文藝散歩 

戦国時代の戦記文学ー「信長公記」を中心にして


大和田哲夫著 「甲陽軍鑑入門」 角川ソフィア文庫

奥野高広・岩沢愿彦校注 「信長公記」 角川ソフィア文庫

大衆文学の話題を提供してきた戦国時代の英雄譚はじつは経営者にも人気があって、雑誌「プレジデント」は歴史書かと間違うばかりである。昔は講談を聞けば血湧き肉踊る娯楽の王様と云う単純な庶民の楽しみであった。戦術論とか妙に教訓臭くした帝王学が経営者に人気があったようだ。庶民は戦記物「太閤記」に足軽風情が成り上がる上昇志向に拍手喝采をし、経営者は自分が戦国の王候貴族になったような錯覚を楽しんだようだ。国民に絶大な人気を持つ戦国時代の戦記物語には「信長公記」、「太閤記」、「甲陽軍鑑」、「北条五大記」、「徳川実記」、「陰徳記」、「元親記」などが挙げられるが、「徳川実記」を除いてこれらはいずれも戦争がなくなった徳川時代の敗者のノスタルジアである。したがって歴史・史実であるよりは、むしろ良かった昔を回顧するものであり、敗れた者を英雄化して惜しむものである事は否めない。史実は細部で歪曲され、偽造されている。要する戦記ものは歴史ではなく文学である。その典型が鎌倉時代に著された名著「平家物語」である。誰もここに書かれた事柄を100%事実だとは見ていない。その文章とストーリーに涙を誘われるのである。日本人の好きな「無常」と「あわれ」が見事に表現されているから不滅の文学と見なされているのである。

今回戦記文学として取り上げたのは、「信長公記」である。あの奇人変人で酷薄な革命者「信長公」の全戦争記録である。あまりに完璧な記録であるため、信長公に関する歴史譚や脚本・映画のもとはこの「信長公記」によらざるを得ない。いわば信長公の起点・原点の書である。信長公を書いて飯を食った山岡荘八ら文筆家はこの書に印税を払うべきである。最初に「甲陽軍鑑」の解説書である大和田哲夫著 「甲陽軍鑑入門」を取り上げた。実は私は「甲陽軍鑑」は読んでいないが、甲斐の武田信玄の事蹟を記した書である。


大和田哲夫著 「甲陽軍鑑入門」  角川ソフィア文庫(2006年11月)

著者大和田哲夫氏は早稲田大学大学院文学研究科卒業、現静岡大学教育学部の教授で、専門は戦国時代だそうだ。母方の先祖が武田信玄の譜代家老馬場信春らしい。織田・徳川側と対峙した「甲斐相模駿府三国同盟」の今川氏・武田氏・北条氏などの立場に立った著述を行う事が多い。例えば、今川義元を従来の桶狭間で討死したというマイナスイメージとは別に優秀な政治家であると再評価している。また、従来は創作性が強く史料的価値を認められていなかった武田氏関連資料である『甲陽軍鑑』を再評価し、基本資料の一つとして積極的に活用しているなど、勝者側の織田・徳川側の史料とは別の視点の評を行う傾向が見られるそうだ。大和田哲夫氏の「甲陽軍鑑入門」を大きく次の四つに分けて解説しよう。

「甲陽軍鑑」の史料的価値

「甲陽軍鑑」というと「信長公記」に較べると史料として信憑性は数段低い位置に置かれている。「甲陽軍鑑」を偽書として切り捨てる歴史家は多いが、しかし武田信玄の人物像はこの「甲陽軍鑑」抜きには語れない。「甲陽軍鑑」の魅力はやはりその史料的価値よりも文学性にあるのであろう。その点は「平家物語」や『太平記」に近い。武田騎馬軍団の強さ、武田信玄のカリスマ性が浮かび上がってくるのである。「甲陽軍鑑」は江戸時代には甲州流軍学書として教科書のように読まれており、武田信玄と勝頼二代のことを記した家伝史料として使われてきた。

アカデミズムの代表東大教授田中義成氏は「甲陽軍鑑考」においてこう断じている。「甲陽軍鑑は高坂弾正昌信(武田家の家老)の遺記と、小幡景憲の見聞等を小幡景憲が綴輯したもので、全体を高坂昌信に仮託したもの」 なぜ偽書扱いされるかというと、随所に引用されている手紙文書が創作の偽文書である事、山本勘助の存在が原因である。たしかに信長関係の手紙が偽文書である事は明白である。そして山本勘助は実在したが信玄の側近の軍師ではなく、重臣の山県昌景の家臣にすぎなかったということである。これらから「甲陽軍鑑偽書説」が史学界で大勢を占めたのである。この偽書説に国文学者酒井憲二が反論した。結論は「高坂昌信が口述したものを、大蔵彦十郎と春日惣次郎が筆録した」という。著者大和田哲夫氏はどちらかいえば酒井氏の説に賛成してこう結論つけた。「信玄の家老高坂昌信が武田信玄の業績を顕彰する為、自身の見聞したことを記し、高坂の死後大蔵彦十郎と春日惣次郎(高坂昌信の甥)が書き継いだ原本を、小幡景憲が散逸を防ぐために整理しなおし、今日に伝わる甲陽軍鑑の原型を作った」という。甲陽軍鑑は鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」、徳川幕府の正史「徳川実紀」、織田信長の伝記「信長公記」などの歴史書の範疇には入らない。では何のために家老高坂昌信は甲陽軍鑑を書いたのであろうか。それは武田信玄の後を継いだ勝頼の寵臣長坂釣閑斎と跡部大炊助に読ませて、武田信玄の昔に帰ることを願った書である。「甲陽軍鑑が嘆異の書」であるのはそういう意味だ。

「甲陽軍鑑」本編・末書の構成と内容

「甲陽軍鑑」は本編20巻と末書4巻からなる。本編は武田信玄に関する18巻48章と、末尾に勝頼記2卷11章で構成される。本編は全59章からなり目録の最期にあとがきがある。あとがきには家老高坂弾正が「甲陽軍鑑」を「勝頼公御代のたくらべになさるべき」と云う目的で長坂長閑と跡部大炊に贈ると書いてある。すなわち本「甲陽軍鑑」は武田信玄公の功績を、勝頼公の寵臣長坂長閑と跡部大炊に「読んで参考にせよ」と言っているのである。第48章に「天正6年(1578年)高坂弾正死去の後、春日惣次郎之を書く」とあり、49章以降の「勝頼記」と「末書」は春日惣次郎が書いた事を示している。

信玄の事蹟は卷1から卷18に書かれている。筆者高坂昌信(信玄時代の家老)は信玄の時代を是として、今の勝頼の政治軍事は危なくて見ていられないという態度であった。本編が集中的に執筆された天正3年(1575年)は、武田勝頼が三河の長篠・設楽原の戦いで、信長・家康軍に敗れた年であった。この戦いの敗因は勝頼とその寵臣長坂長閑と跡部大炊にあると高坂昌信は見て、本書を一種の諫言の書として差し出したようだ。天正2年(1574年)に勝頼は遠江高天神の戦いで勝利して、おごりが見え信長・家康軍に大敗した。それ以降武田軍のジリ貧が続いて武田家滅亡につながるのである。

武田信玄は1521年に生まれ、天正元年(1572年)53歳で死亡した。信玄の幼名は勝千代、16歳で元服の時内裏より勅使が立ち、三条殿の姫と結婚、将軍家御公方義晴より名を貰って「晴信」となった。父信虎は弟信繁を嫡子と考えていたようだが、信玄は廃嫡される事を恐れて重臣岡部貞綱と、同盟関係にあり信虎の娘を嫁に貰っている駿河の今川義元と共謀して、信虎を騙して駿河を訪問させた留守を狙って無血クーデターに成功し、甲斐の国を相続した。因果はめぐるというように後に信玄の長男義信が、その傳役飯富虎昌、長坂源五郎、曽根周防守らと共謀して信玄の暗殺を謀るという「義信事件」が永禄8年(1565年)に起きた。永禄3年(1560年)今川義元が織田信長によって桶狭間の戦いで敗れたため、甲相駿三国同盟の一翼が欠けた。信玄は主不在になった駿河の国を奪う三国同盟を破棄し南進策へ傾いていた。ところが義信の妻は今川義元の娘であったので、義信と信玄の間に軋轢が生じたことがこの事件の真実ではなかろうかといわれている。信玄は飯富虎昌を殺害、長男義信を監禁した。義信は3年後に切腹した。躑躅ヶ崎館にあった義信の御殿を破壊して、そこに毘沙門堂を建設した。

「勝頼記」は、信玄公が天正元年(1572年)53歳で死亡したことから始まる。執筆者は春日惣次郎である。信玄死亡により周辺の戦国大名が攻め込む可能性や盟友北条氏政が裏切る事も考えて、3年間は喪を隠す事になった。死ぬ前に800枚の白紙に信玄の花押だけを書いておいたとされる。「死んだ信玄、戦国大名を走らす」ように信玄の偽文書が死後も発令されていたようだ。これには北条氏政の家臣板部江雪や将軍家足利義明らもまんまと騙されて信玄は健在だと信じた。信玄の遺書は3年後に「具足を着せて諏訪湖に沈めよ」ということと、家督を継ぐのは勝頼ではなくその息子の信勝(当時7歳)とし、元服するまで勝頼を陣代とするというものであった。

