文藝散歩 

亀山郁夫著 「罪と罰ノート」 
平凡社新書(2009年5月)


主人公ラスコーリニコフの形而上学的殺人にドストエフスキーは救済を考えたのか

ドストエフスキー肖像
ドストエフスキーの肖像画

ドストエフスキーの生涯をかいつまんで紹介する。フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(1821-1881)は、ロシアの小説家・思想家である。代表作は『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』など。レフ・トルストイと並び、19世紀後半のロシア文学を代表する文豪である。その著作は、当時広まっていた理性的社会主義思想に影響を受けた知識階級の暴力革命を否定し、キリスト教、ことに正教に基づく魂の救済を訴えているとされる。実存主義の先駆者と評されることもある。1846年、処女作『貧しき人々』を批評家ベリンスキーに「第二のゴーゴリ」と激賞され、華々しく作家デビューを果たす。デビューこそ華々しかったものの、続けて発表した『白夜』『二重人格』は酷評をもって迎えられる。その後、ミハイル・ペトラシェフスキーが主宰する空想的社会主義サークルのサークル員となったため、1849年に官憲に逮捕される。死刑判決を受けるも、銃殺刑執行直前に皇帝からの特赦が与えられて(この一連の特赦はすべて仕組まれたものであった)、シベリア流刑へと減刑になり、オムスクで1854年まで服役する。この時の体験に基づいて後に『死の家の記録』を著す。この事件は以後の作風に多大な影響を与えた。刑期終了後、兵士として軍隊で勤務した後、1858年にペテルブルクに帰還する。この間に理想主義者的な社会主義者からキリスト教的人道主義者へと思想的変化があった。その後『罪と罰』を発表し、評価が高まる。自身の賭博好きな性質、シベリア流刑時代に悪化した持病のてんかんなどが創作に強い影響を与えており、これらは重要な要素としてしばしば作品中に登場する。晩年に集大成ともいえる長編『カラマーゾフの兄弟』を脱稿。その数ヵ月後の1881年1月28日に家族に看取られながら60歳で亡くなる。

著者亀山郁夫氏のプロフィールを本書巻末から紹介する。亀山 郁夫(1949年2月10日 生まれ)は、日本のロシア文学者。東京外国語大学学長。専門はロシア文化・ロシア文学。ドストエフスキーに関する最近の著作は、
『ドストエフスキー 父殺しの文学』 (NHKブックス上・下  2004年)
『「悪霊」神になりたかった男』 (大人の教室・みすず書房、2005年)
『「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する』(光文社新書 2007年)
『ドストエフスキー 謎とちから』(文春新書 2007年)
『新訳「カラマーゾフの兄弟」 「父殺し」の深層』(日本放送出版協会 2008年)
『ドストエフスキー 共苦する力』(東京外国語大学出版会、2009年)
『「罪と罰」ノート』(平凡社新書、2009年5月)
亀山郁夫氏のブログ「カフェ・カラマーゾフ」をこちらです。興味のある方はどうぞ。

ドストエフスキーの「罪と罰」という本は若い頃に読んでいたが、ロシアの小説の登場人物の多いことにはいつも悩まされ、人物リストをいつも座右においておかないと迷路に迷った気持ちになる。そういう難点はこの「罪と罰」は持っていない。比較的登場人物は少なく筋は容易に掴める。まずストーリーのあらすじを見ておこう。物語は6部とエピローグからなり、主に帝政ロシアの首都・サンクトペテルブルクを舞台とする。「伝説の英雄のような人類の指導者となるべき選ばれし者は、より大局的な正義を為すためならば、既存の法や規範をも超越する資格を持つ」という独自の理論を持つ青年・ラスコーリニコフは、経済的困窮から志半ばにして法学の道を断念し、荒んだ日々を送っていた。彼は、偶然、阿漕な高利貸しの老婆・アリョーナの話を耳にして以来、もし、自らに、その資格があるのならば、「選ばれし者」として正義の鉄槌を下すべきではないかとの思索を巡らし始め、ある日、遂に、アリョーナの殺害に及ぶ。しかし、予定外に遭遇したアリョーナの妹・リザヴェータをも巻き添えにしてしまい、その後の彼を待っていたのは、想像を絶する苦悩と葛藤の日々、そして、老姉妹殺害犯を追う敏腕予審判事・ポルフィーリィとの間で繰り広げられる壮絶な心理戦・頭脳戦であった。

