180328
文藝散歩 

山本芳久著  「トマス・アクィナスー理性と神秘」
岩波新書(2017年12月)

「神学大全」に見るトマス哲学の根本精神を理性と神秘から読み解く

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トマス・アクィナス像(15世紀、カルロ・クリヴェッリ作)

トマス・アクィナスは日本でいうと鎌倉時代の人であった。トマス・アクィナス(1225年頃 - 1274年3月7日)は、中世ヨーロッパ、イタリアの神学者、哲学者で、シチリア王国出身。ドミニコ会士。『神学大全』で知られるスコラ学の代表的神学者である。本書にはいる前にトマス・アクィナスの生涯について知られたことを簡単にまとめる。
1225年ごろ、トマスは南イタリアの貴族の家に生まれた。母テオドラは神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン家につらなる血筋であった。生まれたのはランドルフ伯であった父親の居城、ナポリ王国アクイーノ近郊のロッカセッカ城であると考えられている。伯父のシニバルドはモンテ・カッシーノ修道院の院長をしていたため、やがてトマスもそこで院長として伯父の後を継ぐことが期待されていた。修道院にはいって高位聖職者となることは貴族の子息たちにはありがちなキャリアであった。こうして5歳にして修道院にあずけられたトマスはそこで学び、ナポリ大学を出ると両親の期待を裏切ってドミニコ会に入会した。ドミニコ会は当時、フランシスコ会と共に中世初期の教会制度への挑戦ともいえる新機軸を打ち出した修道会であり、同時に新進気鋭の会として学会をリードする存在であった。家族はトマスがドミニコ会に入るのを喜ばず、強制的にサン・ジョバンニ城の家族の元に連れ帰り、一年以上そこで軟禁されて翻意を促された。ついに家族も折れてドミニコ会に入会を許されるとトマスはケルンに学び、そこで生涯の師とあおいだアルベルトゥス・マグヌスと出会った。1244年ごろのことである。1245年にはアルベルトゥスと共にパリ大学に赴き、3年同地ですごし、1248年に再び二人でケルンへ戻った。アルベルトゥスの思考法・学問のスタイルはトマスに大きな影響を与え、トマスがアリストテレスの手法を神学に導入するきっかけとなった。トマスは非常に観念的な価値観を持つ人物であり、同時代の人と同じように聖なるものと悪なるものをはっきりと区別するものの見方をしていた。あるとき、自然科学に興味があったアルベルトゥスがトマスに自動機械なるものを示すと、トマスは悪魔的であるとしてこれを批判した。1252年にパリに赴いて学位を取得しようとしたが、パリ大学の教授会が托鉢修道会に対して難癖をつけてきたが何とか学位を取得し、パリ大学神学部教授となった。しかし、明晰なトマスはやがて1257年に教授会に迎え入れられ、そこで教鞭をとった。1259年にはヴァレンシエンヌでおこなわれたドミニコ会総会に代表として出席した。その後、教皇ウルバヌス4世の願いによってローマで暮らすことになった。1269年再びパリ大学神学部教授になり、シゲルスを中心とするラテンアヴェロエス派や、ジョン・ペッカムを中心とするアウグスティヌス派と論争を繰り広げる。同時代の人々の記録によるとトマスは非常に太った大柄な人物で、色黒であり頭ははげ気味であったという。しかし所作の端々に育ちのよさが伺われ、非常に親しみやすい人柄であったらしい。議論においても逆上したりすることなく常に冷静で、論争者たちもその人柄にほれこむほどであったようだ。記憶力が卓抜で、いったん研究に没頭するとわれを忘れるほど集中していたという。そしてひとたび彼が話し始めるとその論理のわかりやすさと正確さによって強い印象を与えていた。 1272年のフィレンツェの教会会議において、トマスは、ローマ管区内の任意の場所に神学大学を設立するように求められ、温暖な故郷ナポリを選び、著作に専念して思想を集大成に努めるようになった。1274年の初頭、教皇は第2リヨン公会議への出席を要請した。トマスは健康状態が優れなかったが、これを快諾し、ナポリからリヨンへ向かった。しかし、道中で健康状態を害し、ドミニコ会修道院で最期を迎えたいと願ったが、かなわずソンニーノに近いフォッサノヴァ(現在はプリヴェルノ市の一部)のシトー会修道院で世を去った。1274年3月7日のことであった(49歳)。

