170918
文藝散歩 

野田又夫著  「デカルト」
岩波新書(1996年)

近世合理主義哲学・科学思想の祖デカルトの「方法論序説」入門書 

著者は本書の序において「この本は『デカルトの方法序説』に関するNHK古典講座26回分の放送講演原稿から生まれた」と書いている。基本的には「方法論序説」の解説であるが、デカルトの全仕事に対する入門書となっている。デカルトの著書に関しては、私はすでに以下の三冊の著作の読書ノートをアップしている。
@ デカルト著「方法序説」(谷川多佳子訳 岩波文庫1997年)
A デカルト著「哲学の原理―第1部形而上学」(山田弘明ら訳 ちくま学芸文庫2009年)
B デカルト著 「省察 情念論」(井上庄七・森啓・野田又夫訳 中公クラシック 2002年)
デカルトの生涯や年譜、神の存在証明、外界の存在、ならびに心身問題については、デカルト著 「省察 情念論」(井上庄七・森啓・野田又夫訳 中公クラシック 2002年)に概略を述べた。コギト・エルゴ・スムや形而上学についてはデカルト著「方法序説」(谷川多佳子訳 岩波文庫1997年)に、我以外の外界、宇宙、動物についてはデカルト著「哲学の原理―第1部形而上学」(山田弘明ら訳 ちくま学芸文庫2009年)に概略述べた。ということで本書の内容についてはすべての概略は説明したとおりである。そこで本書はデカルト哲学の出発点である1641年刊行の「方法序説」に関する書であるが、デカルトの評伝だと思って、デカルトの全体像がつかみやすいようにまとめてみた。詳細な考察は上記三書を参考にしてほしい。

第1講) デカルトについて

第1講から第9講まではデカルトの生涯のスケッチである。おおまかにデカルトとはどういう人であるか、今なぜデカルトの思想を問題とするかを考えることが第1講の狙いです。ルネ・デカルトは1593年に生まれ、1650年に亡くなったフランス人です。日本の時代は生まれたのが豊臣秀吉の晩年で、なくなったのが徳川三代将軍家光の晩年です。当時のヨーロッパはポルトガルによるインド航路の発見やスペインのアメリカ大陸発見によって、世界活動が開始された。1588年スペインの無敵艦隊がオランダ・英国に敗れるとオランダ、イギリス、フランスの新興勢力がアジア、アメリカに進出します。フランスが宗教戦争の内乱を収集して近代国家を整えていった時代にデカルトは生まれました。つまり近世のヨーロッパ秩序が出来つつある時期に現れた思想家です。フランスに生まれ、ドイルで戦争に参加し、オランダで思想家としての仕事を成し遂げ、最後はスウェーデンの極寒の地で肺炎で亡くなりました。デカルトの思想は17世紀欧州の思想の代表であるのみならず、その後300年欧州の思想の主流であったといえます。デカルトの思想は、第1に彼が初めて世界を全体として科学的に見ることを始め、第2に世界を客観的に見るところの主体である「われ」を身体から分離し、どのような人生を選ぶかを指し示したという点で偉大であった。人間の思想の根本的な問題は一つは世界は以下にあるかという知の問題と、二つに人はいかにに生きるかという道徳の問題である。デカルトの出現を待って世界を全体として科学的に見る見方が広まったことです。宇宙を一つの力学的体系として捉えました。第2にデカルトは世界を客観的に見すえる自己を、人間を自由な精神として「我考える、故に我あり」と規定しました。こうしてデカルトは近世の思想に根本的な枠を定めました。現在の思想の動きを見ると、科学に対する不満や疑いが現れている。科学の進歩=人間の幸せではなく、かえって格差と分裂を持ち込んだのではないかという反省が見られる。そこでいろいろなロマン主義(反合理主義)が出現した。生命主義、実存主義などがそれで、こういう傾向は現在の人間の運命の全体に対する均衡を欠いた偏った見方ではないかと著者野田氏は憂えるのである。

第2講) 「方法序説」について

この本の趣旨は1637年に公刊された『方法序説」の講座であるから、出発点として『方法序説』(理性をよく導き、もろもろの学問において真理を求めるための方法についての序説)を見てゆこう。これより先1633年頃デカルトは「世界論」という自然論を書きましたが、ちょうどそのころイタリアのガリレイが「天文学対話」という著書のためにローマ法王庁の異端裁判を受け有罪とされた事件において、ガリレオはコペルニクスの地動説を支持したことに法王庁の忌避を受けたのである。「イエス会」というジェズイット教団の学校で教育を受けたデカルトは教団のやり方を熟知していたデカルトは恐怖し、「世界論」という書物は公には発行しなかった。そこでデカルトはコペルニクスの地動説には直接触れずに自分の自然科学研究である三試論「屈折光学」、「気象学」、「幾何学」の三分野の書物の序論として『方法序説』を著わした。当時学術書はラテン語で書くのが常識であったところ、この書は明晰なフランス語で書かれ、以降優れたフランス学術書・文学書の範となった。三試論よりもこの『方法序説』が単独で刊行される場合もあった。

