2011年2月6日

文藝散歩 

山口仲美著 「日本語の古典」 
岩波新書(2011年1月)

日本文学の古典30作の言葉と表現の面白さ、日本語の魅力再発見

「日本語の古典」という本の題名は少し異な物を感じませんか。「日本文学の古典」というなら分りますが、「日本語の古典」というのは外国語ではなく日本語で書かれている古典という意味で、特に文学の内容を話題とするのではなく、「日本語」に重点が置かれているようである。古文の表現の面白さを「古典」から味わっていただきたいというつもりらしい。取り上げている題材は奈良時代の「古事記」に始まり、江戸末期の「春色梅児譽美」まで歴代の名作30作を取り上げて、言葉と表現を切り口とした面白さを分析するようだ。なぜかというと、著者の専攻は日本語学で日本語の歴史や擬音語・擬態語(オノマトペ)の研究者であることから、日本文学の古典を読むときの視点が定まってくる。新書のボリュームで日本の古典全分野をあたるのだから、選ばれた30作および採録された文章はほんの一部に過ぎないが、古典の底力、日本語の魅力を再発見できるようになっている。ところで本書は誰を読者と想定しているのだろう。恐らくその平易な記述からして、内容的には中学生・高校生を対象とした道案内書である。ただ古典の言葉を切り口にすれば、誰にでも新鮮な内容になっているようだ。山口仲美氏のプロフィールを紹介する。山口 仲美(1943年生まれ)は、日本の国語学者。『源氏物語』や『蜻蛉日記』などの平安時代の文学の文体研究や、日本語の歴史における擬音語・擬態語(オノマトペ)の研究、及び、最近では若者言葉の研究などで知られている。1966年 お茶の水女子大学文教育学部卒業、1968年東京大学大学院卒業後 、聖徳学園女子短期大学、共立女子大学短期大学部、明海大学外国語学部、実践女子大学文学部、埼玉大学教養学部で教鞭をとり、2008年埼玉大学を定年退官し現在は明治大学教授である。 1984年『平安文学の文体の研究』に対して、金田一京助博士記念賞を受賞し、2007年)『日本語の歴史』に対して、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。主な著書には、『平安文学の文体の研究』(明治書院、 1984年)、『平安朝の言葉と文体』(風間書房、1998年) 、『日本語の歴史』(岩波新書、2006年)、『若者言葉に耳をすませば』(講談社、2007年) などがある。ホームページ「山口仲美の言葉&古典文学の探検」をご参考に。

本書「プロローグ」にショッキングなことが書いてある。「日本の古典は、今や瀕死状態。現代人には殆ど顧みられない状況・・」とある。宗教哲学者の山折哲夫氏は「明治以降の近代化の教育軸は、一に科学技術、二に法律社会学の治政術であった。今や第三の教育軸が必要である。それは文化芸術宗教の教育である。そのためには古典をしっかり学ばなければならない。古典をバランスよく教えれば第三の教育軸となる」と主張されている。我々が古典を読むメリットは、現代人では知り得ない古代人の価値観、習慣を知って、物の見方を相対化することが出来ることである。第二のメリットは古典の表現を学ぶことで、創造性をはぐくむ養分が身につくことである。それが本書の狙いでもある。主に言葉との係わり合いから古典を取り上げ、日本語という言葉で表現される物語の特徴的な表現方法=言葉を分析する。また本書はとりあげた古典作品ごとに一テーマを設けている。作品は多くのテーマを持たされているので、全部取り上げることは紙面が許さない。一作品一テーマを原則として突っ込む。そして本書は時代を大きく奈良、平安、鎌倉・室町(戦国時代を含めて)、江戸時代の四時代に別ち、30作品を配分している。時代の大きな特徴として著者は、奈良時代を言葉が霊力を持った時代とし国家創成のエネルギーをみる時代、平安時代は仮名文字で表現された貴族文化の時代、鎌倉・室町時代は武士が貴族を圧倒し、激しい闘争と無常観を和漢混淆文で表現した時代、江戸時代は近代口語によって庶民生活をイキイキと描き文学作品が商品化した時代と見た。私もこの文藝散歩コーナーにおいて、読んだ日本文学の古典を紹介している。作品名にリンクしておくので、参考にしていただければ幸いである。