ドストエフスキーの「罪と罰」は思想の宝庫といわれ、多くの人の評論・解釈が発表されてきた。なかでも私は小林秀雄氏の評論を読んで納得したような気になった。小林秀雄氏は「罪と罰」について二回書いている。1934年と1948年である。「罪と罰」についてTは1934年に発表されたが、これから小林氏のロシア文学傾斜が開始されるのである。新潮社「小林秀雄全作品」第16巻「罪と罰U」よりその形而上学的考察を見てみよう。
「罪と罰」についてUでは、Tに比べてはるかに原文からの引用が多くなり、人間の罪と罰に関する哲学的考察の書になった。「罪と罰」がロシアで発刊されたのは1866年つまり明治維新の前の年である。「罪と罰」の主題は主人公ラスコオリニコフという人間の創造の由って来る所以、罪とは何か罰とは何かということである。「地下室の手記」(1864年発刊)は罪と罰のデッサンと言われているが、そこであたかもドストエフスキーが得た哲学的啓示を次にように述べている。「民衆の最低の段階まで降りてきて、国民的根元へ、ロシア魂の認識へ、国民精神の是認へ立ち帰ることについての、非常に長い年月の間に漸次育ってきた信念である。」 ドストエフスキーの世界には二つの激しい運動がある。一つは哲学的精神によって追求される観念の運動である。二つは残酷な観察家によって分析される現実の運動である。前者はプラトンのイデアリズム(理性)、後者はゴオゴリのリアリズムである。ドストエフスキーの人間劇の中心は人間の内面世界に移ったという点で革命的であった。 ドストエフスキーの初期の作品、「貧しき人々」、「死人の家」、「虐げられし人々」はこの人間の内面世界に入ってゆくために一人称小説の形式で書かれている。作者はこの小説を「犯罪心理の計算報告書」と読んでいる。驚くべき心理学的手法を用いたが、あくまで自分とは何かと言う難問について語るためであった。ドストエフスキーは「罪と罰」で始めて一人称小説の形式を捨てた。
「罪と罰」の筋書きは繰り返さないが、主人公ラスコオリニコフの身の破滅は、なんら外的な力によるものではなく彼自らの破滅を望み、いわばこれを創り出すのに成功したからである。一切を自分で始めようとするその強い性向は、ついに外的存在のみならず自分自身の存在の必然性も拒絶して、精神の可能性の世界に閉じこもるにいたる。観念が観念を追うこの空しい世界である。なぜこの世には自殺するか発狂するかどちらかを択ばなければならないような不幸、しかも愚劣で無意味な不幸があるのだろうか。彼が体現したのは、精神の自由な気違いじみた無償性であり、これに気違いじみた行為の無償性が呼応するというところに、彼の悲劇が完成した。老婆殺害のあと、主人公ラスコオリニコフはソーニアという、何も与えてくれない神を信じている生きる悲しみと彼の生きる悲しみが出会った。
小林氏はエピローグで、主人公ラスコオリニコフのその後と彼の人間存在について哲学的考察をのべた。主人公ラスコオリニコフは作者自身が自殺しないのと同じ理由で自殺しない。すなわち主人公は作者自身である。この小説はいかに行くべきを問うた、ある「猛り狂った良心」の記録なのである。小林氏は道徳・倫理の系譜をカント、ソクラテス、ヘーゲル、パスカルに求めて、最終的にパスカルの「人間とは一体、なんという怪物であるか。なんという珍奇、妖怪、混沌、なんと言う矛盾、なんという驚異か。万物の審判者にして愚鈍なる蚯蚓。真理の受託者にして曖昧と誤謬の泥溝。宇宙の栄光にして廃物。」(パンセ)という言葉を引用している。17歳のドストエフスキーが兄にあてた手紙のなかで「人間とは何と不自然に創られた子供だろう、精神界の法則が目茶目茶になっているからだ。この世は、罪深い思想によって損なわれた天上の魂たちの煉獄のように、僕には思われます。」といった。小林氏は「僕らを十重二十重に取り巻いている観念の諸形式を、原理的に否定しようとする或る危険な何物かが僕らの奥深い内部に必ずあるのであり、その事がまさに僕らが生きている心の意味であり、状態である。」 という風に難しい言葉で締めくくっている。