第3講) 学生時代

「方法序説」の最初に「良識はこの世で最も公平に分配されている」と書いている。良識とは判断力であり、真と偽を見分ける能力である理性である。しかし記憶力や想像力には各自かならばらつきがあるが、良識という点では人間に生まれつきの相違はないというのである。しかし現代ではデカルトほど楽観的には見ていない、真偽はそれほど単純ではなく誘導されて全員が一斉に間違うこともありうるのである。デカルトの定義では人間は本来「理性的動物」で、理性は人間の本質に属するという。ただし理性の使用法で間違うことがある。理性のの使い方、真理を知る方法が人の資質を決めている。その理性を正しく導く方法が本書なのだという。デカルトは貴族の下層である「法服の貴族」の生まれです。デカルトをはじめ、パスカル、フエルマ、コルネーユ、コルベールなどは皆「法服の貴族出身です。生まれつき体の弱かったデカルトは10歳の時ラフレーシのイエス会士の学校に入学した。そこでギリシャ・ローマの古典文学、アリストテレス哲学をキリスト神学に統合した「スコラ哲学」を学んだ。イエス会の神学は、ルターやカルヴィン派の宗教改革に対抗して、神の摂理に対する人間の自由を大幅に認める考え、キリスト教を世俗的道徳に妥協する傾向がありました。学校ではスコラ哲学ですが、ギリシャ・ローマのルネッサンス人文学を大幅に取り入れていました。ラフレーシ学院の8年いて、ポアチエの大学で2年間法律と医学を学んだ。20歳になってデカルトは学問の世界に見切りをつけ、パリという世の中に出ました。遊んで暮らしたようですが数学だけはいろいろな学問のうち最も明白な真理を示すと考えて研究に打ち込んだそうです。当時の哲学の議論がいかに不正確でいい加減な議論だと判断したようです。

第4講) 諸学の是非

デカルトが学校で習った学問を振り返ろう。@ギリシャ・ローマ人文学、Aスコラ哲学(神学と哲学を含む)ですが、第1のギリシャ・ローマ人文学では、語学、物語、歴史、さらに弁論術、詩、道徳哲学であるが、中でも詩に夢中になったといいます。人文学者ではキケロ、セネカ、エピクテートスなど古代道徳哲学を勉強した。しかしその議論の土台がはっきりしなくて、砂上の楼閣であることをデカルトは指摘する。彼より半世紀ほど前のモンテーニュ−という人文学者に最も影響を受けた。道徳哲学についてはモンテーニュ−は不十分で、デカルトは形而上学と自然学とを道徳の基礎として構築することになります。スコラ哲学の神学を学問と追求することは止め、人間の理性を超えた真理として受け止めるオッカムらの考えに近い。アリストテレス哲学については、デカルトは辛らつに、「まことしやかに蓋然的にしか語らない」、「哲学者はすべてのことを曖昧にしか語らない」と非難しています。西洋人がキリスト教の神学と同格に立つ哲学というものをはっきり意識したのは、13世紀前半にイスラム人からアリストテレス哲学を学んだ時です。15世紀にはスコラ哲学に対する人文学者の反撃が始まります。ルネッサンスの文学的な人生論はあやふやで議論の対象にはないとして、デカルトは論理的学問的哲学を考えた。それはスコラ哲学の流れにの継承であるが、デカルトはその論理(弁証法)が十分に明証的ではないといって、これに代わるものを模索しました。それが「方法序説」になります。

第5講) デカルトの夢

デカルトは22歳になって、ナッサウ公の軍隊に志願します。当時オランダはスペインと闘って独立し、新教国オランダにデカルトは憧れたようだ。戦闘は無く専ら数学や自然学の研究に没頭しました。当時はイタリアのガリレイが力学の基礎を築いていましたが、それと独立してデカルトとベークマンは共同して同じ力学の問題を研究しました。ベークマンは物理学をデカルトは数学を担当しました。オランダに行った1616年、ドイツで30年(農民)戦争が起こりました。デカルトはドイツでは旧教軍に加わった。ウルムの土地で戦闘休止状態になり、1619年11月10日デカルトは霊感を得て驚くべき学問の基礎を見出したといいます。この夢でデカルトは真理の霊が神によって送られ、哲学全体を独力で変革する仕事を天職と自覚するに至ったといいます。これは「デカルトの夢」として有名になった話です。一人の知性が倫理的方法的に統一した知識にして初めて学といえる。デカルトは学問の方法の叙述に専念することになります。

第6講) 十年の猶予

1619年23歳で一生の方針を決めたデカルトは、哲学の仕事に取り掛かるのは早すぎるとして、なお9年間旅を続け世間の見聞を広めてゆきます。1622年には一度フランスにもどりましたが、今度はイタリアにゆき2年間を過ごしました。フィレンツィエにいたガリレイに会った様子はありません。強くガリレイを意識していたとはいえ、ガリレイは物理学者で、デカルトは同時に哲学者でした。その性格の違いが接近を止めたようです。デカルトは1625年パリにもどり、幾何光学の研究に没頭して3年間を過ごしました。屈折率の法則(スネルの法則)を独力で発見しました。1628年オランダに転居しそこで21年間を過ごしました。そこで枢機卿ド・ベリュルがデカルトを呼んで、真の宗教のための新哲学を作り上げるように要請したといわれます。デカルトは学生時代のイエス会のトマス主義を離れ、アウグスチヌスの考えに近づいた。デカルトの形而上学は初期アウグスチヌスに近く、理性的形而上学はキリスト教神学と矛盾せず、キリスト教の信仰を満足したといわれます。

