文藝散歩 

シュメル文明と神話の世界


小林登志子著 「シュメルー人類最古の文明」 中公新書(2005年10月)
 岡田明子・木林登志子著 「シュメル神話の世界」 中公新書(2008年12月)

これらの本は歴史であって、文藝というジャンルではないかもしれないが、古代文明の世界はわからない事が多く、特に神話は事実か想像か分らない部分があるのであえて文藝作品扱いした。西欧の文明はギリシャに始まると理解する向きも多いが、西欧文明をキリスト教文明と解すれば、旧約聖書「創成期」に描かれたその記憶はシュメル文明は紀元前3500年(広義のチグリス・ユーフラテス文明のウバイド文化期もいれると紀元前5000年)まで遡る。この古代シュメル文明は人類最古の「都市文明」であり、インダス文明は紀元前2600年から、中国の「黄河文明」が紀元前2500年(竜山・夏王朝から17世紀の殷王朝へ続く)から、ナイル文明が紀元前3000年からと、四大文明の中でも最古の文明である。私達はシュメル文明について粘土板に書いた「楔形文字」を持つ都市国家と習った。チグリス・ユーフラテス河に挟まれたシュメル都市国家群は今のイラクの領域と一致する。勿論今のイラクの民族はアラブ人(西部セム系人)であってシュメル人ではない。その古代文明の栄光の民族の住んだ地が、古くはイギリスに分断支配され、いまやアメリカ軍の戦車と爆撃機で廃墟となっているのを見るのは辛い事である。シュメルの最大の領域は今のイラク、シリア、サウジアラビア北部、イラン西部、トルコ南東部に及び、地中海からペルシャ湾までを支配したという。

「起きるべきほどの事はすでにシュメル社会では起きていた」という。平家物語でも平重盛は「見るべきことは見た」といって、潔く死に臨んだというが、人類の歴史もそれから何千年もたっているが、進歩したのは技術だけで、さしたる社会の進歩はないようだ。相変わらず貧富の差と支配者と被支配者の階級分裂、戦争と民族の栄枯盛衰を繰り返しているだけだ。まずざっと古代メソポタの文明について触れておきたい。旧約聖書の「創世記」に「ノアの大洪水」という伝説が書かれている。水は農耕生活に多大な恵みをもたらしたが、一方洪水はすべてを洗い流した。旧約聖書の舞台のイスラエルには大洪水を起こすような大河はない。大河とはチグリス・ユーフラテス河のことである。両河はトルコの高原に源を発し、両河に挟まれた土地を意味する「メソポタミア」がペルシャ湾まで広がっている。メソポタミア北部(現在のバクダットより北)を「アッシリア」といい、南部を「バビロニア」と呼んだ。バビロニアはさらにニップル市を境に北部を「アッカド」といい、南部を「シュメル」に分かれる。

シュメル人に先立ってバビロニア南部に入ったのは、紀元前5000年前のウバイド人であるという。ウバイド人はシュメル人ではないかといわれるが分らない。紀元前8000年ごろから原始農耕が始められたが、ウバイド文化期(前5000−3500年)には灌漑農耕に進歩していた。「彩土土器」がその時代の遺跡から出土している。考古学の発掘調査により、ウル遺跡から紀元前3500年前の大洪水層が発見された。この大洪水の後にバビロニア南部にシュメル人が侵入した。「洪水伝説」は紀元前3世紀のバビロン市のベロッソスが著わした「バビロニア史」や紀元前13世紀代のアッカド文学の傑作「ギルガメシュ叙事詩」でも神々が人間の増長を懲らしめるために起こしたといわれる。

シュメル人は人種は不明であるが、紀元前3500年ごろに「ウルク文化期」を、そして紀元前3000年ごろ「シュメル文明」を生み出した。ウルク文化期(前3500-3100年)には都市国家文明の時代を迎えた。都市は神殿を中心として城壁を持ち、支配階級や神官、商人、職人が住んだ。円筒印章やリムーヘンレンガが登場し、絵文字として「ウルク古拙文字」を生んだ。この時期から「ウルムの大杯」が出土している。前3000年紀はバビロニア全域に都市国家がひろまり、ジェムジット・ナスル期にはじまり、初期王朝期、アッカド王朝期、ウル第3王朝期が勃興した。南部のシュメル人と北部の東方セム語族のアッカド人は人種は違うようだが、互いに友好的でこの二つの民族が交代して紀元前3500年から2000年までの1500年間王朝を維持した。これをシュメル文明という。

初期王朝期(前2900−2335年)の都市国家の勃興は「シュメル王朝表」が楔形文字で粘土製角柱に記されており、5王朝8王のあと大洪水があったと記され、その後20王朝135人の王と君臨した年数が記されている。ラガシュ市の遺跡からシュメル王朝の行政文書が発掘されシュメル人の支配が実証された。ラガシュ市は複数の神の地区からなる都市国家であり、前2500年からの王統9代が記されている(ウルナンシェ王朝とラガシュ王朝)。

シュメル人の都市国家の分立を終らせ、メソポタミア南部に統一国家をもたらしたのはアッカド王朝(前2334−2154年)の初代サルゴン王であった。アッカド王朝は第5代シャル・カリ・シャリ王の時グディ人に亡ぼされた。

その後アッカドの地で混乱が続くとき、南のシュメルの地でウルナンムがウル第3王朝(前2112−2004年)を興した。ウルナンム王は「ウルナンム法典」の発布など「正義の王」といわれたが、第5代王の時に東方のエラム人が侵略して亡んだ。

それ以降シリアのセム系民族のアモリ人が乱入してイシン・ラルサ時代となったが、バビロン第1王朝(前1894−1595年)の第六代ハンムラビ王が混乱を終らせた。ハンムラビ王は「ハンムラビ法典」という古代最大の法典を作った。イシン・ラルサ時代とバビロン第1王朝期をあわせて「古バビロニア時代」という。

カッシート人がバビロニアにバビロン第3王朝(前1500−1150年)を興した。その後南メソポタミア地方(バビロニア)にはイシン王朝や新バビロニア王朝(前625−539年)ができた。新バビロニア王朝は紀元前550年アケメネス朝ペルシャによって亡んだ。

一方メソポタミア北部のアッシリアには古アッシリア時代(前2000−1600年)、新アッシリア帝国(前1000−609年)が勃興した。アッシュル・バニパル王の時代に新アッシリアの領土はエジプトまで及んだが、新バビロニア王朝連合軍によって亡んだ。

