑っておられた。清小納言の自慢話のひとつ。

[138] 「円融院の御はての年・・・」 第2類

正暦2年一條天皇の父円融院が崩御され、大喪が明けた翌年みな喪服を脱がれた。この章段はいわば世代交代を象徴するものとして一條天皇の悪ふざけを記した。藤原師輔の娘の藤三位は一條天皇の御乳母、円融院の中宮東三条の叔母にあたる。中宮定子は東三条院の姪なので、中宮にとって藤三位は叔母さんの叔母さんにあたる。円融院ゆかりの人々がいつまでも円融院の思い出に浸っているころ、一條天皇は喪が明けると「これをだにかたみと思うに都には葉替えやしつる椎柴の袖」という歌を詠んで世代交代の気持ちを明らかにしたのであろう。事件は藤三位の局に胡桃色の色紙に上の歌が記された文を、蓑虫のような童が届けたことに始まる。喪が明けたばかりに、こんな色っぽい歌を誰が書いたのだろうかと騒動が持ち上がった。中宮と帝がおられる御前にこの手紙が持ち込まれ、誰の仕業かで話題となった。一條帝は御厨子のもとに同じ色紙があるのを指差して自分がやった事を白状したという。

[139] 「つれづれなるもの・・・」 第1類

退屈なものとして、他の場所で行なう物忌、駒が降りない双六、除目でポストが得られない家、雨が降る。

[140] 「つれづれなぐさむるもの・・・」 第1類

退屈をまぎらわするものとして、碁、双六、物語、3,4歳の稚児のかわいくものをいう、果物、面白く物をいう男がきたので物忌でもいれてしまう。

[141] 「とりところなきもの・・・」 第1類

とりえのないものとして、見た目がいやな感じで性格が悪い人、腐った洗濯糊、送り火の火箸、この枕草子は人が読むものでもないし、嫌なことでも何でも書いてしまうの。

[142] 「なほめでたきこと・・・」 第1類

臨時の祭りとは2つある。一つは11月末の賀茂神社の臨時の祭り、2つは3月中頃の石清水八幡宮の臨時の祭りである。当時の三社とは、伊勢、賀茂、八幡のことであった。賀茂の例祭は4月のいわゆる「葵祭り」で今ではこれの方が有名。八幡の例祭は8月の「放生会」のことである。さてお祭り好きの貴族にとって臨時の祭りくらい光っているものは無いそうだった。前日の試楽(リハーサル演奏会)もまた楽しみの一つであった。まずは試楽の様子を描こう。春うららかな季節、清涼殿の前庭に、掃部司が舞いの舞台を設営し、殿上人らは酒を飲み、立つときに饗の食べ物を庭に撒き、それを下々が取り合うのだ。男でさえ恥ずかしいのに女までも出てきて奪い合う、焚火小屋からさっと出てきて取る者もいる。掃部司らが舞台の撤収が済むや、主殿寮の蔵人らが庭を箒で掃き清める。清涼殿の向かいにある承香殿の前で笛を吹き拍子をとって、「有度浜」を歌い、「大輪」を踊るのは最高に面白い。賀茂の臨時の祭りには「還立ちの御神楽」などがいい。寒い中を衣装も声もすごく雰囲気がある。石清水八幡宮の臨時の祭りには本来還立ちの舞はなかったのだが、名残惜しいという声が上がって帝も舞を所望されるというので、舞い人や楽人らは再度呼ばれて大あわてだった。

[143] 「殿などのおはしまさで後・・・」 第2類

関白道隆殿が亡くなれて、政変(長徳2年道長が関白となり、伊周を大宰府へ、隆家を出雲へ流した)が起こり世間が騒がしくなって、中宮は参内せず小二条殿に籠られた。清少納言も里に帰っていた。そこに右中将(源経房)がこられて、「今日小二条殿の中宮のもとに往って来ましたが、女房が8、9人ばかりおられてましたが、庭の草も伸び放題で刈られず、宰相の君は、里帰りが心配でこんなときこそ傍に侍るべきだといってました」という。清少納言は「にくい人が居てね」と答えた。女房たちの中で、清少納言が道長側の人だと後ろ指を指しのけ者にするのがいやで里帰りをしていたのだ。心細くなっているとき、中宮の依頼で宰相の君が手紙を送ってきた。中には山吹の花びらと「いわないでも思っているでしょう」と書いてあった。歌の本がわからなくて困っていたが、若い女房のいわれて「心には下行く水のわきかえり 言はでも思ふぞ 言うにまされる」という歌であル都分った。こんな事を忘れてしまうなんてと落ち込むことしきり。後半は歌のなぞなぞゲームのことが書いてあるがいまひとつルールが分らないので理解できないので省略する。中宮にとって最大の後ろ盾である道隆殿が亡くなられ、兄の伊周と隆家が政変で破れ流されるという事態となった。道長の天下となって、人は道長の方へ靡いてゆく。そんな中、道長の誘いもあったようで、中宮定子の女房たちは清小納言を道長のスパイといって排斥したようだ。やむなく清少納言は里帰りしたが、中宮の信頼は揺るがなかった。清少納言の最大のピンチを中宮への信頼関係をつなぐことが出来た。しかしその中宮も2女を生んで間もなく亡くなられた。

[144] 「正月十よ日のほど・・・」 第3類

つまらない人の家に荒れた畑があって、桃の若い木が枝も繁って赤い幹が鮮やかに見えた。そこに童が二人「ホッケーの打ち木用に切って」と頼むので、3,4人の男の子が「卯槌の木にもなる、御前に使おう」といって、ゆすって木を倒した。小さい子が怖がって猿の様にしがみついているのもかわいい。

[145] 「きよげなる男の・・・」 第3類

1日中やさ男が双六遊びをして、なお灯をともして双六に興じている。相手がサイコロに念じているので、筒を盤の上に立てて、狩衣の襟を顔に当てて「どんなに念じても打ち勝つぞ」というのは自信たっぷりに見えることだ。

[146] 「碁を やんごとなき人のうつとて・・・」 第3類

やんごとない人が碁を打つのに、紐を緩め悠然と石を置いてゆくが、身分の低い人間はかしこまった感じで少し碁盤よりはなれて、袖を片手で押さえて石を置くのである。

[147] 「おそろしげなるもの・・・」 第1類

おそろしげなるものとして、つるばみ(どんぐり)の。、焼けた野老。髪の毛の多い男が洗って乾かしているところ。

[148] 「きよしと見ゆるもの・・・」 第1類

きよらかなるものとして、土器。新しい金属製の椀。畳に張る薦(こも)。水を入れる影。

[149] 「いやしげなるもの・・・」 第1類

品のないものとして、式部丞の笏(しゃく)。黒い髪のくせ毛。布屏風の古いものはそれでいいものだが新しく仕立てて桜の花を描き、胡紛や朱砂などで色をつけた屏風は品がない。遺戸の厨子。肥った法師。本場の出雲莚の畳。

[150] 「胸つぶるるもの・・・」 第1類

胸がつぶれるものとして、競馬を見る。親が気分が悪いというのは病気がはやっている頃ならなお。まだ口の聞けない赤ん坊が泣き止まず乳も飲まない。思いがけないところである男にばったり出会うこと、そしてそれが人の噂に上ること。全く嫌な人がくるのも胸が潰れる。昨夜きた男の今朝の手紙が遅いことは他人事でも胸が潰れる。

[151] 「うつくしきもの・・・」 第1類

可愛いものとして、瓜に描いた稚児の顔。雀の子が飛んでくる。2,3歳の子供が急いで這って来る道筋に塵を見つけてつまんで大人に見せるのは可愛い。おかっぱ頭の稚児が目に髪が覆いかぶさるのを払いもしないでうつむいて物を見ている。大きくはない殿上童が着飾っているの。あやしてかわいがってうちに抱きついて眠ってしまうの。人形の調度品。蓮の小さい葉。葵の小さい葉。なになにも小さいのはかわいい。色白で肥った2歳ぐらいの稚児が、袖を腕まくりしてはいはいをしている。8,9,10歳ぐらいの男の子が幼い声で本を読む。鶏の雛が白い足をだしてピヨピヨと鳴いて人の後先を歩くの、親が一緒に連れてあるくのもいい。雁の子。瑠璃の壺。

[152] 「人ばえするもの・・・」 第1類

人前でめだつものとして、どうってことない子がかわいがられるのに馴れているの。偉い人の前で緊張して出る咳。隣あたりに住む人の4,5歳の子供が物を散らかすのを止められて思い通りにならないでいる折、親がきたので勢いついて「あれみせて、お母さん」といって揺さぶるのだが、大人たちは話中で聞かないで居ると自分で探して騒いでいるのは大変見苦しい。親も「だめ」ともいわないで、「しないで」とか「こわさないで」というだけで笑っているのもいらいらする。

[153] 「名おそろしきもの・・・」 第1類

名前ばかりが恐ろしいものとして、青淵。谷の洞。はた板。黒鉄。土くれ。雷は名前だけでなくすごくおそろしい。疾風。不吉な雲。矛星(彗星)。肘掛雨(にわか雨)。荒野。強盗。乱僧。金持ち。生霊。蛇いちご。鬼蕨。鬼野老。棘。唐竹。入墨。牛鬼。錨。

[154] 「見るにことなることなきもの・・・」 第1類

見てどうってことないのに字に書くと仰々しいものとして、苺。露草。水吹雪。蜘蛛。胡桃。文章博士。得業の生。皇太后宮権大夫。楊桃。いたどりは「虎杖」と書く。

[155] 「むつかしげなるもの・・・」 第1類

うっとうしいと思うものには、縫い物の裏。鼠の子の毛も生え揃わないのが巣の中から転び出る。まだ裏地をつけていない皮衣の縫い目。猫の暗い耳の中。子沢山。さほど美しくもない妻が長く病についている男の気持ち。

[156] 「えせものの所得るをり・・・」 第1類

つまらないものでも勢いつく時とは、正月の大根。行幸のときの姫大夫。ご即位のときのみかど司。6月・12月の末の帝の着物の寸法とりの女蔵人。春秋の御読経の威儀師はきらきらしい。季節の御読経の御佛名の蔵人の役人。春日祭りの近衛の舎人。元日帝のお毒見役の少女。卯杖の法師。帳台の試みの夜の御髪上げ。節会のまかない女。

[157] 「くるしげなるもの・・・」 第1類

苦しそうなものとして、夜泣きをする稚児の乳母。愛する女を二人持って、どっちでも文句を言われる男。強情な物の怪を懲らしめる祈祷師、早く片づけばいいがそうでもなく人の笑われないようにがんばっている祈祷師。疑い深い男に思われた女。胸の中がいらいらしている人。

[158] 「うらやましげなるもの・・・」 第1類

うらやましいものとして、お経を習っているのに憶えられなくて何回も同じ場所を読むが、法師はともかくすらすらと読める人はうらやましい。気分が悪くて臥せているとき、笑って話をし歩き回れる人はうらやましい。伏見稲荷神社に詣でたが、中の御社あたりで苦しくなり、後から来た者がすいすいと追い抜いてゆくのはいらやましい。二月稲荷の例祭で明方登ったが、10時ごろになって暑くなってきて苦しんでいるとき、途中で40歳ばかりの女が「7回詣りをするが、今回は4度目になる。昼までに下りよう」という。よき子どもを持っているのはうらやましい。位の高い人が大勢の女房に取り囲まれているのはうらやましい。御前で女房らが多くいる中で、気を遣うべき人に出す手紙の代筆を頼まれるのはうらやましい。琴、笛などを習う。内裏や春宮の御乳母。帝の女房らがどこにも気を使わずに通うことができるのはうらやましい。

[159] 「とくゆかしきもの・・・」 第1類

早く知りたいものとして、巻き染め、むら濃、くくりものなどを染めている。人の子が産まれたので、男か女かを早く知りたい。位の高いひとは特にそうである。除目(人事)の早朝。よく知っている人が関係ないときでも早く知りたい。

[160] 「心もとなきもの・・・」 第1類

じれったく思うものとして、急ぎの縫い物を人に頼んで、今か今かと覗き込んでいる心地。お産がおくれてその気色がない。遠いところから思う人の手紙が来て、かたい封を開ける気持ち。祭り見物に遅く出かけて、祭りが始まってようで行列の先頭の白い杖が見えてきたとき、近くに寄ることが出来ず車を降りて行きたい気持ち。知られたくない人がいるので、前の人と話をしている場面。いつ生まれるかと待っていた稚児が50,100日と成長し、行く末がじれったい。急ぎの物を縫うため、暗いところで針に糸を通すのができなくて、人に頼んでやってもらうのだが、それもはかどらなくていらいらしている気分。急ぎの用があるとき、あるところに出かけるので車を回すのを待っている気持ち。物見に出かけようとして、もう終りましたよといわれるのは口惜しい。子供生んだあとのこと(後産)の長いこと。物見や寺参りに共に行く人を迎えに行くと、すぐ乗らないで待たせるのはいらいらする。打っちゃって行きたい気持ちがする。人の歌の返事をするべきなのだがすぐに歌が出てこないのはいらいらする。女でも直にやり取りする歌は早くと思っているときに、駄作ができるの。気分が悪く不安な時、夜の明けるまですごくジリジリする。