第7講) 独居20年

1628年デカルトはオランダに移住した。オランダは新興国としてデカルトは非常に気に入ったようで、軍隊の規律に守られた平和があり、活力のある市民は各自の生業に励み、生活の便宜に欠けたところは何一つなく、孤独な生活を楽しむことができる大きな町アムステルダムをデカルトは愛した。デカルトが20年間過ごしたオランダで成し遂げた仕事を見ると、まず初めの1年で形而上学に打ち込んでいる。そして1629年イタリアで起きた幻日(太陽の両側に二つの太陽が見えた)を機に、自然学(天文学、屈折幾何光学)に興味が移った。1633年に著した「世界論」はガリレイの宗教裁判を見て発刊を中止し、4年後1637年には「方法序説および三試論」を出版した。さらに4年後1641年「第1哲学についての省察」を、1644年には「哲学の原理」を出版した。デカルトは新形而上学の仕事を完成した。1649年には「情念論」という道徳論をもって最後とした。デカルトはオランダ滞在中は、フランシスコ派修道僧マラン・メルセンヌを窓口として各界の名士との文通を続け、またメルセンスのサロン(メルセンヌ・アカデミー)において、パスカル親子、数学者デザルグ、物理学者ロベルヴィル、数学者フェルマ、唯物論哲学者ガッサンディ、英国の哲学者ホッブス、イタリアの哲学者カンパネルラと交際した。これは後のコルベールによって「科学アカデミー」の母体になった。イギリスでも「王立協会」が設立されました。「省察」の発行においては、発刊前にアカデミーの各界の人に原稿を読んで批評を書いてもらい、それに対する回答を添えて「省察」が発刊されました。

第8講) 明暗

オランダで一人暮らしをしていた時のデカルトの庇護者は、オレンジ公秘書ホイエンス(父)で、その子クリスチャン・ホイエンスは著名な物理学者(波動力学ホイエンスの定理で有名)となった。デカルトはホイエンス(息子)の小さい時からその才能を見抜き、ホイエンスはデカルトの自然学を受け継いでニュートンに対抗するまでに至った。更にデカルトの信奉者ユトレヒト大学の哲学者レネリはデカルトの友人となり、デカルトの名は広まった。ところがユトリヒト大学のヴォエチウス神学教授は正統カルヴィン派の立場より、デカルトのストア派哲学攻撃に反対し、大学でのデカルト哲学の講義を一切禁止した。同じくレイデン大学でもデカルトに神学論争を挑んだが、デカルトはイデオロギー論争になるのを嫌がってこれを拒否した。こうしてデカルトにとってオランダは居こごちが悪くなってゆく。この時期にファルツ選帝侯の聡明な王女エリザベトという女弟子に出会い、哲学に関する書簡を交換することになった。特に王女が数学を理解したことで、デカルトは解析幾何学と代数学を教育した。エリザベト王女がデカルト哲学に発した質問は「心身問題」と言われ、生き方の道徳につながり、その往復書簡は、最後の書「情念論」となった。デカルトは現実の政治に対して公けに意見を述べたことは一度も無かったが、マキャベリの「君主論」の論評を王女より求められ、「権力に対する理性の力を強く見ることが必要で、道徳的にもマキャベリは劣る」と述べた。

第9講) 客死

カルヴィン派神学者の迫害によって、デカルトにとってオランダは必ずしも住みよい地ではなくなった。こうしてデカルトは何度かフランスに帰った。1644年、1647年、1648年にパリに帰っている。しかし1648年にフランスにデカルトが帰るとほどなく内乱が起こり(フロンドの乱)、ふたたびオランダに移住しました。この時スウェーデン女王クリスチャンがデカルトの名声を聴いて招待しました。「最高善」(人生の究極目標)について講義してほしいという要請があり、これにデカルトは王女エリザベトへの書簡と「情念論」の原稿を送った。これに刺激を受けた女王はスウェーデン駐在フランス公使シャニュを相手に「哲学の原理」を勉強していた。1649年女王から招待の親書を受け取って、デカルトは極寒の地スウェーデンに、冬を避けるようにという意見を押し切って、1650年1月に赴任した。女王に早朝講義を行っているとき肺炎にかかり、1650年2月11日デカルトは客地で死亡した。17年後遺骨はパリに移され、サンと・ジュヌヴィエーヴの修道院に埋葬され、後年パリの人類史博物館の彼の頭蓋骨が「人類の最も優れた頭脳」として陳列されている。

第10講) 知恵の本

この講からデカルトの哲学の本論に入ります。彼の哲学の概要(見取り図)については「哲学の原理」の序文に述べられています。哲学は「知恵の探求」であると述べた後、その知恵を一本の木に例えて、この根は「形而上学」で、その幹は「自然学」、さらに知恵の実が結ぶのは枝において、枝は3本あり第1は「機械学」第2は「医学」、第3は「道徳」であるという。まず「形而上学」は精神としての自己の存在を確かめ、無限完全な神の存在を示し、最後に物質世界の存在について考えることである。「自然学」は世界がいかにあるかを示す。空間と運動を考え力学的世界像を示す。デカルトは物質は微粒子の運動であると説明する。この観点は量子力学以降の素粒子論に合致する。「機械学」とはガリレイ、ニュートンの力学を示すものであるが、デカルトはもっと広い意味で機構学を含んでいる。「医学」はデカルトの得意とする分野であり、ハーヴェイの血液循環理論が全面的に採用されている。しかし「情念論」に展開される気質と体液の関係は間違っている。今では大脳生理学で説明がつくのであるが、理性を司る前頭葉と神経伝達系統の関係である。最後の「道徳」の問題では、古代の道徳学がしっかりした基礎の上に築かれていないと述べ、デカルトのも求める道徳は形而上学と自然学に基づいて道徳を論じようとしている。しかし脳科学でさえ道徳の解明はできていないので、道半ばということである。「方法序説」では学問的方法の問題まず説かれる。事物を明確に知るには、まず事物を純粋な状態まで分析することである。要因分解、元素主義とも呼ばれる。つぎに原理の明白性を他のものとは違う点まで判別しなければならない。これがデカルト哲学の特色であり、「方法序説」第二部に示される。そして知恵の完成は「道徳」であり、科学と倫理においてもどのような生き方がいいのかを考えるのである。つまり知恵の研究は道徳的自己改革の意思を求めている。

