文藝散歩 

 ギリシャ悲劇

丹下和彦編 「ギリシャ悲劇」 中公新書(2008年2月)

アイスキュロス「縛られたプロメテウス」、「テーバイ攻めの七将」、ソポクレス「アンティゴネー」、「オイディプス王」 岩波文庫

啓蒙・理性の世紀、紀元前5世紀都市国家アテネの繁栄と没落を描くギリシャ悲劇 


今我々が読むことが出来るギリシャ悲劇は33編のみであると言われる。しかもそのすべてが紀元前5世紀に創作・上演されたものである。この世紀はギリシャ都市文明にとってアケメネスス朝ペルシャの侵略を撃退し、自由、英知、法、勇気のギリシャ精神が花開いた黄金時代であった。しかしこの世紀の末にはアテネとスパルタの内乱(プロポネス戦争)でアテネが衰退してゆくのである。その時代の精神を色濃く反映したギリシャ悲劇がギリシャ共同体に迎えられ上演された。ギリシャ悲劇は宗教性、文芸性、社会性のいづれの面でも当時の都市国家アテネの独自性と分かち難く結びついている。ギリシャ悲劇がアテネの時代性を反映しながら、時代と場所を超越して人間性を考えさせる普遍性を維持しているのはなぜだろう。シェークスピアの近代的知性の煩悶とギリシャ悲劇の神々と人間性との戦いは何時読んでみても面白い。ギリシャ悲劇は間違いなく現西欧社会の精神的バックボーンとなっている。自然の力や部族社会と云う神の世界から英雄的人間が自立して行く過程は人間の近代的知性の出発点であった。丹下和彦編 「ギリシャ悲劇」 中公新書(2008年2月)という本を読んでみて、33編のギリシャ悲劇からアイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスの三詩人の11篇をとりあげ、ギリシャ精神の変化を検証したい。そして私が読んだ岩波文庫のギリシャ悲劇から、アイスキュロス「縛られたプロメテウス」、「テーバイ攻めの七将」、ソポクレス「アンティゴネー」、「オイディプス王」の4編を紹介したい。


丹下和彦編 「ギリシャ悲劇」 中公新書(2008年2月)

アリストテレスは「詩学」で悲劇の起源を、酒神ディオニソスを寿ぐ酒神賛歌の合唱隊に求めている。ディオニソスは東方のアジアから葡萄の栽培とぶどう酒の醸造技術とともにギリシャに渡来し、オリュンポスの神々の仲間入りをした神である。この新しい神の受容をめぐって混乱のなかから犠牲の歌が発生し、そこから悲劇の原型が生まれたとする見解が主流である。なぜならギリシャ悲劇の上演は春三月の大ディオニュシア祭の祭礼行事であり、その舞台はディオニュソス神殿の神域にあるディオニュソス劇場である事から明らかである。ギリシャ悲劇の宗教性を示す。ディオニュソス神にまつわる歌舞が一種の劇的パフォーマンスを取り始めるのが遅くとも紀元前6世紀と想定される。紀元前534年の第一回ギリシャ悲劇競演会において悲劇の祖といわれるテスピスが優勝した。芸術性(虚構性)に重きを置いたテスピスが敷いたギリシャ悲劇の流れの上に、アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスらが紀元前5世紀中葉以降の悲劇全盛時代をもたらすのである。ギリシャ悲劇はすべて古いギリシャ神話・伝承に題材を求め、そこへ新しい酒を持ち込むのである。ギリシャ悲劇で起用される役者は1作品に3人までと規定される。そこでテスピスは合唱の中へ仮面をかぶった俳優のセリフを持ち込んだ。(一人何役もこなすため仮面で役柄を切り替えるのである)虚構の世界の上に現実味を注入するのが俳優の腕の見せ所である。テスピスは一人の俳優を持ち込んだ。アイスキュロスはふたりの俳優を持ち込んだ。これによって俳優による対話が成立して、合唱の要素が減少した。ソポクレスは三人の俳優と15人の合唱団に増員した。この頃から劇の分業化が進み、脚本と演出担当の作家、俳優、音楽担当、合唱団を別々の人間が担当した。俳優の独立は悲劇の芸術性向上に飛躍的な進歩をもたらし、演技コンテストが行われた。初期のアイスキュロスの「ペルシャ人」には劇中に合唱が占める割合はまだまだ大きかったが、劇の構成が、プロロゴス(導入部)、パロドス(合唱隊入場歌)、エピイソディオン(俳優による対話部)、スタシモン(幕間に合唱隊歌)、エクソドス(終結部)で演じられるようになった。エウリピデスは劇に最中に劇の筋道展開や解説・情報提供のために機械仕掛けの神デウス・エクス・マキナを何回も登場させるのであった。紀元前5世紀の変り目にようやく常設の劇場が建設された。ローマ時代の石つくりの劇場ではなく木造の屋外劇場である。観客席は斜面を利用した。春になるとディオニュソス劇場は市民で満席になって、三日間三人の作家による観劇三昧となった。ひとりの作者が悲劇3編とサチュロス劇(笑劇)をかけるのである。上演費用は有力な市民の寄付と国家の援助によった。三日間の演劇が終わると選ばれた市民による審査が行われ優勝作がが選ばれる。ギリシャ悲劇は宗教性を持ちながら、アテネ市と云う共同体の構成員全員の参加による全市民的行事であった。ディオニュシア祭のギリシャ悲劇上演は自由、法、勇気、知という価値観を共同体が確認する社会的な存在でもあった。共同体の精神的統合のよりどころでもあった。こうして紀元前5世紀のギリシャ悲劇の特性として、宗教性、文芸性、社会性という三つの要素が見られるのである。日本の村祭りにもこのような要素は観察できる。劇が浄瑠璃であったり、能・狂言であったり、神楽・催馬楽であったり、歌舞伎であったりする。ただし日本では精神的統合という側面は非常に弱い。