ドストエフスキーの「罪と罰」といえば、「ナポレオン主義(強者の思想)」という選民思想にかぶれ、二人の老女を殺したエリート青年が、一人の心優しい娼婦とのふれあいを通して罪の意識に目覚めというストーリーというのが凡その理解であったが、著者亀山郁夫氏はなんか物足りないと感じた。この青年の放漫な考えを上回る運命の力,神の力を感じたという。青年を殺人に突き動かしているのは、神による復讐の力である。神はサディストである。人間はかよわきマゾヒストである。このサド・マゾ主義の構図で小説を読むのが本書の狙いである。死刑宣告を受けて死刑の恐怖を味わったドストエフスキーが晩年にたどり着いた信仰は「生命の絶対性」であった。そして殺人を犯した青年を自殺から救い、なお生かすのが作者の真意である。

ドストエフスキー後期の傑作「罪と罰」はアレクサンドル二世による農奴解放令から4年後の1865年(ドストエフスキー45歳)に執筆が開始された。この小説の書かれた次期の首都ペテルスブルグの状況が大いに小説に影響している。ペテルスブルグは古都モスクワからフィンランド湾の不凍港を求めて、18世紀の初めにピヨートル大帝によって建設された都市である。ドストエフスキーはペテルスブルグを「地球上で最も現実離れをした都市」と呼んだ。ロシアの発展のため欧州化することを絶対使命としたロマノフ王朝の狂気と観念をシンボル化した大都市であった。19世紀のロシアはクリミヤ戦争で敗れ、後進性が明らかになった。社会不安も高まり、革命がにわかに現実性を帯びてきた。そこで皇帝アレクサンドル二世は1861年農奴制を廃止して、近代化のための法制度改革、中でも裁判制度の改革に着手した。解放された農奴は土地を持たないために流浪の民となってペテルスブルグのような大都市に押し寄せ、人口は爆発的に増加し(1865年の人口は54万人)、治安の悪い貧民街や娼婦街、居酒屋街が急増した。当時のロシアでは司法(裁判官)は行政(警察・検察)に隷属しており、裁判制度の独立が緊急の課題であった。「罪と罰」の背景となる裁判制度は、効率化のための予審制度(1861年)、陪審員制度(1864年)の導入などフランスの裁判制度の輸入の急な過渡期であった。流刑地シベリアからペテルスブルグに帰還したドストエフスキーは、1861年兄ミハイルとともに雑誌「時代」を発刊した。その雑誌に発表した流刑地の生活「死の家の記録」は大きな評判を生んだ。ドストエフスキーは犯罪そのものに対する彼の根強い関心と、客観的事実や科学性に対する強い不信感を雑誌「時代」や「世紀」に発表した。1861年雑誌「時代」に「虐げられた人々」を発表し、ユートピア的理想主義に対する根本的な疑いを書いて、敗北主義から逆に悪の権化たる強者への憧れという幻想が芽生えた。その後「罪と罰」や「悪霊」、「カラマーゾフの兄弟」に悪の権化の造形を磨いていった。悪の系譜を描きながら、その悲惨な結末もしっかり見据えていた。ドストエフスキーの脳裏を離れなかった「サド・マゾ」の問題がある。人間の嗜虐的な性堕と人間の情念がはらむ宿命的な悲劇性をこれでもかとばかり追求した。だから彼の小説は暗く深いのである。シベリア流刑地で結ばれた未亡人マリアをペテルスブルグに連れ戻ったが、その頃にはマリアは結核に犯され、彼の博愛の精神の中で生きていたが、もはや愛情生活は存在しなかった。重篤な状態になったマリアを保養地ウラジーミルに送り、1862年ドストエフスキーは第1回目の欧州旅行に出た。ロシアの近代化の目標である西欧文明に対して、富を価値の根底に置くことに不信感を持った彼は失望してロシアに戻った。作家志望の女性アポリナーリアと恋中になったドストエフスキーはマリアとの犠牲的愛の裏返しのようなエゴイズムをむき出しにした。1863年アポリナーリアと第2回目の欧州旅行に出かけたが、借金を重ねながら賭博に夢中になった。賭博とアポりヤーナとの三角関係は不可分の関係にあった。すなわち破局への意志であった。1864年妻マリアが死亡し、そして兄ミハイルも病気で死亡した。そして賭博の借財とで苦るしかった時に「地下室の手記」を書いた。ここからドストエフスキーの転換が始まった。「苦痛が快楽」といった錯倒した感情を文学的に肉付けした小説であった。合理主義や社会主義は人間の本性と相容れない、サド・マゾの発見がそれまでの彼の思想的基盤を根底から覆して、強烈な破壊力を帯びたのであった。1865年借金返済のため出版業者と屈辱的な契約を結び、借財を返済して、残った金で第3回目の欧州旅行に出かけた。ここでもまた賭博で有金をすってしまい、なんと1865年9月滞在先のヴィスバーデンで「罪と罰」の初稿を書き始めた。文学史上の傑作「罪と罰」が生まれ始めた契機は、ロシア社会全体に渦巻く混乱と、私生活の絶体絶命の危機、差し迫った破滅の予感がそうさせたとしか言いようがないのである。これほど私生活が破滅しているともはや犯罪以外には生活のリアリティが見出せないのであろうか。ロシアに帰国してからも執筆は続けられたが、最初下敷きにしていた「酔いどれ」の告白体から3人称形式にかわり、「ロシア報知」に1866年1月号から連載が開始された。そして1866年4月アレクサンドル二世皇帝暗殺事件という衝撃的な事件が発生し、小説の進行にも影響を与えた。また同時並行で悪徳出版社の契約履行のために「賭博者」の口筆を11月に完成させるという離れ業をやってしまい、同月アンナと再婚した。このようにきっかけは人に言えたものではないが、土壇場で逆転させるというたくましさを持っているのがドストエフスキーという人間であった。

