2009年10月18日

文藝散歩 

和辻哲郎著 「日本精神史研究」 
岩波文庫(1992年11月)


時代に固有の精神はあらゆる分野に影響する ヘーゲル歴史主義で日本文化を語ると

和辻哲郎著 「日本精神史研究」の本を、本箱の隅から埃を払って取り出し12年ぶりに再読してみたのは、先日、熊野純彦著 「和辻哲郎ー文人哲学者の軌跡」を読んだからである。和辻氏の生涯や学者としての業績、著作は熊野氏の本に纏められているので参照して欲しい。熊野氏は「和辻哲郎はなによりも流麗な日本語の使い手であり、一人の文人哲学者であった。このことは和辻哲郎の本質的な部分であったようだ。」という。哲学には全く興味がわかない私は、恥ずかしいことだが和辻哲郎を文化人文学者だとばかり思っていて、哲学者だとは知らなかった。いまでも和辻哲郎著「倫理学」という大著を読む気はしないだろう。和辻は本書の序で「日本人の飛鳥・奈良・鎌倉時代の精神生活の根底には仏教思想があるが、これを理解するにはインドの原始仏教以来の史的展開を理解することによってのみ、シナ仏教・日本仏教の特殊性が理解されると悟った。しかし根本資料に遡っての研究は困難で何年も放棄された。そして今も放棄されている。」その勉強の過程で生まれた小論文を集めたのが本書であるという。その後和辻氏が日本仏教の特殊性を史的に解きほぐし、日本の時代精神史を書き終えたかは知らない。

和辻哲郎著 「日本精神史研究」はヘーゲルの歴史主義の伝統を色濃く継承しているという。それぞれの時代に固有の精神すなわち「時代精神」があって、その時代の経済的・社会的条件に影響されざるを得ないが(時代の子)、なお「精神」の自己展開があるとするものである。そしてその時代精神の表現は文化の諸様相、文学作品の評価基準、宗教的感情、造形芸術の様式などすべての具体的な表現である。時代精神は文化の各領域を個別にではなく、相互に関係付け、統一された全体として理解し、その歴史的変遷を辿ることが出来るのである。こうして「時代精神」は文化を分析する一つの方法となった。和辻哲郎著 「日本精神史研究」は万葉集から源氏物語、鎌倉仏教までの全く異なる話題を拾っているが、その全体にまとまりがあるとするならば、それはすべての論文が時代精神に関っているからであり、個別の問題をその流れの中に位置づけようとしているからだ。その分析の方法と概念的枠組みは西欧の特にドイツの哲学の方法が採用されている。西欧の学問の方法を用いて日本の文化現象を分析したのである。和辻の方法は当時の画期的手法であり後年の多くの研究の先駆けをなした。和辻氏の文章は明瞭である。そして明瞭さとあわせてその鋭い感受性が発揮された。彼の直感は論理の裏打ちとして使われている時には非常に説得力があるが、直感が先に立つと反発を招き説得力を失っている。「感じ方」は人それぞれで万人の共感を求めるのは不可能である。そういう「感覚」が前面に出た論文が2,3ある。西欧の中世ではキリスト教思想がああらゆる文化に浸透したのに対して、日本の奈良平安時代の中世には仏教思想が万葉集や源氏物語などに何の影響も与えていないのが日本文化の謎であり、一大特徴である。ここをとかないと日本文化は語れない。この「日本精神史研究」は1926年に出版されたが、論文の殆どは関東大震災以前の「大正デモクラシー」の時代に書かれている。1935年に和辻は「続日本精神史研究」を刊行した。明らかに時代精神が大正ロマンからナショナリズム・超国家主義へと傾いていた。1940年に「日本精神史研究」を改定したが、部分的に改めたところが多かったとはいえ、幸い和辻のよさは維持されており、今日「続日本精神史研究」よりも「日本精神史研究」が愛好されるのはそのためである。