「甲陽軍鑑」の補足書である末書は上下合わせて4卷で、その執筆者は本編と同じく高坂弾正が殆どを書いて、大蔵彦十郎と春日惣次郎の二人が書き継いだと考えられる。ただ大蔵彦十郎の名前が文章に見えないことから、春日惣次郎だけが関係していたのかもしれない。末書上巻は19章からなり、アトランダムなメモであって、時代順に編集されてはいない。「信玄公五つの御作法」では領国経営、家来抜擢法などが示されている。何事も謀は秘密で相談するのは家老職5名、聞かせるのは譜代大名の5名に限る、叉家来の忠節・功のある者には優遇し報いる、部下の云うことを鵜呑みにしないで何度も確認する事などが書いてある。「甲州流城取りの事」では、城を築く地形、縄張り、かざし、蔀という遮蔽物や馬だしのことが書かれている。
末書下巻は本編の補足と云う性格が強い。下巻上は9目録17章で構成される。「信虎公、信玄公を憎む」とか「信玄公なされそこない」という信玄の失敗談もある。失策も隠さず記しておく態度も見られる。下巻中には9目録29章からなる。武人のあるべき姿を「弓矢かたぎ」に論述している。飯富兵部を成敗した理由として、父信虎の4家老(甘利、板垣、小山田、飯富)のうち飯富を除く3人は討ち死にして残ったのは飯富のみと云う状況で、おごりと主である信玄へのけじめが不明瞭になったことであろう。信玄にとって父以来の家老飯富が煙たくなったのである。「弓矢かたぎ」には上杉謙信、織田信長、武田勝頼、武田信玄らを取り上げて評論した。下巻下は9目録62章からなる。ここには武田の軍法のメモが書かれ、武田流兵法の教科書として格好の卷である。戦さの時の侍の階級の定めなどである。

「甲陽軍鑑」の史実の食い違いと山本勘助の実像

「甲陽軍鑑」が偽書だといわれる所以は年月日の間違い、名前の間違いが随所にでてくる事から来ている。幼名勝千代をつけた所以の飯田河原の合戦の日時が誕生後となること、元服のお祝いの朝廷からの勅使が転法輪三条ではなく正親町公叙であったこと、そして朝廷から頂いた官名が大膳大夫ではなく左京大夫であった事、元服の初陣が海ノ口攻めであったとするが、その時にはそのような戦いはなく、初陣はでっち上げ臭い事、長坂釣閑の長篠の闘い参戦など信頼性ある史書との食い違いが著しい。父信虎の狂乱、碓氷峠の合戦、信玄・謙信の川中島の決選における「三刀斬り」の立ち回り、山本勘助の活躍はどう見ても文学的虚構と言わざるを得ない。それらは「甲陽軍鑑」の執筆の動機からして頷ける事である。信玄の英雄化や長坂釣閑の悪者化にあるからだ。また「甲陽軍鑑」の最期の編纂者小幡景憲が徳川家康の禄を食んでいることから来る、記事中の徳川家康へのおべっかが見え見えである。合戦の年月日の間違いはいたるところにある。特に山本勘助からみの合戦記述には史実との食い違いが大きい。ととえば戸石崩れの戦いは6年もずれているし、信玄側の完敗に終わっている。天文15年の碓氷峠の戦いでは山本勘助が勝鬨の法螺貝を吹いたとされるが、翌年16年の小田井原の戦いを下敷きにした虚構ではないかと疑われる。なぜ山本勘助の記事に虚構が多いのかというと、「甲陽軍鑑」の執筆者に別の人間がいたのではないかと言われる。その一人が山本勘助の子供で僧であった人間らしいという説がある。「山本勘助を信玄の軍師」として活躍させる意図があったのではないか。では山本勘助なる人物の実像はどうか。

山本勘助の略歴については「甲陽軍鑑」末書下巻下に「三河牛窪の者、26歳で武者修行し10年間各地を歩く、駿河今川家では雇い入れを断られ、44歳で信玄公に召し抱えられる、62歳で川名島の合戦で討ち死にする」と簡潔にまとめてある。永禄四年(1561年)9月川中島の4回目の戦いで「きつつき戦法」で謙信の籠る妻女山の背後から謙信を追い出す別働作戦を実行するが、見事謙信に読まれており敗北して戦死した。「市川文書」で山本勘助の実在は確かめられるが、本当に信玄の軍師として、七面六肘の戦略家として活躍したのであろうか。戦国時代と云う中世と近世の出会いがしらにおいて、信玄は一、二を争う占筮によって軍事行動を決めていた武将であった。軍師にも2つあって、参謀的軍師(家老が参謀を兼ねる、身分の低い者は参謀になれない)と呪術的軍師つまり軍配者であった。信玄の軍配者には当時小笠原源与斎など数名がいたようである。単なる風水のような方向占いとは違い、陰陽五行説をも取り入れて当時の占筮は複雑になっており、専門的知識がないと複雑な区分を言い当てる事は素人には出来なかった。山本勘助は呪術的軍師であったというのが著者大和田哲夫氏の推測である。山本勘助の築城術の特徴は丸馬出しにあったという。

「甲陽軍鑑」の信玄の合戦と名言

信玄は21歳の時、無血クーデターで家督を手に入れてから1572年53歳で死ぬまで、信玄の一生は戦いの連続であった。信玄の合戦を年代順に整理しておく。
天文11年(1542年)22歳:諏訪頼重の桑原城を攻め、講和の謀略で頼重を殺害した。
天文12年(1543年)23歳:信濃小県群大井貞隆を長窪城に攻める。
天文13年(1544年)24歳:伊那群荒神山城に藤沢頼親を攻める。伊那の戦略的侵攻を企てる。
天文14年(1545年)25歳:伊那の高遠城を落とす。荒神山城に藤沢頼親を攻めるが講和。四年かけて諏訪伊那方面を攻略した。駿河吉原に北条氏康に攻められた今川義元救援に出る。
天文15年(1547年)26歳:信濃の村上義清・小笠原長時と戦い、戸石城、内山城をせめ大井貞清を下す。
天文16年(1547年)27歳:信濃・上野境の小田井原で上杉憲政を破る。佐久志賀城を落とす。
天文17年(1548年)28歳:上田原で村上義清と戦い完敗する。塩尻・勝弦峠の戦いでは村上義清を破って勝つ。
天文18年(1549年)29歳:佐久春日城を落とす。
天文19年(1550年)30歳:戸石城の戦いで村上義清に敗ける。
天文20年(1551年)31歳:安曇郡平瀬上を攻める。真田幸隆が戸石城を落とす。
天文22年(1553年)33歳:村上義清を葛尾城に攻め、村上義清は上杉謙信に救め越後に敗走する。塩田城を落とす。謙信と川中島の戦い第1回
天文23年(1554年)34歳:伊那の知久氏の神峯城を攻め落とす。小笠原氏の鈴岡城を攻め落とす。
弘治元年(1555年)35歳:善光寺で謙信と第2回目の川中島の戦い。木曽義康を福嶋城で破る。
弘治2年(1556年)36歳:真田幸隆に埴科郡雨飾城を攻めさせる。
弘治3年(1557年)37歳:信濃上野原にて謙信と川中島の戦い第3回
永禄4年(1561年)41歳:謙信と川中島の戦い第4回。上野の倉賀城を攻める。
永禄5年(1562年)42歳:北条氏康と関東に出兵。
永禄6年(1563年)43歳:北条氏康と武蔵松山城を攻める。
永禄7年(1564年)44歳:謙信と川中島の戦い第5回。上野に戦略的侵攻。
永禄8年(1565年)45歳:上野倉賀野城を落とす。
永禄9年(1566年)46歳:上野箕輪城を落とす。
永禄10年(1567年)47歳:上野惣社城を落とす。
永禄11年(1568年)48歳:義信事件で義信を監禁し、甲相駿三国同盟破棄へ向う。徳川家康と同盟して駿河へ侵攻する。
永禄12年(1569年)49歳:北条・今川同盟軍と薩た峠で戦う。伊豆・武蔵・上野にも兵を進め、武蔵鉢形城を攻めた。北条氏康の小田原城を攻め、相模三増峠で北条軍と戦う。駿河浦原城を落とす。
元亀元年(1570年)50歳:駿河の花沢城を落とす。北条氏と駿河吉原で戦う。
元亀2年(1571年)51歳:駿河興国城、深沢城を攻め、遠江の高天神城をせめるが落とす事は出来なった。三河足助城を落とし徳川家康の吉田城で戦う。
元亀3年(1572年)52歳:大軍を率いて遠江に侵攻し二俣城を落とし、浜松城に迫り徳川家康を三方原で破る。
天正元年(1573年)53歳:三河の野田城を攻め落としたが、病状が悪化して帰国する。4月死去。
「甲陽軍鑑」には川中島の戦いが華々しく記述されて、多くの人に知られている戦いは「甲陽軍鑑」が流布した話が基になっているのである。永禄四年(1561年)9月川中島の4回目の戦いで妻女山の「きつつき戦法」とは「甲陽軍鑑」のみに記されているに過ぎない。また八幡原の信玄・謙信の「三太刀七太刀」の一騎打ちの下りは上杉家の編纂になる「上杉家御年譜」によると、信玄に斬りかかったのは謙信ではなく家臣荒川伊豆守であったそうだ。僅かの勢を率いて別働隊に合流しようとする信玄の軍に追いついて突入したのは荒川伊豆守であった。三太刀の件も記載されている。これは戦国武将にとって名誉な事であるので、上杉側で記載ミスはありえない。むしろ信玄側としては、謙信の家来に斬りつけられることは不不名誉な事であり、両大将の一騎打ちと云う話にしておきたかったのだろう。なおこの戦いで信玄の弟典廏信繁、山本勘助らは討ち死にした。

「甲陽軍鑑」の読み方は、史実として理解すると腹が立つが、むしろ信玄の生き方、領国支配の仕方、家臣団統率という面から読んでゆけばいいのではないか。本書は信玄の名言を拾っている。
その一つ「信玄の七部勝ち」というのは、大勝ちすると驕りに取り付かれ次の敗因となる。反省の余地を残した七部価値くらいが最高であるというものだ。
「40歳までは勝つこと、40歳以降は負けぬこと」という言葉がある。攻めと同時に守りの重要さを説いたものである。
「後途の勝ち」と云う言葉は、占領した土地をうまく治めるという政治的行政的手腕が必要だということである。
「敵のつよきよわきのせんさくあり」とは「彼を知り己をしれば百戦危からず」と云う孫子の兵法であろう。
城取りの要諦は「取り手を築き、番勢を指置き、帰陣して、亦出陣すべし」であるという。
「国を多く取ることは果報なりという言葉は時間・時期を伺う事で、勝つ負けるも時次第である。
「弓矢をとって勝利するもとは民の耕作を良くする故なり」という言葉は、大将のつとめは百姓が安心して生活できることであると云う領国経営の姿を示している。
「ひとをばつかわず、わざをつかう」という言葉は、その人の持つ能力に注目して引き出す事にある。
「ひとむき一つかたぎをこのむは、国持ちのひぎならん」という言葉は、自分と同じ考えを持っている人間ばかり周りに集めると、国を誤ることになるということだ。
なお「人は城人は石垣人は堀」と云う御歌は江戸時代の作である。当時は未だ石垣の城はなかった。