第11講) 学問の方法

デカルトがオランダに移住する前に書いた未完の論文「精神指導の規則」においては、晩年のデカルトと違って学問の統一性をもっと強く主張していた。知恵の統一性、学問の統一性は、いろいろな内容的知識に通じる形式の統一性である。統一性は普遍性となり、特殊性は専門性・技術となる。そこで論理学と数学がデカルトの関心の中心であった。しかしデカルトの論理学に対する態度は否定的であった。三段論法の推論は前提条件の錯綜する問題の解決法にはならない。ルネッサンス期の論理学は詭弁・修辞学であった。スコラ哲学の論理学は、偽の前提から真が結論されるのでは困るのである。デカルトはスコラ論理学を蓋然的推理があるだけで必然性がないと批判した。だからデカルトは論理学より数学の道をとった。数学においてはユークリッド幾何学は公理から演繹的証明で定理を得るが、求めるのは未知の命題を発見する方法である。解析幾何学のやり方は、1本の補助線でスマートに証明するのではなく頭ごなしに条件から問題の全体の構図を解析し、そこから任意の定理を得るのである。そこで活躍するのが代数である。未知数をXとして方程式を立てるという数学の操作である。そして物理の問題では観察とか実験という操作が必要であり、まったく次元の違う操作を用いて真理に迫るのである。方法序説第6部で、一つの事実について数学的に考えられる仮説は幾通りもあり、それらのいずれが真であるかは実験によって確かめなければならないと認めている。デカルトが目指した「発見の方法」とは「分析の方法」であることに尽きる。デカルトの方法は「分析の方法」と呼ばれても、「綜合」は無くてもいいとは言っていません。デカルトは4つの規則を設けた。
@明証の規則: 私が明証的に真と認めたうえでなくては、受け入れてはならない。注意深く即断と偏見を避けること
A分析の規則: 私が吟味する問題の各々を、その問題を最もよく解くために必要な数だけ小部分に分けること
B綜合の規則: 私の思想を順序立てて導くこと。もっとも単純で認識しやすいものから始めてもっとも複雑なものの認識にのぼってゆくこと
C枚挙の規則: 何ものも見落としをしなかったと確信するほど、完全な枚挙と全体にわたる見通しをあらゆる場合におこなうこと
彼はこうして当時の数学の問題を解き、数学の大革新をおこなった。これを今日「解析幾何学」の創始と呼んでいる。そして普遍数学を「解析学」と呼ぶ。

第12講) 数学と哲学

デカルトは図形の問題と数の関係にある対応をつけることを考えました。数量関係を関数とし、図形を曲線に対応させました。y=f(x)という関数は(x,y)でプロットし、二次関数をすべて円錐曲線に対応させました。このような分析の方法は数と図形の関係が精神の直観によって明晰に対象領域が見えています。ところが哲学の分野で方法的であろうとすると、明証性という言葉が急にあいまいになってきます。それ自体が大変な仕事なのです。明証の規則が数学と哲学では違った重みになります。前の第11講でまとめた@明証の規則は、これまで哲学が蓋然的真理で満足していたことに反対し新たな原理を探すことになります。人によって偏見の大きい感覚への信頼性を打ち破る必要があり、それは一種の自己改革であります。哲学では疑う余地のないほど明晰なということが大問題なのです。旅に出るのもそのためで、当時の旅は危険がいっぱいの命がけの旅でした。そこで自分を研ぎ澄ます訓練をすることなしには明晰という確信は持てません。人は確かな認識というよりは、むしろ習慣によって生きています。「野蛮人」というのは西洋人の偏見に過ぎません。理性的自己というものを基にしてデカルトの哲学は築かれています。モンテーニュ、デカルト、パスカルらの理性的自己は、人種を超え文化的集合体としての国という狭い枠を超えなければなりません。そのような普遍的理性人が存在できるかどうか問題ですが、方法論的懐疑の精神で、疑う理由を持たないほど明晰な真理に到達する必要性をデカルトは主張する。