T 奈良時代ー言葉に霊力が宿る

1) 「古事記」−言葉が生む悲劇

「言霊信仰」とは、口から発せられた言葉はその内容どおりの状態を招くという考え方が残っていた時代である。むやみな言葉を発すると危険であると云うことを、712年に成立した古事記中巻第12代景行天皇の条に「ヤマトタケル」の物語は語っている。景行天皇には3人の皇位継承者(太子)がいた。兄のオオウスノミコトが天皇の命で美人姉妹を召し上げにゆき、それを自分のものにして、天皇には別の女を差し上げた。それと分ってしまって、オオウスノミコトは天皇の前に現れず、朝夕の食事時にも出てこない。そこで天皇はヤマトタケルに「汝ねぎし教えさとせ」といった。「ねぐ」とは労わる、慰労するという意味であるが、ヤマトタケルは「いためつける」と誤解して兄を殺し始末した。天皇はヤマトタケルの猛々しさがいつ自分に向けられるやもしれず、自分の側からヤマトタケルを追いやるべく、常時征伐の旅に出すことにした。まず熊襲征伐、出雲征伐に機略で成功して都に帰ったヤマトタケルに、兵をつけずに今度は東国12カ国の征伐が命じられた。「天皇は自分に死ね」というのかと悲しみまた征伐に出かけた。常陸、甲斐、信濃の族を「言向け和し」ていったヤマトタケルは、尾張に帰り結婚した。伊吹山の神を征伐するため、草薙の剣を忘れて出かけたヤマトタケルは、神に対して誤って「言挙げ」をした。その結果神の怒りを買い、病気なり死んだ。ヤマトタケルの魂は白鳥となってヤマトに向かって飛んだといわれる。ヤマトタケルの悲劇は「言挙げ」の言葉に始まり、言葉に終る。

2) 「日本書紀」−リアルな歴史叙述

720年に成立した日本書紀は、国家が書いた天皇政権の歴史である。誰が書いたかというと、舎人親王は編集者であるが、藤原鎌足と中大兄皇子(天智天皇)が強く関与していると見られる。本書は645年「大化の改新」の記述を取り上げる。壬申の乱で権力を握った蘇我蝦夷・入鹿親子が皇極天皇を恣に操り牛耳っていた。藤原鎌足と中大兄皇子に、蘇我倉山田麻呂、佐伯連子麻呂、犬養連網田を味方にいれ、入鹿暗殺計画を練った。暗殺計画から現場に「いたるまで、殆ど鎌足の視点から事件が描かれている。現場で主役を演じた人間でないと書けない機微をリアルに生き生きと描ききっている。山田麻呂が「流汗身に沃ひて声乱れ手動く」という緊張感が伝わり、「この日あめふりて、庭に溢めり。蓆・障子を以ちて鞍作が屍を覆う」と死体処理の凄惨な現場がリアルに描かれている。形式的な公式文章である日本書紀の中で、この条のリアルさは群を抜いた表現である。

3) 「風土記」−タブーと地名由来

風土記は713年の官令により、地方の地名の由来、土地の産物、土地の肥沃度、古い伝承などを報告せよと命じている。この詔の狙いは当然ながら中央集権律令制の確立のため、課税と行政単位を把握するためである。合計41カ国から報告が上がったといわれているが、今残っている風土記は、「出雲国風土記」、「常陸国風土記」、「播磨国風土記」、「豊後国風土記」、「備前国風土記」の4つである。風土記に見られる地名由来の説明には、天皇や権力者の発言や行為から解く場合が多い。ここに取り上げる風土記は「備前国風土記」の松浦郡の話で、「摺振の峰」の地名の由来である。宣化天皇の時代に任那の国の平定に遣わされた狭手彦が松浦郡にやってきた。現地の妻と結婚したが、朝鮮に渡らなければならず、別れを惜しんだ妻が唐津湾が一望できる丘に立って「褶を用いて振り招きき」と狭手彦の魂を呼び寄せようとした。そこでこの丘を「摺振の峰」という。狭手彦がいなくなって、妻のもとに毎夜通ってくる男がいた。その正体を知るため麻糸をたどってゆくと、摺振の峰の沼に半人半蛇の魔物であったという。この沼から妻の遺体が発見されたという。