前331年にはマケドニアのアレクサンドル大王がバビロンに侵入しアケメス王朝は亡んだ。こうしてメソポタミアはヘレニズム時代へと移り変わった。ここまでの年代と支配王朝を示して理解の助けとしよう。シュメル文明時代は背景色を赤として示した。

古代メソポタミア南部の歴史年代
西暦支配王朝備考
紀元前5000年ウバイド文化期(5000-3500)灌漑農耕開始
紀元前3500年シュメル文明始まり
ウルク文化期(3500−3100)
都市文明成立
ウルク古拙文書
円筒印章出現
紀元前3000年ジェムデト・ナスル期(3100−2900)
初期王朝時代第1期ー第3期(2900-2335)
アッカド王朝(2334-2154)
ウル第3王朝(2112-2004)
エラム人の侵入でシュメル文明亡ぶ
ウルクの大杯
ウル古拙文書
シュメル語楔形文字整備(2500)
サルゴン王がシュメルとアッカドを統一
ウル第3王朝弱体化しラル王朝、イシン王朝並立
紀元前2000年古アッシリア(2000-1600)
古バビロニア時代(1894-1595)
カッシート王朝(1500-1155)
中期アッシリア王国(1400-1000)
イシン第2王朝(1157-1026)
バビロン・ハンムラビ法典(1750)
ギルガメシュ叙事詩誕生(1200)
紀元前1000年新アッシリア帝国時代(1000-609)サルゴン王朝
新バビロニア帝国(625-539)
アケメネス朝ペルシャ時代(550-330)
アレクサンドロス大王バビロン入城(331-323)
アケメネス朝ペルシャ滅亡(330)
ヘレニズム時代へ
サルゴン王、アッシュル・パニパル王
バビロニアのナボポラッサルが南メソポタミア統一
ネブカドネザル王「バビロン捕囚」(604-562)
ギリシャとペルシャ戦争(500-489)
ベロッソス「バビロニア史」(BC3世紀)

古代オリエント学というと必ず三笠宮崇仁氏を思い浮かべる。探検隊として何度も新聞の紙上をにぎわしていたからだ。筆者の岡田明子氏は早稲田大学文学部卒業、現在はNHK学園「古代オリエント史」講座講師で、専攻はシュメル学、美術史だそうだ。小林登志子氏は中央大学文学部卒業、古代オリエント博物館研究員をへて、現在NHK学園「古代オリエント史」講座講師で、専攻はシュメル学である。この二人は同じところで働く研究者であろう。岡田氏のほうが先輩格である。私は岡田明子・木林登志子著 「シュメル神話の世界」のほうを先に読み、その文明の歴史を知りたく思って、小林登志子著 「シュメルー人類最古の文明」を読んだ。そしてこの2冊の本を同時に読むことでシュメル文明のことと、旧約聖書の記憶である古代メソポタミアの世界、そして現在のアラブ社会の中東情勢について思いを馳せたい。


小林登志子著 「シュメルー人類最古の文明」 中公新書(2005年10月)


ウルク文化期からシュメル文明へ:  楔形文字  ウルクの大杯 印章

前2004年にシュメル王朝が亡んで、シュメール人の行方は分らなくなったが、シュメル語は確かに前6世紀の新バビロニア時代までは法律用語や宗教用語として継承されてきた。最古の文字はシュメルで生まれた。よく知られた楔形文字ではなく絵文字である。生まれた場所はウルク市であった。旧約聖書にエレクという名で登場する。叙事詩「エンメルカルとアラッタ市の領主」に絵文字の誕生が記されている。ウルク市は遠くイラン高原のアラッタ市から宝石「ラピスズリ」を購入する交易を行っていた。貨幣は銀である。その交易記録を残す必要から文字を生み出したという。最古の文字は紀元前3200年頃の絵文字であり、「ウルク古拙文字」であるが、前8000年前に「トークンとブッラ」という小型粘土型と球形の入れ物があった。前4400年ごろにはトークンは多様化し、明らかに物を表現している。羊、牛、犬、パン、油といったものが解読された。トークンを柔らかい粘土板に押し付けて商取引の記録としたのであろう。トークンから絵文字が生まれ、押し付けるのでなく線で書いたと思われる。ウルク市の紀元前3100年ごろの地層から古拙文書800枚が発見された。中国で甲骨文字が生まれるのはこれより1800年もあとのことである。蘆ペンで粘土板に文字を書く楔形文字に進化し整備されたのは前2500年ごろで、表語文字だけでなく表音文字も表した。シュメル文字は約600文字である。前14世紀の「アマルナ時代」にはオリエント世界の共通語として使われ、ついには単音文字も整備された。古代オリエント世界の言語(アッカド語、エラム語、古代ペルシャ語など)は全てシュメル文字の借用であった。今の英語みたいな地位である。

ウルク市のエアンナ地区発掘においてジェムデトナスル期(3100−2900)の宝物庫から、「大杯」が発見された。このアラバスターという柔らかい石で彫って出来た大杯はウルク文化期後期に作られた大杯で、目で見る宗教儀礼が彫られた貴重な考古学的発見であった。この大杯で飲む飲料はビールかナツメヤシ酒である。当時のビールは濁り酒でストローで澄んだ部分のみを飲んだという。当時の農業の豊かな稔りとエアンナ女神にささげる宗教儀式を描いた文様である。杯の文様は3段から構成され、下段はナツメヤシと麦を交互にえがいて、豊かな農作物の実りを表し、上に雄羊と雌羊を交互に描いて畜産の豊かさを表している。中段には供物を入れた2種類の容器を捧げ持つ剃髪した裸の神官の行列を表す。上段は複雑な内容を描いているが、王が豊穣を神に感謝する場面を描いている。供物には牛二頭、羊二頭、大杯2個、小麦を盛った容器2杯、果実などを盛った高台2杯、動物の頭などからなり、エアンナ神の象徴である蘆の吹流しが二本立っている。人物が一部欠損して王らしい人に神官が容器を運び、女神官もいる。秋の新嘗祭か新年の儀礼かもしれない。