[161] 「故殿の御服のころ・・・」 第2類

故道隆関白様の喪中の頃、6月末大祓がすんで中宮が退出されるのだが、職の御曹司は方向が悪いというので太政官の役所の朝所(食堂)にお泊りになられた。そこは暗く暑く狭いところで夜を明かした。格子もなく御簾だけがかかっていたので、早朝庭の前栽がおかしくて女房らは下りて遊んだ。時の司にちかく鼓の音も例無く聞こえるので若い女房らは高い階に上って遊ぶので、下から見るとまるで天女が舞い降りたようであった。そして左衛門の陣までいって戯れ騒ぐので役人は「上達部の椅子に登り、障子などを打ち壊す」と抗議するも女房らは聞き入れなかった。役所の家は瓦葺なのかとても暑くて、御簾の外に出て臥す有様である。そこへ殿上人らがからかいにやって来るので、「太政官の役所が夜の社交場になってしまった」と役人は嘆いた。秋風の吹く7月8日に宮は職の御曹司にお帰りになった。七夕祭りも近く見えるのは狭いせいなのだろうか。
宰相の中将(頭の中将)斎信、宣方の中将、道方の少納言らが見えられて、女房らも出てお話をしているとき、脈絡もなく「明日はどのような漢詩を」と尋ねると、頭の中将はちょっと頭をひねって遅れなく「人間の4月」とおっしゃった。(この辺は注釈がないと分らない。頭の中将が清少納言を口説いた時、4月に読んだ歌が菅原道真の七夕の歌だったので、清少納言に笑われた。そこで今回は七夕だったのでどんな漢詩をいうと頭の中将は人間の4月と答えた。だから他人は何のことかわからないのが当然)過ぎた歌を忘れないのは素敵なことで、女は忘れないものだが男はうろ覚えで、皆はなぜっていう顔をするのだった。その理由を次に書いておこう。この4月1日の頃、殿上人がいっぱいいたのがいなくなって、頭の中将、源中将だけが残って経の事歌の事などをお話しているうちに、頭の中将は「夜も明けたので帰ろうか」と「露は別れの涙なるべし」と言い出した。清少納言は「それは七夕の歌でしょ」というと、頭の中将は「暁の別れの線でいっただけだ。人には言うなよ、笑われるから」とむくれてしまった。それで七夕になったらこの事を言おうと手ぐすね引いてまっていたら、7月7日に頭の中将がこられた。頭の中将はさらっと答えられたのは素敵なことよ。碁で言えば親密な話は「手を許す」とか「詰めも終り」というが、男の方は「手を受ける」という。近くなったことを「石を崩す頃」という。恋も碁のゲーム感覚なのだ。それで昔の事を覚えている男性には感激するものなの。この章段は清少納言と頭の中将との恋愛話である。

[162] 「弘徽殿とは・・・」 第2類

弘徽殿とは、閑院の左大臣(藤原公季、道隆殿の叔父にあたる)の娘であった。その弘徽殿の女房でうちふし(誰とでも寝るというあだ名で、身持ちの悪い女で評判だったのか)という者の娘で左京というのがいたが、その娘に源中将がいい仲になったという噂で弘徽殿の女房らがばかにして笑った。源中将は中宮の御曹司にやって来て、「宿直などもやらなければならないのですが、女房らが相手にしてくれません。それで宮使えもままならない。宿直所もいただければお勤めいたしたいのだが」という。すると女房らは「ほんと人間は寝るところがあればいいのよね、そういうところにはしげしげ通うくせに」と冷やかすので、源中将は「絶対に口をきかないぞ」と怒られるのであった。

[163] 「むかしおぼえて不用なるもの・・・」 第1類

昔を思い出して頂けないものとして、繧繝縁(最高級の畳)が磨り減って、中の芯がみえているもの。唐絵の屏風が黒ずんで表が破れているもの。絵師の視力が落ちている。葡萄染めの織物の色が褪せているもの。色好みが老いぶれた。品のある家の森が焼け失せたもの、池はそのままあるものの浮草や水草がしげっているもの。

[164] 「たのもしげなきもの・・・」 第1類

頼りがいのないものとして、飽きっぽく薄情な婿がいつも外泊する。うそつき男の安請け合い。風が強いのに帆をかける舟。7,80歳の人が気分が悪くなって久しいこと。

[165] 「読経は・・・」 第1類

読経は不断経が一番。

[166] 「近くて遠きもの・・・」 第1類

宮部の祭り。薄情な親戚の間柄。鞍馬の九十九折の道。12月の大晦日から翌年の元旦の日まで。

[167] 「遠くて近きもの・・・」 第1類

極楽。舟旅の道。男女の仲。

[168] 「井は・・・」 第1類

ほりかねの井。玉の井。走り井は逢坂にある。山の井はどうして浅いの代名詞になったのかしら。飛鳥井は冷たい。千貫の井。少将の井。桜井。后町の井。

[169] 「野は・・・」 第1類

嵯峨野。印南野。交野。駒野。飛火野。しめし野。春日野。宮城野。粟津野。小野。紫野。

[170] 「上達部は・・・」 第1類

上達部とは位が三位以上の役職。左大将。右大将。春宮の大夫。権大納言。権中納言。宰相の中将。三位の中将。

[171] 「君達は・・・」 第1類

君達とはいい家のお坊ちゃまのこと。頭の中将。頭の弁。権中将。四位の少将。蔵人の弁。四位の侍従。蔵人の少納言。蔵人の兵衛佐。

[172] 「受領は・・・」 第1類

受領とは地方の長官。下級貴族のゴールだが、任地の地方によってランクがある。伊予守。紀伊守。和泉守。大和守。

[173] 「権の守は・・・」 第1類

権の守とは国守を補佐する官で、税金や荘園の賄賂など役得が多い職である。やはり下級貴族の最終ゴールである。甲斐。越後。筑後。阿波。

[174] 「大夫は・・・」 第1類

大夫とは普通の貴族の役職。式部大夫。左衛門大夫。右衛門大夫。

[175] 「法師は・・・」 第1類

僧侶にも複雑な階層と身分が存在する。最高位の僧綱に属する律師。有識に属する内供。

[176] 「女は・・・」 第1類

女房の最高位は典侍、内侍。

[177] 「六位の蔵人などは・・・」 第3類

六位の蔵人などは下級職の代表みたいなもので、期待するのも無駄。5位の蔵人に昇進するのがゴールで権の守とか大夫となってもマイホーム1家、車1台持てるだけのこと。

[178] 「女のひとりすむ所は・・・」 第3類

女の一人すむところは、すごく荒れてて築土塀も完全でなく、池には水草が生え、庭には蓬が繁っているようなことは無いにしても、庭の砂の間から青草が出ているのはさみしげで素敵なんだな。手入れ・修理を完全にし門を堅く閉めてきちっとしているのはかえっていやらしい。

[179] 「宮仕人の里なども・・・」 第3類

宮仕えする女の里(実家)は、二親がいるのは大変好ましい。人がすごく出入りをし、奥の方でいろいろ声が聞こえて、馬の声なども騒々しいほどでも文句はない。忍びでも公然でも「いつお帰りになられるのですか」とか「お下がりになっておられるのを知りませんで」とか言って、ちょっと顔出しに来る人がいる。好いた人がきて門開けをするのを「うるさい」とか「夜中までえらそうに」と思われるのはいやだ。「表門は閉めたか」とか問うので「まだ人がいますので」と面倒くさそうに答えると、「人が出て行ったら早く閉めろ、このごろは盗人が多いし、火にも注意しろ」というので耳障りに聞こえる人もいる。その人のお供の連中もうんざりして、まだ出てこないかなとたえず覗き込んでいる。気持ちが熱烈な人は何度追われても、なお居座って夜の明ける景色を面白がっている。親が一緒なのはそのようなものだが、兄の家でもやはり煙ったいのだろうね。

[180] 「ある所になにの君とかや・・・」 第3類

あるところで何とかの君で公達ではないが浮気ものでセンスがあった男が、九月ごろ女のもとから帰るとき、有明の月(夜が明けても月が残っている)が霧にむせんでロマンチック様子だったので、女に言葉を尽くして出て行った後、女の遠く見送る姿がなんとも艶なことである。垣根の間に身を寄せて立ち「もう一度話したい」と思って「有明けの月のありつつも」と歌を口ずさむのである。後半は意味不詳なので省略。

[181] 「雪のいと高うはあらで・・・」 第2類

雪がうっすらと降ったのが素敵なこと。そして雪が高く積もった夕暮れから、縁側の端近くで気心のあった2,3人の女房が寄って火桶を中心におしゃべりをするほどに暗くなった。灯もともさず雪明りで、火桶の火箸で灰をかき回してあわれを言い交わしているのがぴったりの雰囲気である。こんなときには必ずやって来る男がいる(頭の中将か)。「今日の雪をどう思われて過ごされているのやら」という「今日来よう」という線をいうらしい。昼あったことから話し出してよろずのおしゃべりをする。敷物は出したが片方の足は下に降ろしたまま、鐘の音が聞こえるまで会話は絶えない。明方帰られる時、「雪満群山・・」という詩を唱えたのはいかしていた。女だけだったこうはゆかないので、ロマンチックな気分を味わえたのが素敵。

[182] 「村上の前帝の御時に・・・」 第2類

村上の先帝の時、雪が降り積もってので、容器に雪を盛らせて、これに梅の花をさして「月が明るいのでこれを詠め」とおせつけられた。女房兵衛の蔵人は「雪月花の時」(白氏文集より)を歌った。帝は「歌を詠むのは平凡だ。こんなセリフがこのようなときに出てくることが得がたい」といわれた。また殿上人が居られない時、炭櫃から煙が立っていたので、「あれはなんだ。みてこい」とおおせられたので、兵衛の蔵人は見てきて「わたつ海にこがるる物みれば海女の釣りして帰るなり」と申上げた。「帰る」と「カエル」をかけたちょっと強引な駄洒落である。誰がカエルを焼いて食らうのか?

[183] 「御形の宣旨の・・・」 第2類

注釈がないと分らない章段である。御形の宣旨(女房の名、歌人、右小弁源相識の娘)が帝に、5寸ばかりの殿上童の小さい人形を作られて角髪を結い装束を着せて名前を書いて差し上げた。名は「ともあきらの大君」と書いてある。帝は大変面白がられた。臣下に下られた源兼明が64歳で親王に復帰されたので、「おじいさんの可愛い親王」という意味でつくったのだろう。

[184] 「宮にはじめてまゐりたるころ・・・」 第2類

この章段は清小納言が中宮に仕え始めた頃、中宮への憧れと尊敬の気持ちを初々しく語ったところである。初めて宮に仕えた頃は、恥ずかしいことは数知れず、涙も落ちるような気持ちであったが、毎夜参上して中宮の御几帳の後ろに控えていたが、絵を見せられ、書を見せられて「これはこう、あれはこう、かれの誰の」とおっしゃる。高杯においた御殿油なので、明るくて髪の毛1本でも昼間よりくっきり見えて圧倒された。すごい寒い頃で出される手もかすかに見え匂い立つ薄紅梅は限りなく美しい。ぽっと出の田舎人間にはこのような人が存在することに驚かされる。夜明けには早く下がろうとするのだけれども、宮は「葛城の神だってもうちょっとよ」なんて仰せになり引き止められる。女官などが来て「御格子を開けて」というのを「だめ」とおっしゃっるので、そのままにして笑って帰るのであった。お話が長くなって中宮は「下がりたく思っているのでしょう。夜になったらすぐでしょう」とおっしゃった。膝行って局に帰ると格子を開けると雪が降っている。昼ごろ中宮は「今日もすぐ参れ、雪で曇って露には見えないから」など度々召さるので、局の主も「局にこもっていては見苦しい。召されるのは幸せと思いなさい」と追い出されて参上するのも息がつまるのだ。宮の御前近くはいつも角火鉢に火がおこされているがそこには人はいない。上臈はお給仕で近くにおられる。次の間の長炭櫃のまえに女房らがおおく屯している。唐衣を着流して慣れた様子でいるのはうらやましい限りである。いつかはこのような人々の仲間入りが出来たらとうらやましい。暫くして先払いの声がするので「殿道隆様のお出でだわ」と散らかった物を取り片付け、そうして下ろうとするのだが身動きが出来ず、几帳の裏から覗き見をするのだ。大納言伊周様(中宮の兄)のお出ましであった。指貫の紫色が雪に映えて美しい。柱のもとに立たれて「昨日今日と物忌だったのですが、雪が降ったので心配で」とおっしゃる。宮は「道もなきにどうして来られたの」とご返事なされた。伊周様は「あわれとご覧になられるかな」とつがれた。こんな有様は物語の中のことかと思っていたの。中宮様は白い御衣に紅の唐綾を上に羽織られ、まるで絵に描いたような夢の心地がするのである。女房らと物をいいふざけられ、嘘には言い返して話が展開するの。果物なんかを出して接待をし、御前様も召し上がられた。「御几帳の後ろにいるのは誰」とお尋ねになられた。誰かが唆したに違いない。伊周様が立って近くにこられ前の話をいろいろ「本当だったの」といわれるので、身近にお話できるのは現実とは思えないの。顔を隠すための扇を取られて、これは誰の絵だとお尋ねになったり、人の書いた草子を取り上げて「彼女は何でも知っているので答えさせよう」などと戯れられる。「私をどう思う」とお尋ねになられたので「そんなことは・・」というと台所で誰かが大きなクシャミをした。すると「嘘を言ったのでしょう」と奥へお入りになった。くしゃみをした人間の憎たらしいことってありはしない。私が嘘をついてないことは「糺すの神」がご存知よ。

[185] 「したり顔なるもの・・・」 第3類

やったーという顔をしているものとして、正月元旦に最初にクシャミをしたもの、こんな事を喜ぶのは下臈よ。競争の激しい蔵人になった子の親。除目の人事で第1クラスの国司になった人、おめでとうの挨拶に「どういたしまして、難しい時ですので」と答えるのもしたり顔。競争相手の多い中に婿になった人。受領階級から参議(宰相)になったひと、もともとの公達より出世するよりはうれしいだろう。

[186] 「位こそ猶めでたきものはあれ・・・」 第3類

位が上がるのは本当におめでたいことだ。同じ人間でも大夫の君・侍従の君などはバカにされやすいポストだが、中納言・大納言・大臣となれば焦ることもなくやんごとなく見えるものだ。受領などについても、地方の国々にいって、大弐・四位・三位などになれば上達部でもうらやまれるようだ。女はやっぱりつまらない。御乳母は内侍・三位となれば重職だけれど、それも年取ってからだとね。そして大方の女の幸せのゴールは受領の室となって国に下ることね。普通の女が上達部の室になって産んだ娘が后になれば天にも昇る気持ちでしょう。法師でも姿美しく経をよく読むとしても女房らにあなどられるが、僧都・僧正になれば仏が現れたようにかしこまられる。