奥野高広・岩沢愿彦校注 「信長公記」  角川ソフィア文庫(1969年11月)

織田信長に「弓三張衆」として仕え、豊臣秀吉・秀頼の吏僚であった太田牛一が江戸時代の初めに著した「信長公記」は、織田信長公側近に仕えたことを自負し、その光栄に生き、信長の覇業を後世に書き残す事を無上の生きがいと使命と感じた武士の書である。「信長公記」の著者太田牛一は大永7年(1527年)尾張の安食で生まれ、1610年80歳余で没した。太田牛一は秀吉の晩年から軍記の資料集めに専念し、著作を開始したらしい。彼の手になる軍記作品は「信長公記」、「太閤さま軍記のうち」、「関が原軍記」、「豊国大明神御祭礼記」、「猪熊物語」である。まるで戦国時代のジャーナリストである。中でも精魂を傾けたのが「信長公記」である事は云うまでもない。「信長公記」池田家本の12巻奥付きに彼の著作に望む覚悟と姿勢がよく表現されている名言がある。「曾って私作・私語にあらず、直にあることを除かず無き事を添えず、もし一点の虚を書するときんば天道如何、見る人はただに一笑をして実を見せしめたまえ」といっているのである。見もしないで、憶測だらけの記事を書いている現在のジャーナリズムに喝を与える言葉である。これほど体系的網羅的な軍記はかってなかった。武田信玄公を書いた「甲陽軍鑑」は虚実入り乱れているといわれる。「信長公記」は叙事詩戦記文学であると同時に、織田信長の経歴を正確に体系的に伝える記録として、他に類を見ない第一級の史料だそうだ。

奥野高広・岩沢愿彦氏が採用された「信長公記」の底本は「近衛家陽明文庫写本」で首卷と本記15巻からなる。なお蛇足ながら、「首卷」はあとから追加されたようで、首卷にない写本も存在する。首記一巻(上洛以前の記)を添えた写本は町田本、陽明文庫本、旧南葵文庫本の三本である。太田牛一の「信長公記」は漢字文であり、現代では読みにくいので、思い切って読み下し文に変えられた。そして「被」を「られ」、「非」を「あらず」などと、独特の和風漢字を便宜仮名に改め、送りかな、助動詞や助詞を添えてさらに読みやすくする工夫がなされている。

織田信長の先祖は越前の神官職であったが越前守斯波氏に仕え、斯波氏が尾張守護を兼ねると尾張に移ってきた。斯波氏の守護代織田伊勢入道常松の老臣織田弾正という名前が1428年の記録にでてくる。信長の直系の先祖である。1526年の記録に信長の祖父信定が出てくる。天文年代(1532-)の初めより尾張下四郡を領した斯波氏を主とする守護代で清洲城にいた織田大和守と、織田伊勢守は尾張上四郡を領して岩倉にいて、激しい一族内での抗争が続いていた。この織田大和守の家老に織田印旛守・織田藤左衛門・織田弾正忠の三人があって、これを三奉行といった。この弾正忠は信秀で信長の父である。信秀は吉法師(信長)を那古屋城に置いた。信秀(天文18年1850より備後守と呼んだ)は古渡の城から末森城に移った。備後守は傑出した人物で、しだいに織田一族の中で指導権を握り、外に向っては今川氏と常に戦い、美濃方面では大垣まで領地を広げ斉藤道三と戦った。織田氏は発達した経済力を持つ地方の豪族(名主など)を与力や若党・被官という名称で組み入れる家臣団構成(被官制)をしいて直接支配を基本とした。

ここで本記に入る前に、織田信長公の簡単な年譜と事蹟・戦記を記して理解の助けとしたい。
天文3年(1534年)0歳:信長は那古屋城で生まれた。幼名を吉法師
天文15年(1546年)13歳:元服し 三郎信長と改名
天文21年(1552年)18歳:父信秀病死、織田家に動揺広がる。「たわけ」のポーズをとって織田家内の動きを見定める。
弘治元年(1555年)21歳:尾張統一に乗り出す。4月那古屋城から清洲に本城を移す。
永禄2年(1559年)25歳:3月岩倉の尾張伊勢守一族を滅ぼし尾張国内を完全に平定した。
永禄3年(1560年)26歳:5月今川義元を桶狭間で討ち取る。
永禄5年(1562年)28歳:美濃斉藤氏、伊勢北畠氏に対抗するため、東の松平元康(後の徳川家康)と同盟を結ぶ。
永禄7年(1564年)30歳:本城を清洲から犬山城に移す。美濃との境界の松倉城に入り斎藤氏に圧迫を加える。木下藤吉郎に墨俣城を築かせ牽制した。
永禄8年(1565年)31歳:北近江小谷城の浅井長政と同盟と婚姻関係を結び、近江観音寺城の六角承禎を制する。
永禄10年(1967年)33歳:稲葉山の井口城を攻略し斉藤龍興を倒して美濃を平定。9月美濃を岐阜と改名。正親町天皇信長に御所の改築を命じ、上洛を要請する。
永禄11年(1968年)34歳:二度伊勢に北畠氏を攻め抑圧して、朝倉義景のもとにいた足利義昭を迎えた。9月岐阜を出発、浅井氏も加わって5万の兵で入洛。三好氏は逃げ出し、足利義昭らは京へ入った。
永楽12年(1969年)35歳:上洛すると信長は兵を展開して、山城、摂津、河内、大和、但馬、伊勢を平定した。
元亀元年(1570年)36歳:1月天下平定の会議を招集。越前朝倉義景が上京しなかったので朝倉氏を攻めた。同盟の浅井長政に背後を突かれて敗走したが、姉川の戦いで朝倉・浅井連合を破った。 元亀2年(1571年)37歳:本願寺顕如光佐が朝倉・浅井氏と結んで反乱。朝倉氏に味方した叡山を焼き討ちし宗教界の粛清に乗り出す。
元亀3年(1572年)38歳:将軍義昭、本願寺顕如光佐、武田信玄と朝倉・浅井氏・三好氏の残党らが反信長派を形成し、武田信玄が京へ向かい浜松の三方原の戦いとなった。信長・家康連合軍敗れる。家康岡崎城に逃げ帰る。
天正元年(1573年)39歳:武田信玄病死。将軍義昭を挑発して室町幕府を廃止する。朝倉・浅井氏両氏を滅ぼして越前・近江を完全に支配化に入れる。
天正2年(1574年)41歳:本願寺が盟主となり上杉謙信・毛利氏と結んで反信長派を形成する。伊勢長島一揆を根絶
天正3年(1575年)42歳:信長・家康連合軍、三河長篠の戦いで武田勝頼を破る。越前一向一揆を完全制圧
天正4年(1576年)43歳:毛利氏の救援を受けた石山本願寺と死闘を繰り返した。安土城を作る。柴田勝家・羽柴秀吉を加賀に派遣して上杉謙信の西進を妨害する。
天正5年(1577年)44歳:羽柴秀吉を総司令官として柴田勝家・明智光秀らに命じて中国平定作戦始まる。
天正6年(1578年)45歳:上杉謙信病死。
天正7年(1579年)46歳:明智光秀丹波を平定
天正8年(1580年)47歳:柴田勝家越中、加賀、能登を平定 播磨、但馬を平定
天正9年(1581年)48歳:羽柴秀吉因幡、淡路平定
天正10年(1582年)49歳:信長・家康連合軍、武田勝頼を滅ぼし、甲斐、信濃、上野の一部を平定。羽柴秀吉高松城をせめ、毛利輝元の大軍と対峙。秀吉の要請で信長安土城を出て救援に向う。6月2日宿舎の京都本能寺にて明智光秀の謀反によって自害。時に49歳であった。

信長公記 首卷

永禄11年(1568年)に信長が京都に入るまでの記録である。本記15巻とは別の記である。著者は太田牛一か別人の誰かは私には推測はできない。織田家の先祖から説き起こして、尾張の統一(織田諸家との抗争と覇権の確立)から、今川義元を桶狭間で破り、美濃斉藤家を打倒して入洛の障害がなくなるまでの信長の歩みを記している。多少年譜と重複するところがあるが、首記の概要を示す。

尾張の国は八郡に分かれる。上の四郡は織田伊勢守が領し、岩倉が居城である。下四郡は織田大和守が領し、清洲が居城である。清洲城には尾張の守護斯波氏(武衛)が大和守の主家として存在した。大和守には織田因旛守・織田藤左衛門・織田弾正忠と云う3奉行がいた。その一人弾正忠は後に備後守といい信長の父信秀のことであり、古渡に居城があった。彼には弟与次郎・孫三郎・四郎次郎・右衛門尉がいた。備後守の嫡男織田吉法師(信長の幼名)を那古野城に入れ、大人衆(信長の家老)として、林信五郎・平手中務丞・青山与三右衛門・内藤勝介をつけた。平手中務が御台所賄(会計役)となった。

備後守は天文11年(1542年)8月に、安城を攻めて三河小豆坂で駿河の今川と戦った。吉法師は13歳で元服、織田三郎信長と名乗った。14歳で吉良大浜に初陣。天文16年(1547年)9月備後守は美濃に出兵したが、斉藤道三に大敗し五千人が討ち死にした。斉藤道三が勝ちに乗じて11月に織田播磨守が守る大垣城を攻めた。備後守は反撃して道三を稲葉城へ追い戻した。そして斉藤道三と和解が成り立ち、道三の娘を信長の嫁にして婚姻関係を結んだ。