飛鳥・奈良時代の政治的理想

和辻氏の飛鳥奈良時代の政治論は、「祭りごと」や「祀る神」から始まる。古事記神話時代のことであるが、君主=神=祭司という定義である。支配と被支配の関係は最初から敬遠されている。「支配」はなく「統率」という事実であると云うのだが、古事記によっている限りそういう意図で書かれているからそうなのだという論理である。支配と言う事実を隠蔽してきれいごとで皆が望んだからという論理は支配者の論理である。明治の朝鮮植民地のときも朝鮮民衆が望んだからという論理で、大量の軍隊を導入し、国妃を殺し旧王朝を解体した上で銃口を突きつけて、平等自主的な契約関係であるという如きである。和辻氏は「民衆の福祉への欲望が、権威や統率関係の設定として自覚された。統率者と被統率者との対抗もない、君臣一致は字義通りの事実だった。」というオブラートでくるんでいるが、今時こんな社会学は頂けない。確かに飛鳥時代までは天皇家の力は弱体で、大臣大連という豪族の連合政権であった可能性はある。葛城氏、物部氏や蘇我氏を打倒した天皇政権はまた兄弟同志が血で血を洗う抗争とクーデターを繰り返して、天智、天武系皇統が中央集権の権力(支配)を確立した。古事記はその皇統の正当さを主張するための歴史書であったことは、現代の常識となっている。聖徳太子の「十七条憲法」とは道徳的理想を説いているが、大臣大連という豪族の連合政権の時どれだけの価値を持ちえたのだろうか。大化の改新以後天皇権力は「大宝令」を発布して中央集権制の政治体制を敷くことになる。この「大宝令」、「養老令」という政治改革は土地人民の私有禁止、班田収授の法は国家社会主義に近いもので、民衆に男女を問わず5歳以上に口分田を給する。もちろん「調」、「庸」という租税や労働賦役がある。特権階級には「位田」、「功田」、「賜田」「食封」、官僚には「職田」を与える。この制度がどの程度実現されたか、その後急速に土地の私有化が進んだのはなぜかという疑問に対して、津田左右吉氏はこれを「一種の空想にすぎないこの共産主義的制度はそもそも長続きするものではなかった」といっている。ただ奈良時代の政治はこの社会主義制度を、中国の唐の中央集権的政治制度を見習って引き写したとしても、たしかに大宝・養老律法があったことは事実である。現実と理想の二重構造が平然として並存するところが日本人のいい加減さの特徴かもしれない。

推古時代における仏教受容の仕方について

仏教が日本に迎えられた最初の時代には、それはどういう風に理解され信仰されたのだろうかという設定で話が進められる。少なくとも聖徳太子の著わした「三経疏」が推古時代の作ならば、かなり深い意味で大乗仏教を理解していた人がいたことになる。当時の大衆が仏教をその固有の意味で理解し得なかったとしても、独特の理解で祈ったに違いない。和辻氏は「大衆は現生を悪として厭離するのではなく、しかしもっと高い完全な世界への憧憬でもって接した」に違いないと考える。聖徳太子の時代、四天王寺が築かれ、国家事業として法興寺が作られた。そしてそこへ、人の形をした美しい優しい仏さまがもたらされた。日本人は哲理ではなく修行でもなく、釈迦崇拝、薬師崇拝、観音崇拝とよばれる信仰ができたのであろう。現世利益の願いを主とした信仰が自然的であった。後の浄土宗教のような現世否定、彼岸で救われるという心は持たなかったようである。和辻氏の結論は当たり障りの無い論で、特別異を提すものでもないが、論は甘い。