小説のモデルとなった事件が二つある。一つは1865年1月にモスクワで起きた連続老女殺人事件である。犯人ゲラムシ27歳にたいして、8月法改正後の初となる公開裁判が行われた。二つは1865年9月ペテルスブルグで高利貸し殺人事件が起きた。青年公爵ミケラッゼが金品略奪を目的として、高利貸し(男)と賄い婦を殺した。1865年6月完全に金欠状態にあったドストエフスキーは中編小説「酔いどれ」を執筆中であったが、悪徳出版社と契約して借金を清算し、9月第3回目の欧州旅行に出かけた。滞在先のヴィスバーデンで熱に浮かされたように、老女を殺害した青年による一人称形式の告白小説を書き続けた。部分的には「酔いどれ」の断片を入れながら、恐ろしい勢いで物語りは進行した。「ロシア報知」の発行者への手紙で、当初この小説は「犯罪の心理報告書」だといっていたが、テーマは「人間的な本質そのものの深奥から発する復讐は避けがたい確信」を描くことであった。物語は究極的な破局を目指す閉じられた物語であった。ペシミズムは本来的なドストエフスキーの性質であった。ところが、この犯罪心理報告書を「中篇」とすると、前年度から進行していた「酔いどれ」が衝突して合体するという、「創造的な爆発」を起こした。そしてペテルスブルグに戻って、12月には全面的な書き直しを行い、告白体の文章から三人称による語りの文章に移行した。そこに現れたのが「ナポレオン思想」である。主人公に測り知れない傲慢さと社会への軽蔑という思想が体現された。主人公の中では虐げられた人々への激しい憐れみと悪魔的な傲慢さが交互に入れ替わる二重人格的な主人公こそが、ラスコーリ二コフ、「断ち割られた」青年の起源なのである。

「罪と罰」の起源について考察しよう。犯罪そのものが死刑宣告なのであり、罰であり、死なのであるというモチーフが蓋いかぶさっている。ドストエフスキーが原罪の意識にぎりぎりまで凝り固まった作歌であった。日本人にはキリスト教の「原罪意識」は理解できない。彼の心の原風景(トラウマ)は「ぺトラシェフスキー事件」であった。1846年ドストエフスキーはフーリエ空想的社会主義のサークル「金曜の会」(ぺトラシェフスキーの会)に入会した。会は最初農奴制、裁判制度、検閲、出版事情、空想的社会主義、無神論、家族制度などを話し合う勉強会であったが、2月革命の影響を受けてしだいに先鋭化し始めた。スペシネフの指導で一気に政治結社的色合いを深めた。会においてドストエフスキーはぺトラシェフスキーの手紙を読み上げた、会の総意として今後出版の自由、言論の自由、農奴制廃止のために活動することが宣言された。スパイの内偵によりメンバー34名が逮捕され、軍法会議は有罪の判決を下した。この時までドストエフスキーは虐げられた人々に対して愛の人であった。12月22日練兵場で死刑宣告を受け死刑執行のまえに皇帝の減刑状が届いて流刑8年の刑と確定した。手紙を読み上げただけで死刑という判決は不当であるが、ドストエフスキーの心の中では、死刑判決を当然の報いと考える(希望する)不条理の瞬間があったのではないか。これを原罪と考えたに違いない。死刑が自らの存在を賭けた行為への報いであったからこそ、測り知れない重さを持ったのであろう。死刑宣告を受けて減刑されて練兵場を去るドストエフスキーの心は深く分裂していた。運命と意志の上と下からの力に引き裂かれて、恐ろしい深い鬱の世界に転落したのである。精神病にならない方がおかしいくらいである。では、ここからは「罪と罰」の目次に従ってみてゆくことにする。本書は6部とエピローグからなるので、その構成に沿って著者の言いたいことをまとめてゆこう。

