2011年1月2日

文藝散歩 

坪内稔典著 「正岡子規ー言葉と生きる」 
岩波新書(2010年12月)

言葉に生きた明治の群像 子規評伝

坪内稔典氏はいうまでもなく俳人である。そして子規(1867−1902年)とおなじ愛媛県生まれである。1972年立命館大学文学部を卒業し、高校教師をしながら正岡子規の俳句に目覚めたという。園田学園女子大学助教授、京都教育大学教授、京都教育大学附属京都中学校校長などを歴任。正岡子規や夏目漱石の研究で知られるが、俳人・歌人としても活躍。俳句グループ「船団の会」代表を務める。現在は京都にある仏教大学の教授である。私は坪内稔典氏の著作は岩波新書の、 坪内稔典著 「季語集」(岩波新書)坪内稔典著 「俳人漱石」(岩波新書)を読んだ。そして本書が3冊目である。岩波新書で活躍する俳人はめずらしい。「e船団」のホームページを覗いてみると、何か庶民的な、そして分りやすいキャッチコピー的な句が楽しめる。本書は講談社版「子規全集」に依拠して、子規の文・俳句をまず冒頭において進める評伝風の「小話」(3−4頁)を時代順に並べてゆく手法である。読み切り風の短文であるので読みやすい。言葉にしのぎを削った俳人の文章は、論を展開するのではなく、短くて人の心に落ち着くのである。掲出されている子規の文は小学校の作文から、妹律の回想文、小学校時代の回覧雑誌の雑報、「漢詩稿」、中学校時代の演説文、友人への書簡、大学予備門時代のノート「筆まかせ」、詩歌集「七草集」、東京大学文学部時代の俳句「啼血始末」、「読書弁」、漱石宛の書簡、木曾紀行文「かけはしの記」、「獺祭書屋俳話」、新聞「日本」俳句時評「芭蕉雑談」、新聞「小日本」小説「月の都」「間遊半日」、五百木瓢亭宛書簡、「俳諧大要」、新体詩「父の墓」、新聞「日本」連載「松羅玉液」、「俳人蕪村」、「病床日記」、「歌よみに与ふる書」、百人十首、河東銓宛書簡、「ホトトギス」、「小園の記」、はがきうた、伊東左千夫宛書簡、「墨汁一滴」、「命のあまり」、「仰臥漫録」、「病床六尺」、「絶筆三句」などである。私は子規の本としては「仰臥漫録」、「病床六尺」しか読んでいない。したがって、たとえ1節だけでも子規の書に出逢えるのは子規への理解が広がった気がする。これが読書の手始めとしては重要なのである。

幕末というか、明治元年(1967年)に生まれた子規は、明治時代とともに成長した。明治の年がそのまま子規の年齢となるので分りやすい。いま司馬遼太郎作「坂の上の雲」のテレビドラマは、日露戦争の秋山好古、参謀秋山真之と正岡子規の愛媛生まれの3人を主人公とした、明治という近代日本の勃興期をいかに生きたかを描き、青春群像小説でもある。弱体な基盤しか持たない近代国家としての日本を支えるために、青年たちが自己と国家を同一視し、自ら国家の一分野を担う気概を持つ明治期特有の人間像である。好古における騎兵、真之における海軍戦術の研究、子規における短詩型文学と近代日本語による散文の改革運動等が描かれている。秋山兄弟は日露戦争を闘い日本の存在を世界に認めさせ、子規は俳句・短歌・文章という3つの分野で文学に新風をもたらした。子規は新しい日本の言葉をめざして、短い34年の生涯を終え、日露戦争前に死んだ。では正岡子規の評伝について、本書に従って進もう。

1) 少年時代(明治23年まで)

