日本最高の画家「俵屋宗達」あらわる

俵屋宗達「風神雷神図屏風」
・・素性のしれぬもの・・

俵屋宗達を最高とする考えが日本美術である。宗達は本阿弥光悦と姻戚関係にあり芸術活動でも深いつながりがあった。宗達・光悦・光琳を纏めて「琳派」ということがあるが、光悦・光琳の「光派」はあっても宗達は別格の画家であった。宗達の「風神雷神図屏風」はほんとうにすごい。後に光琳や酒井抱一らがこの「風神雷神図屏風」を模写するが迫力のすごさは宗達にあることは明白である。



俵屋宗達「田家早春図」
・・笑うもの・・

宗達の天才はどこかで笑っている、いや楽しんでいる。「田家早春図」などは稚拙を見せかけて「たらし込み」技法で、投げ出しただけで一部の隙もない春の絵になっているところである。



本阿弥光悦書・俵屋宗達筆「四季草花下絵古今和歌集和歌絵」
・・勝つもの負けるもの・・

寛永の三筆といわれた本阿弥光悦の書を食って「光悦の負け、宗達の勝ち」。竹、梅、つつじ、蔦が金泥・銀泥で描かれ、書をも絵の一部とする総合芸術を演出した。



本阿弥光悦「舟橋蒔絵硯箱」
・・大胆なもの・・

本阿弥光悦は「舟橋蒔絵硯箱」の製作においてはアートディレクターであって、製作は各職人が担当したと思われる。豪華な金蒔絵の船の上に暗い鉛の橋を架け、後選和歌集源等の歌「東路の佐野の舟橋かけてのみ 思い渡るを知る人ぞなき」が細工されている。そしてこの硯箱のふたが異様に盛り上がっている事である。当時硯箱のふたは実用的には裏返して菓子盆であった。これでは菓子盆には使えない。ここに光悦の冗談がある。光悦は古田織部と親友である事から徳川家康から睨まれ辺鄙な鷹が峯に追いやられ芸術村を創設したことが、白楽茶碗などの製作につながったとは皮肉だね。



尾形光琳「燕子花図屏風」
・・ひたむきなもの・・

尾形光琳は画題としては伊勢絵の伝統を汲む古典派であったが、写生の人といわれる。狩野探幽の絵を模写した「鳥獣写生帖」の方が俵屋宗達「風神雷神図屏風」の模写より優れている。資質としては明快な写実を旨とする狩野探幽にちかい。金箔の背景に杜若だけを並べる構図の大胆な事。ただそれだけの自信が漲っているようだ。



尾形光琳「紅白梅図屏風」(前)
・・紆余曲折するもの・・

琳派の特徴とは様式美であり装飾性であるが、光琳は絶対に写実の人である。しかし金箔は現実を拒否しデザインを求める。この「紅白梅図屏風」で白梅、紅梅、水文様の三つで装飾美の極致を創造した。様式美の極度の緊張感が漲った傑作であろう。



尾形光琳「紅白梅図屏風」(後)
・・ジュベルニーに通じるもの・・

光琳の失敗作三題として「波涛図屏風」「竹梅図屏風」「躑躅図」があげられる。要するによく練習せず、考えが足りなかった作品群である。やはり光琳の真骨頂は「真摯に写生をする人」印象派のクロード・モネに通じるところがある。



桂離宮
・・人間のあり方を考えさせるもの・・

桂離宮は豊臣秀吉の養子になり損ねた八条宮智仁親王の別荘として、17世紀中頃に造営された。家光の日光東照宮の造営と時期を同じくする。東照宮は惜しげもなく金を注いで豪華の極みを作ったものとすれば、桂離宮は作った事を悟られないにいたるところに美的センスのよさをちりばめた日本建築である。権力者には分からないように自然を装うが、しかしその美を追求する企みが卓越している。



大津絵
・・大衆的なもの・・

大津の土産品であった仏画(民画)には民衆のユーモアがあふれている。かの松尾芭蕉の俳句や近松門左衛門、井原西鶴の状景にも使われた。手書きの愛すべき民絵であった。



円空仏
・・ジャズが聞こえるもの・・

円空は17世紀後半の修験道系の遊行聖であった。木の塊から仏神を鉈で探り当てる彫刻の表現主義者である。初めは仏像らしい形をしていたが、40歳前からの円空仏は自由な形を持つ彫刻(仏像ともいえない)に変化した。この力強い表現は縄文系の板画家棟方志功に受け継がれたといえる。「ジャズが聞こえる」とは何の事か?



菱川師宣「見返り美人図」懐月堂安度「遊女と禿図」
・・骨太なもの・・

これまでの絵画が権力者の物であったとすれば、浮世絵は町人芸術である。1670年代に菱川師宣の絵から浮世絵が始まる。当時は「墨摺絵」で色はなかった。1710年代に浮世絵は「紅絵」に時代に入る。黄色から赤への色調が特徴であった。1740年代には「紅摺絵」という多色刷木版画が誕生した。そして1765年鈴木春信の「錦絵」の誕生となる。菱川師宣「見返り美人図」と懐月堂安度「遊女と禿図」の絵は肉筆である。菱川師宣の描線は優雅であるが古い。懐月堂安度の絵は新しい力を持つ絵画表現である。真の浮世絵創設者は安度ではなかろうか。



鈴木春信「水売り」
・・ボランティアなもの・・

「錦絵」の創始者鈴木春信の誕生には、自費で絵暦(大小月の判じ絵)をプロデュースした金持ち旦那衆によるところが大である。多色刷り絵暦のうちそれだけで絵として成り立つ物を版権をただで頂いて出版したのが錦絵の始まりである。



石川豊信「花下美人図」鈴木春信「藤原敏行朝臣」
・・知的なもの・・

鈴木春信にはすばらしい色彩感覚はあるが、明確な肉体把握表現は未熟である。肉体表現が成熟するのは春信の後、清長、歌麿、写楽、北斎、豊国らの画家の時代まで待たねばならない。春信の描く男女はモノセックスで男女差は見えない。




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