信長16-18歳までは武芸の稽古に励み、水練、鑓、鉄砲、兵法の勉強、鷹狩りに精を出した。天文21年(1552年)備後守は上郡織田家との戦いのさなか、3月に42歳で病死した。父信秀の葬儀において信長(18歳)の奇行が始まる。「大うつけ」と云う評判が立ったのだが、これは恐らく父の死後織田一族の動揺の帰趨を見るためであろうかと思われる。しかし信長の奇行を自分の養育の責任だと考えた大人衆の一人平手中務丞が切腹した。同じ年の4月下旬美濃の斉藤道三は信長が本当にうつけかどうか見極めるため、富田の聖徳寺で面会をした。確かに信長のいでたちは意表を衝いたものであったが、立ち振る舞いに一部のすきも無く苦虫を噛み潰したような表情に道三は信長が将来天下を取ることを確信したようだ。これ以降美濃では信長をたわけと云う人はいなくなった。

天文22年(1553年)4月鳴海の城主山口左馬助親子が反乱したが、信長800人でこれを破った。同じ年8月15日清洲城から坂井大膳・坂井甚助・織田三位らが松葉城を略取したが、信長は海津でこれらを打ち破った。天文23年(1554年)、清洲城にいた尾張の守護斯波義統(武衛)を坂井大膳・坂井甚助・織田三位らが謀反して殺害した。義統の息子は信長のもとへ走った。翌天正23年(1554年)7月信長は柴田権六に清洲城を攻撃させ、義統の息子は織田三位らを討ち取った。同年岡崎に出兵し、駿河衆が守る鴫原城、村木城を攻めた。その間留守を同盟関係にある美濃道三に依頼した。安東伊賀守が那古野の近くで留守を守った。村木城を落城させて帰国し、留守役の美濃の安東伊賀守に礼をした。斉藤道三は信長の働きを聞いて、「すさまじき男、隣にはいやな奴だ」とつぶやいたそうな。 弘冶元年(1555年)4月、清洲城では坂井甚助・織田三位ら亡き後、織田彦五郎は坂井大膳一人では支えきれなくて、織田孫三郎に同盟を頼んだ。孫三郎は信長と図った上清洲城に入り、織田彦五郎に腹を切らせたが、大膳は駿河へ逃亡した。11月には織田孫三郎は死亡した。同年6月、守山城の織田孫十郎の家来が信長の弟織田喜三郎を射殺するという事件がおき、恐れた織田孫十郎は直ちに逃亡した。主のいない守山城を年寄りが守っていたが、織田勘十郎と柴田権六が攻め取り、新たに織田三郎五郎安房守を守山城に入れた。弘冶2年(1556年)5月、清洲城の林佐渡・林美作・柴田権六が城主織田勘十郎と語らって信長に謀反するという風説がたった。坂井孫平次が安房守を襲って切腹させる謀反が勃発し、8月信長は佐久間大学に命じて林美作と柴田権六を名塚において争い、林美作を殺害した。信長と織田勘十郎不仲説や謀反説は林美作が捏造した物であるとして、母の謝罪もあって林佐渡・勘十郎・柴田権六を赦した。鳴海の城主山口左馬助は駿河と図って大高城と沓懸城の三つの城に駿河兵をいれた。そして山口親子は駿河に呼ばれて殺害され、この三城は駿河が支配することになった。このように織田一族内での謀反・裏切りの紛争は後を絶たず、河内は服部左京が横領し、知多は駿河が横領し信長の支配する尾張下四郡のうち二郡も乱世に陥り、この時期は全く混乱したのであった。

武田信玄は甲斐・駿河・相模(武田・今川・北条)三国同盟を結んで西進の戦略策をとった。この時期天台宗の天沢という僧(尾張春日の出)が甲斐に寄った時、織田信長のことを委しく聞いたらしい。信長六人衆に弓三張として浅野又右衛門・太田又助・堀田孫七、鑓三本として伊藤清蔵・城戸小左衛門・堀田左内を記している。ここに著者太田又助(後の太田牛一)の名が出て、ちゃっかりと信長の侍として永遠に名を刻む遺志が伺えてほほえましい。駿河への備えとして黒末入海・善照寺・南中島・丸根山・鷲津山城を取って兵を入れた。永禄3年(1560年)5月、佐久間大学と織田玄蕃の情報により今川義元は4万5千の兵を動かして桶狭間で休息していることを知った。この時徳川家康は今川と同盟して大高城に陣を構えた。善照寺から信長は300人で打って出たが完全に今川勢に破れ、2000人で小中島へ移った。桶狭間は狭く、反対の田は深田といい足をとられる地形であった。急襲された今川の大軍は混乱して討たれる者3000人、毛利信介が今川義元の首を取った。鴫原城,、鳴海城、大高城、沓懸城、池鮒鯉城の五城をとった。家康は岡崎城に逃げ籠った。永禄4年(1561年)三州梅が坪城を攻め落として帰還。

永禄2年(1559年)上総介信長上洛して足利義照と面会した。ここの3件の面白い話が挿入されている。一つはその時美濃から小池吉内ら5名の上総介暗殺団が京へ派遣された。それを知った信長に適当にあしらわれて、無事信長は清洲へ帰還したと云うこと。二つは比良城主佐々蔵人謀反の噂があって、天が池に大蛇が出るという噂を確認するという名目で比良へ出向き無事謀反を抑えた事。三つは尾張大屋の甚兵衛と左助の訴訟に、信長自らが火起請(昔の「くがたち」)で裁定した事。これの三つの話は作り話の気配が濃厚である。用は無血で事を納めた信長の器量の例え話であろうか。

時代は後先になるが、弘冶元年(1555年)美濃の守護土岐頼芸を追い出した斉藤道三は嫡子義竜を廃して、実子三男孫四郎を立てようとした。11月義竜は病と称して欺いて弟二人を自邸に呼び殺害した。驚いた道三は鶴山に篭城し、翌弘冶2年(1556年)4月長良河で親子決戦となり、小真木源太が道三の首を取った。信長は同盟の関係で出兵したが、何もせず帰陣した。その義竜は尾張上四郡の織田伊勢守と組んで清洲城を襲った。信長は下四郡の半分を奪われてピンチとなったようだ。弘冶2年(1556年)4月三河の吉良・石橋・武衛らが語らって謀反したので、岩倉浮野で戦い織田信賢らを退けた。永禄元年(1558年)7月、永禄2年(1559年)岩倉城をせめて破壊した。

永禄3年(1560年)5月に今川義元を倒してからは、信長は西美濃に侵攻した。同年5月美濃勢が墨俣から兵を出したので、尾張の永井甲斐守・日比野下野らは森辺口で戦ってこれを破る。勘気を蒙っていた前田利家はこの戦いで功を挙げて赦された。翌永禄4年(1561年)5月に信長は西美濃に侵攻し、十四条の戦いで勝利して墨俣に帰陣した。6月には於久地をせめた。永禄6年(1563年)犬山の二の宮山城から小牧山城に移った。永禄7年(1564年)8月美濃勢の佐藤紀伊守親子が信長側に寝返り、宇留摩城・猿はみの城を奪った。また犬山の家老和田信介・中嶋豊後守が信長側に寝返った。同年9月には堂洞城の岸勘解左衛門を攻め、太田又介(著者)が弓で大活躍。信長が引き上げる時関口から斉藤龍興の兵3000に攻められ大損害を出す。永禄9年(1566年)4月川中島で斉藤龍興と戦い敗北、木下秀吉の築いた一夜城墨俣で龍興の攻撃を防いだ。永禄10年(1567年)8月美濃三人衆、稲葉伊予守・氏家卜全・安東伊賀守が信長側に寝返った。井口山から瑞龍寺山へ兵をすすめて斉藤龍興を追い出し、美濃国を平定した。信長稲葉山上に入り、美濃を岐阜と改名。永禄11年(1568年)義照の弟足利義昭を加賀朝倉義景から迎えて入洛する。足利義昭を征夷大将軍とされた。

信長公記 卷1(永禄11年 1568年)

室町幕府の征夷大将軍公方義照の生害のことを年代が遡るが記しておこう。永禄8年(1565年)5月かねてより室町幕府執権職として専横を振るっていた三好修理大夫が謀反を起こし、公方義照の館を襲って自害させた。また義照の3番目の弟鹿苑院も自害に追い込んだ。二男弟は興福寺一乗院覚慶という僧でいたので命は免れた。

永禄11年(1568年)4月覚慶は興福寺を出て和田伊賀守、佐々木左京大夫を頼ったが、主従の恩を忘れた両氏は覚慶を追い出し、しかたなく覚慶は越前朝倉を頼った。朝倉は覚慶を受け入れたが、入洛して将軍家を再興する意志を明確にしなかったので、覚慶はこんどは信長を頼った。4月信長は越前に迎えを出し岐阜に招き入れた。8月7日彦根の佐和山に信長は上洛策を練った。9月7日尾張・岐阜・伊勢・浅井の五万人の兵を集めて江州へ進軍を開始した。佐々木親子の居城である箕作山城と観音寺の館を落として、9月13日佐々木親子は降参した。13日から27日まで江州を平定し三井寺に到着し、翌28日京都の東福寺に着いた。公方義照は清水寺に入った。信長らは柴田・蜂屋・森・坂井の武将に命じて、岩成主税頭の籠る神足の正立寺を攻めた。9月29日岩成主税頭は降参した。9月30日山崎に到着、高槻の芥川にいる細川六郎・三好日向守をせめて退散させた。さらに西宮にいた篠原右京亮も退散した。10月2日池田筑後守も降参して、五畿内・伊勢・近江が悉く平定された。信長は芥川に2週間いて10月14日京都に戻り六条本国寺に逗留した。

義照は元細川邸に入居し、10月18日征夷大将軍となった。室町幕府の再興が形式的には成功した。10月22日信長は皇居に参内した。洛中の平和を保証したことになる。久我・細川・和田から使いが来て副将軍か官領職を打診してきたが、信長は承知しなかった。お祝いに5番の能楽を奉納して関係者の苦労をねぎらった。10月24日に帰国の申し出をし、10月24日には将軍義照より感謝状が贈られた。その感謝状には義照は信長のことを御父と呼んだ。3日かけて10月28日岐阜城へ無事ご帰還された。

信長公記 卷2(永禄12年 1569年)

