文藝散歩 

 宇治拾遺物語・十訓抄

小林保治・増古和子・浅見和彦[校訂・訳]  日本の古典を読む15 小学館


日本の中世に生きた人間の多様な人生模様 人生色々・男も色々・女も色々


「宇治拾遺物語」と「十訓抄」は説話文学と呼ばれ、説話集のなかでもとりわけ人に親しまれてきた。説話という言葉は近代以降の術語で昔は「物語」として表現されていた。物語には「源氏物語」、「伊勢物語」といった近代の小説に位置する純文学から、単に「お話」といった週刊誌的な小話が古くから集積していたのである。「説話」は創作された小説ではなく、実際にあった出来事、言い伝えの話である。現在の科学に時代からみれば荒唐無稽な事実があったわけではなく、当時の人が思い込んでいただけのことかもしれない話が多い。しかし出来事が書いたり口伝えで伝わっていたのが「説話」である。「宇治拾遺物語」も「十訓抄」も集められた話は大変幅広く、人間ドラマのあれこれが展開する。概して短い話が多いが、話題の豊富さ、多様さが醍醐味になっている。話は平安時代・鎌倉時代初期を舞台にしているので、登場人物は天皇、貴族、武士、商人、僧、農民など身分も多様だ。この説話集の著者は不明であるが、読み手は恐らく徒然草と同じような、和歌・漢詩に通じる教養を身につけた、没落貴族や僧、武士階級であっただろう。制作年代の校証では「宇治拾遺物語」は1210-1242年、「十訓抄」は1252年頃とされている。

同時期になった説話集には、「宇治拾遺物語」、「十訓抄」のほかに、「今昔物語」、「古本説話集」、「古事談」、「古世継物語」などがあり、多くの話が重複して掲載されている。宇治拾遺物語の成立は序によると、宇治大納言源隆国(1004−1077)が年取ってから宇治平等院の近くに籠って昔物語を編纂し十四帖に書き付けた。これを「宇治大納言物語」という。これが侍従の俊貞に伝わり、「宇治大納言物語」に漏れた話を色々な人が書き足したので「宇治拾遺物語」といった。侍従の俊貞とは実は源隆国のひ孫「侍従俊貞」のことであろうと比定されている。12世紀の初めに「侍従俊貞」が第一次加筆編纂を行い、第二次加筆編纂は「宇治拾遺物語」の成立時(説によって、1212または1242年)に行われた。だから鎌倉時代初めまでの話が入っている。源隆国は皇后宮大夫を務め、浄土教学を編纂したり、和歌勅撰集に6首の歌が入ると云う歌人でもあった。奇行の噂高く、天皇の着替えを手伝っていつも天皇の陽茎を触っては叱られたという。「宇治拾遺物語」は室町時代には逸散して、その話は「今昔物語」などの説話集と混合してしまったという。ストーリーが同じだけではなく文章もかなり近いので、他の説話集の典拠に「宇治拾遺物語」があったと考えられている。

「宇治拾遺物語」の話には読んで笑える話と、難しくて真意を測りきれない話がある。「小野篁の妙答の事」がそれである。遣唐使に反対して嵯峨天皇の怒りを買い隠岐に流された小野篁は文人嵯峨天皇の中国文化と日本文化の争いの協調と緊張関係の中で解釈しなければならない人物である。宇治拾遺物語にはさまざまな含意が込められている。深読みが要求される場合もある。天皇などの権威権力への尊敬と批判、仏教への信と不信、武士階級への尊敬と脅威など共存した複雑な意識が見られる。宇治拾遺物語は全197話からなる。今昔物語の1040話からみると1/5程の量である。本書はそのうちから37話を取り上げた。

十訓抄も編者未詳の説話集である。十訓抄の奥書に六波羅左衛門入道、「正徹物語」に後藤為長ほか三人の説が挙げられる。要するに作者は分らない。十訓抄は人が身につけるべき十の徳目を挙げて、各々の章には序と一、二の説話が入れられている。説話と徳目がしっくりいかない場合もある。十訓抄はひたすら人に思慮深くあれと言っている。厳しい戒めの言葉というより、人間観察に基づいた人間理解と慈悲深い訓導の心に満ちているようだ。


宇治拾遺物語

鬼に瘤を取られる事

「瘤取り爺さん」という童話にもなっている。「右の頬に大きな瘤のある翁がいた」で始まる。人前にも出られず薪を採って暮らしを立てていたが、ある日山に入って嵐にあい仕方なく山の中の木の洞に泊まった。すると木の前でたくさんの鬼が出て酒盛りをし踊りをしだした。爺さんは踊りが好きだったのでいてもたまらず鬼の踊りの中に入って見事な歌と踊りをしたので鬼は大喜び。次回もここに来て踊るようにといって、必ず来るために質をとると云うことで爺さんの頬の瘤を取った。隣の爺さんは左の頬に瘤があったので、その訳をきいて自分も瘤を取ってもらおうと出かけたがもともと踊りが下手だったので鬼らは取っておいた瘤を隣の爺さんの右の頬にくっつけたと云う話。芸は身を助けるということなのか、隣の爺さんにとっては気の毒なことだ。