愛媛松山に生まれた子規は、松山藩御馬廻加番正岡常尚を父とし、大原家から嫁いだ八重を母として慶應3年(1867年)に生まれた。9代正岡家を継いだ名は「常規」というが、幼名は「昇」であった。高浜虚子の生家である池内家は隣にあり、三並良の生家である歌原家も1軒置いて隣にあった。子規には少年時代の天才ぶりをしめす特筆すべきエピソードはない。12歳の少年が学校の作文で「国債を償却するには教育しかない」と書いたくらいである。父は大酒飲みで40歳で隠居し子規に家督を相続した直後になくなっている。子規は少年時代から筆写をよくし、貸し本を写した「香雲筆写」という写本が残っている。香雲とは中学生時代の雅号である。子規の筆写として有名なのは明治24年ごろからはじめた「分類俳句全集」がある。小学生であった12歳に学校で回覧雑誌「桜亭雑誌」を作り桜亭仙人の名で小文を書いて遊んでいた。子規は自分が作った明治29年までの漢詩を「漢詩稿」として残している。明治15年ごろまで毎週河東静渓先生に稚拙な漢詩を見てもらっていた。明治13年子規は松山中学に入学した。そのころから政談演説に熱中したという。国会開設の詔勅は出ていたが、明治16年に学校の講堂で行なった国会開設の演説文稿が残っている。子規の母方の叔父加藤拓川の指導を得て、明治16年に東京で勉学する志を得たらしい。子規は明治17年に東京大学予備門(後に第一高等中学校)に入り、23年に卒業した。子規の啓蒙や文学への目覚めを書いた「筆まかせ」というノートを17年から書き始めた。分類と比較に凝って学友の各種評価表を作ったりした。そして米国から輸入された野球にも大変な興味を示した野球少年であった。21年夏休みに帰郷せず向島の桜餅屋「月香桜」に滞在して、漢文、漢詩、和歌、俳句、謡曲、地誌、小説を集めた「七草集」を書いた。子規自身が越えるべき「月並」な作品集である。

2) 学生時代(明治25年まで)

明治22年子規は突然血を吐いた。肺病であった。そのとき作った句集が「啼血始末」50首であった。「子規」という名もこの時から始まった。これ以降子規は10年の余命を意識して生きることになる。「啼血始末」と同じ時期に書いた「読書の弁」は、「一生の目的は一巻でも多く読み一枚でも多く書く」事を決意する。この時期読書(学問)で身を立てることにより、境遇を切り開く決意をする肺結核の青年には命(時間)の保証はなかった。学友漱石も書簡で「自愛するよう」勧めている。その年の夏休み、療養をかねて松山に帰省した。野の草や小動物に心を動かせ、この心がやがて写生という文学上の方法を引き出すのである。同年子規はスペンサーの文体論を読んで、「詩歌の起源および変遷」という論文を書いた。このなかで子規は「最も簡単な文章が最面白い」という。短文には余意を含めたる技巧をよしとするのである。子規には学友の特徴を分類して遊んでいるが、なかでも漱石を「畏友」といって尊敬している。子規と漱石の交友は明治22年1月から始まった。子規は言葉の巧さを養うためひたすら書くことに努めたが、漱石は「文章の美は次の次、まずは思想の涵養こそが大事」と反論した。子規は形から入る主義であったようだ。言葉遊び(しり取り、韻押し)或いは比喩、駄洒落に類する遊びを熱心にやった。「余は文学にあらざるところより、俳句に入りたり」という。明治23年7月子規は文科大学哲学科に入学し、翌年1月国文学科に転科した。そして25年5月初めて新聞「日本」に「かけはしの記」が掲載された。子規は「かけはしの記」でもって世間に出た。続いて「獺祭書屋俳話」の連載が25年6月末から始まった。「獺祭書屋俳話」で子規が明確に主張したかったのは。陳腐なものの追放であった。これを子規は「月並」と呼んだ。

3) 記者時代(明治28年まで)

明治25年12月子規は大学を中退して、新聞「日本」に入社した。紙上で「俳句時事評」を執筆した。俳句で政治風刺をやる趣向であった。子規の批評の特徴は最初に過激な断を下すことである。26年の「芭蕉雑談」では「芭蕉の俳句は過半悪句駄句を以って埋め・・・可なる者を求むるも寥寥晨星の如しと」と言い放ち、後の「歌詠みに与ふる書」においては「紀貫之は下手な歌詠みにて古今集はくだらぬ集にて有之候」という。子規を弁護して言えば、これは芭蕉全部の否定ではなく、芭蕉を宗祖とあがめる宗匠を批判した文脈である。そしてあとの文章で「老健勇邁の俳句をものにして俄然頭角を現はせし芭蕉は実に文学上の破天荒と謂つべし」と芭蕉をほめているのである。子規も「文学上の破天荒」を目指していたのである。連俳を排し五七五の発句のみを文学とし、もっぱら「俳文」を評価した。そして子規は「奥の細道」は荘重に過ぎ、むしろ滑稽諧謔の勝ったものを俳文のよさとした。明治27年子規は新聞「小日本」の編集責任者となった。月給も40円に上がった。そして故郷から母と妹を呼んだ。子規は新聞「小日本」に自作の小説「月の都」を卯の花舎の名前で連載した。この小説は幸田露伴の「風流仏」に影響されて、美辞麗句の多い文章は散文よりも浄瑠璃や謡の詞章に近い。江戸趣味に溢れた文には子規の面目は無い。そもそも新聞「日本」は政府の欧化主義に反発して国民主義を主張した新聞で、伝統的な詩を革新すべく試みられた。この「小日本」は僅か5ヶ月で廃刊になった。世は日清戦争に忙しく、子規は世に取り残された。寂寥感から子規は小旅行をし、新聞「日本」に郊外散歩の記「間遊半日」を掲載した。これが写生の始まりである。子規は絵の手ほどきを近所に住む洋画家中村不折から受け、「子規庵写生帖」となっていく。「死はますます近づきぬ、文学はようやく桂境に入りぬ」と28年友人への書簡に述べている。日清戦争への従軍が実現することになり、必死の思いは河東碧梧桐と高浜虚子に宛てた手紙に「僕の志を遂げ」と要求するのである。彼らには重荷になり高浜虚子は辞退する。この必死の思いは「墨汁一滴」、「仰臥漫録」、「病床六尺」となって結実した。