推古・白鳳・天平仏像彫刻の諸様相 論文三題

「仏像の相好について」、「推古天平美術の様式」、「白鳳天平の彫刻と万葉の短歌」という三題の短編を収めている。多くの仏像・絵画の写真が挿入されているが、和辻氏が書いているようには写真からはその印象が得られないのが面白い。人の感じは千差万別だなという感が強い。特に「仏像の相好について」において和辻氏はいきなり「仏像は幼児の寝顔に似ている」という印象を先行させる。仏像は人体の美しさを表現したものであるという説は頷けるとしても、どうして西洋彫刻のようにはならなかったのかという疑問は残る。まして幼児の寝顔という話は和辻の個人的な印象であって、仏像を総覧しての言い方ではない。多くの写真を挙げられても私は納得は出来ない。「白鳳天平の彫刻と万葉の短歌」の小論文にいたっては、およそ証明不可能の論であって、万葉集の「明るき直きこころ」と白鳳天平の仏像の様式の関連付けはこじつけにしか見えない。比較するにしては次元の異なる話で、酒の上の話なら「ふんふん」と聞き流せばいいことなのだ。私は別に否定はしないが、納得できる論ではない。「推古天平美術の様式」の小論文は文化史として面白い論点を含んでいるので注目される。「推古様式は中国六朝時代に属し、天平美術様式は初唐および盛唐様式の輸入である。これを模倣というのは間違いで、当時の東アジアには唯一つの文化潮流があって、日本はその内部での一変形、特殊化であった。推古様式から天平様式への変遷は六朝様式から唐様式への展開の特殊化に他ならない」という和辻氏の論点には敬服した。まだ日本独自の展開などは存在しなかったのだ。中国文化の中での周辺の特殊形態が日本だったという。そういわれると居直ったというか、すっきりした納得が得られる。天平時代はまた白鳳時代をもって始まるが基本的様式は同じである。推古美術様式は「抽象的で鋼鉄の如き鋭い線」といい、天平時代は「豊かさ、柔らかさ、優しさ」を特徴とする様式であると云う結論は常識を出ていない。

「万葉集」の歌と「古今集」の歌の相異について

「万葉」の時代が純粋に叙情詩の時代であり、「古今」の時代が物語り文藝への過渡期にあるという和辻氏の論点に従ってみてゆこう。春を謳うにしても「万葉」は純粋に春の到来を喜び、直感に満ちた叙情であるのに対して、「古今」では暦の上では春なのだが今の光景はどうだという調子でロジックをもてあそぶ風が前面に出てくる。「古今集」の歌は叙情詩の本質を遠ざかっている。自然の印章に触発されて人生を詠嘆するのが「古今集」の複雑性である。純粋から複雑へという精神活動の自己展開が見られるのである。生産者から寄生者へと移ってゆく歌人の生活も想像できる。田舎から都会へという変化も見えてくる。日本の歌の90%以上は恋の歌というノー天気さには目をつぶるとしても、「万葉」は恋を具象的、直截的に謳うのであるが、「古今」は恋の情を直接には詠嘆せず、観察して解剖して、本人は恋をしているのやら恋を題材にしているだけなのやら一向にはっきりしない。感情の切実な表現よりも、その感情にいかなる衣をきせるかの技巧に「古今」の歌人の興味が移っている。しゃれに近い内容も多い。限定された意味をもつ言葉が、ここでは連想によって広い、さまざまな意味と情緒を持つ言葉に変化している。歌が言葉遊びになってきた。という和辻氏の見解は常識内の指摘である。

お伽噺としての「竹取物語」

「竹取物語」は古くは紫式部が命名したように「小説の祖」として有名な作品である。しかし内容には道教風な空想の影響が著しく、神仙譚的な要素が本質的なものである。かぐや姫を巡る王侯貴族のやり取りを滑稽化し、平安時代の貴族の恋愛生活を戯画化している。「竹取物語」は写実的に描くことを避け、御伽話としてのみ評価されてきた。風刺小説かというとそうではもなく、やはり現実離れしており、空想ドタバタ喜劇というほうが当っている。古事記の中にもお伽話への傾向は顕著に存在していた。「因幡の白兎」、「海幸彦」、「春山霞男」などの話はやはり荒唐無稽のお伽話ではないだろうか。論理や感情を綿々と綴りゆく小説ではなく、論理を飛躍した意外性に喝采する庶民の楽しみが伺える。神仙譚的な系譜には万葉の時代から、浦島太郎、羽衣伝説、かぐや姫の空想が生まれてくる。竹の中から美しい女児が出てくるのは平安時代の創意であろう。永遠の生命、天女、不死の薬という神仙に憧れる気持ちは伝説的なものであっても、決して稚拙ではなく、小説の文章の強さ、的確さ、構図の細描さにおいて平安期ならではの繊細さをもつ小説である。