U 平安時代ー貴族文化の花が咲く

4) 「竹取物語」−成長するかぐや姫

「竹取物語」は平安時代のごく初期(9世紀末)に生まれた日本で始めての物語文学作品である。美しいかぐや姫の話の割には、随分荒らしい言葉が吐かれる。「青反吐」、「糞」、「さが尻」、「まり置ける」など漢文に熟知した男性の文章である。かぐや姫の言葉も色気のない漢文調である。輸入された当時の中国文学にネタがあったように思われる。そもそもかぐや姫は天上界で罪を犯し流罪となって地球にやって来たのである。そのかぐや姫が大宮人を手玉にとって、無理難題を吹きかけ求婚を破談にする策略をめぐらすという面白いお話である。結局は罪の期間が過ぎたので天上に呼び戻されて落ちとなる。宮廷の男なら左遷され僻地に流された場合、現地妻を娶って子供を作るという罪な事をするが、天上の女はそんな罪作りはしないだけ優しいのだろうか。

5) 「伊勢物語」−命をかける、それが愛

歌を中心とした恋物語で125の小話からなっている。10世紀中頃の作品である。24段の3年行方不明の夫を待った妻の再婚の日に夫が帰ってくるという話を取り上げる。妻「あらたまの年の三年を待ちわびて ただ今宵こそ新枕すれ」、夫「梓弓ま弓つき弓年を経て わがせしがごとうるはしみせよ」と身を引いた、妻「梓弓ひけどひかねど昔より 心は君によりにしものを」と夫の後を追いかけるが見失い、妻「あひ思はで離れぬる人を留めかね わが身はいまぞ消えはてぬめり」と息絶えてしまうのだった。愛は死を恐れないということ。

6) 「うつほ物語」−理想の男性を造型する

10世紀末にできた「うつほ物語」は源氏物語に先立つ長編小説であったことは意外に知られていない。源氏物語はこの「うつほ物語」に影響を受けている事は明らかである。作者は極めて卑猥な発言からして男性であろうと思われる。作者(未詳)が描きたかったのは、琴という芸道の伝承を通じて主人公仲忠という男の理想像である。俊蔭とその娘、仲忠の3代にわたって中国秘伝の琴曲を伝え、誠実に中庸を得て生活する仲忠は権力闘争にいきる男性ではなく、学芸に秀でてそれを精神的支柱にして生きる高雅な人物のように描かれている。枕草子にも仲忠の品定めをやって、清少納言は仲忠を良しとしている。

7) 「蜻蛉日記」ー告白日記を書かせたもの

日記を読む楽しさは、人物の人柄が如実にさらけ出される点にある。物語の人物表現とは違ったリアリティがある。「蜻蛉日記」は10世紀末に成立し、作者は藤原道綱の母である。作者は藤原兼家の妻であり、兼家の子には藤原道長がいる。いわば藤原家でも権力の中枢を占める系譜であり、藤原兼家は相当権力欲の強い政治家であった思われる。作者はあまり身分の高くない受領階級の藤原倫寧の娘で、むろん兼家の正妻ではない。女にとって結婚はすべてであったのだが、兼家にとって多くの女の一人に過ぎないことから、道綱の母の悶々たる人生が始まる。結婚してすぐ夫兼家は別の女の元に通い始め、それに反発した道綱の母は兼家の仕立物(裁縫)を拒否し、夫のほうは派手に道綱の母の家の前を通過して別の女の家に行くなどと泥沼の意地の張り合いとなった。夫婦仲は最初から荒れていて「つれなし」、「つらし」、「憂し」という言葉が日記に連ねられている。作者の猛烈な妥協や諦めを知らない自己主張が見え、それはそれで近代的な女性の主張でもある。ここまで闘う女は敬意に値するようだ。

8) 「大和物語」−歌物語から説話文学へ

大和物語が10世紀後半に成立した歌物語である事は伊勢物語と同じであるが、歌中心の伊勢物語に対して大和物語は和歌よりもそれにまつわる話の方に重点がある。だから説話文学の範囲に加えられることもある。編纂者は不明である。173段の話からなり、ここに取り上げる149段の話は伊勢物語にも出てくる有名な話である。当時の夫婦の経済生活はおもに妻の実家の経済力にかかっていた。貧しい妻の実家の援助が少ない中で夫は裕福な新しい妻に乗り換えた。たまに古い妻の家にやってきても、妻は嫉妬げにも見えず、不思議に思った夫が物陰から古い妻の様子を窺っていると、妻が水で胸を冷やすと水がすぐに熱湯になったという嘘みたいな話である。水が熱湯になるくらいの激しい嫉妬心を妻は抑えて夫に対応していた事を知ったので、哀れに思いまたよりを戻したという結幕である。この話の筋が自然に受け入れられるように、論理立てをしっかりと工夫しているところが大和物語の特徴である。