歴史学では書かれた第1級史料のほかに、文献資料がないときには図像などの考古学史料も重要である。円筒印章に刻まれた図柄と楔形文字によって重要な歴史史料となる。円筒形の石材に陰刻で図柄を彫り、柔らかい粘土平面上に転がして図柄を転写する印章である。封印する場合の封泥から発展したもので、荷物や蔵の封印のほかに開運魔除の護符や布を止めるピンのアクセサリーとしても愛用された。アッカド王朝を興したサルゴン王の刺殺を依頼したルガルザケシの手紙(粘土板)が封筒(粘土の箱)に入れてあったことは有名な話である。手紙にも読まれないように封印がされていたのである。いままで発見された円筒印章に描かれた内容を列記しておこう。
1) ウルク市行政印章: ウルク市の都市神であるイナンナ神の象徴である葦束の吹流し、王が持つロゼット文はナツメヤシの聖樹、雄羊が二頭という文様は神殿内部の儀式を示している。
2) 蜘蛛の図柄と機織の図: ジェムデト・ナスル期の様式化された蜘蛛の文様は機織の女神ウットウと関係する。また3人の女性が機織をしている場面もある。
3) 神殿参詣と交合の図: ジェムデト・ナスル期のウル王墓から出土した。神殿の前に立つ女性と上には男女交合の場面が描かれ、豊穣祈願の象徴である。
4) 饗宴の図: シュメル初期王朝時代のウル王墓から出土した。上段には二人の男がストローでビールを飲み、女性二人が杯を持つ。下段には牡牛の飾りのついた竪琴を演奏する多数の女性像が描かれている。
5) 闘争の図: シュメル初期王朝時代のウル王墓から出土した。キシュ王メスアンネパダと楔形文字で書かれ、雄羊を持つ英雄が中央にいて獅子二頭が噛み付いているがその意味は分らない。
6) ラガシュの王ルガルアンダ王妃の闘争図: 最上段に上と同じ闘争の図が描かれ、持ち主が楔形文字で書いてある。中段は英雄と植物、下段は牛人間、ライオン、英雄らがひしめいて彫られている。
7) メルッハの水牛: アッカド王朝のシャル・カリ・シャリ王という銘が入っている。足元に水波紋が書かれ水牛二頭と流水を出す壺を持ったラフム神が描かれている。灌漑農耕を守護する神の絵である。
8) 神々の勢ぞろい: ラガシュ市の書記アドダの持ち物。左から弓を持つニヌルタ神、中央はナツメヤシの房をもち勝利の翼を広げるイシュタル(イナンナ)神、下に山から顔を出す太陽神ウトウ、右には水を噴出している水の神エアー双面の神ウスムが彫られた護符である。さぞご利益があったことだろう。
9) エタナ王: キシュ市の王エタナが鷲に乗って空に上る絵、羊3頭と羊飼い、乳を攪拌してチーズを作る男など酪農の様子が彫られている。
10) ウル第3王朝紹介されるグデア王: 剃髪したグデア王の手を引いて個人神ニンギュジダが豊穣神ニンギルス神に紹介する場面である。王の後ろにラマ女神が守護している。

シュメル初期王朝時代: 都市国家の戦争 エンメテナの改革

人間社会に支配者階級が出来ると戦争は手っ取り早い富の略奪手段である。新石器時代の八スーナ文化期(前6000−5000)のテル・エス・サワン遺跡の周濠や城壁は敵の襲来を防ぐもので、灌漑農耕の開始とともに土地争いが起きたのである。前2900年頃に始まるシュメル初期王朝時代は、都市国家間で覇権をめぐり、或いは交易や領土争いが絶えない戦国時代であった。初期王朝時代は4期に分けている。
第T期(前2900−2750)
第U期(前2750−2600)
第VA期(前2600-2500)   ラガシュ市とウンマ市の争い
第VB期(前2500- 2335)
ウルク文化期の円筒印章にも戦争の図を描いているが、前2600年頃のウル王墓の発掘から出土した「ウルのスタンダード(旗章)」という長方形の箱の両面に戦争の場面と饗宴の場面がモザイクパネル(小石を埋め込む)で描かれている。戦争の場面に入る前に、ウル王墓の出土品には、ロゼット文の付いた木や牡牛の頭の飾りを付けた竪琴、ロゼット装飾品などが出ている。また王墓には戦士や牛や戦車や男女など殉死者60人の骨が見つかっている。「ウルスタンダード」の「饗宴の場面」は3段のパネルであり、上段は王と六人の高官が酒盃を持ち牡牛の飾りをつけた竪琴を演奏する人らがいる。全員が剃髪した姿であるのは宗教的意味を持つ儀式であるようだ。中段と下段には剃髪していない人々が牛2頭、羊3頭、馬4頭、ロバ4頭と魚を持つ人、供物の袋を担ぐ人々合計22人が描かれている。「戦争の場面」の下段のパネルには、4頭の馬が牽く4輪の戦車に二人の戦士が乗り、馬の下には戦死者が横たわっている。絵には槍を持つ戦士はいるが弓を持つ戦士はいない。中段には鋲を打った鎧に身を固めた裸足の兵士8人が手斧を持って進軍している図である。上段は破損して見えない。王のことを地域によってルガル、エン、エンシと呼んだようだが、しだいに各都市の支配者をエンシ、全土の王をルガルというように階層化された。王らは自分の治世時代の功績を誇るために「王碑文」を石に刻んだ。最古の戦争記録「エアンナトゥム王の戦勝碑」(「禿鷹の碑」)が有名である。初期王朝時代第VA期の前2500年ごろ、ウルナンシェ王朝(ラガシュ市)のエアンナトゥム王の頃にはシュメル語楔形文字の正字法が整い、ラガシュ市とウンマ市の戦争記録である「エアンナトゥム王の戦勝碑」はその正字法の典型として役立っている。完全であれば高さ1.8m、幅1.3mと推測されるが、今は断片しか残っていない。日本で言えば保元・平治戦記物語絵巻のような戦争の絵である。ラガシュ市の都市神はニンギルス神、ウンマ市の都市神はシャラ神が先頭になって闘う絵である。槍と盾をもつ密集戦団であったようだ。ラガシュ市とウンマ市の戦争は長く続き、多くの王碑が買ったり負けたりの記録を残した。