第13講) 仮の道徳

「方法序説」の第3部が、哲学の理論的作業のバックボーンとなる実践的態度についてのデカルトの反省を示しています。デカルトは他人の習うべき範例を示すつもりはなく自分一人の問題であるといっています。デカルトは社会制度改革や人の道徳を説くとか、宗教を説くつもりはないといいます。当時の思想家である、モンテーニュやホッブス、パスカルらは宗教イデオロギーを前面に立てた戦争はこりごりだという保守派であって、デカルトもそうであった。いかに生きるかという信念がなくては、学問的認識に基づいた決定的道徳を得る過程において生きてゆけません。それを「仮の道徳」というのは生活方針なのです。それは@自国の法律と習慣に従い、幼児からの宗教を持って中庸に生きる、つまり保守的・大勢順応型態度です。A私の行動においてできるだけしっかりとした態度をとる。B常に運命よりむしろ自己に打ち勝つことにつとめ、世界の秩序よりは自己の欲望を変えるよう努める。我々の自由になるものは我々の意思だけであるという禁欲的生き方です。エピクテートスが説くストア派の考えです。デカルトは上の3つの格率によって信念を支えられると考えた。デカルトは自然の必然性(運命)をストア派のように考えるのではなく、科学的法則性による自然支配を人間の自由の大切な側面ととらえた。そこで理性の行使ができるようになったら、幼児以来の偏見や非合理的習慣を根本的に改めて自己に対する理性の支配を貫徹するという見通しを得ました、それを行うのが哲学というわけです。

第14講) 形而上学的懐疑

「方法序説」を書いた4年後に、1641年「第1哲学についての省察」を書いた。序説第4部の形而上学の考察に入る前に、「省察」をもとにデカルトの形而上学を見てゆこう。形而上学は日常のことではないのだから、どんなに大胆に自己吟味をしてもいいのだと「省察」の冒頭で述べています。あいまいなことは根こそぎ疑ってもいいという宣言です。フランスの思想家アランはデカルトに近い考えを持つ人ですが、普通の人の懐疑は問題の前で逡巡する受け身の態度であるが、デカルトの懐疑は能動的・計画的な疑いであり「方法論的懐疑」と呼びました。物を知るのに感覚を信頼するは普通の事ですが、物はみえる通りにあると認め疑わない態度です。我々の感覚はいつも身体的自己を中心とする遠近法をもっている。錯覚がそうである。真直ぐなものが曲がって見える、距離感が微妙に違うなどです。デカルトは懐疑論者モンテーニュから多くの暗示を受けています。デカルトは懐疑論者とは違うことを主張し、疑うために疑うという非決定の態度ではなく、習慣的信念を取り除くために意思によって疑わしい信念を否定するのだといいます。これはソフィストの知ったかぶりを暴露したソクラテス哲学の思考を受け継いでいるといえる。近代科学の見地を目指しています。こういう科学的実在論の見地がデカルトの感覚一般の否定には予想されているのです。それに代わる我々の知識には論理と数理の知識があるのです。

第15講) 疑いえぬ疑い

デカルトは内外の感覚が確かな知識であることを否定し、数学的真理も全能の神が欺いているかもしれないという疑心暗鬼に陥りました。その意味の第1は、神学からきている考えであって、論理的数学的真理もまた神の自由意志によっていると考えます。これは14世紀のオッカムの神学、17世紀のジャンセニウス派の神学です。パスカルはその影響下にありました。19世紀になってユークリッド幾何学が非ユークリッド幾何学の修正を受けたように、論理や数理の公理を変えることで別の幾何学が得られること、また20世紀初めゲーデルとヒルベルトの論争である数学の完全性否定の問題は論理学のジレンマを露呈しました。論理も数理も全部規約的と考えることはかえって間違いです。それを「欺く神」という文学的表現でデカルトは心配しているのです。パスカルは神全能派ですが、デカルトは人間の意思を高く評価します。我々の見る限りどの知識を真ではなく、感覚されるもの数学的対象も確実なものはないと考えるとき、そういうふうに疑う自分は確かに存在する。そこで「我疑う、ゆえに我あり」と認めるのです。「法評序説」第4部ではこの疑いを定式化して最後に疑う我のある事は疑えないという境地に達します。「我考える、故に我あり」といいます。ラテン語で「コギト・エルゴ・スム」(ラテン語)と呼びました。デカルトによると、あることの判断(疑い)は知性の問題ではなく意思の問題であるといいます。

第16講) 我考えるゆえに我あり

デカルトは「我考えるゆえに我あり」を第1の明らかな真理としました。これは知識の明白さ(明証性)を追って最も明白な知識に達したことです。幾何学的真理よりも高く、神も左右できない自分の存在があるということです。そして感覚、身体を脱した純粋な知性的認識にあるということは、精神が身体に制約されない事です。考える我の存在は、精神を身体から引き離したということです。たとえ物体が存在(外的存在、身体を含む)しないにしても精神は存在することをやめない。「魂の不死」という別の宗教問題につながりました。省察は「神の存在と魂の不死を証明する第1哲学の省察」のことです。しかしそれは哲学の範囲外のことで、哲学では「魂が身体から独立な存在である」という認知で止まります。デカルトは後に「魂の不死」という言葉は「精神と物体の実在性区別」と言い直します。魂の不死についてはプラトンの「パイドン」で徹底的な議論をしています。カントは魂の不死の形而上学は断念した。デカルトの立場を再確認した。デカルトは考える意識の中に自由を見出すべきと言って、考える我の意志的側面を強調したのでした。

