文藝散歩 

 御伽草子

市古貞次[校註]  「御伽草子」上・下  岩波文庫


室町時代以降の庶民文学の始まり 


平安時代に始まる物語文学の伝統は鎌倉時代にも綿々と続けられたが、公家勢力の衰退と共にしだいに衰えてゆき、平家物語、徒然草、日記文学、今昔物語、宇治拾遺物語などの説話文学の伝統の上に傑作は出なくなった。南北朝時代が公家貴族勢力と武家地頭勢力の完全な交代時期であり、文学にも貴族文学から庶民大衆文学へ移行した。説話文学の読み手はやはり貴族・僧侶階層の知識人であったが、その伝統の流れで幅広い読者を勝ちえたのが短編物語である。室町時代から江戸時代初期までの約300年間に作られた作品は500篇にも達するといわれる。室町時代には絵入り写本で行われたが、江戸時代の印刷技術である絵入り板本として板行された。そのなかから板元が23篇を編集して出板したのが「御伽草子」、「御伽草紙」と名づけた叢書がこの本である。 この叢書は室町時代から江戸時代にかけて出された色絵入り奈良絵本に基づいており、現在揃いで残っているのは1661年「大阪心斎橋順慶町 書林渋川清右衛門」二十三冊版である。1729年になると「祝言御伽文庫」(二十三冊または三十九冊)という名で売られていた。江戸時代後期には23篇以外の話も入れたいるが、23篇に限定して室町時代物語または中世小説と呼ぶ事も行われている。

御伽草子の制作年代、作者も不明である。平安時代・鎌倉時代の物語文学が公家階級(僧侶も含む)の人々の作であったのに対して、御伽草子の作者は公家のほか文筆を好む武家階級も加わり、江戸時代には町民(都市住民)も加わったのではないかと推測される。読者も良家の子女、女中に広がって広い読者層を獲得したようである。この叢書の目的は「古来の面白い草子の集成」、「子女教養の書」と書かれている。教養性、啓蒙性も持たされていた。「御伽」とは本来お相手と云う意味で、人の徒然を慰める話し相手と云う語源であった。短時間で絵も入っていて見て楽しむ趣向もなされている。まさに教養の書として明治以来の国語教科書の原型となるものであった。前代からの文芸・説話から材をえて、内容は雑多である。話の内容はおおまかに六種類の分類がなされている。本書の二十三篇を分類すると
1)公家者:物語文学の流れを引く。源氏物語、伊勢物語の影響が著しい。継子物には「鉢かずき」、歌物語には「小町草紙」、「和泉式部」
2)宗教物:発心遁世物では「さいき」、「梵天国」
3)武家物:怪物退治物では「酒呑童子」、平家関係で「小敦盛」、「横笛草紙」、義仲関係では「唐糸そうし」、判官物では「御曹司島渡り」
4)庶民物:恋愛求婚談では「猿源氏草紙」、「物くさ太郎」、「一寸法師」、立身出世談では「文正そうし」、祝儀物では「さざれ石」、「浜出草紙」
5)異国物:「二十四孝」、「七草草紙」、「蛤の草紙」
6)異類物(擬人物):怪婚談には「浦島太郎」、「木幡狐」、「猫の草紙」、「のせ猿そうし」


文正そうし

常陸の国に塩焼きの文正と云う男が、鹿島大明神の大宮司の元で使われていた。働き者であったが大宮司は文正を試してみようと追い出した。文正は常岡の磯と云うところで塩焼きの奉公を始めたが、働き者で才覚があったのでしだいに塩釜をたくさん持つ長者になっていった。三百人ほどの使用人を使い、八十三の蔵をもち、大きな屋敷に住めるようになった。裕福な長者になったが文正には戸がいなかった。大宮司は文正に鹿島大明神に子を授かるように願を掛ける事を勧めた。文正夫婦は七日目に神の声を聴いて二房の蓮を授かった。そして二人の娘を得て姉を蓮華、妹を蓮御前と名づけた。いずれも並びなき美人に成長し、近郷の大名や国司は妻に欲しいと言い寄ったが、姉娘は摂関家の妻になることを夢見ていた。国司が都に帰った時、関白殿の御子二位の中将は国司よりこの娘の噂を聞いて会いたいものと焦がれた。そこで中将は家来3人を連れ商人に身を変えて常陸の国に下った。中将らは文正の屋敷に行って、都の品々を売って気を引き、屋敷に上がって管弦を披露して娘らを篭絡した。そして姉の蓮華は中将の妻となって都へ上った。中将は大将になり、大宮司を常陸の国司に任命した。妹の美貌を聞いた天皇は女御にするため文正夫婦ともども都に招いた。文正は宰相、大納言に出世したと云うめでたいお話。歳の初めにはこのようなめでたい話を覧られるがよろしい。


