2010年10月22日

文藝散歩 

江藤 淳著 「荷風散策ー紅茶のあとさき」 
新潮文庫(1999年7月)

永井荷風の小説世界を時空間より読み解く

江藤淳氏(1932-1999年)はいうまでもなく、1956年「夏目漱石」で評論界にデビューし、1961年「小林秀雄」で新潮社文学賞を受賞した慶応大学文学部出身者の「三田文学」の重鎮といってよい。読書ノートにおいて江藤 淳著「南州残影」江藤 淳著「海舟余波」を取り上げたことがあるので、江藤氏のプロフィールはそちらを参照されることにして省略する。本書「荷風散策ー紅茶のあとさき」は1996年の出版であるから、江藤氏晩年の作品である。それまで治者のみを描いてきた江藤淳氏にとって荷風という反体制派は異色である。とはいうものの三田文学者にとって先輩(本書では江藤氏は永井荷風を先生と呼ぶ)である永井荷風が亡くなった翌年1960年に「中央公論」に「永井荷風論」を書き、佐藤春夫氏の「小説永井荷風伝」と並んで注目された。江藤氏はそれから25年経って再び永井荷風を取り上げたは、江藤氏が漱石と並んで愛した文体が永井荷風の小説であったからだ。「懐かしい邦楽の調べを聴いているような、あるいは古い長持ちを開けて中に収められた衣類の肌触りを楽しんでいるような、一種独特の気分にひたることができる」小説であるからだという。なお本書「荷風散策ー紅茶のあとさき」は三田文学復刊第1号(1984年)から始まり10年間、31回にわたって記載された。「三田文学」は季刊であるためにこれだけの期間がかかった。著者52歳から62歳にわたっていた。本書の題名「紅茶のあとさき」は荷風散人の「紅茶の後」と「つゆのあとさき」からもじったらしい。本書に取り上げられた荷風散人の小説は、1920年(大正10年)の「おかめ笹」、1931年(昭和6年)「つゆのあとさき」、1934年『昭和9年)「ひかげの花」、1937年(昭和12年)「墨東綺譚」、1938年(昭和13年)「おもかげ」、1938年(昭和13年)「女中のはなし」、1938年(昭和13年)オペラ台本「葛飾情話」、1938年(昭和13年)映画筋書き「浅草交響曲」、1942年(昭和17年)「浮沈」、「来訪者」、1942年(昭和17年)脱稿「勲章」(刊行昭和21年)、1943年(昭和18年)「踊子」、「問はずがたり」(昭和21年刊行)、1943年(昭和18年)随筆「雪の日」である。江藤氏は「問はずがたり」をもって荷風散人の文学生活は終ったという。形骸のみが1959年までさ迷っていたに過ぎないという。

1959年永井散人が自宅で孤独な死を遂げて間もなく、江藤淳氏(当時27歳)は「永井荷風論ーある遁走者の生涯について」を「中央公論」に発表したことは先に述べた。そこでは父という現実的権威から遁走して別の権威(フランス文学や成島柳北など幕末戯作文学)の美の幻影に庇護を求めた「臆病な精神」というふうに、辛口の評論となっている。故宮本顕治元日本共産党委員長が芥川龍之介論を「敗北者の文学」と呼んで、小林秀雄と新人賞を争ったことは有名である。権力者や革命者からみると、芥川や永井の文学はひ弱な日陰の文学にしか見えないのだろうか。江藤淳氏の家系はいうまでもなく祖父が海軍中将で、祖母、母も海軍の将の家から嫁いできた。叔父江頭豊は日本窒素元会長でそこへ小和田家が入って、雅子さんが東宮妃となったことはあまりに有名である。歴代日本政府が水俣病を引き起こした「チッソ」を擁護してきたのは、この関係からである。いわば日本の名門一家であったからだ。山本権兵衛の海軍創設を描いた「海は甦る」は江頭家の夢を描いたのであろう。そういう意味でも江藤淳氏は日本の支配階級に属し、石原慎太郎氏と終生親交を続けた、いわば愛国者で天皇崇拝者であった。その人がなぜ永井荷風論を書くのかというと理解に苦しむところがある。永井荷風の父は文部官僚であったし、本人が努力すれば支配者たりえたはずだった。荷風散人をそこからの落伍者と蔑むためなのか、それとも同じ慶応大学教授として三田文学の流れからなのだろうか。それだけの理由で荷風散人の小説を論じることにはならない。やはり江藤淳氏にも表と裏があって、支配者(治者)としての表の顔と、淫靡な日陰の生活をこっそり愛する裏の顔があったというべきではないか。評論家としての江藤淳氏の手法は、「断腸亭日乗」という日記の世界と小説の世界、記録者と創作者の世界を「時空間」で腑分けをして見せることである。小説の主人公と荷風散人の位相の重なりを楽しんでいるのである。江藤淳氏は時空間なる概念を意識的に用いて、荷風の小説を構造麺から再生して見せたのである。私小説風に見せかけて、自己の存在を巧妙に隠蔽する荷風の宿業であると江藤淳氏は断じる。二重構造は昔から日本人のお家芸である。という私も読書ノートでは人の著作を引用するかに見せて、自分の考えを忍ばせることを楽しみとしているのだから、荷風散人の悪口は言えない。