初期王朝時代第VB期にウルナンシェ王朝(ラガシュ市)のエアンナトゥム王の子で第5代エンメテナ王が立った。ウル遺跡から神殿に納められた丸彫りの石像が発見され、高さは76cmで頭部はなかったが背中から腕にかけて彫られた文字によってエンメテナ王立像である事が分った。羊毛の房の舌状になったカウナケスという腰衣を巻き、胸に手を組み合わせる祈祷の像である。文によると「エアドダ神殿を建立したエンメテナは、個人神シュルウトゥルによりエンリル神に向かって祈る」となっていた。エンメテナ王碑には市民に自由をという改革を行ったと書いている。その前にシュメルの社会階層はどうなっていたのかというと、シュメル社会は身分制社会であり、奴隷がいた。「債務奴隷」、「犯罪奴隷」、「購入奴隷」、「捕虜奴隷」、アマルドという去勢された若者もいた。エンメテナ王は神殿落慶記念に奴隷解放を行った。前22世紀アッカド王朝のグデア王もラガシュ市の奴隷解放をおこなった。奴隷解放については「旧約聖書」「レビ記」にも記載がある。シュメル語で書かれた最古の法典「ウルナンム法典」はウル第3王朝ウルナンム王(前2112−2095)の息子シュガルの頃に整備されたという。序文と30条が復元されており、殺人、傷害罪、奴隷の結婚、暴行と妻の不倫、離婚、農夫の責任などである。殺人は死刑であるが、傷害についてはハンムラビ法典(前1750年)のような「目には目を」という報復主義はとらないで、金銭で解決する賠償法であった。

アッカド王朝: サルゴン王 学校

アッカド王朝(2334-2154)のサルゴン王第四代ナラム・シン王の青銅製頭部像がニネヴェ市のインシュタル神殿で発見された。彫りの深い美しい文明人の顔である。旧約聖書「創成記」には古代オリエントの民族を、言語によってセム族、ハム族、ヤフェト族に分類した。アラブ人は南方セム族であるが、アッカド人は東方セム族でいつからバビロニアに侵入したかは分らない。アッカド市は旧約聖書ではニムロド王の町と記されている。サルゴン王はシュメルとアッカドの統一を成し遂げ、地中海からペルシャ湾まで土地を支配した。「真の王」と呼ばれ5400人の常備軍をもつ強力な軍事国家であった。共通語はアッカド語として、シュメル語は表音文字として使用した。書き言葉としてのシュメル楔形文字はラテン語のような文学や教養のための文字となった。第四代ナラム・シン王は初めて自ら神格化した。ナラム・シンという名は月神シンが最愛するものという意味である。イランのスサ市の発掘によってナラム・シン王の戦勝碑が見つかった。ナラム・シン王がイラン高原にいたエラム人を征服した時の戦勝碑で、王自ら弓矢を持って、サンダルを履いて山を登る図が描かれている。アッカド王朝は180年続いたが、山の民グティ人の侵入によって亡んだ。アッカド王朝の後半五代の王の時代は混乱を続け誰が王なのか不明であったという。グテイ人の支配を終らせたウトゥヘガル王が七年間支配したが、シュメル人ウルナンム王がウル第3王朝を建てた。古代バビロニアには高貴な支配者シュメルと優れた国アッカド(ウリ)、豊かな国マルトゥが全世界で調和しエンリル神を祭ったとされている。つまりシュメルとアッカドとマルトゥは民族的には違うが同一の言葉で同一の神をまつる民族で、まとめてシュメルと呼んでいい。ここバビロニアをシュメルの中華とすると、トルコ高原やイラン高原や、南の砂漠のアラブ人は蛮族である。

アッカド王朝初代サルゴン王の娘エンヘドゥアンナ王女は最古の女流文学者であった。ウル市で発掘された「奉納円盤」はひどく破損しているが、4段のジクラドの祭壇前に神官が水を注ぎ、二人の侍女を従えて目鼻立ちのくっきりしたエンヘドゥアンナ王女が祈る図がある。「シュメル神殿賛歌集」の編集者はエンヘドゥアンナ王女と書いてあり、また彼女は「イアンナ女神賛歌」も作った。当時の王および市民の識字率は極めて低かったようだ。帝王でさえ字を読めないのだが、文字の読み書きは役人の仕事であった。役人養成学校がマリ遺跡から発掘された。学校は「文字板の家」エドゥブバといわれ、整然と並んだ机、図書館、教科書、文書庫などがみられる。学校で教えたのは、歴代の神と王の名、シュメール語の読み書きと60進法の計算法などでかなりの詰め込み教育だったようで、学生は将来王宮に入って役人となるエリートであった。暗記物の設問式教育はなぞなぞ式に教えた。楔形文字は一字一字何回も習字した文字板が残っている。土地の面積計算法は60進法で、現代人には複雑で分りにくい。「学校時代」、「父親と息子」、「口論する二人の生徒」といった作品から当時の学校生活がうかがい知れる。学校には弁当持参で、宿題を間違ったり、シュメル語の発音が悪いとか字が下手だと先生の愛の鞭が飛ぶ。先生を自宅に呼んで饗応すると、先生の態度がコロッと変わるなどはあまり褒められた話しではない。ニップル市の学校には図書館が付属しており、60冊の「書名目録」が存在したが、現在残る作品は20に過ぎない。時代は大きく下るが新アッシリア帝国(前1000-609年)サルゴン王朝のアッシュル・パニパル王はニネヴェの王宮内に図書館を持ち、各地より粘土板4万枚を収集した。文化事業に熱心な王がいて古代バビロニアのシュメル文明が伝えられた。

ウル第3王朝: 神々の世界 ジクラトとウルナンム法典 シュメルの滅亡

前22世紀グティ人の侵入によって、アッカド王朝の支配力は第5代シャル・カリ・シャリ王の時代から11代までまったく衰微し、実質支配する王朝はなかった状態であった。その混乱期にラガシュ市のグデア王がペルシャ湾の交易で栄えた。グデア王は自分の石像を30体以上作らせた。丸顔で太い眉、大きな目、太い鼻のグデア王は「ミスターシュメル」といわれた。グデア王の像には衣服の前後にシュメル語で王碑文が彫られている。欠損が多い「グデア王の碑」には「神への紹介」の場面が描かれている。礼拝者はグデア王で、都市神ニンギルス神に紹介するのは個人神ニンギシュジダ(ヘビ神)である。王は必ず個人神を持ち、自分と一族の現世利益と守護を願った。そのほかにさまざまな合成獣が存在した。蛇神ニンギシュジダ、竜ムシュフシュ、霊鳥アンズーなどである。グデア王はラガシュ市の都市神ニンギルス神のためにエニンヌ神殿を建立した。その神殿の設計図を抱えるグデア王の像も残っている。都市神の上にはシュメル全体の最高神がいる。エンリル神というのだが、最高神にも変遷がある。最古の最高神はエンキ神であったが、引退して前3000年ごろアン神が最高神となった。エンキ神の子には天空神アン、月神ナンナ、太陽神ウトゥの3柱がいたが天空神アンが最高神となった。天空神アンから風神エンリル神に政権が移譲された。これには農業の発達が地上の神に権力が移ったとする説がいわれる。神の最高意思決定機関は、神話「大洪水伝説」に書かれたように、アンを議長とする7柱の会議であった。決定事項はアンとエンリル神の名で出され、エンリル神が執行するという。会議によって地上の国家の滅亡や異民族の侵入はエンリル神の判断で決められた。中国の王朝交代における天命説すなわち革命である。