1月4日、三好三人衆、斉藤竜興、永井隼人らが公方のいる六条館を襲撃した。六条を守る細川典厩・織田左近らは撃退して桂川にて一戦に及びこれらを破った。この知らせを聞いた信長は6日十騎で駆けつけ京へ入洛し、六条の室町幕府を守った。京の守りのため14カ国の衆を集めて協議し二条に幕府を造営する事になった。2月27日に工事を開始した。5月より御所の修復奉行として、村井民部と日乗上人を指名して工事に当らせた。5月11日信長帰国。

8月20日桑名の北畠具教討伐の兵を出す。あざか城、大河内城を四方より攻め、9月8日北畠親子が降参して城を明け渡した。10月11日には入洛し室町将軍に伊勢平定の報告をした。

信長公記 卷3(元亀1年 1570年)

2月25日将軍義昭の政治活動を制限する条文を承認させるため入洛した。この頃から既に将軍義昭の信長からの離反が始まるのである。3月3日に滋賀の安土で相撲見物をして、3月5日に入洛した。4月14日には将軍義昭の二条舘の新築完成祝いに舞能会を催す。4月20日越前の朝倉討伐に出発。手筒山城、金が崎城を攻め落としたが、背後の江北の浅井備膳が謀反したので、信長は挟み撃ちにされて窮地に追い込まれた。木下藤吉郎を殿軍として金が崎城に残して信長は辛うじて脱出できた。江州で一揆が起ったのでこれを鎮めて5月21日岐阜城へ帰国。

6月4日江州南部で佐々木親子が一揆を起こしたので、柴田修理らに命じて討ち取る。6月21日浅井備前の居城大谷を攻めた。6月27日姉川の合戦で朝倉・浅井連合軍13000人に対して、徳川家康が朝倉へ、信長軍が浅井へあたってこれを打ち破った。7月6日信長は入洛、将軍義昭に戦果を報告して、岐阜に帰国。

8月20日大阪石山本願寺攻めに南進した。野田・福嶋上に籠る敵は三好三人衆・細川六郎・安宅・斉藤竜興・永井隼人ら6000人。9月9日信長らは天満に陣を取って、大阪城には一向宗徒二万人がいたがこれを包囲したまま、福嶋・野田城を攻めあぐんでいた。その時9月16日朝倉・浅井連合軍3万人が江州坂本に攻め入った。留守隊の森三衛門、織田九郎らは討ち死にした。そして9月21日には朝倉・浅井連合軍が京の醍醐・山科を焼き払ったので、信長は福嶋・野田城攻めを中止して退去し、9月23日急いで京に戻った。9月24日信長は坂本の朝倉軍を打ち破ったので、朝倉衆が叡山に逃げのぼり叡山は朝倉に味方をした。信長は下坂本に陣を張り叡山を囲んで、叡山を焼き払った。10月朝倉軍との講和は成立しなかった。すると又大阪では三好三人衆が福嶋・野田城を攻めたが、守っていた木下藤吉郎・丹羽五郎らが一揆を鎮めた。そのころ伊勢長嶋では信長手詰まりを見越して一揆が起り、11月11日守りの弟織田彦七は破れて自害した。11月25日朝倉軍と堅田の戦いでは12月に和睦が成立し、信長は岐阜城に帰国。まるでモグラ叩きのような様相で、信長が平定したとしても敵には決定的な打撃は与えられないし、他のあちこちでいっせいに一揆が発生した。北陸には朝倉・浅井連合軍、南には三好らの勢力と大阪石山城の一向一揆の両面作戦は全く進展は無かった。信長多難の年であった。

信長公記 卷4(元亀2年 1571年)

5月6日に浅井七郎5000人ほどで姉川に出兵したが、木下藤吉郎が堀・樋口の戦いでこれを撃退した。5月12日桑名河内長嶋一揆を攻めたが、信長の将柴田・氏家らは敗退した。8月には江北横山の一揆が起き、余呉、木本、志村の村を焼き払った。9月1日志村城の小川孫一郎が降参した。9月3日江州の野州金が森一揆を制圧した。そして9月12日信長は叡山を攻め全山を焼き払い数千人の大衆の首を切った。9月21日佐和山城を攻めて高宮一族を成敗した。

禁中の修理が永禄12年より3年かかって完成した。関税の廃止などの政策を実施した。これらは信長の天下安泰の平和と経済政策として評価されている。

信長公記 卷5(元亀3年 1572年)

昨年の江北横山の一揆に続いて、3月5日横山に出陣し、木戸、田中城をとって京へ入洛した。3月12日将軍義昭は信長の宿舎に武者小路の屋敷を与え、工事が始まった。松永弾正親子と三好左京太夫の謀反が起き、信長はこれを追討し、三好は若狭へ、松永弾正は信貴山へ逃げた。5月19日信長は岐阜に帰国。7月には越前余呉地蔵坊の一揆が、また江北の一揆が起きたが制圧し浅井勢を追い払った。7月27日虎後前山をめぐる攻防では、朝倉義景15000人で浅井居城の大谷に到着し大山獄に布陣した。8月8日越前勢の寝返りが相次ぎ、虎後前山城の攻略が成功した。この城に木下藤吉郎を入れ、幅7.3m、5.5kmの軍用道路建設が行われた。

11月下旬武田信玄が遠州二俣城を攻めたので、信長は家康援護の兵を送ったが、12月22日遠州三方原の合戦で家康は完敗して浜松城へ逃げ帰った。

信長公記 卷6(永禄4年 1573年)

昨年の戦いで信貴山に逃げていた松永弾正は1月8日、多門の城を明け渡して降参し、岐阜城に来て和睦し赦免された。

昨年9月信長は将軍義昭へ17か条の意見書を突きつけてその信を正したが、ついに将軍義昭の謀反の噂が本当になった。2月20日義昭はかってに光浄院・磯谷らに言い含めて、石山城・堅田城に兵を入れさせた。2月29日明智・丹波・柴田らは堅田城を攻めてこれを奪い返した。3月25日信長が入洛し、4月3日将軍義昭討伐軍を起こした。4月6日には将軍義昭と一時和睦がなって信長は岐阜に帰国したが、将軍義昭の謀反は再燃した。5月22日佐和山から坂本軍を運ぶ大船の建造を始め7月5日に完成した。信長は将軍義昭を討つためにこの大船に乗って坂本に上陸し、7月7日に入洛した。二条に陣を取り、7月16日将軍義昭が陣を構える宇治真木大嶋を攻めた。18日真木大嶋を制圧し将軍義昭を河内国若江の城に追放して、ここに室町幕府は名実ともに滅亡した。将軍側の叡山一乗寺の渡辺・磯谷、淀城の岩成主税を降参した。そして都を監視警護する京都所司代を設立し、村井長門守を任命した。

7月26日江州高嶋より大船に乗って浅井が守る木戸・田中城を攻め取った。城には明智十兵衛を入れる。ついで8月8日江北浅井方の阿閉淡路守が信長に寝返り月ヶ瀬城を明け渡した。8月10日に朝倉軍二万人が大岳に陣取り、信長は大づく城、ようの山を落とし敦賀への退路を遮断する作戦に出て大勝し、3000人を討ち取った。8月18日朝倉義景は居城一乗の谷館を退いて内山田荘六坊へ逃れたが、8月28日朝倉義景は自害、浅井親子も自害して江北と越前の平定は終わった。朝倉義景、浅井親子の首は京都にて獄門にさらしたという。江北浅井跡には羽柴秀吉をいれ、越前には柴田修理を入れた。

9月24日信長北伊勢に出兵し桑名を攻め、河内長嶋も大半平定した。11月4日信長上洛。三好左京太夫の三家老が裏切って三好を自害させ、若江城は落ちた。この年から情勢は急に信長に有利に展開し、将軍義昭を追放し、長年の宿敵浅井・朝倉を倒して首を取り、伊勢の一揆もようやく静まった。

信長公記 卷7(天正2年 1574年)

元旦、信長の親衛隊ばかりの宴において朝倉義景、浅井備前、下野の三人の首を肴にして酒を飲んだ。よほど宿敵を倒して嬉しかったのであろうか。1月19日越前の守護であった前波播磨を部下の侍が殺して一揆を起こしたので平定のため兵を出した。1月27日武田信玄の跡を継いだ武田勝頼が岩村に兵を出したので、信長は高野城を築いて岐阜に戻った。3月12日信長上洛。4月3日石山本願寺顕如らが挙兵したので鎮圧。4月13日佐々木承禎が降参してので、甲賀石部城に佐久間を入れた。5月5日には信長は賀茂祭の競馬を見て、同28日岐阜に帰国した。

6月5日武田勝頼、遠州高天神城を攻め、城主小笠原与八郎が謀反して勝頼の兵を入れた。信長は豊橋吉田城に陣を敷いたが、浜松の家康に平定を任せて、6月21日岐阜に帰国した。7月13日伊勢河内長嶋の一向一揆を征伐するため三軍に分けて攻撃した。長嶋一向一揆征討戦は凄惨を極めたが9月29日に信徒二万人を焼き殺してようやく終焉を迎えた。地侍と浄土真宗衆徒の自治国と化していた長嶋の一揆の征討が終わった。

信長公記 卷8(天正3年 1575年)

国々に道路を作る命を出し、坂井・高野・篠岡・山田を御奉行とした。3月2日信長上洛、相国寺に寄宿。4月1日、禁中の修理は終了したが公家方の困窮は目に余ったので、村井・丹羽を奉行として公家への徳政令、本領還附を行わしめた。4月6日信長大阪へ出兵し、高屋にこもる三好笑岩を攻め、十万の兵で天王寺に陣を置いた。三好笑岩は降参したので4月21日信長は都に戻り同28日に岐阜へ帰国した。5月13日信長は三河長篠の高松山に三万の軍をおいて、武田勝頼軍1万5千と対峙した。武田騎馬軍に対しては馬防の柵を設け、鉄砲千挺で戦った。武田軍は崩れて鳳来寺へ向け撤退した。敵一万人の兵を討ち取りここに甲斐・信濃の雄武田家を滅ぼした。徳川家康は三河と遠州を得た。

