中世武士社会の美術と日本的なもの



運慶作「八大童子像」
・・歪んでいるかもしれない物・・

高野山金剛峯寺にある運慶作「八大童子像」をはじめ鎌倉時代にはいい彫刻(仏像ではなく)がいっぱいある。しかし運慶以降彫刻がほとんど姿を消してしまう。鎌倉時代は武士の時代で民衆はまだ主役になっていなかった。生き生きした彫刻は西欧のバロック彫刻に似てリアルだ。



「平治物語絵巻」(前)
・・男の時代にふさわしいもの・・

源氏物語を生んだ平安朝摂関時代は「女の時代」であって、平家物語を生んだ院政時代は武士の台頭による「男の時代」である。平治物語絵巻は13世紀後半のものである。残酷な描写と優雅な気品が同居する類稀な美しい絵巻である。恐らく平治物語絵巻は現存する日本の合戦絵の中で最も格調の高く美しい作品であろう。



「平治物語絵巻」(後)
・・それでも古典的なもの・・

平家物語絵巻、平治物語絵巻の時代は、摂関家藤原氏と天皇家の複雑な姻戚関係がとうとう破綻を迎えた時代であるこの世は春」と謳われた摂関政治は「この世は地獄」という武士の力ずくの戦争の時代へ突入した。それでもこの平治物語絵巻は優雅で十分に古典的である。



「蒙古襲来絵巻」
・・得意なものと苦手なもの・・

13世紀後半の文永の役と弘安の役を扱った軍記絵巻は、国家的大事件や英雄的武士の活躍を描く物ではなく、竹崎季長という個人の活躍を描いて論功行賞の証拠にするという極めて現実的な目的を持っていた。そしてこの絵巻は松などを描いては達筆なのだが、蒙古軍を描いてはへたくそだ。



「北野天神縁起絵巻」
・・大和絵というもの・・

北野天神絵巻はとても不思議な絵巻物である。派手で陽気でエネルギッシュ白い。こんな絵は他には俵屋宗達の風神雷神ぐらいである。讒言により左遷され大宰府で憤死した菅原道真の怨霊が鬼となって都を暴れまわる陽気さと明るい地獄絵が妙に生き生きしている。その秘密はデフォルメされた線がとても魅力的な形を生んでいるからである。そういう意味で十分に達者な大和絵の伝統が生かされているといえる。



神護寺「伝源頼朝像」
・・さまざまな思惑のあるもの・・

類似した肖像画に伝源頼朝(一説足利直義)、伝平重盛(一説足利尊氏)、伝藤原光能(一説足利義詮)がありおなじ様式性が支配している。伝源頼朝像は強い意志をもった品格のある人物に描かれている。伝平重盛像はぎょろと下がった大きな目をもつ冷酷で猜疑心の強い人物である。肖像画が作り上げたイメージが実像を離れて後世まで一定の影響をもつのが不思議だ。



藤原定家「小倉色紙」
・・なるようになったもの・・

藤原定家が鎌倉武士の依頼により小倉山の別荘の障子をかざる百人一首を書いた色紙が小倉色紙である。平安時代にも36人集があり江戸時代に初めには俵屋宗達が下絵をかいた料紙に本阿弥光悦が書を書いた。美しいのは書か紙か。藤原定家は天才歌人であったが書はどうか分からない。しかし京都から後鳥羽上皇が隠岐に流され上流貴族が一掃され一説たため定家のような下級貴族が一躍雅の世界の代表になった。



藤原豪信「花園天皇像」
・・似絵というもの・・

南北朝時代に実に変な肖像画が描かれた。これでも国宝である。いったいなにが奇妙なのかと言うとそのまま描いて理想化していないことである。いやな顔である。しかし花園天皇は私のだめな部分がよく描かれていると認めたらしい。ぎょろと下がった大きな目をもつ冷酷で猜疑心の強い人物に描かれている。達者な画家によるマンガといえる。



鹿苑寺金閣
・・とんでもなく美しいもの・・

日本に権力者の建てた小さな金色の寺は2つしかないが、巨大な朱色の寺はいくらでもある。ひとつが金閣寺、一つは中尊寺金色堂である。金閣寺は足利義満の山荘であった。富の象徴である金は本当に美しいのだろうか。光を得て金箔は美しくなる。この美しさに嫉妬した僧が放火した事件を扱った三島由紀夫の小説に闇の中で輝く金閣寺を美しいとする彼の美学が伺える。



