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辻惟雄 著 「岩佐又兵衛」

 文春新書(2008年4月)

浮世絵を作った男の謎

岩佐又兵衛という江戸時代初期の画家を知る人は少ない。同時代の琳派の俵屋宗達に較べると知名度はいまいちで、あまりメジャーな画家ではないと思われている。美術史家である著者辻惟雄の書物「奇想の系譜」によると、「江戸のアヴァンギャルド」画家五人衆と狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪、歌川国芳と並んでは岩佐又兵衛はその系譜に位置するそうである。絵がめっぽう上手くて、異色の存在として注目されてもいいはずなのに、なぜか岩佐又兵衛は歴史から抹殺されていた。辻惟雄氏はこの画家にこだわり続けている。というのは浮世絵の元祖は寛文から元禄時代に活躍した菱川師宣であるといわれるが、それに先んじて慶長時代に活躍し始めた岩佐又兵衛がその先駆け(或いは元祖)であると見ているからだ。

岩佐又兵衛は関西の戦国有力大名荒木村重の側女の息子として生まれながら、家門の滅亡とと生母の悲惨な処刑に遭い、武士を捨てて画筆稼業のみで渡世をなし、京都ー福井ー江戸と流浪の生涯を送った。このスケールの大きな在野の画家は、古典の雅ななかに、当世風の俗と笑いとかげりを忍ばせた画風を表向きの仕事としながら、アンダーグラウンドの又兵衛絵工房を持って、それ以上の情熱で大量の無署名の絵物語の作品を生産した。同時代の琳派の俵屋宗達を「陽」とすると、岩佐又兵衛は過不足なく「陰」の世界の表現者として評価されるべき人物であった。組織力で御用絵師の表街道を支配した狩野派は体制の枠組みに埋没したが、岩佐又兵衛工房はアンダーグラウンドで当世浮世享楽主義の浮世絵を発展させた。これは戦国時代から始まる桃山文化から初期浮世絵(風俗画)と繋がる系譜である。又兵衛は第1期の浮世絵(慶長・元和・寛永)の元祖であり、師宣は第2期(寛文・元禄)の元祖ということになる。第1期の浮世絵は主な表現形式が屏風絵であり、発注者は武士や裕福な町人で、京・江戸の大都市・大名の地方都市を市場とした。師宣の第2期の浮世絵は版画というマスメディアにのって大衆版として広がった。幅広い町人階層が購買者となった。岩佐又兵衛を師宣に先行する浮世絵の創始者であると云う考えはそういう意味である。

岩佐又兵衛は数奇な生い立ちを背負った人であった。かれは天正6年(1578年)摂津の国伊丹の有岡城主荒木村重の子として生まれた。父村重は織田信長の信任厚い武将であったが、西の毛利家と石山本願寺派の頑強な抵抗に遭った織田信長に反旗を翻した。天正6年11月、織田信長の説得に村重は肯じ得ず、織田信長軍は有岡城を包囲した。村重は尼崎城、花隈城に逃げ込んだ。切れた織田信長は見せしめに、有岡城の人質500人を尼崎で焼き殺し、村重の親族30数名を京に送って六条河原で斬首した。このあたりの史実は「信長公記」卷11(天正6年) に記されている。一族は惨殺されたが村重は毛利の元へ逃げ、本能寺の変で織田信長が死ぬと京へ戻り、千利休の高弟「道薫」として52歳まで生きた。岩佐又兵衛は乳母に救出され京都の本願寺内で養育された。10歳で秀吉の北野の茶会に参加したという。関白二条家にも出入りしていたようだ。雅はそこから学んだのだろう。だれに絵を学んだかは不明だが、最初の師が狩野重郷で大和絵土佐派を学んだ。この時期は狩野派は大和絵のレパートリーである風俗画を手がけていた。元和元年(1615年)大阪夏の陣で豊臣家が滅亡すると、岩佐又兵衛は越前(福井)松平忠直の庇護を受けて移住した。この頃から本格的な画家稼業が始まるので、下の「岩佐又兵衛の作品」に従って岩佐又兵衛の画業をみてゆこう。なお掲載した絵画写真は参考程度で小さいので、良く観察したい人は本書を買うか、画集を購入される事を勧めます。