[187] 「かしこきものは・・・」 第3類

調子いいものとしては、乳母の亭主がいい。帝や親王なんかはいうに及ばず、受領の家なんかでも、乳母となれば得意顔して自分でも拠りどころがあると思っている。乳児を自分のものにして、女はともかく亭主は後見人のような顔をし、言葉に叛くものがあればつまはじきをし讒言をし、調子に乗って指図するのだ。後半は趣旨の違う話(若い女房の勤めの苦労話)となっているので割愛する。これも紛れ込んだに違いない。

[188] 「病は・・・」 第1類

病気は胸。もののけ。あしのけ(脚気)。そこはかと物が食べられない心地。以下三章は病に関する省察。

[189] 「十八九ばかりの人の・・・」 第3類

18,9歳ぐらいの女子の、髪は美しく丈ばかりに長く、ぽっちゃりしていて、色白で、愛敬のある顔しているものが、頬を赤くして歯痛で泣きぬれているのはかわいそう。

[190] 「八月ばかりに 白き単・・・」 第3類

八月ぐらいに、白い単衣を着て紫苑重ねの優雅な衣装を着ているのだが、胸をひどく病んでいたので、友達や公達らも見舞いにやってきて様々にありきたりの見舞いをいうのは白けるの。遠くで思っている方が感激ね。帝にも聞こえて御読経の声のいいお坊さんを遣わすのだが、狭いところに見舞い客が一杯いるのは本当に罰当たりよ。

[191] 「すきずきしくて・・・」 第3類

色好みの高貴なお方が夜はどこへ行ってきたのだろう、暁に帰ってから起きると、眠そうなのだが硯を取り寄せ墨を丁寧にすりおろして、心をこめて書いているしどけない姿も生かすじゃないの。白い衣に山吹・紅をかけ着て、しわしわになった単衣をじっと見つめて女への手紙を書き終え、前にいる女房には渡さず、すっと立って小舎人童と随身を呼び寄せ、耳打ちして、去ってゆく使いを見送ってもずっと眺めている。それからお経のいいところを低く口ずさんでいると、奥のほうで粥と手洗いなどを用意して勧めるので入っていって、文机に向かって書等を見、興味のあるところは高い声で復唱している。手を洗ってから直衣を着て法華経第六巻を読む。きっと近所なのだろうか先ほどの使いが合図をするので、書を打っちゃって返事の心を奪われている。この罰当たりめが。

[192] 「いみじう暑き昼中に・・・」 第3類

とても暑い昼中、どうしたらいいのかと、扇をうちあおぎ氷水に手を浸して騒いでいると、濃い赤薄紙の手紙を唐撫子に結んでよこされた方の、書かれた暑さを思いこころざしの浅くない事を考えると、ずっと使い込んできた扇も棄ててしまうの。

[193] 「南ならず東の・・・」 第2類

南でなければ東の廂の端に新しい畳を敷いて、三尺の几帳(ベットのカーテン)の涼しげな布を押すと思ったより向こうへ行く。そこに白い生絹の単衣、紅の袴、上掛けには濃い色の着物でそれほどくたびれていないのを引っ掛けて寝るの。灯篭に灯をともしてあり、二間ばかり離れて女房二人が長押(段差のある床)によりかかり、降ろしてある簾に添って寝ている。火取り香爐に火を深く埋めそっと匂わせるのも心にくいばかりよ。宵過ぎて、忍びやかに門をたたく人がいるので、訳知りの女房がそっと立って隠してその人を入れるのは気の利いたことね。傍によく鳴る琵琶があるので、お話の合間に音も立てずに爪弾くのが素敵なこと。

[194] 「大路近なる所にて聞けば・・・」 第3類

大路の近くに住んでいると、明方時に牛車に乗った人が簾を上げて、「遊子猶行残月」(和漢朗詠集)といい声で誦えるのは素敵なこと。馬で行く人も素敵よ。泥障の音がするのでどんな奴だろうと思ってみると、とんだ下賎な奴で幻滅した。

[195] 「ふと心おとりとかするものは・・・」 第3類

急に幻滅するものは、男も女も言葉を品なく使うときよ。字ひとつで雅にもなり下品にもなるのはどういうわけかしら。だけどそう思う人間も特別優れているわけでもないから、何が良いか悪いかは誰も知らない。下品な言葉も悪い言葉もわかって殊更に使っているなら悪くは無い。問題は自分が使いつけている言葉を不用意に言い放つのが浅はかなのだ。そんな風でもない年寄り、男がわざとつくろって田舎臭い言葉をいうのは厭味。よくない言い方下品な言い方も一人前の大人は平気な風をしていうが、若い人がいうときまりが悪く聞こえる。「・・・せんとす」(・・しようってさ)という字をなくしてただ「・・んずる」(・・しよう)などというとまずいの。手紙にも書けばもっといけないの。物語は悪い言葉で書いてあったりするとどうしょうもなく、作者まで残念に思える。清小納言の国語学者的な発言で、文章論、文法の乱れなどが話題となっている。

[196] 「宮仕人のもとに・・・」 第3類

宮仕えの女のもとに来る男がそこで物を食うのはどうしょうもなくまずい。また物を食わせるほうも悪いの。恋人がなお言いたいことがあるのに、忌むように口をふさぎ、顔を避けるようにして物を食うように見える。たいへん酔って夜中に泊まっても朝に湯漬けさえ出さないことよ。「気がきかない」といって来なくなればそれでもいいじゃない。実家で奥より飯を出してきたら、もうどうしょうもないが、やっぱりだめ。

[197] 「風は・・・」 第3類

風は嵐。3月ごろの夕暮れにゆっくり吹き付ける雨風。以下四章は風に関する省察。

[198] 「八九月ばかりに雨にまじりて・・・」 第3類

八、九月ごろ雨に混じって吹く風は胸にくるのね。雨脚が横様に騒がしく吹くのに、ひと夏使った綿衣を生絹の単衣にかけて着るのって、この前までは単衣だけでも暑かったのに、いつの間に涼しくなったのだろうと思われて季節の変り目がおもしろい。暁に格子・妻戸を押し開けると、嵐がさっと顔にかかるのはたいへんおもしろい。

[199] 「九月つごもり十月のころ・・・」 第3類

九月末から十月のころ、空が曇って風が騒がしく吹きつけ、黄色の葉がはらはらと落ちてくるのは胸にジーンとくる。桜の葉や椋の葉は早く落ちるものよ。十月の木立の多い庭はたいへんにぎやかだ。

[200] 「野分のまたの日こそ・・・」 第3類

野分(台風)の次の日は胸に来ることばかり。立蔀や透垣などが乱れて前栽の植え込みもかわいそう。大木は倒れて枝も折れて、荻や女郎花のうえに横倒しになって臥せているのはあんまりだ。格子の壺に木の葉がわざとしたように吹き入れられているのは強い風の仕業だったのでしょうね。昨夜は寝られなかったので、遅く起きてきたらしい美しく清らかな女が小袿をかけて母屋からすこし顔をだしている、髪は吹き乱れてぼさぼさになっているのが本当に雰囲気がある。この景色を見て「むべ山風を」(古今集)と歌うのは歌心のある人だなと思われる。年頃にして17,8歳の若い女房らが生絹の単にブルーの宿直衣を着て、髪を長く丈までのばして袴のひだからちらちら髪が見え隠れして、根こそぎになっている草木を拾い集め植え直しをしているの。

[201] 「心にくきもの・・・」 第3類

宮の局の夜の風景を思い起こすと、気になるものには、物を隔てて聞いていると、女房とは思えない手で静かに魅力的なのに聞こえ、返事は若々しく衣擦れの音もさやさやとやってくる気配。障子などを隔てて聞くと、御膳などまいる様子で、箸・匙の音が混じり、杓子の柄が倒れる音まで聞こえておかしい。よくうちなめした衣のうえに、わずらしくはない髪を振り流しているの、長さが知りたく思われる。調度が素晴らしいところに、大殿油(夜間照明の灯)はおかずに、炭櫃におこした火の光に照らされた御帳の紐などがつやつや光って見える。火桶の内側に描いた絵などもよく見え、火箸が輝いて斜めに刺してあるのも素敵よ。夜更けて宮は御休みになられて、女房らも皆寝た後、外には殿上人などが話をして碁石を笥に入れる音がが度々聞こえるのは気になるわ。火箸をそっと突き刺すのでまだ起きていると分る。寝ないでいる男はやっぱり気にかかる。宮がまだお目覚めのとき、女房ら控え上人や内侍など蒼蒼たるメンバーが居られて、御前でお話をなされる折は大殿油を消しても、長炭櫃の火で物の際はよく見える。殿上人には気になる新参者の女房はよくお目通しになるわけでがないが御前に衣擦れの音もさよかにやって来て、かすかに仰せになる言葉を聞こえないくらいおとなしくしている。女房らはあちこちに屯して話をして、下がったり参上したりする衣擦れの音で誰か分るの。内裏の局にこっそり忍んでくる男がいるので、几帳の明りは消しているのだが傍の光上から差し込んでくるので物の区別はつくのである。几帳を引き寄せ、昼はそう顔を合わせられない人なので、陰に臥せていれば髪の様子も分るよう。男の直衣・指貫などを几帳に打ちかけるので、六位の蔵人の青色の袍はいいとして、緑色(6位以下の下級職の色)はいけない。人にそれと分るのだ。

[202] 「五月の長雨のころ・・・」 第3類

前章のこころにくき物の続きである。薫物の香はたいへん気になるものである。5月の長雨(梅雨)のころ、上の御局の小戸に斎信の中将が見えられた折の香はまことに絶品だった。雨では冴えないのだが、そのときの香のよさはどうして言わないでいられようか。次に日まで御簾に香が残っていたを、若い子らはこの世のものとは思え得なかったようよ。

[203] 「ことにきらきらしかぬ男の・・・」 第3類

格別きらびやかではない男が、お供の背の高いのやら低いのやらを連れて歩くより、乗り慣らした光った牛車を、かっこよく決めた牛飼い童に引かせる、というより元気な牛に引っ張られるよう綱を引かれるのが好ましい。ほっそりした家来に末濃の藍色の袴をはかせ、ピカピカの沓を履いて走らせるのは、心憎い。前段三章をあわせて「心にくきもの」一章段とする書もある。

[204] 「島は・・・」 第1類

八十島。浮島。たはれ島。絵島。松が浦島。豊浦の島。まがきの島。

[205] 「浜は・・・」 第1類

有度浜。長浜。吹上の浜。打出の浜。もろよせの浜。千里の浜。

[206] 「浦は・・・」 第1類

おほの浦。塩釜の浦。こりずまの浦。名高の浦。

[207] 「森は・・・」 第1類

うえ木の森。岩田の森。木枯らしの森。うたた寝の森。岩瀬の森。大荒木の森。たれその森。くるべきの森。立ち聞きの森。よこたての森。殆どが冗談の名前ばかり。

[208] 「寺は・・・」 第1類

壺坂。笠置。法輪。石山。粉河。志賀。

[209]「経は・・・」 第1類

法華経。普賢十願。千手経。随求経。金剛般若。薬師経。仁王経の下巻。

[210]「仏は・・・」 第1類 

如意輪。千手。六観音。薬師仏。釈迦仏。弥勒。地蔵。文殊。不動尊。普賢。

[211] 「書は・・・」 第1類

白氏文集。文撰。新賦。史記。五帝本紀。

[212] 「物語は・・・」 第1類

住吉。うつほ。殿うつり。国ゆづり。埋もれ木。月待つ女。梅壺の大将。道心すすむる。松ヶ枝。こま野物語。交野の少将。 殆どの物語は失われている。

[213] 「陀羅尼はあかつき・・・」 第1類

陀羅尼は明方に読む、経は夕方に読む。

[214] 「あそびは夜・・・」 第1類

遊びは人の顔が見えない夜がいい。

[215] 「あそびわざは・・・」 第1類

小弓。碁。鞠。

[216] 「舞は・・・」 第1類

駿河舞。求子。太平楽。鳥の舞。落蹲。

[217] 「弾くものは・・・」 第1類

琵琶。調べは風香調、黄鐘調、蘇合の急。箏の琴。調べは想夫連。

[218] 「笛は・・・」 第1類

笛は横笛が大好き。遠くから聞こえて近ずくさまや近くから遠ざかる様子などたいへん素敵。車に乗っても徒歩でも馬でも、懐に忍ばせて持っていても目立たないので便利。さらによく知った調子を聞けるのは最高ね。男が忘れていった笛を、明方に起きて枕元に見つけたというのも絵になっている。使いをよこして笛を取りに来ると紙に包んで返すと立て文に見えるの。笙の笛は月の明るいとき車の中で聞くのもいいものよ。扱い難そうに見え、吹く顔もあんまりいいものではないけど、それは横笛でも吹き方次第ね。篳篥(ひちりき)はやかましく、秋のクツワムシのような心地がしていいもんではない。まして下手に吹けば最低ね。臨時の祭りの日、まだ御前に出る前に物陰で横笛が面白く吹き出され、途中から篳篥の音が添えられると、髪の毛が逆立ちするような気持ちになる。琴や笛に合わせて演奏するのがいいのよ。

[219] 「見ものは・・・」 第1類

見物(イベント)としては、賀茂の臨時の祭り。行幸。賀茂の斎院のお帰り。関白様の御賀茂詣。以下の三章段はその各論となる。関白様の御賀茂詣の記述はない。

[220] 「賀茂の臨時の祭・・・」 第2類

11月末に行なわれる賀茂の臨時の祭りの日、空は曇り雪も少し降って挿頭の花や青摺りの袍にかかるのもよし。はっきりとした黒の斑の太刀の鞘に半臂の紐がかかり氷かと間違うような艶打ちが見えるのははっとするほどすばらしい。もう少し大勢の行列で渡らせたいのだが、使いの受領の見えが悪く、陪従らの品がなく柳や山吹の挿頭もつまらないものだが、藤の花に隠れているのはいいものだ。馬の泥障(あふり)を打ち鳴らして「賀茂の社の木綿だすき」と謳いながら行くのはいい。(ここに出てくる花は季節からしてすべて造花です)