4) 病床時代(明治33年まで)

明治29年2月頃から結核菌が骨を冒してカリエスとなり、子規は寝付くことが多くなった。腰の痛みに苦しみながら子規の文学活動は旺盛であった。新聞「日本」に「松羅玉液」、「俳句問答」を連載し、新たに佐々木信綱、与謝野鉄幹の会に参加して新体詩にも力を注いだ。新体詩の多くが散文調に流れることをきらい、「新体詩押韻の事」を発表して、韻をふむという形式が思いがけない効果を期待した。韻をふむ詩人として島崎藤村の「若菜集」を絶賛した。「松羅玉液」は我家の庭の草花に始まって、連想が多方面に広がる書き方は後の「墨汁一滴」にも繋がっている。そして面白いのはベースボールの解説記事である。野球用語を多く発案し、野球の醍醐味を知らせている。29年の夏より子規はしきりに「一題十句」を試みた。蕪村の「新花摘」から発想を得て、ひとつの題から様々な発想を紡いでゆく手法は、「頭を悩ましたからといって、いい句ができるわけでもなく、きわめて無造作に出来たと思う句にいい句がある」という考えである。一題十句は子規の主要な作句法となり、彼は多作となった。

柿というと子規ということになる。それまでは柿は俳句の季語ではなかったが、子規は奈良と柿に新たな組み合わせを生み出した。「松羅玉液」に「冷腸熱血」とは柿の形容であると云う。「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」という句は子規の代表句のようにいわれるが、当時この句は誰からも評されず、彼自身も顧みることはなかった。それがにわかに有名になったの大正5年法隆寺境内にこの句碑が立ってからである。法隆寺観光のキャッチコピーとして法隆寺側が利用したようである。カリエスは日夜彼を苛む。「松羅玉液」に「日毎夜毎毎日おりおりには忽ち風、忽ち雨、忽ち獅子吼え、忽ち魑魅泣く」と訴える。この時同郷の河東碧梧桐と高浜虚子が交代で看護に当たる。子規はこの二人の手によって支えられ、碧梧桐の特色として「写生的絵画の小幅」と評し、虚子に対しては「時間的俳句」が特色と評した。「明治29年の俳句界」の新聞日本の連載で俳人たちを一言で評している。例えば、鳴雪を「高華」、牛伴を「精緻」、碧梧桐を「洗練」、虚子を「縦横」、鼠骨を「敏捷」、漱石を「活動」という類である。明治30年より子規は新聞日本に「俳人蕪村」を連載した。蕪村を芭蕉に匹敵する存在として発見した。「百年空しく瓦礫とともに埋められて光彩を放つを得ざりし者を蕪村とす」といった。そして蕪村の俳画に雅致を見出した。明治30年の「病床手記」には漱石の渡欧出発に贈る歌や「薬餌」が書かれている。よく食い薬を飲んでいるが、このごろ背中から膿が出て足が引きつけるというそんな日々であった。

明治31年新聞「日本」に竹の里人の評論「歌よみに与ふる書」が出た。元来古今和歌集は日本文化の手本とされ、雅の伝統の源とされてきたのを、子規は「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集にて有之候」とやった。いつもの子規の評論の常套手段であるが、頭から一刀両断で斬って捨てるやり方である。ショック療法といえるかもしれない。いいたいことは「万葉集」の復権である。「・・柿くいて猿にかも似る」という境地から古今集への反旗である。五七五という言葉の組み合わせの数論から、俳句はいずれ終焉を迎えるという変に醒めた見方をする子規が、万葉集を発見し、その万葉集から子規が見つけたもののひとつが滑稽美であった。この自己を笑う感情、自分を茶化すことが滑稽美である。明治31年は短歌の改革に乗り出して子規は多忙であったが、迫りくる死に友人に遺書めいた手紙を送り墓碑銘を指示している。「考えてみれば実につまらぬ身に上にて何のために生きているかと思ひ候へども馴るれば馴るる者にて平日は左程苦にもならず候」という。書いているうちに自分を客観化して、苦しみから逃れることが出来るというのだ。31年雑誌「ホトトギス」に子規は「小園の記」に、「我に20坪の小園あり・・・病いよいよつのりて足立たず・・今小園は余が天地にして草花は余が唯一の詩料となりぬ」と書いた。そこには森鴎外から貰った草花もあった。中村不折から貰った鶏頭もあった。子規は草花好きの幼年期まで遡って自分を再発見した。その庭を前にして子規は毎月1回「蕪村句集」輪講会、つきに1,2回の子規庵句会を開いている。32年12月の蕪村忌には46名の人が参集した。子規の病床は座談の笑い声に包まれた。私は根岸にある子規の記念館に行ったことがあるが、あの小さな家に46人の人が入れるのかなと思った。確かに記念写真をみればそうなんだが、昔はもっと庭が広かったのだろうか。子規は俳人に招待の「はがき歌」をおくって、こいこいと呼んでいる。淋しがりやの子規が見える。