鉢かずき

河内国に備中守と云う裕福な人がいた。一人の娘をもうけて、長谷の観音に娘の幸せを御願いした。娘が十三の歳に、母上が急に病気になり、いまわの時鉢の中に物を入れて娘の頭に被せて亡くなった。ところがこの鉢はいくら引いても頭から外れないので、父親は娘がかたはになったと悲しんだ。父に後妻が来て娘の鉢かずきをひどく嫌って家より追い出した。その国の国司は山陰の三位中将といったが、鉢かずきはその家の風呂焚きに雇われた。昼夜となく「お湯よ、鉢かずき」といわれ休む間もなくこき使われた。国司山陰の三位中将殿には四人の息子がいて三人には既に嫁がいた。末子の宰相御曹司は20歳になるが、この鉢かずきを愛して夫婦となった。親や兄弟はこのことを聞いて嫁較べをして鉢かずきに恥をかかせて追い出そうと企んだ。嫁比べとは嫁の実家の富力の較べあいである。身寄りのない鉢かずきは悩んで夫婦揃って家を出ようとした時、鉢が頭から外れ中より母親が入れておいてくれた宝物が出てきた。と同時に美しい鉢かずきの顔が顕になった。この美しい娘を前にして兄嫁らは悪魔外道の類のようだ。こうして御曹司夫婦は他の兄弟に劣らず立派な贈り物を舅姑にすることが出来て面目を果たした。兄嫁らは諦めずに詩歌管弦の腕比べを挑んだが、とてもかなわなかったと云う。舅三位中将殿は御曹司を家の跡継ぎにして屋敷財産を全部譲った。御曹司は宰相となり三国を下されたと云う。長谷の観音のご利益を信じて「南無大慈大悲観世音菩薩」を唱えなさい。


小町草紙

宇治拾遺物語にも小野の小町の零落流浪譚がある。清和の御代に歌詠みの美女小野の小町と云う人が居た。並ぶべくもない才と美貌の持ち主で言い寄った男は千人をくだらない。盛んなことは楊貴妃か衣通姫かといわれたが、おごり高ぶる気持ちがはなはだしく容色が衰えるにつけ人々は次第に離れていった。哀れな様子を在原の業平が慰めたが、都に居ては顔を知る人が多くて恥ずかしいというので、伊勢物語と同じように東下りと云う段になる。伊勢物語の旅枕にそって歌物語風に流れてゆき最後は常陸国玉造の小野と云う野原で行き倒れた。在原の業平が尋ねてゆけば、叢に白骨がころがっていたという。業平は十一面観音の化身、小町は如意輪観音の化身という。


御曹司島渡

義経、奥州の秀衡に都へ攻め上る相談をすると、秀衡は千島のかねひら大王のところに「大日の法」という兵法の書卷があるので、これを取って来れば日本は容易に征服できると薦めた。そこで義経は四国の土佐で早風と云う船を買って船出をした。動物の名を冠した島々を過ぎ、馬人島、かしまと云う裸人の住む島、女護の島(アマゾネスの島)、小さ子島(小人島)、蝦夷が島をへて千島に着いた。そこは大きな鬼が住む島で義経を取って食おうとするので、義経は笛を吹いて宥めて難を逃れた。千島のかねひら大王にあって、大日の法を聞いたところ、鞍馬の天狗も半分しか習わなかったという。義経は笛を吹いて大王の歓を得て、その姫とねんごろになって、大王には秘密にして姫に蔵を開けさせて大日の法を書き写した。これを知った大王は大軍を寄せて義経に迫ったが、姫から聞いた数々のまじないをして命からがら日本の土佐に帰り着いた。この姫は義経を守るために江ノ島の弁財天の化身となった。こうして義経は日本を平らげ源氏の世の中になった。