アテネの前5世紀は激動の時代であった。世紀のはじめギリシャは2度にわたってペルシャの侵攻を受けた。前490年と前480年である。前480年にはアテネは一時ペルシャ軍に占領された。ペルシャを撃退してから50年ほどはアテネは復興してエーゲ海のポリス間のデロス同盟の覇者として繁栄した。国内的にはペリクレスという政治指導者のもとに古代オギリシャの民主制が確立した。ギリシャ人は自信を持って自らの民族性と文明に誇りを持った。哲学者が輩出し自然と世界の認識という知性の働きが重要視され、後世には啓蒙と理性の世紀といわれた。そこで生まれたのがギリシャ悲劇である。しかし前5世紀末にはアテネとスパルタを領袖とするギリシャを二分するぺロポネス戦争(前431−前403年)という内乱が発生し破れたアテネは衰退した。著者はこのギリシャ悲劇33編の中から、ギリシャ精神の時代的変化を象徴する11篇の作品を取り上げて、うまく並べてギリシャ人の問題意識、時代時代の精神活動を時系列に解説しようとするのである。各作品の解説に入る前に、各作品がどのような意識を問題としたかを簡単にまとめておきたい。ギリシャ悲劇の宗教性、芸術性、社会性という三つの面を人間性フーマニタスで包括的に抽象化した概念である。

1) アイスキュロス 「ペルシャ人」

ギリシャ人、特にアテネ人にとって自由という概念が固有の伝統的価値観であった。ペルシャ人の来寇を撃退し独立と自由を守ったことは、アテネ人にとって自由を国是とする熱血的な愛国精神をもたらした。ペルシャ戦争を自由を守るための戦争と規定した「テミストクレスの民会決議碑文」を心に止める必要がある。

2) アイスキュロス 「オレステイア三部作」

ギリシャに伝統的な概念としてヘロドトスも挙げていた「法」の概念である。復讐は力の正義であり、報復には報復の循環が生じる。母親殺害というう事態は従来の力の正義だけでは収拾出来なくなった。法の正義の確立は、新しい市民社会の成立に必須の要件であった。アテネ内部の政治的内紛(改革派ペリクレスと保守派キモンとの対立抗争)はペリクレスの勝利で避けられた。法的社会礼賛はギリシャ民族が持つ部族の論理からの脱却である事が強調される。

3) ソポクレス   「アンティゴネ」

死んだ兄の埋葬をとり行おうとするアンティゴネの英雄的行為は、神の法と現世の人間の法との論争である。アリストテレスはソポクレスが「人間をそうあるべき如くに描く」と言ったが、生への絆を断ち切れない人間味溢れる英雄として肯定的に表現されている。美を愛し知を愛する存在として英雄的に人間が描かれている。

4) ソポクレス   「オイディプス王」

ここでは知の問題が描かれている。テバイの悪疫の原因追求に自分の存在をかけて、自分の出自まで明らかにせざるをえないオイディプス王の悲劇である。知性によってこの世界を捉えなおすことを止められない人間の知性の自立問題である。「知の愛好者」である。

5) エウリピデス  「メディア」

アリストテレスはエウリピデスを「人間をありのままに描く」といった。自分を裏切った夫に復讐するために、子供まで殺す罪深い所業は激情チューモスのせいである。激情・非理性が犯行を計画するのである。理性の網から漏れた感性が、しばしば人間を突き動かして思いもよらない行動へ走らせる。こうした情念の奔流はやはり人間の中に厳然として存在する。

6) エウリピデス  「ヘレネ」

繁栄に驕ったアテネ共同体は前416年にメロス事件の暴虐を起こし、そしてシチリア遠征艦隊の壊滅的敗北を喫す。こうした知性の衰退がアテネを衰退に導いた。トロイ戦争を題材に一人の女ヘレネの幻の姿と、エジプトに幽閉された本当のヘレネの認識をめぐる知の病を描いた。表面的には脱出劇に過ぎないが、内面は真実と幻が区別できない錯乱した精神を描いているのである。

7) エウリピデス  「キュクロポス」、「オレステス」、「バッコスの信女」三部作

キュクロポスは笑劇でありながら、知と法も嘲笑とパロディの対象でしかない。 エウリピデスは三部作で法秩序への反乱という視点から捉えた。パロディと云う形を取りながら、「オレステス」では母親殺しの罪で死刑の判決を受けたオレステスが、血縁関係よりも利害関係からなる党派の力を重視して法を無視して生き延びるのである。オレステスは罪を犯したという意識に苛まれながら助命嘆願とという行為に出て、英雄も地に落ちたのである。最期の「バッコスの信女」では新興宗教を弾圧する現世の王の権威も、卑猥な興味から殺害される羽目になる若き王オレステスの喜劇である。病んだ知に支配された行く先はいつも破滅である。悲劇詩人エウリピデスは病んだ知の病理解剖を行うのである。


1) アイスキュロス 「ペルシャ人」ー自由こそ

紀元前8世紀に成立したホメロスの「イリアス」でトロイ戦争の東西抗争事件を扱っているが、そこには東西の文化的社会的または政治的対立の構図は明確ではない。前5世紀初めのペルシャ戦争は、歴史家ヘロドトスは「歴史」の冒頭で、ギリシャ世界とアジア世界の東西戦争のいきさつと英雄的な結果を描くと宣言している。ギリシャ民族を表すヘレネスという言葉は前7世紀には使用されていたが、当時のギリシャ人の共通感覚にはオリュンピア競技会(前776年開始)などの文化的統一意識はあっただろうが、政治的国家的統一意識は極めて稀薄であったとみられる。異邦人(バルバロイ)という言葉は二度のわたるペルシャ戦争を契機として確立した。ペルシャ軍によるアテナイ占領はギリシャ人にとって未曾有の体験であり、両世界の認識がはっきりし、価値観を守るための防御戦争を英雄的に戦った。ペルシャ軍をサラミスの開戦とプラタイアの闘いで破った自信が、ヘロドトスをしてギリシャ民族の特質を自由、法、叡智、勇気の概念にまとめた。