「枕草子」について

本章は「枕草紙」の原典批評と清少納言のひととなりについての一考察である。文学者でもなければ原典の考証学は、かび臭くて好きになれない。もちろん文学者は異本の存在と比較、何が本来の原典であるかとか、紛れ込んだ物を排除するとか、後代の人の筆が入った箇所とか、順序を正すとか大真面目に議論している。1000年以上前の書の書かれた状態を正す作業は、迷宮に迷い込んだようで、門外漢にはその議論は分らない。「枕草紙」にも話の流れがおかしいところがあって、明らかに綴じ間違いや稚拙な記述が見受けられるそうだ。平安時代中期の書の原本など残っているわけは無いのだが、間違いだらけの写本であれ、それが保元・平治の戦乱や源平の戦いに紛れて部分的に焼けたり、綴じ目がなくなってバラバラになったり、一部消失したりして、鎌倉時代や室町時代にそれを1冊の書に編集しようとする人がいても、編集過程で綴じ間違いがあっても文脈から判別しない場合、間違いのまま綴じられる。明らかに文脈からおかしいとわかって欠けている部分を編集者が自分の考えで記述したり、訂正したりする。とにかくどんな間違い、劣化が待ち受けているか分らない世界である。枕草子の現存諸本の系統は@伝能因所持本の系統、A1226年奥付き本系統(耄及愚翁本)、B前田本の系統、C堺本の系統(伝宸翰本)が在るといわれる。和辻氏は江戸時代初期に編まれた「春曙抄本」を粗雑だと非難するが、私にとっては興味ない問題だ。

枕草紙は平安時代の作品としては最も感傷的でない作品である。理知的で自我の強い宮廷の局にいた女が自分趣味とか好き嫌いとかを書いた散文書である。文学者橋本治氏が「桃尻娘」という題名で清少納言の枕草子の超現代語訳をして、1977年講談社小説現代新人賞佳作を受賞したことで有名である。宮廷文化に憧れた女性が勝気に早って得意満面書きなぐるという筋書きである。美意識のオンパレードである。源氏物語ほど難解ではないが、結構枕草紙にも意味を取りかねる箇所が多い。文章が短すぎてなぜそうなのかと問い詰めることが出来ない。「春は曙・・・」という次第である。私は「春は夕暮れ・・・」といいたいところだが、そんなことを言っても始まらない。人それぞれだから。それもこれも清少納言の性格にあるようだ。清少納言は一條天皇の中宮定子の侍女として、若き中宮の寵愛を一身に集めていた。男関係は変な関係で、仕事の関係で宮中の私事を司る蔵人所の藤原行成(頭弁)、藤原の斉信(頭中将)、左衛門尉則光と関係があったようだが、勝気で強い性格で宮内の局の古手として君臨し、男達にたいしても遥かに上手であったようだ。このような女であったことから、物の哀れとは縁の遠い存在で、紫式部が情熱的な小説を書けば、清少納言は理知的な散文を書いた。感傷的な詠嘆よりは偏狭な唯美主義者といえるだろう。光景や物のデッサンは具象的で写生的で確かであるが、感情の葛藤や時の流を追うという非常に強い意志や描写力は持ち合わせていなかった。

「源氏物語」について 

源氏物語の初卷「桐壺」と二卷「帚木」の不連続性に注目して、和辻氏は初卷「桐壺」は序であるという。初卷「桐壺」で光源氏出生のことから初めて母桐壺の苦悩、桐壺の死、帝の嘆き、光源氏の幼年時代、桐壺に酷似した藤壺の入内、藤壺と源氏の内通、源氏12歳の元服、源氏と葵との心せぬ結婚などを語っているが、二卷「帚木」の冒頭、源氏は急にまじめな紳士となって、浮名は予期せぬことと言い訳をしている。和辻氏は好色人源氏が知れ渡ってからの非難に答えるように第二卷が書かれたという。現存の源氏物語が「桐壺」からはじめて現在の順序のままに書かれたわけではない。「夕顔」、「空蝉」と女をあさり歩く好色人源氏の人格と桐壺を慕って藤壺と内通する源氏には人格の乖離が見られ、小説の光源氏は統合された人格の持ち主ではない。心理の動きは何の連絡も無く必然性もない荒唐無稽なものである。「宇治帖」の薫は源氏のコピーで、好評にお答えして似たような話を繰り返したに過ぎない余計な部分といえる。紫式部の作かどうかあやしいし、後日の誰かの追加文章かもしれない。「源氏物語は悪文だ」という説が何人もの人が言っている。私も解説書がないと全く意味が取れないので、この説に賛成したい。感情の主体が断りもなしにくるくる変わってゆくから、さっぱり分らなくなる。主語のない日本語の最悪の例といえる。日常生活と経験を共有しあっている夫、友人にしか分らないような隠微な文章である。