アッカド王朝の滅亡後、前2112年にシュメル人のウル第三王朝ができ、中央集権制をさらに発展させた。シュメル人が建てた最初にして最期の統一王朝であるウル王朝は5代約100年間の王朝で、王の名は初代:ウルナンム、第2代:シュルギ、第3代:アマル・シン、第4代:シュ・シン、第5代:イッビ・シンである。ウル第三王朝は地中海からイラン高原まで支配したが、本拠はシュメル・アッカドの地すなわちバビロニアであった。中央集権制であるが故に行政経済文書がすこぶる多く、これまで4万枚が公判されたがまだ多くの文書は未解読のままである。王朝の威厳を示すジクラド(聖塔・祭壇)を「ウルナンム王の碑」に残した。残っている石灰岩製の碑は高さ1.5mである。最上段には月神ナンナ神、その后ニンガル神の間にウルナンム王が描かれ流水の壺を持った飛天が配されている。2段目には月神ナンナ神とニンガル女神に紹介役のラマ女神に手を引かれたウルナンム王が聖樹の儀式を子なっている図である。神の手には王杖と縄が置かれている。宮殿建設のためであろう。第3段目には欠損が多くてよく分らないが、工事道具を担いでジクラド修復に出かけるウルナンム王が描かれているようだ。第4段目にはジクラドの階段を登る、頭にレンガ材料を入れた籠をのせた人夫の行列の姿である。

初期王朝時代(前2900−2335年)ラガシュ市では行政経済文書では年を治世年数で表記していたが、しだいに前2400年より「エンシャクシュアンナがキシュ市を攻略した年」という風に、前年におきた重要事件で年を表記するようになった。こういう年名表記だと王朝の業績や歴史的事件が分かりやすい。ウルナンム王時代の年名もわかっている。それによるとウルナンム王の業績は1.ニンブラガ神神殿の基礎が置かれた年、2.イシュクル神の女神官を占いで選んだ年、3.ウル市の城壁が建られた年、4.ア・ニントゥ運河が掘られた年という風に記されている。ウルナンム王ガ修復したジクラド・聖塔は三層で高さ21mであった。ジクラドは都市を特徴付ける聖塔で遠くから見ることが出来るので、新バビロニア時代(前625−539年)の聖塔は8層からなるように、だんだんと高くなりついに神の怒りに触れたというのが旧約聖書「創世記」に書かれた「バベルの塔」のモデルである。ウル第三王朝の衰退は早かった。ジクラドどころか城壁を整備し、アモリ人の侵入を防ぐためバクダットの北方にシュメル版「万里の長城」が建設された。第5代イッビ・シン王(前2028−2004年)の時代には東方からエラム人、西方からアモリ人の侵入が続き、農作地の塩害で大麦の周各位が激減したという。将軍イシュビ・エラが叛いて第5代イッビ・シン王を亡ぼし、イシン第1王朝(前2017−1794年)を樹立した。

こうしてシュメル人のウル第三王朝はエラム人の侵入の中で亡んだが、その後アモリ人などのセム語族の中に埋没していったと見られる。アモリ人のイシン第1王朝(前2017−1794年)、ラルサ王朝(前2025−1763年)、バビロン第1王朝(前1894−1595年)などが分立した。将軍イシュビ・エラが建てたイシン第1王朝(前2017−1794年)はシュメルのウル第三王朝の後継者を任じて、王碑文や賛歌、法典などのシュメル文化を伝えた。日常語はシュメル語ではなくアッカド語に変わった。行政文章にはシュメル文字が用いられたが、その後の宗教や法律用語に生きていたシュメル語も新バビロニア時代(前625-539年)にはついに廃止された。王の腰に挟まれた葦ペンもペルシャ文明の到来(前330年)で不要なものとなった。


岡田明子・木林登志子著 「シュメル神話の世界」 中公新書(2008年12月)


シュメル文明の歴史などについては前の書 小林登志子著 「シュメルー人類最古の文明」に説明したので本書の解説は全て省略する。シュメル文明や古代メソポタミア文明はキリスト教徒の西欧人にとって旧約聖書の世界から地続きで進んでゆけるようである。今日の西欧人の精神世界を支えている聖書にさえ、シュメル神話との関連が指摘される部分が多く見受けられる。紀元前3000年ごろシュメル社会の精神生活を支える神殿機構を中心に形成されたのが、神々の活躍を描いた「神話」であった。その文化圏に住む人にとって、神話は「住民が守るべき規範」として承認され、生活全般を律していたようである。シュメル神話の根底には神々が定めた「神意」という掟が存在し、それがシュメル社会の守るべき規範であった。神の原型は勿論自然物の霊からきている。自分達の生活を可能とする自然神を崇め奉り、豊穣祈願をすることは極く当たり前のように発生した。これは「大地母神」信仰といって、どの民族にも共通している。ところがシュメルの神々に特徴的なことは、「都市神」という「都市国家」の繁栄を守護する神がいたことである。シュメルの神々の階層区分によると、神々の頂点に「最高神」がいて、都市国家ごとに「都市神」(都市の守護以外にも属性を持つ)があり、王の守り神として「個人神」が、そして支配者の王が神格化した「現人神」がいるという4層構造である。図像において神の格は冠の上の角の数で区別し、大いなる神は何対もの角を有し「現人神」は1対の角で区別している。最高神も支配民族によって歴史的に変化し、シュメル・アッカド時代の最高神は古くは天空神「アン」で次が大気神の「エンルリ」、古バビロニア時代(前2000年以降)にはバビロンの都市神「マルドゥ」、北の古アッシリア(前2000−1600)ではアッシュルの都市神「アッシュル」が司った。楔形文字で神を表す時には「神印」として名前の前に「ジンギル印」*マークがつく。ウル第三王朝時代に作られたといわれる「シュメル王朝表」に書かれた王の名前のまえに「ジンギル印」*マークがつくとこの王は神格化された王である。「シュメル王朝表」は洪水前と洪水後とはっきり王朝を区分して書いている。洪水前の王朝は年代が桁違いに長く、どうも記憶の定かでない伝説上の話らしい。日本の古事記でも倭の五王以前の天皇の在位期間が徒に長いのもおなじような曖昧さを隠すための方便であろう。シュメルの本格的な歴史時代は洪水後にくる。シュメール・アッカドの神々のリストを下の表に記す。今後何回も神話に出てくるので参照して欲しい。