岩佐又兵衛の作品
絵画作品岩佐又兵衛の作品について
1)松平忠直肖像画松平忠直肖像画
2)官女観菊図
官女観菊図
3)伊勢物語・梓弓図
伊勢物語梓弓
4)柿本人麻呂図
柿元人麻呂図
5)職人尽・傘張りと虚無僧(旧楢屋屏風)
職人尽・傘張りと虚無僧
6)太平記・本性房振力図太平記本性房振力図
7)平家物語・鵜川の軍平家物語・鵜川の軍
8)新古今三十六歌仙図・二条院讃岐新古今三十六歌仙・二条讃岐
9)耕作図屏風耕作図屏風
10)山中常磐物語絵巻山中常磐物語絵巻常磐殺し
11)堀江物語堀江物語
12)上瑠璃物語絵巻上瑠璃物語絵巻
13)小栗判官絵巻小栗判官絵巻
14)婦女遊楽図屏風婦女遊楽図屏風
15)舟木屏風・洛中洛外図舟木屏風・洛中洛外図
16)豊国祭礼図屏風豊国祭礼図屏風
17)花見遊曲図屏風花見遊曲図屏風
18)湯女図湯女図

松平忠直時代
又兵衛は越前北の庄の松平忠直の庇護を受けて1615年から1637年22年間ほど福井に滞在した。忠直の父は家康の次男結城秀康で、二代将軍秀忠の兄にあたる。結城秀康は一時秀吉の養子であった事が災いして将軍職継承権者から外された。後を継いだ忠直は大阪の陣で大活躍したものの家康からの恩恵は少なく、失望した忠直はそれ以来反抗的な態度に傾いた。疎まれた忠直は乱行のかどで1623年大分に追放された。
(忠直卿行状記)1)松平忠直肖像画は面白いほど家康の面影がある。忠直時代の又兵衛の作品は3点のみである。一つは「三十六歌仙画冊」では恐ろしいほど個性的な歌人を描いた。二つは「金谷屏風」という12図の水墨画・淡彩画がある。
2)官女観菊図は大和絵をモノクロで描いた白描画である。上品な割には乱れ髪が妖しい雰囲気である。岩佐又兵衛の絵で特徴的なのは、妙な顔つきである。顔は頬が膨らんで、頤(あご)が長い「豊頬長頤」である。
官女の顔や、3)伊勢物語・梓弓図にみる男の顔は「豊頬長頤」の典型である。
そして三つは酒宴で戯れ書きした4)柿本人麻呂図と紀貫之図は大和絵の題材を水墨画で描いているが、その顔はまるで漫画である。


松平忠昌時代
忠直の後を忠昌が継いだ後、又兵衛は14年ほど越前に滞在した。作品は小さな腰屏風がおおい。
高さ3尺の8曲1双の「楢屋屏風」(現在は池田屏風と呼ばれる)の中から、5)職人尽・傘張りと虚無僧を示した。ほかに「王昭君図」、「寂光院図」、「伊勢物語53段」があり全4図である。どれも非常に細い揺らめくような線で描いた高度の筆技である。王朝の雅で卑俗を越えた画風であった。
6)太平記・本性房振力図は和漢の画題の貼り混ぜ屏風のひとつである。軍記ものは武士の好きな画題であろう。太平記からとった笠置城の南軍の戦争図だが、上の武士たちは笑っているし、下の石の下敷きになった武士の顔もおかしい。ユーモラスで「笑える合戦図」は岩佐又兵衛の創始になるといえる。漫画的卑俗さが如実である。
7)平家物語・鵜川の軍の図は近藤師経と寺僧の乱闘を描いたものだが、馬の足を斬るが絵では馬の尻尾を切るになって、まるでギャグを楽しむ滑稽絵である。人物の誇張された表現も又兵衛独特の姿勢を表す。


