180616
文藝散歩 

「文語訳 旧訳聖書 U 歴史」
岩波文庫(2015年8月)

イスラエル民族はカナンの地でダビデ・ソロモンのもと統一国家を形成し、後南北王国に分裂しアッシリアに滅ぼされバビロンの幽囚となる時代の歴史12書

1) 総 序

1−1) 旧約聖書とは

旧約聖書といえば、私は岩波文庫で関根正雄訳の「創世記」(1956年版)、「出エジプト記」(1969年版)、「ヨブ記」(1971年版)、「エレミヤ書」(1959年版)、「詩篇」(1973年版)を現代語訳で読んだ。岩波文庫出版の関根氏訳旧約聖書はこれだけであり、膨大な全39書の現代語訳は日本聖書協会より「口語訳 旧約聖書」(1955年版)から発刊されている。今回私が読んだ岩波文庫「文語訳 旧約聖書T、U、V、W 全4巻39書」(明治20年)は敢えて文語訳である。文語訳といっても「源氏物語」を読むのではなく、明治時代の文章であるので、誰でも素直に読むことができる。宗教書としては文語調の方が格式が高そうだという効果もある。日本聖書協会の「口語訳 旧約聖書」が入手が出来なかっただけのことである。しかし電子書籍版で読むことはできる。電子書籍版は著作権フリーの「口語訳旧約聖書」から見ることができます。岩波文庫「文語訳 旧約聖書全4巻」hは、1887年(明治20年)に訳され、翌年刊行された文語訳の旧約聖書を四分冊として納めている。本書は第1分冊めの「律法」の部にあたる。明治時代にキリスト教と聖書を日本で広めるため、聖書委員会が設置された。翻訳委員会の新約聖書は1917年に改訳された。同時期に旧約聖書は改訳されなかった。本書の底本はこの明治版による。旧約聖書はもともとユダヤ教の聖典である。AD2世紀ごろにキリスト教においてはキリストの教えを新約として新約聖書が作成され、それまでの神の約束は旧約聖書と称した。旧約聖書はおもにヘブライ語で書かれている。そこに収められた文書は、「律法」、「預言者」、「諸書」の3部にわかれる。しかし紀元前3-1世紀の作成されたギリシャ語訳では「律法」、「歴史」、「諸書」、「預言」と四区分と順序が定められた。各部の文書は次の表に観る諸巻が収められた。「文語訳 旧訳聖書」岩波文庫に収録された文書を整理すると、以下である。全39文書である。
T 律法: 創世記、出エジプト記、レビ記、民数機略、申命記
U 歴史: ヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記前後、列王記略上下、歴代志略上下、エズラ書、ネヘミヤ記、エステル書
V 諸書: ヨブ記、詩篇、箴言、伝道之書、雅歌
W 預言: イザヤ書、エレミヤ記、エレミア哀歌、エゼキエル書、ダニエル書、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデア書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼパニア書、ハガイ書、ゼカリア書、マラキ書

旧約聖書の分類配列と内容の概略
分 類 書 名 概 要
T 律 法
(モーゼ五書)
創世記楽園の追放と人間の堕落、カインとアベルの殺人、ノアの箱舟、バベルの塔、アブラハム・イサク・ヤコブの三代の族長の話しとイスラエル十二氏族、ヨセフのエジプトでの苦労が語られる。悪徳の町ソドムとゴモラの滅亡など
出エジプト記エジプトでの奴隷生活から指導者モーゼによる出エジプト、シナイ山でのモーゼの十戒と戒律、ヤハウエ神との契約が語られる。信仰と生活の原点となる。紅海を渡る際、海が割れてエジプトの追手を防いだ話など周知の話も多い。
レビ記イスラエル民族のうちレビ人は祭儀を扱う聖職者部族に定められた。前半は供物・犠牲・儀礼など細かく記載される。倫理規定、禁忌規定では「落穂を拾うべからず」はミレーの絵画となった。「汝の隣人を愛すべし」は新約聖書のキリストに受け継がれた。
民数記イスラエル民族の人口数を記載していることで有名。時代はシナイ山から始まるので出エジプト記と重複する。約40年の荒野での放浪生活からヨルダン川の東岸に到着、神との契約の地カナンに定着するまでの戦闘記。律法の記載
申命記申命とは繰り返し述べた律法(神の定めた倫理規定、禁忌規定)の書のこと、モーゼの十戒が繰り返される。モーゼはヨシュアを後継者に指名、カナンの地での生活を指示した。「人はパンのみで生きるものにあらず」は有名な聖句
U 歴 史ヨシュア記ヨシュア記、士師記、サムエル記上下を「前預言書」とするが、それは歴史書であると同時に預言者(ヨシュア、サムエル、エリシア)であったからだ。「モーゼ六書」に入れられたこともある。モーゼの後継者(預言者)ヨシュアに率いられたイスラエル民族はカナンの地に進出、奪った地を12部族に分割した。紀元前13世紀ごろの歴史である。全体が、エホバがヨシュアに向かって言った言葉「我が僕モーゼが汝に命じた律法を守ったなら、なんじは幸福を得必ず勝利する」に貫かれている。ヨルダン川の渡河にも水止めの奇蹟が経験され、各地の戦争で勝利し支配地を拡大する。ヨシュアは死を前にして律法を守ることを厳命する。
士師記イスラエル民族はカナンの地に定着したが、先住民族との抗争が続く。エホバはイスラエルの民の宗教的・道徳的背反を懲らしめるために先住民との戦争を利用した。士師とは部族連合の指導者のことでデボラ、ギデオン、サムスンの活躍を描く。女性預言者デボラも士師の一人でカナンの王を滅ぼした時エホバへの賛歌「デボラの歌」を歌った。これは旧約聖書最古の詩文だとされる。モアブ人と闘ったエホデ、ミデアン人と闘ったギデオン、ペリシテ人と闘ったサムスンについては詳しく描かれた。イスラエルに統一王国ができる紀元前12世紀の歴史である。
ルツ記イスラエルの王ダビデの系譜を語る。ベツレヘムに住んでいたナオミと夫、二人の息子は飢饉により異郷の地モアブに移住する。二人の息子はモアブの娘と結婚するが、ナオミは夫と2人の息子に先立たれた。ベツレヘムに帰るナオミに付き添ったのは息子の嫁ルツだけであった。ベツレヘムでは夫の親戚のボアズの麦畑で2人は落ち穂拾いで生活をした。ボアズは刈り入れで落ち穂を多くして生活を助け、やがてボアズとルツは結婚し男子オベデが生まれ、エッサイ、ダビデと家系は受け継がれた。律法の「レビ記」にも落ち穂を遺すして貧しきものを救う話は申命記にも記されている。ミレーはこの話を題材に落ち穂拾いを描いた。
サムエル記(上・下)サムエルは紀元前11世紀のイスラエルの士師・預言者であった。サムエルの息子は不正と収賄を働き、イスラエルの民は王の選出を希望した。王に選ばれたサウルによるイスラエル部族連合体が王政に移行し、サウル、ダビデ、ソロモン王が南北を統一しイスラエル王国を拡大した。ダビデはペリシテ人を倒し、あまりに強いダビデにサウルは反感を抱き殺害を図るが、サウルの子ヨナタンはダビデを助ける。戦死したヨナタンを悼んだダビデの「ああ勇者は仆れる」という言葉は名高い。王位に就いたダビデも部下ウリアの妻を横取りするため、ウリアを前線に送り戦死させるという過ちを犯す。ダビデの子アムノンは異母妹を犯して兄に殺される。詩篇にはダビデの歌を遺す。
列王紀略(上・下)王位はダビデの子ソロモンに継承され、イスラエル王国は全盛期を迎えた。エルサレムに豪華な神殿が作られ、「ソロモンの知恵」と讃えられたように智恵と聡明にすぐれていた。智恵を試さんとしたシバの女王の驚きの話は名高い。しかしソロモンの子レハベアムの時代にヤラベハムの反乱が起き、レハベアムの北のイスラエルとヤラベアムの南のユダ王国に分裂。王国の危機は異教のバール神への傾斜によってたびたび引き起こされた。警告は預言者エリア、エリシア、アモス、ホセア、イザヤによって発せられた南北の王朝史を語る。最期に北イスラエルは東の大国アッシリアによって紀元前722年に亡ぼされ、南のユダ王国はアッシリアによって紀元前585年に亡ぼされた。イスラエルの民はアッシリアの首都バビロンに連行され捕囚の生活となった。
歴代志略(上・下)サムエル記(下)、列王紀略(下)と重複する内容が多いが、イスラエル民族の系図の詳述とダビデによるエルサレム神殿計画と、ソロモンによる神殿建設に重点が置かれている。従ってダビデの過ちやソロモンの異教徒支援の話は描かれていない。イスラエル王国分裂後の北のイスラエル王国と南のユダ王国の記述では、エルサレム神殿のある南のユダ王国の歴史にくわしい。イスラエル民族の浮沈はすべてエホバ神への信仰の度合いとか異神への信仰かによっている。最後はアッシリアのネプカデネザル王によるエルサレムの陥落とバビロンへの捕囚となるが、ペルシャ王クロスによる解放まで(紀元前538年)で終わっている。
エズラ書バビロニアがペルシャに亡ぼされ、ペルシャ王クロスによるバビロン捕囚からの解放後、イスラエル民族は神殿復活・律法の復興運動にいそしむ。後半は祭祀エズラによる罪の反省と祈りが中心となる。これを「エホバの戒め」と呼ぶ。 
ネヘミヤ記書いてある内容はエズラ書と同じで、バビロンの捕囚から解放後のエルサレム神殿の再建、そして罪の反省と祈りが中心である。ペルシャの寛容政策によってユダヤ律法の復興運動が盛んとなった。イスラエルの指導者ネヘミヤによって記された。
エステル書紀元前5世紀ペルシャ王クセルクス1世の時代にペルシャに住むイスラエル人の話である。バビロンの捕囚の経験者モルデカイの幼女エステルはユダヤ人であることを隠して育った。後年アハシュエロス王の皇后になり、権力者ハマンのユダヤ人絶滅計画を、王への働きかけで未然に防いだ。
V 諸 書ヨブ記諸書は「知恵文学」とも呼ばれ、詩文が多い。神への賛歌、信仰の人生の教訓・格言集である。紀元前3世紀ごろの作品集とみられる。信仰も厚く行いも正しい人ヨブは、家庭・財産に恵まれた生活を送っていた。悪魔サタンはヨブの信仰を試すように、神に試練を課すよう持ちかける。ヨブに災難が襲い家庭は崩壊し財産をすべて失っても信仰は捨てなかった。次の段階でヨブの身体に重い皮膚病が発症し、皆に嫌われる生活に一変した。ここでは正しい行いの人がなぜ不幸に逢うのか、はたして神は正義なのかという「神義論」がテーマとなっている。ヨブは人間が神を知るとはどういうことなのか、神と人間の関係を突き詰めて考える。
詩篇詩篇は神に対する賛美と感謝、懇願。信頼が中心となった全150篇からなる。約半数はダビデの作と書かれているが、真偽のほどは分からない。119篇にある「アレフ」、「ベテ」、「ギメル」・・・はヘブライ語のアルファベットで段落を示している。文語訳「詩篇」は長年にわたりヨーロッパ近代文学へ影響が大きい。
箴言箴言とは「戒めとなる言葉」であり広い意味では教訓・格言・処世訓である。狭い意味では「エホバを畏るるは知識の本なり」という思想が根幹にある。「ソロモンの箴言」と言われることもあるが、ソロモン以前から本書が書かれた紀元前3世紀までにわたる言葉の集積である。
伝道之書集会で語る人を伝道者という。ヘブライ語聖書では「コヘレトの言葉」という題名になっている。著者はソロモンと言われることもあるが、ソロモンではない。伝道者にせよコヘレトにせよ、固有名詞ではなく広い意味では自由な思想家のような存在である。冒頭に「空の空なる哉、すべて空なり・・日の下には新しきものなし」といった衝撃的な言葉で始まり、厭世的な内容でヘレニズム文化の影響が大きい。
雅歌男女が愛し合い讃えあう歌という旧約聖書では極めてユニークな詞華集である。多くはソロモンの作といわれるが、ソロモンとは直接な関係はない。古代オリエント世界の中でイスラエル民族の愛の賛歌の集成となった。ヨーロッパ近代文学への影響は大きい。
W 預 言イザヤ書「三大預言書」とは、イザヤ書、エレミア書、エゼキエル書を呼ぶこともある。預言という言葉は神からその言葉を預かり伝えるものという意味である。預言者はただ未来を予言する予言者、呪術師とは異なる。イザヤ書は北イスラエル王国及び南ユダ王国の分裂時代の預言者イザヤの預言集である。イザヤはすべて同一人ではなく、紀元前736年ー701年ころに活躍したイザヤ自身の言葉を第1イザヤ(T-39章)、第2イザヤは紀元前6世紀後半解放前の苦難の時期、バビロン捕囚の嘆きの書 黙示文学と言われる。第3イザヤは紀元前538年ペルシャ王クロスによりイスラエル人キア人解放のころで信仰と律法の順守を求める。成立は紀元前5世紀前半とみられる。歴史的には3段階のイザヤという預言者の話である。
エレミヤ記預言者エレミヤの活動時期は、大国アッシリアによる北イスラエル王国の滅亡(紀元前722年)、つづくバビロニアによる南ユダ王国の滅亡(紀元前586年)、さらに「バビロンの幽囚」とペルシャ王クロスによるイスラエルの解放(紀元前538年)というイスラエル民族の最も激動期にあたる。エレミヤの預言はエホバの教えである律法の順守であることは変わりないが、その形式的な順守より心の在り方を厳しく問うものであった。「心は万物よりも偽る者にして甚だ悪し」とか、祭祀の虚言を糺した。エレミアはまさに預言者中の預言者であるといえよう。バビロンの幽囚の嘆きの書であると同時に、イスラエル民族自身による信仰の回復に絶望し、「エホバいい給う見よ我がイスラエルの家とユダの家に新しき契約を立つ日来たらん」といい、新しい契約を希望するに至る。つまり旧約から新約への意向を考えていたようだ。エレミヤ記の成立は、エレミヤの書記バルクの記述が含まれるので紀元前6世紀前後とみられる。
エレミヤ哀歌単に「哀歌」と言われることもあるが、この書はエレミヤ記の後に置かれ「エレミヤ哀歌」となる。しかしエレミヤの言葉ではなく、異なる作者によるものからなり、それぞれに韻文としての特徴がある。紀元前597年のアッシリアによるエルサレムの占領以降のエルサレムと民族の悲惨な生活を余すところなく描いた。
エゼキエル書バビロン捕囚の嘆きの書。預言者エゼキエルはバビロニアによる第1回「バビロンの捕囚」の一人であった。神からエルサレムの滅亡の理由を説明するよう求められ、あたかも新約聖書のヨハネ黙示録を思わせる神との間の幻視を語る。イスラエル民族の宗教的、倫理的罪の糾弾は厳しい。最後にはエルサレムへの帰還と神殿の再建を、「枯れたる骨」の再生、新しいダビデの出現を願う希望の預言となる。
ダニエル書ダニエルはエゼキエルと同じように、「バビロン捕囚」期の預言者であった。この書もエゼキエル書と同じように黙示録または幻視が多いが、知恵の書としても名高い。バビロニアの王ネプカデネザルの命により、王の夢から来るべき諸国の興亡を予言した。「獅子の穴」に放り込まれる危機に遭遇するが、諸国の興亡の預言を説いて止まなかった。「人の子ごとき者雲に乗りて来たり」という新約聖書の救世主のような預言がある。ダニエルは智慧と判断に秀でた預言者とされた。シェークスピアの「ヴェニスの商人」にもその名が出ている。
ホセア書ホセア書以下12篇の預言書は、アウグスチヌスの「神の国」以来「十二小預言書」と呼ぶことがある。アモスとホセアはイスラエル王国のヤラベアム2世の時代から滅亡期までにかけての預言者。「十二小預言書」全体の成立時期は紀元前3世紀から前2世紀とされる。ホセア書に同時代人として挙げられている王の名はイスラエル王国・ユダ王国末期のものであり、これを信ずるなら紀元前8世紀末の人物である。作者がホセアであることと、その預言期間がウジヤの治世からヒゼキヤの治世にまで及ぶとされる。神に度々反抗したイスラエルに対する裁きの音信であり、神はイスラエルを見放すという内容である
ヨエル書ヨエル、ヨナ、ハガイ、ゼカリヤ、マラキは捕囚後開放時代の預言者である。黙示文学。作者はペトエルの子ヨエルであるという。ヨエル書の作製年代を、エルサレム帰還後で、エルサレム神殿再建完了(BC516年)の前に置く。
アモス書アモス書 にも、主の日(神による審きの日)の到来という、ヨエル書と同じテーマを扱っていることなどから、執筆年代はアモスやホセアと同年代(BC8世紀前半のヤラベアムU世統治のころ)と考えている。作者はアモスで、南ユダ王国テコア出身の牧夫であったという。時期については、ウジヤ(ユダ王国)、ヤラベアム2世(イスラエル王国)の分裂王国時代であった。内容は大きく4つに分けることが出来る。@近隣諸国の民と、南ユダ王国、北イスラエル王国に対する神の裁きの宣告、Aイスラエルの支配者たちへの悔い改めの要求、B裁きについての5つの幻(イナゴ、燃える火、重り縄、夏の果物、祭壇の傍らの主)、Cダビデの系統を引くイスラエル民族の回復である。
オバデヤ書オバデア、ミカ、ナホム、ハバクク、ゼバニアはバビロン捕囚期の預言者である。筆者は伝統的にオバデヤ(オバデア)という名の人物とされる。この名は字義通りには「主(ヤハ)の僕(または崇拝者)」を意味する。オバデヤ書は大きく分けると「エドムの傲慢と滅亡」と「イスラエルの回復」の項目から成る。エドムとイスラエルの先祖は、エサウとヤコブの兄弟であり、したがって2つの民族は兄弟であるとみなされた。このような血族への暴虐によって、エドムは恥と滅びを永遠に蒙ると宣告される。作製時期は「エドムは兄弟であるイスラエル民族が攻撃されたときに見捨てたため、滅ぼされなければならない」という預言について考えると、紀元前605年から586年 - バビロンのネブカドネザル2世によりエルサレムが攻撃され、最終的にユダヤ人のバビロン捕囚が起こった時期が妥当である。オバデヤ書全体の主題は神の民の敵の滅びである。エドム人とは、イスラエルのかつての敵すべてを意味しており、文字通りのエドム人を指しているわけではないとする説がある。
ヨナ書内容は預言者のヨナと神のやりとりが中心になっているが、ヨナが大きな魚に飲まれる話が有名。前半は、ヨナ自身の悔い改めの物語を描き、後半は、ヨナの宣教によってニネベの人々が悔い改めたことを述べる。ヨナ書の主題は、預言者として神の指示に従わなかったことと、ニネヴェの人々が悔い改めたことに対して不平不満を言ったことに対するヨナの悔い改め (=神に仕える者としての生き方を正す) と、神は異邦人でさえも救おうとしておられることの二つである。
ミカ書作者は紀元前8世紀の預言者ミカに帰される。構成は7つからなり、本書の中でミカは支配階級に抑圧されている人たちの苦しみに共感し、横暴な人たち(その中には賄賂によって都合の良い預言をする預言者や祭司も含まれる)の不正を厳しく糾弾している。
ナホム書全3章から構成される。著者はナホムという名の人物とされる。 預言の主題はニネベの陥落とアッシリアへの裁きである。成立時期はエジプトのテーベの滅亡が記されているので、紀元前663年より後、ニネベが陥落した紀元前612年より前である。
ハバクク書本書は3章からなる。ハバクク書はユダヤが直面する民族的困難が増大する時代にあって、疑念が付されてきた神への絶対的な信頼と能力の妥当性という問題を扱っている。ハバククは「民の悪行に対する神の怒り」「異民族による怒りの執行」という観点に立つことによって、民族的困難と神への信頼を両立させる。また神の絶対性と将来の救済、「怒りのうちにも憐れみを忘れぬ神」という観念がみられる。
ゼフェニア書伝統的にゼファニヤが作者とされる。ヨシヤ王(在位紀元前640年頃から前609年頃)の名があることから、紀元前7世紀後半ないしそれ以降に成立した。本書の目的は、エルサレム住民へ行いを改めるべく警告することであったろうと考えられる。
ハガイ書作者はバビロン捕囚後の最初の預言者ハガイである。エルサレム神殿の再建(紀元前515年)がその預言の主題となっている。ハガイとはヘブライ語で「祝祭」という意味である。
ゼカリア書本書は14章からなり、小預言書の内では、比較的大部にわたる。内容としては、幻視に関する8つの記述、エルサレムに臨んだ災いを記念する断食に関する質問、諸国民に対する裁き・メシアに関する預言・神の民の回復に関する記述からなる。
マラキ書本書は3章からなる。預言の主題は宗教儀式の厳守、及び雑婚の禁止である。マラキは当時の形式的な礼拝を咎めた。マラキとはヘブライ語で「私の使者」という意味である。当時、捕囚から帰還した頃は市民権は無く、旱魃や大量発生したイナゴのため凶作が続き、更には周囲に敵意を持つ民族が居住していたため、非常に衰退していた。そのような状態でイスラエルの民は神殿を再建した。祭司の堕落や、軽薄な雑婚・離婚、捧げ物の不履行などが蔓延していた。ネヘミヤがエルサレムに不在で人々が混乱に陥っている際にマラキがメッセージを語ったのである。


ザビエルによって1549年に開始されたキリスト教の日本伝道によって、旧約聖書の話は各地に伝えられた。1553年のクリスマスには修道士シルヴァにより、人間の創造と原罪、ノアの洪水、ヨセフの話、モーゼの十戒など旧約聖書の話が朗読された記録がある。キリスト教が禁教になって以降も根強く旧約聖書の話は流布した。密入国した宣教師シドッチを尋問した新井白石は「西洋紀聞」を著してシドッチから聞いた旧約聖書の話を伝えた。平戸の松浦藩主が集めた蘭書の中には、ヘンリーの聖書註解書があり旧約聖書も含まれていた。江戸幕府の蕃書調所の箕作阮保甫は旧約聖書を読んでいた。隣の中国ではプロテスタント伝道者モリソンが「旧遺詔書」(旧約聖書のこと)を1823年に刊行した。1843年にはアメリカ人宣教師ブリッジマン、カルバートソンによる「新約全書」、「旧約全書」が刊行された。この中国語訳本が後に日本の聖書翻訳に大きな影響を与えることになった。1858年日米修好通商条約の結果、日本で最初のプロテスタント宣教師M・ウイリアムス、ヘボン、ブラウンらが来日した。1872年にはヘボンは十戒を含む「三要文」を翻訳した。ウィリアムスは1877年に「十戒問答」を刊行した。多くの教派の宣教師が来日し1872年に聖書翻訳委員会が組織され、委員としてヘボン、ブラウン、グリーンらが選ばれた。聖書日本語翻訳は1874年から開始された。1876年、横浜聖書翻訳委員会が新約聖書の翻訳に集中しているので、旧約聖書の翻訳のために東京聖書翻訳委員会が設けられた。タムソン、コクラン、バイパー、ワデルの四人が委員に選ばれた。タムソンを除くとイギリス系宣教師たちであった。こうして1882年より旧約聖書の分冊が次々と刊行され始めた。翻訳はヘボン、ファイソン、フルベッキの翻訳委員が中心となり、中でもヘボン(ヘボン式ローマ字の開発者でもある)の活躍が著しかった。翻訳は1887年(明治20年)までに分冊集として全巻の刊行を終えた。書の題名の漢字表記からして(マラキ書:馬拉基など)いずれも中国語訳訳聖書(ブリッジマン、カルバートソン訳)の題名と同じである。中国語訳聖書に訓点をつけた旧約聖書も日本で出回っていたので、日本人信徒の間で定着してと思われる。「訓点 旧約聖書」だけで理解できる人々も少なくなかった。当然日本語訳聖書の文章もその読み下し文に近いものとなった。ルビが大和言葉で振られているので、聞いただけで内容が分かるようになっていた。1888年旧約聖書の翻訳完成祝賀会において、ヘボンはその経緯を述べた。松山高吉、高橋五郎の日本人助手の功績を高く評価し、新旧聖書の文体が統一されていることを賛辞した。また同年1冊本の旧約聖書が刊行された。文学者の上田敏は「かくも雅馴の文をなししかと驚嘆せしむ」と称賛した。翻訳は英語訳、ドイツ語訳を参照したというが、やはり中国語訳に負うところが大であり、詩篇・雅歌・エレミア哀歌・ヨブ記は詩歌とみられるが、日本語訳では散文との区別がつかないほど全体の格調が高かった。新しい日本語の文体を模索しつつあった近代日本で、この旧約聖書は漢文調であったが、広く思想、文学、社会に与えた影響は大きかった。1917年(大正6年)に新約聖書は改定されたが、旧約聖書は見送られた。戦後になって本格的な改訳作業が行われ、1955年(昭和30年)に口語の旧約聖書が作成された。日本聖書協会の「口語訳 旧約聖書」がそれである。

1ー2) 山我哲雄著 「聖書時代史 旧約篇」(岩波現代文庫2003年2月)

旧約聖書の舞台となるパレスチナ地方は、乳と蜜の流れる「カナンの地」とよばれ、地中海東部沿岸の南端に位置する。この地はメソポタミアから延びる「肥沃な三日月地帯」の南西端にある。規模は「ダンからベエル・シェバ」までの南北約240km、東はヨルダン渓谷から西は地中海までのおよそ四国ほどの大きさである。気候は全体として地中海気候で冬の雨季と夏の乾期からなり、農産物が取れるのは冬期である。主要な産物は大麦、小麦、豆、オリーブ、葡萄などが栽培されている。山岳部では羊や山羊の放牧に利用されていた。天然資源に恵まれないこの狭い地方が歴史時代を通じて「オリエントの火薬庫」というべき理由は、エジプト、メソポタミア、シリア、アナトリア(トルコ高原)、さらにアラビアの文化圏を結ぶ陸橋地帯を形成していたからだ。南北に「海の道」と「王の道」の2本の軍隊と商隊が通る戦略上の拠点となる幹線道路があり、時によってはこの地に富と繁栄をもたらし、時には隣接する大帝国の軍靴に踏みにじられたのである。これが民族の繁栄と悲劇(殆どが悲劇であるが)の歴史の契機となった。カナンの地は初期青銅器時代(紀元前3300−2200年)から多数の国家が形成された。中期青銅器時代をすぎて紀元前1800−1600年ごろから都市国家が再建されて経済的・文化的に活況を呈するようになった。カナンに居住した人は人種的には北西セム語を話すシリアのアモリ人で主であったらしいことが旧約聖書にも出てくる。北のフェニキア人とも交流があった。紀元前1500年ごろから、カナンのほぼ全土がエジプトの影響下に入る。そして紀元前1200年ごろ牧羊系文化を持つ集団が定住しアンモン、モアブなどの領土国家を形成し、相前後してカナンの地に進出してくるのが、旧約聖書時代のイスラエル人であった。

1、伝承と神話の時代(創世記・出エジプト記)
イスラエル人とは文学的にいえば「旧約聖書でカナンの地に住んだ12の部族からなる民族である」ということだが、民族学的には多数の民族混合で、歴史的にいえば多くの離合集散を繰り返した集合体であろう。決して単一民族(民族の定義さえ怪しいのだから)ではありえない。旧約聖書では神ヤハウエに祝福され「大いなる国民」となる約束を与えられた族長アブラハムから三代目の族長ヤコブの息子の子孫がイスラエル十二部族である。イスラエルの祖先となるヤコブの一族は、遊牧民であったがエジプトに下ったが、エジプト王によって奴隷にされ苦しんだ。神ヤハウエはモーゼを遣わしてエジプトから脱出させシナイ山で神と契約を結ばせる。その後イスラエルの民はカナンの地に至り、後継者ヨシュアに率いられてカナンの地を征服し、12の部族に分配したという。この話は「モーゼ五書」と「ヨシュア書」の説くところである。これらはあくまで伝承であって史実ではない。イスラエル人が文字を持つようになったは前1000年頃で、伝承が文字化されたのは統一王国以降のことである。日本の「古事記」と同じく多くの部族の伝承が反映しているようだ。「モーゼ五書」と「ヨシュア書」が最終的に出来上がるのが「バビロン捕囚」(前6世紀)以降のことである。とはいえ伝承のなかには歴史的「核」があったと思われる。勿論現在では、イスラエル民族が共通の祖先から出たとか出エジプトという共通の記憶を持つという観念は、歴史性を否定されている。アブラハムーイサクーヤコブーイスラエル十二部族という系譜は日本の古事記の神の系譜と同じように創作に過ぎない。イスラエルの祖先が牧羊的背景を持つ事は確からしい。アブラハム・イサクはユダ南地方を、ヤコブは北のサマリア地方を背景としている。申命記ではアラム人を祖先とすると述べられている。 「出エジプト記」は「ダビデ」、「バビロン捕囚」とならんで旧約聖書のイスラエル民族の自己理解と神の理解を根本的に特徴づける三大事件である。出エジプト記に書かれている「ピトムとラメセス」の町の建設に従事したことには歴史的核がある。紀元前13世紀のエジプト第19王朝のラメセス二世の頃の話である。しかし膨大な書を持つエジプト側には「出エジプト記」に相当する事は何も書かれてはいない。恐らくは少数の奴隷の逃亡に過ぎなかったのだろう。イスラエル民族としてはこれを共通の歴史とするため規模を60万人に拡大したのであろう。「過越祭り(すぎこし)」として出エジプトの経験を永遠に残した。シナイ山での契約は神出現伝承と契約ー律法授与物語として結び付けられた。前7世紀の申命記運動の頃に成立した「十戒」の編集も混入している。「ヨシュア書」にいわれるヨシュアの指導のもとでカナンの地を一気に征服したということも嘘であろう。多部族が少しづつ支配地拡大に励んでいたのだろう。

2、カナンの地へイスラエル民族の定住(前12世紀ー前11世紀前半)(「ヨシュア書」、「士師記」)
前15世紀中頃、強大なエジプト第18王朝のトトメス三世がシリア・パレスチナ遠征を行い、カナンの地全体を支配下に置いた。前13世紀にエジプトで18王朝が成立しラメセス二世がシリアに侵略したヒッタイト帝国と闘い和議となった話は有名である。前12世紀にかけて海洋民族ペリシテ人などがエーゲ海から大挙して南下してきた。エジプト第20王朝のラメセス三世が彼らのエジプト侵入を食止めた。この時期に山岳地帯から平野部のカナンに進出してきた集団がイスラエル人の祖先である。時は鉄器時代でカナンの都市国家群との戦いは熾烈であった。この中で部族戦闘集団が形成された。「旧約聖書」の「ヨシュア書」、「士師記」に書かれたその部族指導者を「士師」という。「士師記」はハツォルを中心とした北部の都市国家連合軍を「デボラの戦い」で打ち破ったことを記す。この頃にイスラエルという部族連合の統一体が出来上がったのであろう。これを隣保同盟(アンフィクチオニー)という諸部族連合体と捉える歴史家もいる。

3、統一王国の確立(前11世紀後半ー前10世紀) (サムエル記)
ユダヤ人はこれまで大国の圧政下において被害者の役割ばかり演じてきた。そのことを反映してヤハウエ神は人間が人間を支配することを認めない,本質的に反王制的性格を持つ宗教であった。その弱小民族にも、山岳地帯の牧羊生活から平野部に進出して豊かな農産物を得る都市生活に移ると、部族社会や村落共同体の構造が根本的に変わり、強い軍事力や強制力を持つ集権国家へ、そして王権の出現への要請が高まってきた。当時海洋民族のぺリシテ人は鉄兵器で重装備した軍隊を持ちカナンの平野部へ進出してきたので、イスラエル民族は存亡の危機に瀕した。結局イスラエル初代の王となったのはサウルであった。王権派サウルと反王権派サムエルの対立の争点は永遠の宗派の争いとなった。サウルの王権は領土国家というよりは連帯感と帰属意識を基礎とする民族国家であったといわれる。サウルの死後、ユダ部族の王となったダビデは部族間の権力闘争を経て、前1004年ついにユダ王国とイスラエル王国の二つの国家の王となった。ダビデの支配は二つの国に一人の王という体制で、二つの国は並存する形である。ダビデはぺリシテ人を討伐してヨルダン川西のカナンの都市を支配し、北王国と南王国の中間にあったエルサレムを征服して都を置いた。ダビデはエルサレムに神殿を建設しようとしたがこれは彼の息子ソロモンの時に完成した。これによって、「奴隷を解放する神」、「人間による人間の支配を認めない神」から、エルサレムにおいてはダビデ王朝を正当化する王朝の守護神に変身した。ダビデはエジプトにならって官僚組織を整備し中央集権制を確立して、4辺の諸民族を支配下に置いた。エドム人、モアブ人、アンモン人、アラム人を討って小規模ながら帝国を樹立した。2本の交易路、海の道と王の道を支配下においてイスラエルの経済繁栄の基礎を築いた。イスラエル民族初めての王であるダビデはこうして民族永遠の英雄となったのである。再び苦境におちいるたびに人々はダビデの再来を熱望した。 ダビデの死後王権を兄弟で争い勝利したのは弟のソロモン王であった。ソロモン王は前965年に即位後は戦いを殆ど行わず、父ダビデの築いた王国の経済的・文化的繁栄をもたらした。活発な平和外交を展開し、イスラエルに多くの外国使節を招いた(南アラビアのシバの女王ら)。商業船団を編成して紅海交易をおこなって富をなした。その富でイオンの丘に神殿を築いてエルサレムを聖地とした。前926年ソロモン王が死ぬと、北王国の反乱(ヤロブアムの乱)が起き、北部12部族は離反して北イスラエル王国をつくり、南にはソロモンの息子レハブアム(在位926−910年)がユダ王国を作った。

4、王国分裂と南北王制、北イスラエル王国(前10世紀ー前8世紀前半)、南ユダ王国(前10世紀ー前6世紀前半) (「列王記」、「歴代誌」) 北イスラエル王国のヤロブアム1世(在位926ー907年)はシケムを都としたが、北王国の王朝は比較的短命で、政変で王が殺害され激しく王朝が替わった。ヤロブアム1世は2代20年で、パシャ(前906−883年)も2代24年で、ジムリは7日で、前878年に出来たオムリ王朝は4代33年で、前845年に出来たイエフ王朝は五代98年で、シャルム(前747年)は1年内で、前747年のメナヘム王朝は2代11年で、ぺカ、ホシュアは一代で亡んだ。前926年から前721年に亡ぶまでの約200年間に19人の王が交代した。それに対して南ユダ王国ではダビデ王朝そのものは不動で、あくまで王朝内部から次の王がでた。ダビデ王朝は前1004年から前587年までの約400年間22代の王が交代した。王朝の変遷事蹟については煩雑になるので一切省く。それでも前926年から約350年間はイスラエル民族は王国としてまがりながらも存在した。

5、アッシリアの進出と北イスラエル王国の滅亡(前8世紀後半ー前7世紀) (「列王記」)
前8世紀前半まではイスラエル、ユダ王国がともに王国として安定した時代をおくることができたが、メソポタミア北方の大国アッシリアの西方進出によって太平の夢は破られた。北のアッシリアの進出に対して南のエジプトがシリア・パレスチナにさまざまな干渉を加え、イスラエル民族はこの2大超大国に挟まれて翻弄される運命を辿る。アッシリアのティグラトピレセル三世がシリア・パレスチナに遠征した。前737年に北イスラエル王国を倒し、北イスラエル民族の集団移住政策と、別の民族のイスラエルの地に移入政策を行った。北王国を構成していた10の部族は散逸して移住先の民族に吸収された。これを「失われた10部族」とよぶ。前721年の北王国の滅亡によって多くの難民が南のユダ王国に逃げ込み、さまざまな伝承が旧約聖書に伝えられた。南のユダ王国王ヒゼキアは表面上はアッシリアへの忠誠を誓った。前705年にアッシリアのサルゴン王の死去に伴う混乱に乗じてユダ王ヒゼキアは反乱を企てたが、エジプトの援軍も破れて降伏した。再びアッシリアに忠誠を誓ってユダ王国は存続した。この時期のアッシリアはサルゴン王朝の王の下で強大になり、前671年にはついエジプトまでを支配する真の世界帝国となった。ユダの王ヨシュア(前639―609年)はヤハウエ主義に基づく宗教改革は、アッシリアからの離脱と民族国家の再生を念願したものである。前7世紀後半にはさしものアッシリアも衰退を迎え、ヨシュアの改革も各地の民族が反乱を起こした時代を背景とするものだ。アッシリアの滅亡後、前600年ごろには帝国は4大国が分立した。イランから中央アジアを支配する「メディア」、メソポタミア・シリア・イスラエルを支配する「新バビロニア」、「エジプト」、トルコを支配する「リュディア」である。こうして南のユダ王国は「新バビロニア」によって前587年に亡ぼされた。

6、南ユダ王国の滅亡、バビロン捕囚(前6世紀前半) (「列王記」、「イザヤ書」、「エレミヤ書」、「エゼキエル書」) イスラエル・ユダ民族にとって前6世紀の百年間は他のオリエント諸民族以上に激しい受難期を迎えた。この時期に王国の滅亡。バビロニア捕囚、そしてパレスチナ帰還を体験する。支配者はアッシリアから、エジプト第26王朝、新バビロニア帝国、アケメネス朝ペルシャとめまぐるしく変わった。アッシリア帝国滅亡後、シリア・パレスチナの覇権を争ったのはネブガドネツァルの新バビロニアとネコ二世のエジプト第26王朝であった。前598年エルサレムを征服した新バビロニアのネブガドネツァルはユダヤ王ヤヨキンを捕らえてバビロンに移した(第1次バビロン捕囚)。この時点ではユダ王国は解体されなかった。ユダ最後の王ゼデキヤはエジプトの援助を頼んで反乱し、前587年にエルサレムはネブガドネツァルによって征服された(第2次バビロン捕囚)。ネブガドネツァルはエルサレムを徹底的に破壊し、神殿に火を放った。そしてユダをバビロニアの属州に編入し、ゲダルヤを総督に任命したが、反バビロニア勢力はこの総督を暗殺してエジプトに逃げた。前582年第3次バビロン捕囚があったとされる。アッシリアの占領政策と違って、新バビロニアはイスラエル民族を比較的まとまった形でバビロンに移住させ、エルサレムには他民族を入れなかった。こうして生き残ったイスラエル十二部族は旧ユダ王国のユダ部族だけとなり、彼らはユダヤ人と呼ばれた。王国の滅亡と捕囚という事態は、深刻な信仰の危機をもたらした。こうして民族の国家はなくなったが、ユダヤ人の信仰はユダヤ的生活習慣(安息日、割礼、食物規定)を中心とした律法の体系の中に離散した民族の同一性を保った。捕囚後の律法を中心とした宗教を「ユダヤ教」と呼び、捕囚以前の宗教「ヤハウエ宗教」と区別する。強力な新バビロニア帝国も100年を待たず、前539年にペルシャのキュロスによって亡ぼされた。