荷風散人の小説の特徴は土地の匂いと不可分であり、それは著者の生活に深く根ざしている。地理と風土の関係は荷風の随筆「日和下駄」を収録した永井荷風著 野口富士夫編 「荷風随筆集」に色濃く滲ませている。また本書の随筆「雪の日」は「荷風随筆集」で取り上げたので省く。また本書の「偏奇館炎上」は「断腸亭日乗」でとりあげたので省く。江藤淳氏は本書の荷風の小説を解くに当たって、絶えず「断腸亭日乗」から裏を取ってくる。小説を虚構とすれば、日記は事実だということになる。しかし「断腸亭日乗」は下書きを書いて、あとで文章を仕上げて日記としているので、取捨選択と潤色が入るのは当然である。自己正当化や遠慮も入るだろう。日記に虚構は無いと思うのは浅はかだ。荷風散人の日記はその作家生命が輝いていたときほど、これは観察を主とするひとつの裏文学作品といってもいい。荷風散人の作家活力がなくなったときは、ただ天候と食事場所を記すだけである。戦後永井荷風氏が文化勲章を受賞したとき「自分が受賞できたのは断腸亭日乗のためであろう」といって喜んだという。これは「断腸亭日乗」を正当に評価された喜びではないだろうか。

「おかめ笹」 新興花街風景

荷風は「おかめ笹」を大正6年(1917年)から大正9年(1920年)にかけて書いた。時代は大正4、5年(1915-1916年)、第1次世界大戦の戦時景気に浮き立っていた頃である。場所は東京山の手の世相である。九段富士見町、麻布二の橋、小石川指ヶ谷町で起こりつつあった「淫奔猥雑」な待合の街の情景である。欧州の戦争のおかげで好景気が続き、山の手の場末にも次々と料理屋や待合が建ち、にわか作りの花柳界が出現した。そして新築の普請が盛んになれば、部屋を飾る掛け軸などの日本画の需要も増えた。主人公に名ばかりの鵜崎という日本画家を登場させたのである。富士見町のあたりの「矢竹が二,三本ひょろひょろと生えた小さな門のある普通の二階家で、・・・いい加減じじむさいという処から待合に見間違えられるというのも甚だ不思議なしだいである」という風に、荷風がいかにもそれぞれの土地の匂いを表現している。おかめ笹の非日常的空間は秩序の埒外をかたちづくる。こういった待合に占領されてゆく街はしだいに秩序を失い、崩壊せざるを得ない。