次にトマス・アクィナスの思想を簡単にまとめて置く。トマスの最大の業績は、キリスト教思想とアリストテレスを中心とした哲学を統合した総合的な体系を構築したことである。かつてはトマスは単なるアリストテレス主義者にすぎないという見方もあったが、最近の研究ではそのような見方は否定されている。トマスはアヴィケンナやアヴェロエス、アビケブロン、マイモニデスなどの多くのアラブやユダヤの哲学者たちの著作を読んで研究し、その著作においても度々触れている。そこから、トマスは単なる折衷家にすぎないとの見方も根強いものがあったが、現在では、「存在」の形而上学がトマス的総合の核心であり、彼独自の思想である点で見解の一致が見られる。全体的にみれば、トマスは、アウグスティヌス以来のネオプラトニズムの影響を残しつつも、哲学における軸足をプラトンからアリストテレスへと移した上で、神学と哲学の関係を整理し、神中心主義と人間中心主義という相対立する概念のほとんど不可能ともいえる統合を図ったといえる。トマスの思想は、その死後もトマス主義として脈々と受け継がれ、近代の自然法論や国際法理論や立憲君主制にも多大な影響を与えただけでなく、19世紀末におきた新トマス主義に基づく復興を経て現代にも受け継がれている。私が今まで読んだキリスト教の教父伝記としては、わずか二人しかいない。出村和彦著「アウグスティウス」(岩波新書2017年10月)徳善義和著「マルティン・ルター」(岩波新書2012年6月)である。
神学の面では、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスの異教活動禁止のため、一度は途絶したギリシア哲学の伝統がアラブ世界から西欧に莫大な勢いで流入し、度重なる禁止令にもかかわらず、これをとどめることはできなくなっていた。また、同様に、商業がめざましい勢いで発展し、都市の繁栄による豊かさが横溢した。、トマスは、このような時代背景の下、哲学者アリストテレスの註釈家と呼ばれていたアヴィケンナやアヴェロエスとは、キリスト教の真理を弁証する護教家として理論的に対決する必要に迫られていた。また、トマスは、同様に、アビケブロンのみならず多くのユダヤ人思想家とも対決をしなければならなかった。トマスは、アリストテレスの存在論を承継しつつも、その上でキリスト教神学と調和し難い部分については、新たな考えを付け加えて彼を乗り越えようとしたのであり、哲学は「神学の婢」であった。
哲学において、すべての存在者は可能態から現実態への生成流転の変化のうちにあるが、「神」(不動の動者)は質料をもたない純粋形相でもあった。しかし、トマスにとって、神は、万物の根源であるが、純粋形相ではあり得なかった。旧約聖書の『出エジプト記』第3章第14節で、神は「私は在りて在るものである」との啓示をモーセに与えているからである。そこで、彼は、アリストテレスの存在に修正を加え、「存在−本質」を加えた。彼によれば、「存在」は「本質」を存在者とするため「現実態」であり、「本質」はそれだけで現実に存在できないため「可能態」である。「存在」はいかなるときにおいても「現実態」である。神は、自存する「存在そのもの」であり、純粋現実態である。人間は、理性によって神の存在を認識できる(いわゆる宇宙論的証明)。しかし、有限である人間は無限である神の本質を認識することはできず、理性には限界がある。もっとも、人間は神から「恩寵の光」と「栄光の光」を与えられることによって知性は成長し神を認識できるようになるが、生きている間は恩寵の光のみ与えられるので、人には信仰・愛・希望の導きが必要になる。トマスは、存在論に基づく神中心主義と、理性と信仰に基づく人間中心主義の統合を図り、後世の存在論に多大な影響を与えることになった。
法・政治論においては、トマスは、神の摂理が世界を支配しているという神学的な前提から、永久法の観念を導きだし、そこから理性的被造物である人間が永遠法を「分有」することによって把握する自然法を導き出し、その上で、人間社会の秩序付けるために必要なものとして、人間の一時的な便宜のために制定される人定法と神から啓示によって与えられた神定法という二つの観念を導きだした。人間の能力には限界があるために、人々は永久法から与った自然法にもとづいて適切に人定法を制定するということができず、また、様々な意見の対立が生じるので、それを補うために神から与えられたものが、神定法である。ここで、神定法として念頭に置かれているのは、旧約聖書と新約聖書において命じられている事柄であり、前者は旧法、後者は新法と呼ばれる。

第1章) トマス・アクィナスの根本精神ーアリストテレス哲学との出会い

「愛のあるところ、そこに眼がある」というトマスの有名な言葉があります。愛しているからこそみえてくる物事の深層ということです。愛読書というものは。、読むこと自体が人生の最も豊かな時間となって積み重ねられる書物、つまり「古典」のことです。トマスの「神学大全」もそのような古典の一つだそうです。私は読んだことはないし、我が国においてはあまり読まれていないだろう。2012年に完成した「神学大全」の邦訳は全45巻に及ぶ長大なものである。邦訳本でさえ通読した日本人はまだいないだろうと言われる。膨大な著作を遺したトマスの思想体系を全部語ることは、新書では到底不可能です。トマスは哲学者でもあり神学者でもある。哲学的側面だけを語ってもトマスを語ったことにはならない。本書はトマスの入門書であるが、筆者の愛するトマスの側面を「神学大全」から拾って行くということになろうかと思う。この第1章は「総論」ともいうべき、トマス・アクィナスの根本精神についてです。1244年トマスはナポリ大学を出ると、それまでいたベネディクト会を出て両親の期待を裏切ってドミニコ会に入会したと先に書きました。ドミニコ会とは、1216年ドミニクス(1170-1231年)によって創立された修道会で、イエズス会、フランシスコ会、カルメル会などがあります。ドミニコ会は「托鉢修道会」とも呼ばれ、定住して祈りの生活に従いました。ベネディクト会は「祈り、働け」というように自給自足の農村に依拠した修道会でしたが、托鉢修道会は急速に発達した都市における巡歴説教に力を入れるもので、都市で流行した異教に対抗するものでした。キリストの正統的な教えを原点に立ち戻ってたて直そうとした。農村から都市へという人の流れに対応した新しい形の布教活動でした。ドミニコ会の根本精神を、トマスは「観想の実りを他者に伝える」と表現しています。「観想的生活」は「活動的生活」と対をなしている言葉で古代ギリシャのアリストテレスに由来する。観想とは「何らかの実践的な目的のためでなく、事柄の真相をありのままに認識しようとする知的営み」であり、セオリーという語源になります。祈りや黙想に基づきながら精神を究極的な真理である神へと一致させてゆく活動を意味します。観想と実践(説教・教育)を組み合わせたドミニコ会の在り方は時代の要請に合致し流行してゆきました。理性によって世界をありのままの姿で観想するアリストテレスの影響を深く受けて、トマスはこの世界の創造者である神をありのままに認識することでした。トマスが生涯をかけたのは人間の「理性」を越えた「神秘」そのものである神だった。千年以上前の古代ギリシャの哲学者アリストテレスのテキストが、イスラム世界を通じて逆輸入され、12世紀から13世紀にかけてのラテン・キリスト教世界においては斬新な思想として紹介されたという歴史の顛倒があったことは有名な話である。古代ギリシャの思想はイスラム世界に伝えられ、西欧では途絶えた古代ギリシャの思想をイスラム世界のテキストから学んだのである。西欧の文芸復古運動ルネッサンスを手助けしたのはイスラム世界であった。アリストテレス哲学には、明らかに後世のキリスト教世界観に反する学説があった。「知性の唯一性」、「世界の永遠性」の二点であった。こうしたアリストテレス学説受容をめぐってキリスト教世界にはさまざまな対応が見られた。@保守的アウグスティヌス主義は、伝統的なキリスト教世界を衝突しない部分だけを受容した、A急進的アリストテレス主義では、キリスト教に反するアリストテレス哲学の自律的要素を積極的に取り入れ、信仰の真理と哲学の真理は別物として扱った。B中道的アリストテレス主義をトマス・アクィナスはとる。だからトマスはいつも折衷主義者と見なされる。アリストテレスの理性的な世界認識を援用することでキリスト教神学を構築しなおし、ダイナミックな相互関係の中で考えるものである。トマスはアリストテレスの「霊魂論」を引いて、「魂の到達できる究極的な完全性とは、宇宙とその諸原因の全秩序が霊魂=人間精神に書き込まれることである。」そしてそれは神の直視のうちにあるという。この表現は、トマスの哲学・神学体系の最も凝縮された要約といえる。トマスの文章には冒頭にアリストテレス、末尾に大グレゴリウス(540-604年)のテキストからの引用がある。大グレゴリウスはヒエロ二ムス、アンブロシウス、アウグスティヌスとならぶラテン世界の4大教父である。トマスは書き手だけではなく。読み手として著名であり、多彩なテキストからの引用を組み合わせながら自説を構成してゆく。こうしたやり方は「スコラ哲学」の有力な手段であった。いわば議論のあちこちに古典的に著名な著者の言葉を散りばめてゆく「権威主義」的論法である。「典拠」主義ともいえる。認識するとは人間精神(魂)が世界を受容することにほかならないというトマスの基本的見解から始まる。アリストテレスは「知性によってすべての可知的な形相を受容する」といい、グレゴリウスは「すべてを見給う者(神)の眼に入らないものがあろうか」という。これを「至福直感」と呼ぶ。愛に満ちた形口ではあるが哲学的基礎づけのないグレゴリウスの言葉と、人間精神を哲学的に分析するアリストテレスの言葉がトマスによって結び付けられる。