7、アケメネス朝ペルシャの支配(前6世紀後半ー前4世紀中) (「エズラ記」、「ネヘミヤ記」)
アケメス朝ペルシャ帝国の建設者キュロス二世(前559―530年)によってユダヤ人は解放(?)された。キュロス二世は徴税を除いて寛大な征服者であった。最終的に東はインダス川のインドから西はマケドニア、北はカスピ海、南はエジプトまでの大帝国となった。そして前538年にバビロン捕囚のユダヤ人を解放し、パレスチナ帰還と神殿再建を許した。シェシュバツアル総督を指導者としてユダヤ人は帰還して神殿再建に取り掛かった。実行したのは総督ゼルバベルとツァドク家の祭司ヨシュアであった。前515年に神殿は再建された。ペルシャの州制度のなかで、ユダヤは独立性は持たずに地方総督の支配下におかれた。ユダヤ帰還人の総督ネヘミヤはエルサレムの城壁の再建をおこない、総督エズラは神殿祭儀と律法を復活させ、律法教育にも尽くして「ユダヤ教の父」とも呼ばれた。ネヘミヤとエズラの活動で再編された帰還後のユダヤ人共同体はペルシャの支配下で、ユダヤ人の自己同一性を維持する宗教共同体として存続した。エルサレム周辺のイエフド地方に居住したユダヤ人は、北のシケムを中心とするサマリア人とは同じヤハウエ神を崇拝したが、「モーゼ五書」のみを聖典とするサマリア教団とは対立関係にあった。

8、ヘレニズム時代(セレウコス朝・プトレマイオス朝)の支配(前4世紀中ー前2世紀中) (「ダニエル書」、「マカバイ記」、「コレントへの言葉」、「ヨナ書」)
マケドニアはコリント同盟を統合してギリシャ的世界の統一を果たした。アレクサンドロス三世(在位前336−323年)は前333年シリアのイッソスの戦いでペルシャのダレイオス三世を退けシリアからエジプトを征服し、前331年ガウガメラの戦いでアケメネス朝ペルシャを亡ぼした。アレクサンドロス大王はさらに軍を東進させ前326年にはインドのガンダーラも征服し一代帝国の版図を広げたが、前323年熱病で死亡した。アレクサンドロス大王の広大な領土内の融合政策は文化面でギリシャ文明とオリエント文明との結合を成し遂げ、世界市民主義コスモポリタンの基になった。この文化をヘレニズム文化という。アレクサンドロス大帝国は前4世紀末にはリュシマコス朝トラキア、カッサンドロス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトのヘレニズム四大王国が成立した。かってのイスラエルは南北に分断され、北はセレウコス朝シリアに、南はプトレマイオス朝エジプトが支配した。パレスチナの地はこの両王朝の覇権に翻弄され、6度も「シリア戦争」が戦われた。第1次シリア戦争は前274−271年、第2次シリア戦争は前260―253年、第3次シリア戦争は前246―241年、第4次シリア戦争は前219ー217年、第5次シリア戦争は前202−198年に戦われついにパレスチナの地はセレウコス朝シリアの領土になった。そうするうちにポエニ戦争に勝った共和国ローマが西から進出してくるのである。ユダヤ人はペルシャ時代以降異民族の支配には慣れきっており、自分達の神殿礼拝と律法遵守を中心とした宗教生活が保障される限り反抗はしなかった。エルサレムの神殿の大祭司はツァドク家であり、納税と部族内の治安の責任を負った。前175年にアンティオコス4世が即位すると、セレウコス王国内のヘレニズム化を徹底して進め、ユダヤ教にヘレニズム化を受け入れるように逼った。前169-168年に第6次シリア戦争がおこり、アンティオコス4世はエジプトに侵入したが、ローマが介入して撤退を余儀なくされた。彼はその帰りにエルサレムを破壊し、多くのユダヤ人は殺されたり奴隷に売られた。アンティオコス4世はユダヤ教に対する寛容策を捨て、宗教弾圧を開始した。弾圧に対する反乱は前167年ユダのマカベアが起こして、シリア軍を破った。アンティオコス4世の死後東方政策からパレスチナが手薄になると、ユダはローマを後ろ盾にして反抗運動を続け、殆ど事実上の支配を回復した。前141年シモン大祭司はセレウコス朝の支配を終了させた。前587年のユダ王国滅亡後実に450年ぶりに独立国家として再生した。前30年にローマによる征服までを「ハスモン王朝時代」と呼ぶ。

9、ハンモン王朝時代・ローマの支配 ヘロデ大王(前141−前30年)
ユダヤ人はハスモン王朝のもとで一時的ではあるが事実上の再独立を果たした。ハスモン家の支配は大祭司という宗教的地位と王という政治的地位を兼ねる聖俗一体の政権である。抵抗運動の指導者がシリアの属王としてユダヤ人を支配する構図は宗教者の反発と正統性に疑義を生じるものであった。シモン(在位前141−134年)からヒルカノス(在位134―104年)において諸宗派内に対立が顕在化する。サドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派、クムラン派と分かれていった。ハンモン王朝はヨタナン(在位前103ー76年)の戦闘力に指導され、戦いに明け暮れた時代であった。その版図は前100年ごろにはダビデ統一王国に匹敵するものになった。国内の宗派に対しては恐怖政治の独裁者として振舞ったので、ハンモン王朝内には内紛が広がり、ローマの介入を招いた。ヒルカノス二世とアリストブロス二世の兄弟戦争の間、セレウコス朝を亡ぼしたローマのポンペイウスが前63年にエルサレムに侵攻した。王制を廃止しローマのシリア総督スカウルスの支配下に置いた。ローマのポンぺイウスとシーザの権力争いにハンモン王朝の末裔が巻き込まれ、ユダヤの王ヘロデがローマの後ろ盾のもとにユダヤを支配するというイエスの時代となった。


2) 「文語訳旧約聖書 U 歴史」(岩波文庫2015年)

第2巻「歴史」は、ヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記前後、列王記略上下、歴代志略上下、エズラ書、ネヘミヤ記、エステル書の12書からなり、岩波文庫本では615頁の分量を占め、T−W巻の中では最大の分量である。「ヨシュア記」は内容上「律法」に収めることができ、「モーセ六書」ともされる。「前預言書」と称されて、「後預言書」(イザヤ書、エレミア書等)に対する分け方もある。「歴史」と言われる所以は、エジプトを脱出したイスラエル民族が神によって約束された地カナンに定着し統一国家を形成した後、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂し、アッスリアによって両国は滅ぼされ、両王国の民はアッスリアの首都バビロンでの俘虜生活を余儀なくされるといった歴史が主として描かれているからである。ヨシュア記、士師記、サムエル記前後、列王記略上下の書は紀元前6世紀ごろに成立し、その他は紀元前5世紀から4世紀に成立したとみられている。

2-1) ヨシュア記

ヨシュア記は全24章(岩波文庫では56頁)である。モーセにより後継者に指名されたヨシュアに率いられたイスラエルの民が、ヨルダン川を越えて西岸の地カナンに至り、獲得した土地をその12支族に分割し、出エジプト以来の約束の地を得たことになる。これはほぼ史実とみなされ紀元前13世紀のころであった。いわば神話時代から歴史時代に入ったとされる。全体を一貫する思想はエホバがヨシュアに述べた言葉「我が僕モーセが汝に命じた律法を守り行えば、汝の道は幸いを得、汝必ず勝利する」ということである。ヨルダン川を渡るとき、出エジプトとおなじ水止めの奇蹟を経験し、各地の戦いに勝利を収める。ヨシュアは死を前にイスラエルの民に異教の神に仕えるなかれ、律法を厳守すべきことを説いて世を去る。ヨシュア記はシーザーの「ガリア戦記」と同じような息をつかせない緊迫感があり、「私は行った、見た、そして勝った」という勝利への道を描いた記である。
第1章: モーセが亡くなった後、エホバはヌンの子ヨシュアに次のように命じた。イスラエルの民とともにヨルダン川を渡り、我が与えし土地に往け、汝らが踏んだ土地はすべて汝らのものとなる。境界は東はレバノンから大河ユーフラテス川に至ってヘテ人の全地に及び、西は大海(地中海)に及ぶ。我はモーセにあったよう汝とともにあるので、向かうところ敵う者はいない。心を強くし励ましてモーセに命じた律法をすべて守り行え。悉く守り行えば汝らの福利を得、勝利する。敵に懼れる勿れ、戦慄勿れ。我汝とともに在る。そこでヨシュアは民の有司に命じて言う、食糧を備え3日以内にヨルダン川を渡れと。ヨシュアはガド人、マナセの支派の半の長に、モーセは先に汝らにこの地を賜ったが、妻子家族はこの地に置いて、軍団を率いてヨルダン川を渡れと命じた。この言葉に従わない者は殺すべしと釘を刺した。
第2章: ヨシュアは二人の間者にエリコの偵察を命じた。二人は妓婦ラハブの家をねぐらとしたが、エリコの王はこのことを知り妓婦ラハブの家を捜索させたが、ラハブは二人はすでに出ていったと返事をしたので、捜索隊は後を追った。偵察の二人は屋根の上に隠れていた。ラハブは偵察の二人に、父母兄弟親戚の命を守ってくれるならこのことは決して漏らさないと約束した。二人は約束を了解し親族をすべてラハブの家に集めて窓にしるしとして赤い紐を吊るしておけば、この国に攻め込んだとき親族の命は保証するといって、ラハブの指示に従いこの邑から脱出し、山で3日間隠れて追手があきらめて帰ったのを見届けてヨシュアのもとに帰還した。
第3章: ヨシュアはイスラエルの民とともにシッテムを出発し、レビ人が担ぐ神エホバの契約の箱を先頭にしてヨルダン川に到着した。ヨシュアは民に向かって明日奇蹟が起こるから身を清めよと言って軍を進めた。エホバはユシュアに語りて、カナン人、ヘテ人、ヒビ人、ぺリジ人、ギルガル人、アモリ人、エブス人を必ず追い払うことを見よといった。すると目の前のヨルダン川の水の流れが止まり、民は幕屋を出て祭司らの担ぐ契約の箱を先頭にヨルダン川を渡りエリコに至った。(出エジプト記の紅海の奇蹟と同じパターン)
第4章: 民が全員川を渡り終えたとき、エホバはヨシュアに語った。祭司らが踏みとどまった場所からイスラエル人の12支派の代表者一人づつ石を持ちより12個の石壇を作り、ヨルダン川を渡った記念にせよと。ルベンの子孫およびガドの半支派は鎧に身を包み、イスラエルの民の先頭に立って進んだ。おおよそ4万人の軍隊がエリコの平野に到着した。ここにヨシュアの権威が確立し、モーセのごとく民の指導者として畏れられた。戦闘の開始に当たり、祭司たちが担ぐ契約の箱(神輿)はヨルダン川の水辺に戻し鎮座させた。1月10日イスラエルの民はエリコの東の境界にあるギルガルに営を張り、ヨシュアがヨルダンから取りよせた12個の石の壇をギルガルに立てた。この記念の石を前に神への信頼の証しとした。 
第5章: ヨルダンの彼方のアモリ人の王、海辺に近いカナン人の王らは、エホバの奇蹟に驚愕し戦意を失っていた。その時エホバはユシュアに、石の刃物で民の割礼(陽皮を切る)を行えと命じた。出エジプト時代の男子は割礼をしていたが、その子孫らは割礼を施されていなかった。一切の民の割礼が終って、営に戻って癒えるのを待った。エホバは今日エジプト時代の辱めを転ばし去ったという意味で、この地をギルガル(転)と称した。そして14日にエリコの平野で逾越節を行った。ヨシュアはエリコの辺でエホバの軍旅の将軍を見た。いまエホバの軍がユシュアを助けるために駆け付けたのである。
第6章: エリコの邑はイスラエル軍によって包囲され封鎖された。6日間毎日軍人は邑の周りを巡回し、7日目に7人の祭司らはヨベルの喇叭を携え契約の箱を担いだ。軍を先頭にし喇叭を吹きつつ祭司らが進んだ。邑の周りを7回巡って7回目に喇叭を吹くと戦闘開始の合図となった。民が喇叭に合わせて大声を出すと石垣が崩れ、軍が邑になだれ込み男女、老若の区別なく皆殺しにされ、牛、羊も殺され、金・銀・銅・鉄器は持ち去られエホバの庫に入れられた。ただし二人の偵察隊を助けた妓婦ラハバとその親族は全員、二人の偵察隊の若人が伴って脱出させ、邑には火がかけられた。
第7章: エリコから偵察隊を出し、べテルの東ベテアミンのほとりにあるアイを偵察させた。偵察隊はアイを窺ったが人口も少ないので、軍は2ー3000人も出せば攻略出来るという報告であったが、兵3000人で攻めたが逆襲され追われてシバリムにおいて36人ほどが殺された。これに肝をつぶしたユシュアと長老たちはエホバの前でひれ伏し理由を伺った。それはユダの支流のカルミの子アカンが呪われたものを略奪し隠し持っていたからである。バビロンの美しい衣服、銀貨、金の棒を埋め隠していたのである。そこで長老たちの詮議が行われ、アカンが詰問され証拠の品々も見つかった。逃れようのないエホバの命に違反した罪で、イスラエル人は石を持ってカナンと家族を撃ち殺しこれを焼いた。カナンの上には大きい意志を積み上げた。この地をアコル(悩み)と呼ぶ。イスラエルの民と国の不幸の到来は、エホバの律法を破る行為をした結果であるという因果応報の思想が貫かれている。
第8章: ヨシュアはエリコの戦いに勝ったように、次はアイの邑を攻撃する作戦を立てた。全軍3万人で包囲し、その中から5000人の兵を夜のうちにアイの邑の背後(べテルとアイの間)に伏兵として配置した。正面から攻撃し敵が正面で反撃をしてくるなら、直ちに敗れた風を装って逃げ敵を邑から誘い出す、その間に伏兵が邑を占領し火を放つという戦術である。前と後ろで挟まれたアイの民を一人残さず殺戮した。その数12,000人、その邑の家畜、貨財を略奪した。邑を徹底的に破壊したので今も荒地のままである。かくしてヨシュアはエバル山にて神エホバに壇を設けた。壇の前で燔祭と酬恩祭を捧げた。律法の書に従い祝福と呪詛の言葉を詠じた。
第9章: レバノンから地中海の大海の沿岸にいるヘテ人・アモリ人・カナン人・ぺリジ人・ヒビ人・エブス人ら北のギベオンの国々はイスラエルの民の進出に驚き、共同してイスラエルと戦う協議を行った。ユシュアがエリコとアイに勝ったことを聞いている彼らは命だけは助けてほしいと哀願するため、長旅のためと見せかけるため、ぼろをまとい固いパンを持ったヒビ人をギルガルのヨシュアの陣営に往かせて、イスラエルの戦果を褒め称えて契約をしたいと申し出た。ヨシュアおよび長老らは彼らと誼をなし生かす約束をした。しかしイスラエルの民が歩いて3日で彼らの邑ギベオン、ケビラ、ベエロ、キリアテタルムに到達した。疑問を持った会衆が長老に問うたのでそのヒビ人になぜ遠いと見せかける嘘を言ったのか詰問した。彼は奴隷の身になるともエホバに呪われる全滅することは避けたいと答えた。そこでヨシュアはエホバの壇の前で彼らを僕として扱うことを報告した。
第10章: ヨシュアがエリコとアイの邑を全滅させ、ギデオンの民と誼を結んだことを知ったエルサレムの王アド二ゼデクは大いに驚いた。そこでヘブロンの王ホハム、ヤルムデの王ピラム、ラキシの王ヤビア、エグロンの王デビルの五王は共同して、イスラエルと誼を結んだギベオンを撃つこと決め戦闘となった。ギベオンの人はギルガルの陣営に人を派遣し救援を請うた。ヨシュアはエホバに伺いを立てると、エホバは勝利を約束した。ヨシュアはギベオンにおいて彼らを夥しく殺し、アゼカ、マッケダ迄追い迫り、ベテホロンの坂道でエホバの神は大石の雨を降らし彼らを殲滅した。五人の王はマッケダの洞窟に逃げ込んだが、大石出入り口を封鎖し五人の王を捕えてヨシュアの前に引き出した。ヨシュアは5人の王を吊るし首して、5本の樹に掛けた。死体をその日のうちに降ろして洞窟の中へ投げ込み、大きな石で蓋をした。こうしてヨシュアはすべてのイスラエル人を率いてマッケダからリブナに攻め込んだ。次にラキシを攻撃し敵を全滅させた。ラキシを助けるために上ってきたゲゼルの王ホラムの軍をも全滅させた。さらにエグロンに進みその日のうちに攻略し殲滅した。エグロンからヘブロンに進攻しこれも一人残さず滅ぼした。またデビルに至りこれを攻めて一切の人を滅ぼした。こうして破竹の勢いで5王とその領地をことごとく滅ぼした。ヨシュアはカデシバルネアよりガザまでの国々およびゴセンの全地を滅ぼしてギベオンまで支配地を広げた。
第11章: ハゾルの王ヤビンはイスラエル人の侵攻を前に、マドンの王ヨバブ、シムロンの王、アクサフの王、北の山地に居る王たち、すなわちカナン人・アモリ人・ヘテ人・エブス人・ヒビ人に使いを出してメロムの水門に陣を取り対イスラエル戦の前線とした。その数の多さにヨシュアはエホバに伺いをして勝利を誓った。ユシュアは連合軍をメロムの水門で打ち破り、ミズパの谷まで追撃し全滅させた。そしてハズルを攻略し王ヤビンを殺した。ハズルの邑を悉く焼き払った。こうしてエホバがかってモーセに命じたことは、今ヨシュアがすべて成し遂げた。ヨシュアはゴセンの全地、アラバ平野を取り、南はハラク山から北はヨルダンまでの王をことごとく撃ち殺した。周辺の邑はイスラエルと誼を結んだ。またヨシュアはヘブロン、デビル、アナブ、ユダの一切の山地よりアナク人を絶滅した。
第12章: ヨルダン川の東の地において、アルノンの谷からヘルモン山および東アラバまでの間で撃ち滅ぼした国の王たちの名前は、アモリ人の王シホン(ヘシボン)、パシャの王オグ(アシタロテ)である。ヨルダン川の西の地において、バアルガデからハラク山までの間で討ち滅ぼした王たちの名前は、エリコの王、アイの王、エルサレムの王、ヘブロンの王、ヤムルテの王、ラキシの王、エグロンの王、ゲゼルの王、デビルの王、ゲゼルの王、ホルマの王、アラデの王、リブナの王、マッケダの王、べテルの王、タップアの王、ヘベルの王、アベクの王、ラシャロンの王、マドンの王、ハズルの王、シムロンの王、メロンの王、アクサフの王、タアナクの王、メドンの王、ケデシの王、ヨクネアムの王、ドルの王、ギルガルの王、テルザの王合わせて31人であった。
第13章: ヨシュアの征服戦争は45年間続いたが、ヨシュアも年を取ったが、エホバはさらにユシュアに取るべき地はまだ多くあると次のように取るべき地を示した。@ペリシテ人の全土、エジプトのシホルからカナン人の北エクロンまで5人の王が支配する地である。ガザ人・アシド人・アソケロン人・ガテ人・エクロン人の地 A南のアヒ人・カナン人の全土、Bシドン人に属するメアラ、およびアモリ人のアベクまでの地 Cバアルガデからハマテまでのゲバル人の地およびヨルダン川東の全土 Dレバノンからミスレポテマイムまでの山地の一切の民すなわちシドシ人の全土 である。その地をイスラエルの9つの支派とマナセの支派の半ばに分配して産業を興す。マナセ支派、ルベン支派、ガド支派、ルベンの支派、ガドの支派、マナセの分派、マキルの支派らに支配地を分配するというエホバの命であった。
第14章: イスラエルの民の最高指導者、祭司エレアゼル、神の代理人ヨシュア、そして12人のイスラエルの支派の長老(牧伯)は、支派の取るべき土地に関するエホバの命令を籤によって9つの支派と半ばの支派に分配することを決定した。レビ人は産業を持たない神への仕え人であるので、土地の分配からは除かれた。ここにケニズ人エフネンの子カレブはヨシュアに、カデシバルネアに関するモーセとの約束を持ち出し、カデシバルネアの偵察の命を受け、任務を全うし報告したが、イスラエルの民が侵攻をひるむ中前進を主張したのは私とヨシュアであった。エホバに仕える者で85歳になってなお意気高建である。カデシバルネアをカレブに与えよとヨシュアに申し出た。ヨシュアはカレブを祝福し彼にヘブロンの地を与えて産業となさしめた。民数記第13章に書いたように、偵察隊の中で侵攻を主張したのは、ヨシュアとカレブであった。二人は固い友情で結ばれていたからである。
第15章: 第15章から21章まではヨシュアの征服戦争が一段落し統一国家の曙が見えてから、イスラエル12支派が与えられた領土についてまとめた。「文語訳 旧訳聖書 T 律法」岩波文庫の「民数記略」にイスラエルの民の定着時代(紀元前13世紀ごろ)の全支配地を示した。地中海沿岸からヨルダン川の西の地域にイスラエル人の9支派の支配地が南北に広がり、ヨルダン川東の地域には3支派の支配地がある。本章はユダの子孫の支派の産業の地について著述している。南の境は塩海(死海)の南端から西へ大海(地中海)に達する。東の境は塩海のヨルダン河口から塩海の沿岸に沿って北へエルサレムに達する。北の境はエルサレムから西へ大海に至るまでである。西の境は大海である。ユダの領地内のヘブロンは第14章に述べたようにヨシュアがケニズ人エフネンの子カレブに与えたところである。ユダの子孫が産業(生活の場)としたエドムの境界にある29か所の邑、平野にある14の邑をはじめ、すべての邑の名前を列記しているが省略する。
第16章: ヨセフの子孫であるマナセおよびエフライム支派の領地の範囲を示している。この章はエフライムの支派の地を示す。ヨルダン川のふもとのエリコから西へぺテル、アタロテ、そして大海に達する。
第17章: ヨセフの子マナセの支派が得た地を示す。マナセの長子であるマキルは軍人であるので、外地ギレアデとパシャンのヨルダン川の東の廣野を得た。ヨシュアはエフライムとマナセに、汝らは大いなる民にして軍人であるから外地の林と言えどこれを切り開いてその地を得るべしといった。マナセの支派の半ばはヨルダン川の東の彼方にあるギレアデ、パシャを産業とした。
第18章: ここにイスラエルの会衆はエフライムのシロに集まって、7つの支派の領地(7つの分割地)を定める会議を開いた。そこで7支派から3人を出して各地を巡り領地をスケッチして報告すべしということになった。カナンの地を7つに分割し、それぞれ番号をつけて籤で決定するやり方である。まず@ベニヤミン支派が引いた土地の境界は、ユダとヨセフ(エフライムとマナセ)の間の土地である。ベニヤミン支派の邑はエリコ、エルサレム他24の邑である。
第19章: Aシメオンの支派がくじを引いた土地は、ユダの子孫の中にある。ベエルシバら17の邑である。ユダ支派のの持ち分が多かったのでシメオンの支派が入り込んだ形となった。Bゼブルンの支派が籤を引いた土地はサリデ、西へはマララ、ヨクネアム、東へはガテヘペル、ネア、北へはハンナトンである。Cイッサカルが籤を引いた土地はエズレル、シオン、キシン、タボル、境界はヨルダン川であった。邑の数は16である。Dアセルの支派が籤を引いた土地はヘルカテ、アマデ、ベテン、ハリ、西へはカルメル、東はゼブルンに接する。北へはベテエメク、カブル、ツロ、そして大海に至る。邑の数は22である。Eナフタリの支派が籤を引いた土地はヘフレからヤブニエルをへてヨルダン川に至る。西へはアズノテタボル、南はゼブルンに接し、西はアセルに接する。邑の数は19である。Fダンの支派がくじを引いた土地は、ゾラ、イルシメン、エロン、ラッコン、ヨッパなどであるが、さらに領土を広げライシをダンと名付けた。最後にヌンの子ヨシュアに土地を与えた。エフライムのテムナテセラである。
第20章: さらに「逃遁の邑」を3カ所設けた。ガリヤラのケデシ、ユダの山地にあるキリアテバル、エフライムの山地にあるシケムである。
第21章: 祭司レビ族には領地は与えないのが原則であるが、モーセは彼らの住むべき邑、その家畜のための郊地を与えるべきだという遺訓に従って、各派の人は自分の土地の中から邑を彼らに与えた。籤引によりレビ人コハテの子孫は、エフライム支派、おとびダンの支派、マナセの支派より10の邑を得た。レビ人ゲルショイの子孫は13の邑を得た。レビ人アロンの子孫はヘブロンの郊地を得た。イスラエルの子孫の中にレビ人が持てる邑の数は合わせて48邑であった。
第22章: ヨシュアがルベン人、ガド人、マナセ人の支派を集めて次のように言った。汝らは日久しくエホバの命を固く守り、私が出した命令を一切実行した。いまや休息を与えるので、ヨルダン川の東の彼方ギリアデにある汝らの領地・家に戻ってよろしいと。マナセの支派の半ばにはバシヤシに産業を持っていた。ヨシュアは彼らに財宝の贈り物(お土産)を与え一族の人に分配するようにと言った。こうしてルベンの支派とマナセの支派の半ばがカナンの地のヨルダン川の岸に至って、一つの壇を設けた。このことを聞いたイスラエルの会衆は悉くシロに集まって、自分たちだけの壇を設けるのは彼らの謀反の証しだと騒ぎだした。そこで祭司エレアザルの子ピハネスと10人の支派の牧伯(長老)をギレアデの地に派遣し、ルベンの子孫、ガドの子孫、マナセの支派の半ばに「己のために一つの壇を築き、今日エホバに叛かんとするは何事ぞ」と詰問した。これに答えてルベン人、ガド人、マナセ人の支派の長が言う、「壇を築いてその上でエホバへの燔祭、酬恩祭、素祭、罪祭等を執り行うことが目的で、遠く時間がたって我らの子孫が汝らの子孫にエホバと何の関係があるのかと言われた場合、逆に壇の一つもなかったなら、それこそ我が民はエホバと何の関係があるのかと言われる」つまり神社の分社を地方に設ける趣旨である。祭司ピハネスはこれを聴いて善しとした。この壇をエド(証し)と名付けた。
第23章: ヨシュアの征服戦争が終わって大分時間がたった。ヨシュアは随分歳を取った。ヨシュアはイスラエルの全会衆を集めて演説をした。ヨルダン川から西は陽が沈む大海までのもろもろの国を制覇し、汝らの産業の生計の基礎が固まった。汝らはモーセの戒めを固く守り、異神に近づかず真っすぐエホバに仕えた。汝らに命じし契約を犯し他の神に仕えたればエホバの怒りは汝らの頭の上に落ちる。
第24章: 「出エジプト記」に書かれたテラーアブラハムーイサクーヤコブーヨセフの先祖の系譜を振り返り、モーセ、祭司アロンに導かれてエジプトを脱出したときの奇蹟にエホバに感謝した。エホバを信じてこそイスラエルの民の福祉がある。ヨシュアは民と契約を結びシケムにおいて法と律を彼らのために設けた。これを言い終わると、ヨシュアは110歳にして亡くなった。会衆は彼をエフライムの山地にあるテムナテセラに葬った。

