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文藝散歩 

出村和彦著  「アウグスティヌスー心の哲学者」
岩波新書(2017年10月)

「西洋の父」アウグスティヌスの伝記ー知の探究を通してキリスト教の道を歩む

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アウグスティヌス像(15世紀ボティチェリ作)

この本は、古代末期のローマ帝国の地中海的世界に生きたアウグスティヌス(354-430年)なる人物の紹介(伝記)である。アウグスティヌスは、西欧最大のキリスト教思想家として、神の恩恵を絶対視するアダムの原罪論、予定説という強固な神学を打ち立てたキリスト教イデオロギストとして知られている。三位一体論というキリスト教教義の確立者で「神の国」という大著を著した歴史哲学者である。また自分の半生を悔いてキリスト教に回心したことを記す「告白」という書で知られる。本書は伝記風に彼の人生を辿って、なおかつ一貫してキリスト教学理論を探求し続けた偉大な哲学者の、心の変遷を追いかけています。上に掲げたアウグスティヌス像(15世紀にイタリアのボティチェリ作)を見ると、司教という高位聖職者の沈思黙考する厳粛な面持ちと、背景には幾何学模様を持つ書や地球儀、時計などが描かれ、自己の内面を深く探っている哲学者と同時に、数学や自然・宇宙の教養を身に着けた学者という雰囲気で、アウグスティヌス没後1000年後に描かれた肖像画です。アウグスティウスはローマ帝国も支配下にあった北アフリカ(アレクサンドリア、カルタゴの文明で栄えた地方、今のアルジェリア)にうまれ、生涯の大半をその地で活動した、古代末期の司教であった。アウグスティヌスは遺した著書・書簡・説教を通じて、古代から現在まで人々の心に親密に語りかけた哲学者であった。76歳まで生きたアウグスティヌスは93篇232巻に及ぶ自著を読み直して注をつけた一覧書「再考録」を出版した。これによって現代のわれわれは彼の著作と思想を読むことができるようになった。アウグスティヌスには神と人々の前で自らの人生を語った「告白」という哲学的自伝がある。彼自身の口から、彼の行動と心の軌跡を直接聞くようなもので、第1次史料である。心の軌跡こそが告白の実質的内容をなしている。本書にはいる前に、アウグスティヌスの略年譜を下に記す。
354年 (0歳)   11月11日北アフリカの町タガステにて、父パトリキウス、母モニカの長男として生まれる。
367年(13歳)  マダウラの文法学校に入学
369年(15歳)  学費が枯渇し学校を中退 故郷に帰って不安な生活となる。
370年(16歳)  母モニカの親戚の援助でカルタゴンノ修辞学校に進学。ある女性と同棲する。父逝去
372年(17歳)  息子アデオダツゥス生まれる。
373年(19歳)  キケロ作「ホルテンシウス」を読み哲学に目覚める。マニ教に傾倒し聴聞者になる。
374年(20歳)  タガステで文法学校教師となる。
376年(22歳)  カルタゴの修辞学校教師となる。
381年(27歳)  コンスタンチノープル第2回公会議で三位一体をめぐる正統教義が確立。
383年(29歳)  マニ教司教ファウストゥスと面談しマニ教に失望する。ローマで教師の職に就く。
384年(30歳)  帝都ミラノの修辞学学校の教授に就任。司教アンブロシウスと出会う。
385年(31歳)  母モニカがミラノに来る、パートナーと離別する。
386年(32歳)  新プラトン派の書物を読む。キリスト教に改心する。修辞学校を辞職し、カッシキアムにて母、息子、友人、弟子たちと共同生活をする。
387年(33歳)   司教アンブロシウスから受洗。母モニカ死去。
388年(34歳)  マニ教論駁に着手。「自由意志」を書き始める。タガステに戻る。
390年(35歳)  「真の宗教」を書く。
391年(36歳)  ヒッポ教会の司祭となる。「詩篇註解」を書き始める。庭園の修道院での生活が始まる。
394年(40歳)  ドナティスト論争に参加する。
395年(41歳)  司教補佐になる。「自由意志」三巻完成、テオドシウス死去。
396年(42歳)  司教に就任。「キリスト教の教え」を書き始め三巻で中断する。
397年(43歳)  「告白」を書き始める。
400年(46歳)  「告白」善3巻が完成する。「三位一体」を書き始める。
410年(56歳)  体調を崩し療養生活を送る。ローマ劫掠。ペラギウス、北アフリカに避難する。
411年(57歳)  カトリックとドナティスト両派の協議会に参加する。
412年(58歳)  「霊と文字」を書く。ペラギウス論争に関わりはじめる。ドナティスト鎮圧勅令が出る。
413年(59歳)  「神の国」三巻を書き進める。
418年(64歳)  カルタゴ教会会議が ペラギウス主義を断罪。「キリストの恩恵と原罪」を書く。
419年(65歳)  「三位一体」全15巻完成 
420年(66歳)  「詩篇注解」完成 
426年(72歳)  司教職を引退する。「神の国」全22巻完成。「キリスト教の教え」完成。
437年(73歳)  「再考録」完成 
429年(75歳)  ヴァンダル族が北アフリカに進攻。 
430年(76歳)  包囲されたヒッポの町で死去。    