「つゆのあとさき」 女給の生態

「つゆのあとさき」は昭和初めのある年の梅雨前後の季節を選んで、舞台設定をした。場所は四谷牛込界隈である。主人公は好色老人と新進作家清岡進と関係を持った銀座のサロンで働く女給の君江である。女給でなければ味わい得ない懶情淫恣な生活を送っている女である。饐え爛れた愛欲の匂いの漂う待合の座敷と、清岡進の父の家の庭にふる5月の明るい太陽と自然を描き分ける。谷崎潤一郎はこういう叙景は自然主義作家には不要だといっている。この小説で清岡進は松崎好色老人と君江の遊ぶ場面を目撃して女性観が激変したという。これは荷風散人が「断腸亭日乗」でなんども書いている情人お歌の「奇事」のことであろう。可憐な女から淫乱な女への変身をいうようだ。君江は同じ売笑婦といえ、従来の遊里や花街の芸娼妓とは全く性質をことにしたもので、西洋の都会の私娼を同じタイプである。荷風散人は留学中にこういった西洋の私娼と遊んだことは「アメリカ物語」や「フランス物語」に詳しく書いている。女給に限ったことではないが、人間の世の中は過去も将来もなくただその日の苦楽が存在するばかりで、毀誉褒貶もともに深く意としない生活が存在する。「君江は眠りからふと覚めて。いずれが現実、いずれが夢であったかを区別しようとする、そのときの情緒と感覚との混淆ほど快いものは無いとしていた」。それが君江という女の時空間で、そこへ男の空間が交錯し会うときの凄味というふうに江藤氏は解析する。

「ひかげの花」ー女のヒモの時空間

「ひかげの花」の執筆は昭和9年(1934年)で、作中の出来事は昭和6年から7年にかけて、場所は深川である。お千代という私娼と中島という「女の寄生虫(ひも)」の物語である。昭和6-8年の「断腸亭日乗」をみると、荷風散人は深川から砂町埋立地のあたりへしきりに散策している。それは「日和下駄」に詳しい。「元八まん」によると、州崎から木場を経て十間川を渡って新開道路が走る先にあった砂町の南端に元八幡宮(元深川八幡)が枯れ蘆の中に佇んでいる。昔は砂村と言われ、今は空き地にお粗末な長屋がごちゃごちゃ立っている。こういう場所の荷風の記述はいかにもそっけない、殺伐とした文明の果てる地という印象である。雑草をのぞけば目に映じるものは何もないという状態に放置されていた。これは関東大震災の痛手が癒える間もなく日本を直撃した昭和初めの世界大恐慌の影響に違いない。これは「死の世界」である。この死の世界の枯蘆の中から姿を現したのは腐敗と解体の象徴で、州崎遊郭の大門のなかの時空間に吸い込まれてゆく。橋の彼方は荷風が愛した日常生活から離脱した空間であった。小説のモデルは「断腸亭日乗」に出る、蛎殻町の小待合「叶家」にいた私娼黒沢きみという女だそうだ。関係を持った女黒沢きみの素性を調べると、彼女には昔から情夫がいたことが分る。そこで荷風散人は小説の中で、女に寄生して生きる生きる男の時空間が成立する場を設けた。「何事にかぎらず其の時々の場合に従って何の思慮もなく盲動するのがこの女の性情である」。情夫というのは女の時空間と男の時空間が滅多に一致しない(すれ違い夫婦のように)という現実に耐え忍びつつ、自らの時間を女の時間に合わせようと決意した男の事である。まことに骨身惜しまない献身ぶり涙ぐましいものがあり、ついには女が妾になると男はヒモでなくなり、間夫の役割に甘んじなければならない様であった。妾宅を探したり、女の娘を警察からの貰い下げるために奔走する男の献身振りは見上げたものである。女を妾にする男は経済実業の世界に住む男であるが、ヒモの中島はとうの昔から産業的時間の埒外にいる異質な人間である。江藤淳氏は「陋巷にひそかに穿たれた桃源郷、奇妙に不安定な安定とそれを満たしている性的関係との、類例のない見事な表現である」と荷風散人の筆を誉め讃える。