アイスキュロス 「ペルシャ人」は前472年に上演された。この時4作品が上演されたが、残っているのはこの「ペルシャ人」だけである。アイスキュロス 「ペルシャ人」では、サラミスの海戦でのペルシャ軍の敗戦の報告が、ペルシャの都スサに届くところから始まる。ペルシャ王クセルクセスのギリシャ遠征中の留守居役である長老達の合唱隊が長い登場歌をうたう。「王は何時戻ってくるのか、悪い予感が胸のうちを騒がす」 登場したペルシャの大后アトッサがクセルクセスとペルシャの運命を暗示する悪い夢の話をする。ペルシャは世襲制の王が支配する独裁国家で、ギリシャ軍を指揮するのは奴隷でも家来でもない民主国家である事が語られる。先生と自由との二つの政治体制の衝突である。そこへ遠征軍から報告が入る。敗戦の理由を使者はギリシャ人の策略と神々の妬みだという。ギリシャ軍が会戦で歌った戦勝祈願の歌パイアン「祖国に自由を、子や妻に自由を、今こそ闘うのだ」という自由の国アテナイを謳う。豊かな黄金の国ペルシャを貧しい国ギリシャが打ち破ったのだ。(大国ロシアを新生日本が打ち破ったように)ペルシャの独裁者クセルクセス王の思い上がりが迷想を呼び、神の妬みを受けて破滅に向うという思想は、以降のアイスキュロスの作品に一貫して流れるテーマである。非ギリシャ的要素とギリシャ的要素との確執を、専制と自由という対立の図式で持って始めて位置づけた作品である。

2) アイスキュロス 「オレステイア三部作」ー法の正義

アイスキュロス晩年の大作 「オレステイア三部作」が上演されたのは前458年であった。アイスキュロスがこの「オレステイア三部作」で提示しようとしたのは、全ギリシャの文化共同体を支えた市民の価値観であった法の正義の実現過程であったようだ。ペロポネス半島の国アルゴスの盟主アガメムノン一族の血塗られた物語に材をとった「アガメムノン」、「供養する女達」、「慈しみの女神達」からなる三部作の悲劇である。トロイア遠征軍の総大将アガメムノンはアルゴスへの凱旋直後、妻クリュタイメストラとその愛人アイギストトスに惨殺される。時が経ちアガメムノンの息子オレステスが亡命先から帰国し、姉のエレクトラと協力して母クリュタイメストラとその愛人アイギストトスを殺して父の復讐を果たした。しかしオレステスは復讐の女神エリニュスから厳しい追及を受けアテナイに逃れ、そこでに設けられた法廷で裁きを受け無罪とされるというのが全体のストーリーである。

(1) 「アガメムノン」-暗殺のドラマ

妻クリュタイメストラによるアガメムノン暗殺の原因としておよそ三つの理由が考えられる。アガメムノンはギリシャ軍の総大将としてトロイアへ出征する。アウリス出港に際して順風を得るために神の命じるままに娘イピゲネイアを生贄にした。これが妻クリュタイメストラを怒らせ娘の復讐を誓わせることになった。第二の理由は妻クリュタイメストラの不義密通を隠すためである。実はその愛人アイギストトスとはアガメムノンの政敵で迫害されたテュエステスの息子であるという氏族社会の政治権力争奪の裏があった。第三の理由はトロイアの王女カッサンドラを戦利品として連れて帰ったことである。妻クリュタイメストラの嫉妬と憎悪の対象となった。妻クリュタイメストラはこの劇では強い意志と謀略性を持った「憎憎しい牝犬」と形容される。このトロイア戦争が実は大義名分のない弟の浮気な女房を取り返すための戦いに過ぎず、娘イピゲネイアを生贄にすること自体が許されないと妻クリュタイメストラは主張する。妻クリュタイメストラは夫殺害の策略として、神のものである緋色の絨毯を夫に踏ます冒涜の罠を用意した。こうしてアガメムノン暗殺が行われた。時間が大分過ぎてから、捨てられたアガメムノンの第三王子であるオレステスが成人して帰還するのである。

(2) 「供養する女達」ー復讐のドラマ

クリュタイメストラとアイギストトスはアルゴスに君臨している。娘エレクトラは二人に虐待されて耐えている。そこへ復讐者オレステスの帰還への願望が合唱団によって告げられた。姉エレクトラと復讐者オレステスの再会は墓参りで果たされた。合唱は報復が正義であるとことを歌う。復讐者オレステスはこう言い放つ。「敵意と敵意が、正義と正義がぶつかるのだ。」部族社会の覇権争いは力の正義である。復讐の論理は正義なのだ。クリュタイメストラとアイギストトスを殺害したオレステスは罪の意識におののく。母と子が復讐の連鎖に繰り込まれる。肉親の罪を追及する復讐の神エリニュスが幻想となってオレステスの心の中を乱舞する。

(3) 「慈しみの女神達」ー裁きと赦しのドラマ

デルポイのアポロン神殿の前で加護を祈るオレステスに対して、アポロン神は「自分が母を殺せと命じた」といい、復讐神エリニュスと激しく対立する。そして審判はアテナ女神の裁きに委ねられる。アテナは市民の中から選んだ陪審員を設置して、パゴスの法廷においてオレステスの無罪を宣言した。都市国家アテナイにおける法の正義の確立、法治国家アテナイの宣言である。陪審員制度を採用している事も注目される。復讐神エリニュスはなかなか納得しないが、アテナ神の説得を受け入れ、慈しみの女神として市民らの安寧を図ることを約束する。復讐神エリニュスは慈しみの女神エウメニデスに変貌した。

