日本美術を流れる「やまとごころ」と「からごころ」



埴輪・・まるいもの・・

埴輪はまるい。なぜかというと材料が粘度で細かい細工が出来ないからだ。埴輪の芽は何故優しいか。穴があいてて黒いからだ。これらは素材による表現主義といわれる。縄文火炎土器から仏教寺院の壮麗な建築物に至のは漢意(からごごろ)であり、埴輪から茶の湯、琳派に至のは「やまとごごろ」だと著者は言う。漢意は観念をめざして文化を形成した。さて同意できるかな。優しいのがやまとごごろというのは当っているかも。



銅鐸・・きれいなもの・・

銅鐸はもとは金鍍金が施された金ぴかの祭器だったようだ。銅鐸はきっときれいなものだった。銅鐸は音もでるご神体にような祭器で決して実用的な打楽器ではない。これは金ぴかの仏像を拝む日本人のルーツでもある。あるいは北方騎馬民族の金ぴか崇拝の一つかもしれない。日本人の支配層の民族ルーツが伺われる。



寺・・不可思議な世界を誕生させたもの・・

日本の神を祭る神社の建築様式にはそれまで人間が住んでいた家の形式が反映されているが、仏教寺院の建築は中国仏教とともにそのまま輸入したもので住居とは何の関係もない。それが日本の寺の始まりだ。そして国家を鎮護する仏教は権力の観念を寺院建築物に象徴させた。神社が村落共同体の守護神であるとすれば、仏教は権力者と国家の救いの象徴である。



法隆寺釈迦三尊像(前)・・顔の違うもの・・

鼻が大きく、目は杏仁形、口は薄笑いのアルカイックスマイルというなんとも不思議な飛鳥仏である。確かに国立博物館の法隆寺館の金ぴかの小仏像群(法隆寺から天皇家へ贈られた)は、みな表情がかたく三頭身人形のように見え北魏様式と言われる。ほとんど肉体は感じられない。この何か違和感のある顔は明らかに日本人ではない。輸入品そのままで崇拝されてきたようだ。



法隆寺釈迦三尊像(続)・・聖徳太子でもあるようなもの・・

左は法隆寺夢殿救世観音像、右は釈迦三尊像でいずれも聖徳太子の等身像と言われる。釈迦三尊像が異国の顔とすれば、明らかに救世観音のほうがリアルであり日本人としてもさほど不思議はない。釈迦三尊像の作者鞍作止利は3代目の中国系日本人である。救世観音は聖徳太子を意識しながら作ったもので肉体性を有するまでになっている流れを理解すべきかも。



中宮寺菩薩半伽像・・不思議に人間的なもの・・

この仏像の近代的な美しさはなんだろう。中宮寺菩薩像は奈良興福寺の阿修羅像と同じく「類を絶した仏像」といえる。私は国立博物館平成館であまりの美しさに呆然として30分以上立ちすくんでしまった記憶が生々しい。京都広隆寺の同じ形をした半か思惟像は朝鮮半島からの輸入品でありこれは典型的な観念の仏像であり優美な形であるが人間性はない。中宮寺菩薩像は穏やかな精神性を表現するために作られた少年の肉体(中性)を持つ仏像であろう。



法隆寺金堂旧壁画・・夢のようなもの・・

日本人は建物の内部をある意味を持つ自分なりの異空間というものを創造できるのは室町・安土桃山時代の武士たちの実力が金壁障壁画となって開花する時を待たなければならない。それまでの貴族官僚たちは日常と区別された寺の内部を極楽浄土として設定して絢爛豪華な世界を創出した。法隆寺の金堂旧障壁画はなによりも豪華で贅沢で美しい。画法としては鉄線描という、水墨画の線とは異なった画一的で個性を要求しない、しかしよく伸びた美しい線である。これほどの線を書ける画家として修復作業に安田靫彦、前田青邨、橋本明治が選ばれたのは当然であろう。



法隆寺金堂天井板落書・・自由であるようなもの・・

よく公衆便所に見られる卑猥なポルノ絵とおなじ線画が、画工によって目に曝されない金堂天井板裏に自由に描かれた。職業としての仏教装飾画ではなく、ある意味ではへたくそに、かつ達筆に流れような自由ないたずら書きである。