第1章) アフリカに生まれてー青年時代まで

アウグスティヌスはAD354年11月13日、北アフリカの伝統的なローマ都市タガステに生まれた。タガステが属するプロコンスラリス属州は、北アフリカ第一の港湾都市カルタゴを総督府とし、オリーブや穀物をローマに提供する豊かな農業生産地であった。シチリア島の古都リリュバエウムから海峡で隔たること200Kmの対岸にある。カルタゴはチュロス(フェニキア)から植民した人々が築いたという。カルタゴは航海術に優れたフェニキア人を始祖として地中海貿易で栄えた古代都市国家であった。ローマ時代の初期、カルタゴの将軍ハンニバルがアルプス越えでローマに接近し、ローマを存続の危機に陥れた歴史を持つ。当時はローマ帝国の属州の下にあって、タガステはカルタゴから西に200Kmに位置する交通の要所であった。アウグスティウスの生きた時代(4世紀中頃ー5世紀初め)は「古代末期」と呼ばれる。ローマ帝国は今や黄昏の時期にさしかかり、徐々にキリスト教中世へと変貌する端境期である。313年コンスタンティヌス皇帝の発したミラノ勅令により、325年ニカイアの公会議により、父なる神子なるイエス・キリストは神として同一であるという教義を正統として確認し、自らキリスト教へ入信した。この教義はさらに議論され、父なる神と子なるイエスと聖霊とを一体のものとみなす三位一体の教義がキリスト教正統の信仰箇条となって確立されローマ帝国の宗教となった。395年ローマ帝国は東西に分裂し、支配力に陰りが見えると異民族の侵入が激しさを見せるようになった。410年にアラリック1世率いる西ゴート族が西ローマ帝国のローマを侵攻・陥落させ、市内を略奪した「ローマの劫掠」が起きた。北方よりガリアを席巻してヴァンダル族が北アフリカの地中海沿岸を西から侵入した。430年アウグスティウスはそのヴァンダル族のヒッポ包囲網の中で76歳の生涯を終えた。アウグスティヌスの父祖は3世紀初めカラカラ帝のときローマ市民権を得て、畑や果樹園を所有していた。平民階級の家であった。父パトリキウスはタガステの名士であり市会議員を務めた。母モニカも平民階級の出で、熱心なキリスト教徒であった。父は町の祭礼をする関係があって死の直前までは洗礼を受けなかった。アウグスティヌスも33歳まで洗礼を受けなかった。自由に教会に出入りしながら、彼の青年時代の関心はラテン語古典に根差した自由学芸の勉学にあった。アウグスティヌスの宗教的素地を形成したのは、敬虔な母親モニカのカトリックの影響でした。しかし彼の知的精神をはぐくんだのはローマ帝国の学校教育システムに他ならない。初等教育・中等教育はローマ帝国の教養主義教育であった。その中心はギリシャ・ローマの伝統である弁論術すなわち修辞学教育であった。ギリシャ語も教えられたがアウグスティヌスは得意ではなく、ラテン語はしっかり身に着けたといわれる。彼は13歳になるとマダウラの文法学校に進学した。文法学校では古典文学の朗読が基本である。文法学校での学習は上の修辞学校で学ぶための準備でもあった。15歳の時、アウグスティヌスは学業途中で故郷タガステに戻された。学費の工面がつかなくなったためである。ここでしばらく不安な生活を送ることになり、妙に無頼漢的な言動をしたという。「梨盗みの思い出」というエピソードが「告白」において語られている。母モニカの縁故の者であるロマニアヌスがカルタゴ遊学の学費を援助してくれることになり、16歳の時に修辞学校に通うことができた。カルタゴでは観劇の夢中になり「恋に恋した」ように、ある女性と同棲することになった。15年間パートナーとして家庭生活を持ったし一人の子どもももうけた。19歳で修辞学校の最上級クラスに進み、キケロのギリシャ哲学の入門書である「ホルテンシス」を読み、知恵への愛を燃やした。キケロの書物にはキリストという言葉は無かった。聖書とキケロの哲学を比較して、彼は哲学の方向に向いたが、彼にとってキリスト教と哲学を架橋する独自の思考法が終生の課題になることを自覚していった。キリスト教に飽き足らなかった彼は、当時イタリアや北アフリカで力を持っていたマニ教へ傾倒した。マニ教もキリスト教の一派であった。マニ教は3世紀ペルシャのマニが起こした二元論教義を持つ世界宗教で旧約聖書を否定し、善と悪、光と闇の二元論に彼は興味を持ったようであった。マニ教は聖職者と在家信者からなる教団を持っていたが、ローマ帝国では非合法化されていた。374年20歳でカルタゴの修辞学学校を卒業したアウグスティウスは故郷のタガステに帰り、文法学校教師となった。友人の死にあった彼はひどいショックを受けたが、そのような自分こそ最大の問題と思い直し、カルタゴに向かった。376年22歳カルタゴで修辞学学校の教師の職を得て、マニ教にも満足できない彼は「漂泊者」の生活を送った。彼は教師の傍ら自発的に哲学の研究にも没入した。キケロを通じて、ストア派・エピクロス派といったヘレニズムの哲学諸派の学説を吸収した。美について、「詩篇」について学んで、27歳の時「美と適合について」の処女作を発表した。383年29歳のとき、マニ教の司教ファウストゥスと面談し日ごろの疑問をぶつけてみたが、回答が得られないままマニ教に失望した。同じ年アウグルティウスはカルタゴの学校にも失望しローマへ移住して教師の職を得た。彼の哲学の勉強はキケロの対話集「アカデミア」で展開されている懐疑派の論点は、その時の彼の心にしっくりくるものがあった。独断的な命題については、真でも偽とも判断しないは判断中止(エポケー)の態度を正しいとするものである。その時帝都ミラノの公立修辞学校の教授の推薦依頼がローマ市長のもとに届いた。384年30歳で市長の推薦を得てアウグスティウスはミラノへ旅立った。