9) 「落窪物語」−セリフから人物が見える

西洋のシンデレラ物語と同じ継子いじめの話がこの落窪物語である。10世紀中頃に成立したようで作者は不明である。継母に育てられる美しい姫は、母親方の娘が大事にされる一方で、結婚適齢期になってもボロボロの衣服を着せられ、一段低い床の部屋(落窪)に住まされ虐待されていた。姫はここを追い出されたら行くところもなくひたすら耐えて生きていた。その姫には侍女あこぎという味方がいて世話をしてくれた。あこぎには夫がいて、姫の話を聞いた夫が仕え先の右近少将道頼に話をすると、いたく道頼は興味を示し、姫と通じる仲となった。この道頼が邪魔をする継母の魔の手から姫を救い出すというハッピーエンドのストーリーである。ここに継母の言葉使いが、自分が優位に立つ正常心の場合と、意のままにことが運ばないときの場合で天と地の違いがあるところが継母の性格を現している。ストーリ展開のサスペンスとスピーディーさ、リアルな表現、セリフの面白さそれらがあいまってこの物語を魅力的にしている。

10) 「枕草子」ーエッセイストの条件

「枕草子」は11世紀初めに著わされた日本初めての「随筆」である。作者は中宮定子の侍女清少納言である。清少納言の父は清原元輔、祖父は清原深養父という歌人の一家に生まれた。中宮定子に出仕した頃から、宮廷の力関係は、995年定子の父藤原道隆が亡くなりそして兄伊周が花山法皇事件で流罪となって以来、次第に道長の天下に傾いていった。従って清少納言が出仕して1年ぐらいは得意の絶頂にあったが、2年目以降から定子が病死する7年目までは凋落と失意の境遇にあった。暗く切ない涙の生活をひたかくしにし、あえて得意満面の強がりな派手な筆致でこの枕草子は書かれている。清少納言の事を悪くいう人は、清少納言のこの面を嫌がるようであるが、虚栄の宮廷ではやむをえないキャリアーウーマンの生き方ではなかったろうか。第1段「春は曙、夏は夜、秋は夕暮れ、冬はつとめて」と、最も情緒のある事項を時間という観点で切り取る手法と、こうした風景描写を散文に持ち込んだのは日本文学初めてのことである。清少納言は言葉に対する好奇心と批評精神が旺盛で、言葉使いのマナーにまでけちをつけるのである。とくに訛りの入った言葉遣いには敏感に反応する。こうした鋭い観察眼から生まれる批評精神は近代にも通じる。

11) 「源氏物語」−言葉にしかけられた秘密

枕草子のすぐあと、道長派の後宮から1008年に「源氏物語」という世界に誇れる54帖の長編恋愛小説が生まれた。作者は紫式部で平安かな文学を読みつくし、白氏文集など漢文の教養にも恵まれた才女であった。難解な文章でしられ、背景や人脈系統図・訳文なしには一歩もストーリーが把握できないという代物である。これは主語なしでも誰の発言かが分る身内の会話形式で話が進められているからであろう。そして読者層は後宮の女たちで、特に中宮に立つべき少女の情操教育のために書かれたようで、絵を見ながら読み聞かせていたようだ。目で合図をすれば、誰の事かわかる熟知された狭い世界のお話であるから、1000年も経った現在では一寸読みで理解できないのは当然かもしれない。普通は谷崎潤一郎、与謝野晶子、団地文子、瀬戸内寂聴、田辺聖子らの現代訳を読んでから、源氏物語の原文に入らないと何のことやら理解できない。望むらくは「源氏物語講座」などで、先生方の解説を導き手として原文を読み進めることが理想的である。私は山岸徳平校注岩波文庫版「源氏物語」を読んでいるが、句読点がつき発言の主語が行間に入った本でも、やたら息が長いくねくねとした文章の意味を取るのは容易ではない。紫上を「蒲桜」に喩え、明石上を「花橘」や「藤の花」に喩えて、周到に用意された言葉で登場人物の個性やイメージを描き分ける。また擬態語の利用で、紫上を「あざあざ」、玉鬘を「けざけざ」という風に美しさを形容する。反対に末摘花を「むむ」と笑う擬態語によって人物を描き分けているのは源氏物語独自のものであると云う。「紫式部はまさに言葉を操る天才」であると著者は評している。