トマスは「対異教徒大全」で「知性的な諸々の本性は、他のものより全体への親和性を有している。知性の実体とは自らの知性によって全存在を把握する限りにおいてすべてのものである」という。ここにいう知性の実体とは神と人間のことである。「知性」とは推論的・過渡的・分析的な理性のことで、「知性」とは全体を把握する直感的な理性のことを指している。すると神は「知性的存在」と呼ばれ、人間は「理性的存在」と呼ばれ区別される。といっても人間は直感的な知性の働きを持たないわけではなく、人間のあらゆる認識において知性は無くてはならない役割を果たしている。トマスはアリストテレスに倣って、考察に重きを置く「理論理性」と、行為に結びつける理性を「実践理性」に大別する。理論理性の第1原理は矛盾律で「同時に肯定し、かつ否定することはあり得ない」ということである。実践理性の第1原理は「善はなすべし、悪は避けるべきである」というものである。善には「道徳的善」、「快楽的善」、「有用善」の三種類あるとトマスはいう。人間の知的能力は、理論的、実践的側面でも「知性」と「理性」の二重構造である。神ではない人間は「知性」によってすべてをおッキョに直感的に認識することはできない。人間は理性的存在者であるから、目的としての全体性へと、認識行為の積み重ねによって近づこうとするのである。しかしあらゆる実在に対して自らを知的に開いて行こうとする根源的に開かれた態度をとるのである。理性的精神の権化といわれたトマスは49歳という若さで亡くなったにもかかわらず、驚異的な著作群を遺しました。トマスの全著作は@体系的著作、A討論集、B聖書註解、Cアリストテレス註解、Dその他の註解です。体系的著作としては、主著である「神学大全」と「対異教徒大全」があります。討論集には中世大学の教育方法で、定期討論と公開の任意討論があります。討論集はトマスの中心的業績の一つです。註解書はトマスの中心的業績で、聖書とアリストテレスの著作の大半について詳細な註解書を遺した。聖書註解は旧約聖書と新約聖書の註解の二つに分かれる。アリストテレスの著作に対する註解は本書においては「形而上学」、「ニコマコス倫理学」、「自然学」の大著から多く引用されている。その他、プラトン主義的なアレオパギタの「神名論」註解を遺した。トマスはキリスト教学と新プラトン主義を統合した人で、思想内容は超越者としての神の善性から万物が発生し、人間の神への復帰と一致、万物の階層秩序といった視点がトマスに影響を与えた。著作の形式としては「対異教徒大全」は論文形式で書かれているが、「神学大全」や多くの討論集は討論形式で書かれている。中世の大学(スコラ派)の討論は、まず異論が列挙され、反論を踏まえたうえで、主文が展開される。そして最後に解答が置かれ全体としてひとつの「項」でくくるという形式である。そしていくつかの「項」がまとまって「問題」という上位概念を構成する。「問題」がいくつか集まって「問題群」が形成される。問題群のまとめて「部」となる。神学大全では、第1部「神論」ー問題群「三位一体」ー第1問題「神について、神は存在するか」ー第1項「神は存在するか」という流れでひとつの幹を作る。「神学大全」は初学者のために書かれたので、詳細に入ることは避けられているが、スコラ哲学に特徴的なことは、引用が多いことである。これを「典拠・権威主義」と呼ぶことは先に述べた。典拠の採用は「註解書」からきている。トマスは当時のラテン・キリスト教世界の知識人に共通しているように、ヘブライ語もギリシャ語も読めなかった。トマスは古典をラテン語訳で読んでいる。体系的著作においても引用されるテキストの解釈はやはり註解書によって補わなければならない。現在ではアリストテレスや旧約聖書・新約聖書などの優れた註解書を専門的に書ける人はいない。トマスは驚異的な速度で古典を読み・書き、膨大な著作軍群を著した。1273年死の1年前にトマスは「私が見、私に示されたことに比べると、私が書いたすべてのことは藁屑みたいなものだ」といってすべての著作活動を放棄した。従って「神学大全」は未完の書物となった。神学者トマスが、より確固とした神秘の認識を思いかけない仕方で与えられた時、その時の認識が決定的に確固としたものであったからこそ、書く営みを放棄して沈黙したという見方ができる。トマスは「神学大全」第1部第46問題第2項において「世界に始まりがあったということは信仰箇条であるか」という問いを立てた。世界に時間的な始まりがあったか否かという問題に人間の理性の限界を見た。また理性では知り得ない「三位一体の神秘」に、トマスは「ローマの信徒への手紙註解」では「人間たちのもとにおいては隠されていたが、知恵ある神のみには知られれていた神秘」に人間では知り得ない神の神秘を強調した。そうした神秘を決定的な仕方で人間に開示してくれた存在こそイエスキリストであった。「神秘」が単なる不合理ではなく独自の論理と構造を有するものであるという理性と神秘の相互関係を明示した。トマスの「徳論」の特徴は、古代ギリシャのアリストテレスによって体系化された徳論(とりわけ「枢要徳」賢・正義・勇気・節制)を受け継ぎながら、アリストテレスにはなかったキリスト教的な「神学的徳」(信仰・希望・愛)を最重要な徳として体系化しなおした点にある。