2-2) 士師記

士師記は全21章(岩波文庫で56頁)である。イスエアエルの民は待望のカナンの地に定着したが、さらに先住民との戦いが続く。エホバへの信仰心が堅ければ勝ち、イスラエルの民の宗教的・道徳的背反に対する懲らしめのために戦争で負けるという論理で民を導いた。士師とは部族民の指導者のことで、さばき人、さばき司とも称されるように、戦争指導、政治的指導者のほかに裁判の権力を持った存在である。カナンの王を滅ぼしたときのエホバへの賛歌「デボラの歌」は旧約聖書の最古の詩文とされる。この女性預言者も士師であった。さらにモアブ人を対決したエホデ、ミデアン人と戦ったギデオン、ペリシテ人と対したサムソンに関して詳しく描かれている。イスラエルに統一王国が樹立するまでの紀元前12世紀ころの歴史とされる。
第1章: ヨシュアが亡くなった後、誰が先にカナン人と戦うのかとエホバに伺いを立てた。エホバの神はユダが攻め上るべしと答えた。エホバはユダ支派の兄弟シメオンを祝福しカナン人と戦え、我汝とともに在ると鼓舞した。この書はユダのシメオンを後継者とするカナン人、ペリシテ人征服記である。ペリシテ人はガザを中心とする大海沿岸にすむ先住民で航海商業民であった。シメオンはベゼグにおいてカナン人とペリシテ人と闘い1万人を殺し、アド二ベゼルを追って捉えその手足の肘を切った。そしてこれをエルサレム迄引き連れたがそこで死んだ。ユダの子孫はエルサレムを攻め邑に火をかけた。そして南のカナン人と戦うためヘブロン(旧名キリアテセペル)に行きカナン人を攻撃した。ユダのカレブはヘブロンを攻め落としたものに自分の娘を与えるといので、舎弟オニエテルがヘブロンを取ったので、娘アクサを妻とした。カレブはアクサに南の地を与えた。モーセの外舅ケニの子孫とユダの子孫はユダの兄弟シメオンとともにゼバテに住むカナン人を攻めて滅ぼし、その邑をホルマと呼んだ。ユダはカザとその北にあるアシケロン、エクロンを取った。ベニヤミンの支派はエルサレムに居るエブス人を追い出さなかったので今でもエルサレムに共存している。ヨセフの支派はべテルを攻略し邑を取ったが、そこの輩は追い出した。そこの輩はヘテ人の津に逃れ行きルズという邑を作った。エフライムの支派はゲゼルに住むカナン人を追い出さなかった。マナセの支派はベテシャンを取ったがカナン人を追い出さなかった。ゼブルンの支派はキテロン、ナハラルに住むカナン人を追い出さなかった。アセルの支派はアツコ、シドン、アヘラブ、ヘルバ、アピク、レホブの民を追い出さなかった。ナフタリの支派はベテシメン、ベテアナテの民を追い出さなかった。アモリ人の支派はダンの民を山に追い込み、降服させて貢物を収めた。
第2章: エホバの使者がボキムに遣わされ、この地の民と契約をしてはならない、彼らの祭壇を打ち壊すべきなのに汝らは我が声に従わないのはどういうことかと詰問した。イスラエルのすべての子孫は声をあげて哭いたので、ここをボキム(哭者)と呼ぶ。イスラエルの子孫は異神バアルとアシタロテに仕え、ヨシュアの時代のエホバの言葉を忘れた。士師を立てた時代はエホバは常に士師と共に居て敵の手から救い出したものである。ヨシュアの時代の後、イスラエルの民は攻め込んだ土地からかの国民を追い出さず共存しエホバを忘れかけているので、エホバの道を守るかどうかをを試さんとする。
第3章: エホバはヨシュアの時代以降の戦争を知らない世代を試さんとして諸々の争いを企てた。イスラエルの子孫はカナン人、ヘテ人、ペリジ人、エブス人と共存し、互いに結婚を重ねていた。そしてイスラエルの子孫はエホバの前に悪事を行い神エホバを忘れてバアリムやアシラの神に事へていた。エホバは激しく怒ってイスラエルの子孫を8年間メソポタミアの王クシヤンリシヤタイムの手に売り渡した。そしてイスラエルの民がエホバに助けを求めたので、カレブの舎弟ケナズの子オテニエルを祝福し、戦って彼らを救助した。こうして40年間は太平であったがオテニエルが亡くなった。またイスラエルの民がエホバの前で悪事を行ったので、モアブの王エグロンにイスラエルを攻撃させた。18年間モアブの王エグロンの支配を受けたが、イスラエルの民の助けを呼ぶ声が聞こえたので、エホバはベニヤミン人ゲラの子エホデをしてこれを救出した。エホデは中国の故事である刺客李斯と同じような手口で王を刺し殺した。そしてモアブ人1万人を殺し、モアブはイスラエルに降伏した。こうして80年間は太平であった。エホデの死後、アナテの子シャムガルも、ペリシテジン600人を殺した。彼もイスラエルを救った。(名前にアンダーラインがあるはイスラエルの窮地を救った士師である)
第4章: エホデが死んでからイスラエルの民はまたエホバの前で悪事を行ったので、エホバはカナンの王ヤビンにイスラエルを売り払って国難をもたらした。ヤビンの軍長はシラセといい、鉄の車両900輌をもって20年間イスラエルの民を支配した。イスラエルの民の助けを呼ぶ声が聞こえたので、ラピドテの妻である預言者デボラ(士師でもあった)がエホバに呼ばれた。デボラはナフタリよりアビノアムの子バラクを呼び、ヤビン征討の命を出した。ナフタリの子孫とゼブルンの子孫1万人を率いてデボラとともタボル山に上った。シラセの軍勢と鉄の戦車を打ち破りシラセの軍は全滅した。逃げるシラセはケニ人ヘベルの妻ヤエルのもとに隠れようとしたが、ヤエルは彼の頭に釘を打ち込んで殺した。そしてカナンの王ヤビンを打ち破りこれを滅ぼした。 
第5章: デボラとバラクは勝利してエホバを賛美する歌を歌った。「・・・興よ起きよ、デボラ興よ起きよ歌を歌うべし、起てよバラク汝の虜を捕え来たれアビノアムの子よ」で終わる。シラセを攻めたイスラエルの軍勢のエフライム支派、ベニヤミンの支派、イッサカルの支派、ゼブルンの支派、ケニ人ヘベルの妻ヤエルの勇者を褒め称えた。この歌を「エボラの歌」と呼び旧約聖書の最古の詩文とされる。こうしてイスラエルの民はまた40年間は太平であった。 
第6章: イスラエルの民はまたエホバの前で悪事を行ったので、エホバはミデアン人・アマレキ人にイスラエルを売り払って国難をもたらした。ミデアン人はイスラエルの産業を犯し、ガザに至るまで奪いつくした。イスラエルの民の助けを呼ぶ声が聞こえたので、エホバはアビエゼル人ヨアシの子ギデオン(エルバアル)を呼んで、ミデアン人の手からイスラエルを救い出すよう命じた。ギデオンは壇の前で燔祭と酬恩祭を捧げた。これをエホバシヤロムと呼んだ。ギデオンはバアルの神の祭壇を壊しアシラの像を切り倒した。ミデアン人・アマレキ人はエズレルの谷に戦陣を取り、ギデオンはアビエゼル人、マナセ人、アセル人、ナフタリ人の民を集めてこれに迎えた。ギデオンはエホバがイスラエルを勝たせるつもりかどうかの徴を確認してハロデの井のほとりに陣を取った。
第7章: ギデオンの軍の数は余りに多かったので、2万人は返して1万人で戦えとエホバはギデオンに命じた。またエホバは民を試すため水際に移って背水の陣を取れと命じた。さらにエホバは犬のように水を舐める者だけで戦えと300人を残してすべて軍を還した。夜になってギデオンに僕フラと夜襲をかけた。敵は谷のうちに伏してラクダの数も数えられないくらいであった。ギデオンは300人を3手に分け、ラッパと油の入った瓶を持たせ、最初にギデオン隊が敵の天幕の中に突入し、喇叭を吹き鳴らし灯油の入った瓶を割って火を放った。三方より300人が乱入したので敵は慌てふためき、味方同士撃ちあった。敵軍は逃げ走ってタバナに至ったが、控えていたイスラエルのマナセ、アセル、ナフタリの軍が追撃した。ベタバラでヨルダン川を敵が渡って逃げるのを阻むため待ち受けていたエフライムの全軍が挟撃し、ミデアン人の王オレブとゼエブの二人をとらえ殺した。
第8章: エフライムの人々はギデオンに対して、ミデアン人との戦闘において呼ばれなかったことに不満を言ったが、ギデオンは敵の二人の王を殺したあなた達の功績の方がはるかに素晴らしいといってなだめた。ギデオンが300人の軍勢でミデアンの王ゼバとザルムンデを追って行く途中、スコテの人に食を乞うたが拒否され、王の首を取った時の復讐を誓った。又ペヌエルの人にも拒否されたので同じ復讐を誓った。ミデアンの王ゼバとザルムンデの軍勢は12万人が戦死し、生き残った1万5000人はカルコルに居たところをギデオンが襲って二人の王を生け捕りにしかれらの軍勢を全滅させた。戦いに勝って還る途中、食を拒んだスコテの伯・長老17名にミデアンの王ゼバとザルムンデを見せ、長老らを殺しまたペヌエルの城を破壊した。かくてギデオンはミデアンの王ゼバとザルムンデの二人を殺した。ギデオンはイスラエルを治め、イスラエルの民は40年間安泰であった。ギデオンは妻を多く持ち子どもは70人いた。シケムに居た時に生まれた子をアビメレクという。ヨアシの子ギデオンは歳を重ねて亡くなった。アビエル人のオフラにあるヨアシの墓に葬られた。
第9章: ギデオン(エルバアル)の子アビメレクはシケムの母の兄弟を集めて、ギデオンの子70人でシケムの民を治めるか、一人で治めるかどちらがいいかを問うた。母の兄弟はアビメレクを擁立したので、アビメレクはヤクザな者を雇って、70人の兄弟を石の上で殺させた。末っ子のヨタムだけは遁れて身を潜めた。シケムの民、ミロのすべての民はアビメレクを王とした。ヨタムはシケムの民に向かって叫んだ。汝らがアビメレクを王としたのは本心からなしたことか、父は命を惜しまずミデアン人から汝らを救ったではないか、アビメレクは70人の兄弟を石の上で殺しシケムの王となったが、心底アビメレクを見てしたことか、そうでないとしたらシケムとミロの民はアビメレクを殺すべきだと叫んだ。ヨタムはベエルに遁れてた。アビメレクは3年間イスラエルを治めたが、神エホバはシケムの民をアビメレクから謀反させた。シケムの民はエベデの子ガアルを頭目に立てた。ガアルはアビメレクを呪いアビメレクを排除する戦いを指揮した。シケムの邑の宰ゼブルはこの動きをアビメレクに密告し、両者で内戦となった。堅固な砦に籠ったシケムの人をアビメレクは攻めんとしたが、婦人の投げた石で脳天を割られ、あっけなく死んだ。
第10章: アビメレクの後、イッサカルの人トラが起こりてイスラエルを救った。エフライムのシャミルで22年間イスラエルを治めた。トラの後ギレアデ人ヤイルが立ち22年間イスラエルを治めた。かれには30人の子がいて30のロバと30の邑を持った。ヤイルが死んでカモンに葬られた。イスラエルの民ふたたびエホバの前で悪事をなし、異神バアル、アシタロテ、シドシ、スリア、モアブの神を信じ、アンモン人の子孫はぺりシテ人の神を信じた。エホバ激しく怒りイスラエルの民をペリシテ人およびアンモン人の手に売った。ギレアデにあるアモリ人によってイスラエル人は18年間苦しめられた。ここにイスラエルの民の嘆きの声がエホバに聞こえ、アンモン人からイスラエルを救うように命を下した。アンモン人はギレアデに陣を取り、イスラエルの民はミズパに陣を取った。イスラエルの軍はギリアデ人エフタが指揮を執った。
第11章: ギリアデ人エフタは妓婦の子であった。ギリアデの妻子は妓婦の子エフタを嫌って追い出し、エフタはトブの地に住んだ。放蕩者らがエフタの周りに集まりその地を出奔した。しばらくしてイスラエルとアンモン人の子孫が戦うに至って、ギリアデの長老らはエフタを呼び寄せて戦いの大将になれと命じた。長老らはエフタはエホバの神の思し召しだなのでイスラエルの首領であり我らは汝に従うといった。こうしてエフタはアンモン人の王に使者を送っていう。イスラエルは決してモアブの地を掠めることはしないアンモン人の子孫の地をもとらない、これはエジプトを出た時エドム、モアブの地の通過を乞うたが許されず、ヘシボシに居たアモリ人の王シホンにイスラエルの民の通過を願ったが拒否された。エホバはイスラエルの民に味方してアモン人を追い払った。この時のことを繰り返させるのかと半分は脅しの文句で詰問した。こう言ってエフタは20の邑を打ち破り、アンモン人の子孫はイスラエルの民に打ち破られた。
第12章: ここでエフライムの人々エフタにいう。アンモン人との戦いになぜ呼ばなかったのか、汝と闘いも辞せずという。エフタはかってイスラエルの民がアンモン人との戦いにおいて、エフライムに救援を頼んだ時エフライムは兵を送らなかった、だから命を懸けてアンモン人を打ち破ったのだといった。にもかかわらず今日汝らはイスラエルの民に戦争を仕掛けるのかと詰問し、エフタはギレアデの軍を悉く集めエフライムと戦った。エフライムを打ち破ってヨルダン川の渡しを封鎖し、遁れ来る人々を殺した。その数は4万2千人であった。エフタは6年間イスラエルを治めて亡くなった。その後べテレヘムのイブサンがイスラエルを7年間治めた。その後ゼブルン人エロンが10年間イスラエルを治めた。その後ピラトン人のアブドンが8年間イスラエルを治めた。
第13章: イスラエルの子孫またエホバの前で悪事をなし、エホバは40年間ペリシテ人の手にイスラエルを渡した。ダン人の民にマノアというゾラ人が居た。その妻は石婦(うまずめ)で子を産んだことがなかった。エホバの使いがその婦人に現われて「神のナザレ人(神に身を捧げた人)を産むであろう、その子がペリシテ人からイスラエルの民を救うだろう」と告げた。(マリアの受胎告知と同じ)マノアは神の使いの言葉を聞き、エホバの使いであることを知った。濃い葡萄酒を飲むなかれ、葡萄を食うなかれ、穢れた物を食うなかれ、これを守ったので、子どもが生まれた。名前はサムソンといい、エホバの祝福を受けた者であった。
第14章: サムソンはペリシテ人を撃つチャンスを窺っていたが、突然テムタムに住むペリシテ人の娘を嫁にしたいと父母に言った。父母は割礼を受けた者がペリシテ人から嫁を取るなんて、まるでイスラエルに娘がいないのかと思われると驚いた。サムソンは父母とともにテムタムのブドウ園にいたり、その時若き獅子がサムソンに躍りかかったがいとも簡単にこれを裂いた。後日娘を嫁に貰うためテムタムに赴くと、かの獅子の屍に蜂の群れと蜜があった。このことを黙って父母に蜜を与えるとこれを食べた。結婚の宴にて、サムソンにペリシテ人の30人の若人を伴に付けたが、サムソンは当たれば布、衣30着を与える約束で彼らに謎々をかけた。「食う者より食物いで強き者より甘き物いでたり」さてこの意味を当ててみよということであった。7日経っても分からなかったので、若人はサムソンの妻になぞ解きを教えろ、さもなくば家を焼くぞと脅かした。サムソンはこの30人を殺した。そのため妻と離縁となる妻は別の人に嫁いだ。
第15章: 後日サムソンは山羊を土産にして元妻に会いに往ったが、その父は面会を許さずサムソンが妻を嫌ったので離縁したまでで、妹ではどうかと持ち掛けた。サムソンはこれでペリシテ人に借りはないと往って、山犬300匹に松明を結わえ刈り取りの終っていない畑に放った。被害を被ったペリシテ人はその父と娘が災いのもとだといって焼き殺した。サムソンは攻撃の材料は揃ったとみて、ペリシテ人多数を殺した。ペリシテ人がユダに攻め入ってレヒに陣を取ったので、ユダの人3000人は支配者ペリシテ人を殺すとはどういうことだとサムソンを問い詰め、サムソンを縛り上げペリシテ人に手渡そうとサムソンをレヒに連れていった。レヒに着くやサムソンを縛っていた縄はエホバの力によって解き放たれ、サムソンはロバの骨で2千人を殺した。その場所をマテレヒとなずけた。サムソンは20年間イスラエルを治めた。
第16章: サムソンはガザの娼婦の家にいたがガザ人に密告する者がいて、取り囲み門のところで伏せ早朝に殺すつもりであったが、サムソンは夜半に起きて門の柱を引き抜きヘブロンの山に上った。こののちサムソンがソレクの谷に居た時デリラという婦人を愛した。ペリシテ人はデリラにサムソンの力は何に寄るのか、どうしたらサムソンに勝てるのかを見出せば銀貨を与えると持ちかけた。デリラはサムソンから七条の新しい縄で縛ると弱くなると聞きだし、ペリシテ人の伯に教え七条の新しい縄でサムソンを縛った。ところがサムソンはいとも簡単に縄を解いた。デリラはサムソンの力のよりどころは何かを質問したら、生まれて髪に剃刀をあてたことがない神のナザレ人だから、髪をそり落としたら弱くなると明かした。デリカがサムソンを寝かしつけている間にペリシテ人は髪の毛をそり落としたら、サムソンは力が失せて縛ることができ、目をくりぬいてガザの牢獄につないだ。ペリシテ人が祝宴を開いている時、サムソンをなぶりものにしようと宴に引き出し大きな柱に縛り付けた。サムソンの髪の毛が伸び始め力が復活し柱ごとその家を引き倒し、3000人のペリシテ人が死んだ。その時にサムソンも下敷きになり死んだ。
第17章: エフライムにミカという人が居た。その母がいうには、ミカかって1100枚の銀を盗まれたといって呪ったが、その銀は母のもとにある。母が取ったのである。エホバに祝福をするため、その銀をエホバに収めた。今それをミカに返しそこから銀200枚を取り鋳物師に渡して像を作った。ミカは神殿を持ちエポデ、テラピムを作り、ユダのレビ人である一人の子を祭司とした。ダンの子孫はその鋳たる像を安置して、国が奪われるまで神の家シロにあった間彼らはミカが作った像を安置した。イスラエルに王がいない時代には人々は自分で善しと思うことをやっていたのである。
第18章: 当時イスラエルには王が居なかったが、ダンの支派はその頃定住できる産業の地を持たなかった。ダンの子孫であるゾラとエシタオルは5人の勇士を派遣して、土地を窺っていた。エフライムの山に至りミカの家に宿を取った。祭司の少年は汝らが行くべきところにエホバの幸いがあるというので、5人はライシに至った。ライシの民は思慮が深くなく、安棲を第一とし、政権を取って王となるものはいなかった。還ってゾラとエシタオルに報告すると、彼らを攻めてその地を取ろうということになり、ダン人600人が武器を持ってユダのキリヤテセリムに陣を張り、ミカの家に至った。そして祭司の少年に、人の家の祭司であるより、イスラエルの支派の民の祭司とならないかと持ち掛けると、祭司はエポデとテラビムの像を持ってきてダン族に合流した。ミカの家の人々はダン人に抗議したが、強そうなので諦めた。こうしてダンの支派はライシの邑を襲い殺し邑を焼いた。
第19章: イスラエルには王が居なかった時代、エフライムの山の奥に一人のレビ人が寄寓し、べテレヘムユダより婦人を取って妾としていたが、その婦は姦淫を行いべテレヘムユダの父の家に帰ってしまった。レビ人の夫はその婦を連れて帰るためべテレヘムユダの外舅の家に行った。外舅は男を気にいって何日も飲食を共にし。ずるずると帰りそびれて5日目に腰を上げ、婦と僕と2匹のロバを連れて出発した。ギベアに宿を取ろうとしたが宿がなく、ベニヤミン人の家に泊まることになったが、邑の悪人どもが家を取り囲み一行を辱めんとして、婦人を略取して夜明けまで集団でレイプを加え、その家の前に棄てた。夫は死んだ婦をロバに載せて家に帰ったが、その妾をズタズタに切り裂いてイスラエルの四方の境に晒した。これを見る者イスラエル人が蒙った悲劇でこれほどの事はないと嘆いたという。ベニヤミン人への公憤がイスラエル人の間に燃え広がった。(イスラエル人のナショナリズムに火がついた)
第20章: ここにイスラエルの民ダンからギレアデに至るまで総決起し、ミズパの地でエホバの幕屋の前に集まった。民の長老(牧伯)自ら集会に出て、兵40万人が剣を抜いた。集会において被害者の夫であるレビ人が説明し、ベニヤミン人の野蛮な悪行行為を糾弾した。ベニヤミンのギベアに戦いに赴き復讐戦を行うことを全会一致で決定した。ベニヤミンの精兵は石投げを得意とする700人、イスラエル軍は40万人である。ユダ支派を先頭にギベアに向かって陣を取った。初戦で2万2千人の死者を出したイスラエル軍は意気消沈したが、エホバは攻め上れといい給う。そこでイスラエル軍はギベアの周りに伏兵を置き、イスラエルがギベアを攻めると、ベニヤミン軍は初戦と同じように打ち破ることができるとみて出て来るであろう、そこを伏兵1万人がギベアを襲いベニヤミン人2万5千人を殺した。ギベアの邑を焼き払うと黒い煙を見たベニヤミン人はうろたえて逃げまどった。ベニヤミンの軍隊の勇士1万8千人が倒れ、さらに7千人がイスラエルの追撃で殺された。併せて2万5千人のベニヤミン軍兵が仆れた。
第21章: イスラエルの民はミズパにおいて我らの娘は一人もベニヤミン人には与えないと誓った。イスラエルの民はべテルにおいてエホバの神を前にして泣いた。なぜイスラエルのベニヤミンの支派のが消え去ったのかと嘆いた。翌朝壇を築いて燔祭、酬恩祭を執り行った。我ら支流のものであってミズパに上ってエホバの前に出ない者はヤベシギレアデの民であった。そこで会衆の勇士1万2千人を遣わして、ヤベシギレアデの民を撃ち、婦人・子供も悉く殺した。4百人の処女の娘は生かしてカナンのシロの陣営に連行した。会衆の長老はベニヤミンの婦女が絶えることになるので、遁れて生き延びたベニヤミンの民に娘を与えた。これでベニヤミンの支派を絶やすことなく産業を与えることができると考えた。

2-3) ルツ記

ルツ記は全4章(岩波文庫で7頁)である。ベツレヘムに住んでいたナオミと夫、そして二人の息子は飢饉により異郷のモアブに移住した。息子らはモアブの女性と結婚したが、二人の息子は早く亡くなったので、ナオミは嫁を連れて夫の親戚の家に居候することになりベツレヘムに帰ったが、嫁のうちルツだけが一行に従った。ルツは夫の親戚ポアズの家の麦畑の刈り入れ後の落ち穂拾いで生計を支えた。ボアズは落ち穂を多くするように手配して彼らを助けた。やがてポアズとルツは結婚し男子オベデが生まれ、オベデの子がエッサイ、エッサイの子がダビデである。ダビデの系図に関わる話である。「落穂拾い」による困窮者救済策はレビ記第19章に書かれているように、貧しい人たちのために一部を残すことが述べられている。また申命記第24章でも孤児と寡婦を救済するのは社会福祉の始まりのような話があった。この話を題材にしたミレーの「落穂拾い」が描かれたという。
第1章: 士師の時代に、国に飢饉が起こりべテレへムユダのエフテラ人エリメレクという人べテレムユダを去り、妻ナオミと二人の男子を率きつれモアブの地に寄寓した。二人の息子の名はマロン、キリオンである。そこの地で夫エリメレクはなくなり、ナオミと息子二人とモアブ人の嫁が残された。嫁の名はオルバ、ルツというが、10年間そこに住むうちに二人の息子も亡くなり、ナオミは嫁をモアブに置いて自分だけでユダの地に帰らんとしたが、ルツという嫁だけはナオミについてユダに移住した。二人は麦刈りの季節にべテレへムに入った。
第2章: ナオミは、故人の夫エリメレクの縁者でその地の実力者ボアズという人の家の近くに住んだ。そこでルツは田において麦刈りの人の後ろに従い穂を拾ってナオミの生活を支えた。ポアズはこれを見て刈り取り作業の監督者にあの婦は誰かと問うたところ、監者はナオミの連れてきたモアブの女で、刈る者の後ろに従って田に落ちた穂を拾っていいかと許可を求めたので許したと答えた。その婦は一日中休みなく働いたという。ポアズはルツに言った。他の田にゆかずここにいなさいと、そしてエホバにこの婦に幸いあれと祈った。刈り入れの若者には、婦に恥をかかせてはいけない、穂を故意に落として婦に拾わせるようにしなさいと命じた。
第3章: ナオミはルツに、私はあなたに落ち着く場所を見つけ幸せな生活を送れるようにしたい。ポアズさんは夫の縁者です。今日大麦の脱穀作業後の飲み食いが終るの待ち、衣服を着替えて体に油を塗ってポアズの室に行きなさいと言った。ポアズは驚いた風に、エホバの恩典があなたにありますように、町の人はあなたが賢い人であることを知っている。今夜のことは誰にも話してはいけないと言って、翌朝彼女に大麦6升を与えた。ルツは帰ってナオミに報告した。ナオミはルツに座して待ちなさいといった。
第4章: ポアズが門の前で座って売買人の来るのを待っていると、土地の売買人がやってきたのでポアズは邑の長老10人を招いて裁定を願った。ポアズは,モアブの地から還ってきたナオミが我らの兄弟エリメレクの土地を売るという、汝が買うか私が買った方がいいのかと問うた。売買人は亡くなった人の土地を買うということはその妻ルツをも買うということであり、それはできないのであなたが買うべきであるといった。ポアズは長老に向かって、今日の証人になってください、私がエリメレクの土地を買うということは息子の妻ルツを買い妻としエリメレクの名を残すことです。こうしてポアズはルツを娶りて妻とした。土地の婦人たちはエホバを褒め讃えた。ルツは7人子供を生んだ。ナオミがその長子の養育者となった。その名はオベデ、ダビデの父なるエッサイの父である。その系譜は、ペレズ→ヘズロン→ラム→アミナダブ→ナション→サルモン→ポアズ→オベデ→エッサイ→ダビデとなる。

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     サウル王 第1代(紀元前11世紀ごろ)        ダビデ王 第2代 (前1000年−前961年)   ソロモン王 第3代  (前1011年−前931年)

2-4) サムエル記 前書 (預言者サムエルと王サウルの物語)

サムエル記前書は全31章(岩波文庫で73頁)である。サムエルは紀元前11世紀イスラエルの士師、預言者として部族を指導した。年老いたサムエルは二人の息子を士師に選んだが、息子らは不正と収賄を行い、民は王の選出を求めた。王の選出にはサムエルは反対であったが、強い要求に負けてサウルを王とした。サウルはエホバの定めに反することが多く、サムエルは次の王としてダビデに期待した。
第1章: エフライムの山地にエルカナという人が居た。その人の系譜は、ツフ→トフ→エリウ→エロハム→エルカナである。エルカナには二人の妻がいて、ハンナとぺニンナで、ペニンナには子供がいたが、ハンナには子がなかった。ハンナはシロに出かけては祭司エリ(子ホフ二とピネハスがあった)にエホバの前で妊娠を願った。エルカナは供物をささげるときハンナには倍の量を与えた。エルカナはハンナの方を愛していたが、神エホバは妊娠を留めていた。ペニンナがハンナの願いを妨害していたので、ハンナは食事もできなくなった。ハンナはシロの祭壇において祭司エリを傍においてエホバに男の子の出産を願って誓いをした。心動かされたエホバがハンナの妊娠を許した。こうしてできた子の名をサムエルという。ハンナはこの子が乳離れするまでシロには上らないといってとどまった。子サムエルが乳離れしたとき、牛3頭、粉1斗、酒1嚢を携えてシロに上りエホバへのお礼とした。
第2章: ハンナのエホバを讃える歌が冒頭に置かれる。エルカナはラマに行き、サムエル童子は祭司エリの前に居てエホバに仕えた。ところが祭司エリの息子二人は強欲で供物を横取りばかりしてエホバのまで悪事を重ねた。エホバはハンナに、恵みを与えさらに3人の男の子と二人の女の子をハンナに授けた。ここに祭司エリは老体になり、息子らの悪事を詰問したが、息子らはこれを聴かなかった。エホバは息子らを殺すことにした。童子サムエルは神と人に愛せられた。エホバの使いがエリのもとを訪れ、祭司エリの家を断ち、息子二人は同じ日に死ぬと伝えた。そしてエホバに忠心な祭司を起こし、エホバが祝福した者が率いるであろう。
第3章: エホバが訪れることが少なくなったシロの家では、祭司エリの目が曇って見えず寝室にいた。ある夜サムエルが神の箱のあるエホバの宮で寝ていると、サムエルを呼ぶ声がした。サムエルはエリの寝室にゆきサムエルここにありと言ったが、エリは呼んではいない帰って寝なさいという。こういうことを3度繰り返してエリはエホバがサムエルを呼んでいることに気が付き、「僕ここにありエホバ語りたまえ」と言いなさいとサムセルに教えた。そしてエホバがサムエルに伝えたことは、エリの祭司の家は悪事のため維持することはできないといい、エリに言ったことをことごとくサムエルが行えということであった。このことを翌朝エリに隠さず伝え、イスラエルの人みなサムエルがエホバの預言者と定まったことを知った。
第4章: ペリシテ人はアベクに陣を取って、イスラエル人がエベネゼルに陣を取り戦ったが、4000人ほどが殺されイスラエル軍は敗れた。陣営に戻って長老らはなぜ敗れたのかエホバに信を問うべく、祭司エリの家よりエホバの契約の函を持ってくることになった。エリの二人の息子ホフ二とピネハスが担いで陣営にやってきた。契約の箱が陣営に入った時、イスラエル人は歓呼の声を出して響いた。この声に驚いたペリシテ人の陣営ではエホバが陣営に入ったことを知った。勇気を奮ってペリシテ人はイスラエルと戦を交え、イスラエルの兵3万人を殺し、神の箱を奪い、祭司の二人の子を殺した。このときベニヤミンの兵士一人シロに逃げ帰り、98歳になる祭司エリが戦いの結果を聞いて事の次第が明白となった。その時エリは門の傍で死んだ。エリは40年間イスラエルの民を導いた。産み月にあったピアネスの妻が夫が殺されたことを聞いて、産気づき産んだ子の名前はイカポデ(栄なし)である。イスラエルに神の栄光は去った。神の箱を奪われたからである。
第5章: ペリシテ人はエホバの神の函を奪って、エベネゼルからアシドドに持ち帰った。これをダゴンの家においた。すると翌朝ダゴンの像が仆れているのを発見した。毎日仆れた像をもとに戻してもまた倒れていた。さらにダゴンの像の首と足が断たれ身体だけが残っていた。こうしてエホバの手がアシドドの民に加わり、腫物の疫病でアシドドの民を苦しめた。そこでペリシテ人の長老らはエホバの箱の始末に困り、ガデに移した。ここでも疫病が流行り、さらに神の箱をエクロンに移した。エクロンの民は神の祟りを畏れて箱の搬入を拒否したので、困った長老たちは神の箱をイスラエルのもとのところへ戻すべきだということになった。
第6章: エホバの箱は7か月間ペリシテ人のところにあった。ペリシテ人はどうのようにして神の函を還すか、祭司と占い師に伺わせた。答えはそのまま何もせずに還すのではなく「過祭」をすればペリシテ人の手を離れる。それにはペリシテ人の5人の王(アシドド、ガザ、アシケロン、ガテ、エクロンの王)の数に従って、金の腫物と5つの金の鼠を櫃に入れエホバの箱と一緒に車1両に載せ、2頭の牛にひかせて送り届けるべきだということであった。ペリシテ人の王たちが付き添ってベテシメンの境界まで運んだ。道中に大きな石があったので、その上でペリシテ人はエホバに燔祭を供え生贄を捧げた。ペテシメンの人々エホバの箱を覗きに行って、70人は死んだ。そこでキリアテヤリムの人にエホバの箱を還した。
第7章: キリアテヤリムの人、エホバの箱をアビナダムの子エレアゼルに持ち込み、エホバの箱を守った。それから20年たってイスラエルの全家の民はエホバを慕った。 サムエルはイスラエルの全家に告げて、バアルとアシタロテの異神を捨てよ、そしてミツバに集まれと号令をかけた。断食をしてイスラエル人の罪を裁いた。イスラエルの民がミツバに集結したことを知ったペリシテ人はイスラエルに攻め込んだ。サムエルはエホバに燔祭を供えたところ、エホバはペリシテ人を雷を下して打ち破った。サムエルはペリシテ人を追ってベテカルに至り、これ以降ペリシテ人はイスラエルを侵さなかった。またサムエルはイスラエルより奪われた地エクロン、ガテを取り返し、サムエルがイスラエルの全土をおさめた。
第8章: サムエルは年老いて、その子ヨエル、アビアを士師としてイスラエル人を統治させたが、父の道を歩まず私利を肥し賄賂を取った。そこでイスラエルの長老らラマのサムエルのもとに行き、あなたの子らは駄目なので王を立てたいと申し出た。サムエルは難色を示してエホバに伺ったところ、民はサムエルを棄てるつもりではなくエホバを棄てるつもりで王を立てるようだ。民を戒め王の常例を示した。(長老合議制から専制王制へ移行するとどうなるかを明らかにする)王は己の子を騎兵とし、軍の先頭に立たせる。また千人の長となして農作物を年貢として武器や車両を作る。民の最もいい土地を奪って臣僕に与え、農産物に10分の1税をかけ官吏と臣僕に与え、羊の10分の1を取って民を僕にしてしまう。そしていつか自分の選んだ王のために嘆きの声をあげるだろう。その時もう神は知ったことではないが。しかし長老らはサムエルの言うことは聞かず王を求めたので、エホバは仕方なしにサムエルに王を立てることを指示した。(ここでは神の投げやりな態度が見て取れる。国の体制として部族長老の合議政治から専制王制に妥協した形跡がある。統一国家の体制としては段階的に王政もあるだろう言う見方ができる。また「政教分離」といういいかたもできるが、先走った議論は控えておこう。それほどクリアーに分析できないからだ。)
第9章: ベニヤミンの実力者にキシという人が居た。キシにサウルという名の子があった。そのサウルの系譜はベニヤミン→アビア→ペコラテ→ゼロン→アビエル→キシ→サウルとなる。イスラエル12支派のベニヤミン支派の本流に居た。キシはロバを見失ったので、息子サウルに僕を伴ってロバを探してくるよう命じた。しかし行けども行けどもロバは見当たらず、もう帰ろうかというとき僕の若者がこの辺りに神の人がいるので、その人に聞いてみようということになり、お礼に銀1シケルを持ってその預言者サムエル(先見者)のいる邑に往った。今日はこの邑の崇丘の上で祭りをしているというので二人は急いで崇丘に上った。サムエルがサウルを見た時この人こそイスラエルを救う人だと叫んだ。そしてサムエルはサウルに神の言葉を示した。
第10章: サムエルは膏をサウルの頭に灌いで口づけをして言った。サムエルがサウルの身に起こることを次々に預言した。ラケルの墓の前で二人の人が「ロバは見当たらない、父はロバのことは諦めイスラエルのことを思う我が子をどうすべきか」という、次にタボルの樫の木の前で3人のものに会い神への供え物を受けること、そしてギベアに置いたるとき一群の預言者に会い、彼らと予言して新しき人に生まれ変わるという。神がサウルにいるのでギルガルに行きエホバに燔祭と酬恩祭を捧げる。こうしてサウルも預言者となった。サムエルはイスラエルの民をミツバに集めイスラエルを苦難の道から救う王は籤(神の籤だから最初から当たるように決まっていた)によってベニヤミンのサウルに決まったと告げ、民は王の命永かれと叫んだ。
第11章: アンモン人ナハシがギレアデのヤベシに迫り降伏を説いた。ハナシの条件はヤベシ人の右目をくりぬいてイスラエルに恥を与えることであった。ヤベシの長老は7日間の猶予を願って、サウルに使いを出し救助を求めた。サウルはイスラエルの子孫から30万人、ユダから3万人をもってアンモン人を攻撃して殺し尽した。サムエルはギルガルに新しい王国を宣言し、エホバの前にサウルを王とし、酬恩祭を捧げた。
第12章: サムエルはイスラエルに人々に、汝らの言葉を聞いて王を立てた。私は老いた。人生を振り返って悪事や間違ったことややましいことは何一つしていないと言った。エホバがモーセとアロンを導いてエジプトから民を救出したことは正しいことであった。ところがエホバは民をハズルの軍シラセ、ペリシテ人およびアモリ人の王の手に渡した。それはバアルやアシタロテに仕えてエホバを忘れたからである。神はエルバアル、バラク、エフタとサムソンを遣わして汝らを救った。アンモン人の子孫王ナハシがイスラエルを攻めてきたとき、エホバは汝らの願いを入れて王を立てた。汝らの罪の重さにさらに王を求むる悪を加えたからである。王は空しきもので汝らを助けることも救うこともできない。なお汝ら悪をなすならば王とともに汝らは滅ぼされるとサムソンは釘を刺した。(この章はエホバが王を立てることを承認した経過からして、サムエルの言い逃れのように聞こえる。すっきりしない章である)
第13章: サウルは30歳で王の位に就き、2年間イスラエルを治めた。サウルは兵3000人を選んで、2000人はサウルとともにミクシマ、ベテルの山におき、サウルの子ヨタナンに兵1000人を預けベニヤミンのギベアに置いた。その他の兵は郷に戻した。ヨタナンがゲバにあるペリシテ人の代官を殺したので、サウルは多くの兵を集めギルガルに陣を置いた。ペリシテ人はイスラエル人との戦争に戦車300騎、兵6千人をもってミクマシに陣を取った。イスラエル人の民は怖気ついて隠れたが、サウルはギルガルに留まった。サウルはエホバに燔祭と酬恩祭を捧げ終ったときにサムエルが前線に来た。サムエルはエホバの命を守らないサウルを愚か者と詰った。サウルの兵はおよそ600人でゲバに陣を移した。ペリシテ人はミクシマに陣を張った。ペリシテ人は3隊に別れて置かれた。イスラエルには鉄工が居なかったので、戦いの日にはサウルの兵士は剣や槍を持たなかった。(鉄兵器なしに戦うイスラエルの軍の愚かさは想像不可能)
第14章: サウルの子ヨタナンは対岸のペリシテ人の先陣に渡るべく、兵器及び兵士の数少ない陣容ではあるがエホバ神がついているからと言って励まし、20人ほどを切り倒した。それでペリシテ人の陣営が崩れるのを見たサウルの軍600人は、攻撃したのがヨタナンとアヒアであることが判明しペリシテ人に一斉攻撃を加えた。ペリシテ人の混乱は相撃ちとなり、さらにペリシテ陣営にいたヘブル人の寝返りがあってペリシテ軍の敗走となった。それを追って戦いはベテアベン、ミクマン、アヤロンに移った。ところがサウル軍には食事の用意がなかったので、兵士は疲れて空腹に苦しんだ。ここにおいてイスラエル軍の民は分捕りした羊、牛を殺して血のままに食らった。エホバが固く禁止した罪を侵した。しかしその戦果によってエホバはサウルやヨタナンを殺さなかった。サウルは王の位についてから四方の敵を征伐した。モアブ、アンモンの子孫エドム、ゾバの王ら、ペリシテ人を攻め勝利を得た。サウルの家は、息子にヨタナン、エスイ、マルキシュア、娘にメラブ、サウルの妻はアヒノアムである。軍の長であるアブネルはサウルの伯父ネルの子である。サウルの父キシとネルはアビエルの子である。
第15章: サムエルは王サウルにエホバの命を伝えた。エジプトを出るときアマレク人は我らの行く道を遮った、だからアマレクを撃ち殺し尽せ奪いつくせと。サウルはテライムに兵20万人とユダ人1万人を集め、アマレクの邑の谷に兵を伏せ、ケニ人に対してアマレク人から離れよといった。離れないと一緒に滅ぼすと言われて、ケニ人はアマレク人から去った。サウル、アマレクを撃ちエジプトの前まで追撃した。アマレクの王アガクを生け捕りにして、その民を滅ぼした。羊と牛の最も肥えた物を取り、それを引き連れるアマレク人も許した。エホバはサムエルに告げていう。我サウルを王としたことを悔いる。それは我が命じたことを忠実に実行すなかったからであると。驚いたサムエルはサウルに会うためギルガルに行きエホバの言葉を伝えた。サウルは必死にサムエルに抗弁したが、エホバの言葉を聞かず敵の所有物を我が物にした罪は悪である。エホバはその言葉に従うことを善しとし、エホバの言葉を捨てたことによって、エホバはサウルを捨て王を追放するという。今日からイスラエルの国は分裂し、善き者にイスラエルを与える。サムエルはアマレクの王アガクを呼び出しこれを殺した。
第16章: エホバはサムエルにベテレヘム人エッサイのもとに行き、一人の王となるべき人に膏を灌げと命じた。エッサイには8人の息子がいたが末っ子のダビデにエホバの霊が臨んだ。この子に膏を注いでサムエルはラマに帰った。サウルはエホバからくる悪鬼に悩まされており、琴を弾くことに巧みなものを探して我を慰めよという。サウルの僕臣がダビデを王に紹介し、その子を王のもとに連れてきた。サウルはこの子を大いに愛し士師となし、ダビデは琴を弾いて王を慰めたという。
第17章: ペリシテ人がイスラエルに戦いを挑み、ユダのショコに集まりパスダミムに陣をとった。サウルはエラの谷に陣を取った。ペリシテ軍より豪傑ゴリアテが出て1対1の大将どうしの戦いで決着をつけようと挑発した。べテレヘムユダのエフラタ人エッサイも息子3人と一緒にサウル軍に参加していた。両軍が対峙するとき、ダビデがエッサイの指示で荷物を届けに陣営に入ったとき、ゴリアテが出てきて1対1の勝負を叫んだので、このペリシテ人と闘うことを王サウルに願い出た。サウルはダビデに戎衣(鎧)を与えたが、ダビデは着なれていないので断り嚢に石を5つ入れ、投石索を持ってゴリアテの前に出た。ゴリアテを1石でその額を撃ち当てゴリアテは死んだ。イスラエルとユダは鬨の声をあげてペリシテ軍に襲い掛かり、これを滅ぼした。
第18章: 王サウルの息子ヨタナンはダビデのことを聞いて、二人はこよなく心が結びついた。サウルが凱旋したとき街で歓呼の声「サウルは千を撃ち、ダビデは万を撃つ」が聞こえた。この声に王サウルは甚だ不機嫌になった。この日からサウルはダビデを疎むようになった。ダビデを千人長に任命し民の人気から遠離けた。サウルはダビデを自分の手にかけずペリシテ人との戦いの前線で殺す企みを持った。サウルは自分の娘ミカルを妻にして謀ろうとしたが、ダビデは王の婿になるのは自分の家柄ではないと断った。こうして王サウルはダビデの敵となった。
第19章: サウルは息子ヨタナンおよび僕臣にダビデを殺す話をしたが、ヨタナンはダビデを愛していたのでダビデに打ち明け、隠れているように言った。そしてヨタナンは父サウルにダビデ暗殺を止まるように説得した。サウルは神に誓ってダビデを殺さないというので、ヨタナンはダビデとサウルの和解の仲介をした。ペリシテ人との戦いが始まり、ダビデはペリシテ人を追い散らした。サウルが投げ槍を持っていたとき、エホバの悪鬼がサウルに移り乗り、ダビデに槍を投げたがダビデはかわして逃げた。ダビデの家はサウルによって包囲されたが、ダビデの妻ミカルはダビデを釣り下ろして、ベットには藁人形を入れて難を逃れた。ミカルがダビデは病気で伏していますとサウルに告げたが、使者が寝室に入ると人形(像)しかいなかった。ダビデは遁れてラマのナヨテに行きサムエルのもとに隠れた。サムエルにサウルがなしたこと悉く告げた。追手がラマに差し向けられたが、かれらも預言者に変えられダビデを捕縛することはできなかった。
第20章: この章はサウルの息子ヨタナンとダビデの約束のことである。聖域であるサムエルの家に避難したダビデに対して、息子ヨタナンは父の動向を察知してすべて知らせるから、月例の朔日に行う王の食事会には出席するようダビデに説得した。危険をしらせる合図も約束したが、ダビデは食事会は欠席した。2日には王はヨタナンに怒りを発し殺そうとしたので、ヨタナンはダビデに逃亡の合図を送った。
第21章: この章はダビデの逃避行を叙述している。ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに往ったが、アヒメレクはこれにパンを与え、さらに武器を要求したがアヒメレクはペリシテ人ゴリアテの剣を与えた。ダビデは王サウルを畏れその日のうちにガテの王アキシのところへ逃げた。ダビデの噂はこの王にも聞こえていたので、自分の家に入れることを拒んだ。
第22章: このためダビデはアドラムの洞穴に遁れた。そこにはダビデの兄弟や父の家の者も集まりその数400人であった。つぎにモアブのミズパにゆくが、預言者ガデはダビデにユダの地にゆくことを勧め、ハレテの森に至った。王サウルはダビデの行方をアヒトブの祭司アヒメレクに問うた。祭司アヒメレクはかえって王をなじったので、王はエドム人ドエグに祭司と一家の殺害を命じた。ドエグは一家85人を殺し、祭司の邑ノブを破壊した。祭司アヒメレクの息子の一人アビヤダルは遁れてダビデにこのことを伝えた。ダビデはアビヤダルを保護した。
第23章: ペリシテ人がケイラを攻めて脱穀場を奪ったという方がダビデに寄せられたので、ダビデはエホバにペリシテ人を撃つべきかどうかを問うた。ダビデは答えた、撃てそしてケイラを救えと。ダビデと従者はケイラに行きペリシテ人を撃ち殺し、ケイラの民を救った。王サウルはその邑に居るダビデを取り囲む謀を巡らしたので、ダビデと600人ばかりの従者は急ぎケイラを脱出した。ここにジフ人がギベアのサウルにダビデの居る場所を探索することを申し出た。ジフ人はダビデがアラバのマオンの野にいることを知ったが、知らせる人がいてダビデはエンゲデの要塞に遁れた。王サウルはペリシテ人が国に侵入したとの報を受け、ダビデを追うことを止めて引き返した。
第24章: 王サウルはペリシテ人を追い払ったころ、ダビデはエンゲデの野に居ることを告げる人が居た。そこでサウルは3000人の従者を率いてダビデの居る洞穴を訪ねた。ダビデはひそかにサウルの衣の裾を切り取った。しかしダビデはエホバが膏を注いだサウル王を害することは悪いことだと恥じ、平和裏に会談した。二人は野に出て和解した(本当なら和解、嘘なら芝居)。
第25章: 年老いた預言者サムエルが死んだ。ラマに葬った。ダビデは出発しパランの野に下った。預言者サムエルと王サウルの時代が終焉を迎えたのである。なんともしっくり行かない関係にあった二人であるが、サムエルの死によって王サウルは死に体となったといえる。マオンにナバルという一人の裕福な者が居た。カルメルに財産を持ち、羊3000、山羊1000をもち、山羊の毛を剪って産業とした。その妻の名はアビガルと言い賢く美しい婦人であった。ダビデが野に居るときナバルの飼っていた物には手を出さず悪をなさなかった。ダビデは使いをだしダビデにその持ち物を分けてほしいと乞うたが、ナバルは罵って断った。そこでダビデは武装して迫ったが、その妻アビガルはパン、酒、羊肉、麦などの食物と礼物を差し出し夫ナバルの無礼をわびた。翌日エホバはナバルの悪を持って彼を殺した。ダビデはアビガルを妻とした。(ダビデの行為はヤクザの守ってやるからものを出せという「みかじめ」行為に相当し、しかも妻を奪うという破廉恥な行動に見える)
第26章: ジフ人がサウルにダビデはハラキの山の隠れていると知らせた。そこで王サウルは3000人の捜索隊をジフの野に派遣した。サウルは山のすそ野に陣を取り、ダビデは物見を出し、サウル軍長ネルの子アブネルの陣営を調べ、ヘテ人アヒメレク、ゼルヤの子アビシャイに奇襲を命じたが、エホバが膏を注いだ者を殺してはいけないと指示した。(サウルとダビデの二人に膏が灌がれたことが事態の膠着の最大の原因であった。これではどちらがどちらを殺してもエホバへの悪となる。なんと煮え切らないやりとりが展開される)
第27章: ダビデはサウルの手から遁れるにはペリシテ人の地に逃げるしかないと考え、ガテの王マオクの子アキシに至って、アキシの家に二人の妻アヒノアム、アビガルと共に住んだ。ダビデは城内には住めないので、アキシの邑のうち一つをダビデの従者に与えてほしいと願った。アキシはチクラグという邑をダビデに与えた。チクラグはユダの王に属していた。ダビデは従者とともにゲシュル人ゲゼり人アマレク人の地を襲い皆殺しにして家畜類を奪った。こうしてダビデはペリシテ人の中で領土を広げた。アキシはそれでもダビデを信じたという。
第28章: ペリシテ人がイスラエルと戦うためにシュネムに陣を取り、イスラエルは全軍ギルボアに陣を取った。王サウルはペリシテ軍を見て震え上がり預言者は誰も答えなかったのでエンドルの口寄せの婦のもとに、変装して出かけた。そして故預言者のサムエルを呼び起こしてほしいと依頼した。口寄せの婦は驚いて依頼人が王サウルであることを見抜き、サムエルを呼び出した。サムエルが言うには、エホバはすでに汝より離れ汝の敵となった。イスラエルの国は汝から解放しダビデに与えた。イスラエル人の陣営はペリシテ人の手に渡されると述べた。これを聴いてサウルは力を失い食事もできなかった。
第29章: ペリシテ人は全軍をアベクに集め、イスラエルはエズレルに陣を取った。ペリシテ人の伯は軍の百人千人の頭となり進軍し、ダビデとアキシはその後に就いた。ペリシテ人の伯はアキシに、そこに居るのはダビデではないか、なぜいるのかと問うた。ダビデが逃亡の末アキシのところにいると述べたが、伯らはいつ寝返るか分からないので返せという。アキシはダビデに関して何の問題もないと抗弁したが、結局翌朝ダビデはペリシテ人の後背地に戻され、全軍はエズレルに向かって進んだ。
第30章: ダビデが戻ったのは、ペリシテ軍の留守を狙ってアマレク人が南の土地とチクラグに進出し、邑を焼き、女子供を人質にし、家畜を奪って引き上げた後であった。その奪われた妻子のなかにダビデの二人の妻もいた。ダビデはアヒメレクの祭司アビヤタルにエポデ(契約の箱)を持って来させて、エホバに問うた。アマレク人の軍に追いつくことができるというエホバの声に励まされ、600人の従者を引率して後を追った。べソル川の傍に輜重をおいて200人をこれに守らせ、400人の従者とともに川を渡りった。途中拾ったアマレク人の棄兵の若者に食事や水を与え、彼を道案内人としてアマレク人の軍に追いつきこれを一晩で壊滅させ、奪われた者、家畜を取り戻した。分捕り品の分配は攻める者も輜重を守るものを等しく受けることができるというイスラエルの法を作った。
第31章: ペリシテ人とイスラエルとの戦いはイスラエル軍の敗北となった。負傷者はギルボア山に倒れ、サウルの子ヨタナン、アビナダブ、マルキシュアは殺され、サウルは矢を受けて動けなくなり自害した。イスラエル人は邑を捨てて逃げ、代わりにペリシテ人が入った。