第1部 「屋根裏部屋の神」 7月7日

「罪と罰」のストーリはそう複雑ではない。この小説を満たしている無数のディテールの深層に読者を誘うのが亀山氏の目的であるそうだ。1865年7月7日ぺテルスブルグの気温は35度を超す異常に暑い日の夕方であったでこの話しは始まる。主人公ラスコーリ二コフは授業料滞納で大学を中退した青年で、毎日を働きもせず幻想を見て暮らしているような鬱状態の青年であった。下宿先の屋根裏部屋を降りてから金貸し老女のところを下見に訪れ、帰りに薄汚い地下の居酒屋に入った。そこで元役人の聖書を読みすぎた酔っ払いセミョーン・マルメラードフと話をした。妻カテリーナは結核をわずらうヒステリー女でいつも妻の暴力に快感を覚えているようであった。先妻の娘のソーニャはいまは娼婦家業の哀れな一家である。ドストエフスキーの小説には数に関する謎かけが多い。偉大な音楽家セバスチャン・バッハのようにいたるところに数の意味が仕掛けてある。物語を流れる時間は正味13日で、屋根裏部屋へ上る階段の数は13段、すなわち13日かけて破滅の階段を登るのである。事件の始まるのが7月7日、キリスト教では7の数に神聖な意味が持たされている。このようにドストエフスキーは数でもって小説のリズムを刻んでいるのであろうか。そして屋裏部屋は地下室ではない。地下室は底辺の人間の蠢くところ、屋根裏部屋は観念の高みから降りるところを意味する。この小説にはこの世の終わりというべき黙示録の雰囲気が濃厚に漂う。すべてが謎かけで関連付けられている。翌日は7月8日である。ラスコーリ二コフは昼過ぎまで寝ていたが、女中の声で起こされた。母からの手紙が届いたのである。手紙には妹ドーニャが弁護士ルージンの申し込みを受けて結婚するつもりでいること、その件で3人でラスコーリ二コフを訪問するすることが書かれていた。しかしラスコーリ二コフはこの結婚が自分のための犠牲結婚である事を悟り、これに断固反対しようと決意を固めた。この手紙を読んだ日が7月8日すなわち「カザンの聖母」祭の始まりの日であった。母の復活の日であった。街をさ迷ったあげく林の中で昼寝をして、百姓馬が散々鞭打たれ惨死する奇怪な夢を見た。哀れな馬への同情から老女殺人をやめようと思いとどまったが、立ち話を聞いて、明日夕方金貸し老女の妹が招かれて留守になり老女一人きりになるという偶然が、彼を再び殺人に追いやる強い運命となった。「罪と罰」のラスコーリ二コフの殺人を一つの運命と見れば、母からの手紙は彼の罪を阻止する一つの恩恵であった。百姓馬の惨殺の夢は彼に憐憫の心を起こさせたという意味で第二の恩恵であった。そこに神の意志としか言いようのない偶然が彼を支配した。この小説は夢占いと運命の書ともいえる。その間で分裂する主人公の心には粘着性がなく、分裂症的・二重人格的な性格の乖離が見られる。商人の立ち話に主人公の「第7時目」と「7時」の聞き違いから、7時過ぎに金貸し老女をナタで殺し金品を奪った主人公の前に、老女の妹が7時半に戻ってきた。そして妹リザベータを成り行きで殺して主人公が屋根裏部屋に戻ったのは8時過ぎであった。まるでサスペンス推理劇の時間読みゲームのディテールが運命を後押ししたのである。そして殺された妹リザベータの腹から胎児の死体がでてさらに第3の犠牲者もでた。こうして殺害が、理念が、主義が成就するかのように見えた。「新しい強者ナポレオン」の誕生である。ラスコーリ二コフにとって生命そのものが将に怒りであり、傲慢だ。だから殺人計画は自己正当化に結びつき、「理性と光」、「意志と力」は、彼の犯罪論において目指した来るべき世界のイメージであった。この第1部でドストエフスキーはすべての問題を提示した。ラスコーリ二コフの物語は始まった。