明治30年1月松山で「ホトトギス」が創刊された。柳原極道が主催したのだが、1年ほどで行き詰まり、虚子、子規が話し合って再興することになり、31年10月東京版「ホトトギス」が出た。こうして新聞「日本」で俳句運動のメドが立ち、ホトトギスに受け継がれた。ホトトギスで子規が新たに力を注いだのは写生文の実践であった。「小園の記」、「車上所見」、「吾幼児の美観」、「雲の日記」、「墓」などを次々と発表した。誌上でお題を決めて文章を募集したり、「1日記事」を試みた。写生文の制約のもとで意外な面白さが描けるのである。このホトトギスを場にした文章運動をのちの柳田国男は「文章と生活の結合」と呼んだ。淋しがりやの子規は生活のいろいろな面で他者とともに楽しむ事を実践した。食材料を各自が持ち寄る「闇汁会」の規則が面白い。うまきもの、安直なるもの、珍しいもの、趣向あるものの2つの条件を兼ね備えたものという。病気の境涯では、毎日毎日が病気であるから、病気そのものに面白さを求める以外にないという心境で生きた。自分が動けないので、友人に来てもらって楽しむ会を開催した。

5) 仰臥時代(明治35年まで)

子規が「墨汁一滴」を書き始めたのは明治34年1月からである。野球と同じで、遊戯にはルールがなければ面白くない。文章にもある種の制約(例えば短いという)があって面白くなるのだという理屈である。筆に墨を含ませて、それで書ける長さの文章が「墨汁一滴」である。線香1本分の座禅と同じ趣旨である。長くて20行以下の文章に過ぎないが、そこに精神を籠めるのである。冗長な文は書けない。さらっと書いて本質を垣間見るのだ。これは文章の形式である。病気を楽しむというきわめて個人的な事情に発する文であるが、読者が面白いというものでなければならない。「余は痛みをこらえながら病床からつくづくと金魚鉢を見ている。痛いことも痛いが綺麗なことも綺麗じゃ」という。「不平十ヶ条」、寝られない夜の時間の経過と物音、短歌、俳句なども書かれている。「痛みの激しいときはうめくか、叫ぶか、泣くか、こらえるか。こらえるのが一番苦しい」というふうに自分を客観化して、目を転ずると気が楽になるときもある。中江兆民の「1年有余」を読んで子規は「命のあまり」を書いた。兆民は喉頭がんで余名1年余と告げられ堺で養生していた。この時期の兆民の文を評して、子規はまだまだの覚悟という。諦観の情念はあるものの楽しむという積極面がないという。子規は自分の覚悟は一枚上だという。いつもの子規風の断定である。これを坪内稔典氏は「憂さ晴らし」という。自分を権威化せず、自己を他者へ絶えず開く、そのような場が気晴らしという言葉である。「墨汁一滴」で子規は「うまいものを食うことは小生唯一の療養法だ」という。子規は毎日の食べ物を「仰臥漫録」に書き綴っている。とても病人とは思えないほどの食欲である。「仰臥漫録」には看病に努める妹の律を「無情の木石女」と口汚く罵っている。批難する事はできないはずだが、肉親の甘えか憂さ晴らしか一種のスポーツ気分で叱っているのである。あるいは書くことで気分が収まり、妹の介護をありがたく思う気持ちが客観的に見えてくるのであろう。