2-5) サムエル記 後書 (ダビデ王の物語)

サムエル記後書は全24章(岩波文庫で58頁)である。ダビデはペリシテ人の豪傑ゴリアテを倒し戦いに勝った。サウルは千を撃ち殺し、ダビデは萬を撃ち殺すと讃えられた。サウルの反感を買って、サウルはダビデの殺害を図るが、サウルの子ヨナンはダビデを助けた。ペリシテ人との戦いで戦死したヨタナンを讃えた「ああ勇士は仆れるかな」の言葉が名高い。サウルの死後王位に就いたダビデも部下ウリアの妻を見初めウリアを戦いの最前線に送って戦死させるという過ちを犯した。
第1章: ダビデはアマレク人を撃ってチグラグに帰り、3日目にボロボロの衣を着て土にまみれた者がダビデの許にやってきて言う。我アマレク人の兵士でサウル、ヨタナンは死んだと。ギルボア山にてサウル槍にもたれて、痛く傷ついたので我を殺せと言う。上に乗って彼を殺した。証拠はサウルの冠と腕輪である。ここでダビデおよび従者は激しく哭きイスラエルのために断食をした。そして若い従者に彼を殺せと命じた。エホバが膏を注いだ者を殺した罪を自白したによる。ダビデは悲歌(弓の歌、ヤシル書)をもってサウルとヨタナンを弔った。「ああ勇士は仆れたるかな・・殺せし者の血をのまずしてヨタナンの弓は退かず、勇士の脂を食わずしてサウルの剣は空しく帰らず・・ああ勇士は仆れたるかな戦いの具は失せたるかな」
第2章: ダビデはエホバの命に従って、ユダのヘブロンに向かった。ユダの民はダビデに膏を灌ぎユダの王にした。サウル王を葬ったのはヤベシギリアデの人だと聞いて、使いを立て、エホバとダビデの恩恵を与えて誼を結んだ。ここにサウル軍の軍長ネルの子アブネルは、サウルの子イシボセテを担いでマナハイムにおいてイスラエルの王となした。イシボセテは2年間イスラエルの王であったが、ダビデがユダの王であったのは7年半である。アブネルおよびヨアブ、アビシャイの軍がマナハイムを出てギベオンに至った。ヨアブとダビデの従者も出てギベオンの池の周りに対峙した。その日の戦いは、ベニヤミン人のイシボセテの軍(イスラエル)はユダ人のヨアブの軍とダビデの前に敗北した。その地をヘルカテズムリ(利剣の地)と呼んだ。ゼルヤの三人の子ヨアブ、アビシャイ、アサヘルの軍はアブネルを追ったが、アサヘルはアブネルの槍に刺されて死んだ。ヨアブ、アビシャイはアブネルを追ったが、追跡できずにヘブロンに引き返し、アブネルはヨルダンを渡ってマナハイムに至った。
第3章: ダビデに6人の子ができた。アムソン(アヒノヤの子)、キレアブ(アガヒルの子)、アブサロム(マアカの子)、アドニア(ハギテの子)、シパテア(アビタルの子)、イテレアム(エグラの子)である。イスラエルのサウル王家とユダのダビデ王家の争いが長引き、ダビデ家はますます強くなり、サウル家ますます弱くなった。サウルの軍長ネルの子アブネルは堅くサウル側についていた。しかしサウル王の妾リゾパにアブネルが通じたとイシボセテが言い出してから、アブネルはこれに怒り二人の主従関係は崩れた。アブネルは国をサウルの家より移しダビデにイスラエルとユダの上に立つ国を立てるべく、ダビデと交渉を開始した。アブネルはダビデに、我汝に力を添えてイスラエルをことごとく汝に帰すといい、ダビデはかってダビデはサウル家に婿に入った時の妻ミカル(サウルの娘)をイシボセテから得ることを交渉の交換条件とした。アブネルは平和裏に戻ってイスラエルの長老に報告し、イスラエルとユダの統一王国樹立の同意を得た。ところがダビデ陣営のヨアブは、この話を聞いてアブネルに追いついて、兄弟アサヘルの仇討とばかりにこれを暗殺した。ダビデはこの変に気が付き、その罪はあげてヨアブにありと宣言して、アブラムの死を悼んだ。
第4章: アブネルがヘブロンで死んだことを聞いたイシボセテはますます気が弱くなり、イスラエルの力は弱まった。イシボセテの隊長だったベニヤミンの支派であるベロ人のバアナとレカブは昼寝中のイシボセテを刺し殺し、その首級をダビデに持ち来たった。ダビデはエホバが膏を灌いだ王家のものを殺すという悪事を憎み彼らを殺し手足を切って晒した。ダビデはイシボセテをアビネルの墓に葬った。
第5章: ここにイスラエルの支派ヘブロンに悉く集まり、ダビデと契約をなしダビデに膏を灌いでイスラエルの王となす。ダビデ王となったのは30歳で、40年間位にあった。ヘブロンでユダの王であったのが3年半、そしてエルサレムでイスラエルの王であったのが33年間である。ダビデ、エルサレムに居たエブス人を攻撃しシオンの要害を取った。これをダビデの城邑と呼んだ。ツロの王がダビデのために家を作った。ダビデがエルサレムに来てから妾と妻を娶って出来た子の名は、シャンマ、ショバブ、ナタン、ソロモン、イブハル、エリシュア、ネペグ、ヤピア、エリシヤマ、エリアダ、エリパレテである。ダビデがイスラエルの王となったことを聞いたペリシテ人が攻撃を仕掛けてきた。ペリシテ人はレパイムの谷に陣を敷き、ダビデはバアルペラジム(破れの処)に進んでこれを破った。
第6章: ダビデ3万人の精兵を選んでバアレユダにゆき、神の櫃をそこから担いで運ぶためである。祭司アビナダブの家から担ぎだした。アビナダブの子ウザとアヒオが神の櫃を載せた新車を御し、アヒオが車の前に立ち、ウザが横に立った。ナコンの米打ち場に来た時御車の牛が箱を揺らしたのでウザが手で櫃を抑えたが、エホバは怒ってウザを撃ち殺した。その場所をペレズウザという。ダビデはエホバのご機嫌が直る迄櫃を己の城邑に入れず、ガテ人オペデエドムの家に3か月間置いた。エホバがオペデエドムの家を祝したということを聞いて、ダビデの城邑に運んだ。行列が6歩歩くたびに供物をささげエホバの前で踊った。櫃を天幕の中に安置し、ダビデは酬恩祭と燔祭を捧げ、イスラエルの全衆にパンと肉と葡萄を配った。これをみてダビデの妻サウルの娘ミカルは、ダビデを大道芸人のようだ卑しんだので、ミカルには生涯子どもは無かった。
第7章: ダビデは香柏の家に住むようになり、預言者ナタンにエホバの家をダビデの家の前に立てたいがエホバの意向を聞けという。ナタンがいうエホバの言葉は、我天幕におり、汝の家を祝するといってその申し出を断った。
第8章: ダビデはペリシテ人を撃ちメテグアンマを取った。モアブを撃ち、半分を殺し半分は生かして僕とした。ゾバの王ハダテゼルをユフラテ川のあたりで撃ち、騎兵1700人、歩兵2万人を取った。救援に駆け付けたダマスコのスリア人を撃ち2万2000人を殺し、ダマスコのスリアに代官を置いた。ハダテゼルの臣らが持っている金銀財宝を奪いエルサレムに持ち帰った。ハマテの王トイはかってハダテゼルと戦ったことがあるので、ダビデの勝利を聞くと祝いの使者を送った。ダビデ塩の谷においてエドム人1万8000人を殺し、エドムに代官を置いた。ダビデはイスラエル全土に行政府をおいて法と正義を行った。
第9章: ダビデは故王サウルの身内で生き残っている者があるかどうかを調べさせたが、ジバという者があるというので呼び寄せた。ダビデは恩恵を施したいというと、ヨタナンの子で跛者(びっこ)の子がいると答えた。ダビデの義兄弟であるヨタナンの子メピボセテといいロデバルのマキルの家にいるという。ダビデのもとに呼び寄せた。サウル家の土地はすべてこの子に返し、ダビデ王の食事に来るように言い伝えた。メピボセテはジバを後見人として、エルサレムに住んだという。
第10章: アンモン人の子孫ハヌンが王になり、ダビデはこれを祝しようと使者を送った。しかしアンモン人の伯らは王ハヌンに、ダビデはアンモン人の邑を掠めるために探りを入れに来たに違いないといい、使者を辱めて返した。アンモン人は援軍としてベテホブのスリア人、ゾバのスリア人2万人とマアカ王より1千人、トブの人1万2000人を雇った。ダビデはヨアブをスリア人に対し、その兄弟アビシャイをアンモン人の子孫に対して備えた。ショバクを軍長とするアンモン人の子孫はヘラムに集結し、ダビデの軍を見て逃げ出し、それを見たスリア人軍も逃げ出した。ダビデは全イスラエル軍をヘラムに集結してスリア軍の人騎兵4万人、車の人700人を殺した。そしてショバクも撃った。これによってスリア人はアンモン人の子孫を助けることはしなくなった。
第11章: 第10章まではダビデの英雄としての善い側面(勝利)を描いた。第11章以降はダビデの悪を描く(苦難)。歳が変わってダビデは、ヨアブとイスラエル全軍を派遣して、アンモン人を壊滅させるためラバを包囲した。ダビデはまだエルサレムに居た時美しい婦人をみて恋をした。その婦はエリアムの女バテシバでヘテ人ウリアの妻であった。バテシバと寝て妊娠したので彼女を妻にするため、ウリアを前線から呼び戻し、ヨアブへの書を持たせて返した。その書にはウリアを前線の最も激しい戦いの前陣に立たせ戦死せしめよと書いてあった。敵の勇士の居る城壁の戦いにおいてヨアブの軍にも戦死者が出た。そのなかにウリアがいた。ウリヤの妻、夫の戦死するを聞き、その喪が過ぎたときダビデはバテシバを己の家に入れ妻となして男の子を生んだ。ただしダビデのなしたことはエホバの目に悪しきことと映った。
第12章: エホバは預言者ナタンをダビデに遣わして、部下のウリアを殺しその妻を横取りしたダビデの非を責めた。エホバはダビデの家に禍をおこすが、ダビデを殺すことは無いとナタンは言った。エホバはダビデの断食の謝罪にもかかわらず妻バテシバの産んだ子を殺した。その後ダビデは妻バテシバに子を産ませた。その子の名をソロモンという。そしてダビデは第2の悪事を行った。ヨアブがアンモン人の城ラバを攻めて王城をとったが、ダビデはすぐにイスラエル軍をラバに入れ、アンモン王の金の冠を奪い取り我が物の王冠とし、またその邑の分捕り品を多く持ちだした。そしてアンモン人を鉄の鋸で挽くなど残虐な殺し方をした。
第13章: 第3章にダビデがユダ王の時代に産んだ子の名前を掲げたが、ダビデの子アブロサムにタマルという美しい妹がいたが、ダビデの子アムソンがこれに恋し恋煩いになった。ダビデの兄弟シメアの子ヨタナブがアムソンの親しい友であったのでアムソンの相談に乗って入れ智慧を授けた。アムソンは病気と称してダビデ王が見舞いに来た時、タマルに食事や看病をしてほしいといえ。その通りになったので人払いをしてアムソンは寝室に入りタマルを呼んで強引にこれを犯した。そしてアムソンはタマルに飽きたのか「恋しさ余って憎さ百倍」とばかりにタマルを憎むようになり、これを自分の部屋から追い出した。タマルの兄アブサロムはタマルを受け入れ二人で暮らした。この時タマルの兄アブサロムにはアムソン殺害の殺意が深く宿された。ダビデ王はこれを聴いて怒ったが、兄アブサロムは口を閉ざしたままであった。それからまる2年後、兄アブサロムは羊の毛を刈る行事を盛大に行いたいので、王と諸皇子を招いた。ダビデはこれに出席はしなかったが、アムソンとその子らは出席した。兄アブサロムはその場でアムソンを暗殺した。これはかねてからの計画であった。アビサロムは逃げてゲシュルの王アミホデの子タルマイに隠れた。
第14章: ダビデの心がアブロサムに傾くのを察したヨアブは、ダビデを説得するために一つの芝居をうった。テコアの賢い婦にたとえ話で、兄弟喧嘩でその家を滅ぼす事の非を説かさせた。心が動いたダビデ王はヨアブに命じて少年アブロサムをエルサレムに連れ帰らせた。この美しき少年アブロサムは自分の家に居て王に面会はならなかった。アブロサムには3人の男の子と一人のタマルという女子が生まれた。2年間エルサレムにいてなお王との面会が許されないアブロサムは、自分の畑に火を放って隣に居たヨアブが駆け付けた。ヨアブに王との面会を促す使いを出してほしい事を頼むためであった。ヨアブは王にこのことを伝え、王はアブロサムを召した。王はアブロサムに接吻をした。
第15章: その後アブロサムは自分の軍の戦車と馬、従者50人を持つ身となった。アブロサムはこの地の士師となり民の人気を集めるに至った。そして4年後ダビデにヘブロンにおいてエホバに立てた願いを実現するためヘブロンに往きたいと願った。ダビデは了解した。(実はアブロサムはヘブロンにおいて王になることである)その地で徒党を組み民の心はアブロサムに加わった。その動きは使者によってダビデにもたらされ、ダビデはエルサレムを捨てる方針を告げた。同行したのはガテ人イツタイ、祭司ザトクとレビ人であった。ダビデは神の櫃とそれを担ぐ祭司ザトク、その子アヒマアズ、ヨタナンらはエルサレムに残した。エホバがどちらに微笑むかはすでに決まったことであろうから、神の櫃で戦勝を祈願することは無いと考えたからである。アヒトペルもアブロサム側についている。その子アルキ人ホシヤイがダビデを迎えたが、怪しんだダビデはホシヤイをアヒトペル陣営に帰らせた。
第16章: ダビデが山を越えるとき、メピボセテの僕ジバが2頭のロバと食料と酒を載せてやってきた。ダビデはジバにメピボセテの持ち物はシバの者とする(約束手形)といった。一行がバホリムに至った時、サウルの家の一族シメイが石を投げてダビデを呪った。ダビデは自分の子供に命を狙われることに比べれば些細なことと取り合わなかった。こうしている間にアブロサムとイスラエルの民はエルサレムに入った。アヒトペル、アブサロム、ホシヤイも共に入った。ここでアヒトペルの謀とはアブロサムが父ダビデの妾の家に入り、ダビデに憎まれたアブロサムという構図に人気が出ると読んだからである。
第17章: アヒトペルはアブロサムに策を提言した。1万2000人の兵を持って今夜ダビデを追い、王一人を殺してイスラムの民を回収するという策であった。これに対してホシヤイの策はダビデとその従者は獅子である。傷ついた獅子ほどたけり狂うもので、アブロサムとイスラエルの民をことごとく集めてアブロサム自らが先頭に臨むべきであるという。これはエホバがアブロサムに禍をもたらすようにアヒトペルの策を破ることを定めおいたからである。その一方でホシヤイは祭司ザドクとアビヤタルに命じて、ダビデに今夜速やかにヨルダン川を渡れと告げさせるために派遣した。ダビデの従者ヨタナンとアヒマアズはエンロゲスに待っていた。これをすぐさまダビデに伝えんと急いだが、アヒトペルの追手を交してダビデに伝えた。ダビデは夜のうちに全軍がヨルダン川を渡った。明け方にはダビデの兵は一人もいなかった。策が破れたことを知ったアヒトペルは首をつって自殺した。ダビデはマハナイムに至り、アブロサムの軍はヨルダン川を渡った。アブロサムの軍長はアマサとしてギレアデの地に陣取った。ダビデがマハナイムにいるときアンモン人の子孫のナハシの子ショビとマキル、バルジライが食料と調理器具を持ってダビデの陣営に来たりてイスラエルの民に差し入れを行った。
第18章: ダビデは己のイスラエルの民の数を調べて、千人の長・百人の長を決めた。そして民を3つに分け第1をヨアブの手に、第2をヨアブの兄弟アビシャイの手に、第3をゲテ人イツタイの手に委ねた。ダビデ王は3人を呼んでアブサロムを殺すなと伝えた。臣僕はダビデ王を戦い出さないで臣僕とアブサロムの戦いはここエフライムの森において行われ、ダビデの臣僕はアブサロムのイスラエル人2万人を殺した。馬で逃げるアブサロムは樹の枝にぶつかって宙ぶらりんとなり馬はそのまま走り去った。ここでヨアブは3本の矢を持ってアブサロムを撃ち、兵は引きずり降ろして剣で刺し殺した。こうして戦いは終了した。祭司ザドクの子アヒマアズは王に伝える使者となった。アブサロムが殺されたと知ったダビデは門の上で哭き悲しんだという。
第19章: 嘆き悲しむダビデを見て。ヨアブは、王の家の命を守るために戦った臣僕の面目が立たない、本来凱旋して邑城に帰るところをこそこそ隠れて邑に入った。王はアブサロムが生きて、我々臣僕が皆死ねばよかったといいたいのかと迫った。今出て臣僕の労をねぎらい慰めるべきだ、でなければ臣僕はすべていなくなるであろうと王にいった。ダビデ王が門の上に立つと前に居た人々以外イスラエルの民は各自天幕に逃げ帰っていた。息子アブサロムのためにダビデ王は国を追われたが、アブサロムが死んだ今王は帰還すべきだとイスラエルの民は叫んだ。ダビデは祭司ザドクとアビヤタルを呼んで、イスラエルの全長老に伝えよ、汝らの言葉は王家に届いた、汝らは骨肉の関係であるのに何故王に忠告する最後の機会なのかと。またアマサに伝えるべし、汝はヨアブに代わり軍長になるべしと。ここにおいて王ヨルダンにいたると、ユダの人々王を迎え、ヨルダンを渡ろうとした。またベニヤミン人ゲラの子シメイはユダの人と王を迎えた。またサウルの家の僕ジバも王を迎えてヨルダンを渡った。サウルの子メビボセテも王を迎えた。こうしてアビシャイとシメイの中を仲裁し、メビボセテの家産をジバと折半する裁定を出した。ギレアデ人ベルジライ王とともにヨルダンを渡った。かれは王がマハナイムに留まれる間王を養った。そして僕キムハムを年老いた自分に代わり王に付けて見送った。ダビデはギルガルに進み、イスラエルの人々王に言うに、ユダの人はなぜ王とその家族、従者を送ってヨルダンを渡ったのかと。ユダの人々がイスラエルの人々に答えて言う、それは我々が王の血縁に近いからである。それ以外の理由はないと。イスラエルの人々は、それは我々も同じ事で我々を無視していい理由ではないと反論したが、ユダの人々は聞かなかった。
第20章: ここにイスラエルのベニヤミン人シバというよこしまな人が居て、イスラエル人を扇動して、ダビデの中には我々の取り分がないので、イスラエル人は天幕に帰るべきだといった。イスラエル人とユダ人の背離を促し、イスラエルの人はダビデに従うことを止めてビクリの子シバに従った。ユダの人々は王に就いてヨルダンよりエルサレムに移った。王は軍長アマサにユダの人々を三日のうち呼び集めよと命じた。アマサが時間がかかリ帰ってこないので、謀反を疑った王はアビシャイにこう言った。シバはアブサロムよりも害が大きい、ヨアブの従者、ケレテ人、ペレテ人より勇士を選んでシバを撃てと命を下した。追撃隊がギベオンに至った時、ヨアブがアマサに近づきアマサを刺し殺した。こうしてヨアブと兄弟アビシャイの二人はシバの後を追った。ダビデの後に付く者はヨアブに従った。こうしてヨアブの軍は勢力を増し、アベル、ベテマアカの邑城を囲んだ。その石垣の上に立つ婦が、ヨアブ軍に向かって叫んだ。イスラエルの中心なる邑を負った滅ぼすな、産業を破壊するなとヨアブに言った。ヨアブはダビデに敵するシバ一人の首を得ればそれでいい、この邑を滅ぼすつもりはないと答えると、その婦はシバの首をはねてヨアブの前に投げ出した。こうして戦いは終わった。
第21章: ダビデの世に三年飢饉が続いた。エホバに問うと、それはサウルと血を流したギベオン人の家の確執のためである。そこでダビデはギベオン人を召して事情を尋ねた。ギベオン人はイスラエル人ではなくアモリ人の末であり、サウル王が彼らを滅ぼした。ダビデはではどうしたらいいかと問うと、ギベオン人は我々を滅ぼすために謀をした人の子孫7人を我らの手に与えよ、ギベアにてエホバの前に懸けるという。ダビデはサウルの子ヨタナンの子メビボセテとの誼に悩み、そこでサウルの妾との子7人を取ってギベオンに与えた。またダビデはサウルとヨタナンの骨を拾いヤベシギレアデ人よりもらい受け、ベニヤミンの地ゼラの父キシの墓に葬った。これで神は満足された。またペリシテ人はイスラエルと戦争になった。ペリシテ人のイシビベノブ(巨人の子)は疲れたダビデを殺そうとしたが、ゼルヤの子アビシヤイがイシビベノブを殺した。もうダビデは戦に出るべきではないと諭したという。再びコブにおいてペリシテ人と戦いがあった。ホシヤ人シベカイがサフ(巨人の子)を殺した。さらにベテレヘム人エルハナンがガテのゴリアテノ子孫ラミを殺した。
第22章: ダビデ、エホバが諸々の敵とサウル王の手から救い出した時、エホバを賛める歌を捧げた。「エホバは我が巌、我が要塞、我を救う者、我が巌の神なり、・・・・」と長歌なので本文を味わっていただくとして省略する。
第23章: ダビデの最後の言葉はこうである。我が家かく神とともにあり、確かなる永久の契約を我となし給えり。しかし邪なるものには鉄と槍を備えたり。その勇士とは三人衆の長なるタクモニ人ヤショベアム、アホア人エルアザル、ハラル人アゲの子シャンマ、そして30人衆の長はヨアブの兄弟アビシャイ、エホヤダの子カプジエルのベナヤ他37人の名をあげた。(省略する)
第24章: エホバまたイスラエルに向かって怒りをなし、ダビデに対しイスラエルとユダの民を数えよと命じた。ダビデはヨアブおよび軍長を集めて命を伝えた。ヨアブ等はその意味が分からなかったが、ダビデの意思が強かったのでイスラエルの民を調べた。9か月かかって調べた結果はイスラエルの軍士は80万人、ユダの軍士は50万人であると王に報告した。このことの愚かさを悟ったダビデはエホバに真意を問うた。エホバの言葉は預言者ガデに臨み、三択より一つ選べという。@3年の飢饉がいたらん、A敵に追われて3か月前に逃げるか、B3日の疫病あらんかという問題であった。悩んだ末ダビデは人の手に陥いるよりは、エホバの手に陥いる方を選ぶといい。Bを選んだ。疫病で死ぬ人7万人、天使はイスラエルを滅ぼすつもりであったが、エホバはこれを押しとめた。ダビデは民を殺すよりは禍は我が家と父の家に向かえと懇願した。預言者ガデはダビデにエブス人アラウナの穀物場に祭壇を設けよといった。アラウナはダビデの申し出に驚いたが、これに応じて壇を設ける土地、材料の提供を申し出た。ダビデは金を払って穀物場と牛を買い取り、ここにエホバへの壇を築き、燔祭と酬恩祭を行った。エホバはダビデの祈祷を聞き給い、災は止んだ。

2-6) 列王記略 上(ソロモン王の栄華物語とイスラエル国の分裂)