唐糸そうし

鎌倉の頼朝は、平家を西国に追いやった木曽義仲の都での専横を嫌い、奥州の秀衡と義経に木曽追討の命を出した。ところが信濃の手塚金刺光盛の娘唐糸の前が鎌倉殿に女房として居た。鎌倉殿が木曽を討つと云うことは自分の親も殺されると思って、唐糸の御前は父に手紙を書いて鎌倉殿暗殺を企て、木曽殿の脇差を頂戴した。鎌倉殿と御台殿の風呂の時に殺そうと脇差を隠し持っていたが、脇差を見つかって梶原平三景時によって石の牢へ取り籠められた。信濃には唐糸の御前の娘で万寿の姫という十二歳の娘がいた。噂を聞いて母を捜しに万寿の姫は乳母更科と二人で鎌倉を目指して旅に出た。鎌倉では無事に唐糸の御前に会う事はできたが、人に知られれば殺されるのでじっと忍んでいた。鎌倉殿の座敷に生えた六本の松をめでたい事として鎌倉山に移しかえる式儀に十二人の美女を募集された。そこに万寿の姫が選ばれ、今様を美しく舞ったところ鎌倉殿が褒美を取らすことことになった。万寿の姫は自分の命と引き換えに、母唐糸の前を助けて欲しいと願い出た。鎌倉殿は母娘を許して信濃に帰したと云う話。万寿の姫の親孝行を愛でた話である。


木幡狐

山城国の木幡の里に狐がいた。その末娘にきしゅ御前という容姿端麗、詩歌管弦に優れていた狐がいた。嫁入りの話は数限りなくあったが、本人は関白殿下の妻を夢見て十六歳となった。きしゅ御前は乳母を連れてあこがれの都に出た。三条大納言の御子に三位の中将という容顔麗しき若殿がいた。この殿に気に入られて夫婦となった狐は娘を産んだ。この娘が三歳になった時、屋敷に犬が贈られた。さて困った狐のきしゅ御前は泣く泣く娘と別れてもとの木幡の里に戻った。そして嵯峨野に庵を作って仏道の路に入って娘の幸せを祈ったと云う話。「かかる畜生さえ後生菩提を願う。いはんや人間においてはこの道を願わざらんや」


七草草紙

中国の楚の国に大しうという者がいた。親が老いてゆくのを悲しんで、三十七日仏道に願を掛けると帝釈天王が現れ、若菜(せり、なずな、ごぎょう、たらびこ、仏の座、すずな、すずしろの七草)と若水を正月一日から七日まで食したら長寿になると云う智恵を授かった。親子ともに延命したと云う話である。親孝行の人には天の恵みが来ると云う。正月の七草粥のいわれである。