シュメルの文学作品は粘土板に刻まれ、神話は詩の形式で書かれている。詩の形式は言語・民族によって異なるのは当然であるが、漢詩では脚韻、古代ギリシャでは韻律(リズム)、英語では脚韻である。日本では短歌・俳句・古文などは五七調であり、押韻は駄洒落の世界である。シュメル語の詩の文体は、数行が少しずつ言葉を変えて繰り返す「重複文形式」が根底にある。同じことの繰り返しが単調なリズムをうむのであろう。従ってシュメルの詩は長い割に内容が少ない。要約してまとめる。

シュメル・アッカドの神々
シュメル神名アッカド神名属性都市名・神殿
アンアヌ天空神・最高神ウルク・ジクラド白神殿
エンリルエンリル大気神・神々の王ニップル・エクル神殿
エンキエア水神・知恵の神エリドウ・エアブス神殿
イナンナイシュタル愛と豊穣・王権の守護神ウルク・ジクラド
ウトゥシャマシン太陽神・正義の神シッバル・エバッバル神殿
ナンスシン月神ウル・エキシュヌガル神殿
ニンフルサグニンフルサグ太陽母神アダブ・エマフ神殿
ニンギルスニヌルタ戦闘神・農業神ラガシュ・エニンヌ神殿
エレシュキガルエレシュキガル冥界の王クタ
メスラムタエアネルガル冥界の王クタ・エメスラク神殿
ニサバニサバ穀物神・書記の守護神エレシュ


「エンキ神とニンマフ女神」ー「創世神話」

「天地創造」は「古の日々に、古の日々に、天と地がつくられたとき」と簡単に済ませている。天と地はもともとあったと考えよということである。そのうえでシュメルの神々が生まれた。次第に神々の数が増えるに従い、神は食糧を得るために働かなければならず、低位の神々にはきつい労働が課せられ神々は不平を言い出した。そこで原初の女神ナンム神は息子のエンキ神に身代わりを造るよう訴えた。エンキは神の身代わりになる人間を創造し働かせる事にした。こうして神々は辛い労働から解放されエンキの知恵を褒めたたえた。ニンマフ女神とエンキ神はビールを飲んで酔っ払い、ニンマフ女神が粘土から作り出す不具の人間にエンキ神は次々と適切な仕事を与えて社会で生きられるようにした。逆にエンキ神が創る不具の人間にニンマフ女神は適切な任務を与える事が出来ず、人々はますますエンキ神を褒めたという話である。別の物語「エンリル神と鶴嘴の創造」にも「創世神話」がある。エンリル神は鶴嘴と人間を作って、神々に割り当てた。つまり都市を建設するために人間が作られたという話である。シュメル人は「人間は働く者」であるというのが人間観であり、労働観であった。人間が粘土を材料として作られたという話はメソポタミアの農耕を表現している。旧約聖書「創世記」にもアダムは土から作られたことになっていてシュメル神話を引き継いでいる。アダムはエデンの園のリンゴを食べて神の怒りをかい、死ぬまで働く事を命じられた。これが人間の原罪だそうだ。面白いことに日本の古事記には「天地創造神話」はあるが、「人間創造神話」はない。

「創世神話」で注目すべき事は、シュメルでビールが飲まれていたことと、障害者や弱者保護の社会正義があったということである。神々が酔っ払って人間を作ったから障害者が生まれたので、神は責任を持って適切な仕事を与えるべきであるという社会正義である。ウル第三王朝の初代ウルナンム王(前2112−2095)が制定した「ウルナンム法典」にも孤児・寡婦を保護すると書かれている。

「大洪水伝説」

アン神、エンリル神、エンキ神、ニンマフ女神が人間(黒頭)を作った後、五つの都市を作った。エイドウ、バドティビラ、ララク、シュッパル、シュルパク市であるが、アン神とエンリル神の名において洪水によって人間を亡ぼす命が出された。神を敬う慎み深い ジウスドゥラ王だけにはエンキ神が情報を漏らしてやった。ジウスドゥラ王は巨大な船を作って難を逃れ、永遠の命を与えられディルムンの地に住んだという。「大洪水伝説」は「アトラ・ハシーヌ物語」や「ギルガメッシュ叙事詩」、「旧約聖書」にも殆ど同じ伝説がみられる。ウル市の発掘で紀元前3500年に大洪水があったことが、伝説の裏付けになっているようだ。「シュメル王朝表」にはわざわざ洪水を境にして歴代王の年代が記されている。洪水前の王朝年代記述はいい加減であるが、洪水後の王朝は現実味を帯び、前2334年のアッカド王朝以降は史実であると認められた。「ラガシュ王名表」でも、原初の人間がいたが大洪水で滅亡し、残った人間であるシュメル人が洪水の後で農耕社会と都市文明を作ったということになった。アッカド王朝第4代ナラム・シン王(前2254−2218)はキシュ市との戦いで、城壁を壊しユーフラテス川の水を流入させて洪水をおこしたという水攻めの話がある。「アトラ・ハシーヌ物語」や「ギルガメッシュ叙事詩」、「旧約聖書」の大洪水伝説において、シュメル人は自らを神に選ばれた民族という考えを持たなかったようだが、後代のイスラエル人は選民思想を発展させ、これが世界の紛争の種になっている。