病気がいよいよ進展してくると、子規は自殺の誘惑に駆られた。「仰臥漫録」には食事拒否、小刀と錐をじっと見つめる子規には鬼気迫るものがある。34年11月6日ロンドンの漱石に宛てた手紙には「僕はモーダメニアンッテシマッタ、毎日訳モナク号泣シテイルヨウナ次第ダ・・・実ハ僕ハ生キテイルノガ苦シイノダ。」と書いた。この頃はモルヒネで痛みをこらえていた。明治35年5月から新聞「日本」に「病床六尺」を連載した。これには虚子が口述筆記した。「仰臥漫録」の時以来もう自分では筆も持てないのであった。「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広すぎるのである。・・・甚だしいときは苦痛に苦しめられて五分も1寸も体の動けないことがある。・・・苦痛、煩悶、号泣、麻酔、僅かに一條の活路を死路に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ・・・」このあたりは想像を絶する。そして一転して話が土佐の水産学校の校長の徳育に飛ぶのである。いかにも子規らしい躍動する話しぶりである。子規は宮沢賢治のように「そういう人に自分はなりたい」と思うのである。35年8月6日の「病床六尺」に「草花の一枝を枕元において、それを正直に写生していると、造化の秘密が段々分ってくるような気がする」という。このころにはモルヒネを飲んでから写生をやるのが、何よりの楽しみとなっていた。そして「草花帖」を残した。漱石は、子規は拙がない男で才ばかりが目立ったが、草花の絵には拙があるという。ただ絵が淋しいと付け加えた。「病床六尺」は死の2日前まで新聞に出た。「9月14日の朝」は虚子が口述筆記したのだが、殆ど病状を感じないまで体力はなくなっていたが、それでも文章をつづりたくて虚子に頼む。「糸瓜の葉がひらひらと動く。秋の涼しさは膚に浸み込むように心地よい。」、「女郎花が咲き、鶏頭は5,6本散らばっている。秋海棠は尚衰えず梢を見せている。余は病気になって以来今朝ほど安らかな頭を持って静かにこの庭を眺めたことはない」 明治35年9月19日午前1時ごろ、子規はひっそりと息を引き取った。亡くなる前日の18日午前11時ごろ病床に仰向けに寝て痩せた手で色紙を取り、書き付けた三句の俳句がある。これを「正岡子規の絶筆」という。
「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」
「痰一斗糸瓜の水も間にあわず」
「おとといのへちまの水も取らざりき」
母のかけた言葉は「さあ、もう一遍痛いというておみ」であった。痛いといえるはずもなく、痛々しい姿のままの子規が横たわっていた。


岩波書店 「図書」連載
 
坪内稔典著 「柿への旅」 (2009年9月−2011年2月)

坪内稔典著 「正岡子規ー言葉と生きる」(岩波新書)で坪内稔典氏が述べているように、著者が子規に足すものがあるとすれば、それは柿の話であると自負している。子規の果物としての柿好きは有名であるが、子規は柿と奈良を組み合わせて、今まで誰も見向きもしなかった柿を俳句の季題としたところに意味がある。その坪内稔典氏が柿に関する薀蓄を小冊子「図書」(岩波書店)の連載記事「柿への旅」に述べている。これも子規を愛する著者の気持ちであるので、ここに子規評伝の付録として、私が「図書」を購読し始めた2009年9月号から2011年2月号までの「柿への旅」を紹介したい。肩の凝らない、たかがエピソード、されどエピソードとして「柿の話」をお聞きあれ。

2009年9月号 「柿への旅」D 「俳句の家・落柿舎」

「続猿蓑」に広瀬惟然が師芭蕉を送って今日の外れまで来て詠んだ俳句「別るるや柿喰いながら坂の上」がある。時は元禄7年(1694年)芭蕉は伊賀上野に帰郷するところである。柿は小粒の久保柿かと著者はいう。なぜなら京都伏見区深草は久保柿の発祥の地であるからだ。柿は俳諧において始めて取り上げられた。柿はこれによって言葉の風景となった。今日奥嵯峨に向井去来の別荘「落柿舎らくししゃ」があり、芭蕉が著わした「嵯峨日記」には落柿舎に集う俳人たちの日々が綴られている。落柿舎の名前の由来は嘘か本当かは保証の限りでは無いが、去来が書いた「落柿舎ノ記」によると、市中から柿の商人が1本の柿の木を1貫文で買ったが、一夜にして柿が全部落ちたという。商人は泣きの面、去来は金を返したという話である。「落柿舎の御札」という俳人達の取り決めがある。@俳諧に遊ぶべし、理屈をいうな、A雑魚寝を覚悟せよ、大鼾をかくな、B朝夕精進すること、魚鳥はいいよ、C煙草の灰を捨てるな、D隣からの差し入れを待てというもので、俳句を楽しむ粋人たちの雑然とした共同生活の面白さが伝わる。