第2部 「引き裂かれたもの ラスコーリ二コフ」 7月10日

「罪と罰」第2部は事件の翌日7月10日から記述される。異様な精神状態のまま眠り続けたラスコーリ二コフはまた女中の声によって起こされた。警察の呼び出し状を渡され、恐る恐る警察に出向いたかれは下宿家賃未払いの催促状にサインを求められただけなのに、かれは卒倒してしてしまう。逃げ帰るようにして屋根裏部屋に戻ったラスコーリ二コフは二日間意識不明のまま眠り続けた。よほど殺人の体験が精神を苦しめたのであろう。友人ラズミーヒンが訪ねてきて世話を焼いてくれる。そこへ妹ドーニャの婚約者で弁護士のルージンが尋ねてきたがラスコーリ二コフは侮辱的言辞を吐いて追い出した。びくびくしていたラスコーリ二コフは街に出てさ迷う。途中あの酔っ払いマルメラードフが馬車に飛び込んで自殺する現場に出くわした。ラスコーリ二コフはマルメラードフのアパートに担ぎ込んだが介抱の甲斐もなく彼は死んだ。そこで娘のソーニャに始めて遭った。屋根裏部屋に戻ったラスコーリ二コフを待っていたのは、母と妹ドーニャだった。ここで第2部は終る。
主人公ロジオーン・ロマーノヴィッチ・ラスコーリ二コフの名前の語源は「ロマノフ王朝の祖国を叩き割る人」という意味である。見事な名前の謎かけである。ここにラスコーリ二コフは個人名ではなく、虐げられた貧しい人々と革命家という集団であり、圧制の象徴である皇帝を叩き殺すという意味である。ラスコーリ二コフの犯罪は信念の意味で言えば1986年4月の皇帝暗殺未遂事件と変わらない。もうひとつのラスコーリ二コフの名前の意味は、ロシア正教会と激しく対立する異端・分離派を暗示している。自らを苦しめ神の世界に招かれたいという分離派特有の終末論者の一人であったということかもしれない。金貸し老女アリョーナは金にのみ価値をおく欧州の近代資本主義者を意味させている。このラスコーリ二コフの近代否定論は彼に悲劇的な分断をもたらしている。更に第3の解釈はラスコーリ二コフの名前の頭文字PPPは逆さに読むと666である。これは悪魔の数666の含意ではないかと江川卓氏の説である。ラスコーリ二コフが引き裂かれた存在であるなら、友人ラズミーヒンは対極的に存在する健全な総合的な人格を持った存在である。ラズミーヒンは理知を意味する言葉ラーズムである。ラズミーヒンは前近代のロシア土壌主義哲学の体現者であると解釈されている。つまりドストエフスキーの分身である。社会主義による合理主義的かつ人為的な社会作りにラズミーヒンは大いに反対する信念の人である。ラズミーヒンの動かし難い本性「土壌主義」はラスコーリ二コフの「選民の論理ナポレオン主義」とどう交錯するのだろうか。

第3部 「ナポレオン主義 母殺し」 7月14日

第3部と第4部は7月14日に起きた一連の出来事を記述する。第4部はその日の夕方から夜の出来事である。14日の朝、友人ラズミーヒンは母と娘の二人をラスコーリ二コフの下宿に案内する。その前に医師ゾシーモフがラスコーリ二コフを診察したが、パラノイア的な兆候があると言った。友人ラズミーヒンは母と娘を旅館に戻して、ラスコーリ二コフと話し合った。ラスコーリ二コフは時計と指輪を金貸し老女に質入したことを、予審判事ポルフィーリーに話すべきかどうか友人ラズミーヒンに相談した。二人は連れ添って警察にある予審判事ポルフィーリーのところへ出かけた。予審判事ポルフィーリーはラスコーリ二コフの論文「犯罪論」について言及した。彼は犯罪論にある「ある種の人間は法に触れることなく犯罪を犯す権利がある」と云う哲学を批判した。友人ラズミーヒンもラスコーリ二コフの選民思想には驚かされる。警察から帰った後ラスコーリ二コフは「人殺し」と名指しされる幻想や金貸し老女が生きている悪夢をみた。そこへアルカール・スヴィドリガイロフが訪問してくるところで第3部は終る。
ドストエフスキーは謎かけに長じた作家である。謎めいた行動を示したあとに、その裏づけを行うという手法をとる。ラスコーリ二コフの「ナポレオン主義」は「罪と罰」の前年度に刊行されたナポレオン三世の「ジュリアス・シーザー伝」やカーライルの「フランス革命史」から大きな影響を受けている。人々を大きく二分法する。第1階層は選民である非凡人で、第2階層は凡人である。ラスコーリ二コフははたして無神論者かというと、そう簡単ではない。かれは「新しいエルサレム」を「社会主義者がその目的として希求する新しい生活秩序で、普遍的幸福が実現するはず」と考えている。予審判事のポルフィーリーは彼の思想に「空想主義的社会主義」の匂いをかぎつけるのである。永遠の革命を主張するアナーキズムの父プルードンに原型を求める事もできる。犯罪は環境から発生するという点では社会主義であり、個人が犯罪を犯すという点ではラスコーリ二コフは英雄主義・ナポレオン主義、悲劇性である。ラスコーリ二コフは「俺は老婆を殺したのじゃない。主義を殺したんだ」とつぶやく。ナポレオン主義の理屈に従って金貸し老女を殺し、偶然にリザヴェータを殺したラスコーリ二コフの行為は「母殺し」である。ラスコーリ二コフの復活の鍵を握るのは娼婦ソーニアの大地信仰である。リザヴェータとソーニアは十字架の交換によって肉体的にも結ばれている。ドストエフスキーは女性同士の一体性を執拗に模索している。ソーニャとアリョーナ、リザヴェータを通じて母なるものの殺害を暗示しているようだ。