猿源氏草紙

伊勢国阿漕が浦(あつかましいと云う意味)に海老名六左衛門という鰯売りがいた。娘に猿源氏と云う者を婿にして、自分は都に上って「海老名の南阿弥陀仏」という遁世者になった。この猿源氏と云う鰯売りは洛中に出て「伊勢の国に阿漕が浦の猿源氏が鰯かふえい」といって鰯を売ったので、大変評判になって売れ金持ちになった。ある時猿源氏が鰯売りにでて五条の橋で網代の輿に出会った時、風で御簾が吹かれて中にいた美人を垣間見た。それ以来猿源氏はその女房に恋わずらいとなった。海老名の南阿弥陀仏が猿源氏の臥す家にきてさまざまな意見をしたが、猿源氏はものすごい知識の持ち主で、いちいち反論をしてやり返した。この反論自体が長い物語で省略するが、なかなかの理屈である。猿源氏はたいした弁論家である。猿源氏が調べたところによれば、女は蛍火と云う遊君(高級遊女)で大名高家しか相手にしないらしいという。猿源氏と海老名の南阿弥陀仏が考えるに、蛍火は都近くに居る大名(室町時代の大名家の名)を皆知っているので、宇都宮の大名に成り代わってアタックしてみようという企てになった。家来には鰯売りを語らって仕立て上げ30人ばかり集めて、宇都宮の弾正殿が遊びに来ると遊女の亭主に触れ回った。亭主は遊君10人を集めて宴会の席に侍らした。猿源氏は蛍火の歓心を得ることが出来、翌日首尾よく蛍火と契りを交わした。ところが猿源氏は酒に酔って寝言に「阿漕が浦の猿源氏が鰯かふえい」と叫んでしまった。これを聞いた蛍火はすっかり鰯売りに身を任せたものと悔しがった。そして猿源氏を起してこの言の意味を問い詰めた。この件は先ほどの反論と似て抜群の知識と歌の引用で出来てたストーリーである。阿漕が浦とは何、はしは何、猿源氏は何、鰯かうえいは何と云う矢継ぎ早の質問に次々と歌の引用で答えてゆく様は圧巻である。結局蛍火は猿源氏の歌の知識のまいったようである。かように物を知る事も威徳である。蔵の内の財は朽ちることもあるが、身の内の財は朽ちることがない。まるで官僚の答弁のように立て板を流すような流暢な詭弁も才能か。


物くさ太郎

信濃国筑摩郡あたらしの郷というところに物くさ太郎と云う男が居た。たいそうな物くさで、立派な屋敷を持っていたが、いつもは庭に薦をかけて横になっていた。働かず人の施し物で食っていた。貰った餅の一つが道に転がっても自分では拾うとせず通りすがりの者に拾ってもらう様であった。地頭は哀れんで郷の者が物くさ太郎を養ってやるように命じた。ある時都の二条大納言ありすえが賦役を差し出すようにというので、郷の長老達はこの物くさ太郎にいろいろ語らったところ、何を思ったのか物くさ太郎は都へ賦役に上がる事に同意した。都での三年のお役目も終わり、故郷に帰ろうとしたが、物くさ太郎は妻を得て連れ帰りたく思った。人の相談すると、女を金で買う「色好み」か、道端で女を拉致する「辻取」と云う方法があると云う。金を持っていない物くさ太郎はとうぜん「辻取」を選んだ。有名な寺院仏閣の門前で大手を広げて女を掴もうとしたが、女は恐れて近づかない。ようやく清水の観音詣りにきた一七、八の女房をつかまえて抱き締めようとしたが、女は辻取りとみて何だかんだと言い逃れをして逃げようと必死だ。そこを物くさ太郎は女の住所を聞き出そうとしたが、女は曖昧な返事で言い逃れて逃げ帰った。物くさ太郎はようやく女の屋敷を捜し当てて屋敷に侵入すると、家の者に見つかって縁の下に逃げ込んだ。哀れに思った女は濡れ縁に畳み一条を敷いて物くさ太郎に食べ物を与えた。物くさ太郎の歌のたくみさに心を動かした女房は衣物や烏帽子を着せ替えて女房の部屋に招いて夫婦の契りをした。その後下女に手伝わせて風呂に入れ、髪、直垂など着せ付けたら、公卿殿上人のような立派な姿に変身した。名前もうたの左衛門として連歌の名手と名を得るようになった。このことが天皇に聞こえ、歌を披露すると感じ入られて信濃国と甲斐国を賜った。めでたしめでたし。毎日一度この話を読み人にも聞かせると、財宝豊に心も優れた物になると云う結構な話。


さざれ石

成務天皇の御代、三十八人の皇子の末子の姫をさざれ石という。14歳で摂政の妻となった。さざれ石が仏道を志して「南無薬師瑠璃光如来」と唱えると金比羅大将が現れ、壺を差し出し不老不死の妙薬を与えた。さざれ石がこの壺を見ると「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」と書かれていた。それからさざれ石は「巌の君」と呼ばれた。「巌の君」は八百余年も長生きをされたので、薬師如来が「巌の君」を東方浄瑠璃世界に移されたと云うことである。呪文に「南無薬師瑠璃光如来 おんころおんころせんだりまとうぎそわか」とある。