「ものあわれ」を文藝の本意として表現したのは本居宣長の功績であろう。小林秀雄の評論にもあるように、江戸時代という儒教全盛の時代に文藝を独立した手段として宣長が主張したことはたしかに日本思想史上の画期的出来事であった。「あわれ」とは感嘆詞である。「ものあわれ」が心のまこと、心の奥という思想である。人生の根本を「物はかなしくめめしき実の情」として、宣長は理性、意志ではなくただ感情が人生の根本であった。宣長は物のあわれの定義をドンドン拡大してゆく。和辻氏は理想主義とか永遠の根源への思慕とか、純化された無限の感情だとか言葉を重ねてゆくが、もうこれには付いてゆけない。「めめしきこと」が人生だとは言いすぎでないかとブレーキをかけたい。ただ平安朝貴族に限定すれば、「永遠への思慕に色づけられた官能享楽主義」、「涙に浸れる唯美主義」というめめしさは真実かもしれない。平安時代の貴族は意志力も無く、視野の狭い世界に安住し、働きもせず、搾取の上がりでぐうたら生活をするしか能がなく、享楽の極致からすれば文藝をもてあそぶことが人生の根源といわれればそうかなと納得してよい。凡そ男性的なものの欠如からくるものである。だから平家源氏の武力の前に亡んだのであろう。

沙門道元

和辻哲郎著 「日本精神史研究」の中では、一番の論文である。道元という禅宗の僧(鎌倉時代の曹洞宗の開祖、越前永平寺創設で著名)の宗教を文化史で理解する試みで、絶対的な宗教を相対化して把握するということである。和辻氏は宗教の相対化を、「宗教的真理が唯一つの特殊な形によってのみ現れるというなら、一切の宗教はこの絶対的な宗教を直感したある特殊な人格の周りに人々をすいつけ、そこにその時代特殊の色をつけつつ結晶化したものである」という。宗教は本来永遠にして不変なる一切の根源であると云う立場を分解することであり、真理も歴史的展開であるということだ。道元の生涯を振り返ろう。道元の出生には不明の点が多いが、内大臣土御門通親(源通親あるいは久我通親)の嫡流に生まれたとする説が一般的である。建保2年(1214年) 比叡山天台座主公円について出家し、仏法房道元と名乗る。 建保3年(1215年) 三井寺の公胤の元で天台教学を修め、建保5年(1217年) 建仁寺にて栄西の弟子明全に師事した。 もともと天台真言密教は禅を含んでおり、道元も天台から禅への移行はスムーズであったようだ。貞応2年(1223年) 明全とともに博多から宋に渡って諸山を巡り、曹洞宗の天童如浄より印可を受け、 安貞2年(1228年) 帰国した。 天福元年(1233年) 京都深草に興聖寺を開いたが、この頃比叡山からの弾圧を受ける。越前国の地頭波多野義重の招きをうけて、傘松に大佛寺を開く。寛元4年(1246年) 大佛寺を永平寺に改めた。宝治2〜3(1248-49)年、執権北条時頼らの招請により教化のため鎌倉に下向し、関東における純粋禅を興隆した。成仏とは一定のレベルに達することで完成するものではなく、さらなる成仏を求めて無限の修行を続けることこそが成仏の本質であり(修証一如)、釈迦に倣い、ただ坐禅にうちこむことが最高の修行である(只管打坐)と主張した。 徒に見性を追い求めず、座禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがあるという。道元は浄土教(易行道)を否定している。主要著書には『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう) がある。