第2章) 「枢要徳」の構造

トマスにおいては、人間は現世から天国へ向かう旅人として捉えられている。人生という道を適切な方法で歩むための内的な力を「徳」と呼ぶ。トマスは徳を「枢要徳」と「神学的徳」に分ける。自身及び人間関係の徳は「枢要徳」で、神との関係においては「神学的徳」と呼ばれる。トマスの「徳論」は、トマス人間論の中核をなしている。「神学大全」の第2部の人間論は、第2部の第1部の「倫理学総論」と第2部の第2部の「倫理学各論」に二分される。そのほとんどは「徳論」である。トマスはアリストテレスの「ニコマコス倫理学」を受け継いで、「賢慮」・「正義」・「勇気」・「節制」の四つの徳を「枢要徳」という重要な位置に置き、「人間をよい者にし、人間の働きをよいものにする」といいます。次にディオニシウスの「神名論」を引いて、徳と善と理性の3者の深い結びつきを示します。人間の働きが理性に即したものになるためには、理性自体が健全でなければならない。トマスは理性を直すには「知的徳」によってなされるといいます。「知的徳」とは、人間の知性又は理性を完成させる徳のことを指します。「倫理的徳」とは欲求能力を完成させる徳であり、「人柄に関わる徳」に相当し、「知的徳」とは理性を完成させる徳である。「知的徳」を有すると「頭の良い人」になり、「倫理的徳」を有すると「性格の良い人」になる。そうした意味で人柄の良さを不可欠として伴っている意味での賢さが「賢慮」と呼ばれる「知的徳」である。「正義」とは、この世界に共に生きている者たちの善を的確に配慮する意思の力である。賢と正義に比べると、「勇気」・「節制」の徳の役割は補助的である。勇気は困難に立ち向かう力であり、節制とは自分の欲望をコントロールする力である。「徳」概念がトマスの人間論において中心的な位置づけにあることは、「神学大全」第2部の構成を見れば明らかです。「神学大全」の構成は以下です。
第一部 「神論」
第二部 「人間論」 第1部:一般倫理(総論)「究極目的と幸福」、「人間の働き」(問題群:「意志的行為」、「行為の善悪」、「感情」)、「働きの根源・原理」(問題群:「習慣・徳・罪」、「法」、「恩寵」)
第2部:特殊倫理(各論)
第三部 「キリスト論」
そこにはアリストテレスの「ニコマコス倫理学」の影響が如実に現われている。徳とは良い習慣なのである。トマスは「習慣」・「徳」・「罪」を人間の働きの内的根源と呼んだ。人間の働きの「外的根源」とは「神」と「悪徳」である。そして「徳」」は「法」によって教え、「恩寵」によって助ける。第二部の第2部は五つの問題群に分けられる。「神学的徳」、「枢要徳」、「特別の恩寵」、「観想的生活と実践的生活」、「司牧社の身分と修道者の身分」である。トマスは「徳」と「善」の関係について考察する。理性の動物である人間にとって「善」は豊かな次元が広がっており、また成長につれ時によって「善」は変わってゆく。何かに魅力を感じ、好感を抱くことをトマスは「愛」と呼ぶ。情念の一つである。愛とは「善が気に入ること」と定義する。よく整えられた情動を有する人が究極目的として欲求する善が最も完全でなければならない。次に徳の喜びとして「節制」と「抑制」を挙げる。「節制」という言葉は、バランスよく欲望をコントロールすることに喜びを感じることで、嫌々するのは「抑制」である。節制に対立する悪徳として「無感覚」、「不節制」を挙げる。「節制」には理性と感覚的欲求の間には葛藤がない。トマスは、人間精神が有している諸々の能力を、「把捉力」と「欲求力」に分けている。「把捉力」は認識力のことである。「欲求力」は「理性的欲求力」と「感覚的欲求力」に分ける。理性的欲求力は「意志力」と呼ばれる。欲望は生まれては消えてゆく一時的なものであるが、理性の力で動かされるにとどまらない自律性を持つ「欲望的欲求力」は一生常に存在している。ある情念が善い情念になるには、その情念が理性によって節度づけられている場合である。「節制」は「欲望的欲求力」を完成させる徳である。「欲望的欲求力」自体が内的に高められ、理性の支配と調和的に協働する在り方が可能になるのである。旧約聖書のダニエル書に、ダニエルは禁欲それ自体を目的として行うのではなく、他の目的のために禁欲を利用する話がある。修道者の生き方を支えているのは、「節制」の一つである「純潔」という徳である。修道僧の純潔はあらゆる制的快楽から遁れるというよりは、より自由な仕方で神の観想に専心するためである。キリスト教が万物を肯定するのは、この世界の万物が神によって創造されており、神によって創造された万物は物質的・身体的なものも精神的なものもすべてが善い者だというのが正統的キリスト教の教えである。キリスト教的な世界観とアリストテレス的世界観がトマスにおいて混淆したとき、新しい諸々の徳が生まれた。「殉教」も徳の一員となった。枢要徳と神学的徳を架橋するものとしてトマスは「親和性(ありそうなこと)」という言葉を使う。判断の正しさは、理性の完全な使用に基づくか、なんらかの「親和性」ゆえに基づく。「貞潔」という徳を身に付けている人は、貞潔について親和性によって正しい判断をしている。自らの人柄に体現されている在り方に基づいて、すなわち「親和性」に基づいて、貞潔に係わる事柄に適切な判断を下すことができる。さらにトマスは、神的な事柄についても共感ないしは親和性は、我々を神と一致させる愛徳によってなされるという。アリストテレスが「形而上学」でいうように、@知者には秩序づけることが属している A知恵は理性の最も優れた完全性である B理性自体の務めは秩序を認識することである C感覚的能力には秩序付けを認識することはない。トマスは、多く愛徳を有するものほど、より完全に神を観てより一層至福なる者となるだろうという。トマスの理性は愛徳によって燃え立たせられた理性である。