蛤の草紙

天竺の国にしじらという人がいた。飢饉が続いたので母親を養うため浦で魚を釣って生活していた。ある時船に乗って釣りをしていると、何度も蛤が掛かってくるので、不思議だと思いながらその都度海に返した。4度目に蛤がかかった時、蛤が大きくなって中から美しい女が現れた。女はしじらの妻になりたいというが、しじらは生活が苦しくかつ母親がいたので女房を持つ余裕はないと断ったが、母親は40歳まで独り身のしじらに嫁が出来たと大喜びをしているので3人で一緒にすむことになった。女は麻糸を紡ぎ、機を織ってきれいな布を仕上げた。しじらにこの布を市で高く売るようにいった。市に持ってゆくと、葦毛の馬に乗った老人がこれを買い求め、屋敷で三千貫の銭を支払い、しじらに七杯の七徳保寿の酒を振舞った。この老人は浄土の観音の使いで、三千貫の銭を運んだのも多聞、毘沙門、婆羅門であったという。こうしてしじらの家族は豊になり長寿で栄えた。それを見届けて女房は天に帰ったと云う話である。親孝行であれば富み栄え、現世の願いがかない繁盛しして,次の世では仏になれると云う。


小敦盛

平家物語卷九の「敦盛最後」に書かれた生田一の谷の合戦で熊谷直実に首を取られた平家の十六歳の殿上人敦盛には、都に妊娠していた若い女房を残していた。都で平家狩りが始まり、平家の末の男の子は殺されると云うので、敦盛の女房はこの子に紫檀の刀を添えて一乗の下がり松に捨てた。通りかかった法然上人はこれを由緒ある子と思って養い育てた。出家した熊谷直実(熊谷入道)はこの子を敦盛の子と分ったが黙っていた。この子が七歳になった時、賀茂の大明神に父に会えるように願をかけた。夢に老僧が現れ生田に行けばいいとお告げがあった。一の谷の小さな堂で夢に父敦盛に会いその膝に泣き崩れて目が覚めた。そこに小さな膝の骨を見つけて、母とともに敦盛の菩提を弔ったと云う。


二十四孝

中国の親孝行話を24人について、五言絶句を頭において短いストーリーを語る趣向である。五言絶句の作者は不明で、この五言絶句だけでは話の全体の流れを分るすべはない。大舜、漢文帝、丁蘭、孟宗、閔子騫、曾参、王祥、老莱子、姜詩、唐夫人、楊香、董永、黄香、王褒、郭巨、朱寿昌、ぜん子、蔡順、諛黔婁、呉猛、張孝・張礼、田真・田広・田慶、山谷、陸積の24人である。話はただ親孝行で富みと福を得たというワンパターンなので省略する。


梵天国

淳和天皇の御代の頃、右大臣高藤という人がいた。子供がいなかったので清水観音に願をかけると男の子を得た。二歳で殿上人になり四位の侍従を賜って、丹後と但馬の国を授かった。侍従は七歳で母をなくし十三歳で父をなくしたが、笛の名手であった。父の供養に笛を吹いていると、梵天国王は侍従の親孝行を愛でられ、姫を授けられた。そして侍従は中将に昇進し、内裏に呼ばれた。中将の妻である絶世の美女にたいする、帝のやきもちが始まった。先ず最初は「孔雀と迦陵頻」を七日以内に内裏で舞わせという宣旨である。中将は妻に相談して妻の梵天国からそれらの鳥を取り寄せて難無きを得た。つぎは「鬼の娘 十郎姫」、つぎは「天の鳴滝」、最後は「梵天国王の御判」を取り寄せよという宣旨であった。最後の「梵天国王の御判」は梵天国への往復に時間が永くかかるので、その間に姫を奪おうとする帝のあくどい企みであった。梵天国への道中で羅刹国のはくもん王を生き返らせそれが姫を拉致してしまうのである。中将は梵天国王の御判を頂いて都に帰り自分尾屋敷に着くと、屋敷は荒されて姫はいずこともなく拉致されていた。そこで清水の観音に願をかけると老僧が出てきて、筑紫から船に乗ってゆけば頼りがあると云う。中将は筑紫の国で舟を用意して羅刹国にたどり着いた。笛の力で羅刹国はくもん王に面会して姫を車に乗せて逃げ出したが、はくもん王の追っ手が迫ってくるところ、迦陵頻と云う鳥がはくもん王の車を蹴散らしてくれたので無事都に帰った。中将はこんな厭な都には住みたくないといって、丹後に下って二人仲良く過したと云う話。姫君は成相の観音、中将は久世戸の文殊となったという。