竜門の聖が鹿に代わろうとする事

奈良の吉野の竜門というところに一人の聖が住んでいた。親しい友人に猟師がいたが、鹿や猪を殺す事を生業としていた。この聖は猟師のむやみな殺生を止めさせる為、自分が鹿の身代わりになろうと、鹿の皮に包まって横たわった。猟師は篝火を炊いて獲物を探していたところ、二つの目が光っているのが見え、鹿だと思って矢をかまえた。しかし目の間隔や色が違うので近くによって見ると聖ではないか。あやうく殺すところを避けられたが、聖が身代わりなれば少しは殺生を控えてくれるだろうという話を聞いて、猟師は反省してぷっつりと猟師を止め聖と修行をともにした。難しいところだが猟師が殺生をするのは生業なので一概にいけないとは言えない。


金峯山と箔打ちの事

京の七条に住む箔打ちが吉野金峯山(御嶽)詣りをした。この山では金岩石を採ると祟りがあるといわれていたが、この職人は金を採って七、八千枚の金箔に打った。検非違使で東寺の仏像に箔を求めていると云うので金箔を売りにいったところ、検非違使庁の役人が品物を改めると、箔一枚一枚に「金の御嶽」と書かれていた。このことで御嶽から金を採ったことが判明して、この職人は鴨川の河原で鞭打ちにあって死んだと云う話。言い伝えを信用しないととんでもない目に会うということだ。


鼻の長い僧の事

宇治の池の尾に善珍内供という宮中の祈祷にも呼ばれる栄えた僧がいた。頼まれる祈祷が多くて寺は大変繁盛していたのだが、物を食べる時は鼻を板で持ち上げてもらうほどこの僧の鼻は長く大きかった。数日に一度は、この鼻を蒸して足で踏みつけると鼻の毛穴から虫が出てきて小さくなるような処置をしていた。食事の時鼻を持ち上げるにはコツが必要でいつも掛かりつけの小僧が担当していたが、ある日あいにくその小僧が風邪で寝込んだので、別の小僧が代わった。最初はうまくやっていただが、小僧がくしゃみをして手が震えて内供に鼻を粥の中へ落としてしまった。怒り狂った内供はその小僧を罵倒して追い出したが、小僧は立ち去り際に「こんな鼻の持ち主は二人といない。馬鹿馬鹿しい」といったと云う話。小僧の捨てセリフが面白い。


清明が蔵人少将の憑き物を追い払う事

陰陽師安倍清明が蔵人少将に出会ったところ、カラスが糞を仕掛けたのをみた。これは式神(陰陽師が呪の時に使役する悪霊)が蔵人少将に取り付いたと清明は判断し、蔵人には生きられる前世の宿縁があったので一夜加持祈祷を行った。すると術に敗れた相手の祈祷師から使いが来て云うに、この少将の相婿(妻の姉妹の婿)がうだつが上がらないので蔵人少将を呪い殺そうと相手の祈祷師が式神を送ったそうだ。その祈祷師は逆に戻ってきた式神によって取り殺された。相婿は家を追い出されたということである。ライバルに刺客を送るとは前の小泉首相の郵船選挙と同じ構図であろうか。術の力が陰陽師安倍清明のほうが上だったと云う話で、今昔物語にも似たような話がある。


唐の卒塔婆に血が付く事

中国の話。山の頂に卒塔婆が一つ立っていた。その山の麓に住む婆さんが毎日卒塔婆をみに山に登っているのを見て、不思議に思った村人が婆さんに「こんな大変な思いをしてまで何故毎日山に登るのか」と聞くと、婆さんは先祖からの言い伝えでこの卒塔婆に血が付くと山が崩れ麓の村は水に埋まるというので心配で毎日山の頂の卒塔婆を見に来るのだそうだ。すると婆さんを馬鹿にした村人は内緒でいたずらに卒塔婆に血を塗りたくった。翌日婆さんが山に登って卒塔婆を見て驚いて村に戻り、村人に早く逃げるように叫んだが、このいたずらを知る村人は誰も逃げなかった。婆さんと一族は家財をまとめて移動して数日たったある日、山が崩れ麓は深い海となって、村人は全滅したということである。ゆめ人の話をおろそかに聞いてはいけない。


山伏が舟を祈り返す事

越前国甲楽城の渡しで、けいらく坊と云う修験者が船に乗ろうとしところ、船頭は無視して船を出した。悔しがった坊は船を戻せと叫んだが船は数百メートルほど沖に出た。濱の砂に膝まで踏み込んで坊は数珠をもみにもんで、「護法童子よ船を返せ、願いを聞き入れないと仏法を捨てるぞ」と袈裟を海に投げ込んで祈った。すると風もないのに舟は逆戻りをして濱に近づいてきた。すると坊は「舟をひっくり返せ」と叫んで船もろとも客は海に投げだされた。それをみて坊は思い知ったかといって立ち去った。末世といえど法力はまだあったと云う話。