12) 「堤大納言物語」−カタカナを書く姫は何歳か

「堤大納言物語」は平安時代後半に出来た日本最初の短編物語集であろう。作者不明の10篇の話が収録されている。堤大納言という名前と短編物語には何の関係もないし、編者が堤中納言であったというわけでもなさそうだ。ここに取り上げるのは「虫めずる姫君」という話である。平安時代にこのような理科系の合理的な少女がいたのかと思うだけで楽しくなる話である。「人はまことあり、本地をたずねたるこそ、心ばえおかしけれ」とのたまって、蝶のもとである毛虫を観察の対象とした。お歯黒もきたなしといってつけず、興味を持った若君に対して、片仮名で返事する(ひらがなを学ぶのは結婚適齢期)というまだ幼い少女である。現代にこんな少女がいたら、さぞ学校では先生が注目することであろうに。

13) 「大鏡」−権力闘争を勝ち抜く男

豪胆で運の良い男である藤原道長の栄華物語である。物語は花山天皇は藤原兼家の謀略で出家させられたという陰謀説で始まる。花山天皇の「ご本性のけしからぬさま」を懸念し、これを退位させ自分らの血に繋がる一條を天皇するための策略であった。そして一條天皇が即位すると兼家は摂政に収まった。兼家には3兄弟がおり、ここから道隆、道兼、道長の出世競争が展開される。豪胆で運の強さでライバルを蹴落とし、最終的には道隆が死にその長男伊周をこれまた謀略で罪に落として流罪とすることにより、道長が最高権力を掌握する。これは「枕草子」で解説した、道隆と道長の闘い、清少納言と紫式部の闘いを反映していた。天皇に自分の娘を妃として入れ、生まれた子を天皇にして外戚となって権勢をほしいままにすることが藤原摂関家のすべてである。だから兄弟間でも熾烈な競争がおきるが、それが平安時代の政治であった。

14) 「今昔物語」ー落差のある言葉使いの魅力

12世紀の初めに編集された全1040説話からなる「今昔物語」は、当時の王朝文学とは違いすぎておりとうてい文学とは見なされず長い間評価は低かった。大正時代に芥川龍之介が「野生の美しさ」をみて高く評価し、近代的センスで焼きなおして自分の短編集にくわえたことにより、ようやく日の目をみることになった。中国、インド、日本の説話の万華鏡であろうか。仏教譚が多いのもその特徴である。今昔物語は「こそこそ」、「ざぶりざぶり」、「こほろ」などの擬音語の宝庫でもある。巻28第1話に「近衛の舎人ども稲荷に詣で、重方、女に値ふこと」という傑作?がある。稲荷詣では宗教心からではなく、庶民にとって物見遊山でありかつ女性ハント(ナンパ)の場でもあった。なんと男はそこで顔を隠した自分の女房に声を掛け、すんでのところで成功するかに見えたとき、女房に平手打ちをされ罵倒されるのである。女房の放つ言葉がものすごく躍動的であるから面白い。物語文学にはじめて庶民の世界が現れた画期的な表現である。

V 鎌倉・室町時代ー乱世を生きた人は語る

15) 「方丈記」−見事なドキュメンタリー

方丈記の著者鴨長明は1155年生まれで1216年になくなっている。日野の里に方丈の住み家を作って、方丈記を1212年に書いたというように、事実関係が明確な人物である。彼は安元の大火、治承の大辻風、福原遷都、養和の大飢饉、元暦の大地震を経験し、源平の大乱の時代を生き抜いた人物である。まさに「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず・・」という無常観を身をもって経験した。平家物語を叙情性豊かな戦記文学というなら、方丈記はさしずめドキュメンタリ性の記録文学の先駆というべきでしょう。書かれている内容は災害の記録と住居のことに集中している。災害の凄まじさを表現するに、「・・・のごとく」という比喩を的確に多用し、事実のみを正確に記述している。同じ安元の火災を記述した平家物語と比較すると、平家物語では量的事実が方丈記の1桁上となっている。平家物語が事実を誇張して読者に訴えるのに対して、方丈記は事実のみを記録している。これぞ記録文学である。