第2章) 遅れてきた青年ーマニ教からキリスト教に回心

この頃ミラノに遷都して皇帝ウアレンティアヌス二世が統治していた。ついにアウグスティヌスは30歳にして帝都で出世の糸口をつかんだところであった。ミラノ教会の責任者は司教アンブロシウスであった。同時に帝国全体のカトリックのリーダーとして活動する立場にあった。司教アンブロシウスは帝国の東半分を支配する皇帝テオドシウスとも交渉し自派の勢力範囲の拡大に努めた。コンスタンチノープル第2回会議(381年)において三位一体説をキリストの政党として確立し、自派のニカイア正統派以外は公的礼拝を禁止するキリスト教の国教化を指導したといわれる。司教アンブロシウスは聖職者というよりキリスト教の利害を代表する政治家であった。アウグスティヌスはミラノの修辞学校の教授として就任し、司教アンブロシウスと知り合った。司教アンブロシウスはギリシャ・ローマの古典的教養を備えた包容力のある指導者で、彼に導かれてアウグスティヌスはマニ教の神観念を脱し、次第に霊的次元に目を開いていった。旧約聖書の多くの箇所はその比喩的解釈によって霊的な意味に解釈されることを教わった。人間を超越した精神的・知的・非物質的・不可変的な創造神と、感覚的に捉えられる被造物との区別を認識した。マニ教では善悪二元論を立てるが、司教アンブロシウスは「自分たちが悪をなすのは自分たちの自由意志にある」という考えを持っていた。385年に母モニカがミラノにやってきて、司教アンブロシウスの主宰するカトリック教会に通い、息子アウグスティヌスの正式な結婚相手探しに奔走した。両家の子女との婚約が結ばれたが、結婚するには2念を待たなけれbならなかった。このためアウグスティヌスは長年のパートナーと別れざるを得なかった。引き裂かれた自己と自らの意思の弱さに向き合って、「心」の問題を深く考えるようになった。問題は自ら行う意志そのものにある。自らの意思の問題であるなら、情欲や衝動のせいにできない責任が生じる。そのように考えると、司教アンブロシウスの「自分たちが悪をなすのは自分たちの自由意志にある」がよく理解できるようになった。そのような折、新プラトン派のプロティヌス「エンネアデス」を読み、彼の知恵への愛(哲学フィロソフィ)が甦った。プロティヌスは超越的で根源的な「一者」から光が広がるように知性や魂が流れ出し、もろもろの魂や物体に波及する。(演繹法)そして下位の物体や魂はより普遍的な知性を経て「一者」への合一へ還帰するという体系(帰納法)である。アウグスティヌスは自分自身へ立ち返って最も内奥にある「心」に行き着くのである。アウグスティヌスが新プラトン派から読み取ったものは自己の内面性という空間で、内面の奥にある「超越する創造神」=心から光を与えられるのであった。彼はここで本当の意味で聖書を読み直す決心をして、「パウロ書簡」を読むに至る。その時旧約聖書と新約聖書のが整合的に読めるようになったと「告白」に記されている。386年32歳にして、かれは司祭シンプリキアヌスを訪問した。司祭シンプリキアヌスは司教アンブロシウスの受洗の指導者であった。司祭より信仰告白をしてキリスト教に回心し修辞学者が教師を辞めた例を聴いて、ここにアウグスティヌスの心が決まった。都市を捨て砂漠に出るように、私的財産を処分して無一文の清貧生活に入る聖書の言葉にいたく動かされた。自己の内奥の核心で読み取ることこそ、神の言葉を理解することであった。このような中心的な自己を彼は「心」といった。「使徒パウロの書を読んだとき、不思議な力ではらわたに沁み込んでゆきました。」と表現している。さらに「ローマ人への手紙を読み終わったとき、安心の光が私の心に注ぎこまれ、すべての疑いの闇は消え去った」といって彼はキリスト教に回心するのです。聖アウグスティヌス修道会の紋章に「心臓を射抜く愛の矢」の表章があるのはその故事にならったものです。アウグスティヌスは神のことを「あなた」と呼びかける。アウグスティヌスの宗教性は、知的な理解とともに心に響く感性をも兼ね備えている。