鳥羽僧正が国俊と戯れる事

近江の法輪院に鳥羽僧正には甥にあたる陸奥前司国俊と云う人がいた。国俊が車で鳥羽僧正を訪問したところ、二刻も待たされさらに僧正は勝手に国俊の車に乗って出かけてしまった。そこで腹を立てた国俊は、僧正がいつも藁と莚を浴槽に敷いてその上に寝転んで風呂に入る奇行があるのを知っていて意趣返しに出た。国俊は浴槽から藁と莚を取り除いて、代わりに湯桶を敷いてその上に囲碁盤を裏返しにして浴槽に沈めた。二刻ほどして帰ってきた僧正は裸になるやいなや湯船に飛び込んだ。すると碁盤の足でしたたかに腰を打ち気絶したと云う話である。どちらもいたずらが過ぎるようで、僧正は人を馬鹿にした仕返しに痛いお灸を据えられた。


伏見修理大夫俊綱の事

宇治殿藤原頼通の御子で伏見修理大夫藤原俊綱が尾張の国守として赴任したところ、熱田神宮の大宮司が神宮の権威を傘にきて新国守のところに挨拶に来なかった。頭にきた俊綱は領地を没収するぞと脅かすと、周りの者がとりなしてようやく挨拶に参上した大宮司を縛り上げて監禁した。大宮司は泣く泣く熱田の神に伺いをしたが、夢の中で神がいうには「お前は以前尊い僧を追い出したことがある。その僧が恨みをいだいて、生まれ変わってこの国の国司になって仕返しをするといっているのでどうしようもない」ということであった。人の恨みは恐ろしい。虎の威を借りて人を圧迫するとこういう憂き目を見るのだ。


長門前司の娘が葬送の時、本所に帰る事

長門国前司に二人の娘がいたが、今は両親も亡くなって京の高辻室町に住んでいた。姉のほうは夫がいたが、妹のほうには決まった男はなく、時々男が通う程度であった。姉らは奥に住んでいたが、妹は屋敷の南西にある妻戸口の間にいた。ところが妹が二十七,八になりわずらって死んだ。葬儀を出して鳥部野に送ったが、どうした事か棺から遺体がなくなっていた。急いで戻ると妻戸口の間に妹の遺体が横たわっていた。どうしてもここに居たいのだろうかということで、その居間を取り崩して塚にして妹の遺体を埋めた。家の人も気味悪がってやがてその家から引越して誰も棲まないので朽ち果て、ただ塚だけが残ったと云う話。なんか妹の淋しさが伝わるようで人はかくも淋しい存在なのか。


雀の報恩の事

童話「舌切り雀」に似た話。庭に居た雀に子供らが石を投げて怪我をして動けない雀を烏が狙っていたので、老女は雀を隠して手厚く看護した。暫くして元気になった雀を空に返したところ、20日ほどたって表で雀が騒ぐので老女が見ると、雀は一粒の瓢の種を落としていった。庭に植えるとよく育ってたくさんの実がなったので皆で食べ、瓢箪を作って干しておいたところその中から米がいくらでも出てきた。こうして老女の家は大変な福者になった。これを聞いた隣の根性の悪い婆さんが、三羽の雀にわざと石をぶつけて怪我をさせ介抱して薬と食事を与え元気なってから空に戻した。すると雀は三粒の種を置いて帰った。これを隣の婆さんが庭に撒いて実った瓢を食べたところ皆が下痢嘔吐をした。さらに瓢箪を作った中からは、虻、蜂、蛇などが出てきて婆さんの家族を刺し殺したと云う話。童話にしては残酷な話である。人を妬んでまねをしてもよこしまな気持ちでは災いを招くということか。


小野篁の妙答の事

嵯峨天皇の時(809−823)内裏に「無悪善」と書いた札を立てたものがいた。天皇は学者として名高い小野篁の仕業と睨んで、彼にこれを読めといわれた。小野篁は最初は拒んだが命令なので「さが(悪)なくて(無)よからん(善)」と読み下し、嵯峨天皇を呪う言葉だと答えた。そこで嵯峨天皇はネの仮名を12個連ねてさあ読めといわれたが、篁は慌てず「猫の子の子猫 獅子の子の子獅子」と呼んで天皇をぎゃふんと言わせた。中国文化の輸入に反対した篁と遣唐使を派遣しようとする嵯峨天皇との軋轢は小野篁の隠岐への流罪となった。そのようないきさつを踏まえてこの説話をよむと二人の緊張関係が伝わってくる。なお後日菅原道真の具申で遣唐使は中止され、以降宮廷貴族による日本文化の成熟期に入った。