江戸での又兵衛
寛永14年(1637年)2月、又兵衛は妻子を越前に残して、10日ほど京によってから東海道を下って江戸に旅をした。その時の旅日記「廻国道之記」には本当は5箇所に絵が添えてあったのだが、日本に残る複写本にはそれがない。現本はアメリカにいったというが行方不明となった。日本には土佐日記以来の紀行文の伝統は、五七調の文章と旅枕の歌物語に、昔の旅行の大変さがしのばれる。東海道53次膝栗毛にもつながる滑稽さも併せ持つこの「廻国道之記」は純粋に私的なメモであったのだろうか。又兵衛が江戸に招聘された理由は「岩佐家譜」によると、三代将軍家光の娘の婚礼装具の意匠を描くためであったという。尾張徳川美術館にある「初音蒔絵調度」は又兵衛の作と伝えられる。河越東照宮拝殿が焼け再建された拝殿に「三十六歌仙扁額」を奉納する注文も舞い込んで又兵衛は多忙を極めたと云う。当時江戸では狩野探幽・尚信が幕府の御用を務めていたが、京都大徳寺や二条城の仕事もあって画家の数が絶対的に不足していた事情があって、又兵衛が呼ばれたようだ。組織と権威を持たない又兵衛の苦労が思われる。江戸在住中の又兵衛の絵については、「勝以画」(かつまた)をしめす印(考証は省く)を示す画はむしろ少ない。印がおされているのは「布袋図」、「月見西行図」の2枚くらいである。「布袋図」は室町時代の水墨画の高度な技法で書かれている。薄い墨で絵を描いて、一部分に濃い墨を使って変化をもたせているが、布袋の笑顔がなんとも漫画的でほほえましい。「月見西行図」では淡々とした筆致に、西行の歌が又兵衛の自筆で書いてある。河越東照宮拝殿の「三十六歌仙扁額」が背地を金泥で固め濃い彩色と細かい文様書きでよそっているが、線が堅い。絵には又兵衛の特徴である「豊頬長頤」が良く現れている。
それに対して福岡若宮八幡宮の8)新古今三十六歌仙図・二条院讃岐の絵は、河越東照宮拝殿の「三十六歌仙扁額」の新古今版で人物描写はよく似ている。淡彩な画である。
9)耕作図屏風は晩年の珍しい水墨淡彩の屏風で、狩野元信以来の狩野派レパートリーのパロディ版である。又兵衛独特の霞引きに細部の人物まで的確に描いた。「楊貴妃図」も円熟した作風である。以上が又兵衛の落款「勝以」のある作品のすべてである。


浮世又兵衛伝説
これまで落款のある又兵衛の表の作風を紹介した。彼の数奇な運命に対応して、作風もまた個性にとんだ風変わりな趣きも随所に見る事が出来たのだが、彼の真骨頂はそれだけではない。もう一人の又兵衛、「アンダーグラウンドの又兵衛」がいるのである。京都の儒学者黒川道祐が著わした「遠碧軒記」によると「浮世又兵衛」とか「憂世又兵衛」という綽名で呼ばれていたことが分る。浮世絵の定義は「版画」と同じではない。「版画」は伝達手法に過ぎない。版画に拠らない「肉筆浮世絵」というのもある。浮世絵の内容とは何だろう。室町時代の一休和尚の「狂雲集」や、当時の流行歌を集めた「閑吟集」に「一期は夢よ、ただ狂え」とある。室町から戦国時代の混乱と殺略の狂気の時代に、遊び狂おうと云う刹那主義が横行したとしても不思議ではない。世紀末思想である。1670年ごろの江戸の浪人浅井了見が「浮世物語」で「浮世宣言」をしている。一寸先は闇のいわば享楽思想である。この「刹那の遊び」の思想から生まれた浮世と当世風とは同義語である。又兵衛はこうして二つに分裂してしまった。「浮世又兵衛」と、忘れられた画家「岩佐又兵衛勝以」である。福井出身の作家近松門左衛門の浄瑠璃にも「吃の又平」が登場する。同時代の風俗画家英一蝶は彼に「憂世又兵衛」と云う綽名をつけている。それ以来、浮世又兵衛伝説が根強く流布したと思われる。大正の洋画家岸田劉生は「初期浮世絵聚芳」で、又兵衛の魅力を「ねちっとした、しんねり強い生々しさ」といった。