[221] 「行幸にならぶものは・・・」 第2類

行幸に匹敵するものは何かあるだろうか。御輿に帝が乗られるのを見ると、日頃何くれとお仕えもうしあげているのだけれど、さらに神々しく見えるの。普通はどうってこない司の姫太夫でさえ魅力的に見えるのよ。御綱を執る中・小将も、近衛の大将、近衛司なども仰々しく見える。5月は本当に優雅なものだ。だけど今は行なわれなくなっているようだが、昔の事を知る人がいうのを思うと本当はどうなんでしょうね。その行幸の日は屋根に菖蒲を葺いて、行幸を見る桟敷にも菖蒲を葺きわたし、すべての人が菖蒲鬘して、美人の菖蒲女房を選り揃え、薬玉を賜って腰につけるのよ。お帰りの御輿の前で獅子・狛犬舞いを行い、そういうこともあるのかしらほととぎすが鳴いて季節柄に合わせるって絶対ね。行幸はめでたいので、公達らはぎゅうぎゅうに車に乗って、上下に車を走らせないとは残念な気がするが、車を割り込んで入れるのは本当にどきどきするの。(清小納言は年甲斐もなく、浮き浮きするのだ)

[222] 「祭のかえさ・・・」 第2類

賀茂祭り(葵祭り 5月中)には、紫野の野の宮におられる斎院がそこを出られて、葱花輦に乗って一條大路を通って下賀茂神社から上賀茂神社に御参りになられる。その翌日が斎院の帰り(祭りのかえさ)となる。昨日は凡てが滞りなく、一條大路は広くきれいだが日の光も暑くて車に差し込んでくるのはまぶしいから扇で避けて坐っていた。長く待つのは苦しく汗も吹き出るのだが、今日は早くから雲林院、知足院などのもとに止めてある牛車も葵・桂をうちなびかせている。いつ鳴きだすのだろうと待たれるほととぎすの声が多すぎるくらいに鳴くのはめでたいことだ。社のほうから赤衣を着た者の行列がいつ始まるのかと待つほどに、「始まったの」と聞くと「まだまだ」と答えて、輿を持ってくる。あれに載られるのかなと思うと近づき難いが、下衆が近くにいるのが気に食わない。ずっと先のことといっていたがお帰りは間もなく始まった。扇から始まって青朽葉などが素敵に見えるところへ、青色に白襲をちょっと引っ掛けたような蔵人の役人衆は、卯の花の垣根のようにみえて、ほととぎすも隠れていそうな感じよ。昨日は車一台に多くの公達が、二藍の指貫、狩衣も乱れて簾を引き下し、気違いじみて見えた連中も、今日は斎院の垣下(直会の相伴)なので、装束も麗しくひとりづつ車におとなしく乗って、かわいい殿上童を乗せているの。お渡りが終ると、みんなは焦るのか、我も我もと車を急がせて大混乱になる。止めても聞き入れないので、どうしょうもないので少し広い場所に車を移動した。男車で誰かは知らないが、道が分かれるところで「峯にわかるる」(古今集)といったのはすてきだったわよ。なおあかず面白いので、斎院の鳥居まで見に行ったこともあった。内侍の車がうるさいので、別の道を取って帰ると、山里の様子となって卯木の垣根が枝もあららしく出ていて、花はまだなのだが車に挿したの。道はたいへん狭く通れそうにないと思われたが、近くまでいくとそうでもなくてよかった。

[223] 「五月ばかりなどに山里にありく・・・」 第3類

五月あたりに山里を車で走ると気分がいい。草も葉も水も青く見渡せて、上はつれなく草が生い茂っているが、ただずっと歩いてゆくと下は予想もしない水溜りがあって、深くはないが水が跳ね上がってくるのよ、ご注意。(拾遺集「芦根はふ泥は上こそつれなけれ 下はえならず思う心を」より) 左右にある垣根から枝が出ているので。それを折ろうとするが摺り抜けてしまうのが口惜しい。車におしつぶされた蓬が輪のまわりに引っかかっているのは面白い。

[224] 「いみじう暑きころ・・・」 第3類

たいへん暑い夏、夕涼みのころは物の様子もぼんやりしているので、男の車が先払いして駆けるのはいうに及ばないが、普通の人が一,二人乗って後ろの簾も開け放って走らせるのは涼しげだ。まして琵琶をかき鳴らし、笛も聞こえて通り過ぎるのはとてももったいないわ。牛の糞の匂いもかぎたくはないが狂おしいほどよ。暗い闇となって先の車がともした松明の煙が車に入ってくるのはいいよね。

[225] 「五月四日の夕つかた・・・」 第3類

五月四日の夕方、青い草をいっぱい刈って、左右に担いで赤衣きた男が行くのは素敵。

[226] 「賀茂へまゐる道に・・・」 第3類

賀茂に行く道に田植女が,新しい折敷の様な笠をかぶって、大勢が立って歌を歌っている。女は折れ臥すように体を曲げ何をしているのはよく見えないが後ろ向きに歩く。どういうことなのかと思っていると、ほととぎすのことをひどくバカにした歌を歌う。「ほととぎす、おまえが鳴くからわたしゃ田植をせなならぬ」という。誰か「いたくな鳴きそ」(古今集)と詠んだ。宇津保物語の仲忠の幼年期を悪くいう人と、「ほととぎす鶯におとる」という人は薄情者よ。

[227] 「八月つごもり・・・」 第3類

八月末太秦に詣でる途中、穂の出た田に大勢の人が出て騒がしい。稲刈りだろう。賀茂に行ったときは早苗をとったのにいつの間にかそんな季節になったのね。男どもが赤い稲の茎を青い鎌で切ってゆく。簡単そうに見えるのでやってみたくなるのよ。

[228] 「九月廿日あまりのほど・・・」 第3類

九月廿日余のほど、長谷に詣でて、おんぼろの家に泊まった。疲れてすぐに寝た。夜更けて月が漏れて射すと、寝ている人の衣の上に白く映るのはそれはあわれに見えるの。こんなときに人は歌を詠むものよ。

[229] 「清水などにまゐりて・・・」 第3類

清水に参拝して坂を登ると、柴を焚く香がしてくるの。

[230] 「五月の菖蒲の・・・」 第3類

五月の菖蒲が秋冬を過ぎて、たいへん白く枯れて貧乏多らしいので、引き抜くとそのときの香が残っているの。

[231] 「よくたきしめたる薫ものの・・・」 第3類

よく焚き込んだ薫物を、三日ほど忘れていたが、かえって新しい香よりも奥ゆかしい匂いがするの。

[232] 「月のいとあかきに・・・」 第3類

明るい月のもと川を車で渡ると、牛が歩むままに水晶のような水しぶきが散るのが美しい。

[233] 「おほきにてよきもの・・・」 第1類

大きいのがいいものとして、家。弁当箱。法師。果物。牛。松の木。硯の墨。男の目が細くては女っぽい。火桶。酸漿(ほおずき)。山吹の花。桜の花びら。

[234] 「短くてありぬべきもの・・・」 第1類

短くていいものとして、急ぎの裁縫の糸。下衆女の髪。人の娘の声。燈台。

[235] 「人の家につきづきしもの・・・」 第1類

人の家にふさわしいものとして、肱折れの廊下(きちんと曲がった)。円座。三尺の几帳。大柄な女の子。いい召使。侍所の下女。折敷、懸盤、中の盤。衝立障子。裁縫台。きれいな装飾をした弁当箱。唐傘。二階厨子。提子。銚子。

[236] 「ものへ行く路に・・・」 第3類

どこかへ行く道すがら、さっぱりした細めの男が立て文を持って急ぎ行くのを見ると、どこへと興味が持たれる。またさっぱりした童女の衣装は鮮やかではないが着馴らした風で、艶のある下駄の歯に泥が一杯くっついているのを履いて、白い紙に包んだ物、もしくは草子を入れた箱を持ち歩くのを見ると呼び止めてみたくなる。門近くを通り過ぎるのを呼び入れると、愛嬌なく返事もしないでいく者は、使う人の教育が知られることよ。

[237] 「よろずのことよりも・・・」 第3類

祭りの日の風俗について清小納言の好みを断定的に記述した章段であろう。なんといっても祭りの日にみっともない車に情けない衣装を着てくる男は最低ね。説教なんかを聴きにくるときでも多少は許されるとしても、やっぱりとんでもない格好では頂けない。車には下簾を懸け、白い単衣の袖を垂らして行くのだけど、祭りの日には下簾も新調してまあまあの格好で出てゆくとさらに立派に飾った車に出会えば、何だってと思えてくる。いいところに車を止めようと早く出かけ、そわそわと暑い中で立ったりしていると、斎院の垣下を終えた殿上人、蔵人の弁、少納言らが、7,8台の車で続けて院の方(野々宮)からやってくるのが、本当に用意が整ったのだと思われて嬉しい。物見桟敷の前に車を止めて見物するのが素敵ね。殿上人らが挨拶に使いをよこしたり、御前駆けの人らに水飯をご馳走するため階段の下に馬を引き寄せる。いいところの若い公達には雑色らが馬の口を取るのはいいとして、そうでもない身分の者は見向きもされないので可哀そうなのね。御輿が渡られる時には轅が全部下ろされ、通り過ぎると急いで上げるのはかっこいいものね。自分の車の前には人の車がくるのを厳しく制するのだが、それでも「どうして止めちゃいけないのだ」と強引に止める車がいて、言い難くなって手紙を入れるのもおかしい。隙間なく止めてある車の列に、身分の高い人の車とお供の車が沢山やって来てどうするのだろうと見ていると、御前駆けの者が沢山下りてきて止めてある車をただ押しのけ押しのけ、お供の車までも全部並べて止めるのは呆然とするほどご立派なことね。追い払われた車が牛をつないで別のところへ移動するのもわびしいものだ。キラキラした立派な車にはそういう強引なことをしないのも勝手ね。

[238] 「細殿にびんなき人なん・・・」 第2類

細殿に不釣合いな男が夜明けに傘をさして出て行ったという噂が出たので、よく聞くと私の事だった。地下の者といってもまともだし人にとやかくいわれる話でもないと思っていたら、中宮定子より文を下されすぐに返事をという催促であった。何事かと文を見ると、大きな傘の絵に手だけが傘を捉えて、絵の下に「山の端明けしあしたより」と添えられていた。噂を心配した中宮様より私の弁明を求める手紙であった。このような作り話が出来るのは辛いので、面白く雨をさんざん降らせて「ならぬ名の立ちけるかな さてや濡れ衣になり侍らむや」と申上げたら、中宮様は右近の内侍に話されてお笑いになった。中宮としては清少納言のよからぬ噂は不祥事と見られるので、機転を利かせて拾遺集の藤原義孝の歌「あやしくも我ぬれぎぬを着たるかな三笠の山を人に借られて」を引用し、三笠を傘にして濡れ衣を着るをいうのであった。実情は清小納言のアバンチュールで、身分の低い者と付き合うと変な噂が立つ事を心配したのであろう。これを彼女は否定をしていないが濡れ衣として笑い飛ばしたのであろう。

[239] 「三条の宮におはしますころ・・・」 第2類

中宮定子が一條天皇との間に3人目の子を妊娠された時期、宮中を出られて三条の宮(中宮大進平生昌の家)に移られた。五月の菖蒲の節句に輿に薬玉を献じられた。若い女房らは姫宮(5歳の悠子内親王)と若宮(2歳の敦康親王)に薬玉を差し上げた。そのなかに青稜子というお菓子があったので、お盆に青い薄紙を敷いてこれは「ませ越し」でございますといって中宮様に差し上げたら、「人は皆花や蝶やと急ぐ日もわが心を君ぞ知りける」とその紙の端をお破りになってお書きになった。「ませ越し」とは古今集の「ませ越しに麦はむ駒のはつはつと・・・」の歌より、元気に食事をするように祈る気持ちが籠められ、妊娠中の中宮のお体を清少納言は労わったのである。

[240] 「御乳母の大輔の命婦・・・」 第2類

中宮の御乳母の大輔の命婦が夫に従って日向に下るので、中宮から賜った扇の片面には田舎の館の絵が、また片面には京都の風景に雨が降る様子が描かれており、その下に中宮自ら「あかねさす日に向いても思い出でよ都は晴れぬ長雨すらむと」と書き添えられた。お可哀想に、とても宮を見捨てて行くことは出来ないでしょうに。没落の中宮定子の心細い心情が謳われている。

[241] 「清水にこもりたりしに・・・」 第2類

清水の観音様にお籠りをしている折、中宮はわざわざ使いをして手紙を赤みのある唐の紙に草仮名で書かれて下された。「山ちかき入相の鐘の声ごとに恋ふる心の数は知るらんものを 随分長居のことね」とあるので、ちょっとした紙も持ってこなかったので、返事は紫の蓮の花びら(造花)に書いてお送りした。

[242] 「駅は・・・」 第1類

駅は梨原。望月の駅。

[243] 「社は・・・」 第1類

神社は布留の神社。生田の神社。旅の御社。花淵の神社。杉の神社はしるし(効験)があって素敵。ことのままの明神はたいへん頼もしい。何でも聞いてくれる神社は聞くだけで効験がないとかえってお気の毒。