平貞文、本院侍従の事

今昔物語「人情」に出てくる話。兵衛の佐、平の定文はたいそうな色好みで、いい女なら言い寄らない女はいなかった。本院の大臣の侍従の君と云う若い女房優れた美貌の持ち主で、定文は恋心を抱いて、付け文をしたが一向に取り合っても貰えなかった。恋焦がれた定文は必死にアタックするが悉く退けられもう恋の奴隷になった。そこで、女の不浄の物を入れた箱を入手して何とか諦めをつけようとしたが、その箱に入っていたのは香のもので、またもや定文は惨めにもからかわれたのである。今昔物語では最後には平貞文は病気になって死んだと云う話になっているが、宇治拾遺物語では回顧談として本人に語らせている。


石橋の下の蛇の事

一人の女が紫野の雲林院に菩提講を聞きに出かけたが、西院あたりの石橋を渡った時、蛇が女の後を追う様に雲林院までついてゆき、そして女の横で講を聞いていた。他の誰もは気が付かぬようであったが、この様子を通りかかった別の女がみて不思議に思って追跡した。蛇は女の家まで付いてゆき柱の傍にすわった。女を襲うのではないかと気をつけてみていたがその様子もなく、夜になってこの家の女は夢をみた。夢の中に人が出て、「私は人を恨んだため蛇に変えられ石橋の下に長い間暮らしていたが、昨日あなたが石を踏み返してくれたので石の苦しみから逃れて出る事ができました。そのついでにありがたい講まで聞かせていただいて人に生まれ変わる事ができそうです。御礼によい男にめぐり合わせましょう」という話しをした。後日その家の女はよい縁談に恵まれ幸せに暮らした。


進命婦が清水寺に参詣する事

進命婦と云う女性が清水寺の観音様にお参りをしていた。清水寺の管長は歳80歳の不犯の僧であったが、その女に恋をしてしまい三年間食べ物も喉を通らず体がひどく弱った。弟子達が心配してことを問いただすと、老僧は女のことを思って蛇道に落ちて死にそうだということであった。弟子が女に話をすると、女は老僧に逢いに清水寺に来た。老僧は虫の息で女に「功徳を差し上げましょう。摂政関白、后、高僧をお生みになられる」といった。言葉通り、この女は宇治殿藤原頼道に寵愛され、摂政・関白忠実、後冷泉天皇の后四条の宮、三井寺の覚円座主を生まれたと云うことである。清水寺の観音信仰のありがたさをめでた話であろう。


四の宮河原の地蔵の事

山科への道筋に四の宮河原と云う市があった。その市の職人が地蔵菩薩を彫り上げたが開眼供養もしないでしまいこんでおいた。ある夜夢の中で、家の表で「地蔵さん明日地蔵会をしますのでおいでください」と云う声がして、家の中から「目が開かないから参れそうにありません」と云う返事が聞こえる。男は目が覚めて地蔵菩薩の開眼供養をしていない事に気がついて、早速供養を営んだと云う話である。なんとも優しそうな地蔵信仰の話である。


以長の物忌の事

橘以長という五位の蔵人が物忌みで家に籠もっていた所、宇治殿からお呼び出しがあった。以長は謹慎中で出かけられないというと、宇治殿は公職に物忌みはない、直ぐ出てこいという命令であった。(なんかサラリーマンが風邪を引いて休んでいたら、上司から仕事だから出て来いといわれたようなものだ)後日宇治殿に物忌みがあってそれは厳重な防御をした。以長は宇治殿の屋敷に行き、こっそり中に入って「物忌みはないと伺っていますが」と嫌味を云うと宇治殿厭な顔をしてお咎めはなかった。偉い人は随分身勝手ですね。


仮名暦をあつらえた事

新参の若女房がその家の持僧に仮名暦を書いてもらった。初めのころはきちんと物忌みなど書いていたのだが、途中からふざけだし「物を食わぬ日」とか「大便をしない日」とか無茶な事が書いてあった。若女房はでたらめとも思わずに守ろうとしたが、「大便をしない日」が3日以上も続くと、遂にお漏らしをしてしまったと云う話。僧の悪ふざけにまともに付き合った女房の馬鹿さ加減が笑われた。


五色の鹿の事

インドの深い山に五色の毛並みの鹿がいた。ある日川で溺れている男がいたので身の危険も顧みずに助けてやった。そして男が恩にきたが、鹿は「口外しないでくれ、誰かが私を殺しに来て皮をとるだろうから」といった。国に帰った男は暫くは黙っていたが、「后が夢に見た五色の鹿を捕らえたものには賞金と土地をやろう」と云う国王の布告が出た。この男は国王に名乗り出て居場所を知っているので案内をすると申し出た。国王は捕獲隊をつれて男の案内で深山に入り、鹿を見つけた。驚いた鹿は国王に「誰が居場所を教えたのか」と問うと、以前助けてやった男が案内したのだと云う。鹿は命を助けてやったのに恩を仇で返す男を憎んだところ、王は欲に捉われて恩を忘れた男をその場で殺したと云う話である。獣でさえ情けを知るのに、情けを知らない人は多い。仏性は獣にもあると云う教え。