第3章) 哲学と信仰とー洗礼から司教になるまでの修道院生活

386年(32歳)でキリスト教に改心し、良家の娘との結婚を破棄して修辞学校を辞職したのち、決心して清貧な生活を営むべくミラノ郊外のカッシアキムで哲学仲間の共同生活を模索した。その地には現在アウグスティヌス記念公園があり、アウグスティヌスとモニカの記念碑が立っている。友人(パトロン)の別荘を借りて農作業と哲学談義に日々を過ごした仲間には、母、弟、息子、二人の従兄そして弟子達らがいた。この共同生活はいわばサロンであり学園アカデミアのようなものであった。カッシキアムでの日々の会話・議論は「カッシキアム対話篇」として公刊され、真理探究の論理的認識論問題、倫理学的問題、秩序に関わる美学的問題が議論された。そして旧約聖書の「詩篇」から神に呼応する信徒の声を聞き取った。カッシキアムで彼が著した最初期の著作には、「アカデミア派駁論」、「至福の生」、「秩序」、「ソリロキア独白」の四篇がある。アウグスティヌスは、ギリシャ・ローマの伝統的な教養科目である文法学、修辞学、弁証論、音楽、天文学、幾何学、数論の七教科である。彼はこれらの教養が哲学の基礎となって人間を幸福に導くと考えた。翌387年彼はミラノに戻り、司教アンブロシウスや司祭シンプリキヌスの指導の下に、信仰箇条の勉強・断食を含む40日間の洗礼の準備期間を送った。4月24日キリスト教徒アウグスティアヌスが誕生した。有望な展望を開けぬままミラノを去って故郷タガステに戻ることになった。故郷への帰路、母モニカが熱病で亡くなった。永遠の真理に触れらる場所で、生命は知恵として、すべてを作り出す源泉として現れることを悟った。このエピソードは新プラトン派の、知的な上昇を伴って物質的な世界から精神的で知的な彼方への帰還を果たすという考えの影響が濃厚に見られる。タガステに向かう船を待つとき、簒奪皇帝マクシムスの軍勢がローマの港を封鎖したため、やむなくローマに滞在することになった。マニ教の影響が強いローマで一連のマニ教論駁の執筆公刊に着手した。388年「カトリック教会の習俗とマニ教徒の習俗(道徳)」は教徒の生き方を聖書の権威に訴えるのではなく、人の生きるべき道を理性にの基づいて探求するということです。アウグスティヌスはソクラテス以来の「私たちは誰でも幸福な生を送ることを望んでいる」ことを人間の理性的な共通前提としている。幸福とは最高善を所有することです。「それはただ愛によってのみ可能である」というもので、ギリシャ・ローマ的伝統が求めていた幸福は、キリスト教の紙を愛してこそ実現することです。ローマでさらに「マニ教徒に対する創世記論」388年、「自由意志論」388年を執筆した。「神が善である以上、神が悪を為すことは無い・・・悪人の誰しも自分の悪しき行いの創始者である」(親鸞の言葉:善人なおもて往生す、いわんや悪人をや 徹頭徹尾の悪人はいない、それを善に導くのが宗教であることの論に近い。) アウグスティヌスは「唯一の神に向かい、私たちの魂をこの唯一なる神に結びつけることから宗教」と呼べるのだと宗教を定義します。唯一の神とはキリスト教の三位一体の神に他ならない。故郷タガステに戻って3年が経った390年(35歳)に、息子を17歳で亡くした。389年に著したこの息子との対話篇で「教師」には青年に期待する父の愛情がにじみ出ている。アウグスティヌスがタガステからヒッポの町にある人との面会に出かけた時、急に司教ウァレリウスと町の人に迎えられて司祭に祭り上げられた。ヒッポの司教ウァレリウスは彼に「庭園の修道院」を提供してくれたので、アウグスティウスらの仲間と一緒にタガステを引き払ってヒッポに移り住んだ。その修道院で彼は仲間とともに、祈りと討論と著述の仕事に取り組んでいった。ヒッポで著した書に、「83の問題集」、「詩篇註解」、「ローマ書選釈」、「未完のローマ署註解」、「ガテアラ書註解」394年などがあり、「シンプリキアヌス」396年では罪の理解、恩恵の理解が深まったようだ。また「二つの魂」392年では再びマニ教批判を行った。アウグスティウスは司教ウァレリウスを補佐して大きな働きをした。マニ教に対する公開討論を開催し「フォルトゥナトゥス駁論」392年を残した。395年アウグスティウスは司教補佐に任命された。396年司教ウァレリウスが亡くなると、正式な司教としてヒッポの町のキリスト教の責任者となった。