6月26日信長入洛。7月3日禁中で誠仁親王らの蹴鞠の儀を見学した。同日信長は官位を進めることを断り、部下には官位の授与があった。7月12日瀬田の橋の改修を開始した。8月12日越州加賀一揆鎮圧のため3万の兵を敦賀に派遣した。越州・賀州の一万2千人を切り捨てた。信長は一万余騎で府中竜門寺を攻め、下間一族の首を取り、生け捕りした数は3,4万人にも及んだと云う。ここに越州の平定は終了し、越前に柴田修理、敦賀に明智日向守、丹後に一色殿、丹波に細川を入れた。9月越前国には掟を出して領国経営の指針を柴田修理に与えた。

10月12日信長入洛、二条妙覚寺に寄宿。10月28日、二条妙覚寺にて京と堺の茶人を集めて茶会を催す。11月4日信長に官位が授与され、大納言、「右大将」を拝任した。11月14日、武田の残党武田四郎が岩村に攻め入ったので、信長子息織田菅九郎が制圧に出兵し、11月21日残党を悉く切り殺した。この功績で織田菅九郎は秋田城介に任じられ、11月28日信長は家督を秋田城介に譲った。

信長公記 卷9(天正4年 1576年)

正月中旬より、惟住五郎衛門に命じて、江州安土山の普請が始まり、2月23日信長は岐阜城を秋田城介信忠ニ譲って、安土山に居を移した。4月より本格的に安土城の建設が始まり石垣を築いた。全国から巨石が寄せられ、羽柴秀吉らは蛇石という名石を一万人の人間で3日で天守閣に上げたという。4月1日信長入洛、二条妙覚寺に宿をとる。

4月14日荒木ら四将に命じて、中国毛利が援助する反信長同盟の雄である大阪石山本願寺攻めを開始した。荒木は北野田、明智は森口、永岡は森河内、原田は天王寺に要害を作って、5月3日敵が籠る木津、桜岸の海上封鎖戦闘となった。一万人を擁する敵は数千挺の鉄砲を打って包囲し、信長側の大敗となり、さらに天王寺口も敗れた。この敗戦をきいて信長は僅か百騎で若江に駆けつけたが、信長軍3000人で敵1万5千人を相手にするには多勢に無勢であった。住吉口より強引に攻撃を掛けたが兵站が足らず、やむなく兵を引いた。大将だけで兵隊がいない状態では戦争にならず、信長自身が足に鉄砲で負傷し、6月5日ひとまず兵を引いて信長は安土に帰国した。その間に7月5日中国安芸の毛利は7,800の大船で大阪城に兵糧物資を運びこんだ。このように大阪城は水の要塞で完全に封じ込めるのが難しく、信長方の軍隊・兵糧の補給が不足するという兵站力の差(ロジステック)で勝負がついた。また信長軍には毛利のような瀬戸内水軍がなく海上輸送支配権がなかったので、石山への兵站援助はなされるがままであった。石山本願寺攻略は陸の闘いではなくまさに海上の闘いであった。

大阪石山城攻めを諦めた信長は安土城の完成に精を出した。石垣の高さ約20m、7層の天守閣は偉容であった。1階は土蔵、2階以上は大広間をいくつも持つ座敷で構成され、襖障壁には狩野派の絵画、水墨画で飾られ、内柱は金、外柱は朱または金で仕上げられた。琵琶湖へ突き出るように安土城天守閣が聳え、麓には城下町に武将の屋敷と商人の町家が並び都をしのぐ華やかさに満ちていたというが、残念ながら後年安土城は明智光秀の反乱で焼け落ちた。11月4日信長は上洛し、「内大臣」を拝命して11月25日に安土に帰国した。12月10日吉良御鷹野として岐阜、清洲、吉良に出向いて岐阜にて越年。

信長公記 卷10(天正5年 1577年)

1月2日信長は安土に帰国した。1月14日信長は上洛し25日には帰国。紀州雑賀の三緘の者と根来寺杉の坊の者が味方になるといってきたので、2月9日再び信長は上洛し、これらを案内として紀州雑賀、根来寺一揆の平定に息子秋田城介信忠が出陣した。各地より兵が続々集まり2月13日若江、16日和泉香庄に兵を進め、貝塚の戦いで撃破し18日には和泉佐野に着陣し、雑賀に攻め込んだ。2月28日には信長も紀州丹和まで兵を進め、中野城を取った。3月1日鈴木孫一郎の城を取り、2日には根来口八幡に陣を敷いて対峙した。雑賀衆7名和睦を御請け、大阪攻めには味方するという誓紙を出したので、信長は佐野に要害を設けて3月21日紀州より兵を引いた。3月25日上洛、27日信長は安土に帰国した。

7月6日信長上洛し、近衛殿御元服のお祝いをして13日安土に帰国した。上杉謙信が足利義昭、毛利、大阪本願寺の反信長同盟と連絡して京都に攻め上る情勢となったので、これを北国にて阻止するため、8月8日柴田勝家を総大将とする軍を加賀に出した。加賀での対峙が続く中、大阪天王寺にいた松永弾正が再び謀反をし信貴山に立て籠もったので、弾正の人質である二人の息子を六条河原で生害してさらした。弾正側の森、海老名氏を片岡城で攻め落とした。10月1日息子の秋田城介信忠、北国から戻った兵を集めて信貴山を攻め、10日松永弾正を焼き殺した。12日信忠が都に凱旋し三位中将を拝命した。15日安土城に行き信長に戦果を報告した。

10月23日羽柴秀吉は播州を平定し、その足で11月10日に但馬を平定した。11月13日信長上洛、18日鷹狩りとして参内、華麗なお遊びを披露した。11月27日羽柴秀吉は上月、福岡城を奪った。この頃秀吉の活躍が目立った。12月3日信長は安土に帰国した。12月10日信長吉良の鷹野に出て、秀吉を呼びお褒めの御釜を下される。19日岐阜へ戻り、21日安土に帰国した。

信長公記 卷11(天正6年 1578年)

元旦 諸国の面々挨拶 信長12人の諸侯に茶会を催される。1月4日には御嫡男三位中将信忠が主宰する茶会に9人の諸侯が招かれた。信長禁中に援助して正月の御節会を復興させた。1月13日吉良へ鷹狩りに出て、25日安土に帰城した。1月29日御弓衆の家より火事が出て、これは家族が安土にないから火事もでるのだということで、弓衆、馬廻衆120人の故郷から妻子を呼び寄せ安土に住まわせた。

2月3日近江高嶋の磯野丹波守を命令反で追放、代わりに津田七兵衛をいれた。2月9日吉野山中に逃げていた磯貝新右衛門の首を土地のものが安土へ届けたのでこれらに褒美を取らせた。2月29日安土で相撲大会を見物する。3月6日から8日江州奥の嶋山に鷹狩りをして、23日上洛。4月4日嫡男信忠を将軍として大阪城周りの麦苗を切り捨てさせた。反信長同盟の雄であった上杉謙信が病死したので、4月7日佐々木権左衛門を越中へ入国させた。これによって信長の北への愁いは無くなり、本格的に西への侵攻が開始される。

4月中旬より中国安芸より毛利・吉川・小早川・宇喜田らが播磨・備前国境に集結し上月城を囲んだ。5月1日信長は都を出て播州へ軍を進め、加古川まで陣を進めた。13日都で大雨が降って洪水が出たので、信長は27日一時安土に帰り、6月1日再上洛し、14日祇園祭を見物しているところに、秀吉が播州攻めの戦略打ち合わせに上洛してきた。すでに神吉城は中国勢に落とされ、三木城の別所長冶が毛利側に寝返っていたので、まず神吉城を破り、つぎに三木・別所を攻めるべき事になった。信長は6月21日安土へ帰国したが、26日滝川・明智は三日月山へよせ、秀吉は書写山へ入り、27日三位中将信忠らが神吉城を攻めて外堀を破ったが一時膠着した。7月17日滝川・惟住らは神吉城中の丸へ討ち入り天主へ火をかけて焼き払った。落城した神吉城としかた城は秀吉に預け、別所らがたてこもる三木城へ陣を進めた。こうして中国勢を引き寄せている間、大阪石山城は毛利の援助がなく孤立していたので、6月26日伊勢の九鬼右馬に作らせた六艘の大船と小船数百船を熊野灘を回って大阪和泉から堺へ寄せて石山本願寺の海上封鎖作戦を行った。

8月15日安土で相撲大会を催して、9月23日信長は上洛した。9月24日斉藤新五は越中太田保城をとり、10月4日には敵の河田・椎名を討ち取るなど越中の平定を進めていた。9月27日信長は九鬼の大船を見るため都を下り住吉から堺へゆき、10月1日帰洛し、10月6日安土へ帰国。10月21日中国戦線で荒木摂津守が謀反したので、信長の播州攻めは深刻な事態に陥った。11月6日中国勢は六百艘の船を出して木津表で九鬼海軍と会戦となった。辛うじて九鬼は中国勢を追い返した。11月9日信長は摂津まで出陣した。茨木の城を攻めるため山崎に陣を取った。前の高槻城にいる高山右近をバテレンの牧師を使者にして味方に取り込むことに成功し、茨木城へ兵を進めた。11月24日茨木の城の中川瀬兵衛を味方に引き寄せ、茨木城の明け渡しとなった。それからは摂津の要所である西宮、住吉、芦屋、尼崎、荒木志摩守の立て籠もる生田城を破った。12月1日蜂須賀彦右衛門を味方として、4日には伊丹、池田を平定した。そして戦線は再び播州へ戻るのである。秀吉は三田、三木の城へ、惟任明智は丹波の波多野氏へ向った。信長は12月21日池田から帰洛し、25日安土へ帰国した。

信長公記 卷12(天正7年 1579年)

歴々の衆が伊丹表に張り付いているため、今年の年賀はなし。2月18日信長上洛。3月4日信長の子息、中将信忠、北畠信雄、織田上野守、織田三七信孝も上洛。3月5日信長・信忠親子摂州伊丹表に出陣。信長公は池田に陣取り、3月14日、30日、4月8日、26日鷹狩りの調錬行われる(当時鷹狩りは軍事訓練であった)。各地より名馬を取り寄せる。4月18日伊丹・三木城で小競り合いがあった。伊丹表の定番を決め、兵を各方面へ張り付けて、信長公は5月1日帰洛し、3日安土に帰国した。5月25日秀吉は播州海蔵寺城を乗っ取る。5月中旬安土で浄土宗と法華宗の高僧のあいだに法論があった。浄土宗は信長公の調停を受け入れたが,法華宗は承諾しなかったので、信長公は浄土宗の勝ちと裁定した。明智日向守は丹波波多野一族を攻めて兄弟3人を召し取り、安土へ送った。6月4日安土で三人は張り付けに処せられた。