[244] 「蟻通の明神・・・」 第3類

紀貫之が、馬が病んだ時蟻通の明神の祟りだというので、歌を奉納したというので有名である。この章段は前段と続きになっているが、内容からはこの蟻通の明神という名がついた由縁を語る古い民話の紹介である。昔おられた帝がただ若い人ばかりをお気に入りで、40歳を越えた人を殺してしまわれたので、年寄りは田舎へ逃げたりして都にはいなくなった。親孝行な中将がおられて70歳近くの二親を遠くでは住まわせられないとして、役所には逃亡しましたと届け地下に掘った家に隠れ住まわせていた。この親は上達部ではなかったが子どもは中将になるように、賢明で物知りであったそうだ。この中将も若くして評判がよく時代の人になっていた。あるとき中国の帝が日本を討伐しようと無理難題を吹っかけて、まず二尺の棒の元末を見分ける方法を問うてきた。帝は中将に問うに、中将は親に意見を求めた。すると「早く流れる川に横様に投げ入れ、流れる先が末である」と答えた。次の難題は蛇の雌と雄の見分け方を問うてきた。同じく親に問うと「尻尾の方に小さな木を寄せて動かない方が雌だ」という。3つ目の難題は7曲がりの穴の開いた玉に糸を通す方法を問うてきた。誰がやっても出来なかったので、中将は親に問うと「大きな蟻の腰に糸をつけ、出口の穴に蜜を塗って蟻を通らせよ」という。こうして見事に難題を解いたので中国の帝はこの国は賢いといって手出しをしなくなった。我国の帝は中将に褒美に官位を賜ろうとしたが、中将は老いたる親と一緒に住みたいだけですといって、都に年寄りが住めるように許しを得た。その中将を神とした神社が蟻通の明神のことである。

[245] 「一条の院をば今内裏とぞいふ・・・」 第2類

中宮定子がお産で三条宮に移っているころ内裏が火事で焼け、帝は一条宮に移って新内裏と呼ばれた。天皇がおられる殿は清涼殿といって、中宮はその北に居られた。西と東は渡殿で、帝がお渡りになったり中宮が参上なさる通路となった。その前には前裁を植え竹垣を結って優雅になされていた。二月二十日のうららかな春の日が照りつけるころ、渡り殿の西の廂で帝が笛を奏せ給う。笛は高遠兵部卿を師としていたが、二人で高砂を繰り返しお吹きになるのはたいへんめでたいものであった。高遠が帝に笛の事を申上げるのもすばらしい。そのあと中宮は三条宮で亡くなられるので、ほんの一時の幸せな時間であった。「芹摘みし昔の人も我がことや 心にもののかなわざりけむ」という歌も考える必要がなかったくらいであった。「芹摘む」とは「何の思いもかなわない不幸な状態」をいう。ここで話はガラッと変わって、木工寮のすけさだの蔵人の面白い話となる。すけさだの蔵人と云うゾンザイで粗野な人間なので女房からはあだ名は「露わ」と呼ばれていた。「ぼんくら人間、尾張の子」とはやされたのは、尾張の兼時の娘の子であったからだ。帝が笛を吹かれるの聞いて、すけさだは「もっと大きく吹いてください。聞こえませんので」というのだが、帝は「そうかな、それでもわかるだろう」といって低い音で吹かれた。そして帝がお渡りになった時「あいつがいないようだ、よし今吹くぞ」といって笛を吹かれるのは大変素敵よ。

[246] 「身をかえて 天人などは・・・」 第1類

生まれ変わって天人になったと思われることとは、ただの女房が「御乳母」になったことね。唐衣や裳も着ない格好で、御前で添い寝をして、御几帳の中を自分の居場所にして女房どもを使い、自分の部屋へ用事や文を言いつけさせているさまはいいようもなくご立派だ。雑用係が蔵人になったのも立派だ。昨年の11月の臨時の祭りに琴を持ってた時は人並みにも見えなかったのが、いまでは公達と連れ添って歩いているさまは「どちらの方かしら」と思われる。

[247] 「雪高う降りて・・・」 第3類

公達の宿直姿を見て楽しむ章段である。雪が深く降り積もってそれでもなお降り続く時、五位も四位でもきちんとした若い人が、袍(うえのきぬ)の色もきれいに石帯の痕も残っている宿直姿にたくし込んで、紫の指貫(さしぬき)も雪に映えて濃く見えるのを着て、袙(あこめ)の紅でなければ、派手な山吹色を出して袿(うちぎ)にし、唐傘をさしたところに雪が横様に降り懸かるので傘を斜めにして歩いていると、深沓や半靴なんかの脛まで雪が白くかかるのはほんとに素敵。

[248] 「細殿の遣戸を・・・」 第3類

上の段の続きである。細殿の遣り戸を朝早く開けると、御湯殿の馬道から下がってくる殿上人が着崩した直衣や指貫が乱れて、色とりどりな袿(うちぎ)がはみ出ているの押し込み北の陣に向かって歩いてゆく。開いた戸の前を過ぎるので、纓(えい:冠の後ろに垂れたレース)で顔を隠してゆくのも素敵。

[249] 「岡は・・・」 第1類

岡は船岡。片岡。鞆岡は笹の生えたのが素敵。語らいの岡。人見の岡。

[250] 「降るものは・・・」 第1類

降るものは雪。霰。霙はにくいが、白い雪が交じって降るのが素敵。

[251] 「雪は 檜皮葺・・・」 第1類

雪は檜皮葺に降るのが素敵。すこし消えがかっているのがいい。強くも降っていないのに瓦の目に入って黒く見えるのも素敵。時雨、霰は板屋に降るのがいい。霜も板屋につくのがいい。もちろん庭がいいのだが。清小納言の繊細な美意識に驚かされる。

[252] 「日は・・・」 第1類

日は入り日がいい。日の落ちきった山の端が、光が留まっているかのように赤くなっているように見える。薄い黄色の雲がたなびいている様子には胸が締め付けられる。

[253] 「月は・・・」 第1類

月は有明の東の山際に細く出てくるのが感動的ね。

[254] 「星は・・・」 第1類

星はすばる。彦星。宵の明星。夜這い星(ホーキ星)もいいのだけど、尾がなければもっといいのね。

[255] 「雲は・・・」 第1類

雲の色は白。紫。黒いのもいい。風が吹く時の雨雲もね。夜明けになって黒い雲がようやく消えて白くなってゆくの素敵。これを「朝に去る色」と漢詩にもあるの。月のすごく明るい面に薄い雲がかかっているのも感動的ね。

[256] 「さわがしきもの・・・」 第1類

騒々しいものは走り火(火の粉)。板屋根で烏が飯を食う。18日に清水寺でみんながお籠りをする。暗くなってまだ灯もともさないころ、他から人が来るとき。任地の遠い国からその家の主が帰ってくるとき。近くで火事だと騒ぐとき、それでも燃え上がらないときもあるのね。

[257] 「ないがしろなるもの・・・」 第1類

人を馬鹿にしたようなものは女官の髪上げ姿(髷にはでな簪櫛など差し込む)。中国の絵で見る石帯の後姿(中国式の帯は石帯が前にきて後ろにはない)。聖の言動。

[258] 「ことばなめげなるもの・・・」 第1類

言葉が汚い奴には宮のべ祭りの祭文をよむひと。舟をこぐもの。雷の陣のときの舎人。相撲とり。

[259] 「さかしきもの・・・」 第1類

ズル賢い奴として今の3歳児。稚児のお祈りをし按摩もする女。祈祷の道具を作るとき、紙を何枚も重ねて鈍刀で切る様は一枚だって切れはしないのを自分の口をひん曲げて押し切るさま。幣掛け竹をぶち割るためにおごそかに刀を振り回して祈るセリフは賢そうだ。また「どこそこの宮や若君が患われた時、見事拭い去ったようにお鎮めもうしましたのでご褒美を沢山頂きました。誰それを呼んで祈祷させた験がなかったので、私が呼ばれました」とかいう顔つきもあやしい。下衆の家の主婦。馬鹿者が本当に賢い人に教えを垂れること。

[260] 「ただ過ぎに過ぐるもの・・・」 第1類

どんどん過ぎ去るものには帆をかけた舟。人の年齢。季節。

[261] 「ことに人に知られぬもの・・・」 第1類

わざわざ人が知ろうとはしないものに陰陽の大凶日。他人の母親の年取ったこと。

[262] 「文ことばなめき人こそ・・・」 第3類

この章段では敬語の使い方を論じる。手紙の言葉使いが無礼な人は本当にいやになる。世の中を斜めに見て書き流した言葉は本当に嫌なの。それほどでもない人にあまりかしこまった言葉を使うもやはりまずいことだ。自分が受け取った手紙なら当然だが、他人にあてた文でも嫌になるものだ。大体向かい合って無礼なのは、どうしてそうなのかしらと片腹痛いものなのだが、まして立派な人にも無礼なのは事をいう奴は本当に腹が立つ。田舎ものがそういうのは学がないからそれはいい。男の主に対して無礼な口を聞くのは最低ね。使用人が「なにとおはします」とか「のたまう」というのはまずいので、「侍り」という言葉を教えてやりたいくらいよ。そんな事をいう奴には「なんとよくない、どうしてあなたの言葉は無礼なの」と言ってやりたい。殿上人や宰相などには、本名をずけずけいうのは見苦しい。はっきりそうと言わずに、女房の局にいる人は「あのおもと」とか「君」とかいえば、「思ってもいなかったのにうれしい」と喜ばれるものよ。殿上人や公達には、御前以外では官名で呼ぶ。帝が聴いておられる時には、自分らで呼び合うには「まろが」などとはいわないものだ。そういうと帝に恐れ多く、言わないほうがいい。

[263] 「いみじうきたなきもの・・・」 第1類

とても汚いものにはナメクジ。ボロボロの板敷きを掃く箒の先。殿上人の食器の椀。

[264] 「せめておそろしきもの・・・」 第1類

あからさまに怖いものには夜鳴る雷。近所に盗人が入った。自分の家に盗人が入ったら大変で怖いと思っている隙がない。近隣の火事。

[265] 「たのもしきもの・・・」 第1類

頼もしいものには気分が悪いときに大勢の僧が祈祷してくれること。気分が悪いとき本当に心の通った友人が言い慰めてくれること。

[266] 「いみじうしたてて婿とりたるに・・・」 第3類

シニカルな男性論である。いろいろ準備して婿を迎えたのだが、間もなく住まなくなってしまった婿でも舅にであったらすまないと思うのかしら。ある人が時の権力者の婿になってたった1ヶ月で来なくなってしまった。女の家では大騒ぎになり、乳母などらは呪いごとを言い出す始末。それでも翌年正月にはその婿は蔵人に昇進したの。これは舅の力によるもので、人はまさかと思うがそういうものなの。6月に法華の八講があった折、その婿は派手な袴と半臂を着て、棄てた女の車に衣装を引っ掛けたのを周囲の人が見てどういうつもりなんだろうと気の毒がっていたが、当人は平気な顔をしていたものだった。やはり男は思いやりとか,人がどう思うかとかは分らないようね。

[267] 「世の中になおいと心憂きものは・・・」 第3類

世の中ですごく嫌なことは人に憎まれることでしょうね。どんな頭のおかしい人でも人に憎まれたいとは思わないでしょう。だけど宮仕えや親兄弟間でも好かれる・好かれないことがあるのは悲しいことだ。上流のひとでも中流の人でも親がかわいいと思っている子は注目され大事にされるものよ。賢い子なら当然だが、そうでもない子でも親はかわいいと思うのは人情ね。親にも主人にも、そして話し相手にも、人の愛されるということは大事なことね。

[268] 「男こそなおいとありがたく・・・」 第3類

この段も男性論である。男ほど珍奇で訳の分らないものはない。きれいな女を捨てぶさいくな女と一緒になるのも訳が分らない。朝廷に出入りができる男や、いい家の公達らはよさそうな女を選んで恋愛すればいい。及ばない女でも最高と思って死ぬくらいの恋をすればいいのよ。人の娘や未通の娘でもいいと評判の立つ相手を物にすればいいのよ。それなのに女の目で見てもブスな娘を思うのはどういうつもりなのかしら。容姿もよく心も賢い女性で、字も上手に書き歌もうまく詠んでよこすのに、適当な返事を書いて寄り付かなくなる男にはあきれて義憤も感じ不愉快にも思うのに、男は全然心が分らないようね。

[269] 「よろずのことよりも情あるこそ・・・」 第3類

どんなことより優しいことが、男はもちろん女にも最高なのね。些細な言葉でもそれほど本気でなくとも、気の毒なことは気の毒ねといい可哀そうなことには「ほんとにどんなに辛いことか」と言ってくれるのを人伝えに聞くのは直接言われるよりありがたく嬉しいものね。なんとかその人に知ってほしいと思いたくなる。愛している人や、気にしてくれる人は当然であるが、そうでもない人の返事が親身になってしてくれるのは嬉しい。簡単なようでなかなか出来ないことね。大体が気持ちのいい人に欠点がないことは滅多にないが、またそんな人もいるのである。

[270] 「人のうえいふを腹立つ人こそ・・・」 第3類

人の噂話をするのに腹を立てる人って筋違いね。自分のことは差し置きどうしても言いたくなるものなのよ。だけど感心できないようでもあり、自然と聞きつけて怨むのは筋違いよ。嫌いではない相手には可哀そうだなと思って言わないのだが、そうでなければぶちまけて笑い飛ばしてやるのね。

[271] 「人の顔にとりわきて・・・」 第3類

人の顔でとりわけいいと思うところはいつ見ても魅力的に見える。絵などでは何度も見ると目立たなくなるでしょう。人の顔は素敵なのね。他はぶさいくでもいいところだけに目が行くものなの。

[272] 「古代の人の指貫着たるこそ・・・」 第3類

袴のはき方(腰紐の締める順序)に関する記述である。年寄りが指貫を穿いているのはほんとうにみっともないものね。前に裾を全部入れ込め、腰紐はほったらかして前を全部整えてから後ろの紐を捜す格好は、まるで猿が手を縛られているようでなかなか時間のかかることね。