「墨東綺譚」ー記録者と創作者

江藤淳氏が小説の手法という「時空間論」で解析する小説がこの「墨東綺譚」(水扁ありの墨で書くべきだが)である。著者が1960年に書いた「永井荷風論」の中心もこの「墨東綺譚」にあって、そこで江藤淳氏は「荷風の文体はエッセイにおいて最も美しく精彩を放った」と書いた。荷風の神髄は観察者であり、全く抽象的・荒唐無稽な小説はかけなかった。荷風散人が玉の井あたりを散策し始めたのは昭和11年(1936年)の頃である。いうまでもなくこの年は2.26事件の勃発した年であった。これによって日本に暴悪残忍な勢力の革命(クーデータ)が成功し、恐るべき勢力を避けるべく玉の井にさ迷いこんだというべきであろう。主人公小説家大江匡は「昭和現代の陋巷ではなく、鶴屋南北の狂言などから感じられるかこの世の裏淋しい情味を求めて、この場所に時運に取り残された身の安息を見出した」といえる。この大江匡の語る言語空間はエッセイの言語空間なのか、それとも小説の言語空間なのだろうかという問いかけは、微妙に交差している。小説の出だしは小説の言語空間である。大江匡は「失踪」という小説の筋書きを作中で展開する。いわば作中の作である。この「失踪」の腹案もいずれも小説の言語空間の中に納まっている。ところが大江匡の語る「私は人物の性格よりも背景の描写に重きを置きすぎる」という言葉は荷風散人のつぶやきではないか。つまり「墨東綺譚」の私は明らかに二重構造なのである。それは言語空間がエッセイの位相におかれたときには荷風散人そのひとになり、小説の位相に転換されたとき主人公の大江匡と重なる。「失踪」を作中に嵌め込むことによって、「墨東綺譚」の作者は、この小説の言語空間に三層を与え、それらを相互に交錯させることによって、きわめて特異な小説的空間を構成しようとしていると江藤氏は指摘する。

昭和11年(1936年)の「断腸亭日乗」9月7日の項に「墨東綺譚」のテキストとなった内容が記されている。荷風散人は玉の井の私娼窟で、もと州崎の某楼の娼妓で上州なまりのある女に出会っている。小説で大江匡が女とであった因縁となった夕立は全くの虚構であるが、大江匡が「墨東綺譚」で演じている役割は記録者(語り手)にほかならない。作中小説「失踪」の時空間はほぼ完全に自由な小説空間である。大江匡が玉の井へ避難する理由としている「ラジオ放送」の騒音は、擬似的には政府の政治的宣伝放送を意味しており、明るく健全な国民歌謡という政治と道徳の宣伝道具のことである。むかし荷風散人が神代掃葉翁と毎晩のように風俗を観察した銀座界隈の空間は、もはや嫌悪すべき「新聞記者と文学者」が屯していた。政治からも道徳からも干渉を受けずにすむ玉の井の溝際の家の空間がある。そこにはたんに安息を与えるのみならず、同時に過去の幻影を再現させてくれる時空間があったようだ。「溝の汚さと蚊の鳴く声が私の感覚を著しく刺戟する」と小説に描写している。荷風散人は「墨東綺譚」で古色蒼然たる情話を語ると見せかけながら、実は同時代の言語空間、つまり禁止の構造を曝露して見せようとしていたのかもしれない。戦争に役立たない物を一切禁止する内務省警察の検閲を免れることは出来ないとすれば、大江匡という虚構に頼って言わしめるしかなかった。作者が主張してはいけないのであろう。他人の口から出た言葉としていうしかなかった。同時代の言語空間はとうにそのような小説の成立を許容しなくなっていた。谷崎潤一郎はもはや「戦後」に発表する小説を書いていたのである。

「おもかげ」 1人称の小説話法

「断腸亭日乗」が朝日新聞に連載が開始されると、荷風散人は昭和12年6月以降,殆ど毎晩のように吉原の妓楼に流連し、嫌悪すべき昭和の現実の埒外の世界に居続けた。そして昭和13年(1938年)2月の中央公論に「おもかげ」という短編を発表した。場所は吉原遊郭の中ではなく、龍泉寺通りから京町、江戸町に屯するタクシーの運転手の話である。小説はことごとく時制は現在形に置かれている。話者と読者の視点がテキストの外ではなく、テキストの内部にしかない。これはフランス風近代小説の客観話法の手段とは正反対の手法であった。「フランス写実派近代小説は話者の視点と発話点をテクストの外の固定された1点に置き、登場人物の人称は3人称に、時制は過去において話を進める」という話法と違うと江藤淳氏は解説する。「おもかげ」は運転手の思い出話で始まり、一貫して日本語の物語話法の伝統に立っていた。