7月19日明智日向守は丹後宇津頼重を討ち取り、鬼が城を攻め取った。さらに8月9日には黒井城の赤井悪右衛門を破った。長年の明智日向守の丹波国経営の成果が出てきた。8月6日信長公安土で相撲大会を催し、勝者に多くの金品と知行を与えた。武術奨励の一環であろうか。8月26日三位中将信忠卿摂津表へ出陣。9月2日荒木摂津守村重伊丹城を抜け出し尼崎城へ移った。9月4日羽柴筑前秀吉が安土に信長公に備前宇喜田の赦免のいきさつを報告にきた時、信長公の意に添わずしかられて播州へ追い返されるという始末になった。

9月10日秀吉は敵の三木城を攻め谷大膳を討ち取る手柄を立て、信長公のご機嫌が直った。9月11日信長公上洛。12日三位中将信忠卿は尼崎を攻めて七松城など二砦を設けた。信長公は、京都所司代村井が常見検校不正事件の処罰で得た黄金200枚で宇治平等院に橋を掛け、法華宗の献上した黄金200枚を播州の諸侯へ見舞金として配った。信長の子息北畠信雄が摂津へ兵を出さず、自国の伊賀の戦争にかまけた上柘植三郎を戦死させるなどをしたので、9月17日信長公は子息北畠信雄をしかりつけて勘当も辞さないという手紙を送ったという。9月21日信長公は伊丹表に出陣、古池田に陣を取り、27日古屋野に移動し、28日帰洛。このころ京都所司代村井に関する記事が多い。人身売買の女を成敗するとか、一件落着した件を再度直訴した者を処罰したということである。信長公は10月9日安土に帰国した。

10月14日明智の部下滝川左近は謀事をもって中西新八郎らの謀反を誘って上臈塚を陥れ、渡辺勘太郎、野村丹後守の首を討った。この功績により10月24日明智日向守、丹後・丹波両国を一つにして預けられる。同じ25日北条氏政六万の兵を甲斐国三島に寄せ、徳川家康と図って武田勝頼を挟撃した。10月30日宇喜田与太郎は秀吉の斡旋で子息三位中将信忠に挨拶し、宇喜田の件は一件落着。11月3日信長上洛し、誠仁親王のために造営した二条御所への親王行幸の日取りを22日と決定した。11月6、8、9、10日北野や一乗寺で鷹狩りを行う。

11月19日 毛利方の伊丹城の荒木村重は妻子を人質に残して、自分だけ尼崎城へ移った。織田七郎信澄伊丹城に兵を入れ人質の妻女を押し込め監督した。11月22日誠仁親王ら二条御所へ行啓なる。この親王の公家行列の詳細を記録しているが省く。12月1日伊丹城に残された荒木一族の妻女の警護役である池田和泉が鉄砲で頭を打ち抜いて自害した。12月10日信長公は尼崎城の荒木村重攻めのため出陣、山崎に移る。武運長久の神社岩清水八幡宮の修理造営を命じた。12月12日荒木一族の人質を処刑する方針が決まり、妻女30人を都へ護送した。そして伊丹城に残る者は尼崎城のまえの七松に連れ出して、122人を張付けで刺し殺し、510人は集めて焼き殺した。信長公は12月14日帰洛し、16日洛中引き回しの上、六条河原にて荒木一族の妻子30人の首を切った。妻子の辞世の歌が収録されており、この部分の記述だけは歌物語となっている。12月18日信長公は二条御所に参内し、19日に安土へ帰国した。

信長公記 卷13(天正8年 1580年)

昨年の正月に続いて、諸侯は摂津表で定番勤務のため、年賀の挨拶は中止。1月6日羽柴秀吉は播州三木城に立て籠もる別所彦進と小三郎、鷹の尾に居城する別所山城を攻め本丸に火を掛けた。別所三人は腹を切る代わりに家来は助ける懇願の書を差し出して、17日3名の妻子ともどもに自害した。本書では惜しむべき名誉だと称賛している。2月21日信長公上洛し、26日本能寺に宿所を普請する奉行として京都所司代の村井春長を命じた。27日山崎へ移り、津田・惟住らに兵庫鼻熊城攻略の要害をつくるよう命じる。3月7日伊丹城を視察した。5年間膠着状態であった大阪石山寺本願寺衆も、毛利や同盟者が弱体して援助が少なくなった事や海上封鎖によって物資の補給がままならなくなったことから、弱気になった時期を見計らって朝廷へ働きかけ勅使を持って和議が成立した。3月5日朝廷から近衛・勧修寺・庭田を勅使とし、信長公側から宮内卿法印・佐久間右衛門を派遣して和議がなった。7日に大阪城請け渡しの誓紙を出し、7月20日を明け渡しの日と定めた。3月7日信長公は山崎へ帰り、8日帰洛した。

3月9日北条氏政より信長公へ鷹の献上の使者が来て、関東八州を北条へ分国する縁組の儀が成立した。3月9日柴田勝家は加賀を平定して越中へ攻め込んだ。19日信長公は安土へ帰城した。3月21日北条より返礼の贈答があった。安土城下では埋め立て奉行が定められ、家臣の屋敷の土地割りが決められた。信長公は25日から28日奥の嶋で鷹狩りを行った。

4月24日秀吉は播州しそ郡の宇野民部・宇野下野を破って姫路に城を築き、播州から但馬国へ兵を進めた。加賀国では柴田修理は能登も平定した。4月9日本願寺門跡顕如光佐は大阪石山城を出て雑賀へ移ったが、息子の新門跡教如は石山城にこだわる門徒に従って退出しなかった。5月26日石清水八幡宮の造営がなって遷宮が終わった。信長公の武運長久、御家門繁栄の基である。6月5日播州しそ郡の宇野民部・宇野下野が夜中に退散するところを、木下平太輔・蜂須賀小六が追撃した。この勢いで因播の国境まで進出し、城主が降参してきた。6月26日土佐の長曽我部は信長公へ鷹と砂糖を献上してきた。7月2日本願寺門跡顕如が雑賀へ退出する際に、中将信忠卿へ挨拶に赴いた。信長公は面会はしなかったが、門跡と北の方に金品を贈った。8月2日新門跡教如は結局石山城を退出する事になった。勅使と信長公の使いと受け取り検使矢部が立ち会った。ここに天正4年から5年かけた石山本願寺攻略は終了した。退出後大阪本願寺の伽藍に火を掛けたので、3カ日夜昼黒い煙を吐いて炎上し落城、その歴史を終えた。8月12日信長公は大阪へ出向いた。

8月12日信長公は検分のため大阪へ出向いた。そして長年大阪攻めの責任者であった佐久間信盛親子に任務不行き届きの責め状をしめして追放処分とした。この責め状は信長公自身が書いたもので19条からなる長文の叱責文であった。これは明智の讒言であったと云う説もある。後始末は筒井順慶にまかせたという。8月17日佐久間親子は高野山へ追放され、その後はわからない。11月17日柴田修理は加賀一揆の歴々の首を取り、安土へ進上し曝したという。

信長公記 卷14(天正9年 1581年)

正月の諸侯年賀の挨拶は中止、御馬廻衆だけの馬揃えも雨で中止。安土に御馬場を築く普請奉行に菅屋九右衛門ら三名を任命した。1月3日武田勝頼が高天神城を囲むと云う噂が立ったので、中将信忠卿は清洲城に居陣した。高天神城の南の横須賀城に水野ら3名の武将を派遣したが、結果として何事もなかった。1月15日は左義長の行事に用いる爆竹行列が安土城下で盛大に行われた。1月23日惟任日向守に都で御馬揃をするお触れを全国に出させた。2月20日上洛し、本能寺を宿とする。2月28日都にて、御馬揃(軍事パレード)が華やかに盛大に行われた。全国の諸侯がきらびやかに飾った武将と馬の行列が内裏東の馬場を行進した。3月5日には禁中より内裏内で御馬揃を見たいと云う御所望があって、選りすぐった名馬500騎が行進した。筆者はこのパレードの記事を細かに記載している。

都で御馬揃えで地方が留守になっている間に、3月9日加賀松倉城の上杉氏の武将河田豊前が越後から長尾喜平次を呼び寄せ、佐佐内蔵佐を入れてあった小井手城、ふとうげ城を攻めてきた。佐久間玄蕃らの活躍でこれを退けたが、3月10日信長公は安土へ帰り、15日柴田修理らに越中能登を攻略するように命じた。軍が越中に陣を敷いたが、24日には長尾・河田らは小井手を引き払って帰国したので戦闘は無かった。3月25日徳川家康は武田勝頼に奪われた高天神城を攻め、680人の首を討って勝利した。これにたいして武田勝頼は動かず、高天神城を見殺し始末になった。3月28日能登七尾城に菅屋九右衛門を差し遣わした。

4月10日信長公は琵琶湖の竹生島に御参詣に出かけ、長旅を一日で帰ってきた。安土城内では信長公は今夜は長浜でお泊りとばかりに、城を明けて留守であった。これを怒った信長公は長老や女中を成敗したしたという。人の意表を衝く行為で、会社のトップがよくやる手口である。こんな上司を持つとサラリーマンは苦労する例え話。又4月20日和泉槙尾寺の寺領改めで領地を没収された衆徒が武装したので、堀久太郎は麓を囲むと衆徒は山を棄て離散した。5月10日空海幼少時のゆかりの寺である和泉槙尾寺の伽藍は焼き払われた。

越中国では、松倉にいた敵河田豊前が5月24日病死した後一連の動きがあった。6月21日越中国の寺崎民部父子が捕らえられ、佐和山城に取り込められた。6月27日には菅屋九右衛門が能登七尾の敵遊佐美作ら3名の家老職を殺害し、温井備前父子は逃亡した。7月6日惟任五郎左衛門は、謀略を持って上京してきた越中国舟木城主石黒左近ら30名を佐和山城で殺害した。7月17日佐和山城に閉じこめた寺崎民部父子を殺害した。