第17講) コギトの是非

デカルトの「コギト・エルゴ・スム」に対する、同時代および後代の思想家の批評を聴いて見ましょう。
@ アントワス・アルノー: 「コギト・エルゴ・スム」というデカルトの原理はアウグスチヌスの考えに近いことをアルノーが指摘した。「悪い霊が欺く」という神学の伝統は中世から17世紀までずっと続いていた。アウグスチヌスの考えは人間の精神において三位一体の神の似像を認めることです。デカルトは自然学を哲学の原理で基礎づけたので、パスカルもデカルトの原理が創造的であることを認めた。
A ガッサンディ: 二つの命題を「ゆえに」で結び付けたデカルトの論法は変形三段階論法だとガッサンディは指摘した。しかしデカルトはアリストテレスの論理学に対してはルネッサンスの人文主義者に対すると同様に冷淡である。精神力を重んじないガッサンディやホッブスらの唯物論者は当然デカルトに対しては批判的です。これにはデカルトは激しく反論した。
B フッサール: 現象学のフッサールはデカルトの「疑い」を明証性の吟味という点で評価しているが、疑いの意志的実践的性格はありません。
C 現代の哲学者: 現代のデカルト主義者は数理論理学者バートランド・ラッセルであろう。議論が二元論であることが似ているのである。実存主義者ではヤスパースは、デカルトの疑いの道は人間の根源的意味に迫る実存的在り方であるといいます。ハイデッガーはデカルトの実存理解の深いところに向かわず、運命論に向かった。西田哲学はデカルトの二元論を否定するロマン主義的考えであるが、デカルトの形而上学的懐疑を積極的に評価している。知性と意思のつながりに重点を置いた思想だからです。

第18講) 神

デカルトは精神としての我の存在を確かめた後、神の存在証明に向かいます。完全であって偽ることのない神の存在を証明するものです。デカルトは神学というものは論じないといっておきながら(福沢諭吉が「学問のすすめ」で鬼神のことは論ぜずといったに相当する)、形而上学では神の存在証明を試みる理由としては、中世以来、第1に啓示神学という三位一体の神が論じられ、第2に自然神学又は理性神学という神の啓示を必要とせず形而上学から神の存在を考える神学が存在したからです。アリストテレスは形而上学は神学に他ならないといい、これがキリスト教に取り入れられたからです。デカルトが論じないといったのは啓示神学の神であり、形而上学で論じる神は自然神学の神です。デカルトの前提は「神は最も完全で、最も実在的なもの」からスタートし、「私が神となずけるものは、独立な全知全能な、そして私自身と私以外のものを創造した実体である」と定義します。こういう完結的な無限者の観念は、有限者の観念を延長することでは到達できないといい、人間の不完全性を前提とします。最も完全なものの観念は我々のうちにあるが、不完全なわれわれの精神から生み出すことはできない。したがって完全な神の観念は我々以外の存在者のものであり、神という最も完全なものの観念が存在することは、神そのものが現実に存在しなければならない。これがデカルトの「神の存在証明」である。神が最も完全なものすなわち最も実在的なものであるから、その定義によりその本質によって当然現実に存在する。どうだろうか、循環論だといえるし、詭弁ともいえる。これが証明なのと不思議に思われる。それはともかく神の観念を持つ我の存在は、独立ではなく神に依存している、結局神によって作られたものだとなる。この存在論的証明は11世紀アンセルムスによって初めて示され、13世紀トマス・アクィナスはそれに賛成せず、ガッサンディは無効だといった。スピノザやライプニッツは賛成し、カントは否定し、ヘーゲルは肯定した。神が人間を欺かないとするならば、誤りの原因は人間自身の責任であるといえます。人間の過ちは即断(早合点)が原因である。

第19講) デカルトの宗教

デカルトが啓示神学(キリスト教と教会)に対してどういう態度をとったかを見よう。デカルトの「啓示神学は学問として論じない」というのは、天国にゆくには知識の有無は関係ないとと分かったかである。これは14世紀のスコラ哲学者オッカムの考えを継承しているからです。つまり信仰と理性は別だということに他なりません。アリストテレス哲学は、13世紀より信仰の方が理性より高いという中世の宗教の正統な見方であった。この見方に反対するのは、理性を宗教より高い位置に置く「自由思想家」である。ところでデカルトはこの二つの見方のいずれが主であったか。デカルトは自由思想家だという説が19世紀までは多かった。信仰にはあまり言及しなかったし、実生活では教会とうまく付き合っていたからだ。デカルトは普通のカトリック教徒の信仰を持ち、啓示神学にも関心を持っていたという説もある。自然神学の神、形而上学の神はやはり考えられた神であり、生きた神ではなかった、パスカルは強い奇蹟に遭遇し信仰は強められたが、デカルトにはそういう説話はない。当時の神学の大きな問題は、神の恩寵と自由意志との間に存在した。どちらにより強く傾くかで宗教上の論争が何回も起きています。デカルトは1630年以降、フランスでは前者(神の恩寵論)に最も厳格なジャンセニウス派(パスカルが属する教派)に同感している。オランダで新教カルヴィン派の攻撃を受けるとデカルトは任意性の自由の強調に傾いて行きました。任意性の自由は「哲学の原理」では意思の自由の中心になっています。

