日本人のエネルギーの爆発と豪華絢爛たる世界



日光東照宮
・・スペクタクルなもの・・

徳川三代将軍家光が開祖家康の廟の建設を先の天下人豊臣秀吉の京都東山豊国廟よりも豪華にという趣旨で作ったのが日光東照宮である。江戸時代初期(家光まで)の雰囲気が桃山時代というど派手な時代であった。日光東照宮の派手さの第1は陽明門の柱の白さと金具である。第2は青銅の宝塔というシャンデリアのごとき西洋建築を模倣したかのような奇抜さである。派手な自己主張は桃山時代の風潮である。



能装束
・・絢爛たるもの・・

世阿弥に始まる能が当時の権力者室町幕府三代将軍足利義満の保護を受け、豪華絢爛たる衣装に意味ありげな幽玄な動作という能舞台が定着した。江戸時代になると能は式樂に認定され、能衣装は有力大名のパトロンを得てますます豪華になっていった。友禅染の着物に西陣織の帯に代表される金糸銀糸を織り込んだ金ぴか衣装になった。能が狂言のようなよれよれ衣装を着てすり足で歩いても様にならない。



変り兜
・・遊んでいるようなもの・・

真剣に戦わなければならない戦国の武将が何の役にもたったない張りぼてを頭に乗っけていたのか?それは「婆娑羅」「かぶく」と言った男の美学(おしゃれ、目立ちたがりや)によるものである。そのおかげで工芸が発達したのだからあながち無駄でもない。



辻が花小袖
・・身分の低かったもの・・

能装束も小袖であった。室町時代は染めの着物に小袖の時代で「辻が花小袖」が生まれた。貴族は大袖と色のグラデーションを楽しんだが、小袖は庶民の労働着であった。当時の高級な総絞り染めを脱すべく大胆なデザインの染め衣装が辻が花染めである。型紙による宮崎友禅染めは江戸時代中期まで待たなければならない。



高台寺蒔絵
・・女のもの・・

豊臣秀吉の妻北の政所が朝廷から「高台院」という院号をもらい、東山鷲ヶ峰に秀吉の菩提を弔うために「高台寺」を建てた。別名「ねねの寺」とも呼ばれる。霊廟には3つの厨子が並んでいて精緻な蒔絵が施されている。高台寺蒔絵の特徴は黒字に赤と金の秋草を浮かび上がらせた図柄であろう。秀吉の厨子は豊臣家の桐紋にススキが簡素に美しい。



「泰西王侯騎馬図屏風」
・・カッコいいもの・・

南蛮絵画(初期洋風画)が会津若松城にある。とんでもない異質を公然と調和?させる腕力が戦国時代にはあった。豊臣秀吉が明を攻めようと朝鮮に出兵したように世界をも視野に入れる不遜さがたくましい。桃山時代はキリスト教も含めて積極的に西洋文明を吸収した。多くの南蛮絵画・漆器が生まれたがごてごてした装飾性で日本的にこなれていない。



狩野永徳「唐獅子図屏風」
・・なるようになったもの・・

狩野永徳「唐獅子図屏風」は安土桃山時代の金碧障壁画の代表である。織田・豊臣時代の城の装飾画壇の寵児であった。この絵のすごさは十二分にあくどいところである。世間では力強いといわれる。権力者の背後を飾る絵画は威圧的で目を見張る物でなくてはならない。この絵は現在宮内庁にある。



長谷川等伯「楓図襖」
・・美しいもの・・

京都東山知積院に長谷川等伯・久蔵親子の襖図が展示されている。狩野永徳が安土桃山建築の内部を絢爛たる美術空間に変えたミケランジェロだった。長谷川等伯は狩野派の隙を狙って苦労して豊臣家に取り入った。その影に狩野派が嫌いだった千利休が絡んでいたのではないかと言う推測ができる。秋の楓と春の桜の美しさが豪華な金箔を背景に描かれているが、狩野派にないやさしい美しさが感じられる。



長谷川等伯「松林図屏風」
・・ジャズが聞こえるもの・・

知積院の金碧障壁画を画いた長谷川等伯の「松林図屏風」という水墨画というと、現在の人は異質と思うかもしれないが当時も今も水墨画をかけない日本画家はプロとはいえない。それが日本画の教養であり文化であった。明確な形を持つ手前の松が明確なフォルムを失わせる空気の中で、抵抗するようで消え去るような筆使いがすばらしい。長谷川等伯といえば水墨画で永遠の名を得た。橋本氏は「ジャズが聞こえる」といっているがそれはどうでもいい表現だ。