列王記略上は全22章(岩波文庫で65頁)である。王位はダビデの子ソロモンに継承され、その時代にイスラエル王国は全盛時代を迎えた。エルサレムには豪華な神殿が築かれ、イエスから「栄華を極めたるソロモン」と称された。ソロモンは「ソロモンの知恵」と讃えられ、優れた「知恵と聡明さ」を与えられ、その知恵を試そうとはるばるアラビアからやってきたシバの女王を驚かした話は名高い。
第1章: ダビデ王老いて、その子ハギテの子アドニヤは王にならんとして己の軍を備えた。「サムエル書 後書」第3章にダビデはユダ時代に6人の子を作った。アムソン、ギレアブ、アブロサム、アドニヤ、シバシテ、イテレアムデアル。また「サムエル書 後書」第5章に、ダビデは統一イスラエル国時代にソロモンら11人の子を作ったと書かれている。王子アドニヤはユダ時代の第3男子であった。アドニヤは軍長ヨアブ、祭司アビヤタルと語らってアドニヤ派を作った。しかし祭司ザトク、エホヤダの子ベナヤおよび預言者ナタンとシメイ、レイおよびダビデの勇士らはこれに与しなかった。アドニヤは兄弟、王の臣僕らを招いて宴会を開催したが、エホヤダの子ベナヤおよび預言者ナタンと兄弟ソロモンはこれに招かれなかった。預言者ナタンはソロモンの母バテシバにアドニヤが王になろうとしているのをご存知か、ダビデはソロモンを後継者にしたのではなかったのかと話し、ダビデの意思を再度確認しては如何だろうかと持ち掛けた。最初ベテシバガダビデの寝室に入り、預言者ナタンも証人として同席し、ダビデから「我イスラエルの神エホバを指して誓いて、ソロモンを我に継いで王となり我に代わりて我が位に座すべし」という言葉を聞いた。祭司ザドク、預言者ナタン、ベナヤがダビデの前に集まり、ソロモンをギホンにおいて膏を灌いでイスラエルの王をなす手はずを整えた。そしてラッパを吹いてソロモン王寿かれと会衆は叫んだ。アドニヤらが宴会中に、祭司アビヤタルの子ヨナタンがやってきて、アドニヤにソロモンが王位に就いたことを告げた。アドニヤと同席していた賓客らは驚いて散会し自宅に戻った。ソロモン王はアドニヤと同席した彼らを謹慎させた。
第2章: この章はダビデが王であった時のよこしまな臣僕をソロモンが粛正したことを述べている。ダビデが死ぬ床でソロモンに次のように命じた。ヨアブはイスラエルの二人の軍長アブネルとアマサを切り殺したことは許せない。安らかに死なせてはいけないと。ギレアデ人バルジライの子らには恵みを施す事。アブロハムの追っ手から逃げた時、我に味方した人だからである。ベニヤミン人ゲラの子シメイはソロモンに就いたが、我を呪った人間である。殺すまでもないとしても罪なきものではない。汝の知恵で処すべきだ。という内容であった。ソロモンはベナヤに命じて自宅謹慎状態であったソロモンの兄アドニア、祭司アビヤタル、ヨアブ、シメイを撃ち殺した。そしてヨアブの代わりに軍の長にベナヤを任命した。こうして粛清は終わりソロモンは堅く国を立てた。
第3章: ソロモン、エジプト王と誼を結び、エジプト王の娘を自分の家(後宮)に入れた。ソロモンは自分の家とエホバの家とエルサレムの城壁に建設を決意した。王はギベオンの高い丘にて1千の燔祭をその壇に捧げた。その夜ソロモンの夢にエホバが顕れ、汝に与えるべきものの希望を言えという。ソロモンは民の訴訟を聞き分ける才智がほしいとといったので、この言葉はエホバの心にかなっていた。汝の求めない富と貴金属、長寿をも与えるという。父ダビデのようにエホバの法と命令を守るならば命は永からんという。さて二人の娼婦がソロモンの前に立ち、裁きを求めた。寝ている間に二人の子供の片方が親が覆いかぶさって死んでしまった。そこで片方の親は死んだ子と生きている子を取り換えた。死んだ子を見た親はこの子は自分の子ではないとわかり、相手の親は生きた子を自分の子だと言い張った、そこでソロモンの裁きに訴えたのである。ソロモンは生きて子を剣で二つに裂いて半分ずつ取れといったが、生きている子の親は殺すくらいなら相手のものにしてもいいといい、死んだ子の親はもう自分の子は死んでいるのだから殺してもいいと答えた。これで本当の親は分かったという「大岡裁き」の話が添えられている。「智慧のソロモン王」として民に畏れられた。
第4章: ソロモンの群卿は、アザリアは相国、エリホレフとアヒアは書記官、ヨシヤパテは史官、バナヤは軍の長、アビヤタルは祭司、アザリアは代官の長、ザブデは大臣と王の補佐官、アヒシヤルは宮内卿、アドニラムは徴募長である。イスラエルの12支派に応じた代官は、エフライムにはベンホル、マカズとシヤラビムにはベンデケル、アルボテにはベンヘセデ、アルボテにはナダブ、タアナクとメギドとベテシアンにはバアナ、ギレアデのラモテにはベンゲベル、マナハイムにはアヒナダブ、ナフタリにはアヒマアズ、アセルとアロテにはバアナ、イッサカルにはヨシヤバテ、ベニヤミンにはシメイ、アモリ人の地とギレアデにはゲベルが代官となった。ソロモンの親衛隊は馬四千騎、兵1万2千人である。ソロモンの知恵は箴言、詩歌、裁き、建築、技術工芸を持って四方の諸国に聞こえた。諸国の王はソロモンの知恵を聴かんとして使節を派遣した。
第5章: ツロの王ヒラムはソロモンの祝福を得て父の後を継いで王となった。ツロは使節をソロモンに遣わして挨拶をした。その時ソロモンが言うには、父ダビデは戦いに忙殺されて神エホバの家を建てることができなかった。今世が治まり敵もいなくなったのでエホバの家を建てようと思う。ついてはレバノンの森より香柏の樹と松の木を切り出し欲しいと要請した。その切り出し作業に徴募人の数は3万人、3隊各1万人が交代で切り出し作業をして、運搬役が7万人、石を切る人8万人、監督と事務の官吏3300人であったという。
第6章: イスラエルの子孫がエジプトを出て480年後ソロモン王第4年2月に、ソロモンはエホバの家(神殿)を建てることを始めた。神の家(拝殿と神殿)の大きさは長さ28m、幅10.5m、高さ13mである。(Tキュビト=0.44m ローマ時代として計算)また家の周囲には連結屋を建て、らせん階段で結ばれ下層の連結屋は幅2.2m、中層の幅は2.6m、第三層の幅は3.1mである。家の外に階段をつけ周囲にめぐらす。基礎は、石切り場で整えた石を積み上げる。その壁を香柏の垂木と板を持って家を作った。家の壁の内側を香柏で張り、床は松の木を張った。基礎構造物の石は見えないようにしてある。家の奥は8.8mの室を壁から床まで香柏でつくり至聖所すなわち神殿を造った。拝殿は17.6mである。神殿にはエホバの契約の櫃を置く。神殿の内は8.8mの立方体で純金で貼り香柏の壇を覆う。家の内は純金で覆い神殿の前は金の鎖で隔てを作った。神殿の内に橄欖の木で二つのケルビンを造った。その高さ4.4m、ケルプの翼は2.2mである。家の壁は内外ともケルビムと棕櫚と花の形を彫刻し、家の床は金を張った。家の入り口は棕櫚の木で二つの戸を造り、ケルビムと棕櫚と花の形を彫刻し金で覆った。拝殿の二つの戸は松の木で造り、畳む構造である。戸にはケルビムと棕櫚と花の形を彫刻し金を覆った。切石三層と香柏の厚板一層をもって内庭を造った。ソロモン年代4年にエホバの家の基礎を築き、同11年に家が完成した。ソロモンは総工期7年を費やしたことになる。
第7章: 次はソロモンの家(宮殿)の建築である。工期13年で完成した。「レバノンの森の家」である。その長さは44m、幅22.2m、高さ13.2mである。香柏の柱四行45本(一列15本)、香柏の梁を渡してある。窓は三つの行ある。戸と戸柱は角形の大木で出来ている。また柱の廊下を造り、長さ22.2m、幅は13.3m である。裁判のための「審判の廊」は香柏で覆った。ソロモンが住む家はその後ろの庭にあり、作り方は前と同じである。内外とも基礎から軒に至るまで石造りである。基礎は4.4mの切り石と3.4mの切り石からできている。ソロモン、ツロの王ヒラムを召した。彼は銅細工の達人で、ソロモン王の家の銅細工をのすべてを仰せつかった。高さ7.9mの銅の柱2本を鋳造した。柱の頭の高さは2.2mでザクロの花と百合の花のかたちが鋳造されていた。拝殿の廊に向かって右の柱をヤキン、左の柱をボアズと呼んだ。12の牛の頭の上に海を抱く(水の皿)鋳造物を造った。大きさは4.4mで高さは2.2mである。周囲に13.2mである。また銅の台10個を造った。台の長さ・幅は1.76m、高さ1.32mである。台の中央は四角の鏡板で、その上に獅子と牛とケルビム(智天使 翼を持った人の像 旧約では契約の櫃の上に置かれる)がある。その台には4つの銅の環と軸がある。また銅の洗盥を10個造った。大きさは1.32mで4斗の容量を持つ。10の台の上に各一つの銅の洗盥を置いた。また銅のなべと火入れと鉢を造った。いろいろな細工が施されている。
第8章: ソロモンはエホバの家(神殿)が完成したので。エホバの契約の櫃をダビデの城シオンからエルサレムに担いで上がるために、イスラエルの長老すべての支派の首を招集した。エタニムの月(7月)の節莚の日にソロモンの家に集まった。イスラエルの長老たちはシオンに至って、エホバの櫃と集会の幕屋、もろもろの聖器を祭司とレビ人が担いで上がった。支派の会衆が羊と牛を捧げたがその数は膨大であった。祭司はエホバの契約の櫃を家の聖所の中のケルビムの翼の下に収めた。櫃の内は2枚の石碑(モーセが収めたもの)以外には何もない。こうして祭司らは聖所より出たとき、雲がエホバの家を覆いつくしたので何も見えなかったという。ソロモンは振り返ってイスラエルの会衆に向かってダビデの宿願であったエホバの家の完成を告げ、神の指名されたソロモンが父に代わってこれを完成させたといった。ここでソロモンはイスラエルの会衆に向かってエホバを褒め称え、我らがエホバの道を守り行うならばイスラエル王国の繁栄が約束されると祈るのであった。ここでちょっとイスラエルの政体について考察しておこう。預言者と士師という部族合議制の指導者時代が混乱を起こして安定しないので、イスラエルの民は国王の選出を望んだことは、「サムエル書 前書」第12章に書いた。それにたしてエホバの神は最初は王制に反対していたが、嫌々とはいえサウル王に膏を灌いで王制が実現した。預言者の位置が相対的に低下し、ほとんど国王の資質に頼った専制政治と国家体制の樹立が行われる時代になった。ソロモンは祭司をも国家体制の機関となした。いつからエホバは国王制に賛成する側に移ったのだろうか。膏を灌ぐ人は預言者と国王の二人になった。裁判権は国家体制の中心になり、法と正義の執行役である裁きに長けた「ソロモンの知恵」という法治主義の時代となった。その背後には税徴収という国家財政を支える官僚機構の成立を見るわけである。国難・飢饉・災害・疫病・害虫などの禍(軍事外交から厚生福利にいたる)はすべてエホバの戒を守らないイスラエルの民の罪に起因するという因果応報の論理が貫徹される。これは宗教である。そういう意味では祭政一致国家である。特に異国の宗教を取り入れたり、偶像を造ったり、エホバに疑いを持つことに対するエホバ神の民への復讐は敏感で執拗である。神へ罪を犯したら則死刑であり、無論人権も何もない。祭礼としての燔祭と酬恩祭のやり方の規則は厳格である。
第9章: ソロモン20年もかかってエホバの家と王の家を建てた。その建設奉行役のツロの王ヒラムにガリラヤの邑20を知行した。ヒラムはこれをカブルの地となずけ、ソロモンに金120タラントを寄贈した。ソロモン王の普請が相次いだため、あらたに建設増税と賦役の徴募をおこした。エホバの家と王の家、ミロ(エジプト王パロの女を入れるための家)とエルサレムの石垣工事、ハズル、メギドン、ゲゼル邑の建設、各地に府庫邑、戦車邑、騎兵邑等必要と思ったものをことごとく建設した。ソロモンはアモリ人、ヘテ人、ぺリジ人、ヒビ人、エブス人などの生き残りを奴隷として徴募した。
第10章: 有名なシバの女王がこの章に登場です。(おそらくはアラビアからと言われています)シバの女王はソロモンの噂を聞いて、多くの産物財宝を土産にして、難問を持ってソロモンを試みんとしてエルサレムにやってきた。シバの女王の全ての質問に答えた。シバの女王はソロモンの知恵に感服し、エホバの家、ソロモンの家と、宴会の豪華さに全く気を奪われた。オフルからヒラム王の船が来て白檀の木と宝石を届けた。白檀の木よりエホバの家とソロモンの家に欄干を造り、琴、瑟を作った。海外からソロモンに至れる金貨は666タラントであり、これから金の大楯、展金を造りソロモンの家に置いた。また象牙の宝座を造り金で覆った。このようなものを作る国は絶えてなかった。ソロモン王が用いる器はすべて純金で出来ていた。銀製品は無かった。ソロモン王に知恵を聞くために、人々は礼物を持参したのである。ソロモンは戦車1400両、騎兵12000があり、戦車邑またはエルサレムの王の家に置いた。馬はエジプト、コアから貨幣を払って購入した。馬は銀150、戦車は銀600であった。
第11章: この章はソロモン王の後宮とソロモンの異教信仰およびイスラエル国の分裂の時代について述べています。ソロモン王はエジプト王パロの女のほかに、多くの外国の婦を寵愛した。モアブ人、アンモン人、ソドム人、シドン人、ヘテ人などの婦である。エホバは、異国人と交わってはいけない、異国人の婦はイスラエル人と交わってはいけない。異国人の神を信じさせられるからと述べている。ソロモンは妃公主700人、妾300人もいて、心が他の神に従うことがあった。特にソロモンの晩年、それが著しくなりダビデと同じようにエホバの前で悪を行い純真ではなくなった。ソロモン、シドシ人の神アシタロテ、アンモン人のモロク神に従った。ソロモンの心が移りイスラエルの神エホバを離れたことによってエホバは彼を怒り、何回もソロモンに忠告をしたがソロモンは従わなくなった。エホバは必ずソロモンの国を裂きこれを汝の家来に与える。ただしダビデの功績もあるのでソロモンの時代にはこれを実行しない。汝の子孫よりこれを行うと述べた。イスラエル国を滅亡させるのではなく、分裂させて一つの支派に汝の子孫に与えると。エホバはエドム人のハダテをソロモンに叛き対抗させた。エジプトに逃げていたハダテはイスラエルの軍長ヨアブが殺された時、イスラエルに帰還した。さらにエホバはエリアダの子レゾンをソロモンの敵にした。レゾンはゾバから逃げてダマスコ二ゆきイスラエルの敵となった。ゼレタのエフラタ人ヤラベエムはソロモンの僕であったが、その才能を認められ普請奉行を務めたがソロモンを避けてエジプトに逃げた。途中シロ人アヒヤという預言者に会い、彼はあなたはソロモンの子よりイスラエルの10の支派を奪うであろうと預言した。ソロモンがイスラエルを治めた日は40年で、ソロモンが亡くなってダビデの城にて葬られると、その子レハベアムが代わって王になった。
第12章: この章より「列王記略 上」はソロモン亡き後の後半の混乱期に入る。ソロモンの子レハベアムは王位に就くためにシケムに行きイスラエルの民に会した。ネバテの子ヤラベアムは当時まだエジプトに居住していたが、招かれてこの集会に参加した。イスラエルの会衆はソロモンの子レハベアムに向かって、汝の父ソロモンは民に思い課税をかけたが、これを軽くするならば汝を支持すると要求した。そこでレハベアムは3日間の猶予を得て再会を約束した。そしてレハベアムはまず長老たちに意見を聞いたが長老たちは負担を軽くして納まるならそうせよといった。次にレハベアムは自分と同世代の若者に意見を聞いたが民の負担を重くし文句のある者は殺すべきだと述べた。3日後集まったイスラエルの会衆に向かってレハベアムは若者の意見を採用し厳しい態度で臨んだ。これはエホバの仕組んだ分裂のスト―リーに沿った展開であった。民はレハベアムに憤慨し、会衆は分裂して散会した。レハベアムを支持したのはユダとベニヤミンだけであった。それ以外の支派はヤラベアムの帰りを待って集会をなし彼をイスラエルの王とした。ここにイスラエル王国は、レハベアムのユダ王国とヤラベアムのイスラエルの王国の二つに分裂した。ソロモンの子レハベアムは18万の兵を集めヤラベアムを攻撃しようとしたが、預言者シマヤの言葉に従って戦いは中止となった。ヤラベアムはダビデの国に戻らないために宗教上の錯乱戦術の謀をなし、2つの金の仔牛を造り一つをべテルに据え、一つをダンに置いた。(偶像禁止)祭司はレビ族以外の者を採用し、8月に節莚を定めた。(祭司はレビ族に限る。エホバの節莚は7月15日よりが正式)
第13章: ユダから神の人(預言者)がベテルにやってきてヤラベアム王に対してエホバの言葉で呼びかけた。ダビデの家にヨシアという子が生まれるといって、壇は裂け灰は壇よりこぼれ、ヤラベアムの腕が硬直し曲げられないという奇蹟を示した。ヤラベアム王は神の人に頼んでエホバをやわらげ腕は元に戻った。ヤラベアム王は神の人に家に来てパンと水を飲むように言ったが、神の人はエホバから禁じられれているのでといってこれを断った。ベテルにいる別の預言者が神の人を欺いて、エホバは家に連れ帰りパンと水を貰うことはできるといった。そこでユダの神の人がそのように振舞うと、エホバの命に叛いたことになるので、そのユダの神の人は帰途の道でこのベテルの預言者に殺された。エホバの命を破った天罰のせいにした。このことはヤラベアムの家の罪になり、エホバはヤラベアムの家を滅亡させた。
第14章: ヤラベアムの子アビヤが病気になり、ヤラベアムは妻を変装させてシロの預言者アヒヤのもとに行きこの子の運命をエホバに聞くようにと頼んだ。エホバの言葉はヤラベアムの行いが命に叛くものでヤラベアムの家の男の命をすべて断つ、妻が帰ったときその子は死ぬという。彼は異神アシラの像を造ってエホバの怒りを招いた。イスラエル王国は亡びる。ヤラベアムはイスラエル王であったのは22年間で、ヤラベアムの事績は「歴代志」に記載する。ソロモンの子レハベアムも、男色や異神アシラの像を造ってエホバの怒りを招いた。レハベアム王の5年、エジプトの王シシヤクがエルサレムを攻めソロモンの財宝を奪った。レハベアムがユダの王であったのは17年間で、その子アビヤムが王を継いだ。ヤラベアムとレハベアムの間には一生戦争があった。レハベアムの事績についてはユダの王の歴代志の書に記されている。
第15章: レハベアムの子アビヤムが父の後を継いでユダの王になった。エルサレムで3年ユダを治めた。彼は父以上にエホバに叛く行為を行い、エホバの前で罪なしとは言えなかった。アビヤムの事績についてはユダの王歴代志の書に記されている。アビヤムとヤラベアムの間には戦争があった。アビヤムの後はその子アサが継いだ。イスラエルのヤラベアムの時代に、アサはユダの王となった。エルサレムで41年間治めた。アサはダビデのようにエホバの道を行い、エホバの祝福を得た。男色者を追放し、偶像を破棄し、エホバに家に金銀財宝を貢納した。アサとイスラエルのバアシヤの間に一生の間戦争があった。イスラエルの王バアシヤはユダに攻め上がり砦城ラマを築いた。ユダ王アサはエホバの府庫、王の府庫にある金銀を、スリアの王ベネハダテに贈って同盟契約を結んだ。ベネハダテはイスラエルの諸邑を攻め、ダン、キシネレデ、ナフフタリの全地を奪った。アサ王ベニヤミンのゲバとミズパを築いた。ヤラベアム王の後を継いだナブダは2年間イスラエルを治めたが、イッサカルのアヒヤ子バアシヤがナブダを殺し、代わってイスラエル王となったものである。24年間イスラエルを治めた。アサとバアシヤの間には一生戦争があった。
第16章: イスラエルの預言者ハナニの子エヒウにエホバの言葉が臨んだ。イスラエル王バアシヤを非難して言う、バアシヤはヤラベアムと同じ道を歩んで異教神を選ぶという罪を犯した。従ってバアシヤの家を全滅させるという預言であった。バアシヤ死んでその子エラがテルザにおいてイスラエルの王となった。1年後軍人ジムリが徒党を組んで王エラを殺し、テルザに入って王となった。7日後ジムリは軍の長オムリによって滅ぼされ、オムリがイスラエルの王となった。かれは6年間王位についた。オムリ王の悪行は酷く、亡くなってアハブが王となった。アハブはサマリアにおいて22年間イスラエルの王であった。アハブの悪行はオムリよりさらに酷くバアルを信仰した。エホバの怒りは激しく、アハブの子どもを次々に命を奪った。
第17章: イスラエルのギリアデにいる預言者テシベ人エリアに、エホバの言葉が下った。数年間は雨が降らないので、ゲリテ川に避難せよと。しかし数日でその川は涸れた。次にエホバの言葉はシドンのザレバテに避難せよと。エリアはそこに行き寡婦にあい、水とひとかけらのパンを貰いたいとお願いした。寡婦はここにある小麦粉と油だけで死んでしまいますと答えたが、神の人は、いやエホバが雨を降らすまでその桶の小麦粉と油は決して尽きることは無いといった。こうして寡婦の家の飢餓も救われた。またその家の子どもが病で死にかけているをみて、エリアは子供を2階の寝室で、エホバに必死のお願いをしたところその子は生き返った。エホバの奇蹟を見て寡婦はエリアが神の人であること、エホバの言葉は真実であることを知ったという。
第18章: 3年後エホバの言葉が預言者エリアに臨んだ。汝往きて、イスラエルの王アハブに言え、雨を降らすと。そのとき王都サマリアの飢饉は甚だしかった。アハブ王は家の宰にオデバヤを採用した。オデバヤはかってイゼベルが預言者を殺した時、100人の預言者を隠して保護した人であった。王とオデバヤは手分けして国土を飢饉から救うために巡回中であった。預言者エリアは道中宰相のイゼベルに会い、エリアはここにいると王アハブに伝えてほしいといった。生き残りの預言者エリアが居ると王アハブに言うと殺されるかも知れないと恐れるので、エリアはエホバの言葉を信じるように諭した。王アハブは預言者エリアに会って、イスラエルを悩ます者ここにいるのかと詰った。エリアはイスラエルを悩ますのはエホバではなく貴方の家のことです。貴方の家はエホバを捨て異神バアルに従っている。そこでカルメル山において、イスラエルの全ての人、バアルの預言者450人、アシラ像の預言者400人、イゼベルに従う人を集めて預言者エリアは対決することになった。エホバが真の神であることが示され異教徒は沈黙した。エリアはバアルの預言者を一人残さずキション川のほとりで殺した。王アハブは山頂へ上って雨の降るを見た。
第19章: イスラエルの王アハブはエリアが行ったこと見たことすべてをイゼベルに告げた。イゼベルはエリアに明日中のおまえの命を取るといってよこしたので、エリアはユダの国ベエルシベに逃げた。エリアは金雀枝の下に伏して眠ったが、天の使いが彼を起こしてこれを食えといった。頭の横にパンと水が置いてあった。翌日も同じ事が起こり40日間歩いて神の山ホレブに至った。洞穴に居た時エホバがあらわれて何をしていると問うので、イゼベルに命を狙われて逃げていると答えると、エホバより山の上に立てと言われた。強風が起き地震もあったがエホバは現れなかった。火が降りて小さな声がした。「ダマスコにゆきハザエルに膏を注ぎスリアの王となせ、またニシムの子エヒウに膏を注いでイスラエルの王となせ、シャパテの子エリシヤに膏を注いで預言者となせ、バアルに膝を屈せず接吻しなかった者イスラエルの中に7千人を残す」と。エリアここを出てシャパテの子エリシヤに会い、12頭の牛と共に耕していたエリシアにエリアは上着を掛けたら、エリシアはエホバに忠実な若者になり、エリアに仕えた。エリシヤが預言者エリアを継いで預言者になったことである。
第20章: スリアの王ベネハダテは同盟する32人の王とともに、サマリアを囲みイスラエルの王アハブに使いを出した。イスラエル王家に居る妻・子・財宝はもとは自分のものでありこれを返却すべしという要求を突き付けた。明日軍勢を入れて引き取りに往くという趣旨の最後通牒であった。イスラエルの王アハブはこの要求をのむつもりだったが、長老たちに諮ると断固拒否すべしという返事を出すことになった。ここに一人の預言者が現れてエホバの言葉は敵の軍勢をイスラエルの手に渡すということであった。翌日大軍をみて怖気つくな、戦いの勝利ははイスラエルのものである。王アハブの大軍のまえにサマリアより使者がきて戦いの開始となったが、たやすくイスラエルは勝利しスリアの王ベネハダテは逃げた。王ベネハダテは敗因は山の神を相手に山で戦たから敗れたのだ、次回は平地で戦いをすれば勝利は間違いないとして、翌年王ベネハダテは再度イスラエルに攻め込んだ。7日間戦った末スリア人10萬人が殺され、王ベネハダテの敗北が決まった。イスラエルの王アハブはスリアの王ベネハダテと領土返却の講和条約を結び、ベネハダテの命を助けた。これはエホバの殺し尽せという命に反することであり、エホバはベネハダテの身の代わりに王アハブの身を取るという。
第21章: その後エズレル人ナボテという人がイスラエルサマリアの王アハブの隣に良い葡萄畑を持っていた。王アハブは子に葡萄畑が欲しくなり、ナボテに銀で畑を買い取るか、自分のブドウ畑と交換したいと申し出たが、ナボテはエホバの命である自分の産業を人に売ってはならないを守って頑として葡萄畑を王アハブに売らなかった。気を悪くした王アハブは寝込んで食事を取らなくなった。なんと気の弱い王で情けないと思った妻イゼベルが言うには、あなたはイスラエルの王でしょうとナボテの葡萄畑をあなたに与える策を王に入れ智慧をした。公衆の前でよこしまな人間にナボテは神と王を呪詛したと言わしめ、ナボテを引き出して殺せばいい。こうしてナボテを殺し彼の葡萄畑を奪った。ここに預言者エリアが現れて王に言うには、エホバの前で悪をなした王の家は断たれる。イゼベルも死ぬというお告げであった。これを聴いて王は麻布を着て謹慎の態度を示したので、エホバは罪一等を減じて、王家への禍は王の時代ではなく子孫の時代に降すと述べた。(エホバは王に対してはいつも甘い態度を示すくせがある。膏を注いで王とした自分の判断のいい加減さを曖昧にごまかすためか)
第22章: スリアとイスラエルの間に戦争がなかった時が3年あった。ユダの王ヨシヤパテはイスラエルの王アハブに降った。イスラエル王群臣の前で、ギレアデのラモテはもとはイスラエルのものであった、スリアの王の手から取り戻すようユダの王ヨシヤパテに命じた。ユダの王ヨシヤパテはイスラエルの王にまずエホバの言葉を聞きたいと申し出た。イスラエルの王は預言者400人を集めて、ラモテに攻め込むべきかどうかを問うた。預言者全員がエホバは王の手に渡し給うと伝えた。しかしイムラの子ミカヤだけはよくない事ばかり預言するので王は彼を憎んでいるといった。そこでユダの王ヨシヤパテは預言者ミカヤを呼んで伺った。するとミカヤは王よせめて上れ、王の手に渡したまわんというエホバの言葉を伝えた。イスラエルの王は、いつもと違う預言はなぜかと問うと、ミカヤは、誰かイスラエルの王アハブを誘ってラモテに上って死なしめよという虚言をいう霊を予言者の口に入れたと答えた。預言者ケナアテの子ゼデキアが近づいてミカヤの頬を打ち、イスラエルの王は彼を捕えて邑の宰アモンと王の子ヨアシにミカヤを牢に入れよと命じた。こうしてイスラエルの王アハブとユダの王ヨシヤパテはラモテに攻めあがった。ここでイスラエルの王アハブは殺されたくないものだから、ユダの王ヨシヤパテと服装を交換した。スリアの王はアハブだけを狙うように戦車の長に言ってあったので、これはイスラエルの王でないことを見抜いた。弓を引く人が放った矢が偶然イスラエルの王アハブの鎧を打ち抜き、その日の夕方に王は死んだ。王アハブはサマリアに葬られた。その子アハジアが代わってイスラエルの王となった。アハジアは2年間王位にいたがエホバの前に悪事をなし異教バアルを信じた。ユダの王ヨシヤパテは25年間ユダの王位にいた。父アサと同じくエホバの眼に適うことをした。イスラエルとは友好関係にあった。ユダの王ヨシヤパテの事績はユダの王の歴代志の書に記されている。王ヨシヤパテが亡くなって、その子ヨアムが代わってユダの王となった。

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分裂後のユダ王国とイスラエル王国地図

2-7) 列王記略 下(預言者エリシアとイスラエル国の分裂と滅亡)

イスラエル王国とユダ王国に分裂後のイスラエル王国(北王国)の国王を列記する。
紀元前/922年 - 901年 ヤラベアム1世/901年 - 900年 ナダブ /900年 - 877年 バアシヤ/877年 - 876年 エラ 876年 ジムリ - 主君エラを討ち、7日間王位にあった。/876年 - 869年 オムリ/869年 - 850年 アハブ/850年 - 849年 アハジヤ/849年 - 842年 ヨラム /842年 - 815年 イエフ /815年 - 801年 ヨアハズ/801年 - 786年 ヨアシュ/786年 - 746年 ヤロブアム2世 /746年 ゼカリヤ /745年 シャルム /745年 - 738年 メナヘム/738年 - 737年 ペカフヤ /737年 - 732年 ペカ /732年 - 722年 ホシェア - イスラエル王国最後の王。
イスラエル王国とユダ王国に分裂後のユダ王国(南王国)の国王を列記する。紀元前/922年 レハブアム - イスラエル王国から分離したユダ王国の最初の王になる。
922年 - 915年 レハベアム/915年 - 913年 アビヤ/913年 - 873年 アサ/873年 - 849年 ヨシヤパテ/849年 - 842年 ヨラム/842年 アハジヤ 北イスラエル王国のエヒフによって殺害される。/842年 - 837年 アタリヤ 唯一の女王。/837年 - 800年 ヨアシ /800年 - 783年 アマツヤ /783年 - 742年 ウジヤ/742年 - 735年 ヨタム/735年 - 715年 アハズ アッシリア王に臣従。/715年 - 687年 ヒゼキヤ /687年 - 642年 マナセ/642年 - 640年 アモン /640年 - 609年 ヨシヤ /609年 ヨアハズ(エホアハズ)/609年 - 598年 エホヤキム 598年 エホヤキン 次王ゼデキヤと共にバビロニアへ連行され拘禁される。/597年 - 587年 ゼデキヤ 目を刳り出されてバビロニアへ連行された。ユダ王国最後の王。
列王記略下は全25章(岩波文庫で68頁)である。ソロモンの子レハベアムに時代にヤラベアムが反乱を起こし、レハベアムによる南ユダ王国とヤラベアムによる北イスラエル王国に分裂した。王国の危機は異教の神バアル崇拝の度に訪れ、これに対する警告は預言者エリア、エリシア、アモス、ホセア、イザヤによって度々発せられた。しかし東に興った大国アッスリアにより紀元前722年に北イスラエル王国が滅亡し、続いて紀元前586年、アッスリアのネプカデネザル王により南のユダ王国も滅亡した。イスラエルの民のほとんどがアッスリアの首都バビロンに連行された。いわゆる「バビロン捕囚」である。(この民族の幽囚は、日本人についていえば第2次世界大戦後のシベリア抑留と強制労働であり、中国人から見ると大戦中の日本の炭鉱への連行と強制労働に近い内容である。強制力を持つ奴隷労働の典型である)神エホバは、北のイスラエル王国よりも南のユダ王国の方に肩入れをしているように見える。ユダ王国はダビデ、ソロモンの直系にあたるので思い入れが大きい。宗教上のことは分からないが北のイスラエル王国は異教を導入し律法に反することばかりやっているから、北のイスラエル王国を懲らしめ、南のユダ王国は信心深いから保護するというトーンで一貫して記述されている。だからイスラエル王国はユダ王国より135年も早く滅んだというのか、それともどちらも遅かれ早かれ滅んだことに違いはなく、以後再びイスラエル民族が統一国家を作ることは2500年後の第2次世界大戦後まで無かった。このイスラエル民族の歴史をエホバはどう見ているのだろうか。
第1章: イスラエル王アハブの後を継いだアハジアの時代に、モアブがイスラエルに叛いた。アハジがサマリアに王であったとき、欄干から落ちて病を起こしたので、この病は治るだろうかとエクロンの神バアルゼブブに使を派遣した。サマリア王の使は道中エホバの使いテシベ人エリアに会った。エリアはイスラエルにエホバが居るのに何故エクロンの神バアルゼブブに問うのか王に言えと、そしてアハジアは必ず死ぬという。使は王に復命してエリアが言うエホバの言葉を王に伝えた。王はエリアを連行せよと50人の長と部隊50人を派遣したが、山の上においてエリアを発見し近づこうとしたら火が落ちて焼き殺された。王は第2の部隊を派遣したが彼らも焼き殺された。王は第3の部隊を派遣し王一人の命と僕100人の命を交換するわけにはゆかない。王一人の命がほしいなら山を下りて王に会えと言ってようやくエリアは王と面会した。こうしてエリアの予言通り王アハジアは死に、王に子がなかったのでアハブの子ヨラムがイスラエルの王を継いだ。王アハジアの事績はイスラエル王の歴代志の書に記載されている。
第2章: 預言者エリアが天に召されるとき、エリアはエリシアとともにギルガルから出た。エリアはエホバの命でべテルにゆくが、エリシアには戻れと言ったがエリシアは離れず一緒にべテルに至った。次にエリアはエリコに往くがエリシアのまた一緒に往った。次にエリアはヨルダンまでエリシアは一緒に往った。預言者の徒50人も同行し二人はヨルダン川のほとりに立ち、エリアは上着を脱いで川面を叩くと水は2手に別れ水の無い通路を渡った。その時火の車と火の馬が現れエリアは大風に乗って天に召された。エリシアもエリアの上着を取って川を叩き水の無い通路を通ってヨルダンを渡った。対岸からエリコの預言者の徒が見ると、エリシアの上にエリアの霊が止まった。50人の徒が探したがエリアはどこにも発見できなかった。エリシアはエリコの邑が洪水を受けて困っているので、その水源に行き塩をまくと洪水は起こらなくなった。エリシアがべテルにゆくと邑の悪ガキが彼を剥げ頭と馬鹿にしたので、エリシアが彼らを呪うと林からクマが2匹出てきて子ども42人を食い殺したという。こうしてエリシアはサマリアに帰った。
第3章: イスラエルの王ヨラムがサマリアで12年間イスラエルを治めた。彼はエホバの前で悪をなしたが、その父母ほどではなくバアルの像を除去した。モアブの王メシアはイスラエルに10萬の子羊と毛を納めていた。モアブ王メシアはイスラエルのアハブ王が死ぬとイスラエルに叛いた。イスラエルの王ヨラムはイスラエルの兵を集め、またユダの王ヨシアバテに援軍を頼んだがユダは兵を出すことになった。イスラエルの王とユダの王およびエドムの王の連合軍はともに出兵した。途中水が無くなって、エホバの預言者に聞くべきということになり、シヤバテの子エリシアのもとへ出かけた。エリシアはイスラエルの民のことならどうでもいいのだが、ユダの民を守るのがエホバの言葉であるといった。そこでエホバの言葉を聞くと、この谷に多くの溝を掘れ、汝らの水は確保できる、またモアブの国も汝らの手に渡したということであった。明日の朝供え物を捧げると、水が流れてこの国に満ちるだろう。モアブの兵はイスラエルによって破られ、モアブの国に侵入した連合軍は邑を打ち崩し、井戸をふさぎ、樹木を切り倒した。モアブ王は最後の手として700人の決死隊でエドム王を攻めたが力尽きた。
第4章: この章は預言者エリシアの奇蹟譚である。4つの挿話がある。預言者の徒の一人が亡くなって、残された婦人が生計の道がなく、債務のため子どもを奴隷にされといって嘆いていた。エリシアはその婦人に器をたくさん持ってこさせ、そこに油をいれて売ることで生計が立ち債務を還すことができたという話。第2の話はシュネムの夫人が、預言者が通リ過ぎるたびに食を与え、止まる場所も提供した。エリシアはその従者ゲハジに何故に夫人が預言者を厚くもてなすかを聞いて来るように言った。ゲハジが言うには婦人には子供がなく夫は年老いているそうである。そこでエリシアはその婦人に子どもが授かると預言した。婦人はバカにしてはいけないと笑ったが、1年後には子供が生まれた。しかしその子が死んだのでその婦人はカルメル山の預言者を訪れ、苦しみを訴えた。そこでエリシアは婦人の家に行きその子の前でエホバに祈ると子は生き返った。第3の話は蔬菜の毒を抜く話である。預言者エリシアがギルガルにゆくと、飢饉があって毒のある野の蔬菜を無害化するために、羹にして小麦粉を入れると毒が抜けることを教えた。第4の話は供物のパンと大麦と畑の初物を、エリシアは衆人に与えて食わしめよという。預言者の従者は供物はそんなに多くはないのに100人に食わせることかとエリシアに問うたが、エリシアはエホバに供えれば大勢の人が食い余すくらいの量に増えるようにされるといった。
第5章: スリア王の軍長ナフマンという大勇士がいたが、ライ病を患っていた。ナフマンの奴隷の女がサマリアにいる預言者の前に行けばそのライ病を癒してくれるだろうというので、ナフマンはスリア王のもとに行きイスラエル王に手紙を書いてもらった。イスラエルの王はこれはきっとスリア王が争いを求めているに違いないと怒ったが、時に神の人エリシアがこれを聴いて、ナフマンをよこしなさい、イスラエルに預言者がいることを知るだろうといって王の許しを得た。ナフマンにヨルダン川で7度身を洗えば病はなくなると告げた。ナフマンはスリアにはダマスコの河アバナとパルパルがあるのに何故ヨルダン川なのかと訝ったが、従者らはここは預言者のいうようにヨルダン川似て身を清めなさいというので、そのようにすると、肉体は元のように清められ病はなくなった。ナフマンは礼物(礼金)をエリシアに差し出そうとしたがエリシアは断固これを受けなかった。そこでナフマンはエホバへの礼拝を王の居るリンモン宮で行ってよいかどうかと問うとエリシアは了解した。エリシアの従者ゲハジは欲を起こして、礼物の一部を受け取った。これを見たエリシアはナアマンのライ病は汝に就き、子孫に祟るだろうといった。ゲハジはライを発病した。
第6章: 預言者の集団がエリシアに、ここは狭くてヨルダンに行きそこに家を建てて移住しようといった。エリシアはそれについてヨルダンに至り家を建てる樹木を切り出した。一人の作業者が斧を水に落としたが、エリシアはそれを木の枝で拾い上げた。エリシアの奇蹟譚の一つ。スリアの王イスラエルと戦った時、預言者の邑を過ぎるスリア軍の動きがイスラエルに伝わり、12回もイスラエルは防衛に成功した。スリア王は誰が密告するのか臣僕に調べさせると、預言者エリシアが王の寝言をきいて告げているようだと答えた。ドタンにエリシアがいるとわかったのでスリア軍が包囲するとエホバは火の車、火の馬で防いだ。次に預言者の群れがサマリアに移った時、エホバは敵を虜にて飯を与えて敵軍に返した。これでスリアはイスラエルに攻めてこなくなった。後スリアの王ベネハダテが全軍を集めてサマリアを包囲した。サマリアは大飢餓に陥った。己の子を食らうばかりの惨状が出現した。スリア王はエリシアの首を求めて使者を送った。使者と王がやってきて、この禍はエホバから出たものであるといった。
第7章: エリシアはエホバの言葉を伝えた。明日の今頃サマリアの門にて麦粉、大麦が売られるであろうと。そこで王の臣の大将は、ひょっとしてエホバが天の窓を開けるのかといえば、エリシアはその光景を汝は見るだろうが、これを食らうことは無いと答えた。城門に4人のライ病者が話していた。このままいても餓死するし、門の中に入っても餓死するし、いっそのこと殺されれてもともとなのだからスリア軍の陣営へ行こう。何か食うものがありかも知れないということでスリア人の陣営に往ったが、まったくもぬけの殻であった。エホバが仕組んだ大軍の音、馬の声をきいて、すわ大軍到来とみたスリア軍はとるものもとりあえず逃亡したのであった。そこでライ病者4人は残ったものをたらふく食らい、金銀衣服を奪って帰った。このことをイスラエル王に伝えると、罠かもしれないので斥候兵を出して様子を探った。誰もいないことを確認したイスラエルの民はスリア陣営の天幕に入り、食物財宝を奪い城に帰った。そして麦粉、大麦が城門で売られたが、人が殺到したので門の司である将軍は踏みつぶされて死んだ。その光景を汝は見るだろうが、これを食らうことは無いとエリシアが言った事とはこれである。 
第8章: 第4章にエリシアが助けた子の母に対して、この地は7年間飢饉になるから避難しなさいと言った。彼女は7年間ペリシテ人の地に居たが、飢饉が終って帰国し土地の権利の復権についてユダの王に訴訟を起こした。王はエリシアの従者ゲハジに問うと、その婦人は確かに預言者エリシアの助けた子の婦であるというので、王は官吏を派遣し土地に関する権利を復活させた。エリシアがダマスコに至った時、スリアの王ベネハダテが病にかかりエホバの預言者がこの地に来るというので、臣僕ハザエルに礼物を持ってエリシアのもとに行きエホバの言葉を問うた。エリシヤは病は治るがエホバは王は必ず死ぬと答えた。これは王がイスラエルの子孫になした害悪のためである。ハザエルはスリア王を殺し代わって王となった。ユダの王ヨシヤパテの子ヨラムが王の位を継いだ。8年間ユダを治めた。彼の妻はイスラエル王アハブの娘であったので、イスラエルと同じ異教を行いエホバの前で悪をなした。しかし彼はダビデの子孫であるのでエホバは彼を殺さなかった。ユダのヨラム王の時代に、エドム、リブナが叛きいたが反撃した。ヨラムが亡くなったのでその子アハジアがユダの王を継いだ。かれはエルサレムで1年ユダを治めた。彼の妻はイスラエル王アハブの孫娘だったので、アハブと同じ道をあゆみエホバの前に悪をなした。アハブの子ヨラムがスリア王ハザエルとラモテで戦った時、負傷したのでエズレルで療養中、ユダの王アハジアはエズレルを訪れイスラエル王ヨラムを見舞った。
第9章: 預言者エリシアは従者の少年を呼んで、ギレアデのラモテに行きシャバテの子エヒウに膏を注ぎ、エホバの言葉としてイスラエルの王とすると述べて直ちに逃げ帰れと命じた。預言者の召使がラモテに行き、軍勢の長が集まる席で、将軍エヒフを名指して「イスラエルの王となり、その主アハブの家を撃ち滅ぼせ、佞臣イゼベルを殺せ」というエホバの言葉を伝えて逃げた。一座の者たちはエヒフは王なりと叫んだ。こうしてエヒウは王ヨラムに叛いた。時にユダの王アハジアがヨラムを訪問していたので、エヒウの軍勢が迫ったので何事かと車で脱出したが、ナボテの地でエヒウと戦いになり、王ヨラムは矢で射殺され、ユダの王アハジアは逃げたがムギドンで撃ち殺された。そしてエヒウはエズレルの地でイゼベルを撃ち殺した。イゼベルの妻は王の娘であったのでこれも殺された。
第10章: アハブの家にはサマリアに70人の子があった。エヒウはサマリアの邑の宰、長老、子らの師らに書を送り、子どもらの中から王を立て私と戦うか、それとも子供の首を差し出すかを迫った。これはエホバの命であると。翌朝まで王の子等の首を門の前に並べ置くようにと命令した。こうしてエヒウはアハブの家に属する者をことごとく滅ぼした。またユダの王アハジアの兄弟に、王の子ら42人をことごとく殺せと命じた。次にエヒウは民に告げてバアルの預言者たち、祭司たちおよび従者をことごとく集めてバアルの祭礼を行うという偽りの布告を出し、80人を集めてバアルの家に入れ士卒と将が包囲して悉くバアル関係者を殺した。こうしたことはエホバ神の心にかなうことであったので、エヒウの子孫は4代までイスラエルの王の位を保つことになった。エヒウがサマリアでイスラエルを治めたのは28年間であった。エヒフが死んだあとはその子エアハズが王を継いだ。このころからイスラエルの分裂が始まった。周辺民族のガド人、ルベン人、マナセ人らが境界を侵した。ハザエル、アロエル、ギレアデ、バシャンが襲われた。
第11章: ユダの王アハジアが殺されたので、アハジアの母アタリアは王の子どもをことごとく滅ぼした。ところがアハジアの姉妹であるエホシバが子ヨアシ一人を隠し置いた。ヨアシは6年間アタリアのエホバの家に隠れた。7歳になった時、祭司エホヤダは近衛隊長に命じて兵を集めさせ、王子を進めて冠を戴かせ律法を渡してこれを王となした。そしてヨアシは王の家に入った。7歳のことである。 
第12章: ヨアシは40年ユダを治めた。ヨアシ王は祭司エホヤダが口うるさい間はエホバの道を守ったが、丘の高いところには祭壇があり民は異教を捨てたわけではなかった。ヨアシ王は祭司に命じて、エホバの家の修復のため献金・寄付金を募集したが、一向に修復は行われなかった。恐らく祭司が寄付金を自分のものにしたようである。そこで祭司エホヤダはエホバの家の入り口に口のついた箱を置いて、修復のための賽銭箱にして家の監督者が金が貯まれば工事者に工事を促す仕組みにした。ただし罪金と愆金はエホバの家には入らず祭司の収入となった。(祈祷代) スリアの王ハザエルがエルサレムに侵入したとき、ヨアシ王は庫にあった金をすべて与えて撤退してもらった。ヨアシの臣僕は怒って王ヨアシを殺し、その子アマジアがこれに代わって王となった。アマジア王は父王を殺した暗殺者を粛正したが、彼らの子どもには手を付けなかった。これはエホバの教えによる。エホバは、子女の罪によって父を殺すべからず、父の罪によって子女を殺すべからず。人はみなその身の罪によって死ぬべきものなりという。 
第13章: エヒフの子ヨアハズは、サマリアにおいて7年間イスラエルの王の位にあった。しかし彼はエホバの前で悪を行ったので、エホバはイスラエルに罰を下しスリアの王ハザエル、ハザエルの子ベネハダテの手に渡した。イスラエル王ヨアハズはエホバに赦しを請い、エホバはイスラエルを救う気になった。ヨアハズ王のときにイスラエルの主権は回復した。しかしヨアハズ王は異教アシタロテの像を立てたので、またスリア王は兵1万人をイスラエルに入れた。ヨアハズが亡くなったのちその子ヨアシがイスラエル王に代わった。ヨアシはサマリアにおいて16年間王位にあった。ここにイスラエルの預言者エリシアが亡くなるとき、ヨアシ王はエリシアの言葉を聞いた。スリアに向かって矢を6回射るようにというところ3回しか射なかったのが災いのもとになった。スリアの王ハザエルが亡くなって息子ベネハダテが代わって王となった。イスラエル王ヨアシは奪われた地の奪回戦争を起こし、ヨアシ王は3回勝った。
第14章: ユダの王ヨアシの子アマジャがユダの王になった。29年間エルサレムでユダを治めた。彼はダビデほどではないがエホバの前では正しい人であった。ユダの王アマジャはイスラエルの王ヨアシに使者を送り会談を申し込んだ。イスラエルの王ヨアシはこの会談を拒否しユダを嘲笑したので、ユダの王アマジャとの間で戦争となった。イスラエルはユダに勝ってアマジャを人質に取り、エルサレムの城壁を部分的に壊させた。(外堀を埋める式) イスラエルの王ヨアシが亡くなってその子ヤラベアムが代わって王となった。在位41年イスラエルを治めた。この王の時期、預言者ヨナによって、エホバの神はイスラエルの窮状を救った。王ヤラベアムはダマスコ、ハマテをユダから取り戻した。ヤラベアムの死後その子ザカリヤが代わってイスラエルの王となった。ユダの王アマジャはその臣僕に殺され、その子アザリヤが代わってユダの王になった。
第15章: ユダの王アザリヤは52年間エルサレムにおいてユダを治めた。アザリヤは父アマジャと同じようにエホバの善となすことを行ったが、高き丘に異教を祀り生贄を献じた。怒ったエホバはアザリヤ王を懲らしめライ病患者になったので、別殿に居住し家と国のことはその子ヨタムが執行した。アザリヤ王が亡くなって、その子ヨタムが代わってユダの王となった。エルサレムにおいて16年王位にあった。イスラエルではザカリアがイスラエルの王となったが、悪行が著しく、ヤベシの子シャルムが反乱を起こしザカリアを殺した。代わってシャルムが王となった。シャルムの王位期間は1か月に過ぎず、ガデの子メナヘムがサマリアにてシャルムを殺し代わって王になった。メナヘムはサマリアにおいて10年間王位にあったが、悪行甚だしく、アッスリアの王プルが攻め来たった。イスラエルの王メナヘムは賠償金を払ってアッスリアに撤退してもらった。王メナヘムが亡くなってその子ペカヒヤが代わって王となった。ペカヒヤは2年間王位にあったが、その将官ペカが反乱を起こし王ペカヒヤは殺された。レマリアの子ペカが王となった。サマリアでの在位は20年であった。イスラエルの王ペカの時代にアッスリアの王テグラテピレセルがイスラエルに侵入し、ギレアデ、ケデシ、ナフタリなどの全地、ガリラヤを奪った。そして住民をアッスリアに連行した。ここにエラの子ホヒアがペカを殺し、代わって王になった。 
第16章: ユダではヨタムの子アハズが王となり、エルサレムで16年間ユダを治めた。ダビデほどにはエホバに良きことを行わなかった。彼はイスラエルに倣って異教の行いに従った。この時スリアの王レジンおよびイスラエルの王ピカがユダ王のエルサレムを囲んだが、勝利は得られなかった。しかしスリア王はエテラを奪ってユダ人を追い払いスリア領とした。アハズ王はアッスリアの王グラテピレセルに援軍を請い、エホバの家にある金銀を礼物として贈った。アッスリアの王グラテピレセはダマスコに攻め入りスリアの王レジンを殺し、民をキルに移した。アハズ王がイスラエル国のダマスコでみた祭壇の作り方の詳細を祭司ウリアに送って作らせた。朝の燔祭夕の素祭、王の燔祭と素祭、民の燔祭と素祭をこの壇において行い、生贄の血をすべて壇の上に灌いだ。またエホバの家の造作をいろいろ変えて作り直し、エホバの道からそれていった。 
第17章: エラの子ホセアがサマリアにおいてイスラエルの王となり9年間治めた。彼もエホバの前で悪をなしたが、歴代王ほどではなかった。この章はイスラエル王国の滅亡(紀元前722年の史実)を描いている。アッスリアの王シャルマネセルがイスラエルを攻めホセア王はこれに降伏し貢物を入れた。しかしすぐに貢物を怠ったのでホセア王を禁固して獄屋につないだ。アッスリアの王は3年間サマリアを包囲・占領し、民をアッスリアに捉えてゆき、ハラ、ハボル、ゴザン、メデアの邑に入れた。ここに北のイスラエル王国は滅亡した。これはエホバの戒めを忘れエホバの嫌う異邦人の神を祀ったためである。エホバは大いに怒りイスラエルをその前より除き去ったので、ユダの支流のほかには遺れるものはなくなった。イスラエルをダビデの家より切り離して、ヤラベアムを王としたが、イスラエルはもはやエホバとは無関係になった。アッスリアの王は、バビロン、クタ、アワ、ハマテ、セパルワイムよりイスラエルのサマリアに植民した。アッスリアの王は住民統治のため、祭司をしてその国の神の道をそれぞれ勝手に作らせた。人々はエホバを敬ったが、その出身地の風俗に従って自己の神々に仕えた。
第18章: ユダ王国ではアハズの後をヒビキアが代わって王となった。エルサレムで29年ユダを治めた。ヒビキア王はダビデのようにエホバの道を歩んだ。高き丘の台を毀し、銅製の(ネオシタン)ヘビを打ち砕いた。ヒビキア王はエホバの戒めを守ったのでアッスリアの圧迫にも屈しなかった。彼はペリシテ人を撃ちガザを取った。イスラエル王ホヒアのとき、アッスリアの王シャルマネセルがイスラエルを攻め3年後サマリアは陥落したことは前章に書いたとおりである。ヒビキア王の14年、アッスリアの王セナケリブがユダに攻め込みユダの城を取ったので、ヒビキア王は和を請い、貢物金銀を払ってアッスリアに撤退を請うた。エルサレムにおいて大軍を率いたアッシリア側からタルタン、ラブサリス、ラブシヤケが、ユダ側から王の子宮内卿エリアキム、書記官セブナ、史官ヨアが出て講和会議が行われた。アッシリアのラブシヤケが代表して、折れた葦の杖なるエジプトを頼みとして援軍を頼もうとするのか、エホバの意思に従って交戦しようとするのか答えろと迫った。ユダ側は使用言語問題を持ちだしたが、ラブシヤケはヒビキア王のいうことは聞くな、ただアッスリア王の言葉による降伏勧告のみを述べ立てて、降伏条約を結ぶならユダ人をある国に連れ行き命は保証し生活ができるようにする、サマリアを救う神々はいない、エホバも救うことはできないと断言した。それ以上はユダ側は黙し、ヒビキア王にラブシヤケの言葉を伝えることになった。
第19章: ヒビキア王はこれ聞いて、預言者イザヤにエリアキムらの使者を立ててエホバの言葉を聞くことになった。ユダの運命は如何になるかと問わしめたところ、イザヤは、アッスリアの王は噂を聞いて己の国に急ぎ帰るが、謀反した臣僕によって殺される。という答えを出した。ラブシヤケらはアッスリアの王がリブナに戦争を起こし、エチオピアの王ハルテカが攻めあがるという噂を聞いて急遽帰国することになった。ラブシヤケはヒビキア王に対して伝言をした。アッスリアがなした征服戦争のことを肝に銘じろ、エルサレムがアッシリアの手に落ちなかったといってエホバの神に騙されるな、必ずユダを陥落させるという趣旨であった。「処女なる女子シオンは汝を軽んじ汝をあざける、女子エルサレムは汝に向かいて頭を振る、汝誰を謗りかつ罵しりや、汝誰に向かって声をあげしや・・・」がエホバの言葉である。汝とはアッシリアのラブシヤケのことである。エホバを罵ることは天に向かって唾を吐く行為であるという意味だ。アッスリアの王セナケリブ夜のうちに撤退しニネベに帰った。あとには18万人の兵士の死体が転がっていた。これはエホバのなし給えることである。セナケリブ王が礼拝中にその子アデランメルクとシャレゼルによって剣で殺された。暗殺者は逃亡し、その子エサルハドンが代わって王となった。
第20章: ユダ王国のヒビキア王病気になったとき、預言者イザヤは王に死に臨んで遺言をなせといった。ヒビキア王は壁に向かってエホバに祈ったところ、帰路にあった預言者イザヤにエホバの言葉が下った。3日後にエホバの家に来れば汝の命を15年延長し、アッシリアの手からエルサレムを守るという。イザヤは乾無花果の実を王ヒビキア王の患部に貼ると王の病は消えた。バビロンの王メロダクバラダシはヒビキア王の病気のことを聞いて書と礼物を贈った。ヒビキア王は喜んで王家の宝物の庫を開けてバビロンの使節に見せた。預言者イザヤはエホバの言葉を伝えた。イザヤの預言は、ユダの財宝はすべてバビロンに持って行かれるであろう、また王の子等はバビロンに連れ行かれ宮廷の官吏になるだろうと予言した。ヒビキア王が亡くなって、その子マセナが代わって王となった。
第21章: マナセ王はエルサレムにおいて55年間王位にあった。マナセ王はエホバが憎んだ異教徒の真似をして悪を行った。父ヒビキアが毀した崇丘を築きバアルの祭壇を作り、アシラ像を拝んだ。またエホバの家にいくつかの祭壇を築き、魔術・口寄せ・占いを行った。エホバは預言者に、エルサレムとユダに禍をもたらし、エルサレムと民を敵の手に渡さんといった。マナセが亡くなった後、アモンが代わってユダ王となった。アモンはエルサレムにおいて2年間王位にあった。父マナセと同じようにエホバに向かって悪をなした。アモンは暗殺され代わってその子ヨシアがユダ王となった。
第22章: ヨシアはエルサレムにおいて31年間王位にあった。ヨシアの18年に書記官シャパンを祭司の長ヒルキアに遣わし、エホバの家にある寄付金の銀を数え、エホバの家の改修工事を行うように命じた。祭司の長ヒルキアは書記官シャパンにエホバの家にて律法の書を見つけたを報告した。書記官シャパンは王に復命してその書を王と一緒に読んだ。王は愕然として悟るところがあり、早速祭司ヒルキア、書記官シャパン、シャパンの子アヒカム、ミカヤの子アクボル、内臣アサヤに命じて言う、我らの先祖らはこの書に記された通りに行わなかったため、エホバが怒りを発したのである。(つまり、この時代まで下るとユダ民族には律法の籠があることさえ知られていなかったようである。) 彼らは女預言者ホルダのもとに行き律法について問い糺した。そして王にこのエホバの戒めを守れば王室は安泰であり、禍は避けて通ることができるという確信に至った。 
第23章: ヨシア王はユダの民と長老をエルサレムに集め、エホバの律法を読み聞かせエホバの前で契約を結んだ。民は皆その契約に加わった。ヨシア王は祭司長ヒルキアに命じてバアルとアシラのために作った諸々の器を破壊した。そして異教の祭司らを廃し、口寄せと占い師とテラピムを廃した。バアル・アシラ・モロク像を壊した。崇丘をことごとく毀し、トペテを汚し、日の車を焼いた。王はすべての民に命じて過越祭を行った。過越祭はイスラエルの士師の王の時代より行われたことは無かったがヨシアの18年にエルサレムで復活した。しかしながらマナセ王の悪行に対するエホバの怒りは収まらなかった。エジプト王パロネコがアッスリアと戦うためにユダの地に入った時、これを阻止するヨシア王を殺した。代わってその子エホアハズが王に立ったがパロネコ王は気に入らず3か月後にエホアハズ王をハマテのリブラに捉えて獄に入れ、代わってエホヤキムをユダ王にした。エホヤキム王はパロネコに金銀を貢納し民には重税を掛けた。エホヤキムはエルサレムにおいて11年間王位に就いた。
第24章: エホヤキム王の時代にバビロンの王ネプカデネザルが侵入し、エホヤキム王これに降伏したが、3年後これに叛いた。カルデア、スリア、モアブ、アンモンの周辺民族も侵入しユダの破壊に手を貸した。これはユダを敵の手に渡すという全くエホバの命によるものであった。エホヤキム王が亡くなって、その子エコニアが代わってユダ王になった。ユダ王の在位期間は3か月に過ぎなかった。バビロンの王はエジプト川からユフラテス川に至る地域(エジプトの属国)を全部占領した。バビロンの王はエルサレムに攻め上がりこれを包囲した。エコニア王らはバビロンに降伏した。ここにユダ王国は滅亡した。(史実は紀元前586年のことである)有力なユダの民1万人は捉えられバビロンに連行された。(バビロンの幽囚)バビロン王はエコニア王を廃し、代わって兄弟のゼデキアを王とした。ゼデキア王はエルサレムにおいて11年間王位にあった。ゼデキアはバビロンに叛いた。
第25章: ゼデキア王の9年10月10日バビロンの王ネプカデネザルがエルサレムに攻めあがった。包囲されて2年間はユダのゼデキア王と軍と民は飢餓線上にあったが、兵が逃亡を始めカルデア人がゼデキア王を捕えゼデキアの子らを眼の間で殺し、ゼデキア王の両眼を潰して鎖につないでバビロンに連行した。ゼデキア王の19年、バビロン王の親衛隊長ネプザラダンがエルサレムに入り、一切の建築物を毀し邑の石垣を崩した。邑に残っていた民を捕えて連行した。カルデア人はエホバの家にあった銅の器を奪い去った。祭司長セラヤ、ゼパニア、軍関係役人ら60人を捕えバビロンに連行し撃ち殺した。バビロンの王ネプカデネザルはこの地に留まらせた民の監督として書記官シャパンの子であるゲダリアを立てた。ここで王の血統にあたる10数名が反乱を起こし、ゲダリアやカルデア人を撃ち殺し、エジプトへ逃亡した。