第20講) 外界の存在

デカルトは「考える我」の存在と「神」の存在を論じた後、最後に物質的世界の存在を考察します。感覚的知識の真理性を疑い、見える世界は真ではないと疑っているからです。デカルトの狙いは感覚的世界を呼び戻すことではなく、知性のとらえる客観的世界こそ真に存在する物質世界だということを証明するためです。それでは感覚は何を示しているのか。それは@もの自体の性質を示しているのではなく、我々の身体に及ぼす因果作用の結果を示す。A感覚は物の性質を直接示すのではなくものの間接な記号である。B身体と一体をなしている我々の自己保存のため有益か有害かの情報だけを見ている。あるいは記号のようなもの。いずれの場合も感覚は物の姿をじかに精神に示すのでないことが分かる。それでは物自体の姿はどうして把握できるかというと、それは感覚に拠らず知性によって知られる。デカルトは幾何学が物質的事物の本質であると考えます。自然学を世界の幾何学に帰着させることが目的です。それでは不十分で、世界が現実に存在すること、物質的世界の現存を示さなければならない。これは物理的実在論の見地から空間の占領であり、感覚では外的拘束感である。これにより我々の外には何らの物体が現存することを認めざるを得ない。そしてこれは古典的物理学と言われるガリレイ、デカルト、ニュートンの見解に一致する。

第21講) 宇宙

デカルトの形而上学はその最後の外界の存在証明を通じて自然学とつながってきます。「方法序説」第5部では自然学の主題を挙げています。「哲学の原理」では第2部以下に物理学、科学、天文学、地質学の内容が示されます。近世の宇宙論とは機械的宇宙論(力学的宇宙論)でコペルニクスの地動説から始まりました。コペルニクスは太陽を中心とした惑星の幾何学的配置であって、それら惑星に働く力(重力、引力)を解析した力学的宇宙論は、ガリレイやデカルトの後に出たニュートンに待つ必要があります。力学的宇宙論を完成させたのはニュートンでした。しかし地上の物体の運動と宇宙の惑星の運動を同じ力学法則によってあらわしたのはデカルトです。デカルトは、物質的世界が無限な幾何学的空間であり、無限に分割可能な連続体であると考えました。そして全空間は物質によって満たされいる、空間こそ物体であると喝破しました。これは現在の天文学のビックバンにも通じています。空間は無ではない。力学の法則(慣性の法則、運動量保存の法則)ではデカルトは「渦動説」を唱えましたが、現在は無意味です。

第22講) 動物機械

中世を支配したアリストテレスの自然学に対抗して、ガリレイ、デカルト、ニュートンの自然学は、自然を力学的機械的に見る考えです。アリストテレスの自然観は万物はそれぞれ目的原因があって生成変化しつつ流れているという見方でした。運動を誘う「目的原因」(引く力)と、運動せざるを得ない「運動原因」(押す力)を説いた。近代の力学は目的原因をのぞいて運動原因のみを考えることにより普遍的な運動論にいたった。近世の機械的自然学です。こうした機械的な世界の説明には、人間的な意味付けや動機を捨て、世界をありのままに見ようとするものです。アリストテレス自然学を排して専ら運動原因のみを見る機械的自然学の方がキリスト教的敬虔にかなうものとデカルトや17世紀哲学者は考えたようです。自然学の知識は技術的応用によって人間の幸福を生む手段となり我々自身を自然の主人かつ所有者になすことができる。近代科学が目的論を捨て機械論をを採るということは、必然(運命)を知りこと、人間的目的を実現する手段となるからです。デカルトはさらに生命にも機械論を適用しました。それが有名な「動物機械」論です。心臓をポンプと見、視覚を大脳の感覚神経の集中する器官において像を形成するテレビカメラのように見、記憶機能と筋肉神経伝達けによる反射運動を説明します。神経伝達物質と機能を「動物精気」と呼びました。内容的には古い医学を踏襲する面が目立ちます。今では間違いと言えます。はたして人間は自動機械なのかという単純な構図はいただけませんが、こういう人間へのアプローチは情報処理として今日的課題を提供しています。

第23講) 心身の問題

デカルトは動物を神が作った自働機械と見ました。人間もまた自働機械なのだろうか。デカルトはここで強い一線を引きました。何故なら人間は第1に理性的言語を使用する。第2に個別の行動において大きな巧みさを発揮し、普遍的道具である理性によって問題解決に当たる。人間の言語や行動は動物と違って全く別の精神的原理の存在を示している。自らの生を終わりまで自らの自由意志の統御の下に置くことはいかにも人間らしい。デカルトは心と理性の関係を松果腺と動物精気そして体液で説明しようとしているがこれは滑稽だ。これは近年の脳科学の成果に任せよう。心身問題におけるデカルトの矛盾を指摘したのが、前で説明したエリザべト王女であった。デカルトは心身の実在的区別を説いてきたが、精神を松果腺において物質とひとつとなって働くとするとこれは矛盾だという。心身の分離ではなく心身の合一を認めなければならない。王女のみならずマルブランシやスピノザも、その後のたいていの哲学者もデカルトの矛盾だと考えた。デカルトはエリザベト王女への返信の中で、形而上的思想と数学研究と日常的生とがそれぞれ違った次元のことであると述べています。精神と身体の合一と関係は、感覚による日常的生活と交際はそれぞれに基本概念があり、今ある問題は日常的生の次元である。そこでは人間の身体は自然学でいうところの機械とみるよりは、心を表現する一つの全体者として現れる。デカルトは形而上学では自由意志の確立を志す心身の分離を説いた。日常的生においては新たな自己支配の力として、身体の大部分を理性的に統御する術を得るのである。デカルトの身体問題は彼の哲学のみならず、彼の生を含む全サイクルにおいて理論と実践との統一としてとらえるべきだというのである。そうするとデカルトの心身問題とは、単に理論の問題ではなく、生き方全体にかかわる問題であり、デカルトは心身の分離と合一を同時に認めたことになる。20世紀の思想家アランはデカルトの生き方に同意し、心身問題の思想を妥当だという。