又兵衛風絵巻群の再発見
又兵衛風絵巻群の再発見者は「第1書房」の長谷川巳之吉である。大正14年旧津山藩主松平家(忠直の末裔)に伝わる絵巻が競売され、さらに外国に売られようとする直前に長谷川が又兵衛の作品と直感し、家財産をかたに買い取ったのである。昭和4年朝日新聞社社主村山龍平の所持する「堀江物語絵巻」とともに、この「山中常磐物語絵巻」が展示公開された。これを契機に、大橋新太郎氏が「上瑠璃絵巻」を所有し、宮内庁が所蔵する「小栗判官絵巻」も合わせて、この4部の極彩色絵巻群が世に明らかになった。それ以来又兵衛の絵巻物群について真贋論争が賛否両論入り乱れてた。肯定派には長谷川を筆頭に春山武松、疑問派は笹川臨風、藤懸静也、田中喜作などがいた。昭和八年長谷川巳之吉はさらに9点の又兵衛秘蔵品を集めた。戦前は結局、論争は官側の権威勝ちの形で鳴りを潜めた。戦後又兵衛画のコレクターとして一躍名を挙げたのは、MOA美術館創始者岡田茂吉氏である。現在MOA美術館が所蔵するのは、「山中常磐物語絵巻」、「堀江物語絵巻」、「上瑠璃絵巻」、「自画像」、「岩佐家譜」、「人麿・貫之図」、「楊貴妃図」、「鹿と貴人図」、「平家物語・寂光院図」、「小野小町図」、「三十六歌仙図」などである。これらの絵巻物の画には確かに、又兵衛だけの手でできていないものもある。鑑定家は「線が違う」というのだが、当時の大作画は狩野派の組織でも複数の人の工房作がほとんどである。又兵衛風絵巻群のような濃色彩を施した装飾性の強いものである以上、何人もの弟子の共作である可能性が強い。棟梁が下絵を書き、重要な部分の書き起こしをし、弟子達が後を仕上げるのが普通である。こういう点を斟酌しても「山中常磐物語絵巻」などは又兵衛の筆であると筆者は確心した。いまでは「山中常磐物語絵巻」が又兵衛の作であるとという見方が主流となり、「山中常磐物語絵巻」と「上瑠璃物語」は国の重要文化財に指定された。
又兵衛絵巻群は概ね、室町時代の御伽草子系の「古浄瑠璃」の正本テキストを詞書としたものである。「小栗判官」だけは説教節から来ている。「山中常磐物語絵巻」は牛若丸の母である常磐御前の悲劇を扱った。「上瑠璃絵巻」は牛若丸と浄瑠璃姫とのラブロマンスである。又兵衛絵巻群は独特の装飾的技法において共通の特徴を持つ。金、銀、白、薄青による細い線の霞引き、人物や室内は濃い原色で彩られ金泥などで細密な文様が施される。畳が濃い緑青である事も共通である。内容は仇討ちが殆どで、悲運の死を遂げた人の霊を受け、主人公が超人的な活躍で仇を討つたわいもないストーリである。絢爛たる復讐劇絵巻である。 左の欄に10)山中常磐物語絵巻、11)堀江物語、12)上瑠璃物語絵巻、13)小栗判官絵巻の絵巻物の一部図を参考までに示しておく。
山中常磐物語絵巻
全12巻で縦34cm、全卷長さ150メートル 内容は室町時代に成立した牛若丸伝説にちなむ御伽草子の仇討ち物語である。越前時代忠直の頃、又兵衛が全面的に関与して指揮したものだろう。下の図は卷4の盗賊が逃げてゆく図である。
山中常磐物語絵巻・盗賊の図
山中常磐物語絵巻盗賊
卷1:物語は牛若の東下りから始まる。奥州の藤原秀衡を頼る旅である。。牛若の母親常磐御前は息子を案じる絵はいかにも又兵衛の「豊頬長頤」の筆である。卷2,3:常磐が従者を伴って牛若を尋ねる旅に出る。道中の道行きの情景を描いて美濃の山中にいたる。卷4、5:6人の盗賊が現れ、常磐と従者の身ぐるみを剥いで逃走する。それが上の図である。帰り際に盗賊は常磐の胸を刺す。
それが左欄の10)山中常磐物語絵巻の図である。極彩色で血が流れるエログロの極みというべきショッキングな図である。宿の老夫婦が常磐と従者の最期を看取る。卷5,6:老夫婦が塚を築いて二人を葬る。牛若は京へ帰る途中、山中で夢を見、母親が仇討ちをするよう告げる。この辺から画家の手が変わっている。後半は弟子が書いたものと思われる。復讐のため大名一行が宿にいると噂を流して賊を誘う。卷8,9,10:おびき出され盗賊六人を滅多切りする牛若の血なまぐさい活劇シーンである。盗賊の死体を宿の主が始末して川の淵へ投げ捨てる。卷11、12:秀衡の奥州から大軍を率いて西の平家追討に出かける牛若丸は宿の老夫婦に手厚い礼をするという平板なストーリである。