第4章) 一致を求めてードナティスト分派との調整、「告白」執筆

396年、司教となってアウグスティウスは「キリスト教の教え」を執筆した。パウロ書簡読解の結論というべき「シンプリキアヌス」396年に続く著作である。この書は信者への教えではなく、聖職者は説教をどうするかという方法論であった。いわばコミュニケーション論である。昔取った杵柄である修辞学である。聖書は読まれるべきもの、説教は語るものである。聖書は言語というしるしを通じて神の言葉の意味を深く内的に理解する(発見)。説教者は聖書の言葉を己の理解の限り読みつくして、その意味を会衆とともに分かち合うべきである(伝達)。彼は、聖書の神髄を「愛の掟」を理解すべき事柄の中心に置いた。「神を愛し・自己を愛するように・隣人を愛する」の三つの愛を説いたのである。397年43歳の時、アウグスティウスは「告白」の執筆に着手した。「自分が過去においてどのような人間であったか、現在においてなお如何なるものであるか」をありのままに打ち明けるのである。弱い自分に示される神の無償の憐れみとゆるしに「感謝し、そのような恵みを与える神にたいする神の偉大さを賛美することであった。「告白」は三部構成からなる全13巻の書であり、第1部(第1巻―第9巻)は自分の誕生から母の死までの過去の出来事、第二部(第10巻)は司教として現在の心のありよう、第三部(第11巻ー第13巻)は創世記第1章の解釈・未来の安息という結末が描かれている。(今も、第三部の連絡・落ち着きが悪いと問題となっている) 人間の心とは思い通りにはならないものである。アウグスティウスのような聖職者でさえ、我々と同じく煩悩に苛まれている。そういった自分の心のありようを感謝の念をもって告白している。神を愛する心を読者とともに分かち合おうととしているのである。「神の恩恵」を神の働きとして具体的に示している。自分とはいったい何者なのだろうか。自分の意識や意志は記憶に留められる。記憶と意識と意思からなる人間の精神の構造を明らかにしようとアウグスティウスは苦労している。17世紀近代の哲学者デカルトは「コギトエルゴスム:自分が生きているからこそ自分を疑えるのであり、自身の精神の存在性は確実である」と考えた。しかしアウグスティウスは自我や自己意識は確とした実体というよりも、自己の内奥に存在する中心としての「心」に立ち戻ってゆく。彼は、外から内へ、そして内から上へ、時間を越えた永遠の神に向かう心と身体が一致した自己の在り方を、自分の根底に据えている。20世紀の現象論者フッサールが時間の問題に取り組むなら「告白」を読めと言っている。アウグスティウスが時間を論じる意味は、まだ存在しない未来を期待し、もはや存在しない過去を想起し、捕捉しがたい現在を意識して生きてゆく生のあり様そのものが哀れな存在であることに気付いている。アウグスティウスは13巻で「愛という力(重力)は私の重さである」という。「告白」は聖書を理解しつつ、本当の知恵を愛し求める哲学の書である。
地中海の東岸ではじまったキリスト教は、紀元1世紀半ば、使徒パウロの宣教などによって、シリア、小アジア、ギリシャ、そしてローマに広がった。他方地中海南岸にもキリスト教は布教された。エジプトには使徒マルコによってキリスト教が伝えられ、今も人口の一割を占める「コプト教会」は存在する。地中海の拠点都市を中心に、各地に定住するギリシャ語を話すユダヤ人の集団でキリスト教は広まったと考えられる。北アフリカ(カルタゴ)にキリスト教が伝わったのは紀元2世紀のことである。