第24講) 情念

情念とは、悲しみ、怒り、恐れのような強い感情を伴う心のありようです。現在では心理学カウンセリング、精神病理学の対象です。もちろん自力で制御し調整することが理想です。我々の精神の底に生じる受動的状態のことだとデカルトは定義します。我々の意識の能動的な側面は、知性の働きと意思の働きである。受動的な意識状態は身体と密着した意識のことです。視覚のような外的感覚と痛みのような内的感覚、恐れのような受動的意識=情念(精神自体についての意識)の3つの意識が対応します。受動的意識の中で意識状態そのものについての意識であるものを情念と呼びます。デカルトは情念を「心の受動」と呼びます。情念は上の3種の意識が「動物精気によって引き起こされ維持され強められる。デカルトは情念の諸様相を外的感覚に対応させて分類する。「驚き」の情念「愛」、「憎しみ」、「喜び」、「悲しみ」、「欲望」などです。「欲望」は感覚される対象が我々の生に対して持つ利害の感受に基本的なものです。良くない意味を持っています。それに反対する情念は「愛」や「驚き」です。「驚き」は知性認識に導くこともあり、「欲望」を土台とする受動的な心の動きを、理性的意思の自由の下に置こうとする高貴な自由な生き方に導きます。そのために情念をコントロールする一般A的な方針は次の4つに示される。
@ 我々の精神そのものに矛盾がある見方を捨てなければならない。例えば「恐れ」を覚えて逃げださないで立ち向かう意志を強く持つことです。心の葛藤を心と体の働きあいとして客観視することです。
A 精神の能動性を奮い立たせるには、真実な認識に基づいた決意、つまり真なる判断をすることです。
B 知性の能動性が情念の受動性を支配するには、修練と工夫が必要です。感覚と行動を習慣づけることです。言語使用も重要な要因です。観念を明晰に持てば、よい言葉が導いてくれます。
C 抑えきれない心の状態を平静に保つには、行動に発動することを抑えることです。このことでデカルトは人間が情念に対する無制限な支配を獲得できると考えました。

第25講) 高邁と愛

「欲望」に基づいたさまざまな情念を、正しい価値判断によって正し、情念の受動性を捨て能動的な心の働きを植え付けることです。情念を抑えることは心の能動的な働きを持続することです。これを「内的な感動」、「知的な感情」と呼んでいます。「悲しみ」にこ「知的な悲しみ」がある。悲劇を見て心の浄化につながることがあります。情念の受動が心の内的な動きの感受に転化したらそれは自由人の感情です。悲しみを力に変えるという意味です。「涙の数だけ強くなれる」という歌詞もあります。一つの良くない情念を支配するには、それをただ抑えるだけでなく、反対の情念を持ってきて対抗させるのです。モンテーニュも「心の転換」(気分転換)を説いています。スピノザも情念の退治法を説いています。そういった自由意志をデカルトは「高邁の心」(けだかさ)と呼びました。「驚き」であり「自尊の心」です。我々が目指す善とは我々自身に全く依存する善、「知恵」、「徳」のようなものでなければならない。この自由意志は高貴な心で神に近づける徳です。我々には我々が属する全体というものがあり、それは人間社会であって、その全体の善のために個人の生は貢献しなければならない。それが「愛」であり、「高邁」であり英雄的献身である。

第26講) デカルト哲学と現代

デカルトの現代的意義を考察する最終講である。「方法序説」で見てきた人間の在り方、すなわち無限な宇宙を客観的科学的に見るとともに、その中で自らの自由意志によって善を選ぼうとする態度がデカルト哲学の核心であり原理でした。デカルトの考えは世間で言われような精神と物体の二元論ではなく、知性的客観性と意思的主体性(道徳的実践)との二元論です。デカルトの百年余り後に出たカントは理論と実践の対比を表面に出しましたが、デカルトの二元論までは徹底していません。これをデカルト主義(カルテジアニズム」と呼んでいます。デカルトの次の世紀18世紀には、デカルト主義は自由思想家によって継承され、「啓蒙主義」を生み出した。ヴォルテールはニュートンの力学宇宙とロックの政治的的自由を学んだが、科学と倫理の間の緊張関係はデカルトを継承しています。18世紀末から「ロマン主義」の思想が横行し、文学的には古典主義に対抗する概念ですが、機械的自然を嫌い、「汎神論」、神秘主義で世界を見ることを主張した。本より科学的ではなく文学的価値観を重視する二元論否定派でした。ロマン主義は多価値相対性で多種多様をもって自然観としています、その考えは「生命哲学」として今日まで生きています。実存主義は価値の相対論に反対していますが、科学については体系化を嫌うロマン主義の態度を継承しています。では19世紀以降科学的世界認識はどうなったのだろうか。@論理と数理との吟味から、より普遍的な非ユークリッド幾何学が生まれた。A科学の分化とともに様々な科学の分野が生まれた。世界の科学的認識の幅は大爆発を起こした。素粒子論はまだ全体像さえつかめない混沌状態となり、相対性理論による天文学と宇宙像の革命が起こり、医学、生命工学、脳科学の進歩は生命倫理と鋭く衝突している。そして科学の普遍性、グローバリズムは有無を言わさないスピードで進んでいる。すなわち世界的知の客観性に評価は、激しい変革期にありまだ予断は許さない。


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