3) ソポクレス   「アンティゴネ」ー人間賛歌

ソポクレスの「アンティゴネ」は前442年の上演とされる。時はペリクレス治下、アテナイの繁栄には翳りは見えない。人間のあるべき姿(理想像)を正面から見据えたソポクレスの作品が登場した。一つの信念(神の法に殉じきることによってその行為を崇高の位置まで高めた一人の強い女性のありようを描いた作品である。劇のストーリを見ておこう。オイディプスの死後、テバイの王位をめぐって二人の息子エテオクレスとポリュネイケスが争い、争いに敗れたポリュネイケスはアルゴスに逃れ、アルゴスの軍勢を率いて祖国テバイを攻めた。一騎打ちで二人とも討ち死にをする。叔父のクレオンが王位について、エテオクレスは国葬を持って葬るが、外国勢の加勢で祖国を攻めたポリュネイケスは逆賊であるとして埋葬を許可せず、埋葬したものは死刑とすると布告した。二人の兄弟の姉アンティゴネは禁制を犯して弟ポリュネイケスを埋葬しようとして捕縛され投獄される。アンティゴネは最期は獄中で死を選ぶ。アンティゴネの許婚でクレオン王の息子ハイモンは助命を誓願したが赦されず自分も自殺する。これを知った母親エウリュディケも後を追って自殺する。残ったのはクレオン王ひとりである。

劇は最初から死の匂いに満ちている。自分の死刑が避けられない事を知っている確信犯のアンティゴネは神の法を述べ、現世の人間の法との論争を繰り返すのである。アンティゴネを「死のエロス」と言った人がいる。根源的なエロスでもある。ここに許婚者ハイモンを登場させた事は、作者が生の世界に繋がっているアンティゴネの側面を引き出すためである。死を躊躇するアンティゴネの戸惑いと愛を見せることで、さらにつよいアンティゴネの神の法への願望を際立たせるためである。強い死への願望の間に綴られる生への想いは「弱いアンティゴネ」を暗示し準備するものであった。アンティゴネとハイモンは舞台上で遭遇することはない。つまり成就することのない愛を描くのである。このように人間味溢れる英雄像は、叡智が生み出す最高のものであり、芸術が描くことが出来る最高のものである。これが文学の極意である。

4) ソポクレス   「オイディプス王」−知による自立

知が人間を自然の猛威から守り、生活の安定と向上に寄与する有力な武器になった。ギリシャ人が創造した知性の一人がオデュセウスであるなら、オイディプスは今一人の知性の人である。怪物スピィンクスのなぞ掛けを解いてテバイの民を救ったとされる。オデュセウスの知性が文明の道具であるなら、ソポクレスの描いたオイディプスの知性は知る事自体が崇高な目的となる、生きることの意味を探求することであった。劇のストーリを見ておこう。オイディプス治下のテバイに疫病が発生し、国を疲弊させていた。その原因をデルポイの神託に尋ねると、先王ライオスの殺した犯人を探し出して、処刑か追放しなければ疫病は収まらないというクレオンの宣告であった。オイディプスは治者として犯人探しに邁進する。そこに預言者テイレシアスが現れて、オイディプスこそ犯人であるという。身に覚えのないオイディプスは激昂して王妃イオカステの慰めも効果はなかった。しだいに不安になったオイディプスに父親殺しと母子相姦の神託が覆いかぶさる。オイディプスはコリントスの父母の子であると思っていたが、実は捨て子をコリントス王が拾って育てたのである。その捨て子とは先王ライオスと王妃イオカステの生んだ子で、生まれた時に預言者が「父親殺しと母子相姦」を宣告するので、王妃イオカステが山の中に捨てたのであった。ある出来事で先王ライオスを殺害していたオイディプスはテバイに入って王となり母イオカステを妻としたことを知った。過去の秘密を知ったオイディプスは自らの手で目を潰し、盲目となってテバイを離れたのである。

テバイの王オイディプスは類稀な知の人として君臨する。先王ライオスを殺したのは王位簒奪を狙う政治集団と見て捜索を始めた。最初オイディプスは自分は事件には無関係だと思っていた。実はオイディプスがテバイに入る前に先王ライオスと知らず山中で人を殺した。捜索の情報も錯乱しており、オイディプスの真実を知る作業は困難を極めた。そこに預言者テイレシアスが現れて、オイディプスこそが先王である父親殺しだと宣告したのである。オイディプスは頭に来て逆に王位を狙うのは預言者テイレシアスやクレオンではないかと想定した。クレオンに死刑を言い渡す。ライオス殺害現場が三叉路だったという情報からオイディプスは自分への疑いも考えるようになった。コリントス王の死亡が伝えら、オイディプスは実の子ではないと告げられた。自分は捨て子であったという事実を知る。ついにすべての真実を知るに至ったオイディプスは母であり王妃であるイオカステの自殺に遭遇し、真実を見分けられなかった自分の目に懲罰を下すため、自らの目を潰したのである。神が勝手に仕組んだ計画をそれと知らずに実行した身に、人間としてどれほど責任があるのだろうか。しかし知らぬとはいえ実際に行為して罪を犯したのは自分である。犯した罪は命を絶つだけでは償いきれない。尚生きて罪の意識に堪えようとするところに、オイディプスの人間としての存在理由を見出すことが出来る。神の悪ふざけに対する人間存在の異議申し立てであり自己主張であった。知の自覚に基づく、実に強い人間像が創造されている。