16) 「平家物語」−鮮烈に描かれる若武者の死

平家物語は方丈記より少し後れて成立した。本来琵琶法師による平家への鎮魂歌であったため、仏教色の強い「無常の文学」とか「死の文学」といわれている。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。」ので出しの名文に象徴される。ここでは巻9の「敦盛最後」に死の文学を如実に見る。無論平家一門の名だたる武将の最後だけでなく、勝った源氏のほうでも木曾義仲と今井四郎の死、源義経と弁慶の死は読者の涙をさそう。落ち延びようとする平家の若武者敦盛と敦盛の首を討ち取ろうとする熊谷直実は不幸な出会いであった。美しい若武者貴族に憐れみ心を催した直実は仏門に入り敦盛の冥福を祈るという。須磨寺に敦盛首洗いの池や墓があり平家物語の事蹟を偲ばせる。平家物語は公家的貴族文明と、源平の武家的勢力の伸張、そして宗教的浄土感を含むもので、「敦盛最後」では貴族化した敦盛と、武家的な価値観の直実と、仏門にはいることで宗教的な要素の3つのすべてを描いた。

17) 「とわずがたり」−愛欲に生きた人

1306年ごろに成立した「とわずがたり」は、鎌倉時代後期の貴族社会の腐敗を赤裸々に描いた告白日記である。内容のあまりの生々しさに、朝廷・皇室では長い間その存在が秘密にされていた形跡がある。宮内庁「図書寮所蔵桂宮本叢書」にひとつとして、戦後1950年に始めて公開され大騒動となった作品である。作者は後深草院の後宮に入った二条という女性(大納言久我雅忠の娘)の日記である。日記は5巻からなり、前半は宮中での愛欲生活編、後半は出家してからの諸国行脚の紀行編である。二条が後深草院の愛人になってから、情を交わした男性は西園寺実兼(後深草院の側近で作者と親戚関係)、性助法親王(後深草院の異母兄弟)、鷹司兼平、亀山院(後深草院の実弟で皇位継承問題で対立)である。なんと後深草院を中心としたごく狭い血縁関係のある男性ばかりで、彼らとの関係を後深草院が知らなかったはずは無い。政敵の亀山院と関係を持ったため、作者もついに伏見御所を追放され出家のやむなきに至った。彼女の愛欲生活には罪の意識は全く感じられない。意志が弱く迫られた相手の言いなりになりやすい性格であったようだ。良心の呵責を意味する言葉は「とわずがたり」には極端少ない。男性との情事は「わが咎ならぬ過り」だと思うから罪の意識はない。「いと恐ろし」と思うのは秘密の露顕だけであった。

18) 「徒然草」−兼好法師は女嫌いか

徒然草は卜部兼好という仁和寺の僧侶が、建武の中興の年1331年に表した全243段の随筆である。徒然草は人間論、人生論、処世訓、住居論、芸術論、自然観照論、説話、有職故実、そして女性論と実に多彩な話題について述べている。その中から本書は女性論を取り上げた。兼好は第3、8、9段では女性を好意的に捉えている。「色このまん男は、いと騒々しく」、「久米の仙人の、もの洗う女の脛に白きをみて・・」、「女の髪の毛を縒って作った綱には・・」などは女を是としている。ところが後段になると女への痛烈な批判が出現する。「女の性は皆ひがめり、人我の相深く、貪欲甚だし」(107段)、「もし賢女あらば、それもものうく、すさまじかりなん」、「妻というものこそ、男の持つまじきものなれ」(190段)後半は出家してから書かれた部分であり、修行の邪魔になる女への執着から遁れるために必至で女の悪口を言っているようだ。

19) 「太平記」−武者詞の活躍

室町時代の中期1379年頃の成立になる軍記文学である。「太平記」は後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画からはじまり、後醍醐天皇の「建武の中興」が破綻し、足利尊氏の南北朝時代を経て、楠木正成・新田義貞の敗北で室町幕府が成立し、3代将軍義満の時代にわたる50年間の戦乱の時代を描いた。鎌倉時代にはまだ細々と存在していた公家社会(宮廷文化は鎌倉時代まで)は完全に終った。「太平記」は成立してから一般大衆を読者として語り継がれた。ここに取り上げるのは南朝の英雄楠木正成である。寡兵よく大軍を破るの典型的な戦いぶりが庶民の人気を得た。鎌倉幕府軍との千早城の奮戦期が最も有名である。(鎌倉幕府に止めを刺したのは新田義貞であるが)正成の魅力は、この知略に長けた戦いぶりにあった。南朝を正統政府とする明治政府と皇室が、足利尊氏を賊軍としてこの楠木正成をおおいにもてはやしたことも楠木人気を裏支えしたようだ。同じ軍記物語であっても、太平記では平家物語のもつ叙情性は姿を消し、かわりに具体的で生々しく叙事的になった。戦場で使われる言葉は「戦争術語」が多く、戦乱の激しい場面を伝え、「血湧き肉踊る」文章はまさに講談もので大衆に語り聞かせる文体である。