播磨守為家の侍佐多の事

今昔物語にもある話。播磨の守高階の為家朝臣の佐太という侍がいた。年貢取立てに行った郡司の家にいた美しい哀れな下女に懸想をいたし、強引に口どいたが、女は和歌を詠ってやんわり断った。佐太はこの歌の意味が理解できず怒り狂って郡司に当り散らしたので、為家守は事情を知ってこの佐太を追い出した。そして女には物をとらせたという。人情を知らぬ男の末路の話。


長谷寺参篭の男が利生にあずかる事

かなり長い話で、風が吹いたら桶屋が儲かると云う類の連鎖的に幸運がつながって福者になる、長谷寺の観音信仰のありがたい話である。親兄弟もなく妻子供もない頼りない男が長谷寺で野垂れ死にしようとしたところ、観音さんのお告げで最初に手にした藁一本から、ミカン三個へ、布三疋へ、馬へ、家と田に代わってゆくのである。


猟師が仏を射る事

愛宕山で修験道に歳久しく修行する偉い聖が居た。この聖を尊敬して日常食べ物の世話をしていた猟師が訪れたところ、聖が云うのは最近普賢菩薩が象に乗ってお見えになる。猟師はそれでは私にも拝ませていただきたいと、ある夜聖と共にしていると、東の空から普賢菩薩が静々と現れた。猟師はそこで考えた。「聖のような修行を積んだ方に菩薩様が見えるのはありうることだが、自分のような一字もお経も読めないものにどうして見えるのか。おかしな事だ」と思った。そこで一計を考えた。菩薩様めがけて矢をひゅうっと射ると菩薩が一目散に逃げて消えた。夜が明けて血の跡を辿ると、一町ほど先の谷底に大きな狸が射殺されていた。聖であっても常識がないと狸に化かされるが、猟師でも思慮があれば狸の化けの皮をはぐ事ができるのだという話。


宝志和尚の肖像画の事

中国の話。宝志和尚という聖がいた。帝もたいそう尊ばれて三人の絵師に宝志和尚の肖像画を描くように命じられた。絵師が絵を描こうとすると、宝志和尚は自分の本当の姿を書きなさいといって、顔の皮をはがしたところ、中から金色の菩薩が現れたという。人はそれを十一面観音とか、聖観音であったとか評した。


大安寺の別当の娘に通う男が夢を見る事

今昔物語にある話。大和大安寺の社務の別当の娘に宮中の蔵人が婿に入っていた。あるとき昼寝をしたら夢を見た。家中でがやがや騒がしく、皆で銅の煮え湯を飲んでいる。男にも煮え湯が注がれるところで夢から覚めた。社務の別当と云うのは寺の実入りを勝手に懐にしまいこんでがつがつ生活している、そのため地獄で鬼に銅の煮え湯を注がれていたのだ。なさけない一族であったと云う話。 そして男はすぐその家から逃げ出した。


博打うちの息子が婿入りする事

博打うちの息子に人並みはずれた醜男がいた。親は何とか長者の家の婿にして、人並みの生活が出来ればと思案していた。天下の美男子だという触れ込みで長者の娘に通わせていたが、ある時昼間に顔を見せなければならないことになって一計をめぐらせた。博打打の一人を長者の家の屋根裏に忍び込ませ、鬼に化けて恐ろしい声で「この娘は何年も前から俺のものだ。けしからん婿殿の命をとるか顔を取るか」と叫けぶと、婿殿は命だけはご勘弁を、顔の器量ならどうでもしてくださいと頼んだ(これも打ち合わせた芝居だが)。娘の家族が蝋燭で婿の顔を見ると、目鼻を一つにしたような具合の顔だった。それ以降娘と家族は婿殿を大事にして幸せに暮らしたと云うこと。ことがこんなにうまく筋書き通りに運ぶのだろうか。


伴大納言、応天門を焼く事

有名な国宝「伴大納言絵巻」の原作ストーリーである。清和天皇の御時応天門が焼けた。その時筆頭大納言伴義男が自分が大臣になりたくて、左大臣源信の仕業であると申し出た。天皇は左大臣源信を処罰なさろうとしたが、摂政藤原良房が帝に奏上して、これは讒言だと思われるので処罰を急がずよくよく調べてからにすべきであるということになった。応天門が焼けた夜、舎人なるものが応天門の前を通りかかった時、人が走り去るのが見えた。それが伴義男らであった。ただあまりの事の重大さに口を閉ざしていたが、ある時自分の子が伴大納言の執事の子と喧嘩になって、そこへ執事が出てきて自分の子供を思いっきり蹴飛ばして、あまつさえ伴大納言の権威を振りかざして暴言を吐いた。その舎人は思わず伴大納言の悪事を吐露して言い返してしまった。その噂がしだいに広まり宮中にまで達したので、舎人を尋問し、伴大納言も尋問してついに伴大納言の仕業と判明し配流された。