2-8) 歴代志略 上

列王記略上は全29章(岩波文庫で65頁)である。サムエル書、列王記略と重なる部分が多いが、イスラエル民族の詳細な系図の記述(書かれている家系とそうでない家系の全体像は見えないが)に続いて、ダビデによるエルサレム神殿の計画とダビデの事績と功罪に重点が置かれている。「歴代志略 上」には第1章から第9章までイスラエルの家の系図と、第10章から第29章まではダビデの事績を記述する。
第1章: 神話時代(「旧約聖書 T 律法」モーセ五書を参照のこと)のアダムからノアの家系を述べている。この時代まではイスラエル(ユダ)の実力者(王)は現れなかった。エドムを治めた部族の一つであった。アダムーセフーエノス、ケナンーマハラエルーセレド、エノクーメトセラーラメク、ノアーセムーハムーヤベテの系図はスケッチにすぎず、詳細な記述はない。ノアの子ら以降の記述から次第に現実味を帯びて詳細になる。まずヤベテの家系より始める。ゴメル、マゴグ、マデア、ヤワン、トバル、メセク、テラスのなかでゴメルの子らはアシケナズ(ロシアに定住したユダヤ人の祖 ピアニスト、音楽家を輩出した)、リパテ、トガマル、またヤワンの子らはエリシア、タルシン、キッテム、ドダニムである。ハムの家系ではハムの子らはクシ、ミツライム、ブテ、カナン、またクシの子らはセバ、ハビラ、サブタ、ラアマ、サブテカ、ニムロデ、またラアマの子らはセバ、デダン、クシの子ニムロデは初めて権力のある実力者となった。またミツライムの子らはルデ族、アナミ族、レハビ族、ナフト族、パテロス族、カスル族、カフトリ族、ペリシテ族の祖となった。セムの家系では、セムの子らはエラム、アシュル、アルパクサデ、ルデ、アラム、ウズ、ホル、ゲテル、メセク、アルパクサデ、シラであり、シラはエベルを生んだ。エベルの子らはベレグ、ヨクタンである。ヨクタンの子らはアルモダデ、シャフレ、ハザルマウテ、エラ、ハドラム、ウザル、デクラ、エバル、アビマエル、シバ、オフル、ハビラ、ヨハブである。ペレグーリウーセルグーナホルーテラアブラム(アブラハム)と連なる。アブラハムの子らはイサク、イシマエルである。イシマエルの子はネバヨテ、ケダル、アデビエル、ミブサム。ミシマ。ドマ、マッサ、ハダデ、テマ、エトル、ネフシ、ケデマである。アブラハムの妾ケトラの子ら6人の家系も書いてあるが直系の筋ではなので省略する。イサクの子らはエサウ、イスラエルである。エサウの子らはエリバズ、リウエル、エウシ、ヤラム、コラである。エリバズの子らはテマン、オマル、ゼピ、ガタム、ケナズ、アマレクである。リウエルの子らはナハテ、ゼラ、シャンマ、ミツザである。セイル家の子孫についてつながりが不明なのでペンディングとする。イスラエルの子孫を治める王はまだ存在していなかったが、エドムの地を治めた王の変遷を記す。ベラ→ヨバブ→ホシャム→ハダテ→サムラ→サウル→バアルナハン→ハダテらである。エドムの諸侯はテナム候、アルヤ候、エテテ候、アホリバマ候、エラ候、ピノン候、ケナズ候、テマン候、ミブザル候、マグデエル候、イラム候であった。
第2章: 第1章創世記の家系に続いて、本章ではイスラエル12氏族の祖の家系を記述する。家系を述べる。イサクの子イスラエルの子らは、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン、ダン、ベニヤミン、ナフタリ、ガド、アセル、エフラウムの12人である(彼らがイスラエル12支派の祖となった)。ユダの子らは、バテシュアが産んだエル、オナン、シラである。タマルが生んだベレズ、ゼラである。ベレズの子らはヘズロン、ハルムである。ゼラの子らはジムリ、エタン、ヘマン、カルコル、ダラである。ベレズの子ヘズロンに生まれた子はエラメル、ラム、ケルバイ、ラム、アミナダブである。アミナダブの子はナションはユダの牧伯となった。ナションの子らはサルマ→ボアズ→オベデ→エッサイ→エリアブ、アミナダブ、シャンマ、ネタンエル、ラダイ。オゼム、ダビデに連なる。ヘズロンの子カレブの子らは、エシル、ショバブ、アルドン、ホルである。ホルの子はウリ、ペザレルである。カレブはマキルの娘との間にセグブを得て、セググはヤイルをもうけた。ギレアデの地に60の邑を獲得した。ヘズロンの子エラメルの子らはラム、ブナ、オセム、アヒヤである。ラムの子らはアマツ、ヤミン、エケルである。エラメルの兄弟カレブの子らは、メシア→ジフ→マレシア→ヘブロン→コラ、タップア、レケム、シマと連なる。シマ→ラハム→ヨルカムそしてレケム→シャンマイ→マオン→ペステルに連なる。
第3章: イスラエル王国の全盛時代を築いたダビデとソロモンの家系を記述する。ダビデの子らは、アムノン、ダニエル、アブロサム、アドニヤ、シパテヤ、イテレアムがヘブロンにて生まれる。ダビデは7年6か月ヘブロンにおいてユダの王であった。エルサレムにおいて33年間王であった。エルサレムで産まれ子らは、シメア、ショバブ、ナタン、ソロモン、イバハル、エリシヤマ、エリペレテ、ノガ、ネグベ、ヤビア、エリシヤマ、エリアダ、エリペレテである。ソロモンの子らは、レハベアム→アビア→アサ→ヨシヤパテ→ヨラム→アハジア→ヨアシ→アマジア→アザリア→ヨタム→アハズ→ヒビキア→マナセ→アモン→ヨシア→ヨハナン、エホヤキム、ゼデキア、シャルムと連なる。エホヤキムの子らはエコニア→ゼデキア、エコニアの子らはシャルテム、マルキラム、ペダヤ、セナザル、エカミア、ホシヤマ、ネダビアである。ペダヤの子らはゼルバベル、シメイである。ゼルバベルの子らはメシュラム、ハナニア、ハシュパ、オヘル、ベレキア、ハサデア、ユサブヘデである。ハンニアの子らはベラテヤ、エサヤ、レパヤ、アルナン、オバデヤ、シカニアである。シカニヤの子らはシヤマである。シヤマの子らはハットシ、イガル、バリア、ネアリア、シャパテである。ネアリアの子らはエリヨエナイ、ヒビキア、アズリカムである。エリヨエナイの子らはホダヤ、エリシブ、ペラヤ、アツクブ、ヨハナン、デラヤ、アナニである。
第4章: 第4章から第8章まではイスラエル12支派のうち、ユダ、シメオンの家系(第4章)、ルベン、ガドの家系(第5章)、祭司レビの家系(第6章)、軍人イッサカル、ナフタリ、マナセ、エフライム、アセルの家系(第7章)、ベニヤミンの家系(第8章)について記述する。
まず本章はユダの家系、シメオンの家系について述べる。第2章で述べたがイスラエルの子ユダが生んだ子らは直系でたどるとベレズ→ヘズロン→カルミ→ショバルである。ショバルの子らはレアヤ、ヤハテである。ヤハテの子らはアホマイ、ラハデで彼らはザアレ人の宗族である。エタムの子らはエズレル、イシマ、イデバシである。ヘラの子らはゼレテ、エゾアル、エテナンである。ヤベズはイスラエルの神に祝福された尊い人であった。エシトシの子テヒナントはレカの人である。エフンネの子カレブの子らはイル、エラ、ナアムである。エハレルルの子らはジフ、テリア、アサレルである。エズラの子らはエテル、メレデ、エペル、ヤロンである。シモンの子らはアムノン、リンナ、ベネハナシ、テロンである。イシの子らはゾヘテ、ベネゾヘテである。シラの子らはエル、ラダ、アシベアである。
シメオンの子らはネムエル、ヤミン、セリブ、ゼラ、シャウルである。シャウルの子らはシャルム→ミブサム→ミシマ→ザックル→シメイである。彼らの住むところはベエルシバ、モラダなど14の邑に住んだ。その宗族の長たる者には、メショバブ、ヤムレク、ヤコバ、アシェル等がいた。彼らは牧羊のためゲドルの西に広がった。ユダの王ゼルキアの時代にメウニ人を滅ぼしてそこに住んだ。
第5章: イスラエル(人の名)の長男ルベンは父の床を穢したという理由で長子の権はヨセフに与えられたが、その家系はユダの中で優れた者、王たる者を輩出した家系である。ルベンの子らはハノク、パル、ヘズロン、カルミである。ヨエルの子らはシマヤ→ゴグ→シメイ→ミカ→バアル→ベエラに連なる。ベエラはアッスリアに連行された王である。彼の兄弟にはエイエル、ゼカリア、ベラがいる。彼らの土地はギレアデの地で牧畜に栄えユフラテ川の端までおよんだ。またサウル王の時代ハガリ人を滅ぼしギレアデの東を全部わがものとした。
ガドの子孫はバシヤシの地に住み、サルカの地に勢力を及ぼした。その長はヨエル ヨエル→シャパム→ヤアナイ→シャパテと続いた。ヨエルの兄弟はミカエル、メシュラム、シバ、ヤカン、ジア、ヘベルであった。彼らはホリの子アビハイルの子であった。ホリの先祖はブズ→ヤド→エシサイ→ミカエル→ギレアデ→ヤロウ→ホリと遡る。彼らはギレアデとパシャン、シャロンに住んだ。これらはユダ王ヨタムとイスラエル王ヤラベアムの系譜に連なる。ルベンの子孫とガド人とマナセの半支派の戦士は4万4760人であって勇猛で知られた。彼らはハガリ人、エトル、ネフシ、ノダブと戦い、ラクダ5万、羊25万、ロバ2000、人10万人を奪い取った。マナセの半支派はギレアデ、パシャからバアルヘルモン、セニル、ヘルモンまで勢力を伸ばした。宗家の長にはエペル、エリエル、アズリエル、エレミア、ホダヤ、ヤデエル等の勇士がいた。
第6章: 祭司の家レビ族の家系について記述する。レビの子らはゲルショイ、コハテ、メラリである。コハテの子らはアムラム、イズハル、ヘブロン、ウジェルである。アムラムの子らはアロン、モーセ、ミリアムである。アロンの子らはナダブ、アビウ、エレアザル、イタマルである。エレアザルの子はピネハス→アビシュア→ブッキ→ウジ→ゼラヒア→メラヨナテ→アマリア→アサトブ→ザドク→アヒマアズ→アザリア→ヨハナン→アザリア(ソロモンの祭司)→アマリア→アヒトブ→ザドク→シャルム→ヒルキア→アザリア→セラヤ→ヨザダク(アッスリアに連れ去られた祭司)がコハテの直系に連なる。ゲルショイの子らはリブニ、シメイである。リブニ→ヤハテ→ジンマ→ヨア→イド→ゼラ→ヤラテイと連なる。コハテの子アミナダブ→コラ→アシル→エルカナ→エビアサフ→アシル→タハテ→ウリエル→ウジャ→シャウルに連なる。エルカナの子らはアマサイ、アヒモテである。契約の櫃を安置した後ダビデは左の人をエホバの詠歌を司らせた。ソロモンエホバの家を建てた後その職を定めた。コハテの子らのなかでヘマンは謳歌長であり、ヘマンの系図は逆に辿ると、イスラエル→レビ→コハテ→イズハル→コラ→エビアサフ→アシル→タハテ→ゼパニア→アザリア→ヨエル→エルカナ→アマサイ→マハテ→エルカナ→ズフ→ドア→エロハム→エルカナ→サムエル→ヨエル→ヘマンと連なっている。イスラエルから22代目である。(途中何回も同じ名が出てくるがこれは循環ではなく、同名異人であろう)契約の櫃の右に立つ人はヘマンの兄弟アサフである。アサフの系図を逆に辿ると、イスラエル→レビ→メラリ→ムシ→マヘリ→セメル→バニ→アムジ→ヒルキア→アマジャ→ハシヤビア→マルク→アブデ→キシ→エタン→アダヤ→ゼラ→エテニ→マルキア→バアセヤ→ミカエル→シメア→ベレキア→アサフと連なっている。イスラエルから24代目である。彼らアサフ、ヘマン兄弟は神の室の幕屋の職に任じられた。アロンとその子らは燔祭の壇と香壇のうえに供物を献じる役職であった。アロンの子孫について記述する。アロンの子はエレアザル→ピネハス→アビシュア→ブッキ→ウジ→ゼラヒヤ→メラヨテ→アマリヤ→アヒトブ→ザドク→アヒマアズである。
イスラエルの12支派の子孫の住むところは籤引によって決められた。アロンの子孫はヘブロンとその周りの郊地、リブナ、ヤッテル、エシテモアの郊地。ベニヤミンの支派はゲバとその郊地、アメレテ、アナトテの郊地、邑の数は13。ゲルショイの子孫は13の邑を得た。メラリの子孫は12の邑を得た。イスラエルの子孫は邑と郊地をレビ人に与えた。ゴハテの子孫は逃遁邑としてエフライムのシケムとその郊地、ヨクメアム、ベテホロン、アヤロン、ガテリンボンとその郊地である。ゲルシヨンの子孫にはバシャのゴラン、アシタロテとその郊地。イッサカルの子孫にはゲデシ、ダベラテ、ラモテ、アネムとその郊地。アセルの子孫にはミンアル、アブドン、ホコク、レホブとその郊地。ナフタリの子孫にはガリラヤのゲデシ、ハンモン、キリアタイムとその郊地。メラリの子孫にはリンモン、タボル、ベゼル、ヤザ、ケデモテとその郊地。ガドの子孫にはギレアデのラモテ、マナハイム、ヘシボンとその郊地。
第7章: イスラエルの誉れ高き軍人の家系を記述する。まず第1の軍閥であるイッサカルの家系を記述する。
イッサカルの子らはトラ、ブワ、ヤシユブ、シムロムの4人である。トラの子らはウジ、レバヤ、エリエル、ヤマイ、エブサム、サムエルである。トラの子の家系は宗家の長となり、大勇士となるものの数はダビデの時代に2万2600人を数えた。トラの子ウジの子らはミカエル、オバデヤ、ヨエル、イツシヤの5人である。皆軍の長となった。トラの家系で軍の士卒は3万6000人、イッサカルのすべての宗族の中で大勇士として記載される数は8万7000人である。
ベニヤミンの子らはベラ、ベケル、エデアエルの3人である。ベラの子らはエゾボン、ウジ、ウジエル、エレモア、イリの5人である。皆宗家の長で、名簿に載せた大勇士の数は2万2034人である。ベケルの子らはセミラ、ヨアシ、エリエゼル、エリオエナイ、オムリ、エレモテ、アビア、アナトテ、アラメテで皆宗家の長である。大勇士の数は2万200人である。
エデアエルの子らはビルハン、ビルハンの子らはエウシ、ベニヤミン、エホデ、ケナアナ、ゼタン、タルシン、アビシヤハルで皆宗家の長である。大勇士の数は1万7200人である。
ナフタリの子らはヤジェル、グニ、エゼル、シャルムである。
マナセの子らはアシリエル、妾の子らはマキル、ゼロペハデである。マキルの子らはペレシ、シャレンである。シャレンの子らはウラム、ラケムである。ウラムの子らはペダンである。
エフライムの子らはシュテラ→ベレデ→タハテ→エラダ→タハテ→ザバ→シュテラに受け継がれる。エフライムの子ベリア→レパ、レセフである。レセフ→タハン→ラダン→アミホデ→エリシヤマ→ヌン→ヨシュアと連なった。エフライムの子孫の住むところはベテル、西はゲゼル、シケム、アワ、東はナアランである。
アセルの子らはイムナ、イシワ、エスイ、ベリア、および妹セラである。ベリアの子らはへベル、マルキエルである。マルキエル→ビルザヒテ、ヘベル→ヤフレテ、ショメル、ホタムである。ヤフレテの子らはパサク、ビルハム、アシワである。ショメルの子らはアヒ、ロガ、ホバ、アラムである。ウラの子らはアラ、ハニエル、リジアである。アセルの子孫は宗家の長で抜きんでたる大勇士、将軍である。軍人は2万6000人である。
第8章: ベニヤミンの子らは、ベラ、アシベル、アハラ、ノハ、ラバの5人である。(ベラを除いて第7章のベニヤミンの子ら2人と符合しない、この章は異書によるのか)ベラの子らはアダル、ゲラ、アビウデ、アビシュア、ナアマン、アホア、ゲラ、シュパム、ヒラムである。(子どもの名前でゲラが2回現れる、奇妙 ゲラの子らはシュパム、ヒラムということか)エホデの子らはウザ、アヒウデであり、ゲバの民の宗家の長となり、マハナテに移された。シャハライムがモアブの国で生んだ子らの名は、ヨハブ、ジビア、メシア、マルカム、エウズ、シャキヤ、ミルマは宗家の長となった。またシャハライムの子らはアビトブ、エレパアルである。エルパアルの子らはエベル、ミシヤム、シヤメル、ベリア、シマである。彼らはアヤロンの民の宗家の長となった。べリアの子らはアヒオ、シャシヤク、エレモテ、ゼパデア、アラデ、アデル、ミカエル、イシバ、ヨハである。シマの子らはタキン、ジクリ、ザベデ、エリエナイ、チルタイ、エリエル、アダヤ、ベラヤ、シムラテである。シャシヤクの子らはイシバシ、ヘベル、エイエル、アブドン、ジクリ、ハナン、ハナニヤ、エラム、アントテヤ、イベデア、ベヌエルである。彼らは宗家の長にして頭である。彼らはイスラエルに住んだ。ギベオンの子らはアブドン、ツル、キシ、バアル、ナダブ、ゲドル、アヒオ、ザケル、ミクロテである。彼らはエルサレムに住んだ。キシはサウルを生み、サウルの子らはヨタナン、マルキシュア、アビナダブ、エシバアルである。ヨタナンの子らはメリバアル→ミカ→ピトン、メレク、タレア、アハズを生んだ。アハズ→エホアダ→アレメテ、アズマウテ、ジムリとつながる。ジムリ→モザ→ビアネ→ラパ→エレアサ→アゼルとつながる。アゼルの子らはアズリカム、ボケル、イシマエル、シヤリア、オナデア、ハナシである。これらはすべてベニヤミンの子孫である。
第9章: イスラエルの人は皆帳簿に記載され、イスラエルの列王紀に記録されている。ユダの人はその罪によりバビロンに捉えられた。イスラエル人祭司およびネテム人、エルサレムにはユダの子孫エフライムとマナセの子孫が住んだ。ユダのベレズの子孫には、バニ→イムリ→オムリ→アミホデがいた。シロ族にはアサ、ゼラの子孫はユエルなど兄弟690人がいた。ベニヤミンの子孫にはハダヤ→メシュラム→サルがいた。またエロハム→イブニア→、ミクリの子らにはウジ→エラ、イブニヤの子リウエル→シャパテ→メシュラムなどあわせて956人がいた。祭司の中ではエダヤ、ヨアリブ、ヤキン、ヒルキアの子アザリア、アザリヤは神の室の宰であった。レビ人の中では、メラリ→ハシヤビア→アズリカム→ハシュブ→シマヤ、アサフの子ら、エドトンの子ら、シマヤの子にオバデヤ、エルカナの子らがいた。王宮の門を守る者はシャルムを長としてアツクブ、タルモン、アヒマンが居た。東の王の門を守るのは歴代レビの子孫である。エピアサフ→コラ→エピアサフ→コレ→シャルムと連なり、コラ人は幕屋の門を守る職務に就いた。エレアザルの子ピハネスがその主宰である。メシレミヤの子ゼカリアは集会の幕屋の門を守る職務の宰である。門を守る人は212人である。門を守る人は東西南北の四方にいた。王宮の門を守るシャルム、アツクブ、タルモン、アヒマンの4名のレビ人は神の家の室と府庫を司る。職務はさらに細分され、奉事の器を司る者、その他の器、麦粉、酒、油、香を司る者、香膏を造る者(コラ人マツタテヤ)、パンを造る者(コハテ人)、レビ人の宗家の長は謳歌師であった。エルサレムに住んだ。 以下第10章よりダビデ王の事績になる、
第10章: ペリシテ人とイスラエルとの戦いはサウル王がギルボア山で殺されイスラエルは敗れたことは、「サムエル記 前書」の第31章および「サムエル記 後書」の第1章に記されているとおりである。それはダビデ王がイスラエルの統一を成し遂げる前夜のことであった。重複するので詳細は省く。 
第11章: イスラエルの人々を率いてダビデはエルサレムに討伐に向かった、エルサレムにはエブス人が住んでいたが、ダビデはシオンの城を取った。エブス人を打ち破るのに功績のあった三大勇士には、ゼルヤの子ヨアブ、ヨシアベム、ドドの子エレアゼルである。そして第二の大勇士には、ガブジエルの子ベナヤ、ヨアブの兄弟アビシヤイ、エホヤダの子ベナヤがいた。軍兵の中の勇士にはヨアブの兄弟アサヘルを筆頭に48人の名前が記載されている。(省略) 
第12章: ダビデがサウル王から殺されないよう守った勇士の名前を記述する。彼ら戦士はベニヤミン人にしてサウルの宗族達であった。弓と投石に秀でた者であった。隊長はアヒエゼル、次にギベア人ヨアシなど22人の名前を記載している。ガド人の中からダビデに帰した勇士で楯と矛をよく使う者であった。その隊長はエゼル、次にオバデア、エリアブ等11人の名前を記載している。彼らはガド人の軍旅の長であった。またベニヤミンとユダの子孫からダビデに帰した者をダビデ軍旅の長となした。マナセ人アデナ、ヨザバテ、エデアエル、ミカエル、エリウ、ジルタイがダビデを助けた。彼らもダビデ軍旅の長となった。その当時のダビデ軍を構成した者の数は、ユダの子孫6800人、レビの子孫4600人、シメオンの子孫7100人、アロン人3700人、ザドクの宗家の長22人、ベニヤミンの子孫3000人、エフライムの子孫は2万8000人、マナセの半支派1万8000人。イッサカルの子孫200人、ゼブルン人5万人、ナフタリの者は3万7000人、アセルの者は4万人、ルベン人とガド人とマナセの半支派の者は12万人であった。これらの軍人が真心からダビデを全イスラエルの王にしようと心を合わせた。 
第13章: ダビデが全イスラエルの会衆を集め、彼らの支持を得たうえで、エホバの契約の櫃を運び込んで、イスラエルの王となる儀式は終わった。このことはサムエル書後書第6章に書かれたことと重複するので省略する。
第14章: ツロの王ヒラムが普請奉行を務めてレバノンの森の材木を切り出してダビデの家を建てた。ダビデがエルサレで作った子の名前は、サムエル書後書第5章に書いてあるので省略する。ダビデが統一イスラム国の王になったことを聞いたペリシテ人がレバイムの谷を侵した。ダビデがペリシテ人を撃ったことはサムエル書後書第8章にも書かれている。 
第15章: ダビデが神の契約の櫃を運ぶことはサムエル書後書第6章に書かれている。神の契約の櫃を担ぐ(ただし櫃に手を掛けてはいけない)ことができるのはレビ人のみである。ダビデはアロンの子孫レビ人を集めた。コハテの子孫からウリエルを長として120人、メラリの子孫の中よりアサヤを長として220人、ゲルションの子孫の中よりヨエンを長として130人、エリザパンの子孫の中よりシマヤを長として200人、ヘブロンの子孫の中よりエリエルを長として80人、ウジエルの子孫の中よりアミナダブを長として120人。計870人が担ぎ手として選ばれた。ここにダビデは祭司ザドク、アビヤタル、ウリエル、アサヤ、ヨナル、シマヤ、エリアル、アミナダブの7名の宗家の長を召して激励した。彼ら以外の者が櫃に近づくとエホバは怒り禍を及ぼす。モーセの言葉に従って紙の契約の櫃を貫通する棹によって肩に負った。ダビデはその兄弟の中より謳歌者(管弦付き合唱団)を選び、琴瑟と打楽器を持って打ちはやして歓喜の声をあげて行進するように指示した。レビ人より謳歌者にヘマン、アサフ、エタン(同時に打楽器奏者)、琴奏者にゼカリア他8人、瑟奏者にマツタヤテほか6人、担ぎ者の長にはケナニヤ、行進の前でラッパを吹く者には祭司シバニヤ、ヨシヤパテほか5人、櫃の護衛者はオベデエドム、エヒアであった。一切の指揮者はケナニヤであった。ダビデは細布の衣をまとった。 
第16章: 神の契約の櫃を担ぎ入れて、ダビデは幕屋の中に据え付け、燔祭と酬恩祭を神にささげた。その後民を祝福してパン1個・肉1切れ・葡萄1房を民に分配した。櫃の前において雅樂の長アサフ、ゼカリア、エイエルらにより楽が奏でられた。その日初めてダビデはアサフに命じてエホバを讃える言葉を奉った。「・・・アブラハムと結びし契約、イサクに与えし誓いなり、これを固くしてヤコブのために律法となしイスラエルのためにとこしえの契約となし・・・全地よエホバにむかいて謳え日毎にその救いを述べ伝えよ・・・エホバに感謝せよその恩は深くその憐れみは限りなし・・・エホバは窮みなこまでほむべきかな、すべての民はアメンと唱えてエホバを褒め称えた」 ダビデはアサフとその兄弟を契約の櫃の前に留め置き、日々の祭りの執行と櫃の守りとし、オベドエムとその兄弟68人を門の司となした。祭司ザトクおよびその兄弟である祭司はギベオンの丘でエホバの天幕の前の守りとした。燔祭の壇に上にて朝夕の燔祭を行わしめた。ヘマン、エドトンらは楽器奏者であった。 
第17章: ダビデが預言者ナタンを呼び、自分が香柏の家に住むようになったのに、幕の下にある契約の櫃をいかがしたらいいかと問うた。その夜エホバの言葉がナタンに降った。「神エホバのために我の住む家を建てることはない。イスラエルとエジプトから導き出して以来幕屋から幕屋へ移動してきた。私は汝ダビデと共に居て諸々の敵を打ち破り、汝を名だたるものにした。また民の住む場所を定め植民してきた、だからエホバの住む家は不必要だ。」 ナタンからこのエホバの言葉を聞いたダビデは「この大いなる事業を達成してきたエホバのほかに神は無し。願わくば僕ダビデの家は神エホバの前に堅く立つ、神はダビデのための家を建てた。僕の家を祝福みて、神の前に永く存在するようにありたいものです。」つまり王の家の前に神の家が存在し、いつでも神の家(本殿)を拝む王の家(拝殿)という位置づけを固定したかったようである。
第18章: この章の内容は「サムエル書 後書」第8章に相当する。ダビデはペリシテ人を撃ち降伏させてガテ邑を奪った。またモアブ人を撃ちこれを臣従させた。モアブ人は貢を入れた。またハマテのほとりでゾバの王ハダレゼルを撃ち、車千両、騎兵7000、歩兵2万を奪った。この時王ハダレゼルの援軍に来たダマスコのスリア人2万2000人を殺し、ダマスコに鎮台を置いた。スリア人はダビデに臣従した。ゾバの王ハダレゼルと敵対関係にあったハマテの王トイの子ハドラムがダビデの戦勝の祝にきてダビデニ金銀銅の器を贈った。こうしてダビデの快進撃が続き、ゼルヤの子アビシャイはエドム人1万8000人を殺し、エドムに鎮台を置いた。ダビデはイスラエルの全地を治めて、民に公平と正義の体制を敷いた。軍旅の長にゼルヤの子ヨアブ、史官にヨシヤバテ、祭司にザトク、アビメレク、書記官にはシャウシヤ、ケレテ人ペテレ人の長にはベナヤ、大臣にはダビデの子らを任命した。
第19章: 「サムエル書 後書」第10章に相当する。ほとんど内容も同じなのだが要点のみを記述する。アンモン人の子孫ハヌンが王になり、ダビデはこれを祝しようと使者を送った。しかしアンモン人の伯らは王ハヌンに、ダビデはアンモン人の邑を掠めるために探りを入れに来たに違いないといい、使者を辱めて返した。アンモン人は援軍としてベテホブのスリア人、ゾバのスリア人2万人とマアカ王より1千人、トブの人1万2000人を雇った。ダビデはヨアブをスリア人に対し、その兄弟アビシャイをアンモン人の子孫に対して備えた。ショバクを軍長とするアンモン人の子孫はヘラムに集結し、ダビデの軍を見て逃げ出し、それを見たスリア人軍も逃げ出した。ダビデは全イスラエル軍をヘラムに集結してスリア軍の人騎兵4万人、車の人700人を殺した。そしてショバクも撃った。これによってスリア人はアンモン人の子孫を助けることはしなくなった。
第20章: 「サムエル書 後書」第12章に相当する。本章はダビデの野蛮さ・貪欲さ(悪行)を記述しエホバが顔をしかめる伏線としている。前の第19章でアンモン人を打ち破り、その上ダビデ軍旅の長ヨアブは徹底した焦土作戦を行った。ラバを攻略しこれを滅ぼした。邑の中から財宝を奪ってダビデの冠にした。又村の民を鋸と斧で切り殺すなど残虐な行為があった、この後ペリシテ人と戦争になり、イベカイ巨人族の子孫であるシバイを殺した。ヤイルの子エルナンはガテのゴリアテの兄弟ラミを殺した。さらにダビデの兄弟シメアの子ヨタナンは巨人族を滅ぼした。
第21章: この章は「サムエル書 後書」第24章に相当しエホバはイスラエルに禍をもたらした。エホバ、イスラエルに向かって怒りをなし、ダビデに対しイスラエルとユダの民を数えよと命じた。ダビデはヨアブおよび軍長を集めて命を伝えた。ヨアブ等はその意味が分からなかったが、ダビデの意思が強かったのでイスラエルの民を調べた。9か月かかって調べた結果はイスラエルの軍士は110万人(サムエル書後書では80万人)、ユダの軍士は47万人(サムエル書後書では50万人)であると王に報告した。(ただしレビ人とベニヤミンは含まれない) このことの愚かさを悟ったダビデはエホバに真意を問うた。エホバの言葉は預言者ガデに臨み、三択より一つ選べという。@3年の飢饉がいたらん、A敵に追われて3か月前に逃げるか、B3日の疫病あらんかという問題であった。悩んだ末ダビデは人の手に陥いるよりは、エホバの手に陥いる方を選ぶといい。Bを選んだ。疫病で死ぬ人7万人、天使はイスラエルを滅ぼすつもりであったが、エホバはこれを押しとめた。ダビデは民を殺すよりは禍は我が家と父の家に向かえと懇願した。預言者ガデはダビデにエブス人アラウナの穀物場に祭壇を設けよといった。アラウナはダビデの申し出に驚いたが、これに応じて壇を設ける土地、材料の提供を申し出た。ダビデは金を払って穀物場と牛を買い取り、ここにエホバへの壇を築き、燔祭と酬恩祭を行った。エホバはダビデの祈祷を聞き給い、災は止んだ。(しかし前半の兵士の数を数えることと後半のイスラエルの疫病の禍のつながりが理解できない)
第22章: ダビデは晩年神の家を建てる準備に取り掛かった。異邦人を雇い、香柏、石工、鉄の建築材料また銅を夥しく蓄積した。特にシドン人およびツロの者夥しい香柏を運び込んだ。ダビデはその子ソロモンを呼んでイスラエルのために神エホバの家を造ることを命令した。ただダビデ自身は征服戦争に明け暮れ多くの血を流したので家をたえることをエホバは喜ばない。エホバはソロモン(平安)の時代にイスラエルに平和をもたらすであろう。エホバは汝に知恵と悟りを賜い、汝をイスラエルの上に立てるだろう。エホバの家のために金10万タラント、銀100万タラントを備蓄し、銅と鉄も準備した。ダビデはイスラエルの一切の部族の長老(牧伯)らにソロモンを助けるよう次のように命じた。エホバ神の聖所を建てエホバの契約の書の櫃と神の聖器を携えて入るべしと。
第23章: ダビデ老いてその子ソロモンをイスラエルの王とした。そしてイスラエルの全支派の牧伯(長老)とレビ人と祭司を集めた。レビ人の30歳以上なる者の数は3万8000人、うちエホバの家のことに仕える者2万4000人、事務及び裁判人は6000人、門を守るもの4000人、楽器を奏する者4000人である。ダビデはレビの子孫を3つの班に分けた。ゲルション、コハテ、メラリである。その子孫の系図は以下の通り。
ゲルションの子孫: ラダン、シメイ。ラダンの子らはエヒメル、ゼダム、ヨエル。シメイの子らはシロミテ、ハジェル、ハラン。エリエゼルの子らはレハビア。
コハテの子孫: アムラム、イズハル、ヘブロン、ウジェル。アムラムの子らはアロンとモーセ。ヘブロンの子らはエリヤ、アマリヤ、ヤハジェル、エカミアム。ウジェルの子はミカ、エシア。 
メラリの子孫: マヘリ、ムシ。マヘリの子らはレアザル、キシ。ムシの子らはマヘリ、エデル、エレモテ。 レビの彼らの職はアロンの子孫に属して神の家の役事をなし、諸々の室の用をなし、聖物を浄めることなどすべて神の家の役事である。又供えるパン、菓子を作るものを掌る。毎朝夕の祈りを掌り、安息日と朔日と節会において燔祭を捧げ、幕屋の職守と聖所の職守である。 
第24章: アロンの子孫の班組は以下の通り。アロンの子らはナダブ、アビウ、エレアザル、イタマルである。ナダブ、アビウは神の怒りに触れて死んだので、エレアザル、イタマルが祭司となった。ダビデはエレアザルの子孫ザドク、イタマルの子孫アヒメレクを分かちて職と務めに任じた。エレアザルの子孫である宗家の長は16、イタマルの子孫である宗家の長は8あった。彼らは籤によって聖所の管理、神の管理に平等に配された。レビ人ネタネルの子シマヤという書記がダビデ、牧伯ら、祭司ザトク、アヒメレクの承認のもとで班の順序を書き記した。第1から第24の職務の順序と担当者の名前が記載されるが、これは煩雑なので割愛する。その他のレビの子孫は次のようである。アムラムの子ら:シュバエル→エデヤ。レハビヤの子ら:イッシャ。シュロミテの子ら:ヤハテ。ヘブロンの子ら:エリア、アマリア、ヤハジェル、エカメアム。ウジェルの子ら:ミカ→シャミル。イッシャの子ら:ゼカリア。メラリの子ら:マヘリ、ムシ。ヤジヤの子ら:ベノ、ショハム、ザックル、イブリ。ムシの子ら:マヘリ、エデル、エリモテ。 
第25章: アサフ、ヘマン、エドソンの子らを選んで、琴と瑟、鏡鉢を取って預言する(エホバの言葉を謳う)職である伶人(音楽を奏する人)とした。アサフの子ら:ザックル、ヨセフら。エドソンの子ら:ゲダリア、ゼリら。ヘマンの子ら:ブツキヤ、マツタニヤら。ヘマンの子らはエホバの家に就き、アサフ、エドソンの子らははダビデの家に就いた。その数288人。担当の順番は籤によって決め、24の班で構成する。
第26章: 門を守る者の班組を記載する。コラ人アサフの子コレの子ら:メシレミヤ、メシレミヤの子ら:ゼカリア、ゼパデア、ヤテニエル、エラム、ヨナハン、エリヨナイ。オベデエドムの子ら:シマヤ、ヨザバテ、ヨア、サカル、ネタネル、アシミエル、イッサカル、ピウレタイ。シマヤの子ら:オテニ、レパエル、オベデ、エリザバテ。彼らは皆力あるものであった。メシレミヤの子ら兄弟18人。メラリの子孫ホサの子ら:シムリ、ヒルキヤ、テバリヤ、セカリヤ、ホサの兄弟13人。籤によって、東の門を守るのはシレミヤ、北の門を守るのはゼカリヤ、南の門はオベデエドム、西の門を守るのはシュパムおよびホサになった。東の大路の警備はレビ人6人、北の大路の警備は4人、南の大路にも4人、西の大路にも4人であった。彼らはコラの子孫とメラリの子孫である。神の庫および聖物の庫を掌るレビ人は、ラダンの子孫エヒエリ、エヒエリの子孫と兄弟である。モーセの子ゲルショイの子であるシブエルが庫の宰である。聖物の庫を掌るのはシロミテとその兄弟である。外事および裁き人の宰はイズハリ人ケナニヤとその子等である。ヘブロン人ハシヤビアとその兄弟1700人がヨルダンの西のイスラエル人の監督者(行政の長)となった。ヘブロン人エリアはダビデの治世40年間軍人(大勇士)の家であり、その勇士2700人であった。
第27章: 宗家の長、千人の長、百人の長および有司らは毎月交代で班を組んでダビデ王に仕えた。その担当と数を記載する。(今でいう公務員の数であろう。紀元前11世紀末のころのデーターで本当かどうは別問題ですが、8世紀の日本の奈良時代の朝廷の仕丁員数でさえよくわからないのに、よく記録している。日本ならさしずめ延喜式に書いてあるのだろうか)班の員数は基本的にどの班でも2万4000人である。以下にその班を卒する宰の名を記載する。1月:ザブデエルの子ヨシヤベアム  正月の軍団の長にしてベレズの子孫 2月:アホア人ドダイ その班の引率する宰はミクロテ 2万4000人 3月:祭司エホダヤの子ベナヤ このベナヤは30人中の勇士 その子アミザバデはその班にいた 4月:ヨアブの弟アサヘル その子ゼバデヤは次長である 2万4000人 5月:イズラヒ人シヤンモテ 2万4000人 6月:テコア人イツケシの子イラ 2万4000人 7月:エフライムの子孫ペロニ人ヘレズ 8月:ゼラの子孫ホシヤ人シカベイ 9月:ベニヤミンの子孫アナトテ人アビエゼル  10月:ゼラの子孫ネトパ人マハライ  11月:エフライムの子孫ピラトン人ペナヤ  12月:オテニエルの子孫ネトパ人ヘルダイ イスラエルの支派を治める者は以下である。ルベン人の牧伯はチクリの子エリエゼル、シメオンの牧伯はマカサの子シバテヤ、レビ人の牧伯はケムエルの子ハシヤビヤ、アロン人の牧伯はザドク、ユダの牧伯はダビデの兄弟エリウ、イッサカルの牧伯はミカエルの子オムリ、ゼブルンの牧伯はオバデヤの子イシマヤ、ナフタリの牧伯はアズリエルの子エレモテ、ギレアデのマナセの半支派の牧伯はゼカリヤの子イド、マナセの半支派の牧伯はベダヤの子ヨエル、ベニヤミンの牧伯はアブネルの子ヤシエル、ダンの牧伯はエロハムの子アザリエルデアル。アズマウテは王の府庫を掌り、ヨナタンは地方に置いた府庫を掌り、エズリは地を耕す農業を掌り、シメイは葡萄園を掌り、ザブデは葡萄酒の蔵を掌り、ヨアシは油の蔵を掌り、シテライはシャロンの牛の群れを掌り、シャパテは谷の牛の群れを掌り、オビルはラクダを掌り、エデヤはラバを掌り、ヤジスは羊の群れを掌った。これらは皆ダビデの家の所有に関する仕事である。ダビデの伯父ヨタナン、アヒベルトは議官、ハクモニは王の子どもの教育にあたった。ホシヤイは王の補佐官、軍旅の長はヨアブであった。 
第28章: ダビデはイスラエルの民をことごとく集め次のように宣言した。エホバの家を造る準備は終了したが、エホバはダビデにエホバの家の建造を許さなかった。ダビデは軍人で戦争で多くの血を流したからであるという。神はダビデをユダの首からイスラエルの王にした。エホバはダビデの後継者をソロモンと定め給う。エホバの戒めと律法を固く守り行えばイスラエルの将来はいやさかに栄えるだろう。ソロモンが聖所とすべき家を建てるべきであると言った。こうしてダビデは神殿の式様(模型)をソロモンに授け、また事細かに神器の金銀銅の重量まで指示した。ダビデ、ソロモンに命じて一切のことを固く行えと宣言した。
第29章: ダビデ王は全会衆に向かってさらに演説をつづけた。ダビデはエホバの神殿づくりの材料で必要なものは集め置いたが、ソロモンはまだ若くこの大工事は大変荷が重い。自分の所有物である金銀をエホバにの家に捧げるつもりであると。そこで宗家の長、牧伯たち、王の工事を掌る人々はこぞって捧げものをした。献上物は金5000タラント(150トン)、銀1万タラント(300トン)、銅1万8000タラント(540トン)、鉄10万タラント(3000トン)などである。(1タラント=30Kg イスラエル時代) ダビデ王は全会衆の前でエホバを讃え、ソロモンを王に指名しエホバの前で膏を灌いで主君となし、またザトクを祭司とした。ダビデは全イスラエルを治めた期間は40年であった。ダビデ王の事績はサムエル書、預言者ナタンの書、ガドの書にも記されている。(ただしナタンの書、ガドの書は存在しない)