第4部 「棺から甦る ラザロの復活」 7月14日

ドストエフスキーの作品を信仰なしに理解することは困難である。第4部は7月14日の夕方から夜にかけての記述である。アルカール・スヴィドリガイロフは妹ドーニャが家庭教師を務める旧家の主だが、死んだ妻マルファと仲が悪く、妹ドーニャに接近しようと、ラスコーリ二コフに弁護士ルージンの婚約を解消するなら妻の遺産を寄付するつもりだと提案する。母と妹とルージンが滞在する旅館に出向いラスコーリ二コフは婚約を解消し、またスヴィドリガイロフの悪い噂を聞いた。ソーニャのアパートに向かったラスコーリ二コフは彼女と一緒に聖書を朗読して、呪われた二人は一緒に行くべきと、リザヴェータ殺人を告白するとほのめかした。
第4部のテーマは傲慢である。ソーニャと一緒に朗読したのはヨハネの福音書からの「ラザロの復活」である。そこには冒頭に「私は復活であり、命である」と書かれている。ここからラスコーリ二コフの救済が議論される。そしてラスコーリ二コフの住んでいた屋根裏部屋の形状が棺桶に似ていると母が指摘していたし、娼婦ソーニアのアパートの部屋も歪な台形状でこれも棺桶を連想させた。棺から復活するラザロに、屋根裏部屋から出るラスコーリ二コフを重ね合わせていたようである。ある意味ではラザロの復活を朗読することでラスコーリ二コフの救済は保証されたと考えられる。小説全体を通じて単語にイタリック体の使用が異常に多い。何かを分ってほしいという作者の意図が見え見えである。「4」の字は明らかの死体の復活であり、ラスコーリ二コフとソーニャの二人が死者と意味づけられ、それぞれの部屋が棺桶と意味つけられていた。

第5部 「狂騒と対話」 7月16日

第5部は7月16日から始まる。ここに記述されているのはソーニャの父で元役人の酔っ払いマルメラードフの葬儀から、妻カテリーナの死の場面までである。静謐な第4部に対して、将に第5部は狂騒(カーニバル)的な気分に満ちている。通常の生とは別次元のあべこべで自由で無遠慮な人間同士のぶつかり合いの喜劇である。弁護士ルージンは結婚話を台無しにされいらいらしており、マルメラードフに妻カテリーナは葬儀の席上大家の夫人と大喧嘩をしでかす。ルージンはソーニャに嫌疑がかかるように仕組んで大騒動。そのうちソーニャはラスコーリニコフに恐ろしい真実が隠されていることに気付いて、広場に行って大地にキスをして殺人を告白するよう嘆願する。同じ頃妻カテリーナの結核が末期的症状になって運河沿いの道で死亡する。ここまでが第5部の内容である。
ドストエフスキーが執拗に繰り返すのが、フーリェ主義をめぐる問題である。ドストエフスキーは青春時代を圧倒したフーリェ思想を否定しようとしていたことは明らかである。そしてラスコーリニコフに二重写しされていたのは青春時代のドストエフスキー自身であった。弁護士のルージンはブルジョワ、レベジャートニコフはフーリエ主義者、社会主義者である。ドストエフスキーが根源的に求めていたのは「解放」であるが、シラー的な理想主義と、反モラル、反シラー的な世界への憧れが相克する中で彼は戦い続けた。マルメラードフ=ユダヤ説があるが、キリストを売ったユダに対して娘を娼婦に売ったマルメラードフが対応する。殺人の動機がイデオロギーでもなく思想でもなく、純化された意志そのものとなった瞬間に老女殺人事件は無目的になってしまう。主人公ラスコーリニコフ自身の説明はもはやここまでが限界であった。「婆さんを殺したのは僕じゃない、悪魔だ。僕は自分を殺してしまった」と。ここから彼は犠牲者となる。悪魔と人間の対話という構図は「カラマ−ゾフの兄弟」にも引き継がれた。