「女中のはなし」ー物語話法

「おもかげ」に引き続いて昭和13年4月中央公論に短編「女中の話」を発表した。「断腸亭日乗」昭和10年11月の項に女中募集で雇い入れた女とすぐ関係を持つことが記載されている。この女がモデルであろうが、小説では「わたし」は至極道徳家として振舞っている。荷風散人の家に来る女中は殆どが女中=妾のような存在であった。女中の名は政江であるが、作中では奈美江となっている。この虚実すれすれの小説は、「わたし」のという1人称に設定されている私小説である。ここで江藤淳氏は日本語話法と西洋話法の関係を、「モノガタリ」と「カタリ」の対比に、そして「パロディ的話法」と「正統的言語的伝承」の対比に、または「叙事詩」と「小説」の対比に、そして助辞「けり」と「き」の基調の対比という形で面白く解説している。もっと分りやすくいうと「モノガタリ」は雑談、会話、男女の語らいの如き自由な話という。男女の恋愛ごとしか描かない日本文学にとって、モノガタリ話法はなくてはならぬ言語空間であった。「おもかげ」、「女中のはなし」の描写に内容は、会話と現在形の多用にほかならない。「竹取物語」から「女中のはなし」 までに日本の「モノガタリ」の伝統は受け継がれていた。

「浮沈」ー中産階級没落の時空間

「女中のはなし」から昭和16年小説「浮沈」を書くまでの4年間、荷風は全く小説を書いていない。もっともその間オペラ台本「葛飾情話」、映画筋書き「浅草交響曲」というように浅草オペラ座の座付き作者然としていた。褥中小説「浮沈」は日米開戦の当日に起草された。「断腸亭日乗」昭和16年9月6日の「無題録」に荷風散人はこう記している。「今日わが国において革命の成立したことにより、定業なき愛国暴徒と栄達の道なかりし不平軍人が権力を掌握した。大正成金との闘争において勝利を収めた。荷風散人は「彼ら勝利者の陋劣なること、幕末西南雄藩の志士命じの権臣となり忽ち堕落した如き前例もあることなり」と軍部ファッシズムの低俗腐敗堕落を罵倒している。その根は2.26事変にあり、日々古風な風俗を破り、庶民と中流資産階級の生活を圧迫し、明治大正時代の西欧模倣文化すら弊履のごとく棄て去ったと荷風散人は批難した。小説「浮沈」の時代は昭和12年から昭和16年頃に置いた。小説の脱稿が昭和17年3月であるから当然の配慮である。時代はあの中産階級が徐々に没落していった一時期の東京の姿をとどめようとしたのである。荷風散人が父の権威としていくら反抗しても一歩もでなかった、あの住みやすい安楽な中産階級の生活は音もなく日1日と崩壊しつつあった時期である。

「浮沈」において荷風はいつもの娼婦ではない、新しいタイプの女主人公さだ子を登場させている。栃木出身のさだ子は18の時に東京に出て、銀座の女給になったが、偶然幸運に恵まれ小日向水道町にある中流階級の良家の正妻になったが、4年足らずの生活で夫が病死し、夫の1周忌で離籍して栃木の実家に帰った。さだ子の姑の母はキリスト教の人道主義者でそこで彼女からかなりの教養を習得した。そこからさだ子の没落の人生が始まるのである。小説の舞台は浅草淡島神社、上野池の端である。向島の芸者屋の待合の帳簿つけから始まったが、すぐに向島の淫風になじめず、上野の喫茶店に勤める。上野駅でばったり出会った越智の市ヶ谷の屋敷に住むことになった。さだ子が上野に勤めるようになったのも、上野で喫茶店を営む蝶子に出会った浅草東武鉄道花川戸駅であった。このように駅が偶然の出会いを演出する小道具として使われた。そして風俗を象徴するのが「アパート」である。当時アパートは手軽な売春の場として使われていた。山の手のたたずまいからアパートへの変遷など中産階級は没落の度を早めるのであった。「中産階級没落して戦争始まる」とは今の政治についてあまりに当たっている言葉である。健全な中産階級があって安定していた社会が、分解して貧困化するときが政治的には戦争の時期に一致することは教訓として覚えておかなければなるまい。21世紀から支配階級(治者)はブッシュ・小泉政権よりむき出しの格差社会へ舵を切った。貧困化によって均一化された社会は鬱憤はらしから哀れにも独裁者の演出を必要とした。危険な戦争の匂いがする。