28歳の道元は京都に帰って布教を始めた。当時の建仁寺は天台真言と妥協して純粋禅をたてず、座禅すら建仁寺において正式には行われていなかった。権力が鎌倉に移って、京は無政府状態で飢饉も重なって、将に生き地獄の様相であり、「南無阿弥陀仏」の6文字を念仏すれば極楽浄土が約束されると説く浄土宗(その亜流である浄土真宗)が庶民の心を捉えていた。これに対して道元は「凡夫迷妄の甚だしき」といって、座禅による仏法の正門、心神脱落によって得られる仏の心理を説いた。古い教権(比叡山延暦寺、三井寺など)はなお武力的デモをやめない衆徒が支配しており、この道元の清新な禅には新興の武家階級が帰依した。道元の永遠の価値の実現を目的とするもので、従って世間的価値の破壊が出発点であった。命ははかないもので、この命が我々の唯一の価値であるなら我々の存在は価値無きに等しい。生きていても死んでも迷妄に囚われているならばこの生活は此岸である。真理に入れる生活こそが彼岸の生活である。従って理想の生活をあの世に求めるのではなく理想の生は直ちにここに実現されるべきである。精進の意志があるとすれば、修行の方法が問題となる。その方法の第一は「行」である。仏祖の言語行履に従うことである。専心打座を唱導した。身命に執する一切の価値を放棄し、永遠の価値への要求を持って行に専心し、抗して虚心なる仏法の模倣者となる、これが仏の真理への修行である。だが、仏祖の模倣は正しい導師なくして得ることは出来ない。ここに人格から人格への直接的な薫育がある。真理への修行は真理それ自身のためでなくてはならない。修行は何らかの手段ではない。

浄土真宗という鎌倉時代の大衆宗教を創設した親鸞は絶対者の無限の慈悲を説く。絶対者と人の関係は愛である。「悪人正機説」から「本願ほこり」は、弱い人にとって悪は避けがたいが、その人により高き心が存在するなら許されるのである。道元は仏法のために心身を放擲せよと説く。心身に根ざした一切の利己心、我執を追放しろというのだ。このように親鸞は仏の慈悲を説き、道元は真理のために人間の没我を説く。道元は求道者である。道元の前には個人の善悪さえ霞んでしまうのだ。人間間の道徳については道元は意に介しない。むしろ道元には世俗の儒教的道徳を信頼している感がある。自己を律する内面的な意義を強調するがゆえに、当時の武家階級に深く帰依されたのであろう。また道元は俗世界における生活不安を救おうという気はない。生活不安は畢竟人の欲望に根ざしているというのだから。財欲の放棄と乞食の生活とを僧侶に求めた。禅僧の「乞食の儀」の伝統はここからくるのである。寺院、仏像舎利さえも恭敬してはいけないという。さらに詩歌文筆も詮無きことと退ける。

道元は42歳から44歳の3年間、著書「正法眼蔵」において「仏の真理」について述べる。さまざまな仏法上の話題70編以上において「真理」を考察している。和辻氏はその中から3つの話題を拾って紹介している。「礼拝得髄」、「「仏性」、「道得」の3つの話題は原文で呼んでも普通の人はなかなか意を得ることは出来ない。それを優しく解説していただけるのでありがたいが、簡単に本髄だけを伝言するの留めたい。「礼拝得髄」では尊ぶべきは仏ではなく、仏となれるよう修行する人である。したがって「精進」が最大の人生の意義になる。人の精神は上昇することを信じる人間の姿である。「「仏性」では「一切衆生、悉有仏性」という涅槃経の言葉をひいて、これは性善説ではなく、仏性の中にこそ人間があると云う哲学である。「道得」では、「不立文字経外別伝」を標榜し座禅と公案を重んじるのが禅の特徴という考えを排し、真理を概念的に把握し言語による理解を重んじた。論理的に物を見るだけでなく、以心伝心という師を見ることによる知的直感も重んじたことはいうまでもない。禅宗の神秘主義的非論理的傾向にたいする道元の反抗の思想が現れている。


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