北アフリカのキリスト教殉教者の血によって3世紀には急速に広まった。303年に始まったドミティアヌス帝による大迫害期に教会を守るためローマ帝国に妥協する一派とそれに反対する一派が分裂した。311年帝国に妥協する派は司教カエキリアヌスを立て、反対する派はドナトゥスを立て分裂した。反対する派を「ドナティスト」と呼んだ。両派は教会の正統性を主張して激しく対立した。その後コンスタンチヌス帝はキリスト教を容認する態度をとって帝国の統一を図った。皇帝はカエキリアヌス派を支持し、ドナティスト派を禁止した。ドナティスト派から過激派キルクムケリオネス集団が派生した。4世紀末、カトリック教会はカルタゴの司教アウレニウスの指導の下で両派対立の調整を試みた。「カトリック」という名は「普遍」という意味であり、教会分裂を避け統一するために付けられた名称である。アウグスティウスは毎年カルタゴで行われる教会会議にヒッポから参加した。403年の第8回会議以降、両派はローマ帝国の権力を取り込んで更に事態は深刻化した。410年西ローマ帝国皇帝ホノリウス帝は両派の協議会を招集し裁定が行われた。両派より合計600名弱の司教が集まりでもストレ―ションをかけた。カトリックを代表するアウグスティウスは最後にはコンスタンチヌス帝の通達を持ち出し強引に決着を図り、翌412年1月ドナティスト鎮圧勅令が出された。ドナティスト派の財産は没収されカトリック教会に併合された。こうしてドナティスト派派勢力を失い、カトリック教会に一本化された。
ヒッポの遺跡の丘には「聖アウグルティヌス記念教会堂」がある。聖遺物としてアウグルティヌスの骨の一部が埋葬されている。アウグルティヌスは司教座聖堂で執務し10名ほどの同僚の住む修道院と隣接いていた。相談事をする人々の列は切れず、その上司教には「司教裁判」というローマの裁判体系を補完する仲裁裁判の仕事があった。それ以外に彼のもとには各地から手紙による相談事が多かった。膨大な書簡集が遺されている。文学形式として古代においては書簡は重要なジャンルである。アウグルティヌスは説教の基礎となる聖書研究はたゆまず続けていた。司祭時代に始めた「詩篇註解」は続行され、150篇からなる「詩篇」全体の註解が完成したのは420年60歳の時であった。「創世記遂語注解」は401-415年にかけて書かれた。「ヨハネ福音書講解説教」は407年ころから418年までの説教を集めたものである。410年8月帝国全体を震撼させる大事件が起こった。アラリックが率いる西ゴート族がローマを包囲し掠奪の限りを尽くした。3日間の「ローマの劫掠」である。5世紀帝国の基盤は大きく崩れ始めた。アルプスの西側から蕃族が侵入する事態となった。帝国の破壊と自壊が同時に進攻したのである。「ローマの劫掠」はアウグルティヌスに「神の国」を書かせた。アウグルティヌスにとって、民族や地域の相違を超え共通のローマ市民的生活は与えられたものとして、諸都市がローマとネットワークで結ばれ、ニカイア・コンスタンティノープル信条を共有することで統一を図る帝国の存在は疑う余地のない当然のものであったが、その基盤が音を立てて崩れ始めたのであった。地中海世界の混乱は大きかった。地中海は避難民の海に変わった。貧困と奴隷化の嵐が吹き荒れた。アウグルティヌスは人間としての精神的な再構成を論理的な表現に求めるものであった。かれは謙遜とへりくだりを強調した。貧困の問題が最大の問題になった。司祭による救貧活動に従事したが、経済措置より精神的倫理的崩壊を立て直す活動であった。