5) エウリピデス  「メディア」−情念の奔流

本編の上演は前431年である。この年はポリスアテネとスパルタの内戦であるペロポネス戦争勃発の年である。この戦争の開始後27年でアテネは敗北し、アテネ50年間の繁栄が衰退へ向うのである。アイスキュロスがギリシャ理性の勝利を高らかに謳いあげたが、エウリピデスの時代には屈折した気持ちが理性より感性・情念の奔流が悲劇を出来させる「メディア」のストーリを見て行こう。コルキス遠征の英雄イソアンはもともとメディアという妻がありながら、コリントスの王女クレウサと結婚する。クレウサの父コリントス王クレオンはメディアの追放を企てる。こうした仕打ちに復讐するため、メディアはクレウサとコリントス王クレオンを殺害した上、イソアンを苦しめるため、イソアンとの間に儲けた子供達を殺害して、アテナイ王アイゲウスの下へ逃亡するするのである。チューモス(激情・怒り)がブーレウマタ(殺害計画)を支配する。初めの計画ではメディアの殺害対象はクレウサ・クレオン・イソアンであったが、自分を裏切ったイソアンをもっと苦しめるため子供を殺害する計画に変更される。劇は復讐と逃亡の二つの相貌を持つのである。賢い女は魔女に変貌した。イソアンにすればコリントス王国との婚姻関係は有利な側面を持った。そのために昔からの妻を追放するという忘恩行為に出たのである。メディアはそれが赦せなかった。メディアにとってまさに万事休すの孤立無援の闘いとなったが、そこに現れたのが逃亡の手助けをしてくれるアテナイ王アイゲネスである。しかしメディアにとって子供を殺すのは母性愛に反することだが、女として妻としての怒りが母性愛に打ち勝った。メディアの行為には倫理的な問題が残る。鬼となることでその全人格を支配した。知が情に破れた悲劇である。

6) エウリピデス  「ヘレネ」ー病める知

ツキュディデスの「歴史」にアテネ軍の「メロス島事件」という虐殺行為が書かれている。ギリシャの知性も狂い始めていたのである。エウリピデスは現実と観念の分離を前412年に上演された「ヘレネ」という異色の劇に表した。劇のストーリを見てみよう。スパルタの王妃ヘレネはトロイアの王子パリスに恋をして、夫メラネスを捨ててトロイアに駆け落ちをする。そのヘレネを取り返そうとメネラネスは兄アガメムノンに頼んでトロイア遠征軍を起して、十年戦争ののち妻の奪還に成功する。これが所謂ヘレネ伝説である。ところが、エウリピデスの「ヘレネ」では、とんでもない異伝を言い出すのである。トロイアに行ったのは神がこしらえた幻のヘレネで、本当のヘレネは神の計らいでエジプトにいたという。悪女ヘレネにたいする貞女ヘレネ伝説である。今ヘレネはエジプトの地にあってその土地の王テオクリュメノスの執拗な求婚に悩まされていた。そこへトロイアからの帰還で難破してエジプトに漂流したメネラネスが、紆余曲折の末妻と再会した。二人は策略を用いてエジプト脱出に成功してめでたしめでたし途云う馬鹿馬鹿しいお話である。モーツアルトの「後宮からの脱出」にも似た脱出劇である。喜劇詩人アリストパネスに「女だけの祭り」というエウリピデスの「ヘレネ」のパロディ版がある。この話があながち荒唐無稽といえないのは、ホメロスの「イリアス」、「オデュッセイア」やヘロドトス「歴史」にも似たような事を匂わす記述があるからだ。劇は最初から虚構に満ちている。ヘラの女神の差し金でエジプトに着いたヘレネはエジプト王テオクリュメノスの求愛を受ける。こういう筋書きでは悲劇にはならない。なぜなら神の意思と人間の運命との関係に問題を立て、その関係に人間が主体的に関ってゆくことこそが悲劇の本質なのである。この劇は戯画された英雄を皮肉くっている。舞台進行にも工夫を凝らし、一行対話の部分が増えて独唱部分がすくなっている。対話中心の会話劇で言葉が交錯する近代的要素がある。そこで狂った知性が揶揄され,何が現実で何が虚構か、見る者も目がおかしくなったのかと疑うのである。その意味で認識能力すなわち知は病んでいる。トロイ戦争批判よりも伝統的価値の崩壊からくる奇想天外な茶化劇である。

7) エウリピデス  「キュクロポス」−懐疑そして反乱

ペロポネス戦争下、伝統的部族社会の共同体に、利害関係から結ばれる党派という人間関係が入り込んで、法秩序の根本理念である信義は廃れた。「キュクロポス」は卑猥な笑いを取る「サチュロス劇」である。一日の劇上演では悲劇3編を上演した後、重苦しい雰囲気をとるために口直し的な笑劇「サチュロス劇」を演じる。この「キュクロポス」はホメロス「オデュッセイア」に本をとっている。地中海を漂流したオデュッセウス一行はシチリア島に漂着し、そこに住む一つ目のキュクロプス族によって洞窟に閉じ込められてしまう。何人かはキュクロプス族に食われるが、オデュッセウスは機転を利かしてキュクロプスの目を潰して洞窟から脱出に成功するというホメロスの「オデュッセイア」という話をもじって、 エウリピデスは多弁な論争劇にしたてた。ギリシャ社会道徳に基づいて遭難者保護を主張するオデュッセウスに対して、キュクロプス族のポリュペモスは嘲笑と拒否をもってする。ポリュペモスは「富こそ神だ」、「最高の神はわが胃袋」といって、ギリシャ的社会の道徳・法の否定、反感を露にする。ポリュペモスはトロイ戦争を「一人の女のために戦争をおこすなんて」と戦争批判を行う。劇は一見すると脱出劇のようだが、ギリシャ世界以外の人々からの価値観と法秩序への否定嘲笑は 「キュクロポス」において激しさを増している。英雄と知略の人オデュッセウスはこの劇では徹底的にパロディ化されている。

8) エウリピデス  「オレステス」

アイスキュロス 「オレステイア三部作」でオレステレスは父アガメムノンを殺した母クリュタイメストラとその愛人アイギストトスを殺して父の復讐を果たした。その直後からのオレステレスの母殺しの大罪からの脱出を描くのが本編である。上演は前408年である。アイスキュロスの描くオレステレスは母親殺害後のアテネの陪審裁判において、共同体の正義という規範に則って主体的に行動する自己肯定的な生年であった。ところがエウリピデスが創造するオレステレス像はそれとは対照的に、神の命じるままに行ったので悪いのは神だと非難する逃げの姿であった。法の正義に基づくポリス社会が崩され行くなかで、既になんら確固たる規範を持たない一個人を捉えて描いている点が特徴である。オレステスは母親殺しの罪で死刑の宣告を受けるかも知れないという生命の危機と、罪を知る事から始まる自意識シュネシスの苦悩という魂の危機に脅かされるのである。そしてオレステスは尚生きることを第一義として助命嘆願に終始する。叔父メネラオスへの助命嘆願の期待が裏切られた時、利害を共にするピュラデスの協力にたよることになる。血縁関係あるいはは恩義という概念に基づく連帯感ピリアーはもはや存在しない。利害関係に基づく連帯関係、党派のつながりが支配する人間関係に移行している。最期は神アポロンの調停でアルゴス市民との和解が成立し生命の危機はなくなるが、魂の危機はアポロンからは救われない。恐らく自意識という魂の危機は生きている以上は続くであろう。オレステスは人間独自の自立する精神をもつことである。