第3章) 「神学的徳」としての信仰と希望

本章「神学的徳」としての信仰が本書の中心となっている。信仰・希望・愛徳という三つの徳はキリスト教の教えの根幹をなすもので、現在のキリスト教でも変わりはない。前教皇ベネディクト16世(在位2005-2013)は「回勅」として「神は愛」、「希望による救い」を発布し、現教皇フランシスコは、「信仰の光」を発布した。社会問題の解決に応用されるキリスト教の教えとしてではなく、キリスト教の根幹に関するメッセージであった。神学的徳はトマスの発案ではなく、新約聖書の「コリント人への手紙」に残るパウロの言葉である。パウロは中でも「愛」を強調したが、アウグスティヌス以来の教父思想を受け継ぎつつ、トマスはアリストテレスのギリシャ哲学をも受容しながら、神学的徳について体系的な理論を構築したのである。信仰・希望・愛徳という三つの徳にうち、信仰・希望の徳は本章で扱い、愛徳は次章で扱う。まず宗教的な信仰の本質を、ジェイムスは「意志」を軸にして捉え、マッハーは「神への依存感情」で捉えるなどいろいろな立場がある。トマスの信仰論の特徴的なことは、「感情」や「意志」ではなく「知性」を軸にした信仰論を展開していることである。つまり知性の対象である「真理」に関わるものである。トマスにとって「感情」や「意志」の位置は副次的である。宗教以外の面での「信じること」は人間の社会生活において欠かせないもので、自分の充分でない部分に他人の言動をそのまま利用することである。これが社会「正義」の土台なのだとトマスはいう。つまり人間の共同生活は信用(信頼)で成り立っているという事実である。自分の範囲の事項に関しても「信」が無ければ生きていくことはできない。合理的に「信じる」ということは「知る」ことの一つの在り方です。不合理な不信(懐疑主義、孤立)では、理性的で健全な判断はできないし社会生活は営めない。何故「信仰」は「徳」と呼ばれるのだろうか。トマスは「信仰の光は信仰される事柄を見えるように導く」という。人間精神は信仰という習慣によって、正しい信仰に適合する事柄を承認するという。まるで同義反復のようななぞなぞ問答であるが、世俗でいう「鰯の頭も信心から」、「信じる者は救われる」のようなところがあって理解しがたいが、倫理的徳によって語られる「親和性による認識」を、神学的徳である「信仰」に応用した考えである。信仰は信じられる事柄に対する知性の承認を意味する。知性は第1に「直知」によって、または「学知」によって認識される。この信仰と知性の関係はトマスの信仰論の神髄であるので少し詳しく考えてゆこう。知性が承認を与える場合、「直知」とは「理論理性の第1原理」(同時に肯定し否定することはできない)とか「実践理性の第1原理」(善はなすべき、悪は避けるべき)のように自明的正しさを持つからであり、「学知」とは知的徳の一つとして何らかの理性的推論に基づいて結論を得る知性の力である。第2の「知性による承認」の方法とは、固有の対象によって知性が動かされるのではなく、選択によって意志的に承認を与える場合である。「臆見」(推測)と「信仰」である。「臆見」は多少の疑い、恐れを伴うが、「信仰」は恐れなく確信をもってなされるという違いがある。トマスは「信じること」を「知ること」の一形態と見る。信じることは理性の働きであると、キリスト教学とアリストテレス哲学を統合するする。アウグスティウスは「神を見ること」について、承認の確固たることにおいて、承認は認識である。信仰は知ることや見ることであるという。信仰とは人間の知性の受容力を越えた神秘に係わるものであり、神秘そのものである神を現前に見ることはない。パウロは「鏡を通じて謎において見ている。そのとき顔と顔を合わせてみることになる」といい、現世における人間の神認識の間接性と曖昧性を語っている。ぼやけて隠された者が神の神秘に触れることにより、人間は自らの知性の受容力を越えて存在することを確固として承認する。そうした承認を通じて我々は豊かで確固とした知に導かれる。これは「知の認識」とみなすことができるとトマスは考えた。「信」の原点には「知」がなければならない、それゆえ我々は高次な神について人間の認識が存在する、信仰は「神の知への参与」である。信の連鎖が人間共同社会の根源事項である。ヨハネ福音書には「いまだかって、神を見た者はいない。父の懐にある一人子の神、キリストがこのことを知らせたのである」と書いてある。人間の神認識に関する「信の構造」を理解することは、トマス神学の基本構造を理解するために重要である。トマスの信仰論を理解する最大の鍵の一つは、「信仰と理性」、「信仰と知」が不可分の関係にあることを理解することである。「徴、暗示、シグナル」はキリスト教学の基本概念に一つである。トマスは「信仰に属する事柄に承認を与えることは理性を越えているが、しかし間違ってはいない」ともいう。信じることと知ることはの間には決定的な距離があるが、トマスは証明することはできないが、諸々のふさわしい証拠によって暗示されていることから知ることができるという。「神の受肉」、「キリストの受難」は説明不可能であるが、人間救済の妨げになる事柄ではない。むしろ「徴」に積極的な意義が持たされているのである。