堀江物語
全卷が揃ったMOA美術館本「堀江物語双紙」と残欠本の二種が存在する。全12巻で縦35cm、全卷の長さは合計148メートルで山中常磐物語絵巻とほぼ同じボリュームである。又兵衛自身の作ではないが、又兵衛の原作があった可能性はある。MOA美術館本は時代の下がったコピーである。卷1:下野国の豪族堀江左衛門の子頼純は原の左衛門の娘を妻に迎えて中むつまじく暮らしたが、父の死によって領地を召し上がられるところから始まる。卷2:中納言行敏が国司として赴任してくる。国司は原の娘に横恋慕して、原に財産を与えて姫を所望した。卷3:原と息子は共謀して、堀江を騙して領地の訴訟のため上洛を勧めた。卷4:姫と子を残して京へ出発した堀江を、原親子は相模で待ち受けた。卷5:ここから血なまぐさい活劇シーンとなる。四人の従者と堀江らは原親子の襲撃に遭って、善戦し3人を切り捨てるが、一人の従者に息子が成人したら菩提を弔うように告げて、堀江と三人の従者は自害した。卷6:原の屋敷に敵味方の死骸が運びこまれる愁嘆場である。
左欄の11)堀江物語の図にその有様を描いた。卷7:原は堀江たちの首を国司の屋敷に運び込む。良く見ると首はにやりと笑っていたり、おどけた表情をしている。又兵衛のブラックユーモアーが見える。姫は国司の刀で自刃する。卷8:姫の死骸は原の屋敷に運ばれ、母親はいたく原を責めるが、自分も自害する。この愁嘆場での女たちの衣裳が波打ち感情を盛り上げる手法はさすが又兵衛の手腕である。卷9:息子月若は淵に捨てられたが、乳母が救って通りがかりの奥州の岩瀬権之守が」つれて帰り養育した。元服した月若は岩瀬家村と名乗った。卷10:岩瀬家村が15になった年、仇討ちを決意し兵を集めて下野に向かう。卷11:岩瀬家村の軍は国司の舘に押し寄せる。下の絵が堀江物語・残欠本・合戦場面である。平治・保元物語のような美しい線できらびやかな武者達が描かれている。そして徹底した復讐の惨劇が描写される。そして都に上った家村は帝に報告し、8カ国の国司に任命された。卷12:下野に戻った家村は、原の父は情けで命は助け、奥州の岩瀬の父に仔細を報告し、板東8カ国のうち2国を岩瀬に譲った。めでたしという話である。
堀江物語・残欠本・合戦場面
堀江物語・合戦場面

上瑠璃物語
MOAの所蔵する上瑠璃物語絵巻は物語の殆どが全て詞書きに含まれた、豪華な装飾を施した(平家納経に類すべき)類を見ない特異な絵巻物である。越前時代に描かれた。全12巻で縦34cm、全卷の全長130メートルである。異様な贅をつくした限りの美術品である。牛若丸と浄瑠璃姫とのラブロマンスである。詞が大きな役割を果たしている。絵はそれを視覚化したといえる。構想や下絵は又兵衛が関与したのだろう。卷1:牛若は金売り吉次と鞍馬を出て三河に着く。そして浄瑠璃姫の琴を聞く。卷2:牛若は名器「蝉折れ」を取り出して、笛を吹いて琴に唱和する。浄瑠璃姫はだれが笛を吹いているのか十五夜に確認させる。卷3:十五夜の報告する牛若の装束が下から上まで詳細に記述されている。それにあわせて絵が描かれている。五・七調で詞の洪水のような語りである。浄瑠璃の屋敷内部が詳細に描かれる。卷4:牛若は姫に「懸想詞」を綿々と掛け続ける。枕問答である。痴話といってもいい。卷5:和歌等を引いて心を解く一種の謎掛け遊戯である。古今の和歌の知識が披露される。精進問答という。そして姫の心が靡いてめでたくと床入りとなった。
左欄の12)上瑠璃物語絵巻はその情景を描いたものである。卷6以下卷12までは、怪奇続出で前半とのアンバランスが荒唐無稽である。後半のストーリのできは良くない。
小栗判官
この絵巻は1895年日露戦争の時、備前池田長準より明治天皇に献上された。全15巻、全長340メートルの長大な絵巻である。とにかく長いのである。アニメの一こまづつを並べていったようなものだ。詞書だけ記した冊子が別にあって、恐らく侍従が詞書を読み上げるのにつれ、絵巻が繰られてゆくのであろう。越前時代の末期の作である。又兵衛の筆ではない。小栗判官を書いたのは又兵衛の弟子であろう。小栗判官は美濃の国墨俣の正八幡の御祭神である。小栗は二条大納言兼家の子である。嫁を薦めても断ったあげく、深泥池の大蛇と契って、父の怒りに触れ常陸の国に流された。常陸の国での小栗は武蔵の郡代横山の娘照天姫の家に忍び込もうとした。それを知った横山は人食い馬の鬼鹿毛で小栗を殺そうとしたが、小栗はこの馬を見事に乗りこなした。
左欄の13)小栗判官絵巻の絵巻物はその情景を描いたものだ。小栗は毒薬で殺され、照天姫は相模川に捨てられ、人買いによって宿女郎に売られたが、遊女になるのを拒んだ姫は水汲みに酷使された。小栗は閻魔の計らいで娑婆に戻された。帝から美濃国主に任じられた小栗は姫に再会する。小栗は83歳まで長生きをしたという。
ともかくも膨大な絵巻物群である。財力を浪費した贅沢な絵巻制作を注文したのは、松平忠直とその家族であった。徳川の平和(パックスオブトクガワ)に前途をふさがれた武士階級が鬱憤晴らしに、豪華で残酷場面の多い絵活劇を求めたのであろうか。「絢爛たる野卑」な世界である。「粗であるが野卑ではない」といった武士の美学は何処へ行ったのか。平安・室町の絵物語に較べると、色調はけばけばしく安っぽい。「紙芝居」という言葉さえ聞かれる。明治時代の版画もそうだ。実用に成り下がって、度を越している。