9) エウリピデス  「バッコスの信女」

エウリピデスは前408年に「オレステス」を上演してから北方の地マケドニアに移住し、晩年に「バッコスの信女」が書かれた。物語のストーリを見て行こう。ゼウスとテバイの王女セメレの子であるディオニソスは主宰するバッコス教の信女らを率いてテバイを訪れ布教を図る。そして女性信者を集めては狂乱状態に陥れて山野を跋渉させる。テバイ王ペンテウスはこれを淫乱な邪教と見なして弾圧と排斥を行う。両者の対立は深まり、ディオニソスの姦計にはまったテバイ王ペンテウスの頭が狂い,狂気に乱舞する信女を見に山中にでかけたペンテウスは母親アガウエの手で惨殺される。正気に戻った母親アガウエは自らの行為を嘆いてディオニソスを非難する言葉を投げつける。ディオニソス神はゼウスの後胤であるという神威を認めさせるためにテバイの国に入ったのであるが、カドモス一族はディオニソス神の神性を疑い誹謗した。これに怒ったディオニソス神はテバイ国王ペンテウスに復讐する劇である。ディオニソス教の奥義はわからないが、酒神で生肉を食い山野を走る非条理・反理性なものといわざるを得ない。テバイの預言者テイレシアスはこのディオニソス教の受容を国王ペンテウスに勧め、この世には人間の賢しき理屈の及ばない存在があること、人間はたとえ賢者であってもその知の運用を間違えば誤って国家を害することになる、権力の過信は現に慎むべきであると説いた。国王ペンテウスはあくまで主権者として秩序を守るために、権力機構を持ってこの新宗教を弾圧したことが間違いであるというのだ。国王ペンテウス自身の中にあるディオニソス的な性欲的な根性が(信女の生態を覗く)身の破滅をもたらす。ペンテウスの死とともにテバイは崩壊する。非ギリシャ的なものによる死である。ディオニソスの法は自然に根ざす「自然法」ともいえる。ペンテウスの法はギリシャ文明社会の伝統的価値であった。ギリシャ的知と非ギリシャ的知の問題にもつながる。ギリシャ文明の法は時代とともに柔軟性を失って硬直化した価値概念に対する懐疑的精神を「バッコスの信女」は表現しているのであろう。


アイスキュロス 「縛られたプロメテウス」 呉 茂一訳 岩波文庫(1974年9月)

アイスキュロスは前525年、エレウシーヌで生まれた。彼は早くからディオニューシア大祭の4篇組の戯曲に参加していた。最初の優勝は40歳ごろといわれる。生涯13回優勝をしたという説もある。彼の作品としてはおよそ79編の名が伝えられているが、現在完全に残っているのは次の7編のみである。
@ 「ペルシャの人々」 前472年上演
A 「テーバイへ向う七将」 前476年上演
B 「救いを求める女たち」 前463年上演(推定)
C 「縛られたプロメーテウス」 前462年上演(推定)
D オレステーヌ三部作「アガメヌノーン」 前458年上演
E オレステーヌ三部作「供養する女たち」 前458年上演
F オレステーヌ三部作「恵みの女神たち」 前458年上演

 「縛られたプロメーテウス」は「プロメーティア」三部作の一つとして、「開放されたプロメーテウス」、「火を運ぶプロメーテウス」とともに一応の陣立てを構成するものと理解されている。笑劇サチュロス劇は不明である。劇上演の順序は「火を運ぶプロメーテウス」、「縛られたプロメーテウス」、「開放されたプロメーテウス」であったかどうかは確証がない。学者によっては「縛られたプロメーテウス」はアイスキュロスの真作ではないという人もいる。語法・語句、歌について激論が戦わされた。そのようなことはラテン語の分らない私どもには興味の外であるので紹介しない。劇の構成はギリシャ劇を構成する普通の内容区分にしたがって形式的に区分すれば次のようになる。
プロロゴス(導入部)                本文 1-127行   人物:へ-パイトス、クラトス、プロメーテウス
パロドス(合唱隊入場歌)            本文 128-192行 人物:コロス
エピイソディオン(俳優による対話部) 第1 本文193-284行   人物:プロメーテウス、コロス、オーケアノス 
                        第2 本文436-515行   人物:プロメーテウス、コロス
                        第3 本文561-886行   人物:イーオー、プロメーテウス、コロス
                        第4 本文907-943行   人物:プロメーテウス、コロス
スタシモン(幕間に合唱隊歌)      第1 本文397-435行   人物:コロス
                        第2 本文526-560行   人物:コロス
                        第3 本文887-906行   人物:コロス
エクソドス(終結部)               本文944-1094行  人物:ヘルメース、プロメーテウス、コロス