2009年10月号 「柿への旅」E 「御所柿くえば鹿が鳴く」

子規は果物が好きで随筆「くだもの」に「御所柿を食いし事」を書いた。子規は明治28年日清戦争の従軍記者として遼東半島に渡ったが、帰途血を吐き神戸病院に入院した。静養を兼ねて、漱石が中学教師として滞在していた松山にゆき、「愚陀仏庵」に寄寓した。そして東京への帰り奈良で遊んだ。宿屋の下女に御所柿は食えぬかとたずねたところ、鉢一杯の柿をむいてくれた。色の白い若い女がむいてくれる柿を食べていると鐘がボーンと聞こえた。そこで一句「奈良の宿御所柿くえば鹿が鳴く」おそまつ。

2009年11月号 「柿への旅」F 「俳人と大泥棒」

甘柿の王様「富有」や「次郎」に較べると、御所柿は栽培が難しく、種が多いためメジャーにはなれなかった柿である。明治28年「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句は愛媛県「海南新聞」に発表された。その前に漱石の「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」という句が存在した。句の構造が実によく似ている。順序が違うだけである。子規の句は柿を食っていて鐘が鳴るので、漱石の句は鐘が鳴って銀杏が散るのである。漱石の句は空気の振動が伝わるようでそれはそれで面白い。子規の句は物を食っているとき突然のように鐘がなるので意外性(心の動き)がいかにも作為的である。柿をはっきりと俳句の材料にする意図が明確となったと坪内稔典氏はいうが、浅学な私にはどちらがどうともいえない。もうひとつ付けたしのような、少年時代柿を盗んで大泥棒となった石川五右衛門の話がある。この話は無くてもがな。

2009年12月号 「柿への旅」G 「柿は嫁の木」

有吉佐和子の小説「紀ノ川」は、明治末期から戦後までの真谷家三代の女、花、文緒、華の物語である。花の生家は九度山の木本家で、花が実家に帰省した折、祖母の豊乃から柿の枝を送られてそれを真谷家の庭の真ん中に植えた。時代は日露戦争の始まる前のころであり、この地は富有柿の名産地であった。柿の木は大きく茂り紀ノ川の柿は次第に女の象徴になってゆく。なにかこの地には嫁入りするにあたって柿の継ぎ穂を持ってゆく習慣がったようだと宮本常一は述べている。村の旧家には代々の柿の木が残っているそうだ。

2010年1月号 「柿への旅」H 「漱石は柿だった」

夏目漱石のあだ名は柿であった。あだ名をつけたのは正岡子規であった。その理由は「旨みは沢山、まだ渋みの抜けぬ」と評した。漱石には西園寺首相の文士招待の会「雨声会」辞退のことや博士号授与辞退のことがあり、「夏目何がしに過ぎないとのこだわり」の面目約如をいっている。その漱石には柿を話題にした小説「永日小品」がある。銀行の役員の娘と、下町の大工の息子の幼年期の意地っ張りの話である。崖上にいる銀行員の娘「喜ちゃん」が、崖下に住む「与吉」と、上下で柿をやる、いらないのやりとりである。「喜ちゃん」が上から投げた柿を与吉がかぶりついて渋いといって吐き出すしぐさが、いかにも漱石のような意地っ張りだったと稔典氏はいう。

2010年2月号 「柿への旅」I 「年取りの柿」

坪内氏が琵琶湖の奥にある菅浦という村に行ったときの話である。菅浦で干し柿を見たとき、「ああ、もう正月がちかい」と思ったそうだ。坪内氏の実家(愛媛県)では正月の朝、三方を頂き、干し柿をたべて年を取る習慣があった。干し柿は絶対食べなければならなかった、食べないと年を取れないのだという。その干し柿の最高級品が岐阜県美濃加茂市産の「堂上蜂屋柿」である。将軍家にも献上された高級品で茶会の菓子として珍重された。食べ方はまず半分に割り、さらに2つに裂くことで4分して食べる。絶対にかぶりついてはいけない。そこで買った桐箱入りの「堂上蜂屋柿」を、見つけた孫にぱくりと2つも食われた悔しさを柿内氏は恨めしそうに書いている。私の記憶では正月の鏡餅の上には干し柿を載せるものだと思っていたが、いつのまにやら蜜柑に代わってしまった。さて皆様はどちらですか。

2010年3月号 「柿への旅」J 「帯のところが渋かりき」

明治30年、正岡子規は京都産寧坂にすむ禅僧で歌人の天田愚庵から柿15個を人を介して頂き、その贈答句として俳句三句と和歌六歌を返した。俳句は「御仏に供えあまりの柿十五」、「柿熟す愚庵に猿も弟子もなし」、「つりがねの帯のところが渋かりき」で、和歌(子規は狂歌というが)のなかで「世の人はさかしらをすと酒飲みぬあれは柿くいて猿にかも似る」の歌で、子規は新しい時代の歌人になったという。生涯、子規の柿の俳句は120余句ある。