「エンキ神とニンフルサグ女神」−「楽園神話」

ジウスドゥラ王が大洪水の後に住んだというディルムンの地は、今のペルシャ湾のバーレーンであったという。エンキ神の妻ニンフルサグ女神はディルムンの地には水がなく耕作地の実りがないとエンキ神に訴えると、エンキ神は飲料水に地下水が出るようにし、耕地には真水を灌漑して豊かな耕地に変えた。そして収穫物を蓄える倉庫は一杯になったという。ところがエンキ神はニンフルサグ女神との娘ニンニング女神と交わってニンクラ女神ができ、さらにニンクラ女神と交わってウットウ女神をもうけた。ニンフルサグ女神は亭主の浮気対策にウットウ女神に入れ智慧をしたのだが、それも簡単に破られてニットウ女神は妊娠した。ニンフルサグ女神はウットウ女神の腹から種を抜いて大地にまくと8種類の植物が出来たが、エンキ神はそれを引っこ抜いて食べてしまった。いよいよ腹を立てたニンフルサグ女神は激しい呪いの言葉を吐いて、姿を隠してしまった。病気になったエンキ神は狐に女神を探させた。見つけられたニンフルサグ女神はエンキ神に治療を施し、エンキ神の病んだ患部から次々と新しい神を創造して治療したという話である。ディルムンの地は旧約聖書の「楽園神話」のエデンであると信じられている。シュメル語の「エディン」とは野原の意味であるがパラダイスの意味が加わったようだ。古代イスラエル人は前11世紀地中海沿岸に建国し、北の王国「イスラエル」と南の王国「ユダ」の二つの国に分裂した。北のイスラエル人は前8世紀にアッシリアに強制移住させられ、南のイスラエル人はバビロンに幽閉された。前6世紀にアケメネス朝ペルシャによって解放されもとのイスラエルに戻ったが、バビロンでイスラエル人が見た都市文明は聖書にいう「バビロンの淫婦」という「悪の権化」と映ったのだ。「エデンの東」とは都市文明の腐敗を意味する。また女神が腹を立てて姿を消すと世界が不毛になるという話は、日本の古事記においてスサノオの尊から逃げたアマテラス神の「巌戸隠れ」神話と酷似している

ついでエンキ神はシュメル世界の運命(秩序)を定める。天に向かうと慈雨がふり、地に向かうと河の水量が増す、緑の耕地に向かうと穀物が豊かに実るという。エンキ神は旗艦「アブズの牡鹿」に乗ってシュメル全土に向かい各地の運命を宣告した。そして各地を委託する神を任命した。娘イナンナ女神には女性らしさと年国家の運命と戦場の占いの仕事を与えた。太陽神ウトウ神がイナンナ女神の嫁入り先を心配し、農業神は降りたので牧神ドゥムジに娶わせた。イナンナ女神は戦闘の神であるので、北の山岳地帯エビフを平定した。このイナンナ女神のエビフ征服神話はアッカド王朝サルゴン王(前2334−2279)の娘エンドゥアンナの作品である。これにはサルゴン王によるアッカド・シュメル統一後に娘をシュメルの中心都市ウルの女神官として派遣した時代背景が働いているようである。

「エンキ神とイナンナ女神」ーシュメルの規範「メ」と聖舟

シュメル世界の秩序・規範「メ」を司る全知全能の神エンキの娘でウルクの都市神イナンナ女神が、エリドウに住む父エンキ神を訪問した。そして二人でビールやぶどう酒を飲んですっかりご機嫌になったエンキ神から、イナンナ女神は規範「メ」100ヶ条を譲ってもらって天の船にのって帰途に着いた。エンキ神は従神ニンシュルを使って「キ」を取り返そうとしたが及ばず、イナンナ女神は天の舟でウルクの宮殿についた。全知全能の神エンキが支配したエリドウ市は天から地へ最初の王権が下された都市で、ウバイド文化期(前5000-3500年)の頃の話である。エリドウは漁港でエンキ神は水神である。イナンナ女神の都市ウルクは都市文明と楔形文字の揺籃期「ウルク文化期(前3500−3100年)の時代である。月神ナンナ・スエン神が聖船に乗って、父エンリル神と母ニンリル神の住むニップルを訪問する神話には、船を作る材料をどこから調達したかが詳しく述べられている。この時代神々は聖船にのってエリドウかニップルに詣でた。エリドウには規範(律法)「メ」を授かりに、ニップルには贈り物の交換に出かけたようだ。

「エンリル神とニンリル女神」−大人の性的神話 豊穣儀礼

シュメルの最高神にして大気の神エンリル神はニップルの都市神でもある。ニンリル女神が少女であった時、母親の忠告も聞かず水浴びをしていてエンリル神の目に留まり1回の交合で月の神ナンナ・スエン神を妊娠した。偉い神々七柱によってエンリル神はつかまりニップル市を追放される。そのあとをニンリル女神が追って、変装したエンリル神と3度交わって神々を生んだ。4柱の子供を生んで、最期には正式な結婚をする。生んだ子らは月の神ナンナ・スエン神、治療の神ニンアズ神、灌漑の神エンビルル神、ネルガル神は豊穣の神である。月神を含めて4柱の神は豊穣神であって、神話は最期に豊穣を招くエンリル神賛歌となることから、これは性行為に象徴される豊穣儀礼ではないかという説が有力である。

「イナンナ女神冥界降下」

「イナンナ女神の冥界下り」の物語は「彼女は大きな天から大きな地へ心を向けた」で始まる。愛と豊穣と戦いの女神イナンナ女神は、姉エレシュキガル女神が支配する冥界の支配を企んだようである。精一杯着飾って冥界の7門を突破したが、エレシュキガル女神によって死に追いやられた。全知全能で水の神エンキ神はこの知らせを聞いて「命の草と水」によってイナンナ女神を蘇生させたが、身代わりを要求されつけ馬ガルラ霊と共に天界に戻った。身代わりには妻の死を聞いても薄情な牧神ドウムジをガルラ霊に引き渡すことになった。牧神ドウムジは逃げ回ったが、ガルラ霊が探し出しドウムジと彼の姉ゲシュティンアンナが交代で冥界に下る事になったというわけの分からないお話。冥界に下る女神としては日本の古事記にもイザナミがいる。イザナギが冥界に会いに行き連れて帰るとき、後ろを見たイザナギに対してイザナミが猛烈な攻撃を加えるという女神の2面性と似ているところがないとは言えない。それにしても哀れなのが牧神ドウムジであるが、姉ゲシュティンアンナは葡萄の木の女神であり、当時の農耕・牧畜生活のサイクル性と関連が指摘されている。人々は交代で農耕と牧畜生活をやっていたようだ。農閑期に乳製品の製造をやるような事かもしれない。エレシュキガル女神の夫はグガルアンナ神で運河監督者ネルガルと同一視される。死者を川に流すのはインダス川であるが、冥界と川の関係も指摘される。この哀れな牧神ドウムジ神は姿形は不明であるが、ヘブライ語アラム語ではタンムズ神と呼ばれ、旧約聖書「エゼキエル書」に農耕牧畜神として人々の敬愛する神であり、ユダヤ暦・アラブ暦にも「タンムズ月」が重要視されている。イナンナ女神、タンムズ神のように「死んで復活する神」の考えは聖書のキリストの復活に繋がっているようだ。