第5章) 古代の黄昏ーペラギウス論争、「神の国」執筆、ローマ帝国の最後

「ドナティスト」派による教会分裂の収拾に奔走しているアウグルティヌス達にとってさらに信徒ペラギウスと貴族カエレスティの思想と行動が北アフリカのカトリック教会に衝撃を与えた。ペラギウスはパウロ書簡の解釈を通じて人々に道徳的自覚を求めるものであった。ペラギウスは道徳的完成に向けて禁欲的修徳修業を実践する信徒であったが、410年アラリックの率いる軍勢から遁れてカルタゴに渡った。貴族カエレスティがカルタゴで司祭になろうとしたことが事態の悪化を招いた。彼は教会は道徳的に立派な人から構成されるべきであるという主張をした。ドナティスト問題に最終決着をつけたばかりのカルタゴカトリック教会にとってまた一難が襲った。ペラギウスの人間の原罪論をめぐる論争では人には原罪は無いという人間観に基づいている。411年カルタゴ教会会議でペラギウスの説は否定され、カエレスティの司祭志望は退けられた。その後ペラギウスはカルタゴを去り小アジアのパレスチナで司祭となった。しかしアウグルティヌス達にとってペラギウスの説は新しい異端に他ならないと見て厳しく弾劾した。418年カルタゴ教会会議の決定と、ローマ司教ゾシムスによる異端宣告と破門でもって係争は決着した。ペラギウスの説は聖書解釈に基づく高度な神学論争を含んでいたので、アウグルティヌスは培った学識によって、ペラギウスの著書を一つ一つ論駆する書を書いた。410年帝国書記官であるマルケリヌスが、皇帝特使として護民官の役割を担い、ドナティストとの協議会を主宰するためカルタゴにやってきた。マルケリヌスは帝国の高官だりながら同時にカトリック教の生き方を見つけている官僚であった。マルケリヌスから幼児洗礼の必要性に関する質問書に、アウグルティヌスは「罪の報いと赦し、幼児洗礼について」を書いた。一人の人アダムによって罪がこの世に入り、人の本姓は決定的に損なわれた。それは人類全体に伝播している、すなわち「原罪遺伝説」である。だから幼児でも洗礼が必要であると論じた。ドナティスト論争からペラギウス論争まで、教会会議と外交交渉の日々が続いたが、アウグルティヌスは400年46歳の時から「三位一体」の執筆に着手している。419年頃(65歳)に全体を完成し公刊した。キリスト教には、父なる神、子なる神、聖霊なる神が。独自に働きながら永遠に一体の神であるという教義がある。アウグルティヌスは三位一体の神秘を理性で理解することはは不可能であると悟った。アウグルティヌスはアリストテレスの「カテゴリー論」で学んだ論理学を援用して、個別的なものがそれぞれ存立する「ペルソナ」という存在様式に着目した。父子聖霊が神としては本質的な実体でありながら、三者がペルソナとして関係しあうと分析した。人間の在り方も「内的な方法」を取ることによって人間にも神そのものの在り方を想像できるのではないかと考え、一人の人間として活動している時、「存在すること」「知ること」「意志すること」の三つは区別されながら不不可分に結びついていることに気が付いた。自分自身の心の働きはその三つが自己の生において一つの本質をなすと彼は理解したのである。410年ローマの劫掠の年、アウグルティヌスは「神の国」の執筆に着手した。ローマが侵略された原因はキリスト教の国教化にあるとして、伝統的多神教宗教の異教徒らが非難した。これに対する反論の書として書かれたのだが、必ずしも異教徒への反論にはなっていない。「神の国」全22巻は前半10巻では異教徒の思想家の主張に反論を加えた。キケロ、ウェルギリス、ウァロ、リウィウス、サルスティウス、アプレイウス、などの書物を博覧して「哲学者達の神学」を中心的に検討した。イオ二オ派、ギリシャ哲学をも系譜的に概覧している。