のせ猿そうし

丹波ののせの山に猿尾権現と云う猿がいた。その息子にこけ丸という才覚優れた猿がいた。たかが猿といってはいけない。由緒正しい猿丸太夫と云う歌人の末である。舞いと歌に優れた色好みであった。日頃日吉神社に願を掛けていたが、ある時北白川のある屋敷で見かけた姫に恋をした。恋わずらいで悩んでいたところ、狐のいなか殿が相談にのって恋の仲立ちをしようと云う。手紙のやり取りがあって、こけ丸と壱岐守の姫君はめでたく夫婦の仲となった。互いの親にもお目通りがあって末永く繁盛したと云うことである。めでたしめでたし。いまいち内容のないめでたし話だ。


猫の草紙

慶長七年、猫の綱を解いて放し飼いにする事、猫の売買を禁じると云うお触れがあった。喜んだのが猫、恐怖したのが鼠である。鼠の被害を防ぐためのご政道であった。このご政道をめぐって鼠と猫の言い分を裁判沙汰のように面白い話に仕立てたのが本節である。裁判官は僧侶である。僧侶の前に出て鼠は一族壊滅の危機であると悉皆成仏の線から必死に訴える。猫は鼠の害を強調して鼠を食う事が猫の本分であるという。結局鼠一族は都を出て、各地の山や畑に移住したと云う話。双方の言い分が大変面白い。


浜出草紙

鎌倉殿の繁栄を祝う祝儀話。鎌倉の地は最初沼だったところ、頼朝殿の計らいで畠山と和田氏が山を切って沼を埋め立て平地にした。山には源氏の氏神である正八幡大菩薩をまつり、平地には鎌倉谷七郷ができたのである。頼朝殿は上洛して大仏供養を執り行い、左近の右大将に任じられた。源氏の武将20人はも兵衛司や左衛門司に任じられた。なかでも梶原平三景時は左衛門司になった時、お祝いの宴会を三日間盛大に行った。大名は所領を受けて任地に下ったという。


和泉式部

一条院の御時、和泉式部と云う才女がいた。橘保昌と云う男との間に子ができた。人の噂になるのがわずらわしく思って、和泉式部は産着に歌と守り刀をいれて五条の橋に捨てた。町の人がこの子を拾って比叡山にあずけた。比叡山で養育されて道命阿闍梨という賢い僧となった。道命十八歳の時に内裏で講を勤めたがその時に三十歳ほどの女房を見かけて恋に落ちた。道命はその女房に会いたいためミカン売りに化けて内裏に入り、下女に二十個のミカンを数え歌風に売ったのがきっかけとなり、女房との恋歌のやり取りをするようになった。女は道命の宿に来て忍びあいの仲となった。道命が持っていた守り刀をみて女房はわが子と悟り、仏門に入ったというはなし。この話は親子相姦という結構重い話題である。


一寸法師

余りに有名な御伽話であるが、世で云う一寸法師は叔父叔母にかわいがられて都へ行くと云う風に聞いたが、この話は親から高齢出産のかたわ者と嫌われて仕方なく都へ出奔したのである。そして姫の花見にお供して鬼退治というところが又違う。ここは姫に懸想した法師が姫に罪を被せて、親から姫が追い出されるのにお供して都落ちしたと云うことである。この一寸法師は随分苦労人で世知に長けた戦術を使うのである。おっとりした童話がにわかに現実味を帯びてくるのだから不思議な話だ。