源氏物語絵巻・・無慈悲に美しいもの・・

写真の絵は「柏木三」の源氏の子供誕生を喜ぶ姿である。「引き目鉤鼻」で「お多福顔」の女性の姿体はほとんど人間以前である。これは美人画でもなんでもない。絢爛豪華な貴族社会はリアリティを持つ武士や町人の近世社会とは全く異質である。国宝「源氏物語絵巻」の本当の豪華さは絵ではなく「詞書」にある。絵の部分は衣装に見るよれよれの柔らかな表現に面白さが見られる。きちっとした線や形は貴族社会には不要なものかもしれない。



神功皇后坐像・・豊かさというもの・・

奈良薬師寺にある平安初期の神像三体は実に謎に満ちた作品である。僧形の八幡大菩薩「応神天皇」、「神功皇后」、「仲津姫命」とされている。神功皇后像は豊かで、仲津姫命は貧相だ。それは身分の違いを表す着物の違いである。神功皇后像が大きな(綿入れのような)袖袂を持っているからである。いわば人形の衣装で、お雛様みたいなものだ。平安貴族の女たちは一二単という豪華な衣を何重にも重ねて身分による豊かさを表現した。



鳥毛立女屏風と源氏物語絵巻・・ふくよかなものの変遷・・

唐時代の美人画に極めて類似した豊かさと美しさを感じる。髪の部分が白く空白になっているのは恐らく真っ黒な鳥毛が置かれていたに違いない。顔の肉付きは豊かな美しさを表現している。それに比べて平安時代の「源氏物語絵巻」、「紫式部日記絵巻」の女性たちの三角握り飯やひょうたん状の下ぶくれした顔はなんだ。顔に全く表情がない。それは結論を言えば「幼形成熟」といえる子供のまま深窓で大人になった女の顔である。天平時代の美女鳥毛立女は戸外の太陽の下で健康な美しさを満喫した。飛鳥天平の母系社会から幾多の動乱を経て歴史は中国の影響下に男性権力社会を生んだ。女性は豪華な衣装を身に着けたが健康な行動を抑制された結果である。



伴大納言絵巻・・物語りであるようなもの・・

平安末期の貴族社会の権力闘争と没落を描いた絵巻には「平治物語絵巻」、「後三年合戦絵巻」とこの「伴大納言絵巻」が有名である。「信貴山縁起絵巻」と同様な物語性(説話風)に画面が構成される。画面が時間空間的に流れる手法は日本絵巻物の独創性でもある。アニメの世界でもある。この画面に画かれた描写はあまりに膨大でドラマチックで面白い。応天門の焼失にはじまるストーリが子供の喧嘩から意外な展開を向かえる実に面白い脚本である。そして庶民や貴族・武士の表情を見事に描ききっている。



信貴山縁起絵巻と伴大納言絵巻・・マンガであるようなもの・・

「信貴山縁起絵巻」は「伴大納言絵巻」で書いたようにストーリマンガの時間の流れが卓越している。「鳥獣戯画」に見られるようにストーリを戯画化している。話は強欲な荘園主から高僧の鉢が年貢米を奪い返すストーリで、恐らく庶民が拍手喝采したであろうことは想像に難くない。民衆向け映画と言ってもいいのではないか。それにしてもこの信貴山縁起絵巻に画かれた男女の醜悪な姿はどうだ。醜い人間社会をリアルに描いて定評のある絵巻である。



平等院鳳凰堂・・テーマパークであるようなもの・・

11世紀藤原頼道の造営した宇治平等院鳳凰堂は当時の平安貴族の浄土信仰を繁栄した阿弥陀堂であり、これほど美しい建築は他にはないと言っていい。建物と庭は一体となって浄土を現出させた。全く仮想の世界を創造する力と金力は現在のテーマパークみたいなものである。