一方中国では、備前、美作を制して但馬口より、6月25日秀吉は二万騎で因幡の鳥取城を囲んだ。鳥取城と出城の連絡を遮断し、芸州からの援軍を遮断するため二つの砦を設け、山の上に秀吉の居城を設け、丹後・但馬からの兵糧輸送の自由を確保して何年もの在陣を考えた手を次々と打った。8月13日芸州毛利・吉川・小早川が背後から鳥取城の援軍として出てくると云う噂があったので、信長公は決戦準備のため、丹後の永岡兵部、丹波の惟任日向守、摂津の池田勝太郎、高山右近、中川瀬兵衛らに出陣の準備を命じた。そして激励のため14日信長公は馬を秀吉へ送った。秀吉は腰を据えて水も洩らさない鳥取城の兵糧攻めを行い、城内は餓死者が続出し、降参の申し状を示した。吉川式部、森下道祐、日本介の三大将の自害で10月24日に城を明け渡す事になった。死者を食う餓死者の有様は筆者をして「兎に角に命ほどつれなき物はなし」と言わしめた。10月26日伯き国(島根)においた南条勘兵衛らの城を吉川元春が包囲した。吉川軍は羽衣石、岩倉城を襲った。秀吉は10月28日に馬の山へ陣を敷いた。7日間の戦いで二城を奪い取り吉川元春が兵を引いたので、11月8日姫路に帰国した。

8月17日摂津伊丹の残党を匿った疑いで高野山の僧等数百人の首を切った。能登国四郡を前田又左衛門に下された。菅屋九右衛門が能登・越中の城を悉く破却したという。これで能登越中の国もようやく平定されたようである。9月3日北畠中将信雄が伊賀国へ出陣、甲賀、信楽、加太口、大和口から攻め入り、柘植の福地ら降参した。9月6日壬生野城、10日さなご嶺おろしを破壊した。こうして伊賀四郡を北畠中将信雄へ下され、伊賀一郡を織田上野守信兼に与えた。信長公の子供・親族である。(信長公の子は、中将信忠、北畠中将信雄、織田三七信孝である)10月9日信長公は伊賀国を視察のため、飯道寺へ入った。13日安土へ帰国。

11月17日秀吉と池田勝九郎は淡路島岩屋を攻め、岩屋は池田に渡して、11月20日秀吉は姫路に帰国した。秀吉獅子奮迅の活躍である。ここに面白い記事がある。12月5日ならび蜂屋の郷の八という美人局が、野州の東善寺の女を入れゆすりを働いた。代官の野々村三十郎らこれを絡めとり男と女を成敗したということである。信長公へのお歳暮に秀吉は小袖200枚を送って女房衆を喜こばせたという気の利いた話である。これは筆者が秀吉の祐筆であった事から、信長公記では秀吉を褒めることが多い。

信長公記 卷15(天正10年 1582年)

正月1日隣国の諸侯安土にて年賀があった。諸侯から百文づつとって、惣見寺毘沙門堂の見学、安土城のご披露が行われた。安土城の構えと金銀・唐物に肝を潰したということである。1月15日には御爆竹と安土城で諸侯と信長公の御馬場入りのパレードが行われた。信長公の馬と衣裳が事細かに記述されている。1月16日昨年病死した佐久間右衛門の子息甚九朗の跡目相続が認められた。1月27日伊勢神宮の遷宮が長く途絶えていたのを復活させたい打診があって、費用を見積もらせると千貫だいう。信長公は先年の石清水八幡宮の造営も見積もりが三百貫のところ千貫かかったのを知っていたので、三千貫を用意させるため、岐阜城の土蔵から三千貫を信忠に命じて捻出させた。(伊勢神宮の遷宮は後に秀吉が完成させる)

1月27日、紀州雑賀の鈴木孫一が土橋平次に殺されるたのを恨みにした鈴木孫一の子息兄弟に、織田左兵衛が鈴木兄弟に肩入れをして土橋を殺害した。土橋の子息ら残党が根来寺千職坊を頼りにして逃げ込んだので、斉藤六太夫は2月8日根来寺千職坊を討ち取った。内紛を利用して根来寺の根絶を図ったということ。

2月1日信州の木曽義政と苗木又兵衛が武田方から信長方に寝返ったので、信忠卿は人質をとって菅屋に預けた。2月2日武田勝頼は木曽謀反を知って兵をあげ、新府の館から諏訪上原に移動した。2月3日信長公は武田包囲の陣営を決め、家康は駿河より、北条は関東より、金森を飛騨より、信長と信忠は伊那より攻めることになった。武田勢は伊那口に要害を構えた。2月9日信長公は信濃へ出陣する時、大和の筒井順慶・三好・池田・中川・多田・惟任日向を出陣させる命を出して、あとの守りを指示した。10日信忠卿は岐阜土田に陣を取った。2月14日信州松尾城の小笠原掃部が信長公方に寝返ったので、団平八・盛勝蔵らは木曽峠を越えた。14日武田方飯田城の星名弾正・ばんざいは高遠城へ逃げ込んだ。2月16日武田方の今福筑前が鳥居峠に兵を出したところ、木曽と苗木らと織田源太が戦ってこれを討ち取り、鳥居峠を占拠した。三位信忠卿は飯田に陣を取って大島上を攻め、武田方の日向玄徳は城を捨てて逃亡したので、飯島へ兵を進めた。2月25日駿河江尻城の武田の重臣穴山玄蕃が寝返って信長公方についた。28日これに動揺した武田勝頼は諏訪上原を引き払いもとの新府館に移動した。3月1日三位中将信忠卿は飯島から移動して、2日仁科五郎が守る高遠城を攻め、400の首を取る勝利となった。3月3日信忠卿は新府館へ攻め入り新府を焼いた。武田勝頼勢は散々に逃亡し、勝頼一人小諸へ逃げ込んだ。3月7日信忠卿は甲府へ移動して武田一門の残党を征伐した。木曽口のふかし城を守っていた馬場美濃守も降参した。家康公は穴山玄蕃を案内者として駿河河内口から甲府へ乱入した。信長公は3月5日岐阜から犬山へ、9日金山へ、10日高野へ、11日岩村と兵を進めた。そして3月11日こがつ山の田子において、武田勝頼一族侍41名と女50名は自害しここに武田家は滅亡した。3月13日飯田において勝頼の首は滝川左近から信長公へ渡され、検分。3月16日武田の親族である典廐も小諸で討ち死に。勝頼親子、武田典廐、仁科五郎の四人の首は都で獄門の懸けるべく搬送された。ここに武田家滅亡を記す記事が名文なので記載する。「国主に生まるる人は、他国を奪取らんと欲するによって、人数を殺す事常の習いなり。信虎より信玄、信玄より勝頼まで三代、人を殺す事数千人という員を知らず。世間の盛衰、時節の転変ふせぐべくもあらず。闇より闇道に迷い、苦より苦に沈む。ああ哀れなる勝頼哉」勝頼親子、武田典廐、仁科五郎の四人の首は都で獄門の懸けるべく搬送された。

3月18日信長公は高遠城に陣取り、19日には諏訪法花寺に居陣した。20日木曽義政、穴山梅雪、松尾掃部ら寝返り組が信長公に挨拶をしに参上した。3月29日武田領の知行割を決定した。甲斐の国は川尻与平衛へ、駿河国は家康公へ、上野国は滝川左近へ、信濃四郡は森勝蔵へ、伊那一郡は毛利河内へ、そして木曽義政、穴山梅雪は本領安泰というものであった。そして甲州・信州の国掟が定められた。4月2日信州諏訪に中将信忠卿を置いて、信長公は帰洛の途についた。ここからは気楽な道行なので宿泊地を簡単に記す。4月2日大ヶ原、3日甲府、草津で湯治したあと10日に甲府をたち、11日本栖、12日富士宮、13日江尻、14日駿河田中、15日掛川、16日浜松(ここまでは家康公の案内で)、17日豊島吉田、18日知立、19日清洲、20日岐阜、21日安土に帰国。

5月11日信長公住吉に移り、四国へ渡る船の建造を命じた。15日安土において家康公と穴山梅雪を接待した(接待役は明智光秀)。駿河・遠州を家康公に下さる。家康公と穴山梅雪は5月15日から19日安土に滞在した。羽柴秀吉は中国備中(岡山)のすくも城やえつたが城を取って、高松城を水攻めにした。そこへ芸州から救援にきた毛利・吉川・小早川らが陣を進めたので、信長公は決戦の日が近いとして、先陣を惟任日向、長岡与一郎、池田勝三郎、塩川、高山。中川らに命じた。17日惟任日向守は出陣準備のため坂本に帰国した。5月19日は家康公のために能楽を催し、20日は会食を催した。21日家康公らは上洛して大阪堺に向った。5月26日明智光秀は坂本から亀山城に居城し、愛宕山で一宿して連歌会を開催した。ここで問題の光秀の野望が「ときは今あめが下知る五月かな」披露されたという。「とき(土岐)とは明智の旧家で、土岐氏が天下を統べる」という決心だと解釈する文学者もいる。5月29日信長公は安土城の留守役を命じて中国へ向うつもりで上洛した。この時お供は僅か小姓ばかり2,30人であったという。6月1日夜惟任日向守光秀謀反を企て、三草越えから引き返し、老の山から京へ入るべく桂川を渡った。6月2日未明、本能寺の変が勃発した。信長公は「是は謀反なり、如何なる者の企てぞとの問いに森蘭丸申す様に、明智が者と見え申し候と言上候えば、是非に及ばずと上意候」と覚悟を決めて、火のついた館に戻り自害したという。息子三位信忠卿は二条御所に戻ったが、明智の追っ手に支えられず、是も自害したという。信長公親子、一門歴々討ち死に、安土城も散りじりに岐阜、尾張へ逃げ、蒲生右衛門大輔が城に火を掛け、屋敷財宝すべて灰燼に帰したという。

 
ー 完 −

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