アウグルティヌスはプラトンを神を知るものとして称賛しているのが面白い。「神の国」全22巻が完成するのは426年72歳の時であった。アウグルティヌスの検討は政治社会学にも及び、ローマ共和政制度つまり人民と元老院の合体に、ローマ帝国の繁栄の礎があったという。「人民」とは「その愛する対象への共通の心によって結合された理性的な多くの人々の集団」といい、「国とは何らかの社会的な紐帯で結ばれた人間の集団」、その社規的紐帯とは「法的合意」と「利益の共有」であると分析した。しかしアウグルティヌスの現実の権力に対する批判は鋭い。「正義の無い国は大盗賊以外の何物でもない」と指摘する。無論共通善に基づく法と正義を貴び、これを公平に実行する世俗の政治形態があるならば、神の国はその福祉を促進するように協力するのにやぶさかではないとアウグルティヌスはいう。413年帝國の高官であったマルケリヌスが謀反の疑いで拘束され時を待たず処刑された。アウグルティヌスの統一カトリック教会に理解を持つ高官だったゆえにアウグルティヌスの落胆は大きかった。彼はカルタゴからヒッポに戻り執筆に専念した。418年「キリストの恩恵と原罪」を書いてペラギウス主義に反論した。同年、ローマ司教ゾシムスはペラギウスに異端と破門を宣告した。426年老齢を理由にアウグルティヌスは72歳で司教を引退した。その時の心境は、老いという時間的にも身体的にも限りある現実を身に帯びると、心の底から永遠の至福への志向が芽生えて来るという。427年自身の著作93篇232巻を年代順に並べてコメントをつける「再考録」を完成させた。同時に同僚の手を借りて全書簡の編集、説教の編集整理など「アウグスティウス全集」に取り組んだ。しかし429年ガリアからヴァンダル族が南下し、アフリカへ侵入してきた。蕃族の軍勢が破竹の勢いでヒッポの町を包囲した。避難してくる住民を司教らは保護し、最後には逃げ延びることを勧めたという。430年夏ヴァンダル族はヒッポを包囲し陥落は時間の問題となった。その時アウグルティヌスは死の床に就いた。彼はダヴィデの詩篇を壁に貼り、祈りに没頭した。8月28日アウグルティヌスは76歳の人生を終えた。アウグルティヌスは遺言は遺さなかったといわれる。ヒッポの図書館にはアウグルティヌスの全著作、書簡、説教の原稿が遺された。彼の全著作は破壊を受ける前にローマの教皇図書館に移された。439年にはカルタゴも陥落して北アフリカのカトリック教会は消滅した。
その後西欧はアウグルティヌスをどう受け入れたかを辿ってゆこう。エウギッピウスは6世紀初め「アウグルティヌス詞華集」を小規模ながらまとめた。中世の神学の教科書としてロンバルドゥスは12世紀に「命題集」にアウグルティヌスからの引用がある。13世紀ドミニコ会士ジェノヴァの大司教ウォラギネは「黄金伝説」1267年に聖人伝のなかにアウグルティヌスの生涯を収録した。近代になってアウグルティヌスの「告白」への関心が高まり、また聖霊についての関心が深まった。16世紀の宗教改革者マルティン・ルターやカルヴァンは、13世紀半ばに設立された聖アウグスティウス修道会の霊性を重視した。心臓に矢の紋章を用いた。アウグルティヌスの心の概念は17世紀後半のパスカルに受け継がれ著しく個人的な信心(心情)へと変容した。デカルトの「われ思う。故に我あり」の見解はアウグスティウスに原型を見るのである。時間意識は20世紀フッサールの現象論に影響を与えた。ハンナ・アーレントはヤスパースの指導の下「アウグスティウスの愛の概念」を学位論文とした。1954年生誕1600年を記念してパリのアウグスティウス研究所が研究集会を主催し、「教師アウグスティウス」という論集が刊行された。


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