[273] 「十月十よ日の月の・・・」 第3類

前段に続いて服装論である。十月十日あまりの日の月の明るい時、女房15,6人ばかりで散歩したの。皆は濃い色の着物を上に着て裾を折り返していたのだが、中納言の君が紅の張った(のりの利いた)のを着ていて、襟から髪を出していたのでまるでモコモコの卒塔婆に似た形だったの。そこで若い女房は中納言の君に「ぬいぐるみ」というあだ名をつけて笑ったのだが、後ろなので気がついていないようだった。

[274] 「成信の中将こそ 人の声は・・・」 第3類

成信の中将(源成信)は人の声を聞き分けることで有名であった。同じところの声などは聞きなれない人には分らない、特に男の声や筆跡だって判別するのは難しいのだが、どれほどひそひそ声でも上手に聞き分けられたという。

[275] 「大蔵卿ばかり耳とき人はなし・・・」 第3類

大蔵卿(藤原正光、兼通の6男)は耳が敏いことで有名だった。本当に蚊のまつげが落ちる音も聞きつけられた。私達が職の御曹司の西に住んでいたころ、大殿の新中将(源成信)が宿直でお話などをなさっていた時、傍にいた女房が「中将に絵のことを頼んでよ」とささやいたたら、「もうすぐ大蔵卿が立たれてから」とごく小さな声で耳打ちすると、その女房には聞こえないくらいで「何よ何よ」と耳を近づけてくるのに、遠くに居た大蔵卿はこれを聞きつけて「それなら今日は立たないぞ」とむくれたという。どうして聞きつけたのかと呆れ果てたという話。

[276] 「うれしきもの・・・」 第1類

嬉しいものには、まだ読んでいない物語の第1巻読んでとても先を知りたく思っていたところ、残りの卷を見つけたこと。それで失望するときもあるのよ。人が破り捨てた手紙をつないで読んでいて、同じく続きの部分を多く見つけたとき。「どうしょう」というような夢を見て胸が潰れる思いをしたが、「どうってことない」と夢解きをしてくれるのはうれしい。身分の高い人の御前で、昔あったことや今お聞きになった世間話をお話になられるとき私のほうを向いて話されるのは嬉しい。遠いところはもちろん近くにいても、大切だと思う人が病気になって、「どうしたものかしら」と様子が分らなくて心配している折、治ったと人伝に聞くのは嬉しい。好きな人が人に誉められ、身分の高い人から「なかなかの者」と思われるのは嬉しい。何かのおり人とやり取りした歌が評判になって、歌の「聞き覚え」(メモ)に入るのは嬉しい。そんなに親しくはない人の古い歌で知らなかった歌を聞き出せたときは嬉しい。後ほど歌集の中で見つけると、「これだったのか」と作者を素敵に思える。陸奥紙でも普通の紙でも上質な紙を手に入れたときは嬉しい。歌の上下を問われたときすぐに思い出せたのが嬉しい。いつも覚えている歌でも人に問われると今日は忘れている時が多いものよ。急用で探していたものが見つかったのは嬉しい。物合わせで何度勝負しても勝つのは嬉しくないことはないでしょう。我こそは思っている人を騙せたこと、女よりは男の相手を騙せたのがうれしい。嫌な人がひどい目にあうのを見るのが嬉しい。ものの折りに艶打ちに出した衣が、どうなっているかなと思っているときれいに出来上がってくるのは嬉しい。櫛を磨かせてきれいになるのは嬉しい。何日何ヶ月も病気になっていたのが治るのは嬉しい、まして好きな人の場合は自分ことよりも嬉しい。宮の御前に多くの女房が隙間なく並んでいるところに、後れてやって来てすこし遠い柱の元に居たところ、中宮様がすぐに見つけられて「こっちへ」と、道を開けて近くにお呼びになるのは嬉しい。

[277] 「御前にて人々とも・・・」 第2類

この章段は清小納言が難しい状況に追い込まれて里帰りして悩んでいるとき、宮が清小納言の紙愛好と高麗縁趣味を刺戟してまた参内するように促した駆け引きを述べた場面である。ふたりの深い信頼関係が窺える。御前において女房らといっしょにとか、宮が話され手いる折に、私が「世の中が腹立たしく、鬱とおしく、とてもいたたまれないときも、どこかへ往ってしまいたい時も、ただきれいな白い紙とよい筆、白い色紙、陸奥紙などがあれば慰められて暫くは生きてゆけそうな気がします。また青い莚に高麗縁の紋が黒白とあざやかに見えれば、なかなかこの世も捨てがたく、命さえ惜しく感じられます」と申上げれば、中宮は「些細なことでも慰められるのね、姥捨山の月はどんな人が読んだのでしょうね」と笑われるのであった。(古今集 わが心慰めかねつ更科や姥捨山に照る月を見て) さてのちほど自分ではどうしょうもない悩み事があって里帰りしている頃、最高の紙を20枚包んで宮より頂いた。「はやくおいで」とおっしゃって「悪い紙には寿命経も書けないでしょう」と書いてあったのは素敵。忘れていた事を憶えておかれるのは普通の人でも素敵なのに、ましておろそかにはしておられない。感動の極みで申上げようもないので「ありがたい神(紙)様のおかげで千年は長生きできます」と使いのものにそう申していたと伝えた。この紙で草子(本)もつくれてうっとおしいことも紛れる気持ちがした。それから2日ほどして、赤い衣をきた男が畳を持ってきて、誰からと問う間もなく置き帰った。これは御座という畳で高麗縁がきれいにしつらえてあった。心のなかでは宮からだなと思うものの、確証は無いので人をして調べさせたが男は見つからなかった。間違えるとまずいのでそのままにしておいた。だけど誰がこんな冗談をするの、宮からに決まっているわと大変素敵な仕業に違いなかった。2日ほど音沙汰もなかったので、右京の君にところに「こういうことがありました。宮のあたりの様子を窺っていただけませんか。極秘でお願いします。そうでなかったら絶対に口外はなさらないでね」といってやったら、「絶対秘密になさっておられるようです。けっして私が申したとは言わないでね」という返事が来た。やっぱり予感が当たって嬉しかったので、手紙を書いて宮の高欄の下に置いたのだが、慌てていたので下に落としてしまった。

[278] 「関白殿二月廿一日に・・・」 第2類

この章段はある意味で枕草子のハイライトである。関白道隆と伊周大納言と中宮定子の絶頂期を華やかに演出する段となっている。関白道隆殿は2月21日に法興院にある積善寺という御堂において一切経の供養をなされたが、女院(一條天皇の母、東三条院詮子)も参列なされるというので、参加される中宮定子も2月1日に二条の宮(道隆の屋敷内に造った中宮のための宮)に移られた。日がうららかに照り始めるころに起き出すと、白く新しく作ってあって、御簾から初めて昨夜に掛けたであろう。御簾の前には獅子や狛犬などがいつの間にか置いてあった。階段のもとに一丈ばかりの満開の桜があった。いつもなら梅が満開のころなのにこれほど早く桜が咲くのかなと思っていると、これは造花である。花の匂いも本物には負けず、どんなに大変だったのだろう。雨が降れば凋んでしまうと思うとくちおしい。この宮は小家などが多かったところに造成されたので、木立などは見るべきものはないが親しみやすい感じの宮になっていた。関白殿のお出ましである。(衣装の詳述は本書のファッション誌面目約如なのだが一切省略したい) 宮の御前に坐られてお話なさいます。受け答えなどは申し分なく立派なので、里の者にも見せてやりたいものだと見ていました。殿は御前の女房らを見渡して「宮はいかがおもわれますか。こうも美人を揃えられて御覧になられるとはうらやましい。1人も不器量はいない。皆それぞれ立派な家の娘なんでしょうね。どう思われて宮にお仕えなさったのかな。宮がどれほどケチで欲深だということは私が宮に仕え始めてまだ一度も新品の衣ひとつ賜ったことがないのですぞ。どうして陰口なんかたたきましょうか」とおっしゃって女房らを笑わせられた。「本当ですぞ。バカな事を言っていると笑っておられるが、バカを見るのはそちらですぞ」とおっしゃっておられるところへ、天皇の使いに式部丞何とかがやってきた。

お手紙は伊周大納言が受け取って関白殿に差し上げられた。殿は「気になる手紙ですね。許されるならば開けて見たいものです」というのだが「大変恐れ多いこと」といって宮に差し上げられた。宮は受け取っても開けないで居られる様子が奥ゆかしい。「あちらに参ってご褒美の品を用意しましょう」と殿が立たれたときに、宮は御文を御覧になられた。ご返事は宮の御衣裳の同じ色のうす紅梅の紙に書かれたのだが、ここまで想像出来る人はいないだろうなと残念な気がした。「今日は特別だ」といって殿は御褒美の品には、女装束一式と紅梅の細長が添えてあった。肴などがあれば酔わさせたいのだが「今日は特別の日ですので、お許しください」と伊周大納言様にもお願いしていった。お姫さまらもおめかしをして紅梅の着物を宮に負けじと着ておられる。中宮定子には三人の妹がいて、次女(中君)淑景舎、三の姫君、末妹は御匣様でいらっしゃった。上様(道隆の室貴子)もいらっしゃってご几帳を引き寄せ、女房らには見えないように隠れなされた。女房らは寄り集って当日の扇・装束などのお話をしていたが、「私はただありあわせで」とか「またあのひとは」とか言って嫌われているの。夜が更けて退出するが多くなるが、こういうときだからといってお引き止めなされることはない。室は毎日来られて夜もいっらしゃいます。姫君たちもおられるので、人少なにならないでいいのでしょう。帝からの使いも毎日やってきます。御前の桜は色は濃くはならないで(造花なので)、日があたって凋み割る久那の冴え口惜しいのに、昨夜の雨で汚くなってしまった。早く起きて「なき別れ顔が台無しね」と申上げたら、宮は「本当に雨の降る気配がしたの、どうしたのかしら」とお目覚めになられた。そのとき殿の方から侍所の人間と下っ端が大勢やって来て桜の木を引っこ抜いてこっそりと帰って往った。「まだ暗いうちにという仰せだったのに夜が明けてしまった。早く早く」といっているのもおかしかった。兼澄の歌を思いだして「その花を盗むのは誰」というと逃げていったの。やはり殿の心栄えは立派ね、みっともなくなった桜を引き揚げるの。

掃部司がやってきて格子を上げ、主殿の女官がきて掃除をし終わると、宮はお起きになられてたが、桜がないので「あらあの桜はどこへ往ったの」と仰せられる。「明方に花盗人がいたと聞いたが、枝を少しばかり盗るのかなと思っていたの。誰がしたの。見たの」と仰せられるので、「いや見ておりません。まだ暗くてよく見えませんでした」と申上げると、「それにしても全部盗るなんて、殿がお隠しになったのね」といってお笑いになられた。私が「いやそうではありません。春の風がなしたことでしょう」というと、宮は「そういう歌を言おうとして、隠したのね、随分おしゃれね」といわれるのも珍しいことではないのだが最高に素敵。殿がいらっしゃったので、寝ぼけ顔の朝顔と見られるのも嫌なので引っ込みました。殿は「あの花がなくなってしまったな。どうして盗まれたのかな。女房どもが大寝入りして気がつかなかったのだろう」といわれるので、こっそりと「だけど我より先にと思っていました」(源信明の歌)と申上げると、すぐに聞きつけて「そうだと思っていた。宰相か清小納言ぐらいは気がつくと思っていた」といってお笑いになられた。宮も「そうなのに、少納言は春風のせいにしたのよ」とにっこりされるのは素敵。「それにしてもこしゃくにも見つけられたものだ。あれほどクギをさしておいたのに、宮には見張りものがいたのだったか」などおっしゃられた。「春の風とは、でまかせにしてもうまくいうものよ」など、少納言は歌にまつわる教養が随分自慢をしているようである。貴族の教養とは漢詩と和歌をふんだんに取り込んで会話を豊かにしてゆくものらしい。ただ少々複雑な掛け合いになるのでこの部分は省略したい。

2月21日までにはまだ日があるので、清小納言は2月8,9日の頃に里帰りのため退出しようとしたところ、宮は「もう少し近くなってからでもいいんじゃないの」とおっしゃったがそれでも退出してきた。いつもよりのどかに日が照りつける午後のこと、宮より「花の心開くのはまだ?早く」と仰せごとがったので、「秋はまだですが、夜に九度のぼる気持ちがします」とお返事を差し上げた。(白氏文集 「二月東風来 草柝花心開 思君春日遅 一日腸九廻」による) 2月1日夜に宮が宮中を出られた時、牛車の順番も決まっておらず女房らは「私が先よ」といって大騒ぎになったのね。気の合う女房と語らって「車に乗る様子が騒がしくてまるで祭りの帰りのように倒れそうなくらい混乱しているのは見苦しいわね」といえば、「そうね、乗る車がなければいずれ自然と耳に入って車を御手配してくださるわよ」と立っていた。その前をかたまって乗車が終ったようなので、これでいいですかというので、「まだここにいるわよ」といえば宮司が酔って来て「誰と誰が居られるんですか、おかしなことだもうみんな乗ったのに、なんでそんなに遅れたのですか。これから最後に得選(采女3人)を載せようとしていたのに」と驚いて車を寄せてきたので、「まずあなたがそうしたいという人を乗せないさいよ、私ら次でいいのよ」といえば、「何と意地の悪い人たちだ」というので乗っちゃった。本当に御厨子(得選)の車だったので松明も暗いのに笑って、二条の宮に到着した。中宮の御輿はとっくに到着されていてお部屋にお座りであった。宮は清少納言を呼べと仰せがあったので、右京・小左近などいう若い女房らは、到着する車ごとに探したがいなかった。降りる順に四人づつ御前にゆき集まったのだが、「おかしいね、どうしていないの」と言われるのだが、全員が車から降りてやっと私を見つけられた。「こんなにお待ちなのに遅いわね」と連れらて参上すると、もう長年のお住まいのようにくつろいでおられるのは素敵。宮は「もう死んだのかと探したのにどうして今まで隠れていたの」とおっしゃるので、なんとも申しあげなかったら同乗の女房が「それは無理ですわ。最後の車に乗ったのですから早く参上は出来ませんでした。これでも御厨子の方が車を譲ってていただいたのです。車が暗くてさみしい思いをしました」とお詫び申上げた。「差配する役人がいけなかったのかしら。事情が分らない人なら遠慮するものなのね。右衛門などがいうべきなのよ」とおおせられた。傍にいる女房らは「嫌な女」と思っているのだろう。