空入水した僧の事

祇陀林寺で法華懺法する僧が桂川で往生するため入水する噂が京中にひろがり、町中から桂川あたりまで見物客が押し寄せた。見物人は供養のため散米を僧に向かって投げたので、僧は供養は祇陀林寺にやってくれと云う。午後4時ごろ桂川に着いたが、僧は往生にはまだ早いといって暗くなるまで待った。見物人は合点が行かぬと訝った。やがて衣を脱いでふんどし一枚で川に入った僧が手足をバタバタさせているので見物客が引き上げると、助かったといって一目散に逃げ出したと云う話である。僧には最初から往生する覚悟はなかったようだ。暗くなったら逃げ出すつもりだったのだろう。


日蔵上人、吉野山にて鬼にあう事

吉野山の日蔵上人が奥山で修行していると泣き続ける鬼に出会った。理由を聞くと、四、五百年前に人に恨みを残して死んだら鬼になったという。敵とその家族、子孫にいたるまでを一人残らず殺したが、もう殺す相手もいない。怒りの炎に焼かれて苦しみは尽きないので泣いているのであった。恨みを残さなかったら今は往生できていたのにと思うと残念でならないといって消えた。日蔵上人はこの鬼のためさまざまな回向を施してやったと云うことである。人を恨むことは自分に帰ってくることなんだ。


丹後守保昌が下向の時、致経の父にあう事

丹後守保昌が任国に下った時、宮津の山で馬上の一人の白髪の武士に出会った。国司を前にして馬から下りないのはけしからんと家来が騒いだが、保昌は一目見てこの武士は一騎当千の勇者だ判断してそのまま通り過した。さらに行くと大矢で有名な左衛門尉致経らの軍兵に出会った。あの老武士は致経の父平致頼である事がわかってさすがと納得したと云う。


増賀上人、三条の宮に参上し、奇行をなす事

多武峰に名利を嫌い奇行で有名な増賀上人と云う方がいた。円融天皇の女御詮子宮が出家なされる時戒師として呼ばれた。上人が戒師を簡単に引き受けられたので弟子達は却って不安であった。無事出家の作法も終わり師が退出される時、「私をお呼びになったのは、私の一物が大きいと思ったのですか。だけど今ではふにゃふにゃですよ」といって周りの人を呆然とさせた。そして出口際で下痢を起して散々便を垂れ流し、下痢をひる音は回りに響いたと云う。唖然とするような話だ。


穀断ちの聖の秘密が露顕した事

今昔物語にある話。20歳ごろから米を食べない坊さんが「米断ちの聖人」といわれ、天皇の帰依を受け神泉院に住んでいた。これを聞いた殿上人が好奇心から聖人の家に出かけて、米を食わない人の糞はどんなものかと興味を持ち厠を調べた。便に米がたくさん混じっているのでおかしいと思って部屋の畳の下を調べると、米の壺が隠してあったという話。人の尊敬を受けるために米断ちと称して、隠れて米を食っていた。それがばれて大いに恥をかいて逃げ出した。


宗行の朗等が虎を射る事

壱岐守宗行と喧嘩をした家来が海を渡って新羅国へ行った。金海と云うところに虎が出て人を食うという。日本の武士なら虎にむざむざ食われはしないので虎退治を申し出た。麻の畑に入り虎が躍りかかった瞬間に下から弓を射て見事射殺した。やはり日本の武芸は恐ろしいと誉められ、色々な贈り物を得て筑紫国に帰ったという。


ある上達部が中将の時、召人にあう事

近衛中将が宮中へ参内する途中、検非違使が僧を捉えて連行するの見たので、罪を聞くと主を殺したというので「実に罪深い」といっったら、その僧は険しい目つきで中将を睨んだ。さらにゆくと別の男を捕らえて連行するのでどんな罪かと聞くとたいした罪でもなさそうなので釈放してやった。暫くして大赦があって僧は放免された。ある夜恐ろしそうな者が集まって中将の家を襲い中将を拉致して山中に連れ込んだ。あの僧らの一味が中将の一言で大罪になったので恨みに思って、芝を積んで中将を焼き殺そうとした。そこに矢が飛んできて僧らを射散らした。その男はあの釈放してやった者で、恩に思って中将を救ったということであった。事情も知らず知らぬ余計なことを言って人のうらみを買うこともあるから慎重になりなさいと云うことであろう。


夢を買う人の事

備中国の郡司の子で吉備真備と云う若者がいた。夢解き女の許にいって雑談をしていた時、国守の息子が夢解きにやってきた。真備は奥の室で聞いていたところ、すばらしい夢であったので、国守の息子が帰った後夢解き女に頼んでその夢を買いたいと願い出た。国守の息子の夢を繰り返して話すことで夢が買えるのである。その後真備は学問に励み見出されて遣唐使となり、ついには大臣まで出世をしたという話。ちょっと頂けないストーリーだ。