2-9) 歴代志略 下

列王記略下は全36章(岩波文庫で75頁)である。「歴代志略 下」にはソロモン王の事績から南のユダ王国の歴史、バビロンの幽囚までを描く。北のイスラエル王国と南のユダ王国の分裂時代では、エルサレム宮殿のあるユダ王国の歴史に詳しく、イスラエル民族の浮沈はすべてエホバへの信仰かバール神など異教への信仰かによって左右されるという歴史観でまとめられている。最後はアッスリアのネプカデネザル王によるエルサレムの陥落(紀元前586年)とバビロンの捕囚となり、最終的にはペルシャ王クロスによる解放(紀元前538年)で終わる。(「志」について記す。「志」とは通用「誌」のこと、歴史書のことになる。記紀体の歴史書中、「本紀」・「列伝」とは別に、地理、天文、経済、礼楽の事項を記す。古事記が本紀・列伝とすれば、風土記は志である。従って、旧約聖書の歴史書で列王記が列伝だとすれば、「歴代志」は本来の志ではなく、列伝の補完的な存在である))
第1章: ソロモン王、イスラエルの全会衆をギベオンの丘に(モーセが作った神の幕屋のあるところ)に集めて丘の上の銅製の壇の前で燔祭を執り行った。しかし神の契約の櫃はダビデがすでにキリアテヤムからエルサレムの幕屋に移設してあった。その夜エホバがソロモンに顕われ汝に何を与えるべきか申せといった。ソロモンは今我に知恵と知識を与え給え、これだけ多くの民の裁きを行う智慧が必要だからといった。富と財宝、尊い地位よりも知恵と知識を求めるのは殊勝なことだ、すでに汝には授けたとエホバの言葉があった。ソロモン戦車1400輌騎兵12000人を持って要所に配置してある。戦車・馬はエジプトから金を持って贖ったものである。 
第2章: ソロモンはエホバのための家(神殿)と己の国のための家(宮殿)の建築計画を告げた。賦役の15万人(運搬7万人+石・木の切り出し8万人+監督者3600人)にイスラエルに住む異邦人15万人を動員することとした。そしてダビデの香柏の家の建設のときと同じようにツロの王ヒラムを召して協力を依頼し、同時に建設技術者一人の派遣を依頼した。ツロの王ヒラムはエホバとソロモンを讃えて要請に応えることになった。またツロの王ヒラムには木の切り出しの作業者の食料をソロモンが負担すること、ヨッパ港で材木の荷を下ろしてからの運搬はソロモンが負担することなどを決めた。「列王記略 上」の第5章にこの記事が記載されている。 
第3章: ソロモン、エルサレムのモリア山にエホバの家を造ることを始めた。ダビデがエブス人オルナンの脱穀場にエホバの幕を張ったところである。建築物の寸法、構造、材料などについては「列王記略 上」第6章に記載されている。イスラエルの子孫がエジプトを出て480年後ソロモン王第4年2月に、ソロモンはエホバの家(神殿)を建てることを始めた。神の家(拝殿と神殿)の大きさは長さ28m、幅10.5m、高さ13mである。(Tキュビト=0.44m ローマ時代として計算)また家の周囲には連結屋を建て、らせん階段で結ばれ下層の連結屋は幅2.2m、中層の幅は2.6m、第三層の幅は3.1mである。家の外に階段をつけ周囲にめぐらす。基礎は、石切り場で整えた石を積み上げる。その壁を香柏の垂木と板を持って家を作った。家の壁の内側を香柏で張り、床は松の木を張った。基礎構造物の石は見えないようにしてある。家の奥は8.8mの室を壁から床まで香柏でつくり至聖所すなわち神殿を造った。拝殿は17.6mである。
第4章: この章には「列王記略 上」第6章に記載されていない事項がある。銅製の壇(8.8m×8.8m×4.4m)と壇の周りに縁まで4.4mの円形プール(海)を造る。そのプールは12頭の牛が支える形である。洗盥10個を造り右に5個、左に5個をおき祭司が身を洗うところである。また金の灯台10個、机10個を拝殿の中に置く。金の鉢、庭の戸は銅製である。鍋、肉刺し、これらの器具はすべて銅製である。神の家に入れる器皿、机、燈火台・皿、ハサミ、鉢、匙、火皿、はすべて純金である。戸及び拝殿の取っ手も金である。
第5章: エホバの神殿が完成し、ソロモンは父ダビデが奉納した金銀と器皿を携えて、神の府庫の中に置いた。エホバの契約の櫃をダビデの邑シオンから担ぎ上るためイスラエルの長老たちが集まる中、祭司レビ人が運び入れた。「列王記略 上」第6章にも記載されているが、家の奥は8.8mの室を壁から床まで香柏でつくり至聖所すなわち神殿を造った。神殿にはエホバの契約の櫃を置く。神殿の内の家の内は純金で覆い神殿の前は金の鎖で隔てを作った。神殿の内に橄欖の木で二つのケルビンを造った。その高さ4.4m、ケルプの翼は2.2mである。家の壁は内外ともケルビムと棕櫚と花の形を彫刻し、家の床は金を張った。家の入り口は棕櫚の木で二つの戸を造り、ケルビムと棕櫚と花の形を彫刻し金で覆った。拝殿の二つの戸は松の木で造り、畳む構造である。戸にはケルビムと棕櫚と花の形を彫刻し金を覆った。切石三層と香柏の厚板一層をもって内庭を造った。ソロモン年代4年にエホバの家の基礎を築き、同11年に家が完成した。ソロモンは総工期7年を費やしたことになる。祭司らは身を清め、レビ人の謳歌者と祭司120人がラッパを吹いた。 
第6章: こうしてエホバの家は完成した。ソロモンは銅の台の上に跪いてイスラエルの全会衆に向かってエホバを褒め称え祈った。神殿完成式におけるソロモンの演説はいかに述べられた。エホバの戒めを固く守り律に従って進むならば、イスラエルの位(王座)に立つ人は絶えることなく、王国の安泰はエホバの言葉通りに約束される。(これは王政は王権神授説によって保証されるということである) 神エホバは神殿に向かってなす僕の祈祷と懇願を顧みて聞き給える。罪を冒した時、雨乞胃のとき、戦争で負けた時、飢饉、疫病、害虫災害の際にも、民の禍と憂いを知りてこの家に手を伸ばすなら、神の住みかなる天より聞き給え、許し給え。囚われの地でエホバに回心し祈るならば、神よダビデの徳行を思い出してその目を開き耳を傾け給えと。  
第7章: ソロモンの祈りの言葉が終った時、天より火が降り燔祭と生贄を焼き。、エホバの栄光がその家に充ちた。王と民は皆エホバの前に犠牲を献げた。ソロモン王の献じた犠牲は牛2万頭、羊12万頭である。ソロモン王はその庭において燔祭と謝恩祭を執り行い、7日間節莚をなした。8日目に聖会を行い7月23日に散会した。ソロモンは神の家と王の家を20年間かけて建設した。「歴代志略 下」には王の家の建築については述べられていないが、「列王記略 上」第8章には詳細に述べている。全ての建設が終わった夜、エホバはソロモンに顕われて次のように告げた。エホバの家における祈祷に目を啓き耳を傾けよう。しかし汝らが法と戒めを棄て他の神々に仕え拝むならば、禍を下しそのものを殺しこの家は棄てると。
第8章: ソロモンまたハマテゾバに勝ち、曠野にハマテの府庫邑を建て、タデモルを建てた。ソロモンはべテホロンに堅固な邑を造った(城塞の邑)。バアラテと府庫の邑、騎兵の邑を領土内の各所に建てた。異邦人ヘテ人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の遺民は隷属民として使役した。イスラエル人は工事には使役せず、軍人、戦車、騎兵となった。ソロモン王の宮廷人は250人いて民を統べた。ソロモンはエジプト王の娘らを別に建てた家(後宮)に入れた。毎日祭司の前にて奉事をおこなった。ソロモンはエドムの海辺のエジオンゲベル、エテロを征服した。そのとき王ヒラムの船団と水師の協力を得た。 
第9章: シバの女王ソロモンの智慧の風聞を聞き、難問を持ってソロモンを試そうとして、香物、金、宝石のみやげを持ってエルサレムにやってきた。シバという国はアラビアの南にあり紀元前10世紀ごろ栄え、女王とソロモンの間に子があったという説もある。シバの女王の質問にソロモンが知らないことは無かったという。宮廷の建前、食べ物と器の豪華さ衣服等に女王はいたく心を奪われ、末永い友好を誓うため金3.6トンと莫大な財宝をソロモンに贈った。ソロモンからシバの女王への贈り物もまた莫大であった。(贈り物外交、物々交易)シバの女王の挿話は「列王記略 上の第10章にも記述されている。1年に外国からソロモンにもたらされる金は20トン、アラビアのすべての国から王や使節が金銀など礼物をソロモンにもたらした。ソロモン王が用いた飲料の器はすべて金であった。ヒラム王は3年に1回タルシンに行き金銀象牙、猿、孔雀をもたらした。ソロモンはヨルダン川からペリシテの地とエジプトの境迄を統治した。 こうしてこれらの地の王からの礼物(貢物外交)の品々は毎年一定の量が納められた。この章はソロモン王の全盛時代の華やかさが記述されている。ソロモンはエルサレムで40年間イスラエルの全地を治めた。ソロモンが亡くなると、その子レハベアムが代わって王となった。
第10章: ソロモン王に代わったレハベアム王の最初の躓きは「列王記略 上」の第12章に全く同じことが記述されている。この章よりソロモン亡き後の後半の混乱期に入る。ソロモンの子レハベアムは王位に就くためにシケムに行きイスラエルの民に会した。ネバテの子ヤラベアムは当時まだエジプトに居住していたが、招かれてこの集会に参加した。イスラエルの会衆はソロモンの子レハベアムに向かって、汝の父ソロモンは民に思い課税をかけたが、これを軽くするならば汝を支持すると要求した。そこでレハベアムは3日間の猶予を得て再会を約束した。そしてレハベアムはまず長老たちに意見を聞いたが長老たちは負担を軽くして納まるならそうせよといった。次にレハベアムは自分と同世代の若者に意見を聞いたが民の負担を重くし文句のある者は殺すべきという意見であった。3日後集まったイスラエルの会衆に向かってレハベアムは若者の意見を採用し厳しい態度で臨んだ。これはエホバの仕組んだ分裂のスト―リーに沿った展開であった。民はレハベアムに憤慨し、会衆は分裂して散会した。レハベアムを支持したのはユダとベニヤミンだけであった。 
第11章: それ以外の支派はヤラベアムの帰りを待って集会をなし彼をイスラエルの王とした。ここにイスラエル王国は、レハベアムのユダ王国とヤラベアムのイスラエルの王国の二つに分裂した。ソロモンの子レハベアムは18万の兵を集めヤラベアムを攻撃しようとしたが、預言者シマヤの言葉に従って戦いは中止となった。ユダ王のレハベアムはユダの守りを固めるため。各地に守備の邑(砦)を構築した。ユダとベニヤミンはこれに追従し、軍と食料、油、酒の備蓄、楯と矛を備えた。イスラエル王ヤラベアムはイスラエルをダビデの国に戻さないために宗教上の錯乱戦術の謀をなし、2つの金の仔牛を造り一つをべテルに据え、一つをダンに置いた。(偶像禁止) ヤラベエムは高き丘に祭壇を設け自ら選んだ祭司を立てた。祭司はレビ族以外の者を採用し、8月に節莚を定めた。(祭司はレビ族に限る。エホバの節莚は7月15日よりが正式) 職を奪われたイスラエルの全地の祭司とレビ人はユダとエルサレムに逃亡した。エホバを心から信奉する者もエルサレムに移住した。ユダ王のレハベアムは兄弟エレモテの娘マテハラを妻とし、エウシ、シヤマリヤ、ザハムの3人の子をもうけた。マアカトとの間にアビヤ、アツタイ、ジザ、シロミテを生み、妻18人の間に男子28人、女子60人をもうけた。レハベアムはアビヤを王としたいため兄弟の首とした。その他の子どもらをユダの守衛の邑に散らし置いた。  
第12章: ユダの王レハベアムは国を守りを堅くするにつれ、エホバの律法を棄てる傾向が強くなった。これはエホバの嫌うことであるため即位5年よりエジプトの王シシヤクがエルサレムに攻め上がった。国王およびユダの長老らが会するところに預言者シマヤガ呼ばれ、シマヤはエホバの言葉「汝らは我を棄てから、我も汝らを棄てるのだ」を告げた。会衆はこれを聴いて身を低くしてエホバに救いを求めた。エホバはそれを赦してユダを滅ぼさないといった。エジプト王はエルサレムから金銀財宝を奪って帰った。レハベアムが即位したのは10歳で17年間の間エルサレムを治めた。ユダ王レハベアムとイスラエル王ヤラベエムの間には絶えず戦争があった。レハベアム王が亡くなった後はその子アビヤが代わって王となった。
第13章: アビヤは3年間ユダを治めた。アビヤとレハベアムの間に戦争が起きた。ユダ王アビヤは40万の軍勢を持って戦いに挑み、イスラエル王レバベアムは80万の軍勢でこれを挟撃する配置を取った。ここでエホバの律を守るユダにエホバはイスラエルの命運を棄てた。イスラエルは敗れ死者50万人を置いて逃走した。ユダはイスラエルよりベテル、エシヤナ、エフロンの邑を奪った。以降ヤラベアムは再び勢いを恢復することはできず亡くなった。しかしユダ王アビヤは権勢を得て、妻14人の間に男子22人、女子16人を得た。 
第14章: ユダ王アビヤが亡くなってその子アサが代わって王となった。アサの世になって10年間は平穏であった。アサはエホバの目から見て正義しい王であった。高い丘の祭壇を取り壊し、アシラ像を倒した。エホバの戒めと律を守った。守衛の邑(砦)を数か所設けた。アサの軍勢はユダから30万人、ベニヤミンより28万人の勇士が揃った。ここにエテオピア人ゼラが軍勢100万人、戦車300輌を率いてマレシアのゼパタに攻め込んだ。アサ王はエホバに戦勝祈願をかけ、エホバの助けによってこれを打ち破った。ゲラルまで追撃し多くの物資を略奪してエルサレムに帰った。 
第15章: エホバの神が預言者オデデの子アザリヤに臨んだ。イスラエルにはまことの神は無く、祭司もいないし、律が棄てられ久しくなった。しかし私を求めるなら会ってもいい。力を与えるだろうと。アサ王はユダ、ベニヤミンの人々、およびエフライム、マナセ、シメオンより遁れてユダに移住した人々を集めて、エホバに生贄牛700頭、羊7000頭を捧げ皆契約を結んでエホバを讃えた。アサは一生エホバに仕えた。アサの治世35年まで戦争は起こらなかった。 
第16章: ユダのアサ王の36年目にイスラエルの王バアシヤがユダに攻め込んでラマを建設し、金銀財宝を奪いダマスコのスリア王ベネハダデに贈り物をして、ユダとの同盟関係の破棄を迫った。スリア王ベネハダデはアサ王に操を立ててイスラエルに攻め込み、ラマ(砦)を攻撃した。イスラエルのラマの建設は中止され、アサ王はこの材料を用いてゲバとミズパを建設した。預言者ハナニがアサ王に告げた。アサ王はエホバに頼まないでスリアに頼んだ結果、スリアの軍は強くなりユダから自立した。汝は愚かなることをしたと言ったので、アサ王は怒って預言者を獄に入れた。エホバはこれを激しく怒ったので、後にユダに不幸と禍が起こることになった。アサ王は治世41年目に足を病んで亡くなった。 
第17章: アサの子ヨシヤパテ王はイスラエル王国に対して優位に立ち、堅固な村に兵を置き、エフライムに鎮台を置いた。エホバはヨシヤパテ王とともにいてユダの国を守り給う。王は異教とその像アシラ像を棄てた。王はまた牧伯、レビ人、祭司エリマヤ、ヨラムを国中に派遣し教えを民に広めた。従って異国は強力となったユダ王国を攻めることしなかった。ペリシテ人、アラビア人らは貢物をヨシヤパテ王に贈った。ユダの軍勢は軍長アデナが30万人を率い、軍長ヨハナンが28万人を率い、アマシヤが20万人、ヨザバデが18万人を率いた。 
第18章: この章の内容は複雑で理解しにくいが、劇的な内容を含む、特に預言者ミカヤの言説が複雑で嘘をいう霊が載り移るという設定である。ユダ王ヨシヤパテの絶頂期イスラエル王アハブと友好を結び、あるときイスラエル王アハブを訪問した。そこでアハブがヨシヤパテに、ギレアデのラモテのスリア人を共同して攻めるという提案をした。ヨシヤパテは賛成したが、エホバの言葉を聞くことを提案し、イスラエル王はイスラエルの預言者400人を集め攻めるべきや否やを問うたところ、全員攻めるべしと述べた。預言者ゼデキアはスリア人を滅ぼし尽すべきという。そこでユダ王ヨシヤパテは別の預言者の言葉も聞きたいといえば、イスラエル王はイムラの子ミカヤがいるがいつもよくない事ばかり言うので困っているという。ミカヤを呼んで問うたところ、イスラエル王アハブはギレアデに攻め上り、そこで死ぬだろうと言った。しかしこれは虚言の霊が私の口に言わしめていることだという。このあたりの難問の理解が難しいのであるが、論理学で真の反対は嘘、しかし言っているのは嘘つきという設定である。預言者ゼデキアはミカヤを殴って罵倒し、イスラエル王はミカヤを牢獄に入れた。こうしてイスラエルとユダの王たちはギレアデのラモテを攻めることになり、イスラエル王はミカヤの預言の万が一のことを考え、ユダ王に朝衣に着替えるよう(王と分かるように)にし、自分は武装して戦いに出向いた。スリア人の王はイスラエル王だけを狙えと戦車の長に伝えてあったので、朝衣を着たユダ王を狙って攻撃したが、エホバの神はユダ王を守りスリア軍は退却した。しかし流れ矢がたまたまイスラエル王の胸に当たり、その日の夕方にアハブは死んだ。
第19章: ユダの王ヨシヤパテはエルサレムに帰還した。預言者ハナニの子エヒウは王に意見してこう言った。王は悪い人を助けていいのです、エホバはお怒りですと。そこでヨシヤパテはまたベエルシバよりエフライムまで民をエホバに導く活動を行い、ユダの中の邑に裁判人を立てた。人を裁くのではなく、エホバのために裁判する気持ちを忘れないと説いた。ヨシヤパテはレビ人祭司およびイスラエルの族長をエルサレムにおいて裁判のやり方を学ばせた。
第20章: ユダの王ヨシヤパテの時代、モアブ、アンモン、マオニ人がユダに攻め来たった。エホバの家の庭において王ヨシヤパテはユダの会衆とともにエホバに祈った。エホバは異邦人の国も統べ給う万能の神を褒め称えた。レビ人ヤハジエルにエホバの霊が臨み、懼れるなかれこれは汝らの戦いではなくエホバの戦いである。立って攻め上がれ汝らは必ず勝つと。王ヨシヤパテとユダの民が讃美歌を謳って行進すると、アンモンとモアブの兵は崩れ全滅した。おびただしい財宝を剥ぎ取った場所をバラカ(感謝)という。ユダの王ヨシヤパテは25年間エルサレムを治めた。父アサとともにヨシヤパテはエホバの道を歩いた。後にヨシヤパテ王はイスラエルの王アハジアと友好的関係となったが、このアハジアはエホバの前では悪人であり、預言者エリエゼルは、アハジアと友達になってはいけない、造ったものが壊れるといった。王アハジアと共に造った船が壊れた事故のことを指していた。
第21章: ユダの王ヨシヤパテが亡くなった後、長子ヨラムが代わって王になった。他に6人の兄弟がいたが、ヨラムは権力を握ると兄弟をみな殺した。同時に牧伯数人も殺した。ヨラムは32歳の時王となりエルサレムで8年間治めた。彼はイスラエルのアハブの家のようにエホバから離れていった。これは彼がアハブの娘を妻としたからである。ヨラムの時代にエドム人、リブナ人がユダ王国に叛いた。そこに預言者エリアからヨラム王に書が届けられ、王は父ヨシヤパテの道に進まずイスラエルの王らの道を進み、ユダの民とイスラエルとの姦淫を行わせ兄弟を殺したので、大いなる禍をヨラムの家にもたらし、王は臓腑の病で死ぬという。ペリシテ人とアラビア人がユダに攻め入り王の家の財宝と妻子を奪った。残った子はアハジアのみとなった。そして王ヨラムは臓器の病で亡くなった。 
第22章: ヨラムの末子アハジアが代わって王となった。アハジアは42歳の時王となりエルサレムで1年の間世を治めた。妻はオムリの娘で、またアハブの家のようにエホバの道を歩まなかった。こうしてユダの王家もイスラエルの王家と同じように滅亡に向かって進んだ。アハジア王はイスラエルのアハブの子ヨラム(ユダの王ヨラムとは別人)と一緒にスリアの王ハザエルと戦った時にアハブの子ヨラムは傷を負った。ユダのアハジア王はイスラエルのヨラムをエズレルに見舞ったとき、エホバがイスラエルに遣った刺客エヒフに殺された。こうしてユダの家は国を統べる力を失った。アハジアの母アタリアはユダの家の王子をことごとく殺して自分がユダの王となり6年間王位にあった。イスラエル史上初の女王であった。ただ一人のアハジアの王子ヨアシは殺害を免れて生き残った。
第23章: ユダの祭司エホヤダによる、エホバの家を守り異教バアルを信奉するアタリア王へのクーデター計画が練られた。祭司エホダはイシマエルなど百人の長を集めて計画を明かして契約し、ユダの国中のレビ人およびイスラエルの族長を集めて契約を結んだ。祭司レビ人の安息日にエホバの家に集まり、1/3は門を守り、1/3は王の家におり、1/3は基礎の門を守る。民は皆エホバの庭に集結する。祭司エホヤダはダビデ王の槍と楯を百人の長に渡し、民も武装して王の周囲に立つ。こうして王の子ヨアシを出し冠を戴かせ王となし、祭司エホヤダが膏を灌いで王長寿かれと賛美してラッパを吹いた。このときアタリア女王エホバの家で声を聞き「謀反だ」と叫んだが、彼女を殺した。かくしてクーデターは成功し、エホダヤは自分と民と王の間にみなエホバの民となる契約を結んだ。民はバアルの家を破壊した。
第24章: ユダの王ヨアシは7歳で王となり40年間エルサレムを治めた。ヨアシは祭司エホヤダの薫陶を得てエホバの正しい道を歩んだ。この後ヨアシ王は、前のアタリア王が毀したエホバの家を修復する寄付金を募ったが、祭司らの募金活動ははかばかしくはなかった。そこで祭司エホヤダはエホバの室の門の前に一つの箱(賽銭箱)を置いて募金を集め、集まった分を工事監督に渡し修復工事は進んだ。修復がなってエホバの室は堅固になり、祭司エホヤダが生きているうちは燔歳を捧げることは絶えなかった。祭司エホヤダは130歳で亡くなった。そうするとヨアシ王はユダの牧伯らの意見を聞くようになり、エホバを棄て再びバアルの道に仕えるようになった。ここに祭司エホヤダの子ゼカリアにエホバの言葉が臨んだ。汝らエホバを棄てるならば、エホバは汝らを棄てるという。王の命により石を持って預言者ゼカリアを撃ち殺した。その年スリアの軍勢がエルサレムを襲い牧伯を悉く殺し財宝を奪った。この戦いで王ヨアシは負傷し床に横たわった。ザバテ、ヨザバテといったエホヤダの子や残党が党を結んで決起し王ヨアシを刺し殺した。ヨアシの子アマジヤが代わって王になった。 
第25章: アマジヤ王は25歳で即位しエルサレムで29年間世を治めた。アマジヤ王は自分の地位が確固たるものになってから父を殺した反乱分子の臣僕を粛正した。アマジヤはエホバの善しと見ることを行ったが、完全ではなかった。ユダとベニヤミンの20歳以上の屈強の戦士30万人を有し、かつイスラエルより10万人の兵士を雇った。預言者が現れて王にいう「イスラエル人と一緒に戦うな、エホバはイスラエル人(エフライムの子孫)には居ないからだ。イスラエルと手を切りなさい」 イスラエル人兵士を切り離したアマジヤ王の軍はセイル人と戦い1万人を殺し、1万人を生け捕りにし谷に落として殺した。その間イスラエル人の雇い兵部隊がユダの邑を襲い3000人のユダ人を殺した。アマジヤ王はセイル人の神々を持ち帰りこれを己の神として礼拝した。怒りを発したエホバの神は預言者を王のもとに派遣し言葉を伝えたが、王は預言者を殺すと脅かしたので預言者は神は汝を滅ぼすだろうと言った。ユダの王アマジヤはイスラエルのヨアシ王に使節を送って会談を申し出た。ヨアシ王はアマジヤがエドム人を撃ったことに不服であったので、ユダのペテシメンにおいて戦いとなりユダ王アマジヤを打ち破り捕獲した。そしてエルサレムの石垣を一部破壊して財宝を奪ってサマリアに帰った。ユダ王アマジヤはイスラエル王ヨアシより15年も長生きをした。ユダ王アマジヤはエホバに従わず、反対党がクーデターを起こしたのでラキンに逃げたがそこで殺された。
第26章: ユダ王は父アマジヤに代わってその子ウジヤが王位に就いた。時に16歳52年間世を治めた。ウジヤはエホバの善しと見給うことを行ったのでその時代は平穏であった。彼はペリシテ人と戦いガテの石垣を崩しアシドドに邑を築いた。ついでアラビア人、メニウ人を攻撃し、アンモン人は貢物をユダに納めた。ウジヤの勢力範囲はエジプト近くまで広がった。ウジヤはエルサレムの城壁に櫓をあちこちに建て城を堅くした。治水工事を起きない牧畜・農業に役立てた。ウジヤの軍団の長ハナニヤが率い、勇士の族長は2600部隊、兵士の数は30万7500人である。こうして勢いが盛んになるにつれウジヤは傲慢となり、エホバの殿に入って香を炊こうとした。祭司アザリヤと勇士80人がこれを止めて、エホバに香を炊くことはアロンの子孫である祭司がすることで王がなす事ではない。エホバが怒り給い禍をもたらすだろうと諫めたが、王は怒り香を炊こうしたがその瞬間彼の顔にライ病が発生した。祭司は速やかに王を室から出したが王は死ぬまでライ病人であった。その子ヨタムが王の家を管理した。ウジヤが亡くなるとその子ヨタムが代わって王になった。
第27章: ヨタムは25歳の時王位を継ぎ16年間この世を治めた。ウジヤはエホバの善しと見給うことを行った。しかし民はまだ悪いことを行いエホバから遠ざかった。彼はアンモン人と戦いこれに勝った。アンモン人は貢物を納めた。王ヨタムが亡くなってその子アハズが代わって王となった。
第28章: アハズは20歳の時王を継ぎ、エルサレムにて16年間世を治めたが、エホバの正しい道を行わず、バアルの像を造り異邦人の行うことを真似をした。その故エホバは王をスリア人の手に渡してしまった。スリア人との戦いに敗れ虜になり、イスラエル人によって殺された。レマリアの子ペカはユダにおいて12万人を殺し、エフライムの勇士ジクリはアハズ王の子マアセヤおよびエリカナらを殺した。イスラエル人は20万人を虜にしてサマリアに連行した。時に預言者オデデがイスラエルの軍の前に現われて、ユダが敗北したのはエホバの怒りがなしたことで、イスラエルに対してもエホバは怒り給う。よって虜を釈放しなさいといった。エフライムの軍長らはこの預言者の言葉に従い、虜と略奪品を棄ておいてサマリアに戻った。アハズ王はアッスリアの王デグラテピレセルに援助を求めていた。しかしアッスリアの王はアハズ王を助けずかえって掠奪を行い、エドム人、ペリシテ人もユダを侵した。アハズ王に代わってその子ヒゼキアが王となった。
第29章: ヒゼキア25歳の時王に就きエルサレムで29年間世を治めた。ヒビキアはエホバの目からして正しきことを行った。エホバの室の戸を修理し、レビ人を集めてエホバの家を浄めた。ユダの先祖たちがエホバから離れつらい目に遭ったので、ヒビキア王はイスラエルの神エホバと契約を結ばなければ神の怒りが我を離れることはないと分かった。ここにおいてレビ人の子孫の子等は集まって身を清めエホバの室に入って、穢れた物を持ち出しギデロン川で洗った。正月元旦からはじまり16日で終了した。ヒビキア王は牧伯らを集め、牡牛、羊、山羊を各々7頭を生贄として罪祭を執り行った。ダビデ王の命令に従って琴など楽器を演奏し、エホバを賛美する歌を歌いラッパを吹いた。牛600頭羊3000頭の犠牲を取って感謝祭と燔祭を行った。エホバの室の一切の奉事が催された。 
第30章: ヒゼキア王は2月にエルサレムにおいて逾越祭を開催すると、通知書を全ユダの牧伯およびイスラエルの会衆にも送り参加を呼び掛けた。趣意書には「汝らの父のごとく項を強くせず、エホバに帰服し永遠に聖別された聖所に入り、汝らの神エホバに事へよ、そうすればその烈しき怒り汝らを離れん」と書かれていた。この書状がエフライムに入りゼブルまで至ったとき衆人はこれを笑ったが、なかにはマナセからもエルサレムに来る人は多かった。2月14日に逾越祭(種入れぬパンの節)が行われた。司祭らは燔祭をして備えた。多くの会衆は逾越祭のしきたりも知らない人が多く、聖所の潔斎に従わぬものにエホバが怒らないよう、祭司らは必死に神に御目こぼしを祈祷した。こうして7日間逾越祭は行われ、ヒビキア王はレビ人の祭司らの労をねぎらった。ヒゼキア王は牛1000頭、羊7000頭を、また牧伯らは牛1000頭、羊1万頭を会衆に贈った。ソロモンの時以来このような正式の逾越祭は絶えてなかったので、エルサレムは喜びにあふれた。
第31章: 逾越祭が終り、イスラエル人はユダの邑にあるアシラ像を切り倒した、ユダとベニヤミンの全地から高い丘にある壇を崩した。その運動はエフライム、マナセにも及び、会衆は各々の邑に帰り仕事に復帰した。ヒビキア王はレビ人の祭司の制を定め、各々の職務を行わせた。祭司の主宰はアザリアであり、祭司は酬恩祭と朝夕と朔日・安息日の燔祭を献じ、エホバの室において奉事をなす。エルサレムに住むレビ人の生活は民の負担とするなどエホバの律法を守ることである。農業生産の産物・収穫に初物を税として献じること、牛・ヒツジの十分の一納制とエホバの神への十分の一納制である。十分の一納制で蓄積された物は祭司コナニヤが司る。職務に従事する20歳以上のレビ人はその宗家に従い名簿に記載され、班に分けられる。
第32章: アッスリアの王セナケリブがユダに侵入した。エルサレムに進撃する王セナケリブの軍をみてユダのヒゼキア王は、一切の川を塞ぎ、城壁を修復して櫓を堅くした。群衆に向かって恐れるな、エホバが守ってくださると励ました。アッスリアの王セナケリブはラキシを包囲し、これまでアッスリアが滅ぼした国々が救われたことは無い、エホバに救いを求めても無駄だといって王に対し降伏を勧告した。ヒゼキア王は預言者イザヤと共に祈祷すると、天より使者が遣わされアッスリアの大勇士、将官、軍長ら滅亡させた。アッスリアを破ったヒゼキア王に、万国のの民から尊敬され、財宝が王に贈られた。ヒゼキア王は富と貢を府庫に収め、各国の産物を入れる倉を立てた。また多くの邑を築いて牛羊を養った。またヒゼキア王は水利灌漑事業を成し遂げた。ヒゼキア王は病になり亡くなった。その子マナセが代わって王になった。
第33章: マナセは12歳で王位に就き55年間世を治めた。かれはエホバの目に悪しきことを行い、異国人に見倣ってエホバが憎むべきことを行った。バアルのために高い丘の上に壇を作りアシラ像を作り、エホバの室に数個の壇を設け偶像を配置し、庭にも壇を設け、子女に火の中を通らせ占い魔術、口寄せ、占い師を取り込みエホバの怒りを買った。その悪さ加減は異邦人よりもむしろ酷かった。そこに再びアッスリアの軍勢が侵攻し、マナセ王を捕えてバビロンに連行した。王は病気になり己の罪に気付いてエホバに謝罪をし祈祷ったので、エルサレムに帰ることができた。そこでマナセ王はギボシの石垣を築き又オペルにも石垣を築いて守りを固めた。ユダの中の堅固な砦邑に軍長を置いた。異教の壇と偶像を取り除きエホバに感謝祭を催した。マナセ王が亡くなって、その子アモンが代わって王に就いた。アモンは22歳でおうになり2年間エルサレムで治めた。アモンは父マナセと同じように異教を取り入れエホバの目に悪しき事を行った。臣僕ら王に叛いてこれを殺した。その子ヨシアが代わって王に就いた。
第34章: ヨシアは8歳で王となり31年間エルサレムで世を治めた。彼はエホバの目に善き事を行った。治世8年目にエホバ神に目覚め、12年目には国内のアシラ像を取り除き、バアルの壇を壊した。この活動をマナセ、エフライム、シメオン、ナフタリの邑でも行った。治世18年めにはエホバの室を修繕するため、使いとして書記官シャパン、知事マアセヤ、史官ヨアを祭司長ヒルキヤに修繕費を渡して、工事監督者はヤハテに任せて工事を執行した。祭司ヒルキヤがエホバの室で律法の書を見つけ、書記官シャパンに手渡した。シャパンは王に復命してエホバの書を閲覧した。王は感激して祭司ヒルキヤ、書記官シャパン、アブドン、シャパンのこアヒカム、内臣アサヤに命じてエホバに問えと言った。我らの先祖らはエホバの言を守らず、この書に書かれたことを行わなかったため、エホバは大いなる怒りをイスラエルに灌いだのであったと。(モーセの律法の書があることさえ、この時代の祭司は忘れていたとは記憶力抜群のユダヤ人にしては驚きである。今の日本についていえば後数十年もすれば平和憲法のあることさえ忘れられ、戦争国家に変容していたという恐ろしき悪夢を喚起しているようだ)彼らは女預言者ホルダの許に行き、王に告げる言葉を聞いた。そして王はエホバの室にあった契約の書の言葉を民に読み聞かせ、王はエホバの前で契約を立てエホバに従って戒めと法を守らんと決意した。
第35章: ヨシアの治世18年に、ヨシア王は逾越祭を1月14日に行った。王はレビ人に対してダビデ、ソロモンの書に従って、神エホバと民に仕えるべしとした。レビ人の班組により宗家の区別に従って聖所に立ち逾越祭をモーセが教えた如く行えと訓示した。ヨシア王が民に贈る子羊子ヤギの数3万・牡牛3000頭であった。祭司の長ヒツキヤ、ゼカリヤも羊5000頭・牛300頭、レビ人の長コナニヤ、シマヤ、ネタンエルも羊5000頭・牛500頭を贈った。アロンの子孫たる司祭、アサフの子孫たる謳歌者も持ち場において控えてヨシア王の命に従い逾越祭を行いエホバの壇に燔祭を捧げた。この後エジプト王ネコがユフラテ河の辺りのカルケミンに攻め上がった。ヨシア王はこれを防ぐために出征したが、メギドンの谷においてヨシア王は射抜かれて倒れた。エルサレムに引き上げたが王はついに死亡した。この時預言者エレミアがヨシア王を悼んで作った哀歌が謳歌に謳い続けられている。(「エレミア哀歌」として有名である)
第36章: ヨシアの子エホアハズが父に代わって王となった。彼は23歳で王になりエルサレムで3か月間王であった。エジプト王の介入があり、エホアハズ王を解任し、罰金を課した。エジプト王はエホアハズの兄弟エホヤキムを王となして、エホアハズを捕えてエジプトへ連行した。エホヤキムは25歳の時王となり11年間エルサレムを治めた。かれはエホバの神の悪とみることを行った。そこへバビロンの王ネプカドネザルが攻め上がり彼を捕えて枷をかけて引き連れていった。またエホバの家の財宝をバビロンに持ち帰り宮に収めた。エホヤキムに代わりエホヤキンが王となったが、8歳で王になり3か月世を治めた。王ネプカドネザルはエホヤキンを捕えてバビロンに連行し、その後ゼデキアを王に代えた。ゼデキアは21歳の時王となり、11年間世を治めた。彼はエホバにとって悪をなし再びエホバに帰ることは無かった。ゼデキア王はバビロンに叛いたので、カルデア人は聖所を侵し老若男女をことごとく殺し、財宝を略奪した。そして宮殿を焼きエルサレムを破壊しつくした。殺されなかった人はバビロンに囚われ行きその国の僕となった。これを「バビロンの幽囚」という。ペルシャの国が興るまでの70年間その地は荒れ放題に放置された。ペルシャ王クロスはエレミヤの言葉に伝わるユダヤ人の歴史に感動し、詔を発し告示した。「神エホバ地上の諸国を我に給えり、その家をユダのエルサレムに建てることを我に命じる。汝らその民であるものは神エホバの助けを得て上りゆけ」