「日月山水図屏風」
・・動きだそうとするもの・・

実に荒唐無稽な曲線ではないか。これが大和絵の形の美学である。この観念化したフォルムに、同じ画面に春から夏の季節を同居させ時間的に動きを持たせると言う発想は日本画独特の空想幻想の世界である。これを日本人が是とするか荒唐無稽とするか?丸い太陽と欠けた月を同居させるのも日本人の想像力というのか。金と銀を同時に使いたいと言う欲望なのか。このことが画面に変化と動きを生み出し人の目を釘つけにするのかもしれない。



「那智瀧図」「山越阿弥陀図」
・・神や仏の宿るもの・・

那智瀧図は13世紀末中国絵画の影響下に描かれた。これはただの瀧ではない。飛龍権現という神を描いたものなのだ。風景画の様相をした宗教画なのである。次に来る室町時代は水墨画による風景画の時代である。絵から人を楽しませる色を排除し絵の精神のみを見せるのが水墨画の真骨頂である。絵が観念の時代に入った。



雪舟「山水長巻」
・・わかりやすいもの・・

雪舟は京都の相国寺で水墨画を学んでいたが京都では目がでなかったため、48歳で明貿易で稼いでいた山口の大内氏を頼って中国に絵の修行に出ることに成功した。帰国後彼の絵画は大きく変化し、水墨画の日本化が始まった。1486年に描かれた山水長巻は模写と明記されているが、中国の風景画を描いてはっきりと分かりやすい絵画に仕立て上げた。ああいい風景だな分かりやすいのが特徴である。



雪舟「破墨山水図」
・・わかりにくいもの・・

それに対して破墨山水画はなんだかよく分からないのが特徴である。それは線がなく薄墨のせいである。遠景の山が霞み、川で船に二人が乗っており崖に面して家がありそうだぐらいは分かる。いわゆる朦朧体である。あの分かりやすい風景画から線描をなくしたと思えばいい。



黙庵「四睡図」
・・意外とメルヘンなもの・・

黙庵は鎌倉時代末に元に渡った、雪舟より150年ぐらい前の僧である。実にうまく可愛く描かれている。雪舟が職業的画家とすれば黙庵は「禅余画人」と呼ばれ、禅の修行の一環として画題は禅に求めるいわゆる「道釈画」を描いた。絵は寒山、拾得、豊干と虎が仲良く寝ているところであろう。可愛いメルヘンの世界をさらりと描く黙庵という人は素直な人だったであろう。



竜安寺石庭
・・生け花が生まれた時代のもの・・

よく言われるように室町時代は日本文化の転換期である。日本文化の代表である能、狂言、茶、水墨、書院、生け花、皇道、庭園など日本文化の原形がこの時代に生まれた。枯れ山水の東山文化が竜安寺の石庭に禅哲学の華を咲かせた。長い唐物の影響から脱して日本民族の文化がようやく出現した。



狩野正信「山水図」
・・平均値的なもの・・

狩野派は室町時代の狩野正信を始祖とする。狩野派の特徴とは1つに漢系画、2つに技法をうまく統合した、3つにいつも体制派だったことである。狩野派とは権力者にふさわしい絵を画く集団である。それは豪華であり力強く威厳と威圧を兼ねている。 いわばおどろおどろしい絵なのであるが、狩野元信の山水画は分かりやすく明瞭で装飾的な大和絵を水墨画風タッチで描いた物である。漢絵である水墨画がやわやかな大和絵になっている。すなわちやまと化されている。



狩野正信「四季花鳥図」
・・日本的なもの・・

京都大仙院に2代目狩野元信の手になる四季花鳥図がある。いわば色のついた水墨画で華麗な装飾性はなく細密画のようである。色々な技法を修行中の絵だそうだ。ものを知ってから絵のデザイン化が進み絢爛たる装飾画へ変化する前の絵である。



「洛中洛外図屏風」
・・まざりあうもの・・

土佐光信か狩野派か誰が画いたかは分からない。洛中洛外図屏風は安土桃山時代から江戸初期によく画かれた。それは地方大名への贈り物つまり観光案内図である。上杉本、暦博甲本などが有名である。浮世絵の原点ともいうべき近世風俗画のジャンルに属する。余談ながら大和絵を画く土佐派は狩野派に吸収され、狩野派は大和絵を書けるようになったされる。




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