「縛られたプロメーテウス」の劇の登場人物は新支配神ゼウスの部下権力のクラトス、暴力のピアー(セリフなし)、ゼウスの息子で火と鍛冶の神へ-パイトス、旧支配者クロノス神の自然神ティターン一族の巨人神であるプロメーテウス(主人公)、オーケアノスの娘たちで舞唱団のコロス、ティターン一族で大洋神のオ-ケアノス、アルゴス王イーコナスの娘イーオー、ゼウスの息子で伝令の若者ヘルメースである。「縛られたプロメーテウス」の劇は前8世紀の詩人ヘーシオドスの「神統記」にあるプロメーテウスの伝説を基にしている。新しく全能の神の支配者となったゼウスは自然神ティターン一族を圧迫して地下に埋め込んだ。自然神ティターン一族の巨人で策略にとんだプロメーテウスはあわれな人間族に火を与えてさまざまな智恵をつけた。人間を憎んでいたゼウスは女という害悪を泥から作り出して人間に配した。火を天界から盗んで人間に文明の元をあたえたプロメーテウスに罰を与えるため、ゼウスはプロメーテウスを岩に鉄鎖で縛るつけるところから、この劇は始まる。プロロゴスにおいて、クラトス(権力)はゼウスから命じられ、ゼウスの息子で火と鍛冶の神へ-パイトスがプロメーテウスを巌の上に鉄鎖で縛り付ける作業を監視する。頑固で厳しいクラトスの前でぶつぶつ言いながらへ-パイトスは作業を終了して退場する。プロメーテウスは独白において、ゼウスの責めを負ったのはあらゆる技術を人間に教えたせいであることを語る。パロドスでオーケアノスの娘たちで舞唱団のコロスが登場してプロメーテウスを憐れんで慰める。エピイソディオンにおいてプロメーテウスは自分は暴力ではなく計略で敵を制する者であり、人類を滅亡から救ったという。次に大洋神オーケアノスが登場してプロメーテウスの無謀を諌めいたわりの言葉をかけるがプロメーテウスは強気で受け答える。この合間に何回もスタシモンのコロスの合唱隊歌が入る。エピイソディオン第3から主題が変わってアルゴス王イーコナスの娘イーオーが登場し、ゼウスの子供生んで后へ-ラーの嫉みをかって牛に変えられ放浪の旅に出ていたのがプロメーテウスにであって、自身の運命の予言を聞きだすのである。イーオーは中央アジアへの長い放浪の旅を続け、イーオーの子供の13代目にプロメーテウスを救い出すものが出ることを予言する。ここではプロメーテウスは予言の神となる。そして人類の高祖になるのである。劇の前半部はプロメーテウスが人間に智恵を授けてゼウスの罰をうける話で、劇の後半部はイーオーの放浪の旅と子孫の運命に関することである。


アイスキュロス 「テーバイ攻めの七将」 高津春繁訳 岩波文庫(1973年6月)

アイスキュロスの青年期から壮年期は祖国アナテイがペルシャとの死闘に巻き込まれた時代である。これはギリシャの第二英雄時代でヘロドトスの「歴史」にあるように、偉大なる将軍政治家が歴史の舞台を闊歩した。アイスキュロスもまた自ら剣を取ってマラトンの闘い(前490年)に、サラミスの海戦(前480年)に闘った。アイスキュロスの兄はサラミスの戦いで戦死し、その勇姿はストアポイキレーの壁画に残されている。彼が愛国者の悲劇を謳いあげるのは自身の体験の裏付けがあってのことである。しかし彼の悲劇作家の競演での勝利は遅く40歳ごろに最初の勝利を得て、死ぬまでに13回優勝したと伝えられる。「ペルシャ人」を前376年に上演し、「テーバイ攻めの七将」を前467年に、「オレステイア」を前458年に上演し、前456年ゲラで世を去った。

アイスキュロスの一生はペルシャ戦争とアテナイの興隆と並行している。アイスキュロスは本当にアッティカ悲劇の建設者であった。自ら俳優として自作を演じ、合唱団を指揮した。仮面、俳優の衣裳(長袍)の発明者で、俳優の数を一人から二人に増やして対話の役割を増加させた。ソポクレスが俳優を三人に増やしたことよりもっと革命的であった。「テーバイ攻めの七将」は二人の俳優と合唱団とによる悲劇の傑作である。テーバイ王家の三代にまつわる悲惨な運命と破局の物語である。アイスキュロスは「テーバイス」と「オイディポデイア」という二つの叙事詩から題を取った。物語のストーリは以下である。神託により予言(王が子をなせば、その子は王を殺し母親と契ることになる)にもかかわらず、王が子を設けてこれが王家の長年にわたる不幸の原因となる。王はその子を山中に捨てるように命じたが、こは羊飼いに拾われ、子のいない他国の王家で養育される。オイディプスは捨て子であると悟って放浪の旅に出る。旅の途中で実の親であるテーバイ王を喧嘩から殺害した。そしてスフィンクスのなぞに苦しめられていたテーバイの国を救った功績により、ギリシャ母系社会によって母に伝わった王権を継承し、母と結婚してテーバイ王になる。そして四人の子(男二人、女二人)を設けた。王は自分の呪わしい誕生の秘密と母子相姦を知って自分の目を潰して放浪の旅に出た。母親も自殺した。ソポクレス 「オイディプス王」はこのあたりを悲劇とした。残されたテーバイ国の二人の王子ポリニュケスとエテオクレスが王位をめぐって争い、争うに敗れたポリニュケスは隣の国アルゴス家にたよってその武力を借りてテーバイにいるエテオクレスを攻撃する。結果は両将の相打ちで終わる。この劇の主人公はエテオクレス(テーバイ王)一人である。全体の劇は三部作で、残っているのは最後に演じられた「テーバイ攻めの七将」のみである。

幕が開くとエテオクレス(テーバイ王)が包囲されて苦境に陥っている祖国を守るべく市民を激励している。そこに斥侯が帰ってきて敵情を報告する。王の独白に近いプロローグが終わると市民は退場し乙女達の合唱隊が恐怖を歌う。再び斥侯が帰ってきて、エテオクレスはテーバイの七つの門を攻める七敵将にたいする守りの七将を決める。最期に敵ポリニュケスと対峙するのがエテオクレスである。合唱隊は兄弟同士の戦闘を避けようとするが、戦闘に入り敵は敗走する。テーバイは救われたが兄弟王子は相打ちで死んだ。二人の王子の葬儀に二人の姉妹(アンティゴネとイスメネ)が付き添う行進で劇はおわる。