「勲章」、「踊子」、随筆「雪の日」、「来訪者」、「問はずがたり」ー戦中未発表作品 荷風文学最後の輝き

昭和17年12月中央公論の求めに応じて、随筆「冬の夜がたり」、短編小説「軍服(後に勲章と改名)」を起稿した。「軍服」は昭和13年10月24日の「断腸亭日乗」に記されている話をそのまま小説化したものである。昭和18年は荷風散人65歳の年であった。この年は案外知らされていないが、戦局芳しくないにもかかわらず未曾有の軍需景気に沸いた。1700億円の臨時軍事費で、その受益者として潤ったのは軍人・官僚などの特権階級と軍需工場労働者であった。この戦時景気は物価を上げ、路地の女の値段も高騰し、巷の風俗を紊乱させ、花街を軍人のみがのさばり歩くことになったと「断腸亭日乗」7月24日「街談録」に記している。戦争中は荷風散人はオペラ座の楽屋を偏愛し、「ここのみはいつ来ても見ても依然として別天地なり」と踊り子に戯れることを慰めとした。そのオペラ館も昭和19年3月31日で営業停止に追い込まれたのである。昭和18年11月28日荷風散人は小説「踊子」を起草した。浅草公園の芸人でヴァイオリン弾きの山村が語り部となって、女房のシャンソン座の踊り子花枝とその妹千代子の話である。これには「断腸亭日乗」昭和18年8月14日の挿話の「踊子3人姉妹」が基になっているようだ。コケテッシュな千代子を中心とした話ながら、散人の小説としては以外にぬくもりの感じられる作品である。昭和18年12月9日短編随筆「雪の日」を脱稿した(刊行は昭和21年)。発表の当てのない原稿であった。随筆「雪の日」は電車もバスもなかったころの明治時代の昔、雪の降る日を思い出して江戸の為永春水「辰巳園」の小唄にも歌われた情景に思いを致すのである。過ぎし世の町に降る雪には必ず三味線の音が伝えるような哀愁と哀憐とが感じられる。明治41年ころ「すみだ川」を書いていたころ、唖々子と向島の百花園に休んでいると雪になり、長命寺の門前の掛け茶屋に入って、置き火燵で焼き海苔に銚子で飲む情景が回想される。また雪催いの寒い日になると、大久保の家の庭にくる山鳩がくる事を思い出すという。そして常磐亭で落語の取り席をやっていた若いころの無頼生活の雪の夜の情事を思い出す。「市街の光景とともに、かかる人情、かかる風俗もふたたび見難く、再び逢い難きものである。物一たび去れば遂にかえってはこない。短夜の夢のごとし」と散人は回想する。

後に「来訪者」と改題された小説「二人の客」を脱稿したのは昭和19年4月4日のことであった。同じ4月22日には小説「問はずがたり」を起草している。満枝、辰子、雪江を主人公として、雪江の淫蕩な同性愛という性を描いて、崩壊して行く時代を反映させてゆくが、小説「問はずがたり」は戦争によって疎開により破壊されてゆく東京の街風景を惜しむ作品でもある。刊行は昭和21年のことである。江藤淳氏は「私はこの問わずかたりをもって事実上小説家永井荷風の文業の最後を画する作品と考える」と結論した。荷風文学の精髄は東京大空襲をもって終ったのである。人の世の破滅はこれから始まろうとしていた。これ今でも通用する。


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