狩野探幽「二条城二の丸御殿障壁画」
・・空間を作るものの変遷・・

室町時代まで寝殿作りの日本建築には柱の間に壁がなく御簾、襖障子で仕切られていた。従って室町時代の絵画は「障屏画」というのがふさわしい。安土桃山時代に寝殿作りが書院作りに変化すると壁で部屋が仕切られ、「障壁画」が誕生した。安土桃山時代を代表する金碧障壁画は権力者の威光をそのままにあらわす壁画である。壁に紙・金箔を貼って絵を画く「壁貼付絵」と欄間・天井・障子にも絵を画く文字とうり障壁画空間が誕生した。狩野探幽「二条城二の丸御殿障壁画」は権力者(徳川家)の空間を演出した。



長谷川等伯「烏鷺図屏風」
・・油絵のようなもの・・

「烏鷺図屏風」は「松林図屏風」と同じく水墨画である。偉大なテクニシャンによる達筆なタッチである。左に松と烏、右に柳と鷺の組み合わせの妙と黒べた烏と巨木の柳の幹という不自然さが面白い。このわざとらしい構図が崩壊のバランスを伴っているからである。



姫路城
・・白いもの・・

大阪夏の陣と冬に陣を前に、西国の要衝である姫路城の池田輝政はひたすら防火のために表面に木材を見せず白い漆喰を全面的に塗って実用的に築城したが、奇跡的にその思惑とは別に美しい美観を現出した。



「柳橋水車図屏風」
・・そこら辺にあるもの・・

17世紀初期に長谷川等伯の息子である長谷川宗宅が描いたとされる。実は全く同じ構図の「柳橋水車図屏風」が群馬県立近代美術館、東京国立博物館、京都国立博物館、香雪美術館に存在する。結構需要が存在して多作されたようである。構図は気楽な田園風景である。



狩野秀頼「高尾観楓図屏風」・狩野長信「花下遊楽図屏風」
・・人間的なもの・・

桃山時代のエネルギーの権化天才狩野永徳が死んだ後、美術界にも変化が生じたようだ。狩野秀頼の「高尾観楓図屏風」には風景が主役のようなつつましい遊楽が描かれ、狩野長信の「花下遊楽図屏風」は人の楽しげな踊りを中心にした豪華な享楽が描かれている。これは微妙な差である。これには二代将軍秀忠の質実さに対して、三代将軍家光の桃山趣味の復活が作用したようである。



「彦根屏風」
・・過ぎ去ったもの・・

江戸時代も寛永の頃になると桃山趣味はすっかり影を潜めたように見られる。国宝「彦根屏風」はその光景を成り立たせる背景は存在しないにもかかわらず明らかに桃山時代の享楽的風俗画である。昔見た楽しかった夢を再現しているようである。



伝岩佐又兵衛「豊国祭礼図屏風」
・・びっしりとひしめくもの・・

1604年(まだ完全には徳川の世ではなかった)豊臣秀吉7回忌の報告祭の馬鹿騒ぎを描いている。伝岩佐又兵衛の絵には1千人近い人物が幾つもの輪となって踊り狂っている。豊国人者の前庭では四座合同の猿楽が演じられている。赤い輪と白い輪の色の対比も面白いが、実に多弁な騒がしい空間をよく画いたものだ。



「松浦屏風」
・・色っぽいもの・・

遊女を描いてこんなに品がよいのはどうだ。安土桃山時代が終わった17世紀前半の江戸時代に「風俗画」と呼ばれる絵画が登場する。「彦根屏風」、「松浦屏風」も大名が所有する風俗画である。自由な遊女を描いて豪華な絵が存在するのは不思議であるが、これが日本美術における「美人画」の始まりである。江戸時代の官僚的管理社会においても排除されない美意識がまだ残っていたのは幸いである。



本阿弥光悦「白楽茶碗 銘不二山」
・・さわるもの・・

工芸総合デザイナー本阿弥光悦のしぶーい作品である。利休の茶椀の美意識はは難解である。朝鮮の実用品である茶碗を茶道に仕立て上げる理屈は分からない。茶碗は見るものだけではなくさわってめでる物である。



狩野山雪「老梅図襖」「梅に山鳥図襖」
・・かなりl屈折したもの・・

様式が完成して内容がない絵の代表が狩野山雪「老梅図襖」である。捻じ曲げられた奇妙な梅の幹はよほど屈折した美意識が存在していたのだろう。狩野山雪は京狩野の二代目で、江戸狩野の中枢は狩野探幽である。このすねた根性がひん曲がった梅の造形を生んだのか。



「誰が袖屏風」
・・センスのいいもの・・

これも江戸初期の風俗画のひとつで人気があった。衣桁に架かった着物を描いた静物画である。すでに桃山時代のエネルギーは失われ、権力者空間装飾の意欲は消えた。代って屏風という小画面にデザイン処理をした絵画へ変質した。綺麗なデザインだ。




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