大井光遠の妹の強力の事

今昔物語にある話。庶民の怪力伝。甲斐の国の大井光遠と云う相撲人の妹がまた兄を上回る怪力の持ち主であった。ある日人に追われた男がこの女房の部屋に逃げ込んで、女房に刀を差し当て抱きしめて人質に取った。ところがこの女房が指先で矢柄を潰すのを見て恐れをなした男は一目散に逃げ出した。とんだ怪力を見て女房にひねり殺されるより逃げるが勝と見た話。


ある唐人が羊に転生した娘を知らずに殺す事

中国の話。慶植と云う男の娘は十歳で亡くなった。二年ばかりたって慶植が任国へ赴任する事になり、羊を買って宴を開こうとした夜、母が夢を見た。娘が現れて、白い羊に生まれ変わっていますので明日の命を助けてくださいという。調理人は知らずに羊を殺して客に供した。慶植は妻の話を聞いて病気になり死んだと云う。


門部府生が海賊を射返す事

内裏の門を警護する門部府生と云う貧しい舎人がいた。競技の弓がすきで、夜は家の板をともし火にして弓の練習に励んだ。そして家を全て燃やしてしまうほどであった。賭け弓競技で勝った府生は注目され、相撲人を募集する使いに選ばれて地方に下った。瀬戸内海のある島にゆき海賊に襲われたが、府生は少しも騒がず儀式用のやじりのない矢で海賊の首領の目を射たので海賊は逃げ去ったと云う武勇伝。実戦を伴わないのでこの話しなぜか軽い。


十訓抄

第一 人に恵みを施すべき事

人を大事にし、その人材を生かすべきである。小さなな過失は見逃し許し、優れた才能に目を向けよう。

蜂の恩返し

中納言文屋和田麿の子孫に余呉大夫と云う侍がいた。大和の三輪に城を築いたが、敵に破られ山城の笠木の山に逃げた。岩ノ下に網を張っていた蜘蛛の巣に蜂が引っかかり今にも蜘蛛に絡め殺されそうであった。余呉大夫は可哀そうに思って蜂を蜘蛛の網からはずして逃がしてやった。その夜の夢に男が出てきて云うには、蜂の恩を返したいので云う通りの戦術で敵をおびき寄せたら加勢をする。敵は三百騎ばかりで押し寄せたが、蜂の大群が雲霞の如く湧き出て敵を刺し傷つけたので、余呉大夫の一軍は見事敵を打ち殺したと云う話。そして元の城に戻り死んだ蜂のために堂を建て供養したという。

色好み道清の失態

この話は「人に恵みを施すべき事」と云う訓とどう関係するのかといいたいような、色好みの男の失態を描いたものである。土佐判官道清はなかなかの好色家であちこちと徘徊しては、女房で手をつけない女はいなかった。東山のある宮の女房にしきりに手紙を送ってはいたが、忙しいとか言われてはかばしい返事がない。中秋の頃女房の屋敷に行きしきりに誘ったところ、持佛堂で立ち話ならと云う返事を貰い、天にものぼる思いで持佛堂で待っていた。御簾の破れたあけすけの間に女房がすたすたとやってきて、直ぐに腰紐を解き袴を脱いで隅に押しやって、男ににじり寄ってさーどうぞと前を広げてくるのであった。あまりの情緒のなさで男は完全に気後れがして何も出来なかった。女は「なんて厭な男」といって消え去ったと云う話。色好みとしては実にお粗末な話ではないか。


第二 驕慢を避けるべき事

人をバカにして、世間の流れというものに逆らっていては驕慢になる。自分の心のままには世間は動かないことを知るべきだ。

小野小町の落魄

小野小町が得意なころは、彼女のもてはやされ方は大変な物だった。錦を着て、珍味を食し、体には香を焚き染め、口には和歌を口ずさみ、男を軽蔑して、天皇の女御を希望していた。しかし親、兄弟に死に別れ頼る物がいなくなると、栄光は消えうせ、容色も衰え、男達は相手にせず、しだいに落ちぶれて最後は野山をさ迷う有様であったといわれている。


第三 人倫を侮らざる事

身分の低い者、劣ったもの、貧しいものを馬鹿にしてはいけない。後ろ盾のない女をだます事も人の道から外れたことだ。

菅原文時邸の老尼

三位菅原文時卿がなくなって何年か経った時、卿を偲ぶ会が親戚縁者で催された。「月はのぼる百尺の桜」という歌を口ずさんでいると、庭の片隅にみすぼらしい老女が来て「月は登らない、月にはのぼるというのです。卿はそういってました」という。人々は恥ずかしい思いをした。みすぼらしい人でも立派な事を云うものだという。