餓鬼草紙と病草紙・・ポルノではないもの・・

平安時代末期の末世思想は「六道絵」という「地獄草紙」「餓鬼草紙」「病草紙」「九草紙絵巻」という作品を生んだ。院政時代から武士階級による政権略奪と貴族化、地方では地頭による民衆収奪に世界はまさに地獄絵であったに違いない。貴族社会という仕組みが終わろうとする時貴族の一部は娯楽的に、不潔で醜悪で猥雑で享楽的な人間をスカトロ趣味で描いた凄惨なジャンルを求めた。



教王護国寺講堂の彫像群・・恐ろしいもの・・

京都育ちの私にとって空海の創建した東寺(教王護国寺)の印象は暗い講堂に黒い仏像群が不気味に存在するまさに恐ろしい空間であった。護国貴族向け密教とは所詮オカルトではなかったか。この講堂の中には21体の像がある。外郭を守護するのは梵天、広目天、増長天、多聞天、持国天、中央には大日如来、不空成就如来、無量寿如来、宝生如来、阿しゅく如来、不動明王群などなど。不動明王群はただただ恐ろしく怒りのエネルギーに満ちている。



三嶋大社の梅蒔絵手箱・・愛すべき美しいもの・・

清少納言の「枕草紙」に蒔絵文様として唐草・雲鳥・蕃絵の三つを挙げている。王朝の雅とはこの蒔絵のことか。しかし作品は鎌倉時代北条政子愛用の品との伝承もある。梅、雁、水文様が描かれている。宝相華、亀甲、蓬莱山、鳳凰、蓮華に代表される仏教的文様から、唐草、松喰み鶴、雲鳥と言った吉祥文様が平安時代に流行し、ついで桜、山吹、菖蒲と言う花の連想へ移行する文様の流れがあった。



康慶作「法相六祖坐像」・・鎌倉時代的なもの・・

南都六宗の法相宗の寺である興福寺に康慶による「法相六祖坐像」がある。面白い事に鎌倉時代の新しい仏教彫刻が堕落の極みに達した奈良の寺から始まった。これは平家が奈良仏寺を焼いてしまったので再建の必要から生まれた。天平時代の鑑真和尚像が持つリアリティを鎌倉彫刻が受け継いだ。興福寺は藤原氏の檀家寺である。平家滅亡の後息を吹き返した摂関家藤原氏が間鞍時代の息吹をそのままに興福寺を再建した。何とふてぶてしい表情ではないか。康慶は三百年以上前の高僧六祖を勝手に解釈してこんな人間にした。今でいえば強欲な政治家のいやらしい顔だ。



運慶作「無著・世親菩薩像」・・人として共感できるもの・・

インド人の兄弟アサンガ(無著)、ヴァスバンド(世親)が中国化されて日本に無著・世親菩薩として輸入された。深い人間的な悲しみをたたえた二人の老僧の像である。鎌倉時代を代表する仏師運慶・快慶はもうこの時代には仏よりも人間を刻みたいと考える彫刻家になっていた。



快慶作「浄土寺阿弥陀菩薩三尊像」・・古典的であるようなもの・・

快慶の仏像には濃厚な宗教性が、運慶の彫刻には濃厚な精神性が感じられる。阿弥陀像は快慶の得意とするジャンルで、理知と宗教の矛盾した要素が溶け合っている。鎌倉仏像彫刻は運慶・快慶を最後としてパタッと姿を消してしまう。衆生を救うべき仏教は鎌倉から室町にかけて禅宗の流れが武士階級に迎えられ、禅宗は仏教を彼方に追いやり形而上学と精神修養に明け暮れた。水墨画や茶や能や庭園建築物という日本的文化を創始したが、宗教美術は消滅した。



東大寺南大門・・コミュニティを感じさせるもの・・

東大寺南大門は中国宋様式(天竺様式)建築物である。大きな空間はまさに人の集まるところとなった。鎌倉の寺院は皆小さくできている。京都の知恩院や南禅寺の門を見慣れている人には女人用の寺かと見間違う。東大寺南大門もやはりでかい。でかいと言う事は権力そのものである。親鸞の茅葺の庵から東西本願寺のでかいことが連想できるか。それは浄土真宗が権力と手を握って権力の支配機構の一部を分担したからである。権力と金のあるところには人が集まる事は古今を問わず自明である。アメリカの富に世界の人種が集まるのとおなじである。




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