又兵衛と風俗画
岩佐又兵衛論争は二つの論点に集約される。1)「又兵衛絵巻群」の画家は又兵衛か? 2)浮世又兵衛は実際に風俗画の巨匠か?である。では最期の問題「浮世又兵衛は実際に風俗画の巨匠か」に移ってお終いにしたい。風俗画には署名や印はないのが普通である。手がかりのない無署名の風俗画から又兵衛の特徴・作風の決め手を検証することになる。福井県西応寺になる「美人風俗画屏風」の気品ある遊女たちの顔かたち身体の特徴はまさしく又兵衛風である。
14)婦女遊楽図屏風は顔の頬が膨らんで、頤(あご)が長い「豊頬長頤」で典型的な又兵衛風の美人である。しかも高級遊女を描いて気品がある。背景も豪華絢爛たる桃山文化の伝統を持っている。髪型の「兵庫髷」や衣裳文様の「寛文小袖」は当時のファッションであり、浮世絵の「当世風」と呼ぶにふさわしい。
左欄に15)舟木屏風・洛中洛外図(部分拡大)を示し、下の図に屏風全体の図を示す。
舟木屏風洛中洛外図屏風
舟木屏風洛中洛外図屏風
舟木家が所蔵する洛中洛外図屏風は左に二条城と右に方広寺大仏殿を描いているが、主題は遊郭や女歌舞伎、操り浄瑠璃、祇園祭の母衣行列を描いた歓楽の光景である。制作年代は慶長末(1614年)と推測される。又兵衛の京都時代の画期的作品だと著者は判断した。又兵衛浮世絵元年はこの時代になる。山中常磐物語絵巻が陰惨な「陰」の絵とすると、洛中洛外図屏風は明るい享楽の「陽」の絵である。
<高野山が所蔵する左欄の16)豊国祭礼図屏風は慶長9年(1604年4月)の臨時大祭の模様を描いたものである。絵の下部に描かれた騎馬の武士たちは混乱の極みである。馬は慌て、武士の烏帽子狩衣姿は乱れている。中ほどに舞楽を見物人々も溢れんばかりの混雑である。人間の馬鹿騒ぎを描く事がこの屏風の目的であった。又兵衛の下図を元にした工房制作と考えられている。人物描写はまさに又兵衛風である。
福井の個人が所蔵する17)花見遊曲図屏風は高さ56cmの4曲の屏風である。橋の袂ではくわえ楊枝のかぶき者の伊達姿、騒がしい享楽の花見図はまさしく浮世絵そのものの画題である。浮世又兵衛の正真正銘の筆になる極彩色の風俗画が見つかったと筆者は興奮し語っている。時代は福井の忠直時代の円熟した作風である。
MOA美術館が所蔵する18)湯女図は何回か写しをしているようで、人物の組み合わせに不自然さがあるが、女達の不思議な実体感(岸田劉生がいうテロリ系の女性像)が妖しい。



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