さいき

豊前国のうだの佐伯(さいき)というひとが、一族に所領を取られて、所領安堵の訴えのために都に上がった。裁判はなかなか進行しないので、清水に参ったところ、歳は二十ばかりの美しい女房が念仏をとなえていた。その女房の住むところを童を探らせに行かしたところ、女房は「もずの草ぐき」(忍んで来い)というOKの歌を返した。そしてさいきと女房はいい仲になったのだが、所領の沙汰が下りさいきの言い分が通った。喜んで筑紫に帰ったさいきは都の女房のことも忘れ、所領でもとの妻との生活を謳歌していた。直ぐ迎えに来ると言っていたさいきの言葉を信じた都の女房は三年たっても音沙汰なしなので、手紙を託けた。祭器は留守をしていたので、筑紫の女房はこの縷々としてわびしい気持ちを綴った手紙を見て都の女房に興味を持ち、うまくさいきを騙して、都の女房を迎えにやって呼び寄せることを企んだ。やってきた都の女房を見た筑紫の妻は余りに美しいので哀れに思い、自分が身を引くべきと思って髪を切り出家した。都の女房も後を追って出家し、ともに同じ庵で暮らしたと云う。さいきは二人の女房に捨てられ、気落ちして高野山で出家したという。この話はライバルの女同士が出家して同じ庵にすむという平家物語の「仏御前」と似ている。


浦島太郎

余りに有名な御伽話であるが、亀が女になって浦島太郎を竜宮城に案内して夫婦として楽しく過すのである。竜宮城は海の中ではない。鯛やひらめの舞い踊りもない。乙姫様もいない。三日ではなく三年過して帰ってみると七百年経っていた。煙をあびて浦島太郎は鶴になり、亀の姫と長寿の神となった。箱に隠したのは七百年と云う寿命であった。童話の方はたわいもない話だが、この話はいやに教訓じみている。「鶴は千年、亀は万年」


横笛草紙

平家物語卷十の「横笛」にはこうある。この斉藤瀧口時頼は建礼門院の雑司横笛と云う女を愛したが、親に猛烈に反対され十九歳の時嵯峨の往生院で出家した。横笛が瀧口を追って嵯峨に逢いに来たので、心乱れ高野山に逃げて清浄心院で修行していた。横笛も後を追って出家し奈良の法華寺に入ったという。悲しくも愛らしい恋物語である。平家物語では小督の局とならぶ悲恋物語である。この御伽草子ではさらに悲劇的にしてある。横笛は千鳥が淵で身を投げると云う設定である。


酒呑童子

一条天皇に仕える池田中納言くにたかの姫が丹波国大江山の鬼にさらわれる事件が起きた。これまで十七八人ほどの女房達が誘拐されていた。池田中納言が村岡のまさときに占わせると、大江山の鬼達の仕業だと判明した。天皇は源頼光に鬼神退治を命じられた。頼光とその武将五人、定光、末武、綱、公時、保昌は八幡,住吉、熊野の神に参拝して、武器や具足を笈に入れて役の行者六人に変装し、大江山に鬼退治に出かけた。道中は三所の神に助けられ、鬼を弱らせる神便鬼獨酒を授かって、峯をよじ登って大江山の頂上を目指した。途中で、捉われていた花園中納言の娘に案内させて川上を目指した。鬼はさらってきた娘らを犯して身の回りの世話をさせ、最後には血をすい、肉を食らうと云う。今は十人の娘が生存しているそうだ。鬼の惣領酒呑童子は昼は人の形で、夜は鬼となる。とらくま童子、ほしくま童子、くま童子、かね童子という四天王が守っているらしい。鬼どもは六人を見て食い物が来たと喜んで酒呑童子に報告した。六人の役の行者は酒呑童子に面会し鬼に酒を飲ませ、舞いを舞って、鬼達を眠らせた。そこで六人は武装して鬼の寝所を襲い、三所の神が鬼を鎖で縛っておいてくれたので、悉く鬼の首を取ることができた。そして牢をみれば白骨、酢漬けの死体、手足を切られた娘が散乱する修羅場であった。生存していた女房を集めて都に返したと云う地獄物語。妙に現実味のある話になっていて作者の筆の力に感服させられる。


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