2010年4月号 「柿への旅」K 「双子舎の先生」

坪内逍遥は晩年熱海の「双柿舎」に住んだ。2本の柿の大木が仁王様のように家を守っていた。坪内逍遥が歌を作り始めたの62歳の頃であった。彼が若いとき「小説真髄」を書いて、「短歌、長歌のたぐいは、いはゆる未開の世の詩歌というべく・・」というせっかちな近代主義を唱えていた。その彼が「わが庵はもも年柿の枝越しに 咲く梅越しに青海を見る」という素朴な歌を詠んだ。

2010年5月号 「柿への旅」L 「帯は司令塔」

谷崎潤一郎の小説「吉野葛」に「ずくし」(熟れた)柿の作り方と食べ方の記述がある。帯(へた)を抜いてスプーンですくって食べるのである。坪内逍遥の随筆集「柿の帯」に、二葉亭四迷の母親が逍遥の家に来て四迷に関する愚痴をいう下りがある。逍遥がいう「帯」とはどういう意味なのだろう。植物学的には「帯へた」は顎(がく)のことで、生理的には胎児の臍の緒と同じ役割である。帯は司令塔的存在であったが、余計なもの、つまらないものという意味に解されていたようだ。

2010年6月号 「柿への旅」M 「柿若葉」

私の家の庭に柿の木があり、毎年秋には実をたわわにつけるのだが、私は4月の柿の若葉が好きだ。「柿紅葉」は秋の季語、「柿若葉」は春の季語である。蕪村の句に「茂山やさては家ある柿若葉」を詠んだ。作家大江健三郎の若い頃の短詩に「雨のしずくに・景色が映っている・しずくのなかに・別の世界がある」という、マクロ写真のような情景である。若葉という小さな窓を通して別の世界を窺う所から、彼の作家生活がスタートしたようだ。

2010年7月号 「柿への旅」N 「松右衛門のいた村」

高村薫のエッセーに「都会は晩秋の照柿色の静寂が似合わない」というくだりがあった。「あ、ここは柿の仙郷だ」と思わせる村が、京都木津川市加茂の当尾にある。ここには浄瑠璃寺や岩船寺という古刹がある。「柿日和」という季語がぴったりの村である。当尾ではかって村あげて豊岡柿の生産に努めていたが、その開発者であった村長の村岡松右衛門の子孫の家に、幹周り3mの巨木の柿の木があった、その柿の木は平成13年の台風で折れてしまった。

2010年8月号 「柿への旅」O 「佐渡へ佐渡へと」

佐渡の柿は「おけさ柿」として知られる。品種は核なし柿である。「八珍」、「庄内柿」などとも呼ばれている。羽茂地区で栽培されているおけさ柿は戦後の砂糖不足を補う甘味菓子として珍重された。そして坪内稔典氏は俳友家田三郎氏(昭和64年83歳で逝去した開業医)を訪問することが佐渡旅行の目的であったという。彼の遺稿集「すいばら野話」に「冬の窓青し桃色聴診器」という句がある。蛇足ながら、「柿の種」というあられは大正3年に長岡市の浪花屋製菓の商品である。

2010年9月号 「柿への旅」P 「一粒の柿の種」

6月から7月にかけて柿の青い実がぼたぼた落ちることがある。「落果」というのだが、これを「ジューンブライド」ならぬ「ジューンドロップ」という。坪内氏は「ジューンドロップ」を夏の季語として提案している。落果の理由は受粉せず種を作れなかった実が落ちるのではないかという説がある。ところで、種無し柿は「単為結果性」の強い品種だそうだ。寺田寅彦の「柿の種」という随筆集がある。寅彦のいう柿の種とは短い文章をいう。「棄てた一粒の柿の種・生えるも生えぬも・甘いも渋いも・畑の土のよしあし」という文があるが、短い文が生きるも生きないのもそれを読む読者次第という意味だ。短い言葉で読者に問いかけ、読者に考える機会を提供するのであろう。

2010年10月号 「柿への旅」Q 「柿の家」

大正時代の物集高見が編集した百科資料事典「広文庫」に、柿を擬人化した「人まろ系図」がある。婦女子を対象とした御伽草子のたぐいであろう。ところで柿本人麻呂には柿を詠んだ歌はない。柿は卑俗なもの、和歌は雅の世界なので、柿は和歌には出てこないのである。和歌に詠まないものを意識的に詠もうとした俳句が近世にさかんになった。奥嵯峨の去来の「落柿舎」、松永貞徳の「柿園」、岡田利兵衛が上島鬼貫の資料を集めた「柿衛文庫」など柿は俳人の好みとなった。その「柿衛文庫」は伊丹市にあり、庭には大ぶりの柿「台柿」の木が育っている。台柿は別名「菊平」(蓬莱柿、車御所、蓮華柿)と同じ品種で、果実はははだ大きく楕円形で顕著な蔕(座)がある。今伊丹市では「台柿継承プロジェクト」を実施し、市内の小中学校で台柿を育てているという。