トマスは「神学大全」において「信仰は神から注入されるのか」という問いを立てた。信仰に属する事柄に対して人間が あたえる承認には2種類ある。一つは奇跡など外部から誘導される承認、二つは人間を内的に動かす原因としてペラギウス(350-420)派は人間の自由意志のみを措定したが、トマスは人間を内的に動かす超自然的な根源として神に由来し人間に内在する「神の恩寵」を重視した。キリスト教神学の根本問題として、トマスは人間が救済されるのは、神から特別な働きかけ「恩寵」のみによるのか、それとも人間の自由意志が役割を果たしうるのかという問題に対して、トマスは浄土真宗の絶対他力本願の立場をとった。「恩寵と自由意志」はキリスト教思想史全体を貫く根本問題である。宗教改革の先陣を切ったマルティン・ルター(1483-1546)のスローガンの一つは「恩寵のみ」であった。ルターはキリスト教を変える考えは毛頭なく、プロテスタントとして中世スコラ神学と教会権力機構に反抗しただけのことで、彼の思想は「原点聖書復帰」である。従って「恩寵のみ」、「信仰のみ」となるのである。自由意志の役割を強調するペラギウスに対して、同時代人である、西欧キリスト教思想の基礎を作ったアウグスティヌスは、原罪や人間の堕落を強調して人間救済における神の恩寵の役割を強調した。トマスが、ペラギウス派を異端と断罪した理由は、自己の意見に固執することは一つの選択であり、神から与えられた「信仰」を軽視したがためである。それに対して「正統」は偏見を持たない立場である。トマスは自由意志を否定するわけではなく、「恩寵と自由意志」を多面的に両立させようとしたのである。トマスはむしろ恩寵と自由意志の協働というふうに、何でも折り合う折衷主義ともいえる。これがため700年後16世紀末から17世紀初めに「恩寵論争」が再燃した。神が人間を遥かに超えた絶対者として君臨するならば、そのように構築された「絶対者」は人間の仮構物になってしまう危険性がある。トマスは「信仰という行為は功徳あるものか」という問いを立て、「信仰という行為は神によって恩寵を通じて動かされた自由意志から出て来るものであるかぎり、功徳あるものだ」と述べる。トマスにかかるとどんな対立物でも融和し協調するという、融通無碍な思想家である。そしてトマスは「人間は恩寵なしには永遠の生命に値する者になることはできない」という結論を出す。人間は恩寵の外的な助けなしには、自己自身によって自己を恩寵へと準備する(回心)ことはできない。創造主である神に向かって全面的に心を向き直すには、神の恩寵が人間の自由意志に徹底的に先立っているのである。人間と神の自由な相互関係は、最終的には人間と神との友愛という展望に導いている。信仰・希望・愛徳という三つの神学的徳は枢要徳と違って単に人間の努力によって身に着けることはできない。神学的徳といわれる徳は次の特徴がある。@我々が神学的徳によって正しく秩序付けられる限りにおいて、其れは神を対象としている A神によって我々に注入される B聖書の神の啓示によってのみこれらの徳が我々に伝えられたからである。その徳によって「神の至福」を共有することができるのである。トマスは神学大全において「神学的徳というものが存在するぁ」という問いを立てた。神学的徳によって幸福へと秩序付けられる諸々の行為が完成されるのである。トマスは人間の幸福には、人間の自然本性に釣り合った幸福と、ただ神的な力によってのみ到達できる幸福、すなわち「神の本性に分け与る者」となる幸せがあるという。アリストテレスが「ニコマス倫理学」で言う、不完全な幸福と完全な幸福に相当している。神の本性に分け与る者とは「人間の神化」ということである。これは新約聖書に基づくもので、古来キリスト教の根本を「人間神化」とする観点である。トマスの信仰論は、知性では神的真理の内部構造を知ることは不可能であり、神学的徳の成立のためには、知性だけでなく、意思と恩寵がなければならないという説である。信仰は、神が我々にとって真理認識の根源である限りにおいて、人間を神に固着させる。至福を達成するために、希望によって神的な助けを頼りにするならばそれは可能である。「神に固着する」という言葉は、アウグスティヌスの「告白」に述べられている。又旧約聖書「詩篇」にもその言葉が見える。人間は、全世界の根源である神に固く結びつくことによって、それなしでは得られない力を得ることができる。「意志」を完成させる徳である「希望」は、意志の対象である「善」に関わる。最高の善である「至福」に関わるのが、「希望」という神学的徳の特徴である。トマスは、キリストの人生には「希望」とか「信仰」という不完全な在り方は存在しなかったという。宗教は「幻想だ」という人には「希望」とか「信仰」は現実逃避に過ぎないという。しかし至福という状態がないこの世では、「信仰」によって開かれてくる至福に満ちた究極的現実を肯定することによってのみ、希望という神学的徳を抱くことが出来る。神が与える「永遠の至福」という光源が照らし出すこの世界に生きる人生が現れるのである。このような在り方を可能にしてくれるものこそ、「希望」という名の神学的徳なのだ。人間が人間として生きるとは、「希望」を抱いて生きることに他ならない。ここで「希望」という神学的徳はいわば自己中心的な性格を持つ。自らの至福を獲得することであって、社会的同調とか自己犠牲的な要素はない。自分の善を大切にすることは自然で重要だというトマス哲学の基本的な見方が示されている。トマスは「信仰」が「希望」と「愛徳」に先行するものでなければならないという。知性は信仰によって、希望と愛徳するものをとらえる。知性を基体とする神学的徳である「信仰」と、「意志」を基体とする神学的徳である「希望」と「愛徳」の秩序である。神に対して希望と愛徳という欲求の運動が生まれてくる前に、まず知性の働きである信仰によってその存在をとらえる必要があるからだ。希望は到達すべき究極的善にたいする仕方のことで、愛徳は人間の情動を神に一致させることによって人間を神に向かわせることである。希望に対立する悪徳は「絶望」である。トマスは「絶望は他の二つの罪(不信仰と神への憎しみ)より危険である。希望によって我々は悪から呼び戻され善を追求することへ導かれるからだ」という。