「大王エンメルカルとアラッタの君主」ー英雄神話

大王エンメルカルはウルク第1王朝の第2代の王であった。エンメルカルはウルクの都市神イナンナ女神にイラン高原ザクロス山岳にあるアラッタの征服を祈願した。アラッタの君主は絶対に服従を拒否したが、大王エンメルカルの使者は金銀財宝と穀物や物資の提供、不思議な王笏、毛色の変わった犬を提供する外交・経済援助戦略で屈服させた。シュメル王朝表によると、ウルク(エアンナ)はキシュの次に王権を得て、エンメルカルはウルク市を建設したという。ウルクの英雄は大王エンメルカルとギルガメシュの二人である。この神話はシュメル草創期に都市国家の商業活動が盛んであった様子と物資の豊富さを見せ付けるのである。これには蛮族の長も経済攻勢で優劣の差がはっきりと見せ付けられるのである。インダス文明との交易や、宝石を加工するアフガニスタンやイランとの交易があった。

大王エンメルカルの末子ルガルバンダを描いた「ルバルガンダ叙事詩」が前2500年ごろに作られた。大王とアラッタ攻撃に参加した末子ルガルバンダは途中病気になりひとり洞窟に取り残され、太陽神ウトウや明星神イナンナの力で回復したが、父の軍隊と合流するために山奥を彷徨する。アンズ−鳥から力を授かり父兄の部隊に合流する事が出来たというお話。これは末子ルガルバンダの王位継承を認めるための作り話であろう。誰も見たことがないからだ。

「ギルガメッシュ叙事詩」−古代オリエント最高の文学作品

ギルガメシュは古代オリエント世界最高の英雄である。実在したかどうかは分らないが冥界神でウルクの王である。「ギルガメッシュ叙事詩」はアッカド語で書かれ、原題は「あらゆる事を見たひと」となっている。ギルガメシュはウルク市の暴君であったので、神々はギルガメシュを懲らしめるため野人エンキドウを作って勝負させたが勝敗がつかず、かえって二人には友情が芽生える。そして二人は遠征に出かける。杉の森ではフンババを退治し、イシュタル女神との闘争(「ギルガメッシュ神と天の牡牛」という版は原題「戦闘の青年」という独立版もある)に二人は協力して戦ったが、エンキドウは死の運命にあった。ギルガメシュは不死を求めるたびに出て海辺につくが、船頭ウトナピシュティムはギルガメシュに人間は死すべきものと諭されるのである。このあと大洪水の話と冥界に下ったエンキドウとの対話(「ギルガメッシュ神、エンキドウと冥界」という独立版)があるが、死すべきものとして冥界は気になるのである

「ギルガメッシュ叙事詩」にはいろいろの版があり「ギルガメッシュ神とフワワ」という英雄譚では、人間は死すべきものと悟ったギルガメッシュは山へ行って名を挙げたいとエンキドウと共に「杉の山」でフワワを退治する。驚愕の霊気「ニ」を奪い取ったギルガメッシュとフワワを殺害したエンキドウは同一人物の二つの面をあらわしているようでもある。フワワはシュメルの最高神エンリルの定めた杉の森の番人であって悪魔ではない。都市と森の戦いで、いつも森が都市のために切り倒される宿命を意味しているのかもしれない。

「ギルガメッシュ神とフワワ」、「ギルガメッシュ神と天の牡牛」、「ギルガメッシュ神、エンキドウと冥界」の3編は「ギルガメッシュ叙事詩」に取り入れられたが、一方シュメル語版の3つの話は取り入れられなかった。「ギルガメッシュ神の死」と「ギルガメッシュ神とアッガ」である。大きな牡牛は横になるで始まる「ギルガメッシュ神の死」でついに死すべき人間であるギルガメッシュ神は死んだ。墓の造営と家族と側近の殉死の準備、冥界の神への贈り物などが書かれている。殉死の風俗はウル王墓の73人の殉死者の存在で証明された。「ギルガメッシュ神とアッガ」にはキシュ市のアッガ王から届いた挑戦状にギルガメッシュ神は戦争を主張しウルク市が勝ったということが述べられている。アッガ王の実在が確かなのでギルガメッシュも実在したようだという意見もある。証拠はない。いずれにせよ「ギルガメッシュ叙事詩」は華やかな英雄譚と無常の死生観が同居する日本の「平家物語」のような第1級の叙事詩文学である。

「ルガル神話」−ニンウルタ神の怪獣退治

「ルガル神話」はシュメル語で書かれた最も長い物語である。初期王朝時代(前25ー24世紀)のラガシュ市の都市神ニンギルス神の話がニップル市のニンウルタ神に変わっている。ニンウルタ神は戦いの神にして農業神であり、武器の従神シャルウルの進言によると、山岳地域の悪霊アサグが石の戦士を率いて都市を狙っているので、山への遠征を決意した。第1回目の遠征は失敗したが、エンリル神の助力でついに山の悪霊アサグと11の勇士(「アンギン神話」では11の勇士が活躍する)を退治した。そしてテグリス河の治水事業と山岳民族の侵入を防ぐ石の城壁建設事業を終え、母親ニンマフ女神を山の女主人を意味するニンフルサグ神と改名して山への備えとした。ニンウルタ神は山から奪った49種類の鉱物資源の用途手配を決めてニップル市へ凱旋した。49種類の鉱物リストというのがシュメル人の目録好きを表すようで面白い。ニンウルタ神の強い母親ニンマフ女神は「ニンウルタ神と亀」という神話にも登場する。ニンウルタ神は勇猛であったが放漫であったので災いを招くという話である。ニンウルタ神がアンズー鳥の雛を攻撃したので、その時「メ」がアブズへ行ってしまった。アブズを支配するエンキ神は攻めようとするニンウルタ神を亀と一緒に穴の中へ落として殺そうとしたが、母親ニンマフ女神が助命して助かったという話である。シュメルの戦いの神にはイナンナ女神を除いて、ネルガル神、ヌムシュダ神、ニンウルタ神などは男神である。この神話はニンウルタ神の武勇伝であり、戦いの舞台は東方イラン山岳地帯である。ニンウルタ神信仰はメソポタミア北部のアッシリアにおいて、新アッシリア帝国時代(前1000−609年)に復活して祭儀劇も演じられた。


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