ソポクレス 「アンティゴネ」 呉 茂一訳 岩波文庫(1961年9月)

アイスキュロス 「テーバイ攻めの七将」の最期、オイディプスの二人の王子ポリニュケスとエテオクレスの相打ちで劇は終了したが、ソポクレス 「アンティゴネ」は妹アンティゴネの悲劇の開始で始まる。ソポクレス 「アンティゴネ」の物語の筋書きは丹下和彦編 「ギリシャ悲劇」に書いた。ギリシャ三大悲劇詩人の第2番目におかれるソポクレスがその現存する七作品の三篇でテーバイ王オイディプス王家にまつわる悲惨な運命を扱った。年代順では「アンティゴネ」、「オイディプス王」、「コローノスのオイディプス」であるが、話の筋からは初めに「オイディプス王」が来て、放浪のオイディプスの死を扱う「コローノスのオイディプス」、最期が二人の兄の葬送を行って処刑される「アンティゴネ」となるはずである。オイディプス王の運命については自作の「オイディプス王」に委しいのでここには述べないが、母と知らずに結婚した「オイディプス王」の四人の兄弟姉妹のうち、二人の兄弟ポリニュケスとエテオクレスの相打ちはアイスキュロス 「テーバイ攻めの七将」に述べた通りである。後を継いだ叔父クレオンは、テーバイを守って闘ったエテオクレスは手厚く葬ったが、アルゴスの援軍で祖国を攻めたポリニュケスの葬儀は禁じて、死体は鳥や野犬の食い散らすの任せた。妹アンティゴネはこれを哀れに思い国禁を犯して兄ポリニュケを埋葬する。妹イスメネは国王の命が恐ろしくて参加しないが、賢い女性で意志の強い妹アンティゴネは一人で死をものともせずに兄ポリニュケの死体に砂を掛けて清めの水をまいた。国王クレオンに捕らわれた確信犯の妹アンティゴネは、婚約者国王クレオンの息子ハイモンの必死の助命嘆願も空しく、首をつって自殺した。後を追って息子ハイモンも自殺し、その母親(クレオンの妻)も自殺した。国王クレオンも哀れであるが、この劇の主題はアンティゴネの意志の強い、不幸に鍛えられた魂と優しい心を賛美することである。国王クレオンが情けを掛けてアンティゴネを赦して、息子ハイモンと結婚させれば悲劇にならない。ハッピーエンドでは涙は出ないのである。


ソポクレス 「オイディプス王」 藤沢令夫訳 岩波文庫(1961年9月)

ソポクレス「オイディプス王」の物語の筋書きは丹下和彦編 「ギリシャ悲劇」に書いた。数多くのギリシャ悲劇の中で傑作の誉れ高いこのソポクレス「オイディプス王」はアリストテレスの称賛するところであった。不気味な運命を通奏低音にした、最高度に発揮された緊迫した劇進行から、真実の発見がそのまま運命の激しい逆転をもたらす構成は見事の一言に尽きる。安っぽいサスペンスドラマは足元にも及ばない。オイディプス王家をおおう残酷な運命にもてあそばれる英雄的な人々はソポクレスの手でいかにも悲劇に仕立て上げられた。ソポクレスは90年に及ぶ一生(前496-406年)はギリシャ古典時代の最盛期で、祖国アテナイの興隆と衰退を歩いたソポクレス自体が古典の象徴になっている。全部で123篇と伝えられる彼の悲劇作品のうち、今日完全な形で残るのは、「アイアス」、「トラキスの女たち」、「アンティゴネ」、「エレクトラ」、「オイディプス王」、「ピロクテテス」、「コロノスのオイディプス」の七篇である。

プラトン「ソクラテスの弁明」においてソクラテスは劇詩人との対話において「作家は自分が語っている事柄を何一つ知ってはいない」と言った。ソポクレスはアイスキュロスに対して「貴方は知りながら創作していない」といった。ソポクレスはエウリピデスに対して「自分はあるべき姿を詩作の中に描き、エウリピデスはあるがままに描く」と言って作風の違いを表現した。自覚して創作すると云う態度は悲劇という形式に理論的考察を行い幾つかの重要な変革をもたらしているのである。三部形式による劇の構成法を棄てて、同時上演の三つの劇をそれぞれ完結した独立の作品とした。同時出演の俳優の数を二人から三人に増やした事。合唱隊の数を十二人から十五人に増やした事、舞台における背景画の使用などである。これらは構成の複雑化や劇中の緊密度を高め、合唱隊の歌の占める分量的な割合を少なくした。

アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスの三大悲劇作家はいずれもそれぞれ「オイディプス」伝説の悲劇作品を書いた。エウリピデスの場合は全く失われているので比較しようがないが、アイスキュロス、ソポクレスの作品から「オイディプス」の取り扱いの特徴は明瞭である。アイスキュロスの劇においてオイディプスが息子達の上に掛けた呪いが劇の重要な要素であり、中心主題は三代に渡る罪と呪いの伝達ということにあった。それに対してソポクレスは彼の「オイディプス」劇において、劇構成を恐るべき事実の発見とそれによる激しい運命の逆転に集中させた。あくまで人間に知力が破滅的事実の発見に向けて集中してゆくのである。アリストテレスは「詩学」の中で、悲劇の生命をその物語(出来事と行為の構成)に見たアリストテレスはソポクレスの「オイディプス王」はまさに優れた悲劇作品の典型であると絶賛した。出来事の連鎖は必然不可避でなければならないとして、無理のない事の運びを通じて用意された驚愕と発見であるとした。たとえその情景を見ていなくても事の成り行きから、そこで起きる出来事のおののいたり、痛ましさを感じることが出来なくてはならない。劇の進行にとって本質的でない事柄や不合理な事柄jはあってはならない。ここで悲劇は神話から離れて人間の考えや感情の支配する構成物となった。


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