20)「風姿花伝」−経験と情熱の能楽論

世阿弥の書いた能楽書「風姿花伝」は1416年頃成立した。広く世の中に知られたのは明示42年つまり20世紀になってからであった。それまでは秘伝として「秘すれば花なり、秘せずは花なるべからずとなり」として、600年間観世家の秘伝として一子相伝されていたのだ。「風姿花伝」は7篇からなっており、ここでは「年来稽古条」を取り上げた。これは人生を年齢的に7期に分けて芸道修行の要諦を述べたもので、一種の教育論であった。年齢期ごとに心得るべき条(教育論と人生論)を簡潔にまとめた。人生への深い洞察に裏付けられているからこそ、人の胸を打つ言葉になっているのだろう。

21) 「狂言」ー短い時間で笑いを作る

狂言は本書「日本文学」にとって異質な項目である。文章ではなく寸劇、笑劇というパフォーマンスであるからだ。そういう詮索は別にして、狂言の本質に迫ろう。そもそも狂言は能の舞台の合間を飾る笑いを中心とする寸劇として室町時代に発生した。今日の「漫才」に相当する。小人数の役者で笑い専門の狂言というショートコメディは即興劇で、初めのころは脚本もなかった。筋書きが出来たのは江戸時代になってからで、台本が書かれ、流派にも大蔵流、和泉流(人間国宝野村万作はこの和泉流)、鷺流の三派が確立した。狂言では舞台装置の少なさと短時間で笑いを取る必要から擬音語・擬態語が活躍した。(今でいうギャグ) たかが漫才されど漫才、たかが狂言されど狂言というところか。

22) 「伊曾保物語」−450年前から愛された翻訳文学

ポルトガルの宣教師が布教のために日本にやってきたのは1549年の頃である。彼らが自身が日本語を学び、キリストの倫理観を植え付けるために、選んだテキストが「イソップ物語」であった。イソップ物語はギリシャ時代の奴隷であったイソップが、劣悪な境遇を生き抜くための庶民の立場からする知恵と経験をまとめたものである。一般庶民へのメッセージであって、支配者のための治政の書ではない。普通の人間が幸せにいきるための要諦であった。天草本「伊曾保物語」はポルトガル式のローマ字綴りなので、それはそれで読みにくいが、当時の日本語の発音も分って日本語の研究にも役立った。イソップ物語から70篇を選択して、キリスト教の教えに入る前に人間の倫理感を醸成するという点に宣教師の狙いはあった。それにしても500年以上前にギリシャ文学の翻訳本があったとは驚きではないか。

W 江戸時代ー庶民が楽しむ言葉の世界

23) 「好色一代男」−近世的なプレイボーイ

井原西鶴のヒット作「好色一代男」は1682年に作られた。源氏物語の54帖を意識して短い54章からなり、前半は世之介の手当たり次第の放蕩ぶりを描き、後半は大阪江戸の名妓たちの場面となり、最後に女探しの船出でおわるという話すのも馬鹿馬鹿しいほどの荒唐無稽の好色ものである。「好色一代男」の文章は、横滑りの文章といわれひとつの事を言い切らないうちに次の事項を述べて、しかも主語も変わっているから文がねじれている。まじめに読むと趣旨がつかみにくい。目移りのする、滑稽さだけを表にした実に軽薄な世相、それが近世的プレーボーイの姿にはうってつけの文であったのかもしれない。構想の起承転結より、澱まず速度を持って流れるさまを表したに違いない。

24) 「奥の細道」−句を際立てる

元禄時代の1702年、松尾芭蕉が著した紀行文「奥の細道」は「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり」で始まる。俳句を中心とした紀行文の地の部分は,いわば歌物語の歌詞(歌枕)に相当する部分であって決して随筆ではない。たとえば山形「立石寺」の「閑けさや 岩にしみいる 蝉の声」の句にむけて練りに練った序がすなわち地の文章である。それが「おくのほそ道」の文章構成の巧みさである。散文部分が俳句に向かって収斂してゆくように攻勢された文章は、俳句に調和した男性的な漢文訓読口調で全体を引き締めゆるぎない風格を現している。