第4章) 肯定の原理としての愛徳「カリタス」

愛の徳とは普通は聞きなれない言葉である。カトリック教会では神学的徳としての「愛」(チャリティー)を表現する言葉となっている。トマスは恐らく歴史上の哲学者の中で最も体系的な「愛」の理論を構築した人物であるとされる。チャリティーという言葉は「愛徳」(愛)、「カリタス」の二つの表記を行う。トマスは自己愛は隣人愛に足して優先するという見解を持つ。神学大全において「人は自己自身を愛徳において愛すべきか」という問いを立て、「友愛は一致させる力であるが、人は自己自身に対して一性を持っている。一性は一致より強力である。」といった。マタイ福音書で「隣人をあなた自身のように愛せよ」というが、これは隣人愛の優先を述べたわけではなく、隣人愛のモデルとして自己愛の役割を言ったものである。友愛とは別々のものにとどまりながら、深いかかわりを持つことである。これを「一致」という。「一性」とは確固とした自己愛を持つ人(個の人格が確立した人)そのものであることである。西洋思想の中心である「個の確立」が社会の最前提である。ここでトマスは愛徳の運動の根源に「自己」ではなく「神」を置いた。アリストテレス「ニコマコス倫理学」では友愛論を説いたが、トマスは人間と神の間には至福の共有に基づいた「友愛」があることをキリスト教神学に固有な特徴とした。神が自らの至福を人間に分かち与えて永遠に共有するという人間肯定論という恵みを信じることによって、「信仰」を持つかどうかの決定的な選択が問われるのである。アリストテレスの「形而上学」において言及される神とは、宇宙の運動の第一原因として特徴付けられる「不動の動者」で遥か彼方の存在である。それに対してトマスのキリスト教の神は絶対者に留まるのではなく人間を認め交流を求める神である。いわば「人間を求める神」の人間との友愛としての愛徳をトマスは語るのである。友愛というものはそもそも相互的なものだ。愛徳が「神と人間との友愛」である以上、そこには双方向性がある。トマスは「神のカリタス」という言葉を使う。カリタスとはコミュニケーションの意味にもとれる。神が我々を愛するところのカリタス、我々が神を愛するところのものが神のカリタスである。これも徴の一種である。双方向の「神のカリタス」は主体を厳密に区別する必要がある。スコラ学の大家ロンバルドゥス(1095-1160)は「命題集」の中で「カリスタは精神のうちに住みたもう聖霊そのもの」であるという見解をとった。トマスはこの見解に対して、「カリタスは霊魂のうちに創造されたあるものであり」というならばカリタスは徳であるが、「カリタスは精神のうちに住みたもう聖霊そのもの」というと、カリタスは徳ではないことになると考えた。愛はその本質からして意志の働きを含意しているが、「聖霊によってのみ動かされる愛」など自発性のない愛は愛ではないとトマスは言う。そういう意味で語っているトマス自身の哲学体系・思想体系においても、アウグスティヌス以来のプラトン風の分有概念が生かされている。我々が形相的に智恵あるものという知恵は神的な知恵を分有しているのと同じように、我々が係争的に隣人を愛するところのカリタスは神的なカリタスのある分有なのである。いかなる行為も、行為の根源・原理である何らかの形相によって、能動的能力に親和的であるでなかったら何もできない。物は神によって定められたふさわしい方向へ傾かされる形相が賦与されている。人間の意思がカリタスの運動に違和感なく参画するためには形相が意志のなかに形成されていなければならない。旧約聖書の「集会書」に「類似性は愛の原因である。人間はカリタスに基づいて神より隣人を愛する」という異論を紹介し、トマスは「我々が神に対して有する類似性は、隣人に対する類似性より先なるものである。我々が神から分有していることによって隣人たちと似ているだけのことである」と反論した。また先ほど述べた隣人よりもまず自己自身を愛すべきである命題と同様に、神学大全ではこれをカリタス愛徳の秩序・順序として述べられている。カリタスの第一起源である神への関係に基づいて秩序付けられるのである。分析能力の卓越したアリストテレス(カテゴリー分類大好き人間)による「ニコマコス倫理学」でも、友愛は@利益に基づいた友愛、A快楽に基づいた友愛、B人柄の良さに基づいた友愛と分類し、前者 @、Aは自身が幸福になるために友人を利用する欲望型友愛、後者Bは友愛と呼ぶ。トマスは大全で「人に親切にすることは喜びの原因であるか」という問いを立て、「自らの有り余るほど豊かな善が存在し、そこから他人に分かち与えることは喜びである」と述べている。隣人を愛することの根拠は神であるので、カリタスは単に神への愛にとどまらず、隣人への愛にも及んでくるのである。「愛することは誰かに善を意志することである」とトマスは言う。相手が幸福という最高の善を獲得することを願うのが、相手を愛するということである。肯定の原動力であるカリタスが、神から与えられつつも、自己固有の力として、人間精神のうちに存在するようになる。