経の供養のことで明日はお出かけになられるので、その夜御前に参上した。南の院の北面を覗くと、高杯に火をともして、2,3,4人づつのグループが屏風や几帳で仕切っている。またそうでない人たちは衣を縫ったり、裳を挿したり、化粧をしているのは言うに及ばず髪をつくろう様は明日以降のためらしい。「朝4時の寅の刻に出かけられます。どうして今まで参上しなかったのよ」といわれた。本当に寅の時間なのと装束を着終わったら、夜が明けて日が差してきた。西の対の廂から車に乗るみたいだと全員が渡殿にゆくと、西の対には殿が住まわれて宮もそこに居られ「まず女房達を車に乗せるのを御覧になられます」といわれ、御簾の中には宮、淑景舎、三の宮、四の宮、殿の室とその妹三人がずらりと並んでお出でであった。車の左右には大納言様と三位の中将様がお二人で御簾を上げ,下簾を引き開けて案内されるのであった。集団だったら隠れることも出来たのに、4人づつ名簿順に「誰々」と読み上げて乗せられてしまうので、あからさまに見られるようで決まりの悪いことったらどうしょうもなかったの。中宮様がみっともないと思って御覧になられたら惨めね。冷や汗が出て髪が逆立つような気分ね。なんとか過ぎて乗ると車の傍にすっきりしたお方がにっこり笑いながら見ておられるのも夢見心地ね。だけど倒れないでそこまで行けたのは立派なのか厚顔なのか考えさせられるの。全員が乗り終わったので、車を引き出して二条大路に榻をあげて見物の車のようにずらっと駐車しておくのは豪華なことね。さぞかし人も見ているのだろうと思うとどきどきするのね。四位、五位、六位など沢山の人が出入りし、車の傍に来てお話をしている。明順の朝臣(室貴子の兄)も胸を反らして得意そうな姿ね。まずは院(東三条院)のお迎えのために、殿を初め殿上人・地下の人らが皆参列した。院がお迎えが終ってから、宮の出発の予定なので手持ちぶたさに待っていると、日が上がってから院のご到着である。

御輿をふくめて15台、うち4台は尼の車である。先頭の車は唐車で、それに続いて尼の車、後ろには水晶の数珠、薄墨の裳・袈裟・衣がすごく素敵で、簾は上げないの。その次に女房らの車が10台、桜の唐衣、薄色の裳、濃い衣、香染、薄色の表着などとても魅力的。日はうらやかに空は青く霞わたれるなかを、女房らの装束は香たち、どぎつい色織物よりはずっと素敵。関白殿や続くお方らが全員で行列をお迎えする様子はおめでたい限りといえよう。中宮側の車が20台並べてお迎えするのも素敵ね。早くおでましにならないのかなと待つほどに時間は過ぎてゆく。どうしたのかしらと心配になってくるころ、采女8人を馬に乗せて出てきた。ふせという采女は典薬の頭重雅の女である。葡萄染めの指貫を着ていたので「重雅(五位)は禁色(紫 三位以上)を許された」と山の井の大納言はお笑いになった。全員が輿車に乗って待っているといよいよ中宮の車が出発なされた。較べようもなく雅なものであった。朝日がさしあがると車の頂にある葱の華が輝いて、輿の帷も色鮮やかにきれいであった。綱を張ってお出かけになられるの。御輿の帷が揺れるたびに、中宮様の様子が垣間見られて頭の毛が逆立つような興奮を覚えるというには決して嘘ではない。さらにどうかしてお傍にお仕えする自分までもがえらくなった気がするのは不思議ね。中宮の輿がお通りになる間は、参列する車は一斉に榻をあげてお待ちし、過ぎられたらまた牛をつないで宮の輿の後を追う心地はめでたく面白い。寺にご到着なされると、大門の前に高麗や唐の音楽を演奏して獅子や狛犬が踊り舞い、乱声・鼓の声に呆然として、これは浄土の国に来たのだろうかと錯覚してしまいそう。中に入ると色々の錦があがり、青い御簾も高くかかって屏幡も引いてあるので、すべてがこの世のものではない気がした。御桟敷に車を寄せると、殿方が立って「降りなさい」とおっしゃるのね。乗り込む時だって丸見えだったのに、降りる今は明るくてもういうもはかない。せっかくしつらえた髪もいまは唐衣の中でぼさぼさになってみすぼらしい。すぐにも降りたくないので「どうぞ後ろから先に」とかいうと相手の女房も「場所を替わって」などいって恥ずかしがっている様子ね。

そうこうしてやっと降りて宮のお傍に参上すると、初めに降りた人が8人ばかりよく見える席に坐っていた。宮は1尺か2尺ばかりの長押の段の上にいらっしゃった。まだ御裳や御唐衣のままでおられたのは素敵ね。(衣装のファッション記述は省略) 「私はどんな風に見える」とお尋ねになられたので、「それはもう最高です」と答えるのも月並な気がした。「随分出発が遅れたでしょう。それは道長の大夫が、院のお供で着ていた下襲では粗末と思われますので、別の下襲にお着替えになったので遅くなったの」と晴れやかな場所では宮ははしゃいでおられる御様子であられた。三尺の御几帳一双をくっつけて隔てをつくり、その後ろに畳一枚を長押の上に置いて、右衛門の督の娘である中納言の君と富の小路の右大臣の孫娘である宰相の君の二人が傍に控えておられた。宮は宰相の君はあちらの方へゆきみんなと一緒に見なさいとおっしゃるのだが、「ここでも3人は十分に見物できるでしょう」といって清少納言を呼ばれるので、下に坐っている女房からは「まるで昇殿を許された内舎人みたいね」と笑うのであった。こんな事をいうのは自慢話みたいだけれど、「この程度の人間をそんなに思し召しだなんて」と思うのも恐れ多いことであった。女院の御桟敷や、偉い方々の御桟敷を見て回るのも楽しみですね。関白様は宮の御桟敷から院の御桟敷に参上なさって、暫くしてこちらの桟敷に来られた。大納言のお二方や三位の中将らは陣につめていられて、弓矢を身につけ厳しい格好で素敵ね。関白様はお入りになって、並ぶ方々は御裳・御唐衣を着ておられるので、殿の室も裳の上に小袿を掛けておられたので、「絵に描いたようなご様子ですな。三位の方(殿の室のこと)よ中宮の御裳をお脱がせになりなさい。この中の主は中宮です。一通りのことではないですぞ」と涙ながらにおっしゃるのであった。そこで雰囲気を変えるため関白様は私の赤色の桜の5重の衣を見て「おや、僧の着物がひとつ足りないといって大騒ぎをしていたが、これをお返しすべきかな。それとも独り占めされたのかな」とおっしゃるので、大納言様(伊周)が助け舟を出して「それは清僧都(清少納言)のものでしょう」と言ってくださった。僧都の君(伊周様の弟 15歳)は赤色の薄物をきて紫の袈裟に薄い薄紫の袿を着ておられ、青い頭に地蔵菩薩のような格好で女の部屋に入ってこられるの。伊周大納言様の御桟敷から松君(伊周の長男 3歳)をお連れ申すのだが、女たちの中へ抱きいれるとどういうわけか泣き出して大騒ぎになったのね。

供養が始まって、一切経を蓮の赤い花の中へ入れて、僧と俗・上達部・殿上人・地下人・六位まで行列して持ち歩くのは大変尊いこと。導師がやって来て行道が始まってぐるぐる回るのを1日中見ていると、目も疲れて苦しい。帝のお使いの五位の蔵人がやって来て御桟敷のまえに腰掛を立てられるのはめでたいことだ。夜が近づいて式部の丞則理が帝の文を持ってやって来て、「夜になれば宮中へお入りください。私がお供します」という。宮は「一度戻ってから」とおっしゃるが、また蔵人が使いにやって来て、帝のおおせごとなので宮はそのまま宮中に戻られた。女院の御桟敷からは「千賀の塩釜ね」(近くても会えないという意味)というお言葉もあったりして。供養が終って院はお帰りになられた。宮が宮中にお入りになられた事を知らない女房の召使らは二条の宮にいるのだろうとそちらに詰めていたが、待てども待てども来ないまま夜はすっかり更けてしまった。宮中では女房らは宿直着を持ってこないかなと待っていたが、夜更けても晴れ着を着たままで体になじまないから文句をいうこと。次の朝早く持ってきたものの「どうして気がきかないの」と腹立てることしきりなの。次の日は雨が降ったので、関白殿は「どうですか、私の運の強さをどう御覧になされたか」と申上げられるご自信満々なるご様子はもっともなことね。しかしその最高のご様子も、今の時代のご様子を見ると同じようには思えないのよ。いろいろな話も悲しくなるだけなので全部やめておきます。

[279] 「たふときこと・・・」 第1類

尊いものとして九條の錫杖。念仏回向。

[280] 「歌は・・・」 第1類

歌は風俗歌。中でも梁塵秘抄の「杉立てる門」。神楽歌も面白い。今様歌は長くて節がついている。

[281] 「指貫は・・・」 第1類

指貫は紫色の濃いに。萌黄色。夏は二藍。暑いころには夏虫色も涼しくていい。

[282] 「狩衣は・・・」 第1類

狩衣は香染めの淡いの。白色。白のふくさ仕立て。赤色。松葉色。青葉。桜。柳。青い藤色。

[283] 「単は・・・」 第1類

単は白。晴れの日の装束にはちょっと紅の単もいい。でもやっぱり白よ。白くても黄ばんだ単を着た人はどうしょうもない。練り色の生地を着ていてもやっぱり単は白ね。

[284] 「下襲は・・・」 第1類

下襲は冬は躑躅。桜。掻練襲。蘇芳襲。夏は二藍。白襲。

[285] 「扇の骨は・・・」 第1類

扇の骨は朴の木、色は赤。紫。みどり。

[286] 「檜扇は・・・」 第1類

檜扇は無紋。唐絵。

[287] 「神は・・・」 第1類

神は松尾神社。八幡神社。大原野神社。春日神社。平野神社。水分の明神。賀茂の大神。稲荷神社。

[288] 「崎は・・・」 第1類

崎は唐崎。三穂が崎。

[289] 「屋は・・・」 第1類

小屋は丸屋。東屋。

[290] 「時奏する いみじうをかし・・・」 第3類

時報を告げるのは素敵。とても寒い夜中に、ゴホゴホと沓の音を立てて弦を打ち鳴らして「何の何がし、時は丑三つ」「子四つ」など遠い声で言って、時の杭を挿す音なんて素敵。里では「子は九つ、丑は八つ」などともいうわね。結局どの時間も杭は四つ挿すの。

[291] 「日のうらうらとある昼つかた・・・」 第2類

日がうらうらとさす昼下がり、さらに夜が更けて子の刻などになったころ、帝は御休みになったと思われるころ「男はいるか」とお召しになるのはかっこいい。夜中に笛の音が聞こえるのもいいものだ。

[292] 「成信の中将は 入道兵部卿の宮の・・・」 第2類

成信の中将(源成信)は入道兵部卿の宮のお子さんで、顔も素敵で心がけも立派なお方であった。伊予の守兼資の娘といい仲で、親が伊予に下るので娘を連れてゆく段の成信の中将の心はきっと胸を締め付けられるようだったのでしょうに。明方に出発なので夜にいらっしゃって、有明の月でお帰りになられるその直衣姿がジーンとくるのね。ところがこの段は極めて複雑で残念ながら自分には読んでも理解できない。意地悪い女の気持ちやいじめなど陰湿な女の面を微に入り細に入り語っているようでとても筋を追えないので省略します。あしからず。

[293] 「つねに文おこする人の・・・」 第2類

いつも手紙を書いて送ってくる男が「なんだ、話してもしかたない、これっきりだ」といって翌日には手紙の沙汰もなく、手紙に書くことがないだけかと思って「それにしてもはっきりした男だな」といってその日は過ぎた。翌日雨が強く降る日、お昼まで音沙汰がないので「男の思いも終ったのか」と縁の端に坐っていたところ、夕暮れに傘をかぶった者が手紙を持ってきたので急いで開けてみるとただ「水増す雨の・・」という歌が書いてあった。やたら多くの歌を詠むよりすっとマシね。これは清小納言の男遍歴のひとつか。

[294] 「今朝はさしも見えざりつる空の・・・」

今朝はそうでもなかった空が大変暗くなって雪が降ってくるので、心細く眺めているうちに白く積もってなお強く雪が降る中を、随人のような細い体の使いの者がそばの塀から入ってきて、手紙を差し出すのはいいものね。真っ白の陸奥紙に白い色紙を結んで黒い墨で封じてあるのが凍って薄くなったのを開けると、細く卷いているので巻き目が細かい筋になっていて、墨が黒く薄く細かに書き詰めているのを繰り返し見ると、一体何が書いてあるのかとゆかしく思われる。額の髪が長くて顔立ちのいい人が暗い中で文を受け取って、灯をつけるのももどかしく火桶の炭を挟んでたどたどしく眺めているのも素敵ね。

[295] 「きらきらしきもの・・・」 第1類

きらびやかなるものには大将の先駆け。孔雀経の御読経。御修法。五大明王の法。御斎会。蔵人の式部の丞が白馬の節会に紫宸殿の大路を練り歩く。その日靭負の佐が摺衣を着ている。尊勝王の御修法。季の御読経。熾盛光の御読経。