25) 「曽根崎心中」−言葉が人形に魂を吹きこむ

元禄時代の1703年、大阪の人形浄瑠璃の竹本座が放った大当たり作「曽根崎心中」は実際にあった醤油屋の手代徳兵衛と堂島新地の遊女お初の心中事件を、近松門左衛門が書き下ろしたものである。詞は竹本義太夫、人形は辰松八郎兵衛、三味線竹沢権右衛門というゴールデンコンビで一気に竹本座の赤字を盛り返したという。話の筋書きは省くが、二人の道行文は見事な七五調の美文である。語りの真骨頂をなす近松の言葉は、どこをとっても美しくリズミカルは七五調で、観客が人形に魂を感じるように繰り返される言葉(さび)は見事な心理効果を生み、観客が人形に感情移入してゆくように練られている。声を出して読むたびに、消してはならない日本語の伝統の美しさである事を感じさせられる。

26) 「雨月物語」−怪異のリアリティ

江戸時代中期の徳川文化の熟蘭期の作品である。上田秋成が1776年に作った怪異小説(スリルと超心理学)[雨月物語」は九つの短編からなり、ここには「菊花の約」を取り上げる。愛執、復讐、男色、信義の男の世界を描いた雨月物語は人物の激しい執念が怪奇を展開させている。二人の男が出会い心魂照らして義兄弟の契りを結び、来年重陽の菊の節句に再会を約するという筋書きで始まる。出雲の尼子の政変で藩主を失った男が復讐を企てるが、逆に捕らえられ幽閉された。約束の9月9日に会うことが出来ないと悟った男は、自死し悪霊となって義兄弟に会うという話である。

27) 「東海道膝中栗毛」ーシモネタの生む開放感

滑稽本「東海道膝中栗毛」は1802年に刊行され、以降20年間増刊され続けた超ロングセラー作品となった。「東海道膝中栗毛」で一番目立つのがシモネタである。猥談をいささか誇張し、面白おかしくげらげら笑いこけるあけっぴろ下の世界がある。これが庶民生活の楽しみになっていた。大阪のどたばた喜劇、しゃべくり漫才などのお笑い芸のもとであろうか。ギャグ会話、悪戯の仕返し、ドジな行動などの手法満載のお笑い本であった。

28) 「蘭東事始」−翻訳者の良心の告白

「蘭学事始」として知られる杉田玄白の「蘭東事始」は1812年に書かれた。オランダの科学書(医学書)である「解体新書」の翻訳の苦労話を記録したものであるが、1771年千住小塚原の刑場で罪人の腑分けを見た玄白と良沢は解体新書の翻訳を決意した。前田良沢、中川順庵と杉田玄白の3名が翻訳に携わったのであるが、リーダー役は良沢で玄白はむしろ従の立場であった。ところが問題は「解体新書」の翻訳者は杉田玄白と記されており、前田良沢の名はなかった。恐らく何かの事情で仲間割れをした玄白が良沢を裏切って別の権力者の医者と組んで解体新書を刊行したのであろうと思われる。良沢は病気と称して門を閉ざし、玄白は単独翻訳者として世の絶賛を浴び幕府に重用されたという。解体新書刊行後41年経って玄白が遺書のように「蘭東事始」を書いたのは深い意味があったようだ。玄白は時効を待って「蘭東事始」を書き真実を明らかにしている。良沢が翻訳のリーダーで自分は脇役に過ぎなかったといっている。良沢に裏切りを謝罪しているのだ。壮年期の功名心から成果を独り占めし自分ひとりの業績にしてしまったことに対する負い目を、玄白は死の直前まで抱き続けていたようである。といってものこの世でいい目をしたのは玄白であって、こういう謝罪は許されるべきなのか疑問が残る。現在の欧米での科学上の発見先陣争いの凄まじさを江戸時代に垣間見る思いがする。

29) 「南総里見八犬伝」−迫力満点の戦闘シーン

曲亭馬琴が幕末1813年に書いた荒唐無稽の戦闘文学である。ここに取り上げた文章は「芳流閣」における信乃と見八の決闘場面である。筋は荒唐無稽なのだが文章は血湧き肉踊る式の迫力満点の叙述である。丁々発止というような漢字で可枯れた擬音語・擬態語を頻用し、イメージ性を盛り上げている。パフフォーマンス文章といえる。

30) 「春色梅児譽美」−心をゆさぶるエロチシズム

為永春水が1832年に書いたエロチシズムの極致「春色梅児譽美」は、丹二郎と三人の女との色事を描いて若者に大受けしたという。濡れ事のきわどい場面を描く今の「官能小説」の祖であろうか。「浮世絵の春画」に一歩踏みとどまった「あぶな絵」の世界である。永井荷風はこのような江戸情緒を後生大事に守ったという。


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