第5章) 「理性」と「神秘」

人間を理性的存在として完成させるために、「賢慮」・「正義」・「勇気」・「節制」という「枢要徳」が必要であったと第2章で解説した。第3章で説いた「神学的徳」は、人間を神殿「関係において完成させる役割を果たす。トマス哲学・神学の基本的構造は「神学大全」のやり方に示されたように、キリスト教の教えが答えを用意するものではなく、むしろ問いを与え、その事が人間を理性的存在としてより深く完成させるものであった。新約聖書で語られるキリストは謎に満ちた存在である。キリストはローマ帝国支配からの解放(救世主)に答えを与える強力なユダヤ民族のリーダーではなかった。キリストは「一体全体あの方はどういう方だったのか」という驚くべき神秘に巻き込んで新たな問いに直面させる存在であった。こうした意味で「キリスト教の原点」とは「神秘」との出会いであった。キリスト教の教えの根幹にかかわるのは「キリストの神秘」や「受肉の神秘」(なぜ神がキリストという生身の人間の形をとったのか)である。「受肉の神秘」は「キリスト教最大の神秘」である。キリストを神の「受肉」としてとらえるのは、古代以来の教義論争を経て確立されたキリスト教の伝統的な教義の一つである。なかでも「三位一体論」は中心的な教義となった。キリストは人間として現れたが、同時に神であった。トマスの聖書解釈は13世紀の正統的な教義(ドグマ)であり、よくも悪しくも19世紀以降に成立した歴史批判的聖書研究の洗礼を受けていない。そもそも聖書には人間救済のために示された神の啓示や、物語的な手法で宗教的出来事を語るものであり、神について体系的に語ってはいない。聖書から人間救済につながりうる真理をより抽象度の高い次元で展開する理論(神学)が、「三位一体論」や「キリスト論」という教義である。トマスは「受肉の神秘」を神が自らを人間に一致させるため、さらに人間を神に一致させるために実現されたものであるという。神が人間本性を摂取して神的本性と一致させることによって、人間本性側に新たな善の状態を引き起こすのが「受肉」という出来事なのだと説明した。永遠の生命へ導く人間救済のために神が示した「秘跡」は狭い意味で、洗礼、堅信、聖体、悔悛、終油、叙階、婚礼の7つであるが、広い意味では、キリストの懐胎、誕生、割礼、受洗、交際、試み、教え、奇跡、変容、受難、死、黄泉への下降、復活、昇天といった生涯の出来事のすべてが「受肉の神秘」に含まれる。トマスは神学大全において「神が受肉することはふさわしいことであったか」との問いを立て、ディオニシウスの「神名論」より最高善〈神)の特質は人間に伝達すると引用し、またアウグスティヌスの「三位一体論」を取り上げて、神と魂と肉体の三者が一つのペルソナ(人格、個性)になることで、人間本姓を神に結合することはふさわしいと述べている。トマスはディオニシウスに由来する「善の自己伝達性」を「受肉の神秘」の説明に援用している。トマスは大全に「世界の万物の多さと種類は神に由来するのか」というの問いを立て、神が自らの善性を被造物に伝達されたためであると答えています。またトマスは「恩寵論」においてペテロの手紙から「成聖の恩寵(恩寵を受ける本人を聖化する)」、「無償の恩寵(他者を神との関係へと導くために神から与えられる恩寵)」を強調している。恩寵はあくまで神のみが与えることができるが、恩寵を受けた者は他人をも救済する手助けするために神の善を他者に分与することができる。「ヨハネ福音書」においてキリストは「私が来たのは彼らが命を持ち、より豊かに持つためにである」と述べている。神の受肉は幸福へ向かおうとする人間たちにとって最も効果的な助けである。トマスの「受肉論」はアリストテレスの「幸福論」の影響が濃厚である。アリストテレスは一人の幸福は幸運に過ぎないが、人類全体の充実が「幸福」だとする論である。トマスは理性的存在である人間にとって「完全な幸福は神を直接的に観ることである」という。感覚的世界に在っては神は簡単には捉えがたいが、はたして人間は可知的に神をとらえることができるのだろうか。451年カルケドン公会議で「カルケドン信教」が採択され、「三位一体」という正統的教義が確立した。「キリストは位格ペルソナにおいては一であるが、そのペルソナが神性と人性という二つを担うという」ということである。キメラ的存在であり、矛盾の融合の極みである。トマスは「異教徒大全」において、理性によって必然的的な方法で論証できない場合、「最もふさわしい」という形容詞が用いられる。キリストの神秘ではこの言葉が多用されている。理学で理性的論証は必須である。しかし人生において真に重要な事柄において、理性で論証できることなど何があるだろうか。キリスト教の教義を丸ごと「信じ込む」のではなく、理性で丹念に考察してなお手に余る事柄(神秘)を理解するには「ふさわしい」という論理が必要だとトマスは主張する。最初の人間であるアダムが罪を犯して以来、人間の本性が神の恩寵から切り離され、人間本来の働きが弱まったとする「原罪論」をトマスは踏まえて、アダムの罪は、人類を究極的な至福へと導くキリストの受肉をもたらすきっかけとなったと主張する。まことにどんな矛盾も融和させ混淆させる融通無碍・天下無敵の弁証法をトマスは持っている。「人間万事塞翁が馬」式の弁証法である。失敗は成功の母であり、成功は失敗の元であるとする論理である。人間本性を回復させるために受肉がふさわしいとする理由を十個列挙している。「受肉の神秘」という人間理性による理解を超えた事柄の意味するものを、トマスは理性に基づいて(屁理屈に過ぎないと思うが)探求するのである。その理由の5つを紹介する。@信仰に関する限り、A希望に関する限り、B愛に関する限り、C正しい行為に関する限り、D人間の至福である神性に関する限りであるという。要するに神学的徳に関する事柄は「ふさわしい」という論理で処理できるとするのである。人間理性の自己超越性は「神秘」との対話によってのみ到達できるという。キリストによって開示された神の神秘性へと理性によって肉薄する開かれた態度、それがトマスの根本精神であるということが本書の結論である。「理性」と「神秘」の相互作用を軸に考えることによってこそ、トマス哲学・トマス神学が捉えられる。今思うと、パスカルの「パンセ 断章」は、未完で未編集状態で残されたパスカルの神学的瞑想であった。トマスより約400年後の「神学大全」になろうとして能力と時間がなかった未完の書であった。


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