第6部 「運命の岐路」 7月17日ー19日

7月17日から19日までの三日間が中心となって、作者は好色漢スヴィドリガイロフに注目する。ソーニャとラスコーリニコフには救済の手が差し伸べられたが、一線を越えてあの世に行ったのはスヴィドリガイロフであった。予審判事ポルフィーリーは老女殺人事件の犯人としてラスコーリニコフを疑い、この事件は精神的な苛立ちと病的な頭脳が生み出した事件であると断言する。好色漢スヴィドリガイロフが妹ドーニャに接近を図るのを阻止するべくラスコーリニコフは心をかき乱された。スヴィドリガイロフはラスコーリニコフが犯人である事をほのめかす手紙を妹ドーニャに送り、ラスコーリニコフの国外逃亡を手助けするという交換条件を持ち出してきた。ドーニャの堅い反発の意志を見せられたスヴィドリガイロフは拳銃で自殺をした。母と妹に別れを告げ、ソーニャと会ったラスコーリニコフは自白を勧められ、大地にキスをして無関心ながら警察へ行き、決心がつかないまま帰ろうとした時、玄関でソーニャに会い、崩れ落ちながら自白した。ここまでが第6部の内容である。
好色漢スヴィドリガイロフは悪の主人公である。妻マルファ毒殺容疑、下男に対する暴行、小娘の陵辱容疑など無罪と有罪の境界を歩み続けてきた男の造形である。このスヴィドリガイロフがラスコーリニコフを「同じ畑の苺」(同じ穴のむじな)と呼ぶ意味は不明であるが、一つの絶望の哲学と理解できるのだろうか。デカダンスと腐敗臭のする死者であるが、法が彼を裁くことは出来ない。そして彼だけが復活を許されていないのである。倒錯した愛のデカダンスはキリスト教的な原理からは救えないのである。ラスコーリニコフの悪魔としてスヴィドリガイロフが描かれた。弱者はマゾヒズムにおいて強者=権力者との一体化を夢見るが、その根底には強者になりたいという欲望がある。ラスコーリニコフを自白に導いたのは予審判事ポルフィーリーの法的英知であり、娼婦ソーニャの宗教的英知であり、最後に妹ドーニャの涙であった。

エピローグ 「愛と甦り」

「罪と罰」は死者の書である、何人の人が死んだであろうか。最後にラスコーリニコフの母ブリへーリアも3週間後に息子の犯罪によって精神を病み始め熱病で死んだ。ラスコーリニコフに下された判決は予審判事ポルフィーリーの酌量があって、第2級懲役八年であった。余りに軽い判決であった。その上ラスコーリニコフ自身は罪の自覚で苦しんでいる様子もないのだ。裁判では一種の心神喪失が適用された。ナポレオン主義という狂気との激しい闘争を生きたラスコーリニコフだが、流刑地シベリアでは尚虚ろな感覚をさらした。そこにはドストエフスキーの不条理が投影されている。ラスコーリニコフには復活が約束されていた。しかしラスコーリニコフは最終的に人間社会に復帰できたのだろうか。ラスコーリニコフは奇妙な伝染病(寄生虫 回虫)の夢を見る。破壊のシンボルである寄生虫、これを傲慢というべきなのか。ラスコーリニコフはどこまでも差別された階層、新しいエルサレムへの入場を拒否された者同士の連帯に可能性を見ていたのだろうか。それはドストエフスキーの完成された青春だったのだろう。ラスコーリニコフは世界と社会の不正に真剣に怒っていたからこそ、フーリエ社会主義とかナポレオン主義とかいう理論を求めたのだ。世界の没落ないしは世界の破壊によって傷を負った一人の人間の再生が可能になるなら、人間の復活はきわめて恣意的である。神は不用である。そうではない、生命の欲望こそが一つの究極の救済の原理として提示された。ラスコーリニコフはソーニャを連れ添って、12月にシベリアに旅立った。それはドストエフスキー自身のシベリア行きと同じ月であった。


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