第四 人について戒むべき事

言ってはならない事をべらべら喋ってはいけない。ろくに知らない事を言ったりすると自分の愚かさが曝露される事になる。おしゃべり禁止。

機織虫の歌

花園大臣源有仁公は機織虫の声を聴くのが大好きであった。ある日、日が暮れてきたので侍に格子を下ろさせ、機織虫の歌を一句詠めといった。侍は「青柳の」と詠み出すと、傍にいた女房らは季節はずれだといって笑った。公は全部詠めと催促するので、青柳の糸を繰り返す夏が終わって、秋には機織虫がなくと云う句であった。浅はかにも全部聞かないで人の句を笑う女房のほうが愚かだった。


第五 朋友を選ぶべき事

人は良き友と出会うことを希望すべきである。朱に交われが朱くなる。愚かな自分でも影響されて良い人になれるのだ。

妻選びの要件

妻は家柄で選べ、つぎに女の心で選べ。

良妻と悪妻

清原夏野撰「令義解」(833)に離別すべきでない三つの場合を決めている。@夫の親に仕え、その死を夫とともに悲しむ妻 A夫が貧しかった時から良く仕え妻 B妻の両親がなくなってからは離別してはいけない。帰るところがないから
そして妻を離別するべき七つの場合を定めている。@邪悪な妻 A間男した妻 B強情な妻 C嫉妬する妻 D盗みをする妻 E子のいない妻 F悪い病気を持つ妻


第六 忠実・実直を心得る事

悪い事は諌めなければならない。時と場合を考えて穏かに注意することだ。

養老の滝の伝説

この話は訓の趣旨には合わない。元正天皇のころ(715−724)、美濃の国に貧しい木こりの男が老父とすんでいた。男が何時にように薪を採りに山に入った時、足を滑らせて川に転落した。思いがけず酒の香がしてきたのであたりを見回すと、岩の間から酒色をした水が湧き出ていた。汲んで瓢に入れ持ち帰り親に飲ませたやたいそう喜んでくれた。この話を元正天皇の耳に入り、その場所を「養老の滝」となずけ、親孝行を愛でて男を美濃守にされたという。


第七 ひたすら思慮深くあるべき事

自分自身を反省し、家を起し、身を立てる道をよくよく考えること。子供を甘やかすととんでもない悪になる。それは親と子の思慮が浅いからである。

松葉を食して仙人となる話

河内の国の金剛寺に松葉だけを食う僧がいた。僧は松葉だけを食うと仙人になって空を飛ぶことが出来ると人が云うのを真に受けたのである。なんか身が軽くなったような気がして、空に舞い昇ろうとして岩の上から飛びおりた。谷底に落ちて手足を折ったので動けない体になったと云う話。仙人になる骨相もないのに仙人になれたと錯覚した僧のおろかさ。


第八 諸事を忍耐すべき事

すべてを耐え忍ぶことは最高の徳である。五徳の人と云う。

朱買臣の妻

朱買臣が貧しかった頃、その妻は夫を見限って別の男と再婚した。その後朱買臣が会稽の太守になって赴任すると、元の妻は恥ずかしく思って自殺した。

呂尚父の妻

呂尚父(太公望)の妻も朱買臣の妻と同じように夫を見限って離婚した。後、呂尚父が周の大臣となって栄えた時妻がやってきて復縁を願い出た。呂尚父は「覆水盆に戻らず」といって拒否したと云う話。いずれもこらえ性のない妻の話しである。


第九 願望を抑える事

物を恨んだり妬んだりすることを先立ててはならない。よく考えずに振舞ってはいけない。先ず耐えることを知るべきである。

顕季と義光の所領争い

白河院の名裁定の話。公卿の六条修理大夫藤原顕季卿の知行国のひとつを、東国の武士舘三郎源義光が奪い取った。顕季卿は白河院に訴えたがなかなか裁定が出なかった。そうこうする時ある日、御所で白河院と二人きりになったので顕季卿は訴状の件を伺った。白河院は「理はそちらにある事は明白なのだが、ここは一つ良く考えてみよう。顕季卿には多くの知行国を持っており、今回の件で源義光に土地を一つ取られても困る事はあるまい。義光は必死なのだから、ここは相手に与えて争わない事も一つの方法ではないか」といわれた。そこで顕季卿は源義光を呼んで、土地を与える譲渡証文を書き互いに署名した。すると源義光はこれを義と思って、以降は顕季卿に良く仕えたということである。


第十 才芸を願うべき事

家伝の芸を継ぐことは大事な事である。先祖代々の業を継がないのはなんとも残念なことだ。家に芸道や家職のある人ない人も才芸の能を備える必要がある。芸は身を助ける。

博雅三位と朱雀門の鬼

三位源博雅公は笛の名手であった。朱雀門で妙なる笛を吹く男から笛をもらった。この男が鬼であった。

頼政の鵺退治

源頼政と云う武将は弓の名手であった。ある夜御所の上で気味悪い声で鳴く鵺を退治せよという高倉院の命を受けた。真っ暗い夜で何も見えないのを声だけを頼りに弓を弾いて見事鵺を射殺した。藤原実定公のお褒めの歌を頂き歌のお返しも立派だったと云う文武両道の士の話。


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