[296] 「神のいたう鳴るをりに・・・」 第3類

雷がすごく鳴る時の「雷鳴の陣」ていうのがおどろどろしい。左右の大将や中将・小将なんかが御格子の傍に控えておられる、お気の毒ね。鳴り終わったら大将が「下りよ」と命令される。

[297] 「坤元録の御屏風こそ・・・」 第3類

坤元録の御屏風ていうのが素敵なの。漢文の書いた屏風は骨太ね。月次の屏風も素敵。

[298] 「節分違えなどして・・・」 第3類

節分の方角違え(恵方の逆)をして夜遅く帰った時、寒くて顎が落ちそうなくらいを辛うじて部屋に戻ると、火桶を引き寄せて炭火の大きなのがしっかり輝いているのをみるとほっとするのね。また炭火が消えかかっているのも知らずにお話などしているとき、他の女房が来て炭を入れて火をおこすのは無神経ね。それでも新しい炭を周囲に置いて中に火を守らせるのは気が利いているが、火を全部端へかき寄せ炭を重ねて置きその上に火をおくのは最低ね。清小納言のこだわり方が知れて面白い記述である。

[299] 「雪のいと高く降りたるを・・・」 第2類

雪がすごく降り積もり、いつもと違って格子を下ろし炭櫃に火を起こしてお話などをしているとき、宮が「少納言よ、香炉峰に湯句はどうなったの」とおおせられるので、御格子を上げ御簾を高く揚げたら、宮はお笑いなされた。(白氏文集 ・・香炉峰雪撥簾看による」 女房らも「そういう詩は知っていたし歌に謳っているけれど、思いもよらなかった。やはりこの宮にお仕えする女房はこうありたいわね」という。清小納言の行動力(腰の軽さ)の自慢話であろう。

[300] 「陰陽師のもとなる小わらべこそ・・・」 第3類

陰陽師の使う童子は本当に物知りね。祓をしに出かけて師が祭文を読んでいるとき、人々はただ聞いているが、童はちっと立って「酒・水をふりかけよ」と言われないうちにそうするのは、よく知っている証拠ね。そういう人間を雇いたいと思うの。

[301] 「三月ばかり 物忌しにとて・・・」 第2類

3月のほど物忌のため、仮の住まいとして人の家にいった。木立などろくな木はないのだが、柳の木の葉が普通よりは広くて可愛げがないのね。これは違うのじゃないと言えば、いやこういうのもあるという。また同じ物忌でそういうところに出かけて2日目の昼ごろ、退屈で内裏に参上したい気持ちの時、お手紙を頂いて嬉しくなって読みました。宰相の君が浅緑の紙にきれいに「いかにして過ぎにしかたを過ぐしけんくらしわずらう昨日今日かな」という歌と、「私の意見ですが、今日だって千年も待っている気持ちです。夜明けにはきっといらっしゃい」と書いてあった。この君が言われることももっともで、宮の趣旨もおろそかに出来ないので「雲の上もくらしかねける春の日を所がらともながめつるかな」(内裏のほうも退屈らしいという意味)という返事を差し上げました。明方に参上すると「昨日の返歌の"かねける"とは何よ、ばかにしないでよ」と怒られた。もっともなことではあるが。

[302] 「十二月廿四日 宮の御仏名の・・・」 第2類

12月24日宮の御仏名の半夜の導師の話を聞いて退出するころには真夜中になっていた。日夜降っていた雪も今日はやみ風が強く吹いたので氷柱が出来て地面の雪を吹き飛ばされて斑がちであった。屋根の上はただ真っ白に、貧家の屋根も皆雪に隠れて、有明の月がくまなくさし渡ってずいぶんいい景色であった。銀を軒に垂らしたように、水晶の滝のように長いのやら短いのやらが垂れて言い尽くせないほどに見事ね。下簾も掛けない車の簾を上げてあるので、月の光が車の奥まで射し込んで薄色・白・紅梅など7,8枚重ね着の女房の衣装などが月に映えて美しく見える。月の光にあからさまに見えるので奥へ行こうとして、引き寄せられて恥ずかしかったの。「凛凛として氷しけり」と何回も詠んでおられるのは素敵ね。一晩中も車に居たいのに、行き先が近くなるのはくちおしい。この章は意外と名文である。

[303] 「宮仕する人々の出で集りて・・・」 第2類

宮仕えしている人らが退出して集まって、自分の主人のことを誉めたたえ宮の事や殿はらのことをお互いに話し合うのを、その家の主のように聞くのは素敵ね。家は広くてさっぱりとして、自分の身内はもちろんおしゃべり仲間でも宮仕えの人たちをあちこちに住まわせたいものね。なんかの時にはひとつ所に集まってお話をし、人の詠んだ歌について話し合い、人の手紙を持ってきてみんなで読んで返事を書き、いい仲の男がくることもあろうし部屋の中はこざっぱりとしておき、雨が降って帰れない男のためには素敵におもてなしをし、参上する折は気を配って納得の行くように送りだしたいものね。そんな宮様や身分の高い人の生活を想像するのはいけないことかしら。

[304] 「見ならひするもの・・・」 第1類

真似をしてしまうものには欠伸。子供ら。

[305] 「うちとくまじきもの・・・」 第1類

打ち解けられないものにはせちがらい奴(詐欺師)。立派と言われる人よりも安心できるようにみえるから始末が悪いのね。舟の道。

[306] 「日のいとうららかなるに・・・」 第3類

この章段は実は前段の「船の道」の説明になっている。あるいはかなり長いので別段にしたのだろうか。日がうららかなときは、海の上ものどかに浅緑の布を引き渡したようで少しも恐ろしい気はしない。侍者らが櫓を押し歌を歌っているのは素敵で偉い方にもお見せしたいわと思っていると、風邪が強く吹き海がただ荒れるので何も考えられなくなる。船に波が打ち掛ける様子はついいましがたまであんなに穏かだった海とは思えない。思えば船に乗る人は恐ろしい人間なのね。深さも知られない海に漕ぎ出してゆくのだから。物を多く積み込んでいるので水面から1尺もないのに、下衆の男はいささかも恐ろしいと思わないで船べりを走ってゆく。屋形の傍で漕ぐので、中の人間は安心していられるの。外に出たら目がくらむほどで、櫓の早緒が切れたらどうなるのだろう。私が乗った船はきれいに出来ていて妻戸や格子もあって、波とすれすれに進んでゆく小さな家みたいなものよ。小船を見ると大変ね。遠くで見ると笹の葉で作ったようにみえるの。船に灯した明りはまた素敵。朝早く端船という小さな船に乗って漕ぎまわるのは素敵。あとの白波が消えてゆくってホント。海ややっぱり危険だと思うに、海女が潜るために海に入るのは嫌な仕事に違いない。腰につけた紐が切れたらどうなるのでしょうね。船には男が乗って歌でも歌いながら紐を手繰り寄せるの。上がった海女が船べりに手を掛けふっと息を吐くのは切ないのね。女を海に落として船でゆらゆらしている男は最悪だ。

[307] 「右衛門の尉なりける者の・・・」 第3類

右衛門の尉という奴はせこい男親を持っていたので、世間に見られたら面目ないと思ったのか、伊予の国から上るときに海に親を突き落とした。「人の心ほどあさましいものはない」とあきれていると、7月15日に盆供養をしますと忙しげにしているのを見た道命阿闍梨はこの男を非難する歌を読んだ。(歌とはいえぬ代物なので紹介しない)

[308] 「小原の殿の御母上とこそは・・・」 第3類

小原の殿(右大将藤原道綱)の母という人は、普門という寺で法華八講があったという事を聞いて、次の日小野殿に人が多く集まって管弦を演奏して遊び漢詩を作っていたので、「薪こることは昨日に尽きしをいざ斧の柄はここに朽ちなん」(薪こるとは法華経の修行をさし、斧は小野にかける)と詠まれてたという。めでたいことね。ただしこの話は又聞きです。

[309] 「また業平の中将のもとに・・・」 第3類

在原の業平の朝臣の母の内親王が「ますます会いたい」といってこられたというのはとても胸にせまってくる。手紙を引き開けて見た時の様子が思いやられる。(伊勢物語「老いぬればさらぬ別れもありといえばいよいよ見まくほしき君かな」より)

[310] 「をかしと思う歌を・・・」 第3類

よく出来たと思う歌を草子に書いておけば、いうのも憚る下の者等が唄っているのを聞くと不愉快なのね。

[311] 「よろしき男を下衆女などのほめて・・・」 第3類

身分のちゃんとした男を下衆階層の女らが「たへんおやさしくいっらいしゃいます」といえば、すぐに評判が落ちてしまいそう。謗られた方がまだましね。下衆階層の人にほめられるのは女の場合も迷惑なのよ。誉めているときに言い間違っているからね。

[312] 「左右の衛門の尉を・・・」 第3類

左右の衛門の尉を判官(検非違使 警察の長)と言って、たいそうえらそうで怖い者に思いなしている。夜回りして細殿などに入って寝ているのは見苦しい。白袴を几帳に掛け、上着の長いところを丸めて掛けてあるのはみっともないのね。むしろ太刀の後に引っ掛けて見回りをしているほうがいいの。青い狩衣(五位以上)を常に着ていたらどれだけ素敵に見えることでしょうに。

[313] 「大納言殿まゐり給ひて・・・」 第2類

清小納言の憧れの人 伊周大納言(故関白道隆の長男 頼道との権力闘争に敗れる)とのツーショットの話である。大納言様が参上なされて漢文のことなど帝にお話になられ、例によって夜がすっかり更けて、御前の人々が一人抜け二人抜けて屏風や御記帳の後ろに全員隠れて眠ってしまった。ただひとり眠たいのを我慢して侍していると、「丑四つ」という時報が奏せられ、「夜が明けてしまいますね」とひとりごとをいうと、大納言様は「いまさら おやすみにはならないね」と言われ、こちらが寝る人間とは思わない様子で、「何であんな事を言ったのだろうと反省させられた。帝は柱に寄っかかってお眠りになっておられるご様子であったので、大納言様は「あれを御覧なさい、もう夜は明けたのにこうも御休みになられるのかね」とおっしゃるので、「本当に」と中宮さまも笑っておられた。そこに長女の童が翌朝里にもって帰ろうと隠しおいた鶏が、犬に追い立てられ廊下の間木の棚の中に逃げ込んで、恐ろしく鳴くものだから、全員が起こされた。帝もお起きになられて「あれは何の鶏だ」とおおせられるので大納言様はとっさに大声で「声明王の眠りを驚かす」(和漢朗詠集より)と申上げられた。ご立派でぴったりの文句だったので、凡ての眠気眼もパッチリ開いて称賛されることであった。帝も宮も面白がられた。次の夜は中宮は帝の寝室に入られたので、夜中に廊下に出て人を呼ぶと,大納言様が来られて「下がるのか。なら送ってゆこう」とおっしゃるので、裳や唐衣を屏風に掛けてゆくと、月が明るくてロマンチックな雰囲気で、大納言様の直衣がすごく白く見え、指貫をたっぷりお踏みになられて袖を惹かれ「ころぶな」と言って、「遊子なお残月にゆく」とお詠みなられた。これまた素敵な場面でした。「こんなことで誉めるなよ」とおっしゃるのだが、どうして素敵なことは素敵よ。

[314] 「僧都の御乳母のままなど・・・」 第2類

隆円僧都(中宮の弟)の御乳母のままと、御匣殿(中宮の妹)の局に坐っていたら、板敷きの傍近くに男がやって来て、「ひどい目に会いました。誰に辛い思いを申上げたらいいのやら」と泣きそうな顔をしていうので、「どうしたの」と問うと、「ちょっと出かけている間に住居が焼け夜殿に寝ていた童も焼け死にました。何にも物を持ち出せませんでした。今はヤドカリのように人の家にやっかいになっております」という。御匣殿も聞かれてたいそうお笑いになられて、ざれ歌をひとつ書いて男に下された。男は「これは何の支給伝票ですか、物はいくら頂けますか」というので、とにかく読んでごらんというと「片目も開きませんので」(字は読めない)という。女房らは「人にみせなさいよ、これほど立派な物はないから」といって大笑い。御乳母のままが参上して中宮に申上げると「どうしてそんなに騒ぐのよ」とお笑いになられた。ちょっと残酷な人を馬鹿にした話であるが、これが貴族の下衆を見る目であったのだからどうしようもない。

[315] 「男は 女親亡くなりて・・・」 第3類

男の母親がなくなって、父親は大事にしていたのだがイケズな後妻が出来てからは、男を家の中にも入れず、男の衣装などは乳母や故人の母親方の家が面倒を見ていた。西東の対のあたりに住んで部屋は立派で屏風や障子の絵も見所がある暮らしていた。殿上の交際も「なかなかの者だ」と誰もがいうくらいで、帝の覚えもよくよく召されてお遊びの相手になっていた。だけでいつも欲求不満で色好みだけは人一倍であった。上達部の人の大事にされている妹がひとりいたのが慰めのひとつであったという。この話は出だしだけで後半がすっかり抜けているように考えられる。(失われたのか、書かなかった中途半端な断片か)

[316] 「ある女房の遠江の子なる人を・・・」 第3類

ある女房が遠江の守の息子と出来ているというが、おなじ宮人とも噂があるので忠告をすると、「親にかけても誓います。とんでもない嘘です。夢の中にも会っていません」とシラを切るので、「誓え君遠江の神かけてむげに浜名のはし見ざりきや」と歌った。(神=守 親にかけて誓うという意味。橋とは下に水が流れるので下心があると云う意味)

[317] 「びんなき所にて・・・」 第3類

まずいところで男に逢っていたら、胸騒ぎがするのでどうしたのという人に対して、「あうさかは胸のみつねに走り井の見つくる人やあらんと思えば」

[318] 「まことにや やがては下ると・・・」 第3類

「本当 もうすぐ都から下る」という男に、「思いだにかからぬ山のさせも草誰かといぶきの里はつげしぞ」  上の3段の歌は聞くもおそろしひどい駄洒落歌。


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