2-10) エズラ書

エズラ書は全10章(岩波文庫で21頁)である。ペルシャ王クロスによる捕囚からの解放後、イスラエル民族はエルサレム宮殿の再建にいそしむ。後半は祭司エズラによるエホバの戒めの罪の反省と祈りの文章である。エズラ書は歴代志略の続編として書かれた。エズラはエルサレムに派遣された律法の書記官で、ユダヤ民族の再興に尽くした人物で、エズラ書は彼の回顧録である。私(我)とはエズラの一人称である。エズラ書において祭司エズラが第1人称で登場するのは7章から10章である。第1章から第6章までは歴代志略の続編という歴史の著述である。
第1章: ペルシャのクロス王の元年、エホバの神はエレミアの伝えた言葉を実現せんとして、クロス王の心を動かした。クロス王の宣旨とは「神エホバは地上の諸国を我に給えり、その家をユダのエルサレムに建てることを我に命じた。汝らその民であるものは神エホバの助けを得てユダのエルサレムに上りゆけ、エルサレムに神の家を再建せよ」と。ここにユダとベニヤミンの宗家の長、祭司レビ人らは神のその心を呼び起こされ、エルサレムなるエホバの室を立てんと立ち上がった。心のある人々は銀の器、財宝、家畜などを持ちより、またクロス王は、王ネプカドネザルがエルサレムから持ち出して庫に収めたエホバの器皿を取り出した。クロス王の庫官ミテレダテが取り出して、ユダの牧伯セシハザルに交付した。金銀の器は数5400個あり、牧伯セシハザルはユダの囚われ人とともにエルサレムに持ち帰った。
第2章: バビロンの王ネプカドネザルに捕えられバビロンに遷された者のうち、俘囚を許されエルサレムおよびユダに戻った者は次のようである。彼らはゼルバベル、エシユア、ネヘミヤ、セラヤ、モルデカイ、ビルシヤン、ミスパル、ビグワイ、レホム、バアナらに随って戻った。各部族ごとの員数が100-1000人の範囲で記されている。その記憶と記録魂に脱帽するとして詳細は割愛する。会衆合わせて4万2360人、僕・婢が7337人、馬736匹、騾馬240匹、ラクダ435匹、ロバ6720匹であった。エホバの家を再建するために集めた物は金6万1000ダリク(古代ペルシャの金貨で1ダルク=金8.4-8.5g よって5.13トンに相当)、銀5000斤(斤=0.6Kg よって3トンに相当)、祭司の衣100であった。 
第3章: ヨザダクの子エシュアとその兄弟の祭司およびゼルバベルらが立ち上がって、7月1日よりイスラエルの神の壇をモーセの律法に書かれたように築き朝夕燔祭を捧げた。エホバの殿の基礎はまだ築いていなかった。ペルシャ王クロスの許可を得てシドンとツロの者に金を払ってレバノンより香柏を運ばせた。こうして帰国して翌年の2月、祭司ゼルバベル、エシュアはエホバの家の基礎工事を始めた。レビ人祭司の子等が工事を執り行って完成した。式では祭司らは礼服を着てラッパを吹きエホバを賛美した。昔を知る老人たちはエホバの室の礎を見て声をあげて泣いた。
第4章: しかしペルシャ王クロスの後の時代、アハシュエロス王の時代にユダとベニヤミンに敵対する人々のエルサレム再建を妨害する活動がこれを阻んだ。敵対する人々とは大臣オスナパルによりサマリアの邑および川の向こうに移住させられたデナ人アパルサテカイ人タルペライ人アパルサイ人アルケワイ人バビロン人ジュンサン人デハウ人エラマイ人のことである。アルタシヤスタ王のときビシラム、ミテレダテ、タビエルらは王に表(書)を提出してユダの人々をを讒言し、さらに方伯レホム、書記官シムシヤイは王に書を差し出しエルサレムを讒言した。エルサレムの石垣が完成し守りが堅くなったら必ず謀反し租税を払わなくなるのはこれまでの歴史の示す通りである。従ってかれらにエルサレムの再建工事を許してはならないとする趣旨の書であった。アルタシヤスタ王はこれに対する回答の書を出し、工事中止を命令した。これによりエルサレムの神の室の工事は中止となり、ペルシャ王ダリヨスの治世2年まで工事は許されなかった。
第5章: 預言者ハガイ、ゼカリアは神の名を以て預言を語り、ゼルバベル、エシュアが呼応して立ち上がりエルサレムの神の室の建設を始めた。河外の総督タエナイがユダヤ州の巡察にきてこれを見て、ペルシャ王ダリヨスに奏言した。その趣旨はバビロンのネブカドネザル王の幽囚から許されて戻ったユダ人の願いをバビロンのクロス王が聴いて、エホバの室再建工事が許可されたいきさつを鑑みて、王の命を待つというものであった。 
第6章: 王ダリヨスの命によって探し出されたクロス王の詔言はメデァ州の都城アクメタに存在した。それは「エルサレムの神の家のことで諭す、生贄を献ぐるところである殿を建てその石礎を堅く置き、室は高さ2.5m、広さ2.5mとする。その費用は王の家より授ける。ネプカデネザルがエルサレムの殿から取り出してバビロンに遷した神の家の金銀の器は還してエルサレムの殿の神の室に置く」という内容であった。総督タテナイはその場に近づくな、工事の邪魔をするな、ユダヤ人の牧伯および長老らが建てるに任せよ。王の財宝のうち川外の租税からその費用を与えよ。燔祭の生贄などはエルサレムの祭司が定めるところのものを日々彼らに与えよ。速やかにこれを行え。この王の詔に違うものは罰せられる。河外の総督タテナイ、ユダヤの預言者ハガイ、ゼカリヤは遅滞なく工事を終了した。こうしてこの室の落成式が行われた。山羊12匹を献じてイスラエル全体の罪祭が行われた。1月14日には還ってきた人々による逾越祭を行った。 
第7章: ペルシャ王アルタシヤスタの時代にエズラという学士・祭司がいた。彼はバビロンに住むモーセの律法に詳しい学士でありエホバの神が乗り移った祭司でもあるので、王は彼のいうことはほとんどが許された。彼のルーツを遡って記すと、アロン→エレアゼル→ピハネス→アビシュア→ブッキ→ウジ→ゼラヒア→メラヨテ→アザリア→アマリア→アヒトブ→ザドク→シャルム→ヒルキア→アザリヤ→セラヤ→エズラ→エズラとなる。王アルタシヤスタの7年エズラは王に命じられてエルサレムの視察に赴いた。その時王がエズラに与えた文の言は次のとおりである。我が国の内に居るイスラエルの民及び祭司レビの子孫でイスラエルに行きたいと望むものが居るならエズラと一緒にエルサレムに往くがいい。エズラは王が心からイスラエルの神にささげるところの金銀、礼物を持って行くべし。そしてその金でもって牛など生贄を買い求めエルサレムの壇に捧げるべし。神の室のために必要な物・金があれば王の庫からもちだし、また地方の庫官にいって出させる権限を与える。祭司レビ人や謳人・門衛・エホバの職務のものの税は免除する。有司・裁き人を立て神の掟や王の掟を教え諭し、違反する者は罰金、家財の没収、入獄、死刑を下す事。こうしてエズラがエルサレムの祭司・裁き人となった。 (エズラ書において祭司エズラが第1人称で登場するのはこの7章から10章である。第1章から第6章までは歴代志略の続編という歴史の著述であった)
第8章: エズラ書第2章に記した帰国者第1陣の総数は4万2360人であった。その時の引率者はゼルバベル、エシユア、ネヘミヤ、セラヤ、モルデカイ、ビルシヤン、ミスパル、ビグワイ、レホム、バアナらであった。エズラに率いられた第2陣帰国者の部族毎の集計合計は1490人であった。別にレビ人の子孫は258人であった。エズラは祭司の長として支派の数に等しい12名をセレビア、ハシヤビヤの兄弟から選び、エホバの室に入れるべき金銀の器を運ばせた。こうして帰国を許された者はアハワの河のほとりで断食を行い身を卑くくし、イスラエルの神に燔祭を捧げた。支派の数に相当する12匹の牛、96匹の牡羊、子羊77匹、牡山羊12匹を捧げた。 
第9章: 牧伯らがエズラのもとにきて告白した。押すラエルの民・祭司らは諸国民との結びつきが強くこれから離れることができない。異国民の女を妻とし、自分の娘を異国人と結婚させるなどして相雑じれている。牧伯が先頭になって異国人に同化しつつあるという。エズラはこれを聴いて驚き呆然とした。そしてエホバにその罪の判定を求めた。「我らは奴隷の身であるが、その時もエホバは我らを忘れずペルシャ王をして神の家を修繕し、ユダのエルサレムに石垣を作ることを許させた。しかし我々が生きてゆくところは穢れに満ち憎しむべき行いで汚れている。我々は罪に纏われて汝の前にあり、これがため一人として汝の前に立つこと能わず、いかにせん。」 
第10章: エズラが神の前において哭いて祈り懺悔している時、多くの民が集まって来て共に哭いた。時にシカニヤがエズラに言った、我は神の教えに従い異邦人の妻を離別し、これが生んだ子を追放するという契約を今神に立てよう。そこで祭司エズラは9月20日に、帰国した囚われの人々をすべて集めて集会を行った。いまエホバに懺悔して異邦人の妻、異国に人々から離れることを誓うかと問い、10月1日までに異邦人と結婚した人の名を記載したリストを提出すること、審査会を開き元旦までに調査は終了した。祭司・謳歌者の中で異邦人と結婚した人々の名前が本文に記載されている。(その数110名ほどであるが、帰国者の総計4万3000人強にしては率は2%に過ぎず、少なすぎるように思われる。移住先国民と融和することは生活のために必要な事であり、在日韓国人1世2世の苦しみを知れば、これはあり得ない数値である。) 

2-11) ネヘミヤ書

ネヘミヤ書は全13章(岩波文庫で31頁)である。記述されている時代はエズラ書の後編というべき位置である。捕囚からの解放されて昔の約束された地に戻ったイスラエル民族はエルサレム宮殿の再建にいそしみ、エホバの戒めの罪の反省と祈りが指導者ネヘミヤによって語られる。ネヘミヤの名は総督ネヘミヤとしてエズラ書第2章に見える。ネヘミヤはペルシャ王の官吏でユダヤ人のエルサレム城壁の再建を指導し援助をした総督である。ネヘミヤ書は預言者・祭司の書ではなく、官吏の記録および回顧録である。第1章から第7章までが工事を指導した総督の記録であり、第8章から第13章までがエズラ律法の解説になる。
第1章: ペルシャ王アルタシヤスタの時代20年のころ、ユダヤ人でペルシャ王の臣であったハカリヤの子ネヘミヤの言詞。ペルシャの都シュシャンにいたころ、イスラエルの兄弟ハナニ人がやってきたのでエルサレムのことを問うた。彼らが言うのには、囚われ人の残留人であるユダヤ州の民は大いなる艱難に遭い辱めに遭っている。またエルサレムの石垣は打ち倒され門は焼かれたと。ネヘミヤはこの話を聞いて数日は悲しみ断食し天に祈りて言った。私はユダヤの民がエホバに対して犯した罪を懺悔する。律に叛いて定めを守らなかった。モーセに命られた詞には、汝らもし罪を犯すなら我は汝らを国々に散らさん。しかし罪を侘び戒めを守るならば世界中のどこに居ようともエホバはやってきて強き力と手をもって汝らを助ける。ネヘミヤは祈る。「主よ請う僕の祈祷に耳を傾け給え、僕を助けて目の前に憐れみをたれたまえ」 
第2章: アルタシヤスタ王の20年、王の寵臣であったネヘミヤは王の酒を注いでいたが、ネヘミヤが憂い顔をしていたのを王が見とがめてその憂うるところは何かと問われるので、我が先祖の墓がある邑が荒れ果て、門も焼かれて無残な様子を聞いて憂い顔になったと答えた。王はどうしたいのだといわれるので我を故郷の邑に派遣していただいてこの邑を再興したいと答えた。そこで王は期限を決めてゆくことに異存はないとのことで、河外の総督に与える書、山林を守るアサフに材木を切り出す許可を与えるよう指示する書を戴きネヘミヤはエルサレムに出向いた。河外の総督に王の書を見せると軍長に騎兵を添えて警護兵を付き添わしめた。エルサレムに着いて3日間巡視をして、門、石垣の破損を調査し、エルサレムの邑の再建計画に取り掛かった。 
第3章: 門の修復・修繕工事について記述する。「羊の門」は祭司長エリアシブが建て聖別た。そしてハンメアの櫓、ハナネルの櫓に及んだ。エリコの人々、ザックルらが築いた。「魚の門」はハツセネアの子等が建てた。メレモテ、メシュラム、ザドク、テコア人が修繕した。古門はヨイアダ、メシュラムらが修繕した。ウジェルが金工修繕を、製香者ハナニヤらが修繕した。「谷の門」はハヌン、ザノアの民が修繕した。石垣を修繕した。「糞の門」は知事レカブの子マルキヤが修繕した。「泉の門」は知事コロホゼの子シャルンが修繕した。石垣も修繕した。「馬の門」は祭司、ザドク、シマヤ、ハナニヤ、ハヌシらが修繕した。
第4章: ここに工事を見ていたサンバラテ、アンモニ人トビア、そしてアラビア人、アシドド人といったエルサレムの再建に反対する現地人の罵倒や妨害が起こった。彼らは結託して攻め来たり騒乱となった。そこで我ら修繕する側は民に武器を持たせこれに備えた。我らは片手に工事をなし、片手に武器を取った。工事現場は多方面になるのでラッパの音で連絡を取り集結した。夜は防守りにつき、昼は工事をした。一日中鎗を持つ生活をした。 
第5章: ネヘミヤはペルシャ王アルタシヤスタの時代20年から32年までの12年間、ユダヤ州の総督に任じられエルサレムの再建工事に従事した。そのときユダヤ人は生活の苦しさを訴えた。我らの田畑葡萄園および家をも質に入れ、1/100税を支払った。牧伯らは我らの兄弟より利息を取っている。我らの要求は@金と穀物を貸して利息を取ることを止めよ、A我らの田畑葡萄園および家を即還せ、B農産物の百分の一税を止めよである。まるで労働組合の決起集会か万葉集の山上憶良の「貧窮問答歌」である。ネヘミヤがユダヤ州の総督であった12年間は禄を食まずに、石垣工事を行った。私のところに来る人には一日に牛1匹羊6匹を食に供した。どうか神よこの民に私がなしたことを思って慈しみを与え給え。
第6章: エルサレムの修復工事に反対する人々サンバラテ、アンモニ人トビア、そしてアラビア人ガシムは石垣と門の修繕が工事が完了したことを聞いて、ネヘミヤに何回も書を送ってきた。彼らは「ネヘミヤはユダヤ人とともに反乱を起こすために石垣を築いた。そしてネヘミヤは王にならんとしている」と讒言をした。そして私を呼び出して殺す計画があったが、これに欺かれないで動じなかった。 
第7章: 石垣を築き門を設けて工事は終了したので、ハナニヤとハナニにエルサレムを治めさせた。しかしまだ城内に住む人の数は少ないので守りを堅くするため番兵を立てた。夕方から翌朝まで門を開けない事とした。ここで神がネヘミヤに帰国したユダヤ人の名簿を作るように命じたと書かれているが、その数や記述内容はエズラ書第2章と全く同じである。重複していると思われるのでここでは繰り返さない。 
第8章: 7月1日ネヘミヤは祭司で学士エズラを招いて民の前で律法を読む会を開催した。高い木の台を設け祭司エズラは律法の書を携え来たりて会衆を前に律法を説いた。書を開いた時エズラはエホバを祝したので会衆はアメンアメンと地に伏して拝んだ。ネヘミヤ、エズラは民に向かいて、今日は聖日なり、哭くなかれ、憂うなかれエホバを喜ぶことは汝らの力なりと励ました。翌日谷の族長ら祭司およびレビ人が律法を学ばんとして学士エズラのものに集まり、エホバがモーセに命じた如く、7月の節会にはイスラエルの子ら茅蘆に居るべしと、そこで民は山に行き木の枝を集め茅蘆を作り、7日間節莚を行い第8日目に聖会を開いた。  
第9章: 7月24日イスラエルの子孫が集まり断食をし麻布を纏い土を蒙って一切の罪の懺悔を行った。一日の四分の一はエホバの律法を唱え、一日の四分の一は懺悔に費やした。レビ人は台の上に立って大声でエホバを呼んだ。エシュア、カデミエル、バニ、ハシヤブニヤ、セレビヤ、ホデヤ、セバニヤ、ペタヒヤらは立ち上がってユダの永遠の歴史を纏めて唱えた。エホバがアブラハムを選んで契約を立てたことから始まり、エホバとモーセに導かれてエジプトを出たたこと、モーセの律法を立てたこと、しかしユダの先祖が犯した罪の数々とエホバを棄て異教に走った歴史、アッスリアによってイスラエルの民が滅ぼされ幽囚され奴隷にされたことまでを語った。今堅き契約を立て、これを書き記し牧伯ら祭司レビ人らが署名をした。 
第10章: 新たな契約に署名した者として名前が記載されているものは(名前は省略する)、祭司24名、レビ人17名、族長44名で合計85名である。 
第11章: エルサレムが再建されたが住む人が少なかったことは第7章に書いたとおりである。そこで民の牧伯はエルサレムに住むこと、他の民も家族10人に1人はエルサレムに住むことを決めた。無論自ら進んでエルサレムに住みたいという人は歓迎された。エルサレムに住む人の数は、貴人だけを数えると、ベレズの子孫は460人、ベニヤミンの子孫920人、エホバに仕える祭司は822人、宗家の長242人、勇士ら128人、門を守る兵士172人である。エルサレムに入るレビ人の監督はウジである。 
第12章: エルサレムに移住した祭司とレビ人の職務について記述する。祭司はセラヤ、エレミヤ、エズラ、アマリヤ、マルク、ハットシルガ、シマヤ、ヨヤリブ、エダヤ、アモク、ヒルキヤである。レビ人はエシユア、ビンヌイ、カデミエル、ユダ、マツタニヤである。祭司らの宗家の長であったものは、セラヤ族でメラヤ、エレミヤ族にはハナニヤ、エズラ族にはメシュラム、アマリアの族にはヨハナン、マルキ族にはヨタナン、シバニア族にはヨセフ、ハリム族にはアデナ、マラヨテ族にはヘルカイ、イド族にはゼカリヤ、ギンネトン族にはメシユラム、アビヤ族にはジクリ、ミニヤミン族にはビルタイ、ビルガ族にはシヤンマ、シマヤ族にはヨタナン、ヨヤリブ族にはマツテナイ、エダヤ族にはウジ、サライ族にはカライ、アモク族にはエベル、ヒルキヤ族にはハシヤビヤ、エダヤ族にはネタンエルである。レビ人の頭はハシヤビヤ、セレビヤ、エシュアである。エルサレムの石垣の落成式の唱歌人・琴瑟演奏者らが呼ばれた。石垣の上をユダの牧伯らが二つの隊を作って行進し、感謝の詞を称えて右回りに進んだ。その後をホシヤヤ、アザリヤ、エヅラ、メシュラム、ユダ、ベニヤミン、シマヤ、エレミヤ、エズラそしてラッパ隊が進んだ。左回りに進んだ隊はエフライムの門を通り、旧門、魚の門、櫓を過ぎて羊の門で、両隊は神の室に入った。祭司エリアキアム、マアセヤ、ミニヤミン、ミカヤ、エリヨエナイ、セカリア、ハナニヤ喇叭を吹き、マアセヤ、シマヤ、エレアザル、ウジ、ヨハナン、マルキア、エラム、エゼルが居る所で歌を謳う。歌う隊の監督はエズラヒアであった。府庫を掌る人は挙祭の品物器を律に従って扱った。 
第13章: アンモン人およびモアブ人は昔イスラエル人を冷たく扱ったので、エホバの神の会には入れないことになった。祭司エリシアブという者が、異教のトビアと親しくなり異教のために神の家の庭に大きな部屋を与え、いろいろな器・祭器を持ち込んだ。この事件はネヘミヤがペルシャ王に面会するため数日エルサレムを留守にしたときに起こった。還ってきたネヘミヤはこのことを知って怒り、トビアの器をことごとく投げ出し、清めてから神の家の器をそこに入れた。またレビ人が受けるべき報酬を与えられていないために、逃げだしたことを知り、そこで祭司シレミヤ学士ザドク、ペダヤを府庫の有司に任じ、ハナンを副として、ユダ人が収める供物を管理させた。さらに安息日に商いをしては行けないはずなのに、行商人や商品の運送人が安息日でもエルサレム内で働いていた。そこで城壁の外にある宿やに商売人が休息日に泊まること、門に入ることを禁止した。エルサレムの門を安息日の前日の夕刻から安息日が終るまで閉めておくことになった。そしてアンモン人、モアブ人などの異邦人との婚姻を固く禁じ、混血を防いだという。血の問題だけでなく、言語、信仰の問題に深く関係するからである。ネヘミヤは異邦の婦女を娶り大悪をなして我らの神に罪を犯すことをは許さないと宣言した。 

2-12) エステル書

エステル書は全9章(岩波文庫で17頁)で、短いエピソードである。ペルシャ王クセルクセス1世(紀元前5世紀)とみなされるアハシュエロス王の時代(エズラ書・ネヘミヤ書の時代)に、ペルシャ国に住むユダヤ人の子女の話である。バビロン捕囚の経験を持つモルデカイの養女エステルは養父からユダヤ人であることを隠すように言われて育った。エステルはアハシュエロス王の皇后の代わりに、新たに皇后になるが、宮廷の権力者ハマンのユダヤ人絶滅の陰謀を知り、アハシュエロス王に働きかけることでこの陰謀は回避された。
第1章: ペルシャ王アハシュエロス王の時代、都城シュシヤンにおいて王であった第3年目、牧伯や臣僕を招いて大宴会を催し180日間王の栄光を祝した。又この宴の終わりごろ、シュシヤンの民のために1週間園遊会を開いた。3色の帷、金銀の椅子、金の盃と王の富をこの上もなく演出した。そして皇后ワシテも王宮の中で扶助のための酒宴を設けた。アハシュエロス王は酒の興から皇后の美しさを披露したいがために侍従を介して、皇后に冠をして現れるように言いつけた。しかし皇后はこれを拒否したため王の胸の内は怒りに燃えた。そこで王は時を知れる智者7人、カルシナ、セタル、アデマタ、タルシン、メレス、マルセナ、メムカンに、王の命に従わなかった皇后の罪を問うた。メムカンの意見はペルシャとネデアの律法にして、その妃の位を他の者に与えるべきだという。
第2章: 臣僕らは、王のために美しい処女を全国に官吏を派遣して探し求め、後宮を掌る侍従ヘガイに渡して王のご意向に適う女子をワシテに代わって后とする策を進言し王は良しとした。ここに都城シュシヤンに一人のユダヤ人がありモルデカイという。ベルヤミン人であった。バビロンの幽囚でエルサレムから移された人々の中にいた。この人は伯父の娘エステルを養女として育てた。父母のいないこの娘をモルデカイが自分の娘にした。この女子も集められて後宮に入れられ、侍従ヘガイの気に入って婦人の局の最上級になった。1年を経過して王の前に清められて香を炊かれて順番に出された。エステルはヘガイの仕込み方が良く、王妃を掌る侍従シャシガスの覚えが最高で、王の家に入れられてアハシュエロス王にお見みえした。こうしてエステルは后になり披露宴が催された。モルデカイはエステルに己の宗族、民を明らかにしてはいけないと言っていたので、エステルはこの掟をまもっった。モルデカイは王への謀反者のたくらみを密告し未然に防いだという功績が王に知られ王の知遇を得た。 
第3章: アハシュエロス王はアガク人の子寵臣ハマンを最高の身分に引き上げ、これに頭を下げるよう臣下に命じた。しかしモルデカイはこれに従わず頭を下げなかったので、寵臣ハマンは怒ってモルデカイのことを調べると彼はユダヤ人であることが分かった。そこでハマンはペルシャ国内のユダヤ人すべてを殺し尽すことを謀った。王の12年目、ユダヤ人はペルシャの律を守らず王の害をなしているのでことごとく滅ぼす詔を出すように求めた。ここでに1月13日ユダヤ人をすべて殺し尽す王の詔が出された。
第4章: モルデカイはこのことを知ると嘆き悲しみ、諸州においてユダヤ人の中に悲しみと断食、号泣、叫びが巻き起こった。エステルの侍女がこのことを伝えれば、エステルは甚だしく憂い、侍従ハタクにモルデカイにあって事情を聴かせた。王の内庭に入りに直接会うものは直ちに処刑される定めがあり、モルデカイはエステルに会うことはできない。エステルは后という立場にあり、王を説得できないか侍従ハタクを介して伝えてもらった。エステルは死を覚悟して王の説得を行うことを決意した。 
第5章: エステルは3日後后の服を着て、王の内庭に立ったところ、玉座に居た王は金の杖を差し出しこれを許した。王はエステルに何がほしいのかと問いかけたが、エステルは今日王とハマンの酒宴に同席させてほしいと願い出た。その席でエステルが明日エステルが設ける酒席に出てほしいという。この謎に苦しんだハマンはその妻ゼレンに相談すると、明日頭を下げないモルデカイを木に吊るして王と楽しめばいいと答えたという。 
第6章: その夜アハシュエロス王が眠れないので過去の記録簿を見ていると、モルデカイが王の暗殺を企てた門衛を王に告げたことが書いてあった。王は臣にモルデカイに何か栄誉と位を与えたのか問うと、何も与えていないと答えた。そこで王はハマンに命じてモルデカイを王の尊ぶ人であると示せと言った。ハマンは悩んだが、エステルの酒席に出る時間となった。
第7章: 王とハマンはエステルが設けた酒宴に出るためにやって来た。そして王はエステルに汝の望むところは何かと問うた。エステルはそれは命ですと答えた。我がユダヤ人が売られ殺されることは、その損害を償うことは誰にもできない。王はユダヤ人を憎むものは誰かを問うと、エステルはそれはハマンですと答えた。王は酒席を立った。殺されるとみたハマンは命乞いをしたが、王はハマンがモルデカイを掛けようとして作った木にハマンを吊るした。 
第8章: アハシュエロス王はハマンの家を后エステルに与え、養父モルデカイも王の前に呼ばれた。ハマンに与えた指輪を外しモルデカイに与えた。そしてハマンが諸州に書き送った書を取り消す旨の詔を下した。インドからエジプトまでの127州のユダヤ人居住州の牧伯・方伯に王の詔が発せられた。白と藍の朝服を着たモルデカイが金の冠を戴いて王と共に現われると、シュシヤンの邑は声をあげて喜び、ユダヤ人は鼻を高くできた。
第9章: モルデカイがユダヤ人を殺そうとした敵に報復できる日がやってきた。ハマンの子10人を殺し木に吊るした、そしてシュシヤンの邑内で500人を殺した。(こうした報復主義がユダヤ教の最大の欠点であり、報復の応酬という次元を越えられずに文明から遅れ、世界教になれなかった最大の要因であると思う) 


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