2010年11月号 「柿への旅」R 「古庭の江戸柿」

坪内氏は友人河野裕子氏(2010年、64歳で逝去)は大きな柿のような歌人だったと追憶する。「夕日さして1本の柿の古木あり眠りのような憂いを感ず」という歌を詠んだ彼女は、いま転生して大きな柿の木になって立っているような気がすると、稔典さんに偲ばれる河野さんは幸せだなと思う。彼女の歌集「歩く」で、「枝つたひに来たるしずくの大きさよ 我古庭の江戸柿の木は」と詠まれた江戸柿は「甲州百目」(別名 富士、百目、渋百目、大代、大四郎など)と呼ばれる。熟し柿や干し柿として名高い。「死んだ日は能天気にも青かった ひとりごちつつ死後帰り来む」という歌はいい。西行と同じく自分の死ぬ日の情景を予定するとは。ところで柿の品種は世界に190種ほどあり、殆どが熱帯、亜熱帯の常緑樹である。もちろん果実は小さく渋い。大きな甘い果実は日本特有の品種だそうだ。南方の柿の木には、高級木材として重宝される「黒檀」の材料がある。日本でも材としては「黒柿」がある。床柱、仏壇、茶具、印鑑に広く用いられる硬くて黒い木材である。ゴルフクラブの「パーシモンウッド」はアメリカのバージニア柿が使われる。黒い色は渋成分のタンニンが結晶化したためである。

2010年12月号 「柿への旅」S 「ひりひりごわごわ」

甲州百目の柿の実は大きくて立派であるが、渋柿である。「さわし柿」、「樽柿」にする。贈り物にするときは必ず断って差し上げるべきである。説明しないで相手をびっくりさせた失敗談を語る。最近の人は渋いという感覚を知らないので、あまりの渋さに仰天して救急車を呼ぶ恐れがある。渋味をどう表現すべきか、「ひりひりごわごわ」と坪内氏はいう。渋味はタンニンによるもので、渋が抜けるとはタンニン成分が凝固して、水に溶けなくなる事をいう。渋柿はアルコールや炭酸ガス、或いは湯につけたり、米櫃に埋めたりして渋を抜くのである。

2011年1月号 「柿への旅」(21) 「柿の団子とシャーベット」

水上勉氏が書き残した柿の食べたかたに「柿団子」というものがある。柿を潰して、はったいの粉(麦を炒った粉、麦こがし)を混ぜこねてできた団子状の菓子である。水上氏が食べた柿は若狭の柿で、京都の代表的な渋柿「大四郎柿」であろう。江戸柿ともいう。もうひとつの柿の食べ方に、信州下諏訪の老舗旅館「みなとや」の「凍柿」(熟し柿を凍らせてシャーベット状になったもの)がある。この熟し方に熟練と歩留まりの悪さがあって、なかなか市中には広まらない。佐藤隆介氏はこの「凍柿」の事をエッセー「小口惣三郎の、凍柿」に書いて紹介した。老舗旅館「みなとや」の名物が馬肉料理とこの「凍柿」である。温泉上がりにテーブルに出されたシャーベット菓子のなんという味わいであったこと。この老舗旅館には多くの有名人が訪れているそうな。

2011年2月号 「柿への旅」(22) 「柿の木問答」

加賀の千代といえば近世を代表する女流俳人であろう。彼女には「朝顔につるべとられてもらい水」、「渋かろかしらねど柿の初ちぎり」、「起きてみつ寝てみつ蚊帳の広さかな」、「蜻蛉つり今日はどこまで行ったやら」という句がある。子規は「朝顔につるべとられてもらい水」の句を月並みと断じたが、それは別として、千代女の柿に関する句「渋かろかしらねど柿の初ちぎり」には、「柿の木問答」を巡る習俗を背景にして出来た句である。広島県、福島県の一部地域には新郎新婦が床入りをするときに「あなたの家の柿の実を取っていいか、はいどうぞ」という意味の問答を交わしたという。千代女が結婚をしたかどうかは不明であるとしながら、坪内稔典氏は「ちぎり」と「契る」と「ちぎる・もぎる」の懸け言葉になっていると考え、柿の木は女・多産・子孫繁盛の意味を持たされているという習俗を読み解くのである。


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